日本呼吸器学会WEB視聴してー ①2024年04月20日

2024/4/19 アサブロ

日本呼吸器学会WEB視聴してー ①

<第64回日本呼吸器学会学術講演会2024/4/5-7。特別報告6 ダイバーシティ&インクルージョン:日本呼吸器学会と呼吸器科医の未来に向けて(将来計画委員会・DEI委員会)>をWEB参加で視聴した

 最初の演者の多賀谷悦子教授(東京女子医大)の講演は面白かった。自分よりも20年以上若い世代であるが、日々行っていたことは似たようなものだったので親しみも持てた。
 日々の多忙渦中では喜怒哀楽も辛さもその都度あったが、自分を見失わないように、溺れないように、がむしゃらに、一に勉強二に勉強、三・四が無くて五に勉強と何でも勉強で知識欲はあったし体力もあった。夜に研究室の机の上で寝てそのまま出勤も平気だった。周りの仲間も同じように徹夜明けで目を赤くしながら外来診療するのも稀ではなかった。患者はいつ来るか分からず夜討ち朝駆けが当たり前だった。辛いなんという感情は捨てていた。目の前に出てくるものに制限を設けずあるがままに何でも受け入れたり聞いたり真似したりしていたせいか最も効率的な学習も遊びも周りからの耳学問・良くも悪くも他山の石であった。患者には感謝されるし充実感もあった。消化器検査はレントゲンも内視鏡もスクリーニング検査は内科の基本との当然の認識であったし、呼吸器内視鏡は当たり前で右心カテやペースメーカーも入れていた。一時ペースメーカー留置でパーマネントへのつなぎであるが随分助かった患者もいたと自負している。診察は患者が診察室に入る様子観察から始まる、君たち専門馬鹿にはなるなよとは恩師の言葉で、目指すは富士山のような専門性と幅広い総合性であり小さな築山ではなかった。
次から次へと新しい疾患に出会うのでゆっくり振り返える余裕はなかったが気持ちは充実していた。おかげで家族には迷惑をかけた。我が幼子が脚に行かないでとまわりつき笑顔で突き放して出勤するのは当たり前で勲章とされた。後年、あの時はお父さんに捨てられたと本当に思った、としみじみ言われた時はそうだったのかと愕然とした。でもその位やらないとやるべき役割は果たせなかったと今でも思う。上記の演者も嫌だと思っても仕事にリミテーションを設けなかったのが後年役に立ったと言っていたのが印象的であった。

今回の呼吸器学会総会で男女共同参画委員会がDEI委員会に名称変更されたことが報告された。名称変更した理由・この名称になった理由について調べてみたが下記①の説明が理解しやすいようだ。
日本では1999年に「男女共同参画社会基本法」が公布・即施行されている。それを受けて多くの学会により男女共同参画委員会等が学会内に作られるようになっていた。そして今回DEI委員会に名称変更されたことになる。
人種差別や男女差別・障碍者差別等は良くない、多様性の受容は社会の存続に必須等と言われるようになって久しいが、現実社会では意識の奥に浸み込んだ無意識の差別は今でも相変わらず無くならない。男女共同参画→DI→DEI と言葉が変わってきているが、かつて医療防止委員会→医療安全委員会(平成10年代)に変わったのも同じような意識変遷の流れであろう。
DEI(DE&I, diversity equity and inclusion)とequity(公平・公正)が加わったのはアメリカが始まりといい、新自由主義やポピュリズムが受け入れられるようになりその後トランプ大統領も当選してあからさまな我田引水が抵抗もなく当たり前になり、Black-lives-Matter(黒人の命は大切だ)等の様々な事件・問題も社会に出てきた以降で、平等という概念の違和感に変わってequityが新規に追加されたのは最近で、未だ4-5年しか経っていないようだ(②)。
そして日本ではLGBT法の成立は昨年で、出来たばかりである。この法律は理念法でLGBTに限らず子供・障碍者・弱者も含むあらゆるマイノリティーの人権を守ることが目的という(③)。

貧困や格差は世代を超えて受け継がれる等と言われて既に久しいが貧困も格差も相変わらず無くならない。かつて1億総中流と言われ世界一安全な国と言われた日本も、今やあらゆる格差が拡がり犯罪多発国に陥っている。将に衣食足りて礼節を知る、である。
今や貧富格差等の格差は益々拡大しかつてノーベル賞も与えられた経済理論のtricle-downは起こらず、優位は自分の実力で勝ち取ったものと勘違いする人の心も変わらない。男女平等とも言いながら同権不平等の実態は変えようもない。そこで出てきたのがequityという言葉のようだ。確かにスタートが違えば比較できないしゴルフのハンディキャップは当たり前に皆受け入れられている。かつて先輩に院長の地位は本人の能力に与えられたものでなく自分の背中に背負う看板なので自分が偉くなったと勘違いしないようにとの心構えを送られたことがあったが、今思えば有難い先輩だった。

①【DE&I】DE&IのEとは何か?いつ頃から、なぜ加わったのか? Takahito Sasaki(佐々木孝仁) 2023年5月21日 https://note.com/takahitosasaki83/n/ndc81307fe2ed 。
②LGBT法(性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律)2023年6月23日公布即日施行 https://www8.cao.go.jp/rikaizoshin/law/pdf/jobun.pdf 。

③内閣府「性的指向・ジェンダーアイデンティティ理解増進」 https://www8.cao.go.jp/rikaizoshin/index.html#law 。

NHK+で「旧約聖書 滅亡の街の真実」を見た。2024年04月15日

隕石の空中爆発で古代の街が一瞬で消滅し、その威力は核爆発以上だったという。

 気になった番組「旧約聖書 滅亡の街の真実」の録画しておいたものをNHK+で見た。
世界各地で戦争や憎しみの連鎖が頻発する中で、それを忘れさせる素晴らしいドキュメンタリーだった。


 紀元前1650年頃、エジプトではピラミッド築造が終焉を迎えて異民族王朝が出来た頃に、隕石爆発で瞬時に滅んだヨルダンの古代遺跡についてだった。
考古学者・退職エンジニア・地球物理学者・宇宙物理学者等のコラボレーションにより明らかになったことは、旧約聖書にあるソドムの街の突然の消滅は隕石の空中爆発によって生じたもので神話ではなく歴史記録の最古のものではないかという。


