NHK歴史テレビ番組の ‘奇想天外な策略で戦国を生き抜いた伊達政宗”の意外な側面’ ― 2025年04月25日
NHK歴史テレビ番組の ‘奇想天外な策略で戦国を生き抜いた伊達政宗”の意外な側面’
伊達政宗のドラマは少なからず見たが、このような視点からの解釈は初めて聞いた。面白く、策略の天才とも思えた。地元の人たちにとっては知る人ぞ知るで当たり前のことだったのかもしれないが、それにしても摺上原の戦い前後の分析にはそうだったのかと大いに勉強した。
会津黒川城主の蘆名義広は、明治の足尾銅山鉱毒事件で名を馳せた左部彦次郎の先祖でもある。
蘆名義広は佐竹家から蘆名家へ養子に入り蘆名を名乗った人物だが常陸国の佐竹義重は蘆名義広の実父でその佐竹氏を継いだ義宣は実兄である。その佐竹義宣も1600年関ヶ原の戦い後に徳川家康から秋田城(正確には湊城/久保田城)への減転封を命じられたので、摺上原の戦いで政宗に敗走して佐竹に身を寄せていた義広も同行し、のちに支藩の角館城主になった(義広→盛重→義勝と改名を繰り返した)。
摺上原の戦いで伊達政宗は黒川城を手に入れたものの小田原合戦遅参を責められて豊臣秀吉は黒川城を蒲生氏郷に与えたため、伊達政宗は米沢城に戻ったものの同年中の奥州仕置(1590年)で米沢城も蒲生氏に与えられかつ翌年の領地没収で岩出山城に移った。その後の会津黒川城は1598年上杉景勝の手に渡ったが関ヶ原で西軍に付いたために米沢城へ減封(1600年)となり、転封して来た蒲生氏が再び黒川城に入城、その後は江戸時代になって(1643年)会津松平家にとって代わってからは戊辰戦争の松平容保まで続いた。
このような経過を辿った黒川城であったが秀吉は蘆名に返さず蒲生氏郷に渡してしまったために、蘆名義広の妾腹蘆名又十郎盛近は行き場を失い暫く常陸国田島村等に潜伏し殺害を恐れて家臣の勧めで佐部姓に改姓しのち上野国奈良村に移住した。これが家史の記録である。
蘆名盛近から19代目?の左部寿一郎は『躍進群馬県誌』昭和15年発行45頁で「天正年間会津城主蘆名氏滅亡に当り次男雅樂池田村奈良に逃れ郎党と共にこの地に住し、・・・左部と改め現在に及んで19代なり」と述べている。左部寿一郎は東京帝国大学を卒業後北九州市の合併等に尽力し俳諧にも通じ(俳号赤城子)、先祖代々と同様に俳諧にも造詣が深かったが早逝した。
江戸高輪泉岳寺に歌碑がある蘇和も父の三岳(江戸時代後期の14代目?左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて江戸に遊んだという。寿一郎の弟左部千馬(俳号人日居)も旧制中学時代に “千円もあれば日本詩壇を掻きまわして見せる” などと豪語していたと友人の児童文学者で詩人の小野忠孝に語る程に自負を持っていた(『詩集 若き日の歌』の跋文)。芝高輪泉岳寺の蘇和の『楓樹の碑』に「春風や空に消えゆく舟のみち」。
左部彦次郎の娘で歌人の大場美夜子は詩集『かく生きて』の中で左部千馬と会っていて「自分の俳句好きも家系によるらしい」と書いている。
〇NHK歴史探偵「伊達政宗の策略」初回放送日:2025年4月23日再放送予定4月29日(火) 午後11:50〜午前0:35 https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/BR4KVL1RJ2/ 。
〇YAHOO!Japanニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/a02df6e22797a9df8177dbc45cec72f3cf795446 。
伊達政宗のドラマは少なからず見たが、このような視点からの解釈は初めて聞いた。面白く、策略の天才とも思えた。地元の人たちにとっては知る人ぞ知るで当たり前のことだったのかもしれないが、それにしても摺上原の戦い前後の分析にはそうだったのかと大いに勉強した。
会津黒川城主の蘆名義広は、明治の足尾銅山鉱毒事件で名を馳せた左部彦次郎の先祖でもある。
蘆名義広は佐竹家から蘆名家へ養子に入り蘆名を名乗った人物だが常陸国の佐竹義重は蘆名義広の実父でその佐竹氏を継いだ義宣は実兄である。その佐竹義宣も1600年関ヶ原の戦い後に徳川家康から秋田城(正確には湊城/久保田城)への減転封を命じられたので、摺上原の戦いで政宗に敗走して佐竹に身を寄せていた義広も同行し、のちに支藩の角館城主になった(義広→盛重→義勝と改名を繰り返した)。
摺上原の戦いで伊達政宗は黒川城を手に入れたものの小田原合戦遅参を責められて豊臣秀吉は黒川城を蒲生氏郷に与えたため、伊達政宗は米沢城に戻ったものの同年中の奥州仕置(1590年)で米沢城も蒲生氏に与えられかつ翌年の領地没収で岩出山城に移った。その後の会津黒川城は1598年上杉景勝の手に渡ったが関ヶ原で西軍に付いたために米沢城へ減封(1600年)となり、転封して来た蒲生氏が再び黒川城に入城、その後は江戸時代になって(1643年)会津松平家にとって代わってからは戊辰戦争の松平容保まで続いた。
このような経過を辿った黒川城であったが秀吉は蘆名に返さず蒲生氏郷に渡してしまったために、蘆名義広の妾腹蘆名又十郎盛近は行き場を失い暫く常陸国田島村等に潜伏し殺害を恐れて家臣の勧めで佐部姓に改姓しのち上野国奈良村に移住した。これが家史の記録である。
蘆名盛近から19代目?の左部寿一郎は『躍進群馬県誌』昭和15年発行45頁で「天正年間会津城主蘆名氏滅亡に当り次男雅樂池田村奈良に逃れ郎党と共にこの地に住し、・・・左部と改め現在に及んで19代なり」と述べている。左部寿一郎は東京帝国大学を卒業後北九州市の合併等に尽力し俳諧にも通じ(俳号赤城子)、先祖代々と同様に俳諧にも造詣が深かったが早逝した。
江戸高輪泉岳寺に歌碑がある蘇和も父の三岳(江戸時代後期の14代目?左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて江戸に遊んだという。寿一郎の弟左部千馬(俳号人日居)も旧制中学時代に “千円もあれば日本詩壇を掻きまわして見せる” などと豪語していたと友人の児童文学者で詩人の小野忠孝に語る程に自負を持っていた(『詩集 若き日の歌』の跋文)。芝高輪泉岳寺の蘇和の『楓樹の碑』に「春風や空に消えゆく舟のみち」。
左部彦次郎の娘で歌人の大場美夜子は詩集『かく生きて』の中で左部千馬と会っていて「自分の俳句好きも家系によるらしい」と書いている。
〇NHK歴史探偵「伊達政宗の策略」初回放送日:2025年4月23日再放送予定4月29日(火) 午後11:50〜午前0:35 https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/BR4KVL1RJ2/ 。
〇YAHOO!Japanニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/a02df6e22797a9df8177dbc45cec72f3cf795446 。
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