見取り騒動の永牢での拷問、その100年前の茂左衛門磔刑2023年01月15日

1782年の見取り騒動の永牢での拷問、その100年前の1682年将軍直訴での茂左衛門磔刑と真田改易に関して、
天明2(1782)年5月より利根沼田の見取り騒動の罪で50余人が捕縛され9人が入牢しそのうち3人が首謀者として永牢となった。その3人は村人達の陳情等で数年後には出牢したがうち2人は出牢1か月及び2カ月で死亡した。地元では毒を盛られていたとも言われているが事実は不明のままである。池田村史では「・・牢入者はその科によって15貫目の大石を以って、荒まきの上に人をのせ、その大石を胴づきにかけ責めけり、又水責めにもしけり、其の上重き科人には、ねつてつをつぎけり、実に地獄の如くなり・・」と記録されている。
利根沼田地方には一つも見つかっていない水牢が隣の吾妻地方には複数見つかっている。
1, 中之条町大字横尾1639、「百瀬の水牢跡」
2, 東吾妻町新巻1034 「池の薬師堂水牢跡」
へ行ってみた。
1,

「百瀬の水牢跡」
中之条町百瀬の水牢
中之条町百瀬の水牢


2,

「池の薬師堂水牢跡」
東吾妻町 池の薬師水牢 aaa
東吾妻町 池の薬師水牢 aaa



※ 吾妻地方東部には9か所水牢が見つかっていて、利根沼田地方には一つもないのは、真田支配以前の支配者の斎藤氏らによるものではないかと中之条史はしているようだ。
但し、『磔茂左衛門』著者の後閑祐次氏はその中で上記水牢等の他に判明しているものとして、利根の地にも「下久屋水牢」(利根郡利南村下久屋)があったとの言い伝えがあったと言っている。「・・年貢の納期は12月20日である。滞納者は酷寒水牢に追い込まれ、責苦の無知に泣く。八寒地獄とはこのことを言うのだろう。」と記している。
後閑祐次氏は伊賀守が幼少時代を過ごした小川古城館に近い村の旧家で幸い300年間火災にあわず古文書も一部残っており父の代から追究してきた茂左衛門に係る遺稿を整理発表することが自分に課せられた使命と思って本書を書いたと自序で述べている。

※※ いつの世でも憎しみの中での殺し合いは、残酷である。西欧でも生きながら人間の皮を剝ぎ椅子を作った等の残酷物語があるし、戦国時代は数千の敵の首を城の周りに並べたという話もある。明治維新の時でも刀が穢れるとの理由で尻の穴から竹槍を刺して殺したとの話もある。これは今の時代でも変わらない。そして支配者自体の問題だけではない。その取り巻き連中の「性悪的な忖度」を許してしまうことが拍車をかけるためである。つい最近の湾岸戦争の時代でも探せば映像が残っているはずである。現在進行形のウクライナ侵攻でもあるはずだ。だからみんなで仲良くなどとは全くの幻想である。大事なのは憎しみ合うのは避けられないとしても殺し合いにまで行かないような、呉越同舟の道を如何に探すか、こそが殺し合いに終止符を打ち共存できる唯一の道である。人の性悪説は総てではないがその側面は確かにあるので、それを抑止できるのは法による制限しかないと思う、宗教は駄目だ。 自分にとって正しいと思えるものが他人にとっても正しいと信じ込むこと自体が幻想であることを、哲学者ヴィトゲンシュタインが既に指摘している。

「(日中半世紀 未完の正常化)・・朝日新聞2022年7月19日」を読んで、2022年07月26日

「(日中半世紀 未完の正常化)訪中2日目、角栄の直感 台湾問題、「言葉」による合意朝日新聞2022年7月19日」を読んで、

自分はポピュリズムの臭いがプンプンする朝日新聞は嫌いである。しかし拒否もしない。職場にあるので替えることなく継続購入もしているので朝日新聞は自然に目に入り拘りもしない、だから気になる記事があれば読む。
2022.7.19.朝刊第1~2面に1972年9月26日 田中角栄首相ら訪中時の日中関係の緊迫した場面が載っていた。古谷晃一氏の署名入り記事である。「言葉に合意」、「文学的表現でいこう」等の見出しが躍っていた。日中国交正常化交渉での北京釣魚台迎賓館でのエピソードである。交渉は難航し大平外相は食事ものどを通らず、田中首相は「私は死ぬ覚悟できている」と言ったという。当時は国交がなく事前交渉はできなかった中での交渉だったという。その7か月前にはニクソン大統領が日本の頭越しにいきなり中国訪問して米中共同声明を出していた。

周恩来は「戦争賠償問題は譲歩できても台湾問題をめぐる3原則は決して譲れない」と言ったという。日中の立場の違いは大きく、合意は出来ないかもしれないと暗澹たる雰囲気の中で大平外相は食事ものどを通らず痛ましかったとは側近の感想である。そんな中で結局は開き直り、「法律問題でいくから話がおかしくなる。文学的表現で行こう」となったという。窮すれば通ずで、良いアイデアだと読んでいて思った。(「台湾は中国の不可分の一部」とする中国の主張を日本は認める立場にはない。ただ、日本はこれを「理解し尊重する」)と日中共同声明に明記され、周恩来もその曖昧な表現を受け入れたという。日本にも留学していて互いの心情は理解していたであろう中で、小異を残して大同につくとした周恩来も土壇場で表現法を思いついた田中角栄ら日本の首脳も太っ腹であった証拠である。
一方台湾では現地大使館に日本刀を持った3人が入ってきて「日中国交正常化なんてやめさせろ、さもなくばお前をぶった切る」と言ったという。
これらによって日中国交正常化したが、日中共同声明のこの玉虫色の表現が、台湾問題等の未解決課題対立の火種を残したとこの記事は結んでいる。
火種を残したというならば、火種を残さない方法があるのならそれをも提示していただきたい、と読んでいてそう感じた。いつの世でも完璧になんてことはありえない。その都度最善を尽くして乗り越えていくのが実務者であり、学者と違うところだからである。
何が最善かは別として、それぞれの場で命を懸けたやり取りが行われていたことは確かのようだ。そしてその選択された道が善悪を超えた歴史となっていき、それはまた明治維新がそうであったように賊軍が官軍になっていくことでもある。歴史とはそういうものだと思う。
それにしても、明治時代より大戦前まで、同じような植民地政策で中国・朝鮮・台湾等近隣諸国には迷惑をかけているのにも関わらず(当時の人たちはその積りがなくとも結果としてはそうだったと思う)、台湾の日本に対する国民感情と中国・韓国の日本に対する国民感情があまりにも違うのは何故なのだろうか、といつも思うが答えが見つからない。

〇 (日中半世紀 未完の正常化)訪中2日目、角栄の直感 台湾問題、「言葉」による合意2022年7月19日 https://www.asahi.com/articles/DA3S15360466.html 
〇  日中40年と記者交換  残された「小異」は今も(富澤 秀機)2012年10月 https://www.jnpc.or.jp/journal/interviews/24964



そもそも理性的に考えれば人間個々人が真の意味で心から分かり合えることは基本的にはない、たとえ親兄弟や子供であってもだ。哲学者ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)がジャストローの絵(ウサギに見えるアヒルに見える)を使って説明したのはそういうことだと思う。言い換えれば個々人の心象風景は一人ひとり皆違っている。逆に言うと分かり合えたと幻想を抱きすぎると、次に待っているのは、その幻想と現実の衝突であり幻想の破綻である。極端になれば、感情のぶつかり合いや認知のすれ違いで殺し合いである。親しき中にも礼儀あり、はその警告である。小異を捨てて(残して)大同につく、も同じであろう。2500年前の孔子や釈迦の時代より理屈ではわかっていたことである。同じ2500年前の孫子の「呉越同舟」も分かり合えなくても最低限共存を図る、そのためには手を結ぶという意である。それでも人類はわかっちゃいるけどやめられない、と世界大戦までは同じ殺戮を繰り返していた。さすがに大戦以降は国同士の殺し合いは止めようと共通認識を持ったと思っていた。しかし、今回のウクライナ侵攻で覆ってしまった。
(2022.7.28.一部追加)。

明治期の帝国大学予備門の成立過程について2022年06月26日

メモ::(一部追加訂正)(更に補足追加 R7.1.7. )

 東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)


 東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
 東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。
明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。
明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
 明治19年 第一次中学校令で高等中学校(第一~第五高)と尋常中学校(一府県一校を原則)が規定された。同年の帝国大学令で初期の東京大学が帝国大学と名称変更した。(東京)帝国大学予備門は一高へ移行し名称変更した。この時は一高はまだ学区制であった。
<明治19年3月から4月にかけて森有礼文部大臣は従前の「教育令」に代わり一連の「学校令」の勅令(師範学校令・小学校令・中学校令・帝国大学令など)を公布した。この帝国大学令で帝国大学を「大学院及分科大学ヲ以テ構成ス」(2条)として,大学院を学術技芸の蘊奥を考究する所とする一方,分科大学を学術技芸の理論および応用を教授する所と規定し,法科大学,医科大学,工科大学,文科大学,理科大学の5分科大学を規定した(10条)。明治22年に農科を加えた6分科となった(帝国大学法科大学・帝国大学医科大学・帝国大学工科大学・帝国大学文科大学・帝国大学理科大学・帝国大学農科大学の6分科大学)。>
 明治27年 高等学校令で高等中学校を高等学校に名称変更した。
 明治30年 一高の学区制が廃止されて全国から一高を受験できるようになった。同年帝国大学は東京帝国大学と名称変更(京都帝国大学ができたため)。かつ農科大学も組み入れて東京帝国大学六分科大学になった(井上馨文部大臣の初期の構想は東京帝国大学を研究中心の大学院大学と教育を担当する分科大学にする予定で六分科大学としたが元の帝国大学の基盤が既に強すぎてその後のその構想は実現できず逆に各地に帝国大学自体が増設されていった)。
 明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
 明治32年 第二次中学校令で尋常中学校も中学校に改称された。
その後、大正7年の「大学令」公布及び大正8年の「帝国大学令」公布が、臨時教育会議の答申のもとに出されて、帝国大学は分科大学制から学部制に変わった。東京帝国大学農科大学の一部は後の農工大学・筑波大学等へ独立することになった。また大学令によってそれまでの官立大学=帝国大学であったものが官公私立大学にも大学令が適用されるようになった。第二次大戦後の昭和22年には廃止されて日本国憲法・教育基本法・学校教育法等により新たな教育制度になった。
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 以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
 また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
 高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
 明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
 前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。

・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。

( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究 
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )
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(以下補足追加 R7.1.7. )
・明治元(1868)年 それまで既に幕府直轄の学問所の前身としてあった洋学中心の開成所・儒学中心の昌平黌・西洋医学中心の医学所の3つを官立の教育機関群としてそれぞれ指定し、開成学校・昌平学校・医学校と改称した。翌明治2年には大学校になった。
・明治4(1871)年廃藩置県とともに文部省設置し、大学校・中学校・小学校を管する職務とした。
・明治18(1885)年太政官制から内閣制度に変わったが文部省およびその職務はそのまま継続された。

<以下開成学校・昌平学校・医学校の沿革>

①開成学校: ペリー来航して洋学研究の必要性を痛感した幕府は1855年洋学所を開設し翌1856年に蕃所取調所(ばんしょとりしらべしょ)と改称→1862年洋書取調所→1863年開成所→明治元(1868)年開成学校→明治7(1874)年東京開成学校、と改称された。

②昌平黌(=昌平坂学問所): 江戸初期に家康が林羅山を登用し3代家光の時に土地を与えられて私塾として始まったのが起源である。1690年湯島聖堂或いは昌平坂聖堂と呼ばれた。1797年私塾から幕府直轄になり昌平坂学問所(=昌平黌)と呼称された。

③医学所: 長崎の蘭学や1722年8代将軍吉宗によって設立許可された小石川養生所をはじめ全国各地に医療所は既に散在していたが、1858年神田お玉が池に種痘所が設置され1860年に幕府直轄になりさらに1861年幕府直轄の医学所として設立された。1868年官立の医学校と改称。1869年官立大学校の一つとなった。

 以上の3校が様々な変遷を経て後の、明治10年旧東京大学→明治19年帝国大学→昭和22年新東京大学、になっていく。

(参考: 文部科学省>学制百五十年史>第一編 近代教育制度の発足と拡充>第一章 近代教育制度の創始と整備  https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/1420041_00011.htm 。)

安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。 テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・・2021年12月22日

R3.12.19.安在邦夫氏の講演と対話集会
2021/12/22 アサブロ

安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。
テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・谷中村事件を考える」2021/12/19、於館林市文化会館2階、 に出席してきた。