追記(訂正):この頃のエジプトはピラミッド築造も終焉を迎えて中王国が滅びておりアジア遊牧民の異民族王朝ができた頃である。約100年後に再統一されて新王国時代に入ったがツタンカーメン王より約300年前に遡る頃である。この隕石の空中爆発のエジプト側から見た記録もいずれ出て来て史実がより確認されてくると思われる。

①nature >scientific reports >articles >article > >Open access Published: 20 September 2021. A Tunguska sized airburst destroyed Tall el-Hammam a Middle Bronze Age city in the Jordan Valley near the Dead Sea https://www.nature.com/articles/s41598-021-97778-3 。
②NHKテレビ総合 FRONTIERSその先に見える世界「旧約聖書 滅亡の街の真実」 初回放送日: 2024年4月4日 https://www.nhk.jp/p/frontiers/ts/PM34JL2L14/episode/te/7KLZZVGMRM/ 。

朝ドラ「ブギウギ」2024年04月03日

「ブギウギ」最終回 「おわり」表記なし「機会があればスピンオフも」2024/3/29 YAHOO!Japanニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/2b9ee820310bcc3021a7346081e88bd2ab7bbeb4

朝ドラ「ブギウギ」。楽しかった、わくわくした、嬉しかった、毎回待ち遠しかった。

2024/4/7 追加:
笠置シヅ子について知りたくて下記を観た。そしたら江利チエミも淡谷のり子の人生もおまけに垣間見られた。皆それぞれの生きざまに感動させられた。もう一度見たいと思って調べたが再放送はないらしい。
<BS朝日4K(ザ・偉人伝 江利チエミ・笠置シヅ子・淡谷のり子 ~人生を変えた歌~【再放送】2024年4月6日(土)よる9:00~10:54) https://www.bs-asahi.co.jp/the_ijinden/ 。>

リナリア(=ヒメキンギョソウ、ウンラン?)2024年03月25日

リナリア
リナリア=ヒメキンギョソウ≒ウンラン属、 ウンラン?(2024/3/24訂正)
(ウンラン=海蘭、ヒメキンギョソウ=姫金魚草)  
 偶々太田市北部運動公園に行ったときに手をかけて群生させてしているのを見かけた。今が盛りである。華やかで見事なものに感じたので調べてみた。思ったより園芸品種が数多くあるようだ。品種の見方も色々あり必ずしも統一されていないようだ。
 リナリアはリナリア属の総称と捉えた方が良いようだ。
牧野富太郎の『原色牧野植物大図鑑』によればウンランは花冠が黄色のLinaria japonica Miq.でウンラン属、多年草とある。似たもので別種のキンギョソウは同図鑑によれば紫色の花冠のAntirrhinum majus L.でキンギョソウ属(アンティリヌム属)、多年草とある。
花冠の大きさは異なり前者が径1-2cmに対して後者は3-5cmと2倍位大きい。花の形は一見似ているかもしれないが、距は大きさも形も全く異なる。

※追記:(2024/3/24)
リナリア属は世界に約200種あるという( https://en.wikipedia.org/wiki/Linaria )。秋野富太郎のウンランLinaria japonica L.もその中の一つに入っている。
和名ではリナリア属をウンラン属としている。これは牧野富太郎の図鑑も同じである。一方、ネットで調べるとウンランとウンラン属を混同しない方が良いように思われる。即ちウンランはLinaria japonica L.で種名を指し『原色牧野植物大図鑑』にある様にウンラン属であるが種名を指すとした方が良いようだ。そしてリナリアは多色多様な園芸品種を含む総称とした方がよさそうである。
旧分類体系にゲノム解析を組み入れた新分類のAPG Ⅳ分類体系(2016)ではゴマノハグサ科からオオバコ科に再編成されている。そのオオバコ科の中にキンギョソウ属 (アンティリウム属Antirrhinum)とウンラン属(リナリア属 Linaria)が入っている。属の和名のキンギョソウ属・ウンラン属は『維管束植物分類表』北隆館によるという。これは牧野富太郎の記す属名と同じである。
従って、ウンラン(Linaria japonica L.)とウンラン属とは別意でウンラン=Linaria japonica L.(黄色い種)と考え、他色の外来種はムラサキウンラン・ホソバウンラン等と修飾語を加えた方が良いように思える(なお要検討)。
リナリア
リナリア

NHKドキュメンタリー「イスラエル」をみた。2024年03月05日

2024/3/6 アサブロ

NHKドキュメンタリー「イスラエル」をみた。

民衆蜂起インティファーダ(intifada)が起き「オスロ合意(1993年)」に至る前の戦時下で前線兵士の若者たちが “私たちは敵と戦うために訓練を受けてきたが今の相手は民衆だ。これは政府や政治家が解決すべきことだ、我々の仕事ではない”(意訳)と言っていたのが印象に残った。
「イスラエル」初回放送日: 2024年3月4日(NHK映像の世紀バタフライエフェクト) https://www.nhk.jp/.../ts/9N81M92LXV/episode/te/KXK8LXP773/ 。
平和が訪れるかもしれないと希望を抱かせた、そのオスロ合意を主導したイスラエル側のラビン首相は自国民の過激派若者に射殺されてしまった。そして今極右派のネタニエフ首相主導下で憎しみの連鎖の真っただ中にイスラエル・ガザはある。
もし自分でも肉親が殺されて憎しみの連鎖に入ってしまったら冷静に自分をコントロールできる自信は今でも全くない。そういう点で、イスラエル・ガザは決して遠い国の話ではない。
どんなに平和下であっても犯罪は有り得るし過激思想家もいる。そして民主主義といえども7割の日和見国民に左右されるという点では民主主義も常に危うい綱渡りをしている。今のアメリカ大統領選がいい例である。

以下に関連するアサブロを載せておく((何故7割か)。
〇高尾美穂、カール・ロジャースの2:7:1の法則について アサブロ https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/11/01/9436660 。
〇― 2021年07月03日アナーキック・エンパシー ということ。 ―アサブロ https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/07/03/9394381 。

(メモ: https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara?__cft__[0]=AZXawaiyGj0cVMtu9Dw8t05Ho4bYAM9Nde3fj3DwCyUx3T3jpJMu1EhM9NSsVcVdSgfZHAL8R4qw0Rq4eSyxLYM_Si1f0t_us-YM6wRDZQ5b5rQzLyrFu9qIoM2r8R3lqxExiGIyuGohnT_KV43hbFU-&__tn__=-UC%2CP-R )。

