旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々など2021年07月08日

2021/7/7 アサブロ

旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々とその関連事象について

奈良村の互いに影響しあったであろう人物については、下記が挙げられる。

・石田伝九郎(天保元年12月10日生)、明治13年県会議員、勝太郎祖父、三代目石田良助の叔父、左部彦次郎の祖母とさの三番目の弟、幼名亭次。石田伝九郎家への入婿で、石田茂左衛門家の三代目良助の叔父に当る。黒船来航の翌年1854年に奈良村石田伝九郎は帯刀の上江戸へ出府せよとの御用の命を受け給金も出たという。
・石田良助(嘉永2年6月26日生)、明治17年県会議員、三代良助、石田直太の父、石田伝九郎の兄の二代良助の子。
 ・石田勝太郎(明治3年4月14日生)、伝九郎長男の石田準太の長男、左部彦次郎のはとこ。明治21年群馬師範学校卒業(19才)、群馬師範学校長滝沢菊太郎や群馬県立中学校長沢柳政太郎に優秀さを買われて明治30年群馬県視学→明治31年佐賀県視学→明治35年文部省学務局第二課長→明治39年東京府師範学校教諭(同41年東京府青山師範学校と改称)、同42年東京府青山師範学校舎監及び主事等で活躍。明治43年5月7日41才で没、東京青山の自宅で狂犬病犬に咬まれて死亡。「子供と父母」著書。
 弟の角田喗次郎は「塩原太助」著書のほか多彩な事業を行う(勝太郎孫の石田俊一郎氏の話)。
 同弟の石田文三郎は明治45年東京園芸学校(明治41年創設)を卒業し(21才)、恩師の勧めで東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)に赴任して同大農学部助教授および同大付属植物園(明治19年高名な植物学者の宮部金吾により設立完成され園長は昭和2年退官まで宮部金吾が務めた)主任として奉職し、昭和26年には札幌市花壇推進組合長として札幌大通公園花壇の設計にも携わった。勝太郎・喗治郎・文三郎のいわゆる石田三兄弟。
・左部彦次郎(慶応3年10月24日生)は、明治21年東京専門学校入学(数え22才)、24年7月卒業(25才)、明治29年3月の県会議員選挙後の恐喝事件の時30才、その後再上京して田中正造とともに鉱毒事件に関与したが、同じ頃(明治34-35年)石田勝太郎は文部省に勤務していた。大正15年3月24日没(60才)。
・石田直太(明治6年6月1日生、彦次郎のはとこ)は、成城学校(陸軍士官学校の予備校)入学時、一時左部彦次郎と東京で同居。卒業後帰郷した。
・桑原武一郎(明治16年6月11日生)は、明治36年3月前橋中学を卒業、明治36年7月東京帝国大学農科大学林学実科に入学、同39年7月卒業、直ちに農商務省に入省。墓石にのみ早稲田に関する記述がある。彦次郎に影響を受けて上京し、4月~7月のわずかの間に新設間もない帝大実科に変更したと思われる。24才で農商務省入省時に石田勝太郎と同じ青山に居住。父死亡で大正6年帰郷、県会議員に在職中の大正15年7月2日没44才(急性虫垂炎から腹膜炎になり死亡、この時弟の六郎二は東北帝国大学を卒業して医師になっていたがその時の対応は不明。東北帝国大学医学部は明治45年に新設されたばかりだった)。
・左部寿一郎(明治33年4月5日生、街三郎の孫)は武一郎が大正6年帰郷した時は18才、東京帝国大学経済学部を大正14年卒業(26才)、昭和17年6月14日没43才。帝大経済学部は大正8年新設されたばかりであった。門司市助役や北九州市合併等を主張、北九州市俳壇にも貢献し俳号赤城子としても名を馳せた。

 これらの奈良村の同郷人たちは互いに影響し合っていたものと思われる。それぞれが新設間もない学校に入学していて、学びへの意欲が高かった。
 明治29年の左部街三郎・左部彦次郎らの騒動は奈良村の中で武一郎14才の目の前で起きておりきわめて鮮明な記憶となった。それに先立つ明治25年1月の鉱毒被害地からの彦次郎への感謝状、同2月の学苑雑誌の「校友左部氏感謝状を受く」の発表もおそらく地元でも知られていて尊敬の目で見られていたと思われる。在京中の彦次郎は石田良助や準太にも手紙を出している。左部街三郎は騒動後自死したがその弟謙四郎の長男には川場村の外交官桑原鶴・女医の桑原くめ博士の姉が嫁している。
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群馬師範学校について
明治6(1873)年に、既にあった旧藩校の前橋県学校が教員伝習所(教員伝習学校)として前橋に設立された。まもなく熊谷県を経て第二次群馬県になり、明治9年9月に群馬県師範学校と改称して高崎市の興禅寺境内に移転し1か月後には前橋の龍海院境内に移転し、更に2年後の明治11年に前橋曲輪町(現大手町)新校舎落成して移転した。明治19(1886)年の師範学校令により群馬県尋常師範学校と改称(本科4年制)した。それまでは初等科(1年制)・中等科(2年制)・高等科(4年制)が設置されていてその後も簡易科2年制等も設置された。明治21(1898)年4月の師範教育令により群馬県師範学校と改称した。明治34(1901)年には女子尋常科准教員講習科も併設され2か月後には群馬県女子師範学校として設立認可された。