赤上剛氏の司会のもと、安在邦夫氏が基調講演を行い、壇上の論者がそれぞれにそれぞれの切り口から独自の見解を述べて、大変分かり易く、また得ることが多かった。
 壇上の論者は夫々、我が身に降りかかるその現場で活動している場合、少し引いて凝視しながら活動している場合、学問的に探究している場合、新しい切り口からの真実を探求している場合、それぞれの立場からの分析と見解と課題を分かり易く聞かせて頂いた。そして事前に用意されていたレジュメが良くまとめてあり、大変分かり易いレジュメで感動もした。

 そもそも、足尾銅山鉱毒事件(足尾銅山鉱毒事件と谷中村事件はこの集会では切り離して考えた方が良いとの提案であったが、ここでは広義の足尾銅山鉱毒事件とする)は、世界の公害史の原点であった(田中正造は日本のガンジーだった。2019年08月19日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2019/08/19/9142742 
)。
 日本中を巻き込んだ大事件であったにも関わらず、当時の殖産興業・文明開花・国力増強・食うか食われるかの世界の戦いの大きな流れに掻き消されながらも、法治国家を意識した、非暴力不服従の抵抗を続けた事件である。当時同時発生していた秩父事件(困民党軍の組織ー軍律 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
)や加波山事件・群馬事件・自由民権運動等も原則は非暴力主義の抵抗を理念に掲げながらも小さな内乱についついなってしまうという中で、出来る限りの努力をしていたという実態を捉えることが出来る。
 今回のテーマについて、これは安在邦夫氏が言うように、決して過去の話ではなく、現在にも通じる問題であり、東日本大震災福島原発事故の初期の功労者の双葉町長のその後の町民からのリコール、仲間であった者がやがて離脱と内部対立に向かう成田空港闘争での現在進行形の現実問題、全体闘争に政治が係わりながらやがて内部分裂に向かい問題の焦点が移って自己分裂から矮小な帰結に行き着いてしまう危惧、これらを浮き彫りにしてくれたように思う。
 最後の最後まで戦いの同志であった田中正造と左部彦次郎が究極の途端場で袂を分かつたことにより、これがクローズアップされすぎて事の本質が見えにくくなってしまっているのではないか、との掘り下げが見え隠れしてきたように思う。官憲により谷中村の家々が破壊さて尽くしてもなおそこに最期まで居残った住民の心情(※)と、その前に谷中村を去り去った先で苦労を重ねた人たちの心情は天と地ほどに違う筈である。そして同じ谷中村を去り残留民からは裏切り者と言われ北海道移住後の金策に走り回った中では身内からも疫病神と嫌われた谷中村元村長の茂呂近助の心情はまた全く別のものであったであろう。互いに全く理解し合えない別次元のそれらの心情をない交ぜにしてすべてを田中正造と左部彦次郎の2項対立であるかのように単純化した見方によってそれらの心情の違いを覆ってしまい、その2項対立が表面上支配している現今の状況、官憲の破壊後に残った一部住民のあまりにも悲惨な運命に遠慮してそれぞれがうしろめたさを抱きながら何も言い出せず、そんな中での田中正造は神、左部彦次郎はそれに逆らった今悪魔との単純な矮小化された構図に甘んじてしまうというのは後世の検証の仕方としても許されないのではないか、との問題提起を投げかけていると感じる。
(※明治40年6月29日~7月5日の最後の谷中村堤内残留16家屋が官憲により強制破壊され、木下尚江は強制破壊の話を聞き「殺されるか、拘引か」のどちらかという悲壮な覚悟で谷中村に駆け付けたが、そこで見たものは「平然日常の稼業に従事して驚かざりし」といつもと少しも変わらぬ農民の姿をみて神々しいとさえ感じ、「谷中の残留民が身を以て示した非暴力不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示を見た」と言わしめ、田中正造は同年12月強制破壊された仮小屋の中で食糧なく風雨にさらされる苦境の中で残留民に笑い涙しながら「辛酸亦入佳境」と言った。それでもその田中正造でさえ、谷中人民の見えない深い怒りの本質に気付くのはその2年後であった(正造日記明治42年8月1日)と林竹二は言っている。朝日新聞は同年10月6日付で「谷中村問題漸く落着・・」と単純に報じた。)

 これらの問題提起は大げさに言えば、いかなる理想の社会を我々が目指そうとも、人間の社会が続く限りそれ自身に内在する問題であるとも言える。
 人間が人間として生きていくために必要な人間集団である「社会」、その互いに生きるために必要な「社会」がある限り、そこにはその社会の宿命とも言える深い問題が内在していることを示しているとも言え、その問題を安在先生は言おうとしているようにも見える。

旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々など2021年07月08日

2021/7/7 アサブロ

旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々とその関連事象について

奈良村の互いに影響しあったであろう人物については、下記が挙げられる。

・石田伝九郎(天保元年12月10日生)、明治13年県会議員、勝太郎祖父、三代目石田良助の叔父、左部彦次郎の祖母とさの三番目の弟、幼名亭次。石田伝九郎家への入婿で、石田茂左衛門家の三代目良助の叔父に当る。黒船来航の翌年1854年に奈良村石田伝九郎は帯刀の上江戸へ出府せよとの御用の命を受け給金も出たという。
・石田良助(嘉永2年6月26日生)、明治17年県会議員、三代良助、石田直太の父、石田伝九郎の兄の二代良助の子。
 ・石田勝太郎(明治3年4月14日生)、伝九郎長男の石田準太の長男、左部彦次郎のはとこ。明治21年群馬師範学校卒業(19才)、群馬師範学校長滝沢菊太郎や群馬県立中学校長沢柳政太郎に優秀さを買われて明治30年群馬県視学→明治31年佐賀県視学→明治35年文部省学務局第二課長→明治39年東京府師範学校教諭(同41年東京府青山師範学校と改称)、同42年東京府青山師範学校舎監及び主事等で活躍。明治43年5月7日41才で没、東京青山の自宅で狂犬病犬に咬まれて死亡。「子供と父母」著書。
 弟の角田喗次郎は「塩原太助」著書のほか多彩な事業を行う(勝太郎孫の石田俊一郎氏の話)。
 同弟の石田文三郎は明治45年東京園芸学校(明治41年創設)を卒業し(21才)、恩師の勧めで東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)に赴任して同大農学部助教授および同大付属植物園(明治19年高名な植物学者の宮部金吾により設立完成され園長は昭和2年退官まで宮部金吾が務めた)主任として奉職し、昭和26年には札幌市花壇推進組合長として札幌大通公園花壇の設計にも携わった。勝太郎・喗治郎・文三郎のいわゆる石田三兄弟。
・左部彦次郎(慶応3年10月24日生)は、明治21年東京専門学校入学(数え22才)、24年7月卒業(25才)、明治29年3月の県会議員選挙後の恐喝事件の時30才、その後再上京して田中正造とともに鉱毒事件に関与したが、同じ頃(明治34-35年)石田勝太郎は文部省に勤務していた。大正15年3月24日没(60才)。
・石田直太(明治6年6月1日生、彦次郎のはとこ)は、成城学校(陸軍士官学校の予備校)入学時、一時左部彦次郎と東京で同居。卒業後帰郷した。
・桑原武一郎(明治16年6月11日生)は、明治36年3月前橋中学を卒業、明治36年7月東京帝国大学農科大学林学実科に入学、同39年7月卒業、直ちに農商務省に入省。墓石にのみ早稲田に関する記述がある。彦次郎に影響を受けて上京し、4月~7月のわずかの間に新設間もない帝大実科に変更したと思われる。24才で農商務省入省時に石田勝太郎と同じ青山に居住。父死亡で大正6年帰郷、県会議員に在職中の大正15年7月2日没44才(急性虫垂炎から腹膜炎になり死亡、この時弟の六郎二は東北帝国大学を卒業して医師になっていたがその時の対応は不明。東北帝国大学医学部は明治45年に新設されたばかりだった)。
・左部寿一郎(明治33年4月5日生、街三郎の孫)は武一郎が大正6年帰郷した時は18才、東京帝国大学経済学部を大正14年卒業(26才)、昭和17年6月14日没43才。帝大経済学部は大正8年新設されたばかりであった。門司市助役や北九州市合併等を主張、北九州市俳壇にも貢献し俳号赤城子としても名を馳せた。

 これらの奈良村の同郷人たちは互いに影響し合っていたものと思われる。それぞれが新設間もない学校に入学していて、学びへの意欲が高かった。
 明治29年の左部街三郎・左部彦次郎らの騒動は奈良村の中で武一郎14才の目の前で起きておりきわめて鮮明な記憶となった。それに先立つ明治25年1月の鉱毒被害地からの彦次郎への感謝状、同2月の学苑雑誌の「校友左部氏感謝状を受く」の発表もおそらく地元でも知られていて尊敬の目で見られていたと思われる。在京中の彦次郎は石田良助や準太にも手紙を出している。左部街三郎は騒動後自死したがその弟謙四郎の長男には川場村の外交官桑原鶴・女医の桑原くめ博士の姉が嫁している。
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群馬師範学校について
明治6(1873)年に、既にあった旧藩校の前橋県学校が教員伝習所(教員伝習学校)として前橋に設立された。まもなく熊谷県を経て第二次群馬県になり、明治9年9月に群馬県師範学校と改称して高崎市の興禅寺境内に移転し1か月後には前橋の龍海院境内に移転し、更に2年後の明治11年に前橋曲輪町(現大手町)新校舎落成して移転した。明治19(1886)年の師範学校令により群馬県尋常師範学校と改称(本科4年制)した。それまでは初等科(1年制)・中等科(2年制)・高等科(4年制)が設置されていてその後も簡易科2年制等も設置された。明治21(1898)年4月の師範教育令により群馬県師範学校と改称した。明治34(1901)年には女子尋常科准教員講習科も併設され2か月後には群馬県女子師範学校として設立認可された。

前橋中学校・利根分校について
前橋中学校は明治10(1877)年に第17番中学利根川学校として成立し、明治12(1879)年に同校閉鎖して師範学校内に群馬県中学校として開設された。明治19(1886)年に第一次中学校令により群馬県尋常中学校となり、明治30(1897)年に利根分校を含む6分校が開設された。明治32(1899)年に群馬県中学校(同32年の第二次中学校令で尋常を外した)、翌33年には群馬県前橋中学校、34年に群馬県立前橋中学校となった。明治45(1912)年に利根分校は沼田中学校として独立した。武一郎は明治36年前橋中学卒業で利根分校が既にあったが明治35年仲間と撮った写真が残っておりそこには県内各地の安中・山田郡・碓氷・渋川等の出身者が写っている。利根分校だけでなく前橋の地まで出かけていった様子がわかる。渋川の平形寿七氏も写っていたので友達だった。蟻川隆敬氏(武一郎妹ももの夫)も同級生だったようだ。旧制中学も草創期であり武一郎の在学中に群馬県立前橋中学校と名称変更された。

東京専門学校・早稲田大学・東京帝国大学農科大学実科について、
 左部彦次郎が入学した時の東京専門学校(明治15年設立)は明治35年に早稲田大学と名称変更しているので武一郎が入学する前年には既に早稲田大学と改称していた(大学令による早稲田大学となったのは大正9年である)。早稲田大学を目指して明治36年に武一郎が上京したことに矛盾はない。
 東京帝国大学は明治10年よりあった官立東京大学が明治19年に公布された帝国大学令に基づき同年改称設立されて唯一の帝国大学になったがまもなく京都帝国大学ができると明治30年東京帝国大学と改称した。東京帝国大学は武一郎が入学する明治36年頃は工科大学・農科大学・法科大学・文科大学・医科大学・理科大学の6分科大学(明治30年設置)で構成されていた。農科大学は明治23年設置されていたが明治30年6分科大学に組み入れられ東京帝国大学農科大学となった。元々本科・乙科があったが乙科は廃止方向となり明治31年5月実科を開設して、乙科の学生は明治34年9月には全員卒業ないし退学したという。この実科はのちに独立して今の農工大学・筑波大学の前身である。
 武一郎は明治36年3月前橋中学卒業後上京、7月には帝大実科に入学しているので4月~7月の間に心境の変化があったと思われ、上京して後に5年前に出来たばかりの東京帝国大学農科大学実科に切り替えた。上京して早稲田以外にも道が有る事を知り明治31年に新設されたばかりの帝大実科に転じたものと思われる。
 大学予備門は明治10年よりあり大学予備門→第一高等中学校→旧制一高になるのは明治27年であるが、明治時代の旧制中学 → 旧制一高 → 帝大,というルートはなお未整備で武一郎の頃は旧制中学から直接帝大に入学できたようだ。帝国大学実科は大学予備門ないし旧制高校相当と思われ、国が即戦力を養成するために設けたルートのようで3年で卒業している。
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東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)について、

