足尾銅山鉱毒事件に係った左部彦次郎の出自に関係のある手紙3通について2025年11月09日

手紙①第2代中島祐八から4代石田良助(明治13年)
手紙②左部彦次郎から石田良助・とさ・宗助(明治21年)

手紙③第2代中島祐八から第4代石田良助(明治23年)

<足尾銅山鉱毒事件に係った左部彦次郎の出自に関係のある手紙3通について>
手紙①は、明治13年に中嶋量平から石田良助宛に出した手紙である。左部彦次郎の義父の第3代左部宇作の死を悼んだお悔やみ状でもある。関係者の名前が複数でて来ている。説明書きにある通り、中嶋量平は第2代中島祐八の事であり彦次郎の祖母とさの弟で赤堀村の中島家に養子に行った人である。この石田良助はとさの弟である2代良助の子の第4代良助であり、2代良助の弟である第2代中島祐八の甥でもある。
手紙②は、明治21年に左部彦次郎から石田良輔および祖母とさ・宗助宛に出した手紙である。この石田良輔は第4代良助で石田直太の父である。この宗助は初代左部宇作・とさ夫婦の間の四男と思われる(長男:左弥太(2代宇作)、次男:3代宇作、三男:湊)。彦次郎が東京専門学校政治科に合格したこと、同宿の直太も成城学校入学の試験で頑張っていること、無駄遣いしないよう心掛けるので費用補助と生活補助のお願い等の手紙である。これらのことは左部とさの実家の石田家からの援助も少なからずあったことを物語っている。
 手紙③は、明治23年に第2代中島祐八から石田良助宛に出した、石田宗助死亡へのお悔やみ状である。この宗助は左部とさの四男の左部宗助(惣助)と思われ、石田家に養子に入っていたようだ。
 (※以上の手紙は県立文書館の石田家家史の中にあるものの読み下しである。)

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