前橋中学校・利根分校について
前橋中学校は明治10(1877)年に第17番中学利根川学校として成立し、明治12(1879)年に同校閉鎖して師範学校内に群馬県中学校として開設された。明治19(1886)年に第一次中学校令により群馬県尋常中学校となり、明治30(1897)年に利根分校を含む6分校が開設された。明治32(1899)年に群馬県中学校(同32年の第二次中学校令で尋常を外した)、翌33年には群馬県前橋中学校、34年に群馬県立前橋中学校となった。明治45(1912)年に利根分校は沼田中学校として独立した。武一郎は明治36年前橋中学卒業で利根分校が既にあったが明治35年仲間と撮った写真が残っておりそこには県内各地の安中・山田郡・碓氷・渋川等の出身者が写っている。利根分校だけでなく前橋の地まで出かけていった様子がわかる。渋川の平形寿七氏も写っていたので友達だった。蟻川隆敬氏(武一郎妹ももの夫)も同級生だったようだ。旧制中学も草創期であり武一郎の在学中に群馬県立前橋中学校と名称変更された。

東京専門学校・早稲田大学・東京帝国大学農科大学実科について、
 左部彦次郎が入学した時の東京専門学校(明治15年設立)は明治35年に早稲田大学と名称変更しているので武一郎が入学する前年には既に早稲田大学と改称していた(大学令による早稲田大学となったのは大正9年である)。早稲田大学を目指して明治36年に武一郎が上京したことに矛盾はない。
 東京帝国大学は明治10年よりあった官立東京大学が明治19年に公布された帝国大学令に基づき同年改称設立されて唯一の帝国大学になったがまもなく京都帝国大学ができると明治30年東京帝国大学と改称した。東京帝国大学は武一郎が入学する明治36年頃は工科大学・農科大学・法科大学・文科大学・医科大学・理科大学の6分科大学(明治30年設置)で構成されていた。農科大学は明治23年設置されていたが明治30年6分科大学に組み入れられ東京帝国大学農科大学となった。元々本科・乙科があったが乙科は廃止方向となり明治31年5月実科を開設して、乙科の学生は明治34年9月には全員卒業ないし退学したという。この実科はのちに独立して今の農工大学・筑波大学の前身である。
 武一郎は明治36年3月前橋中学卒業後上京、7月には帝大実科に入学しているので4月~7月の間に心境の変化があったと思われ、上京して後に5年前に出来たばかりの東京帝国大学農科大学実科に切り替えた。上京して早稲田以外にも道が有る事を知り明治31年に新設されたばかりの帝大実科に転じたものと思われる。
 大学予備門は明治10年よりあり大学予備門→第一高等中学校→旧制一高になるのは明治27年であるが、明治時代の旧制中学 → 旧制一高 → 帝大,というルートはなお未整備で武一郎の頃は旧制中学から直接帝大に入学できたようだ。帝国大学実科は大学予備門ないし旧制高校相当と思われ、国が即戦力を養成するために設けたルートのようで3年で卒業している。
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東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)について、

 東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
 東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
 明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
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以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
 また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
 高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
 明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
 前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。

・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。文京区の誠之小・千代田区の番町小・麹町小の各公立小学校は、「御三家」と呼ばれ、上流階級が好んで集ったという。

( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究 
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )

コメント

_ 松木弥栄子 ― 2021年07月30日 13:47

絵入りのku-wab blog をお送り頂き有難うございます。只々 驚いて居ります。
「足尾鉱毒事件と左部彦次郎」の著者が、元院長先生ですって、と申しましたら、三女が「お医者さんて本当に頭がいいらしい。」と言ったのを思い出しました。彼女の保険関係の仕事をしている夫から聞いたそうです。桑原様の多才ぶりに驚き、そのような方に左部をお書き頂き、感謝でございます。
今後、石田勝太郎  を纏めて下さるご予定とか、その折には是非、私にもお知らせ頂ければ。このブログのバックナンバー等是非、拝読させて頂きます。
”Roken”in Japan は無理そうですが。   御礼まで

_ 桑原英眞 ― 2021年07月31日 00:34

ブログをご覧いただき恐縮しております。今後ともよろしくお願い致します。

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