前橋北部地域の広瀬川・桃ノ木川・大正用水・群馬用水、そして新旧広瀬川誕生・旧利根川・古利根川について2024年02月17日

広瀬川・桃木川の水源付近の流れ
前橋北部地域の広瀬川・桃ノ木川・大正用水・群馬用水、そして新旧広瀬川誕生・旧利根川・古利根川について
広瀬川・桃木川の水源付近の流れ②

現在の広瀬川は人工河川のような印象があるが、そのように見えるのは暴れ川の利根川の流れに対峙してきた先人たちの苦労が沢山詰まっているという。調べてみると広瀬川も桃ノ木川も昔からその痕跡はあり、先人たちの苦労の末に今の広瀬川と桃ノ木川が、更には大正用水や群馬用水もあるということが解ってきた。そして関連する複数の発電所の存在やいにしえの用水跡を抜きにしては語れないことも分かってきた。

 Ⅰ、現在の水源について(図1,2)。

 ・広瀬川の水源は、1か所ではなく①吾妻川から取水している渋川発電所の排水路が吾妻川と利根川の川床下を横切ったトンネルにより利根川左岸に至り佐久発電所に流入して再利用されてからの流水、②遠く沼田の綾戸ダム(堰)から地下水路を通って北橘の真壁調整池(ダム)に至りサージタンクを介して佐久発電所に流入して発電した排水が再利用のために地下水路を通って坂東橋北第二取水口からの流水に合流して広瀬川の源流となり一部は利根川川床下のトンネルをUターンして右岸の天狗岩発電所にも流れて利用されている、③その坂東橋北第二取水口からの流水、以上3つの水源が合わさって現在の広瀬川の水源になっている。広瀬川には田口発電所・関根発電所・小出発電所・柳原発電所がある。 東京電力ではなく群馬県企業局の発電所である。東電管轄の佐久発電所の流路パンフレット等は東電に聞いても渋川市役所に聞いても要領を得ず解らなかった。文献資料①②によれば坂東橋南の坂東橋取水口が北に移動したのは昭和26年で佐久発電所の放流水が直結したのは昭和42年という。 坂東橋北取水口は「第二取水口」とも「坂東大堰取入合口」とも言うという。取入合口は12連の引入合口からなり4個の分水槽に連結し、3個の分水槽は広瀬桃木両用水の隧道に連結し、1個は天狗岩用水の隧道に連結し、利根川床下の横断暗渠によって利根川を横断して右岸に渡り天狗岩用水路へ流れて行く。昭和46年に分水施設が完成した。
 ・桃ノ木川の水源は、現在田口地区の県営団地群の南(片(かた)石山(こくやま)南西)に桃ノ木川水源の看板が立っている。そこには既に複数の水路から集まった水流がある。その元をたどると広桃発電所の水門につながっているという。桃ノ木川水源の看板から北へ17号線沿い田口発電所南のラーメン店西まで水路は追えるがそこからは地下水路になっている。その地下水路は広桃発電所の水門に追儺がっていると教えて頂いた(田口発電所事務所の方に感謝)。
 ・大正用水は、広瀬川水源の田口発電所付近から分かれる。坂東橋北の第二取水口付近で3つの水源が合流した流水は広瀬川水路になるが上下2本に分かれ、その上の水路の先に大正用水の取水口がある。下の水路は広桃発電所に入る。広桃発電所は㈱カーリットが利用しているがこれは佐久発電所創業者の浅野氏(アサノセメント)系列という。
 ・群馬用水は、真壁調整池付近から取水している。綾戸からのものである。この群馬用水は利根川対岸の子持村白井地区へも流れて潤しているという。

萩原朔太郎が愛した広瀬川からは想像し難い現在の広瀬川と感じたのでその歴史を調べてみた結果は上記のごときで驚くべき経過を経てきている。広瀬川自体は利根川の流れの一部として昔からあったものが、利根川の氾濫で流れが変わり昔の面影が無くなったものという。その流れの変遷について文献を調べたら、下記のものがあった。 文献資料: ①「前橋と古利根川―先史利根川と古代利根川―」上巻・下巻 小野久米夫著2019年。  ②「私考 利根川西巡そして広瀬川誕生(要約版)」岡本克則著2012年。 著者に感謝である。


  Ⅱ、広瀬川・桃ノ木川はいつからあったか。

広瀬川も桃ノ木川も川自体は昔からありそれは旧利根川の流路跡だという。利根川は万葉集にも既に載っているが暴れ川の名にふさわしく、今とは全く異なる流れを形成していたという。利根川は日本一の暴れ川で古代より様々に流路を変えて住民を悩ませ戦ってきた歴史があるという。日本の3大暴れ川は坂東太郎(利根川)・筑紫次郎(筑後川)・四国三郎(吉野川)といつの頃からか通称されてきている。自分も子供の頃、坂東太郎・筑紫次郎・四国三郎があり坂東太郎は長男だと親から聞かされてきた。江戸中期の『本朝俗諺志』、『和訓栞』、江戸後期の『廻国雑記標注』に三大河の記載があり、明治24年の『治水雑誌第五巻』に「全国直轄十数大川ノ中板東太郎、信濃岐蘇等ノ諸大川其他筑紫次郎四国三郎トイフベキ千年川(筑後川ノコト)」とあり明治の治水関係者にはその認識があったという。

桃ノ木川と広瀬川の取水口は明治時代には既に合同取水口となっていたが、昭和22年のカスリン台風の影響で昭和26年には坂東橋の南から北側に移されて、その時に大正用水と天狗岩用水の取水口も合同となった。そして昭和42年には佐久発電所からの放流水も合流するようになったという。