 東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
 東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
 明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
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以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
 また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
 高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
 明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
 前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。

・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。文京区の誠之小・千代田区の番町小・麹町小の各公立小学校は、「御三家」と呼ばれ、上流階級が好んで集ったという。

( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究 
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )

田中正造の同志の左部彦次郎は、なぜ最後に袂を分つたか。2020年08月22日

田中正造の同志の左部彦次郎がなぜ最後に袂を分つたか。
(調査原資料H31年)

世界の公害史の中で、振り返ってみると世界に先駆けてその原点となっていた、明治時代の足尾鉱毒事件について調べてみた。
非暴力不服従という極めて稀有なる対応の一生を捧げた田中正造と、その軍師あるいは参謀長とも同志とも言える左部彦次郎を中心にまとめてみた。
田中正造はインドのガンジーの47年前に既に非暴力・不服従を実践していた。年令も28歳先輩である。ガンジーが非暴力・不服従を始めたのは46歳の時、田中正造は27歳の時である。公害という観点からは、足尾鉱毒事件は世界のそのさきがけである。非暴力・不服従を実践していた時期の観点からはガンジーより古く遡る。

奈良村の歴史を調べる中で左部彦次郎の逸話にも遭遇し、始めは変わった人も居た位に思っていたが、世間の言の葉からは裏切りとか鬼とか、果ては妾の子であるとか、実像とはかけ離れた評価を受けている印象を受けた。古河鉱業と殖産興業の国を相手にした未曽有の鉱害事件に正面から対峙した田中正造と軍師左部彦次郎について、彦次郎は深く関わった割には評価されておらずむしろ意識的に避けられているような印象さえある。渡良瀬川鉱毒事件に半生を捧げた田中正造は神格化されその参謀長であり軍師であった左部彦次郎が最後に何故袂を分かって正造に鬼と言わしめ、新聞では裏切りと喧伝され、鉱毒地元の一部からは恨まれたか或いは良く思われなかったか、鉱毒事件を述べる資料の中ではその殆どが敢えて無視しているような印象がある。田中正造から離れて行った同士も沢山居る中で、何故なのか、様々な見解がある割に予想外に詳細が不明のために調べて見た。膨大な資料があるようなので気長に追加して行く(敬称略)。途中で田村紀雄氏の‘左部彦次郎の復権を’との論文も見つけた。

1。左部彦次郎の生い立ちと略歴について:
(公開ないし半公開資料に依ったもので情報開示には配慮した。)

慶応3(1867)年10月24日生まれ、東京府四谷区谷町(沼田市戸籍―萩原進1)。田村紀雄は京橋区木挽町としている10))風間佐兵衛次男、明治11(1878)年2月14日12才の時利根郡奈良村61番地左部宇作に養子入籍(明治時代に地番変更していて現在の地番と異なる)。宇作の家は酒蔵及び農業、養父宇作死亡で14才で当主になり12年間の酒蔵貸与の約定書(明治13年10月付け「酒造蔵並酒造器械貸渡約定書」)が残っているという10)。明治17(1884)年16才で同村大河原德次郎次女はん15才と結婚、1男1女(馨・よき)あり、明治21(1888)年東京専門学校政治科(明治35年に早稲田大学と改称、大学令による大学と認可されたのは慶応義塾大学と共に大正9年2月5日である)合格。明治23年学生時代より鉱毒事件を知り田中正造とも交わっていたとされている。明治24年7月卒業するや直ちに被害地大島村の親戚小山孝八郎宅に身を寄せて鉱毒調査した。同年12月18日にはその調査を基に田中正造が国会質問を行い同12月28日には群馬県南4か村(海老瀬・大島・渡瀬・西谷田)が請願書を農商務大臣に提出し、翌明治25年1月鉱毒被害4村より感謝状を受けた。このことは東京専門学校の「明治25年2月発行の同攻会雑誌第11号」の「近時辺々」欄にて『校友左部氏感謝状を受く』と題して以下の如くいち早く学苑内にも伝えられた。明治25年4月鉱毒被害の村と古河鉱業とが一定条件の元での示談成立(第1次)。これらは卒業前より鉱毒被害現地に既に入って行動していたことを暗示しているが、本格的な関わりは川俣事件予審調書に依れば明治24年7月からで半年足らずで前記感謝状のような活躍をしたことになる。板倉町史や布川了や林竹二は学生時代から鉱毒被害地にかかわっていたとしている。25~29年は鉱毒運動から離れて池田村で過ごし、明治31年6月鉱毒東京事務所の谷元八が「手助けしてくれ」と左部彦次郎を訊ねてきてから再び本格的にかかわるようになったとされる。
妻はん明治26(1893)年6月6日死亡、二児が残され祖母とさに育てられていたという。卒業後帰郷(明治25-26年頃?)していて明治27年奈良村の初代消防頭を勤めた。明治29(1896)年3月池田村(明治22年の町村合併で奈良村を含む8カ村で合併新設された)から第11回群馬県会議員選挙に立候補し落選した。このように彦次郎は卒業後奈良村に帰ってきたとされるが2児(長男馨明治21年4月23日生、長女よき明治24年9月22日生)は明治29年以降は祖母に預けていた。(本家の左部善兵衛は対立候補隣村の松井八十吉を推したため内輪騒動があり、一時左部彦次郎側・善兵衛側各々4名恐喝事件として入獄し、落選の責任を問われた左部本家当主はその後切腹した。彦次郎は東京の実家に戻ったようだ)。
明治31年6月被害民の鉱毒東京事務所の谷元八が「手助けしてくれ」と左部彦次郎を訊ねてきた。同11月には、自ら「『請願運動部面の多き被害人の奔命に疲れて将に倒んとするに付便宜を與へられ度為め参考書』発行人池田村左部彦次郎.印刷所東京濱田傳三郎 明治31年11月」を書き上げた。明治33年自ら革命歌を作り民衆の先頭に立って気勢を上げた。(後妻の堀越ゆわと一緒になった時は(明治23~38年まで15年間に及ぶ活動の中で)財産を使い果たし裸一貫であったと娘大場春江の「かく生きて」の『父恋い』にある。石田家家史にも県会議員候補を争い無財産となるとある。) 
明治37年9月奈良村祖母とさ死亡、彦次郎先妻の2子は東京姉夫婦に引き取られた。明治37年12月10日栃木県会が栃木県による谷中村買収案を可決した。明治38年10月左部彦次郎は栃木県土木吏に転じて田中正造と袂を分ち、逆に谷中村廃村工事反対派の切り崩しの先鋒になり、田中正造に鬼と言わしめた。足尾鉱毒事件で奔走中館林町で内縁関係になっていた堀越ゆわとの間にできた明治41(1908)年1月14日生まれの左部春江を認知入籍した。彦次郎は大正15(1926)年3月24日内縁妻に看取られながら寂しく死亡した、60才(この内縁関係は次女堀越ゆわが家督を継いでいて当時の法令上の不備で入籍できなかったためという。彦次郎の実母うた・彦次郎と同じ斎藤家墓地にゆわも眠っているという)。 
明治24年8月の渡良瀬川洪水被害調査は田中正造の指示ではなく「全く自分一己の考でしたこと」と川俣事件予審調書で本人が述べている。田中正造と東京専門学校との関係は明治15年栃木県会議員の時より正造が設立者大隈重信が結成した立憲改進党に同年属していたこと、東京専門学校での名物行事には現職議員・官僚・学生・実業家らが参加している「早稲田模擬国会」があり田中正造もしばしば演説していたということから当然あったと思われる。また明治20年には長祐之らが鉱毒問題を既に東京専門学校で論じていたと言うので彦次郎は在学時より田中正造の存在と鉱毒問題の存在は知っていたと思われる。

手紙が残っている祖母とさ(登左)と彦次郎、石田直太との血縁関係は以下のようになる。
<div class="msg-pict"><a href="http://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2020/08/22/5b0b02.jpg.html" target="_blank" onClick="return asablo.expandimage(this,609,226,'http://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2020/08/22/5b0b02.jpg')"><img src="http://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2020/08/22/5b0b01.jpg" alt="" title="" width="300" height="111"></a></div>

文久3(1863)年 奈良村宗門人別改帳(;沼田高校保存文書―浄土宗のみ)には、愛助事宇作(第2代宇作)23才、兄左弥太28才 安政7(1860)年2月欠落仕候、とある。
左部宇作(初代)の父斧次郎は長男であるが短命(27才)であったために次男の豊三郎(善兵衛寛信俳号三岳)が本家を継ぎ宇作は新宅に出て分家し酒造業+農業も営む通称十一屋となった(初代宇作。石田家は善兵衛家へ嫁にやったと思っていた)。初代宇作の長男左弥太(1836~1868)は安政7(1860)年村を出て、次男宇作(2代宇作,1841~1880)が家督を継いでいる。2代宇作には子がなく左弥太の次男の左部彦次郎が12才の時に叔父宇作の養子に入った。2代宇作は明治13(1880)年死亡し彦次郎が14才で当主となった。左部左弥太は出奔してのち東京風間佐兵衛とも言われた。
 石田家家史(県立文書館)に石田直太(1873~1940)によると思われる追記が有る。直太は成城学校入学前後の明治21,22年頃一時東京で彦次郎と同居していて、彦次郎から祖母とさ宛ての手紙も群馬県立文書館に残っている。明治21、22年の手紙の彦次郎の住所は麹町11丁目22番地斎藤みつ方左部彦次郎となっているので学生時代は生家から通学していたと思われる。石田直太と左部彦次郎ははとこ(従姉弟の子)関係にある。斎藤みつは大場竹次郎・みき子夫婦の養子になり同じく養子の嘉兵衛と結婚する予定だったが結婚式の前日に彦次郎のもとに走ってしまったというエピソードがある。また彦次郎の母斎藤うたの住所も田中正造の明治36年6月29日メモに拠れば同じ麹町11-22という。5) みつは大場家の遠縁とあるのでうたとみつは親子ではない。彦次郎母うたの遠縁でかつ彦次郎の生家に当時住んでいたことになり、前記エピソードは前後不明ながら明治21年にはうたとみつは同居していた事になる。その時奈良村には妻と2子が既におりその後のみつと彦次郎の関係は不明。竹次郎没後嘉兵衛は大場家に呼び戻されみき子・嘉兵衛が夫婦になっていた。
石田とさは奈良村石田良助忠超(初代良助)の子(とさ・簾之助(良助)・逸作・亭治(伝九郎))の中の長女として生まれ同村左部善兵衛家宇作と婚姻、左弥太・愛助(2代宇作)・湊・惣助(宗助)を生む、明治37年9月3日とさ没87才。左弥太は安政7年25才で出村、家督を継いだ愛助事2代宇作には子なく彦次郎が養子に入って2年後40才で没。
左部春江は横浜の女学校で寄宿舎生活を送る中で母が脳卒中で倒れ父彦次郎も間もなく大正15年3月亡くなるという不幸が重なりながらも帝国女子医専に入学していて勉学を継続していたが残り2年を待たずにやむなく中退。義伯父と結婚して大場春江となり俳号大場美夜子として子育てや夫の看病する中で俳人となって行く。その長男の大場智満は大蔵省官僚で昭和58年プラザ合意時の大蔵財務官としてその中心を担った。智満の妹に松木弥栄子らがいる。父左部彦次郎は大正15(1926)年3月24日神奈川県中郡平塚町2417番地にて内妻堀越ゆわの看病を受けながら寂しく亡くなったという60才没、この時春江19才。母堀越ゆわはリウマチを患いながらも逞しく生きて2度の脳卒中にも見舞われて春江の看病を受けながら昭和20年4月4日終戦直前に没72才(彦次郎・うた・ゆわは同じ斎藤家の墓地に眠っている)。「かく生きて」の中の『かく生きて』によれば左部彦次郎には姉がいて彦次郎の亡くなる前から春江はその大場伯母夫婦(現杉並区永福町412番地)のもとで勉学に励んでいたという。春江の腹違いの兄姉は祖母とさが明治37年9月無くなってからはその大場伯母夫婦(夫大場竹次郎没後養子に入った嘉兵衛とも夫婦関係になっていた)に育てられていて春江の生まれた頃には既に独立していたという。春江の父違いの兄は不詳。
左部家はもともと佐部姓(佐原の佐と服部の部をとった)であったが文に造詣が深い故に江戸後期に人偏を取って左部にしたという。 左部寿一郎は昭和15年発行の「躍進群馬県誌」で第3代目より佐部→左部姓と改め自分は19代と自称し改姓は江戸初期であると述べているが、沼田市史通史編近世p317では墓石等より善兵衛寛信(1798-1878、俳号三岳)が左部と改姓したと言っている。1766年作成の奈良村名苗顕然記では佐部となっている。従って改姓時期は沼田市史の方が正しいと思われる。左部家は江戸初期かくれ里とも言われる奈良村に移住し、左部千馬の歌集「羅馬史」にあるように江戸時代中期より代々俳号を持ち<左部善兵衛廻兌俳号如舟(1724~1813)→善兵衛寛命俳号其雲→(善兵衛賢明俳号蓼化/幼名斧次郎27才没→善兵衛寛信俳号三岳/斧次郎弟幼名豊三郎)→善兵衛成澄俳号蒼風幼名図一→善兵衛寛忠俳号三舟幼名街三郎→善次寛泰俳号春窓→寿一郎俳号赤城子、その他婿養子の俳号西効、婿に行った松永乙人とその子笠人など>、左部彦次郎も筆が立ったようであるがその娘の左部(大場)春江(美夜子)もその血を引いているようである。
彦次郎の祖父初代宇作は上記斧次郎の長男である。後年大場春江は寿一郎弟の左部千馬と会っていて父方本家は代々俳人であったと聞いて自分の俳句好きも家系によるらしいと随筆句集「かく生きて」(1980年)の中の『句のえにし』にある。また長男寿一郎が昭和17年43才で亡くなった後四男の千馬が当主になっていたとこの句集にはある。警察官でもあり詩人でもある左部千馬は「戦国の雄族蘆名氏の19世の孫」と昭和31年発行「躍進群馬県誌」で述べている。左部家は戦国末伊達正宗に負けて黒川城を落ちて常陸国田島村に逃れ更に上野国利根郡上佐山村にて宿を一時営んだのち更に奈良村に落ちてきたその末裔という6)。大場春江は奈良村(現沼田市奈良町)にも立ち寄っていたことが書かれている。この随筆句集の中に大場春江の母が館林正田家ゆかりとあるが、北橘村今井善兵衛兼明に嫁した蘇和(1830-1891)は左部善兵衛寛信(三岳)の娘であり、その蘇和の孫には正田文右衛門の娘が嫁している。三岳は娘蘇和を伴って江戸の俳壇に遊び父子共に文名があったと言い、東京高輪泉岳寺に蘇和の句碑(楓樹の碑)がある(沼田万華鏡第9号昭和53年)。巡りあわせの妙である。陽気に強く生きてとは普通に言われる言葉であるが、随筆句集「かく生きて」の言葉にこれ程までの深みを含ませているとは読むまでは夢にも思わなかった。介護保険施設で働いている我が身としては『老人ホーム』を読んで特に本人のひたむきで温かな人柄を感じた。
 