利根川の流路変遷の歴史は下記文献資料によれば大きく4期に分類されるという。 大水上山南面を源流とする利根川、三国吾妻山系からの吾妻川、赤城山系・榛名山系からの水流が合流することで、前橋付近の利根川は形成されている。
第1期:先史利根川 ― 先史利根川は田口地区の片(かた)石山(こくやま)の東北側の橘山(たちばなやま)との間にも流れ左岸を形成して川端、鎌倉、端気地区にも流れていたという。1.8万年前に榛名山相馬岳が爆発したことから岩屑なだれが古利根川の流路を東に押しやり田口町から東南方向に変流して赤城山南麓を東南に流れ、それが1万年以上続いたという。そして古墳時代以前には片石山の東ルートは既に閉塞していたという。(20万年前に赤城山爆発、2.4万年前に浅間山爆発,前橋市岩神の飛石はこの時のもの、1.8万年前に榛名山相馬岳爆発)。古墳時代に2回の噴火を起こし日本のポンペイ遺跡(黒井峯遺跡、金井東裏遺跡)を作った榛名山二ツ岳噴火が利根川変流にどう影響したかは不詳である。
第2期:古代(平安以前)/中世(鎌倉戦国期)利根川 ― 先史利根川は縄文から古墳時代にかけて田口地区から岩神、昭和、住吉地区へと南へ変流するようになったという。そして前橋台地の北を東南方向に流れ青柳・龍蔵寺地区は流路であったという。田口地区にはかつて古墳が多く存在していたので古墳時代には流路は既に閉鎖していて片石山の西側に流れるようになっていた。その先前橋旧市街を東南東に、現在の広瀬川、桃ノ木川の位置も含み、大河となって1000年に亘り流れていた。その川幅は1.5kmに及びその南岸(右岸)の痕跡は現在のルナパークに見られるという。それが1108年の浅間山大噴火をきっかけに平安~戦国期の過程の中で利根川西遷(西巡)に変わって行った。人工用水路である赤堀付近の女堀も浅間噴火後の平安末期に作られたという。現広瀬川の柳原発電所の土手は厩橋城築城と同じ頃に風呂川とともに築造されたという。利根川変流は用水路開発と自然の川氾濫との戦いの相互作用の中で形成されて行った。中世利根川は東ルート(田口→関根→荒牧→上小出)と西ルート(田口→関根→川原→敷島)があり、それらは県庁のある前橋台地の北側を東へ広瀬低地帯に流れていた。江戸期には東ルートは既に消失していたという。
第3期:中世(鎌倉戦国期)/近世(江戸期)利根川 ― 中世になって川氾濫が重なり群馬県庁直西を南流するように利根川が変流した、即ち利根川の流れが西遷(西巡)した。県庁以南の流路は現在も変わらないという。1500年代戦国期の度重なる利根川氾濫による土砂礫の堆積でそれまでの主流であった桃ノ木川・広瀬川流路の川床上昇・閉塞をきたしたとされる。一方で青柳、龍蔵寺付近も古利根川の水流がなくなり白川も東へ変流(人工的に?)してその後に龍蔵寺が建立された(龍蔵寺建立1370年前後)。この西巡メカニズムは近世(江戸期)まで続いていた。厩橋城が江戸期に損壊して一時棄城になった頃はその西巡が確立しつつある時期と思われる。榛名水系の支流路が利根川本流になった。その先行河川と言われる車川(久留馬川)の位置も上記文献資料は推定している。この車川は古代利根川からの先人たちの人工の用水路の軌跡でもあるという。利根川右岸地区に天狗岩用水の元となる流路が開鑿されたのは江戸初期であったが当時総社地区は用水不足であったことを示している。 文献資料①によればこの利根川西遷(西巡)は1427年の応永洪水に始まりその後の繰り返す洪水で約100年かけて完成したという。その西巡(変流)の原因と時期について3段階説を提言している。
第4期:近代(明治以降)利根川 ― 江戸末になり現在の群大教育学部の位置の流路が西側へ変流した。川原・緑ヶ丘・敷島各町の東側を流れていた利根川が西側に変流したのはこの頃という。現在の関根町の県総合スポーツセンターのあたりは江戸時代には利根川の中州であった。明治初めまでは現在の群大教育学部東正門(新町名になるまでは字源齊と言った)付近に広瀬川取水口があったが、その後徐々に北側に移動していき昭和26年には坂東橋北側まで北上した。

以上、前橋地区の利根川の西遷(西巡)の歴史を当該文献資料から紐解いてみた。旧利根川、古利根川、古代利根川、先史利根川等の言葉の定義の理解は必ずしもできているとは思えず誤解もあるであろうとの思いの中で、えいやっと、おざっぱな流れを思い切り纏めてみた。旧利根川とは現広瀬川・桃の木川の流路の位置周辺の流れと言い換えても良さそうだ。
上記3つの文献資料は小冊子ながら中身は驚くほど濃く、もっと厚い書籍に纏めて再発行して頂きたいと思うほどの力作で感激した。


2024/4/3 追加:
 前橋台地(又は前橋高崎台地)は前橋泥流堆積物で出来上がったものでそれは2.6万年前の浅間山(そのうちの黒斑山)噴火に伴いその山体崩壊で発生した前橋泥流の際のものとされている。70km以上離れた前橋岩神の飛石稲荷の巨岩もそのときに流れついたものである。
 その前橋台地を突き破ってその台地の中に旧利根川が変流したのは(応永~天文年間、ほぼ1400~1550年)頃で、氾濫を繰り返して100年以上かけてその変流が完成したという。これを前橋地区の利根川西遷という(その後も川原町付近は更に西に移動しているが)。
それまでは広瀬川低地を氾濫原として500m~3kmの幅で広く網状に流れていた旧利根川が2~3m高い前橋台地を突き破って変流するようになったのが上記の時期であるという。その変流には先行河川(人工/自然併せて)があったはずでそれが久留間川=車川=ひとね川≒吉岡川≒八幡川であろうという。
その変流の過程では、戦国時代の石倉城と厩橋城は前橋台地にあったにもかかわらず利根川の本流支流の氾濫で崩壊を繰り返した。その利根川変流の要素の一つとして城堀掘削や灌漑用水掘削等の人工河川も関わっていたという(崩壊を繰り返した石倉城砦と石倉城は別のものを指しているというが詳細は不明)。
利根川変流完成頃に作られたという戦国時代の厩橋城城堀の風呂川について、そのいわれの看板が前橋公園北の柳原発電所の上側に今も立っているが、上杉謙信が厩橋城に入城した頃に築造されたという。風呂川は広瀬川から引き入れられた(現在の小出発電所の位置が取入れ口)。
近くの臨江閣は広瀬川低地の一部であり児童公園は更に少し低く虎ケ淵と呼ばれた浅い谷だったという。広瀬川低地より2~3m高い前橋台地北端はこの臨江閣やるなぱーくの南側付近であるという。
それまでの旧利根川の流れは網状流で今の広瀬川や桃木川の流れのあたりの広瀬川低地を網状に幅広く氾濫原として東南に向かっていて、その流れは1000年以上に亘って変わらなかった。
榛名二ツ岳噴火(早川によれば497年渋川噴火、522年伊香保噴火)の噴出物はその河床にあり、利根川西遷の応永~天文年間までの少なくとも1000年間は利根川の流路は現在の広瀬川/桃木川のルートに沿って流れていたという。
前橋台地と広瀬川低地との境界に沿って多くの古墳が残っているのは二ツ岳噴火前から旧利根川が両者境界に流れていたことに矛盾しない(八幡山古墳・天神山古墳・飯玉神社古墳・亀塚山古墳・金冠塚古墳・文殊山古墳・大塚古墳・経塚古墳等)。
(参考:A―『前橋台地の利根川(2014年)その2(2015年一部訂正追加)』澤口宏(良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 群馬県環境森林部自然環境課)、 https://www.gmnh.pref.gunma.jp/wp-content/uploads/93030775f2c1320fe2ab436fe1a651a9.pdf 。
B-木片の14C年代測定による前橋泥流堆積時期の再検討(予察) 佐藤興平ほか,群馬県立自然史博物館研究報告(22):原著論文2018年2月1日,95-101, 2018.  https://www.gmnh.pref.gunma.jp/wp-content/uploads/bulletin22_8.pdf 。)