2。足尾銅山および渡良瀬川について:

 足尾銅山は栃木県上都賀郡足尾町(現日光市)にあり、天文19(1550)年に発見されて慶長15(1610)年にはその地の領主日光座禅院の許可を得て発掘開発が始まったという。寛永5(1628)年足尾銅山で銅瓦等製造し江戸城に12万枚余納めた。戦国末より江戸初期にかけてキリシタンが潜入した所でその中の一人の鉱夫をしていた宣教師東庵は利根郡川場村に逃れて来て子も成している。江戸初期1680年頃より渡良瀬川で鮭が獲れなくなる等漁業・農業への影響が出て補償願いも出ていたという。寛政2(1790)年洪水で鉱毒被害発生、文政4(1821)年には鉱滓が流出して赤沢村・新梨子村には農作物被害が出ていて1800年代に入ると衰退して採掘量が減り、江戸末から明治初期には閉山同様だったという。
明治元年政府が幕府から没収し県の管轄になっていた足尾銅山の資金援助を明治5年栃木県が政府に要請した。明治8年に渋沢栄一らが仲介に入り古河市兵衛が銅山運営を開始し明治10年には個人所有となって飛躍的増産に成功して行った。そしてそれと共に鉱毒被害も表面化してきて鉱毒事件として大きく社会問題化するようになった。16) 渡良瀬川は栃木県足尾町の銅山から出て間もなく群馬県側に入り大間々町から桐生市までは群馬県側その後は足利市・太田市・佐野市・館林市と栃木・群馬県境を東南に流れて茨城県・埼玉県・群馬県・栃木県4県が近接する付近で利根川に流入する。渡良瀬川の度重なる洪水によりその都度渡良瀬川流域の鉱毒被害が拡大凄惨化した。明治23年8月には大水害で堤防も初めて決壊し、左部彦次郎がその調査を行い田中正造と共にその惨状を知ってから田中正造はこの問題に生涯をささげることになる。そして国・県の谷中村廃村方針が明治37年決定して世論も廃村の方向に流れる中で明治38年10月左部彦次郎と田中正造は遂に袂を分つた。
足尾銅山の鉱害の要因は亜硫酸ガス・亜ヒ酸等の煙害、過剰の木材伐採による森林の保水力低下による洪水等水害、選鉱過程で使用する薬品+鉱滓という汚泥+廃石等スラグ等に由来する毒水(銅・鉛・ヒ素・カドミウム等の重金属を含む)の流出、等であり、それによる森林立ち枯れ等荒廃・洪水・農作物の枯死・魚類斃死・乳児死亡・死産等であるという。12)16)
この足尾銅山鉱害は昭和48(1973)年銅山閉山後も過去のものではなく、平成元年には他鉱山からの鉱石精錬事業も停止したが、平成のその後になって植林活動等が続いているにもかかわらず復旧には今なお遠く、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災ではなお鉱滓堆積地からの鉱毒流出で被害が出ている。堆積場管理等のために昭和56年以降古河機械金属に対し国から坑廃水補助金を出している。科学的な鉱毒分析は時代と共に進歩してより詳細になって行くがその過程においては技術の未熟さだけでなく、御用学者による科学性の攪乱も大きな影響を与えている。結果として産業振興に伴い希望の光と共にその陰の部分もまた大きくなって行くことを示している。

3。田中正造と左部彦次郎、足尾銅山鉱毒事件との関連事項の時系列:

 この鉱毒事件は栃木県に於いては初期より取り上げられ主に田中正造と言う個人の顕彰的なものが多くあるが、群馬県側では明治24年3月19日群馬県会で建議書が可決提出されたにも拘らず無視されていた実態があり、昭和25年群馬県議会史に萩原進氏が取り上げて図らずも光を当てるまでは群馬県とは無関係の事件のように思われていて社会的にも一部を除けば無視されていたという。田中正造の事績を陽とすれば陰の大きな面もあるようだ。
(田中正造について:天保12&#40;1841)年11月3日野州小中村に生まれ、安政4&#40;1857)年17才~明治2&#40;1869)年29才まで小中村名主。正造は寺子屋も開き農業に努める中で副業藍玉商も営み3年で300両の利益を得た。明治元年5月~同2年4月まで主家の家臣に逆らい入獄10か月20日、出獄した時は既に明治2年4月「一家残らず領分永の追放」処分、江戸に出て旧知の家の食客になりまもなく奥州江刺県の小官吏の職を得て奥州へ(江刺県は岩手県遠野市に本庁、秋田県鹿角市花輪に分局があった)。花輪分局においても上役暗殺事件の嫌疑を受けて3年間の牢獄生活を経験し(上司暗殺事件の巻き添えで冤罪で入獄し拷問や凍死の危険を生き抜き無罪釈放された)、明治7年4月に出獄した。この時に「西国立志編」を読み政治と経済を学んだという。「田中正造の生涯」木下尚江著、「田中正造の生涯」林竹二著。小中村も江戸時代より名主は選挙で決め村の自治が熟していて名主は専横ではなく公の役割で有る事を理解していたという。田中正造は自らの小中村を「古来の自治村」と称していた。)
―――――――以下経過を羅列してみる。――――――

・天文19(1550)年 足尾銅山は発見されていた。16)
・慶長15(1610)年 足尾銅山は備前楯山の名で開発が始まる。16)
・1680年頃 渡良瀬川で鮭が獲れなくなり農作物への影響が出て補償願いが出ていたという。16)
・文政4(1821)年 出水で鉱滓が流れ出し赤沢村等の農作物に大きな被害が出た。16)
・寛永7(1630)年 住友財閥の基礎を築いた住友家2代の住友友以が大阪に「泉屋」を開業し銅の精錬・銅の貿易を始めた。この頃足尾銅山の産生した銅の1/5が輸出されていたという。
・元禄3(1690)年 愛媛県東部に別子銅山が発見されて翌年住友家4代の友芳が別子銅山を開坑した。この頃住友は足尾銅山の調査もしたが既に低迷期に入っていて採算が取れないと判断された。100年後の1817年頃は足尾銅山は一時閉山、別子銅山の産生も激減して行った。
・天保12(1841)年11月3日 田中正造は下野国阿蘇郡小中村(現佐野市小中)生まれ、幼名兼三郎、父庄造、母サキである。7才の頃に赤尾小四郎の儒学の塾に入り、教育熱心な父は謝礼に米1石を出した。 
・安政4(1857)年、17才の時、父が割元(六角領7か村の名主の束ね役)に昇進したために小中村名主となる。父の代に苗字帯刀を許された。正造は寺子屋も開き農業に努める中で副業藍玉商も営み3年で300両の利益を得た。
・慶応元(1865)年 住友財閥の前身の泉屋の大番頭広瀬宰平が別子銅山の支配人になり廃坑寸前の別子銅山の建て直しをした。
 ・慶応4(1868)年(明治元年)5月 正造28才の時(田中正造幼名兼三郎は阿蘇郡小中村(現佐野市小中町)名主の時)に領主の六角家に逆らい投獄される。六角家江戸屋敷の3尺四方の牢に在獄10か月と10日(林竹二による。赤上剛に拠れば11月出獄で7か月ともいう)。                      (1回目の入獄)。

反骨精神はこの頃よりある。維新の最中であり喧嘩両成敗で決着し、「一家残らず領分永の追放」処分。正造は対岸の堀米地蔵堂に一時独り住み寺子屋を開く。
拷問にも態度を変えず入獄中は毒殺を最も恐れて差し入れの鰹節で30日間飢えをしのいだという。
(六角家の林三郎兵衛なる代官になって、古来の自治村を壊して勝手に村役人を任命したり賄賂を要求したり江戸屋敷普請の使途不明金を要求したりの不正を行ったので正造は村の先頭に立って林らの悪政に逆らい、その悪政を領主・東征総督府・六角家本家の烏丸家・幕府などへ嘆願書を出したが幕末の混乱と領主の死で効を奏さず、そのような悪政を許してきた新領主は暗君とまで称し隠退させてその弟に家督相続させることを求める嘆願書を作成したが領主側に渡ってしまい六角家江戸屋敷の牢獄に入れられた。途中で本家烏丸家から吟味役が来て毒は入れないと保証したので断食を辞めた。六角家領主は引退・弟が家督相続・林は免職という申し渡しがあった。正造の訴えが全面的に認められた判決で結果的には勝訴といってよかった。この六角家事件を通して、正造は人民の「自治的好慣例」を守った。権力が人民の自治を無視するなら、それと徹底的に闘うことが正造にとっての人民の代表である名主の責任であった。死と隣り合わせの獄中生活を不屈の精神で耐え抜き、目的を達成したことは、幼い頃より名主としての心得をたたき込まれてきた正造にとって大きな自信となったという。この一身を犠牲にして人民のために闘うという精神は明治になっても引き継がれていった。)
・明治2年8月東京に出て学び友人の紹介で明治3年3月江刺県の分局(現鹿角市花輪)の下級役人になった。
・明治4(1871)年6月10日 正造31才、江刺県での上司木村新八郎の暗殺事件での冤罪による入獄。花輪→遠野→盛岡と獄を転々とし凍死や拷問を潜り抜けて(鞭打ち・算盤責め拷問などに耐え、死んだ囚人の服を借りて凍死を逃れた)、明治5年廃藩置県で江刺県を廃止して岩手県設置。明治6年新獄則が施行されて畳生活になり読書も可能になって盛岡の獄(岩手県令は島惟精だった)では入獄中に英国人スマイルズの翻訳本「西国立志編」を読んだ。この時に吃りを直し、西洋近代思想・政治・経済を学んだ。 
・明治7(1874)年 3月正造が入獄中に正造の母が死亡。岩手県令の島惟精が暗殺事件の見直しを行い殺された木村新八郎の息子が無罪を証明してくれて4月5日正造出獄・34才。出獄後約1か月は岩手県官吏の西山高久宅に引き取られ静養した。西山は、在獄中にも鶏卵2個を毎日差し入れる等面倒を見てくれた人であった。5月9日に迎えにきた叔父に伴われて正造は盛岡をあとにして故郷小中村に向かった。
5月、5年ぶりに故郷小中村に帰郷したが正造は既に義人として尊敬されていた。村の戸籍簿は既に処刑死亡となっていたが村人は温かく迎えてくれたという。田中正造は赤見村酒屋の蛭子屋の番頭をしたり塾を開いたりしたが、出獄後病気がちであった。在獄2年9か月(正造の日誌では3年と20日)。            (2回目の入獄)。