「覇権主義」 の定義 メモ2024年01月19日

「覇権主義」 の定義 メモ

ウクライナ・ロシア戦争、イスラエル・パレスチナ ガザ地区戦争、イラン・パキスタン間紛争、米英のイエメン・フーシ派空爆、解決が見通せない中で北朝鮮が武器商人国家になりあがり世界を巻き込む政情不安が世界中を覆い、平和ボケした日本も火の粉が降り注いでいる時代になってしまった。覇権主義・権威主義・民主主義等の言葉が時に空しく時に重く圧し掛かるような状況の中で改めて「覇権主義」という言葉の普遍性について調べてみた。

〇覇権(=ヘゲモニー=hegemony)とは、政治的あるいは経済的あるいは軍事的に抜きん出た国家が他国を支配・統制すること、と捉えて良いようだ。覇権 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9 。
〇覇権主義(hegemonism)とは、影響力を拡大させるために一つの大国が軍事面・経済面・政治面で自国より弱い他の国々に介入し、その国の主権を侵害し続けること。通常では批判的な文脈で用いられることが多い。古い時代の使用例も見られるが冷戦以降は超大国を形容する通例的な用語となり主にアメリカ・ソ連・ロシア・中華人民共和国への批判に使う、とある。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 。
日本国語大辞典・Oxford English Dictionaryでもほぼ同意のようなので、世界の中でも「覇権」「覇権主義」は、ほぼ世界共通の概念のようだ。

実際、1972年の「日中共同声明」でも「米中共同声明」でも、1878年#の「日中平和友好条約」でも使われている。その定義の共有がなされており同床異夢の言葉ではなく生きた言葉と言えるようだ。(追記:#1978年の間違い)

〇「日中共同声明」(1972年9月29日締結)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%A3%B0%E6%98%8E 。
これは日中平和友好条約の前段階の国交樹立のためのものであるが、やはり「覇権」の語が使われている。簡体字かどうかの違いはあるが日本文も中国文も覇権・霸权で同じである。英文はhegemonyという言葉を使っている。
〇米中共同声明(=上海コミュニケ=米中共同コミュニケ、1972年2月27日締結)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1 。
ここでも中国文では霸权=覇権を使い、英文ではhegemonyを使っている(米中関係資料集 東京大学東洋文化研究所 https://worldjpn.net/documents/indices/USC/index.html )。

下記に日中平和友好条約の具体的条文を記しておく。
〇「日中平和友好条約」(1978年8月12日締結・1978年10月23日発効)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84 。
第2条で反覇権条項・第4条で第三国条項が謳われた。即ち中国はソ連を意識した反覇権を臭わしたのに対して日本は北方領土問題の解決を意識してソ連を意識したものではないと明示したいとの思惑から反覇権条項と第3国条項の両者が盛り込まれてやっと成立した。
【<日本語正文>(第二条 両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第四条 この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。)
<中国語正文>(第二条 缔约双方表明:任何一方都不应在亚洲和太平洋地区或其他任何地区谋求霸权,并反对任何其他国家或国家集团建立这种霸权的努力。
第四条 本条约不影响缔约各方同第三国关系的立场。)】
 日本語正文にも中国語正文にも「覇権」=「霸权」が使われている。

 かつて周恩来がソ連を意識して覇権主義には絶対反対の意思を示し、北方領土問題解決の弱みを持っていた日本側がソ連を臭わす表現には絶対反対で直ぐには纏まらなかった1978年の日中平和友好条約が、特定の国を指すものではないという第3国条項を入れることでやっと纏まった頃からは想像できない程に、今の中国はその覇権主義の先頭を走っている。

また一方、民主主義や権威主義という言葉の定義は曖昧のようだ。本人個々の自由なイメージで使われている、全く同床異夢の言葉のようだ。何せ北朝鮮が朝鮮民主主義人民共和国を名乗っているのだから言わずもがなである。
(〇民主主義と権威主義2021年6月22日東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/article/112023 。
政治学では、非民主主義の体制を権威主義とする考え方もあれば、民主主義と全体主義の中間にあるのが権威主義とする捉え方もあるという。)

特に民主主義という言葉は権威主義国家も覇権主義国家も中央集権としか言いようのない国家も使っているし、名実ともに民主主義の総本山と自他ともに認める米国さえ中身のない空しい言葉になってきている。利己主義と言った方が相応しい程に目暗だましのような言葉になり重みのない言葉になってしまった印象がある。ビジョンなき哲学なき戦略と戦術になりかねない状況に陥りつつあるように映る。日本流に言えば、仁義なき戦いが世界を今席巻している。

廃校記念誌「蒼新好」を中心に、 明治の学制発布に伴う教育制度の変遷等・・2024年01月16日

『蒼新好』表紙
廃校記念誌「蒼新好」を中心に、
明治の学制発布に伴う教育制度の変遷等に係る時系列のメモ
(西暦年と旧暦新暦の関係を含む。主に利根沼田の小学校・中学校関連について)

 最近、明治5年の学制発布に伴いそれまでの寺子屋方式から新たに設立された奈良村独自の蒼新好小学校(あおによししょうがっこう)の在校生全員1500余名の名前が載っている名簿(廃校記念誌「蒼新好」)を見つけた。蒼新好小学校は明治7年に村が自主的に創設し翌8年に学校として正式に認可してほしいと楫取素彦県令に村が陳情書を提出した。
慶応2年生まれから昭和40年生まれまでの学童全員の入学年度と生年月日が載っていた。足尾鉱毒事件の左部彦次郎の名前も同氏からの手紙が見つかった石田清作の名前も載っておりその家も特定できた。発刊日が抜け落ちているが昭和47年3月29日に廃校式を行い、漸く年度内に発刊の運びになった、と編集後記にあるので作成は昭和47年12月と思われる。編集後記を書いた蒼新好山人は左部賢氏である。
この中には左部彦次郎が地元で教員をしていたこと(明治25-29年地元に戻っていた頃か)、明治32年義務教育制度実施の時に必要な教科書の無料配布の意見書を政府に提出したこと等が書かれていて教員・義人と書かれていた。翌明治33年の第3次小学校令で授業料が無料となり就学率が急上昇した直前である。まもなく生じた明治37-38年の日露戦争になぜ勝てたのか勝因を調べたイギリスが日本の教育にありと分析しその中心人物として文部省の澤柳政太郎をイギリス本国に翌39年招聘したという経過があった。加えるにこの蒼新好小学校生徒名簿にも載っている彦次郎より4年後輩の石田勝太郎が文部省の澤柳政太郎の直属の部下として明治34年から39年まで働いていたという逸話もあった。左部彦次郎は足尾鉱毒事件の社会活動家として、石田勝太郎は地元の教員から文部省まで引き抜かれて同じ頃教育者として、社会の大波の中で活躍していたのである。
後年足尾銅山鉱毒事件に関わった左部彦次郎は安政7(1860)年奈良村から江戸へ出奔した父左弥太の次男として江戸(東京)で生まれて、奈良村の家督を継いだ父の弟の叔父宇作の養子に明治11(1878)年2月に入籍した。「蒼新好」の中の就学児童名簿には慶応3(1867)年10月生まれで学齢11才6か月とある。従って養子に入ってすぐに蒼新好小学校に入学したと思われる。彦次郎は明治21年に東京専門学校政治科に入学している。入学中から足尾鉱毒問題を知り同24年7月卒業と同時に現地調査をして農商務大臣への請願書を先導して明治25年1月15日付で4カ村から感謝状を受けている(この短期間は学生時代から既に関わっていた証拠とも言える)。このことは明治25年2月発行の東京専門学校の同攻会雑誌第11号の中の「近時片々」に「校友左部氏感謝状を浮く」と私費で行ったことがいち早く学苑内に伝えられた。そして明治25年に故郷奈良村に帰り初代消防頭や教員を務めたことになる。そして明治29年3月の県会議員選挙騒動の後に再び上京して明治31年になって鉱毒東京事務所の谷氏から援助を依頼されて再び足尾鉱毒問題(事件)にかかわるようになった。それ以後は周知のごとくである。
奈良村は上野国郡村誌(明治10年)によれば正治元(1199)年源頼朝が落馬して死亡した年に立村したと伝わる(正治元年鎌倉浪人石田勘解由ナル者本村ニ流寓ス・・とある)が、古代より人が居住しており地元では奈良の百塚と言われる如く多くの古墳が群集して鎌倉時代まで重葬墳として使われた痕跡もあるという(池田村史)。その古墳集積地は南面で日当たりが良く小さな河岸断層が今も見事に残っている。沼田市から「奈良古墳群」の指定を受けている。
【参考:①『左部彦次郎の生涯』安在邦夫著2021年1月20日第2刷発行発行随想社。②「足尾鉱毒事件と左部彦次郎―その生涯と運動への関わり方―」桑原英眞著『群馬文化』第338号令和元年12月。③廃校記念誌『蒼新好』昭和47年12?月。④『石田勝太郎の生涯―左部彦次郎との関係及び弟達 角田暉次郎 石田文三郎の足跡を併せて―』石田勝太郎の足跡を辿る会著2022年12月6日発行 発行DiPS.A。⑤『池田村史』昭和39年。】