<明治7年1月17日板垣退助・後藤象二郎・江藤新平ら8人が「民選議院設立建白書」を提出して自由民権運動が始まり、明治7年~23年帝国議会が開設されるまで、全国的な自由民権運動が巻き起こった。過激な江藤新平は佐賀の乱を起こし明治7年4月13日大久保利通により見せしめに「斬首+晒し首」(梟首)の刑になった。自由党過激派に対する弾圧等で福島事件・加波山事件等も発生する。
民衆ではなく政府高官から発した自由民権運動は政府を悩ませて憲法草案も複数作られたが明治14年の政変により、大隈重信のイギリスの議院内閣制に倣った民主的な草案が反対されて大隈重信の罷免と共に10年後の国会開設が約束された(「岩倉具視の憲法構想」が明治14年7月に天皇へ上奏されており、その大綱領には欽定憲法たること・漸進主義をとること・プロシアをモデルとすること・内閣組織は議院と距離を保つこと・二院制の採用・選挙は制限選挙であることなどが既に決まっていたという)。明治14年10月板垣退助らが自由党を、翌4月に大隈重信らが立憲改進党を結成した。伊藤博文・岩倉具視らの天皇を絶対権力者としたプロシャ式の封建的な憲法草案が秘密裏に検討されていて明治22年2月11日日本帝国憲法公布され翌年11月29日施行された。第1回衆議院選挙が明治23年7月1日に行われ第1回帝国議会が同年11月29日の憲法施行日に開会した。
これに至るまでには明治元(1868)年政体書公布(太政官達第331号)で「太政官制」、明治14年明治天皇の「国会開設の詔」、明治18年「太政官達第69号」で「内閣官制」に移行、そして明治23(1890)年「国会開設」という経過を取る。>

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<<産業振興目的等による日本からの海外派遣の人々について:(幕末から明治憲法成立頃まで)   ( http://www.yunioshi.com/japanesepersons.html#chosyugoketsu ) 
○天正10(1582)~天正18(1590)年「天正遣欧少年使節」。(大友宗麟ら九州キリシタン大名が4人を送り、ポルトガル・スペイン・イタリア等訪問、グーテンベルク活版印刷機を持ち帰った。帰国後豊臣秀吉に謁見したがその前にバテレン追放令が既に出ていた。)
○慶長18(1613)年~元和(1620)年「慶長遣欧使節」。(支倉常長ら180余人が初めて太平洋大西洋横断してメキシコ・キューバ・スペイ・イタリア等訪問、逆経路で戻った。前年の1619年には禁教令が出ていて元和の大殉教が始まっていた。通商交渉は成功せず常長も失意の中で死去。)
○安政7(1860)年~9か月間「万延元年遣米使節」。(日米修好通商条約の批准書の交換のため主艦ポーハタン号および咸臨丸の日本外交使節団の米国訪問。ポーハタン号には正史新見豊前守、目付小栗上野介ら77人が乗り組み、随伴艦としての咸臨丸には勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎、小野友五郎ら98人が乗り組んだ。咸臨丸はホノルル経由で5か月後には帰国、使節団本体はパナマを横断して大西洋を北上してワシントン・ニューヨークに至り、大西洋を横断して世界一周し出発して9か月後に帰国。)
○文久元(1861)年~文久2年まで約1年間「文久遣欧使節」。(正史竹内下野守、福沢諭吉、福地源一郎ら36名。万延元年遣米使節をみたイギリスは修好通商条約による開港の延期や樺太国境画定交渉などを希望する幕府に協力した。セイロン・スエズ・カイロを経てロンドンでは第2回ロンドン万国博覧会の開会式にも参加し、往路と同じ復路で帰国した。計らずも駐日英国公使の私蔵品が展示されて非公式ながら万博に関与の嚆矢となり好評を得てジャポニズムの契機になった。)
○文久2(1862)年5月高杉晋作・五代友厚らが清国・上海に行きの幕府艦千歳丸に自主的に乗り込み、清国の内乱(太平天国の乱)や欧米の植民地化を目の当たりにする。
○文久2(1862)年~慶応3(1867)幕府は軍艦海陽丸の新造のオランダへの発注に伴い長崎出島の海軍伝習所から「榎本武揚・西周ら留学生15人も派遣」した。(現地での航海試験の後に大西洋・インド洋を経て150日かけて5年後にオランダから帰国した。オランダから幕府への海陽丸の引き渡し式は横浜で慶応3年5月20日に行われた。黒船来航で海軍力増強の必要性を痛感していた幕府は中古軍艦を各国から購入していたが新鋭艦もこの時手にすることが出来た。)
○文久3(1863)年~約6か月で帰国「横浜鎖港談判使節団」。(幕府がフランスに派遣した外交団、ナポレオン3世にも謁見した、鎖港交渉不成立、逆に現地で「パリ協定」を結んだが幕府は批准しなかった。使節団の帰国まもなく四国艦隊下関砲撃事件(2回目)が発生、長州は幕命に従ったのみと幕府のせいにして損害賠償責任を押し付けたがこれにより「言葉上の鎖国攘夷」とは裏腹に海外から新知識や技術の積極的導入と軍備軍制の近代化を推し進める方向に転換する。一方で宮中ではカウンタークーデターの「八月十八日の政変」が発生して朝廷から長州藩が排除された。
「長州五傑渡英」長州五傑も同じ頃1863~66年藩命で極秘に幕府の鎖国政策の中で渡英留学した。渡英直後に下関戦争1回目が勃発して伊藤・井上は半年で急いで翌年帰国して藩と外国との交渉に当たった。残る一部は5年後に帰国。)
○元治元(1864)年~明治7(1874)年 新島襄が函館からアメリカへ密航。(初めからキリスト教に興味をもって密航した。10年後の帰国時の資格は「日本伝道通信員」&#40;Corresponding member of the Japan)という宣教師としての身分であった。明治5年にはアメリカ訪問中の岩倉使節団に会う。使節団に参加していた田中不二麿の通訳として随行して欧米の教育制度を視察調査した。これは明治の教育制度の構築に大きな貢献をした。当初は密航者であった新島襄であったが初代駐米公使の森有礼が正式な留学生として認可した。アマースト大学ではW.S.クラークにも学び後に札幌農学校に赴任する契機の一つになった。)
○元治2(1865)年~1年後帰国「薩摩藩遣英使節団」。(五代友厚、森有礼・畠山義成ら19名が渡英。仇敵どうしの前記長州五傑とロンドンで遭遇していた。)
○慶応2(1866)年~明治元年 幕命により中村正直・川路寛堂・箕作圭吾・菊池大麓・市川盛三郎・林薫ら14名がイギリスに留学。(幕府崩壊で帰国。中村正直はサミュエル・スマイルズの『Self Help』の邦訳本『西国立志編』(別訳名『自助論』)を出版、福沢諭吉の「学問のすすめ」と共にベストロングセラーになった。菊池大麓は明治3年2度目のイギリス留学をしているがこの時ケンブリッジ大学の数学では現地学生に妬まれる程に常に首席であり数学・物理学の学士を取り卒業した初めての日本人として記録されている。 ( http://www.diverse.cam.ac.uk/stories/kikuchi/ ) 日露戦争で日本が勝った要因は教育にありと見抜いたイギリスは文部省の澤柳政太郎の代理で菊池大麓を招待し講演を依頼しその沢柳の資料に基づいた講演録は「日本の教育」としてロンドンで発行されている(D. Kikuchi, Jpanese Education,'Lectures Delivered in the University of London,J. Murray, 1909.)。)
○慶応3(1867)年1月~6月軍艦調達渡米団。(幕府軍艦調達のために小野友五郎・津田仙・福沢諭吉らが渡米してストーンウォール号(東艦)を購入した。この時福沢諭吉は仙台藩紀州藩から資金を預かり大量の書物等を購入した。)
○慶応3(1867)年第2回パリ万国博覧会。(徳川幕府・薩摩藩・佐賀藩・民間の瑞穂屋卯三郎らが別個に出品し公式参加であったが国としてのまとまりはなかった。特に薩摩藩は幕府と同等の雄藩であることを世界に植え付けようとした。幕府からは徳川昭武・渋沢栄一ら、薩摩藩から岩下方平ら、佐賀藩から佐野常民・石丸安世らが出席した。渋沢栄一は国内の産業振興だけでなく慈善社会事業・国際親善・海外支援活動等多彩な活動を行っており後年ノーベル平和賞の候補にもなっている。
 フランスは1800年代前半に国内博覧会は既に行っていたが国外への公表は自国に不利であると万博に否定的であったが1851年ロンドン万博の成功を見て産業振興・貿易に有効であると認識を変えていた。)
○明治2(1869)年6月西郷従道・山県有朋・大山巌らが渡欧。(木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、西郷従道らはフランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊し普仏戦争・造船所・武器工場等視察して翌明治3年3月アメリカ経由で横浜港に帰国。陸海軍の充実に貢献していく。)
○明治3(1870)年11月~7年10月大山巌が再び欧州再渡航。(明治6年のウイーン万博には8月の1か月で26回も訪れた。明治6年の政変で10月西郷が帰郷の途に着きこの知らせを受けて更に先輩の吉井友実が欧州まで迎えに来て大山巌は帰国することになる。大山巌は薩摩まで行き西郷隆盛の政権復帰の説得をするが不成功に終わる。)
○明治4(1871)年~明治6年「岩倉使節団」。(総勢170名で出発、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・福地源一郎や中江兆民・団琢磨・津田梅子・山川捨松・牧野伸顕らの留学組も多数いた。太平洋横断してアメリカ、大西洋横断して欧州各国、ウイーン万国博覧会も視察、スエズ運河、インド洋経由で帰国して世界一周となった。帰国後に明治6年の政変となる。ウイーン万博は日本国の公式参加の初回であったが特に神社・日本庭園・越前和紙等大いに好評を博し1862年ロンドン万博・1867年パリ万博以上にさらにジャポニズムに拍車がかかった。)
○明治4(1871)年~11年 東郷平八郎が本人希望でイギリスに官費留学。(帰国途上で西郷隆盛が西南戦争で自害したことを知り、自分がもし日本にいたら西郷と運命を共にしていたと言ってその死を悼んだという。)
○明治8(1875)年第1回文部省海外留学生が東京開成学校から11名が選ばれてハーバード大学に留学。(小村寿太郎・菊池武夫・斎藤修一郎ら)。(小村寿太郎は5年間米国滞在したが小柄ながら俊才でその能力には一目置かれていたという。欧州の大学に比べて米国の大学が優れている訳ではないと分かったという。)
○明治15(1882)年3月~伊藤博文らのヨーロッパ派遣。(伊藤博文らのヨーロッパ派遣は勅書によるもので立憲制度調査のために各国の憲法・皇室・議会・内閣・司法・地方制度など31か条の具体的な調査項目が示されていた。ドイツ・イギリス・オーストリア・ベルギーなど1年2か月に及んだ。随員は河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら。しかし新憲法の大枠は「岩倉具視の憲法構想」によって1年前に既に決まっていた?)
○明治15(1882)年11月~16年6月板垣退助らのヨーロッパ歴訪。(三井財閥の資金提供で板垣退助・後藤象二郎・今村和郎・栗原亮一らが議会制度や憲法調査目的でフランスなど欧州歴訪。この資金提供を巡って自由党立憲改進党の自由民権派どおしの潰し合いが発生、伊藤博文らは漁夫の利を得る(板垣は大和の豪農土倉庄三郎から資金提供を受けており三井から受け取ったのは後藤であって、金策は井上が行った。自由党は党内内紛とともに三菱と結びついた立憲改進党も攻撃した。)。板垣は名利を求めず権謀術数を用いない性分で質素生活を通し83歳で没。明治2年に創設された華族制度には反対していた退助は授爵の勅を2度断った後説諭され止むを得ず3度目に受爵したがその子孫は退助の「一代華族論」の意を汲んで死後の伯爵の襲爵を辞退した。)
○明治17(1884)年~24(1891)年 新渡戸稲造が私費でアメリカ留学。(帰国後札幌農学校に赴任するも夫婦で体調を崩し農学校を休職し米国カリフォルニアで転地療養中に1900年英文でBUSHIDO&#58; The Soul of Japan「武士道」を出版しベストセラーになる。各国語に翻訳されて1908年には日本語訳版「武士道」も出版された。1920~26年の7年間国際連盟事務次長を務めた。1933年日本が国際連盟脱退、同年失意の中で客死した。)
○明治17(1884)年~21年 内村鑑三が私費でアメリカ留学。(札幌農学校で洗礼を受けていて伝道師になろうと決めて故郷に戻り両親の反対の中某女史と明治17年3月結婚したものの半年で離婚、まもなく両親の勧めで同年11月にアメリカへ私費留学した。渡米したもののキリスト教国の現実を知って幻滅する。知的障害児養護学校で看護人として勤務する中で新渡戸稲造や佐伯理一郎そして新島襄にも出会う。明治18年9月新島襄の紹介でアマースト大学に入学し新島襄の恩師シーリーに会い感化されて伝道者の道を選択した。しかし現地の神学教育に失望して明治21年5月帰国した。(内村鑑三にはいくつかの英文著作があるが、著書Representative Men of Japan「代表的日本人」1908年、は祖国日本の素晴らしい特性を世界に披露することを目的に、既に1894年12月に刊行されていた「Japan and Japanese」の主要部分を訂正再販したものと本人が序文で述べている)。)
○明治19(1886)年~33(1900)年 南方熊楠が私費でアメリカ→イギリス留学。(多く論文をネイチャーに発表、驚異的な博物学的知識を有し幅広い交流もありロンドンでは亡命中の孫文との親交もあった。帰国翌年には孫文が和歌山の熊楠を訪ねている。粘菌の研究では昭和4年天皇に粘菌標本110点を献上した。)
○明治20(1887)年1月~21年6月 乃木希典と川上操六が政府命令でドイツ帝国へ留学。(森鴎外が明治17年~21年までドイツ留学していて乃木と現地で会っている。北里柴三郎も同じ頃(明治18~25年)ドイツに官費留学していた。北里は帰国後に東大の恩師の意見に異を唱えたが故に研究困難となり見兼ねた福沢諭吉が援助した。北里柴三郎は1901年第1回のノーベル賞候補に挙がったが共同研究者のベーリングのみが受賞した。宣伝不足の為であったという。)
○明治28(1895)年~永住。 大隈重信・勝海舟らの渡航援助で朝河 貫一がアメリカ留学。(エール大学大学院で英文の『大化の改新』を書き博士号取得、日本およびヨーロッパ封建史の世界的権威として知られ、日露戦争では日本を擁護する演説をアメリカ各地で行ったが、日露戦争後の日本の姿勢をみて日本に向けて警鐘を鳴らし明治42年「日本の禍機」を発行したが警鐘空しく第二次大戦に突入することになった。日本国籍のままアメリカで客死。)
○明治31(1898)年)~杉本 鉞子が婚約者と結婚のために渡米、26歳。(明治42年夫の事業失敗で一時帰国、夫が病没して再度渡米、英語で書いた自伝「A Daughter of the Samurai 武士の娘」は7か国語に翻訳されてベストセラーになった。コロンビア大学最初の日本女性講師で、7年間日本語と日本文化の講座を持ち、着物姿の先生として生徒からも慕われたという。 )  >>――――――――――――――