地元の歴史の一端を調べる基礎として学制発布に係る地域の状況を含む歴史の流れについて簡単にまとめておく。
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・慶応3年10月14日(新暦1867年11月9日)大政奉還:二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許した。「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたので易姓革命という王朝交代ではないので「革命」と言わず「維新」の表現が選ばれた。
・慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古:討幕派公卿と5大名(5藩)が幕府政治から君主政治に転換する宣言をした。これに対し幕府体制派が対抗して戊辰戦争(鳥羽伏見の戦いから函館戦争まで)につながる。
・慶応4年(明治元年)1月3-7日 鳥羽・伏見の戦い(明治元年1月1日は慶応4年1月1日でもあり、新暦変更により西暦では鳥羽伏見の戦いは1868年1月27-30日に相当する)。明治元年4月11日(1868年5月3日)江戸城無血開城。
・慶應4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)五か条のご誓文布告:京都御所の紫宸殿で明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、天皇出御のもとに三条実美が神前でご誓文を読み上げた。億兆安撫国威宣揚の御宸翰という形で国民にも披歴された。この御誓文は数年後には木戸孝允・板垣退助らにより立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。
・慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた「政体書」発布。
・慶応4年9月8日(1868年10月23日)改元の詔書が出された。慶応4年は1月1日にさかのぼって明治元年と定められたので慶応4年は明治元年でもある。
・明治2年6月17日(1869年7月25日)版籍奉還:全国の大名(藩)が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し直轄地として支配したがそれ以外の諸藩の本領は安堵されて領主権に大きな制約はまだ加えられなかった(2年後の廃藩置県で朝廷へ返還完成する)。
・明治4年7月14日(1871年8月29日)廃藩置県:約300の藩を廃止し国直轄の県とした。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負ったがのちに秩禄処分により削減・廃止された。→藩士らの不満が募り西南戦争につながる。
以後学制発布など
・明治5年8月2日(1872年9月4日)学制発布(太政官布告第214号)。日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。全国を学区(大学校区・中学校区・小学校区)に分け、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。教育令(明治12年太政官布告第40号)の公布により明治12(1879)年9月29日に廃止された。
・明治5年12月旧暦(太陰暦)から新暦(太陽暦)への切り替え(グリゴレオ暦,1582年以前はユリウス暦)。【旧暦の明治5(1872)年12月3日を新暦の明治6(1873)年1月1日に定めた、ので旧暦の明治5年は約11か月で終わった。新暦は1年365日で12か月・閏年は4年に1回・1日24時間等が決まった(明治5年太政官布告第337号)。
(従って旧暦明治4年11月21日から新暦明治5(1872)1月1日と西暦1871→1872年に切り替わる。明治4年の11月20日までは西暦1871年)。】
・明治7年1月8日奈良村に蒼新好(あおによし)小学校開設。【江戸時代より寺子屋式教育は行われていたが、この年に下発知・奈良・秋塚の3カ村が団結して初め左部善兵衛長屋を借用して開設しまもなく正円寺に移り、翌年8年学制発布に伴い学校としての設立陳情書を楫取素彦県令に提出した(運営は寄付金)。明治13年近隣3カ村(奈良村・下発知村・秋塚村)の公立小学校となる(なお蒼新好小学校開校が明治7年12月1日との記録があるもこれは学区制の発知小学校設置の地が下発知観音寺から中発知に移り同時に中発知の発知小学校と奈良の蒼新好小学校の二校に明治7年12月1日に分かれたことによると思われる。奈良・下発知・秋塚3カ村が協力設立した小学校になったのはこの時である)。明治19年4月町村立蒼新好小学校となる。明治23年8月蒼新好小学校から南池田尋常小学校と改名、明治26年には池田南尋常小学校と改名、明治31年9月校舎を奈良村居平に新築し正円寺から移る。明治41年4月1日より池田村に本校一校として池田尋常小学校本校を設立し池田南尋常小学校を南分教場とした。大正6年より東分教場に改称、昭和47年分校統合して本校へのスクールバス通学となる。その統合記念誌「蒼新好」(あおによし)には明治7年から昭和46年までの就学児童名が載っている。左部彦次郎や石田勝太郎も就学児童として載っている。】
・明治26年4月私立育材館が発足した。【江戸時代より土岐氏の武士子弟のための藩校の沼田学舎および農町民らのための寺子屋はあったが明治5年の学制発布直後には藩校は廃校となった。私立育材館は空き校舎になった利根北勢多高等小学校を使って設立されて明治29年4月より利根郡立利根学校と改名した。学制発布初期の頃は小学校等の初等教育の普及に力を入れていたが中等教育の必要性も痛感されるようになり高等小学校を卒業した男子のために私立育材館が発足し後の利根学校→利根分校→旧制沼田中学校の始まりとなった。】
・明治30年4月群馬県尋常中学校の6分校の一つとして利根分校が発足した。【明治32年の中学校令改正で高等中学校を高等学校に、尋常中学校を中学校に名称変更等が定められて翌明治33年4月には群馬県前橋中学校利根分校と改名更に翌々34年には群馬県立前橋中学校利根分校と改称した。明治45年4月からは独立して群馬県立沼田中学校(旧制)となった。

利根沼田地域関連の各 小学・中学・師範 の学校成立のながれ2024年01月09日

利根沼田地域関連の各 小学・中学・師範 の学校成立のながれ

蒼新好(あおによし)小学校:
 明治5年学制発布により奈良村もいわゆる寺子屋はなくなり代わりに明治7年12月1日左部善兵衛の長屋で開校、翌明治8年3月公立(私立か)学校としての設立伺いを楫取県令に提出、明治9年奈良正円寺(しょうえんじ)に移り、明治30年には奈良居平(いだいら)に新校舎新築した。この間に校名は明治17年小学校令で奈良尋常小学校、明治20年には再び蒼新好小学校(但し下発知(しもほっち)尋常小学校の分校扱い)となり、明治22年には南池田尋常小学校と改称された。明治37年発知新田(ほっちしんでん)に池田高等小学校が新築されて明治41年からは尋常科6年・高等科2年の義務教育制となり名称も池田尋常高等小学校南分教場(ぶんきょうじょう)と改称された。大正5年には東分校(ひがしぶんこう)に改称、昭和16年には池田村国民学校東分教場と改称、昭和22年6-3-3制義務教育の発布で池田小中学校となり、昭和29年からは沼田市立池田小学校の東分校と再び改称された。
 なお、蒼新好学校の校名の言われは万葉集の歌にあるように奈良の枕詞からとったものという(あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとくいまさかりなり ー 太宰少弐小野老朝臣)。     (参考:「池田村史」、「蒼新好」)
(2024/1/15追記:池田小学校記録では明治7年12月1日開校となっているようであるが、楫取群馬県令への公文書では「蒼新好小学校学事現況 明治13年9月25日」にて明治7年1月8日開校となっている。かつ授業料は無し、寄付金によるとなっている。また同年同日の県令宛の「蒼新好小学校設立届書」では明治12年の教育令で学区制が廃止されたので公立小学校となす、となっている。公文書を優先すれば、蒼新好小学校開校は明治7年1月8日であり学区制を廃した公立小学校化は明治13年ということになる。―「蒼新好」による。なお蒼新好小学校開校が明治7年12月1日との記録があるもこれは学区制の発知小学校設置の地が下発知観音寺から中発知に移り同時に中発知の発知小学校と奈良の蒼新好小学校の二校に明治7年12月1日に分かれたことによると思われる。奈良・下発知・秋塚3カ村が協力設立した小学校になったのはこの時である)


沼田尋常小学校:
 明治5年の学制発布により沼田町においても小学校を翌年6月28日に創設した(人民を等しく学に就かしめるため邑に不学の戸なく家に不学の人無からしめんことを期す―学制)。明治6年6月28日に倉内小学校・坊新田小学校が設置され翌年1月火災で坊新田学校が焼失し倉内小学校に一時合併、同7年3月に沼田小学校を大手門内に設置し大部分の生徒は沼田小学校に移った。倉内小学校・沼田小学校両校児童は計150余人であった。初期には校長はいなくて区長が管理していた。教員はできたばかりの教員伝習学校(厩学校)に明治6年3月~5月の60日間の速成講習の募集に応じ教科の伝習を終わって帰り授業を担当した。並行して出来たばかりの暢発学校に入学卒業して正規の訓導資格を得た久米・小倉・正木の三氏が明治8年に戻り、近郷の小学校の巡回授業をしたという。児童の増加により明治9年には材木町に分校(柴田屋学校)・原新町分校を置き明治13年には沼田小学校本校を拡張し分校を統合して更に翌明治14年10月には倉内小学校を沼田小学校倉内分校として沼田小学校に統一した(沼田学校とも称した)。明治17年には第123学区利根第一小学校と改称(明治12年教育令の学区制廃止後に拘わらず徹底していない証拠)、明治19年12月には2階建の新校舎が竣工した。その後も明治23年・28年・40年・大正8年・昭和11年と増築を重ねたが昭和19年11月出火して一部焼失称して仮校舎を榛名神社等に借り受け戦後の昭和24年10月1日には沼田東小学校を分離独立させた。昭和25年10月には再び沼田小学校新校舎を増築した。児童数の驚くべき増加があり明治6年の創設時150余名から昭和15年には尋常科・高等科を合わせて2680名であった。
 沼田小学校の名称変更の変遷については、明治7年の大手門内に沼田小学校と改名設置以来、明治14年に分校統合しての沼田小学校、明治17年利根第一小学校、明治19年4月1日利根第一尋常小学校とするも郡合併の影響で同敷地内に同4月3日には利根北勢多高等小学校が創設され、明治26年3月30日には利根第一尋常小学校内に高等小学校併設により沼田尋常高等小学校と改称して利根北勢多高等小学校は解散廃校となった(この廃校跡地に旧制沼田中学校の前身が入った)。明治41年義務教育延長で尋常科6年高等科2年に再編成されてその後昭和16年4月1日よりは沼田国民学校に改称、戦後の昭和22年4月1日より6-3-3制の実施で再び沼田小学校と改称しかつ小学校後援会が廃止されてPTAに改称設置された。なお、同窓会は明治27年より、子守学校は明治29年より、明治33年より裁縫専修科(裁縫学校→女子実業補習学校と改称)が、青年夜学会が明治40年より開始された。
(参考:沼田町史、沼田市史)

旧制沼田中学校:
 高等小学校卒業後には前橋の群馬県尋常中学に行ける者は少なく、一方東京京都へ遊学する者も少なくなく、郡内での中等教育機関の必要性を痛感した有志により利根北勢多高等小学校廃校跡地に育材館の創設願いが県に提出されて明治26年4月15日育材館が設立認可された。
初め私立として申請認可されたが、明治29年5月25日には組合設立学校(沼田町外16ケ村組合設立学校)となりまもなく利根学校と改称して同29年9月2日には中山克己が利根学校長(月俸40円、後の初代沼中校長)として就任した(県会には既に分校化予算の話が出ていた)。明治30年1月10日には澤柳政太郎群馬県尋常中学校校長らが視察に来ている(澤柳は後の文部次官)。文部省の正式の許可も得て明治30年4月1日より群馬県尋常中学校利根分校となった。明治32年の中学校令で尋常中学校を中学校と尋常を削除しかつ分校を1校のみとすると決められたために6分校(高崎・富岡・太田・安中・藤岡・利根)のうち利根分校は残り外は独立して名称も群馬県立前橋中学校利根分校となった(明治34年4月から道府県立、郡立、市町村立、私立等の文字を追加すべきとされた)。本校分校問題は県費用の面でその後も続き4本校3分校となったりしたが、利根分校は明治45年4月になり独立中学として決定されて群馬県立沼田中学校となった。
(参考:沼高70年史、沼高百年史)

群馬県師範学校:
 明治5年学制発布で教師養成のために、明治6年2月に第一次群馬県の小学教員伝習所が前橋の旧藩校跡に設立され(明治5年11月22日設立の一番小学校(厩橋学校)内に設立)、同年6月には熊谷県発足で本庄の安養院境内に移転し暢発学校と改称(本庄学校)、更に同年11月には熊谷の高城神社境内に移転した(熊谷学校)。明治9年第二次群馬県発足で同年9月高崎の興禅寺境内に移転して群馬県師範学校と改称され、同10月には前橋龍海院境内に移転した。明治11年新校舎が前橋曲輪町に落成。明治19年師範学校令で群馬県尋常師範学校と改称、明治31年師範教育令で群馬県師範学校と改称、大正元年に安中に第二師範学校ができたために前橋は群馬県第一師範学校と改称、大正2年には第一第二学校合併で再び群馬県師範学校と改称、昭和17年群馬県師範学校・群馬県女子師範学校(明治34年独立設立済)を統合して官立群馬師範学校を設置し男子部・女子部を置いた。昭和24年新制群馬大学となり2年後に旧制群馬師範学校は廃止された。

性分と理念 道徳と倫理、 言葉の定義メモ2024年01月07日

性分と理念 道徳と倫理、言葉の定義メモ

性分とは:
ヒトにはそれぞれ性分というものがあり、その塊である家族、会社、国にも同様な性分がある。その性分はいわゆる理念とも言う。

理念とは:
理念とは企業等のいわば家訓と言えるものである。家訓とはそれぞれの家の決まり事であり正邪善悪の枠は有っても無くても良い。その家族の意識の共有・アイデンティティを醸成するものである。家族の数だけ、企業の数だけ、国の数だけ、それぞれの理念があってしかるべきものである。「性分」とは「理念」と言い換えることができる。
従って、「道徳」や「倫理」から外れることがあり得る。そして完全な不可侵では人間社会の生存が保てないので完全な野放しはあり得ない。故に不可侵に扱うべき範囲の共有が最も大切であるということになる。

道徳と倫理の違い:
道徳と倫理との違いは後者が批判的吟味を必須とされていることである。


2024/1/10 追記。
今朝(2024/1/10)のNHK newsでLGBTQ+の子供の母親が生み出した「素自」という言葉について放映をしていた。そして思った、自分も若い頃、これは自分の性分だ、と見切って自らを納得させていたことがあったことを。この方の言う「素自」は自分の思った「性分」と同じ意味であると思った。調べてみたら過去の地方版の再放送だった(下記)。
〇【特集】“素自”で生きられる社会へ 母親が伝え続ける思い 12月14日 NHK東海News web https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20231214/3000033281.html 。
〇「生理もスカートも限界」カミングアウトした我が子と向き合い気づいたこと COSMOPOLITAN 2023/06/28 https://www.cosmopolitan.com/jp/trends/society/a44260616/uragari-tomoko-interview/ 。
〇「願書の性別に丸が書けない」 性別に違和感を持つ子ども・・ 中日新聞 2023年8月30日 https://www.chunichi.co.jp/article/758797 。