・明治10(1877)年2月~9月西南戦争。西南戦争で政府は紙幣を増発し、正造は物価高騰が起こることを見越して田畑を購入し六角家闘争で失った財力を取り戻したという。そしてこれを機に政治に専念することを決心したという。
3月渋沢栄一の口添えで古河市兵衛が足尾銅山を買い取り銅を飛躍的に増産するようになる。数年後には既に魚が死んで川に浮かんでいたという。明治12年には既に同10年の倍近くに銅増産があり同16年には14倍の増産になった。16),27)
・明治11年田中正造区会議員となる。この年田中正造は政治に一身をささげることを誓った(「田中正造の生涯」木下尚江著の中の『政治への発心』)。 
 同年渡良瀬川のアユが大量死したが原因不明という。
・明治12(1879)年 前年に府県会規則が制定されて、この年田中正造は第1回栃木県会議員選挙に立候補したが落選。並行して田中正造は栃木新聞(社主は斎藤清澄)を再刊行して編集長となり国会開設要望の論陣を張った。正造は明治14年末には毎日新聞記者の野村本之助を栃木新聞の社長に招聘したが、経営が苦しく明治15年には足利新報と合併、野村本之助は毎日新聞社に戻った。(その後の栃木新聞と正造の苦心については木下尚江著「田中正造の生涯」の『野村本之助の回想録』に詳述がある)。
・明治13(1880)年 2月第1回栃木県会議員選挙では辞退者が相次ぎ田中正造は関根彦十郎辞任の補欠選挙に立候補して県会議員に初回当選した(栃木県史資料編)。
・同年12月、栃木県令藤川為親が渡良瀬川の魚族は衛生に害あるにより一切捕獲することを禁ずとの県令を出す。(原因は不明であったが洪水のたびに魚が浮かび洪水が流れ込んだ井戸水を飲めば下痢をする等あったためで、明治20年頃から足尾銅山鉱毒によるものと皆気付き始めたが、その前に既に藤川県令は維新政府の怒りに触れ明治16年10月島根県令に左遷されて後任は福島事件で悪名高い三島通庸が任命されて着任した―板倉町史。)(田中正造と共に鉱毒事件に奔走していた松本英一翁と郷土史家の萩原進氏との対談では、明治23年初めて堤防が切れてその後毎年切れて、それまで川からの肥料分で良く穫れていた麦が葉の色が黄色くなるようになってきていつの間にか穫れなくなったという)。
・明治14年の政変。大隈重信は前年13年に会計検査院を創設して慶應義塾出身者を会計検査院に起用していたが、「大隈は福澤一派と結託して政権を奪い取ろうとしている」との流言が生じて犬養毅ら大隈派が下野したことも要因だったという。福澤諭吉の葬儀では福澤家は献花を断っていたが大隈からの献花に対しては黙って受け取ったという。伊藤博文ら薩長勢と対立しかつ失政もあり明治14年(1881年)10月12日参議を免官、10月15日付で大隈重信は辞表を提出した。
 同年 足尾銅山の鉱山で古河市兵衛の甥の長木村長兵衛が大鉱脈を発見した。
・明治15(1882)年 梁田郡朝倉村「地誌編輯材料取調書」に「魚ハ鮎・鮠多ク居リタレトモ明治15年頃ヨリ足尾銅山工事開設以来右魚類更ニ相見エサリキ」とある。梁田郡の長祐之らによる鉱毒運動の口火と言う(明治20年の東京専門学校の行政学討論に繋がる)。
この年前年の政変で伊藤博文らにより政府を追放された大隈重信は3月「立憲改進党」を結成10月「東京専門学校」を開設し、福沢諭吉も正確な情報発信のために3月「時事新報」を創刊した。田中正造もこの年に立憲改進党に入党し党員数は栃木県が全国1位になったという。東京専門学校と田中正造の関わりはこの頃からと思われる。
・明治16(1883)年12月栃木県令に三島通庸が福島県令のまま兼任で赴任した。赴任前より暴君の噂高く栃木県においても有無を言わせぬ暴政を行った。正造自伝「田中正造昔話」に詳しい記述がある。
・明治17(1884)年 下野新聞に「樹木が昨暮以来枯れ凋む」と発表された。
・同年3月県会を無視した宇都宮への県庁舎移転・土木工事等の三島通庸県令の一方的行政に対して反対運動を開始。元々声の大きい田中正造が議会での激しい攻撃に、さすがの三島通庸も議場から逃げ出すほどの剣幕でその暴挙を責めたてたが、三島通庸は刺客を送り込んできたため一時危険を感じて東京に逃れたりしながら三島通庸の残虐さを証明する証拠集めに奔走していた。
同年9月23日加波山事件が発生。加波山事件は三島通庸は徹底的に民権運動を弾圧したための自由党員の暗殺未遂事件であり正造には無関係であったがその一味であるとでっち上げられた。正造は刺客から逃れながら東京の警視庁に名乗り出た。栃木県に護送する任務を果たすという担当課長に対し、正造が「それは困る、栃木県には法律がない、田中正造は三島の乱暴に反抗している、その無法律の栃木県に送られれば彼らは必ず事を構えて正造を死地に陥れるは鏡にかけてみるよりも明らかである、まずこの証拠を見られよ」と説明しようとすると、その警視庁の担当課長は遮っての問答の最後に「足下知らずや、わが大日本帝国の治下、尺寸の地といえども無法律の所無きを、その点は十分保証してあげます」と述べ、正造は「貴官の言、必ず責任あらん」と言って証拠物件の保存を託して護送に応じたが、しかしこの約束は守られなかった(悪気はなくともこの世の常ならん)。
同年10月田中正造は栃木県に送られて加波山事件にかこつけて無実ながら投獄された。正造は獄中からも三島への対決文を支持者に送り続けた。
・12月23日出獄(在獄70日、3回目の入獄)。
出獄して釈放されたときは、三島通庸が内務省への転勤直後であったため三島免官の英雄として県民の歓呼に迎えられたという。三島はその後に警視総監まで栄転した(三島の悪評は中央にも流れていたが、三島のバックには常に伊藤博文がいた。正造自伝によれば三条実美らの閣議で三島処分の議を開き可否同数であり漸く三条公の意で決したという)。田中正造は2年後に県会議長に選ばれ衆議院議員に当選するまで務めた。
加波山事件の1か月後には秩父事件も起きて14000人が捕縛されたという。
(府県会規則(太政官布告)が明治12年1月に出て6月には第1回福島県会が開催されていたが明治15年の福島事件の如く権限が弱く県会が議決しても内務省の一言で三島通庸県令が引っ繰り返し反対するものは国事犯で捕まえ拷問等で獄死者も出た。第1回栃木県会も同様早く明治12年4月には開催されているが第1回群馬県会開催は遅く8年後の明治30年4月である(と群馬県史通史編7にあるが既に明治12年4月30日「群馬新誌」新聞に群馬県会が楫取素彦県令により開催されたとある。何れもこの頃の県会の立場は弱く県会決議をしても内務大臣の意向で再議に付しそれでも改めない場合は県令が取り消すことが出来た。そして藩閥政治がなお横行していた。)
・明治18(1885)年 朝野新聞に「未曽有の香魚大量死、足尾銅山より丹礬の気の流出が原因か」と発表された。
・明治19(1886)年 田中正造46才、5度目の県会議員当選、県会議長となり、以後明治19~23年まで2期議長を務めた。
・明治20(1887)年 栃木県5か村群馬県4か村が組んで古河市兵衛と示談交渉始まる。邑楽郡海老瀬村1村だけが単独示談に応じてしまったという。
 同年秋東京専門学校生徒の長祐之(梁田村)および須永金三郎(梁田村)が行政学討論として初めて鉱毒問題を論じたという。田中正造が鉱毒被害に興味を持つのはその4年後である。
 (鉱毒被害初期の告発者である長祐之や須永金三郎は、衆議院議員選挙において木村半兵衛の地盤の梁田郡であり、阿蘇郡地盤の田中正造とは1議席を争った宿敵であったので、 田中正造からは木村派の者達は裏切り者のように見なされ、鉱毒運動でも分裂して敵のように扱われて「古河の奴隷、犬」などと一方的に罵倒されて鉱毒運動の歴史舞台から忘れられてしまったという。木村派に属した梁田地区は鉱毒被害の初期から最も悲惨な被害が出ていた所であった。梁田郡は梁田村・山辺村・久野村等の数か村からなり後に足利郡に合併。鉱毒出現前は河川氾濫があってもその栄養を取り込み土壌豊かな農業の土地柄であったが鉱毒被害の発生してからは当初から深刻な打撃を受けていた。)
 同年 住友の愛媛別子銅山も煙害が発生していて農民騒動が発生していた。欧米の最新技術を学んで帰国していた別子銅山技師長塩野門之助は住友総理の広瀬宰平と衝突してこの年退職し足尾銅山に就職した。この頃足尾銅山は殖産興業の代表格になっていて生糸に次ぐ第二の輸出品になっていた。塩野門之助はこの足尾でも総責任者の木村長兵衛と衝突するようになったが辞めさせられず1893年になってベッセマ転炉を完成してから足尾銅山を退職した。
・明治21(1888)年 渡良瀬川の漁民数は7年前の四分の一に減少した。
・明治22(1889)年 2月11日、日本に初めて憲法「大日本帝国憲法」が公布された(藩閥官僚の三島通庸のような強引に力でねじ伏せるような暴政は徐々に消滅していくことになる)。田中正造も発布式典に県会議長として参列した。(この時のエピソードで、県会議長は予定では拝観の席に着く筈だったのを田中正造が人民の代表たるものを拝観とは何事ぞと県会議長たちを説き廻り一致団結して抗議をして急遽参列席に政府が改めたという。)翌年初の衆議院選挙および国会開設となる。(明治22年大日本帝国憲法が発布、明治天皇公布、自らを国家統治者として元首の地位に就き、1年後に議会を開設する宣明をし、明治23年11月天皇の名のもとに第一回帝国議会が召集された。このニュースは世界に打電され、「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」では「大君(将軍)の国がミカド(天皇)の国に代わって開かれた議会」と報じられた。先立つ同年7月の初回衆議院選挙は立候補の被選挙権資格は国に納める税金15円以上の30歳以上の男子(選挙権は同じく税金15円以上25歳以上の男子)、帝国議会衆議院に集まった代議士は計290名(300名中)、尾崎行雄(32歳・三重選出)、犬養毅(35歳・岡山選出)、田中正造(49歳・栃木選出)、中江兆民(42歳・大坂選出)、植木枝盛(33歳・高知選出)らがいた。)
 この頃、政府は足尾銅山付近の官林7600町歩を古河市兵衛に、その他の官林3700町歩を下都賀郡長の安生順四郎に安価で払い下げたという。(これにより江戸以来の水源涵養林が乱伐に向かったとされる)。 
・明治23(1890)年 1月27日の郵便報知新聞が初めて「渡良瀬川に魚族断つ」との題名記事で「・・・その毒なることを発見し・・・」等大々的に世に訴えた。この頃より鉱毒問題が社会に表面化して来る。1) 
この時に栃木県側足利・阿蘇・梁田3郡から古河市兵衛に鉱業停止の談判が行われ、群馬県側は大島村小山孝八郎方に宿泊して左部彦次郎が渡良瀬川水質調査を実施した―板倉町史通史下巻。
・同年4月栃木県知事が被害地を視察して農科大学に被害調査を依頼し、群馬県も7月農科大学と農商務省に被害調査と除毒法研究を依頼した。
・同年、農商務省農事試験場が設立され澤野淳が初代場長になる。澤野淳は排水による農耕地改良案を持っていた。谷中村初代村長大野孫右衛門は明治23年の水利組合発足を機に排水事業を計画し同5月の村議会でその起債を決議するも内務省が不承認。
(その後明治27年旧下都賀郡長安生順四郎と組んで村債を発行するなどして10年に亘り排水事業を行うも失敗、村民に過大な借金を残す「谷中村排水機設置問題」が生じて、明治37年12月村長村議員総辞職そして栃木県が谷中村買収案可決。谷中村廃村の理由の一つになったという12)。怒りに任せて一気に書き上げたという谷中村滅亡史では「安生の奸計」と誹謗している。息子で谷中村最後の村長大野東一も古河鉱業寄りだと当時非難された。一方国の第2次鉱毒委員会は前年明治36年3月3日の報告書で貯水池化の方針が確定していた。)
・同年7月1日第1回衆議院議員選挙が初めて行われて国会が開設された。田中正造50才は栃木3区より立候補して初当選。この第1回選挙だけで選挙費用3485円かかり「驚くべき散財なり」と本人が記している。西南戦争の時の土地売買で手にした一生暮らせるという3000円が1回の選挙で吹っ飛んだことになる。以後明治34年10月13日自主辞職まで連続6回衆院当選。栃木県会議員の時から引き続き大隈重信らの立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党に属していたが10年後の明治33年国会で亡国大演説中に離党した。
・同年8月10日の下野新聞が「足尾薪炭夫の暴行」を報道した。明治17年以来の煙害・乱伐採等で苦境に陥った薪炭夫300余名が銅山会社に押しかけ暴行に及び宥めに入った松木某巡査をも暴行して頭部へ負傷せしめたとの報道で、労働問題でも先駆けて起こっている(明治39年には坑夫の足尾暴動事件が発生する)。 
・同年8月23日渡良瀬川沿岸の大水害発生鉱毒水氾濫(坑木用等での木々の伐採により保水能力の減弱、土砂の流失による川床上昇による洪水であり、この年初めて堤防が決壊し以後毎年決壊するようになり、鉱毒被害もそれに伴い一気に拡大して行ったという)。
・同年11月26日の東京日日新聞が「足尾銅山に関する紛紜」と題して、足尾銅山鉱場より流来る・・5郡結合して其筋に上申し若し聴かれずば法廷へも持出すべき決心の模様ありと云ふ。」と農民たちの怒りを伝えた(早稲田百年史)。
・同年12月18日足利郡吾妻村は臨時村会を開き「足尾銅山鉱業停止」の上申書を栃木県知事に提出、栃木県会も同月鉱毒除害の建議を県知事に提出した。『田中正造翁余禄上』
・同年12月政府の鉱山局長が足尾銅山視察。(この時既に粉鉱採集器を購入して予防装置を実施していたと1年後の田中正造の国会質問への回答での言い逃れに言っているが予防装置ではない。) 
・明治24(1891)年
・同年2月6日栃木県立病院長新井準二郎により泥土分析が行われ3月5日鉱毒によると報告された。(明治23年にも宇都宮病院調剤局長の大沢が毛野村の流水分析を行い飲用に適さないと指摘している。明治25年には古在・長岡も被害土壌の分析をして鉱毒によるものと指摘している。)
・同年2月梁田郡の河島伊三郎により雑誌「足尾之鉱毒」第1号創刊されるも直ちに発禁。
・同年3月9日新田山田邑楽水利土功会が通常総会を開催し「足尾実況取調の議」を可決して鉱毒問題に真剣に取り組む姿勢を示し東京帝国大学丹波敬三博士に分析を依頼する等本格的な鉱毒調査にも入った。(鉱山側も現地被害者と直接交渉しようとしていて予防処置もしているという鉱山側の代理人の口車に乗ってしまい、その後の示談「足尾銅山主古河市兵衛契約書」に明治25年4月1日応じてしまう。約束の「除害施設」もなされぬままのちに長く尾を引く問題になる。鉱山側の誠意の無さが根本原因だが除害施設とは何たるかを双方知らずに言葉に納得してしまった)。
・同年3月19日 群馬県会が鉱毒防止の建議書可決。群馬県会に於いて地元邑楽郡出身の小島文六議員らが足尾鉱毒問題の議案を提出し可決されて3月20日付で県会議長名で建議書が群馬県知事あてに提出されたが、実態の動きは見られず放任無視されていたという。(萩原進氏はこの冷淡な態度は総て本省の指示によることを原則とした官僚政治の一面を現しているとしている、が人事のゴタゴタもあるか?)。この時の県知事(明治19年に県令から県知事に呼称変更)は佐藤 與三で公娼廃止延期令を出して県会で知事辞職勧告をされ可決されて同4月9日辞職、同日から中村元雄に交代、中村元雄が同24年に公娼廃止令を公布した。
・同年4月 群馬県新田・山田両郡下渡良瀬川沿岸青年有志らが農商務省地質調査局に鉱毒の正体解明のための学術調査を依頼したが時の政府に拒否された。しかし同4月23日付で農科大学古在由直教授に被害地の土を持って依頼し古在は私人として同年6月1日付で「被害の原因は銅の化合物にある」との回答をした。同じ頃栃木県側では梁田・足利郡の有志9名による民間の調査会が設けられ長祐之・小山作太郎・中山勝作が委員に選出され後に明治23年の被害報告書が出されパンフレット「足尾銅山鉱毒―渡良瀬川沿岸被害情報」続いて雑誌「足尾の鉱毒」が刊行されたがどちらも発禁処分になった。それらの被害査定を基に明治25年3月より示談交渉が始まる。
・同年5月 栃木県吾妻村・梁田村・毛野村3村の有志が農科大学の古在由直らに土壌分析を依頼した。この時吾妻村長亀田佐平は直接古在を訪ねて依頼し古在から不偏不党の科学的分析をするので心配して訪ね来る必要はないと諭している。
同6月に梁田村の長祐之らが「足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情」発行し鉱毒が原因だと報告するも直ちに発禁(内務省告示第32号明治24年7月14日内務大臣)。
・同年7月左部彦次郎が東京専門学校を卒業後(川俣事件予審調書に拠れば鉱毒問題は在学中に知り)直ちに現地に赴き、被害地大島村の親戚小山孝八郎宅に身を寄せて綿密な鉱毒被害調査をした。そして田中正造の指示ではなく「全く自分一己の考でしたこと」とある。彦次郎に翌明治25年1月の被害地4村からの感謝状が出た。
 同月吾妻村など栃木県足利・梁田郡9ヶ村は鉱業停止を目的とする鉱毒被害町村有志会を結成した。群馬県山田・新田・邑楽郡も組織的連合を目指したという。 
・同年9月田中正造が初めて鉱毒被害地を視察。
同月栃木県知事が古河市兵衛側と示談交渉の仲介を通達した。吾妻村など足利・梁田郡9ヶ村は鉱業停止から示談補償側に転じ、鉱業停止側・示談補償側の対立が生じた。吾妻村亀田佐平は2か月前は先駆的な鉱業停止要求を打ち出していた。 
・同年12月 東京帝国大学丹波啓三博士が待・矢場両堰用水組合(太田市)の依頼で鉱毒被害を科学的に分析して「足尾銅山の丹礬」がその元凶であると12月8日報告した。
・同年12月18日第2回帝国議会において田中正造が「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問」を提出して同24日25日と2回に亘って壇上で政府を攻撃した。政府の回答は答弁ではなく官報紙上で、鉱毒の原因は不明、政府から明治23年12月鉱山局長その後さらに本年2月~8月にかけて3回技術者を現地派遣して調査していて結論は出ていないが、原因は不明ながら既に粉鉱採集器設置の予防措置も行っていると時の農商務大臣陸奥宗光名で回答した(陸奥宗光の次男潤吉は古河市兵衛の養子になっていた)。一方で被害地では県知事や議員の仲介で金銭示談の交渉が既に進められていた。
 同年12月26日衆議院解散。翌年2月15日第2回選挙で田中正造当選。
・同年12月28日群馬県南4か村(海老瀬・大島・渡瀬・西谷田)が独自に鉱毒除害並に採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に提出(田中正造の手代左部彦次郎氏が助力して、と市沢音右衛門日記の鉱毒示談記録にある)。
・明治25(1892)年1月15日 被害激甚地の邑楽郡四村から左部彦次郎宛に「左部彦次郎君の尽力により明治24年12月28日に鉱毒除害並に採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に提出するに至れり」との趣旨で感謝状が出されている。このことは明治25年2月発行の同攻会雑誌第11号の「近時辺々」欄にて「校友左部氏感謝状を受く」と題していち早く学苑内に伝えられた。
 同年1月28日予戒令発布。選挙に大干渉あり、死傷者約400、5月21日には保安条例施行されて東京退去命令143名。
・同年2月10日付東京日日新聞の政府和田鉱山局長の意見として「・・・足尾銅山より生ずる公利は被害地の損害より遥に大にして充分に損害賠償に依って取消し得らるべきものなり・・・」と国家的見地の利益の方が一被害地の損害よりも優先するという当時の政府見解は現代にも通じる問題であろうと萩原進氏は述べている。1)
・同年2月15日田中正造衆議院選挙当選。
・同年2月22日付で栃木県内務部が「渡良瀬川沿岸被害原因調査ニ関スル農科大学ノ報告」を出版。足尾鉱毒被害の事実を行政府が初めて認めた歴史記録とされるがなぜか急速に色褪せて行ったという。中央政府の意向が地方政府に十分浸透していないことを示すともいうが、この年栃木県知事も足尾官林の伐採防止のために保安林に編入するよう国に求めている。同月栃木県知事折田平内は県会議員と謀って仲裁会を組織した。(この頃既に国・県・地元とも公私ともに鉱害が銅山に依ることを概略理解していたにも係らず、それ以上の大きな力が働いていて抑え込まれていたことを示している。)
・同年3月末より政府行政ルートによって銅山と被害民との示談が始まる。同27年には会社はこれを永久示談に切り替えることに狂奔し始めた―「田中正造の生涯」林竹二著。
・同年4月1日群馬県側地元と古河市兵衛との間で「足尾銅山主古河市兵衛契約書」が一定の条件のもとに示談成立、8月23日には栃木県側地元とも示談成立という(第1次示談)。明治25年4月27日の東京日日新聞では「足尾鉱毒事件で古河市兵衛8千円を提供せんとす・・・」とある。1)
同年5月12日足尾鉱毒被害民代表50人余が政府に陳情のため上京した。
同年6月13日第3回帝国議会で田中正造が「農商務大臣の答弁に付質問書」を提出、翌14日質問演説。この時の答弁は「・・被害の原因たることは試験の結果によりて之を認めたり、然れども足尾銅山の鉱業を停止すべきの程度にあらず」と河野農相が行った。
(内務省から地方行政ルートに乗せて示談を推進する作業は25年3月24日付栃木県知事から各郡長宛てに指令が出された。田中正造が国会で追及せんとする頃既に官側は裏で示談に手を出しており、栃木県は同3月知事主導で仲裁会を組織して示談が進み8月4日には仮調印が行われた。交渉への不満の猶予も与えず「来る明治29年6月30日までは苦情を言わぬこと」等の一方的な示談になってしまったという。新型の採鉱器と鉱毒防止機器の区別もつかず、無知ゆえの鉱毒防止努力をしているとの勘違いを官民双方がしていて結局鉱害はむしろ悪化して行き示談の在り方の間違いに気付くのは後の事である。この時点では明治34年3月24日の第15帝国議会で島田三郎が正造への贐に暴露した如く採鉱器は鉱毒予防とは無関係であることを政府が保証するという欺瞞に被害民は誰も気付かなかった(「田中正造の生涯」林竹二著)。栃木県側・群馬県側別々に示談交渉は進んだ。示談交渉は双方とも満足が出来ないまま日清戦争前の緊張下にあり「古河鉱業は査定もせずに言われるままに巨額の金額を支出した」と会社側の肩を持った新聞「東京日日新聞」明治30年4月16日版もあった。示談交渉の欺瞞性に被害民たちが気付き鉱毒被害側が「鉱業停止要求」一つに被害民全体が纏るのは日清戦争(明治27.7~28.4)が終わり示談契約期限が終了する明治29年になってからである。(国会での鉱毒問題が明治25年5月を最後に表面に出なくなったのは、示談があったこと・議会解散が頻繁だったこと・日清戦争で内紛を差し控えたためという。田中正造は明治25年以降は頻繁に自分の選挙区である鉱毒被害地の栃木三区を訪れて被害の実態を把握するように努めていて明治30年には大凡その整理を終えたという(足尾銅山鉱毒被害種類参考書?)。その後明治30年2月26日の第10帝国議会に於いて久しぶりの田中正造の鉱毒事件の演説が出る。)
今では当たり前の公害における人命尊重の優先という考え方が当時は社会全体の繁栄を優先すべきか公害を根本的に解決できなければ操業停止もやむを得ないか、という選択の複雑な関わり合いの問題が既に出現していたにも拘らず殖産興業と言う明治政府のスローガンが優先されたことは容易に想像されるという。
萩原進氏はこの明治24~25年を鉱毒事件の第1期としている。
・明治26(1893)年6月6日 左部彦次郎の先妻はん死亡24才、幼子2人は祖母のもとで育てられ祖母没後は東京の彦次郎姉夫婦に引き取られたという。
・同年示談契約(第1回)は総ての地区で完結、6月30日足尾銅山に粉鉱採集器を設置し3年間が試験期間(この間異議を申し立てないとの示談内容だったという)。
・同年6月4日前年1月に左部彦次郎に感謝状を贈った4村長が発起人となり両毛鉱毒倶楽部を設け田中正造らを招いて向後の運動方針を講究する事に衆議一致したが演説した者は全員改進党員で近来同地方では稀なる盛会だった(明治26年6月9日付毎日新聞)。
・同年7月~8月田中正造は渡良瀬川沿岸の群馬県邑楽郡22か町村を巡回し8月28日には田中代議士の慰労会を館林町金松楼にて開催し全員が田中代議士の運動を称賛した(明治26年9月1日付毎日新聞)。
・明治27(1894)年 東京専門学校を卒業した左部彦次郎は帰郷してこの年奈良村の初代消防頭を勤めた。
 陸奥宗光や古河市兵衛と親しい下都賀郡長の安生順四郎が排水機を買い入れて谷中村に設置した。
 同年3月第3回衆議院選挙正造当選。同年9月第4回衆議院選挙正造当選。
同年8月1日~28年4月17日日清戦争、下関条約で終結勝利した。この間戦時下で銅増産は至上命令で被害の声はかき消された。この戦争は日本にとって最初の対外戦争であったが朝鮮独立と東洋の平和を唱えていたので国内の知識人や政治家で批判するものは殆ど無く、10年後の日露戦争およびその後の戦争には反対したキリスト教会牧師の柏木義円さえも「朝鮮の独立支那の進歩は東洋の平和を促さん」(同志社文学明治27年8月1日)として戦争を受け入れていたという。
・明治28(1895)年3月 被害民と古河市兵衛との永久示談契約が進展。
同年8月田中正造の読売新聞連載自伝「旧夢譚」が小冊子「田中正造昔話」として刊行。
同年10月 栃木県・群馬県の両知事の連名で内務大臣・農商務大臣宛ての予防措置を求める上申書が提出された。この時既に足尾の官有林を伐採禁にして銅山の予防工事の必要性にも言及している。同12月の群馬県会の議論は慎重派・鉱業停止過激派等様々で結局うやむやになってしまったという。
・明治29(1896)年 3月14日 左部彦次郎は群馬県会議員選挙に立候補して落選、隣村の松井八十吉を支持した本家の左部街三郎寛忠(俳号三舟)らと身内騒動を起こし恐喝事件として双方4人が入牢。
・同年3月25日第9回帝国議会に於いて田中正造が永久示談の不当性を追求した。 
・同年7月21日渡良瀬川大洪水。
・同年9月8日1再び渡良瀬川大洪水、1府5県に及ぶ関東大洪水となった。鉱毒水による大氾濫は人口52万人、戸数12万戸、反別10万町歩、に及んだ(野口春蔵調べ)。
古河鉱業と鉱毒事件地元との明治25年の示談の際向こう3カ年は意義を申し立てないという条項が無効になったために再契約の調査中に、渡良瀬川流域に大災害が再び2回襲った。農産物も漁業も壊滅的惨状でこれを契機にバラバラだった被害民運動が統一されて田中正造も事の重大さに目覚め以後一生を鉱毒運動に尽くすことになったとされる。(それまで代議士選挙でも争った田中正造支持派の仲裁会と木村半兵衛支持派の査定会が互いに相手を敵視し合って争って田中は示談反対論を主張していたがこの年の大洪水以降は鉱業停止で一本化されたという。足利・梁田・阿蘇三郡で衆議院議員定員1を争った。)(日清戦争が始まる頃でもあり示談が強制されていて村々が示談に流されていたので示談契約の欺瞞性に気付き鉱業停止で一本化するまでは逆に梁田郡久野村の岩崎佐十ら5戸の示談拒否農民は明治25~29年までは村八分状態であったという。)
・同年10月5日示談契約の欺瞞性に気付いた被害民たちは鉱毒問題の根本解決を期して雲龍寺に近隣10か村が集まり群馬栃木両県の足尾銅山鉱業停止請願事務所を設立した(地元民は複数の名称で呼んでいたという)。田中正造が早川田の雲龍寺を鉱毒請願事務所に借り受けた。
一部の再示談の可能性を考えていた仲裁委員の横尾輝吉らは宇都宮に仲裁会を開いたが示談折衝決裂を承知で被害民側がわざと高額要求して折衝は行き詰まり被害民たちは雲龍寺の事務所に次々に靡いて行った。田中正造は蓼沼丈吉宛の手紙で横尾輝吉たちを「・・・横尾輝吉他数名の者、古河の委嘱を受け金銭をもって請願者を瞞着せん・・・仮にも示談仲裁等のごとき腰抜不節操の挙動・・・」&#40;明治29年12月3日付)と強い口調で非難している。
・同年11月2日邑楽郡渡瀬村の雲龍寺にて群馬栃木両県関係者有志50余名が集まり第1回協議会が開催され、①徹頭徹尾鉱毒問題解決の運動実行、②終始一貫すること、③如何なる困難にも挫折しないこと、④鉱毒区域の指導啓発遊説をなすこと、⑤被害民中裏切るものは徳義的制裁を加えること、⑥右条項の確保のため「茲に一死を以て精神的契約を為す」という精神的契約書を調印した(雲龍寺に統一の鉱毒事務所が開設された)。以後毎月例会を開き不穏な動きも漂い館林警察署も密かに情勢探索していたという。その後農民密会の場所として集団示威強行も含む事件の中心となって行く。この時はまだ旧梁田郡(既に足利郡に合併)からは田中派の久野村だけが参加していて木村派の数か村は参加していない。4県百か村に跨る精神的凝集の核になるのは後の事と言う。田中正造の日記に拠れば旧梁田郡全村が示談ではなく鉱業停止請願に決まったのは同年9月27日といい、最初期より鉱毒被害が認識され最も被害が甚大であった梁田郡全域の態度が鉱毒停止に決まったのは鉱毒運動の流れを決する重要な出来事であったという。
・同年12月、それまでの日和見群馬県会も予想以上の惨害が発生したので放任できなくなり、操業停止の内務大臣宛ての建議書が群馬県会でも賛成多数で採択された。(明治29年12月6日付朝日新聞に「鉱毒問題・・群馬県会に於いて某々議員より内務大臣に対し営業停止の処分を建議せんとの建議案を出し多数の賛成を得て可決・・」とある。)
国の当局者も洪水被害に加えて竹木草苔枯れ田畑は荒廃地となり被害報告の大きさに驚き、かつ地元からの嘆願書も翌明治30年初めにかけて多く出された。 
・明治30(1997)年2月24日第10回帝国議会に正造が「公益に有害の鉱業を停止せざるに付質問書」を提出、同26日質問演説した。3月15,17日にも政府の答弁を促す演説を行った。田中正造の質問内容は「政府が主導して示談推進工作をして鉱毒は今後流さないからと政府が保証したから被害民も安心して明治25年の短期間で全被害町村で示談契約を結んだのにその後も鉱毒は流れ続き、明治27年の洪水で毒が流れたら知事とその部下たちが欺瞞に溢れた方法で被害民を騙して永久示談契約に結び直してしまった」との主旨の政府の示談工作への追及であった。翌18日漸く政府は官が間に入って示談を成立させた等の答弁を行ったが被害民と企業側が勝手に契約を結んだので政府は関知しないと言わんばかりの回答のその誠意の無さに被害民は激昂した。鉱毒地一帯が忽ち殺気立って大挙上京の用意が始まったという(この時の内閣は松方内閣であったが外務大臣大隈重信・農商務大臣榎本武揚で田中正造も与党進歩党であった。)
 同年2月28日東京で初めて鉱毒被害演説会が開かれた(演者は高橋秀臣・松村介石・津田仙・田中正造・島田三郎)。
・同年3月2日第10回帝国議会開催中に政府当局の放任に激昂した渡良瀬川沿岸罹災の人民2千余名による鉱業停止請願の集団示威運動が起きた(第1回押し出し)。そのうち700余名は深夜上京して早朝6時に日比谷が原に集合し、陳情しようとしたがこれは不成功に終った。
・同年3月13日 政党人による足尾銅山鉱毒停止期成同盟会発足。関係4県の総代等諸氏50余名及び貴衆両議員・県会議員らが呉服橋外栁屋に集合して、足尾銅山鉱業停止を達成することを目的とし達成するまでやめないこと等を決議した(明治30年3月16日毎日新聞)。 
上京後の政府当局の処理がはかばかしくない為3月下旬には再度上京の企てが議せられた。
同年3月23日の夜5-6日分の弁当持参で雲龍寺に3800名程が集合し警察の目を避けるようにして3-4日がかりで野宿しながら散々にして突然に日比谷が原に数百名の被害民が現れたという(第2回押し出し)。この時は野口春蔵・谷元八らは大蔵省・内務省に陳情に行ったが被害地調査委員が任命されたことを聞き小数を残して200名以上の多人数が帰途に就いた(明治30年3月31日付毎日新聞)。新聞の報道は終始被害民側での論陣を張る毎日新聞、中立的立場で抑々鉱毒被害の有無から疑う論陣を張る東京日々新聞等様々であったという。
時を同じくして3月20日谷干城・津田仙・栗原彦三郎が、3月23日榎本武揚農商務大臣・板野技師が被害地を視察した。 時の農商務大臣であった榎本武揚は聞きしに勝る惨状を知って傷心を抱いて帰京し、その足で大隈重信邸を訪ねたという(翌日鉱毒調査会の新設と委員任命が発表された。榎本が大隈を説得したという)。3月18日の言い訳答弁書を出しながらも榎本武揚は被害地視察後に責任を感じて3月30日農商務大臣を辞任し大隈が外務・農商務を兼任することになった。 
第1回押し出し(=集団請願運動)、および第2次押し出し。
・同年3月24日(第10回帝国議会最終日)この日も帝国議会の演壇に立って田中正造は政府を追及していたが、多数の議員は他人事で速記録には(笑い声起こる)とあるという。3月18日の政府の「示談契約が出来てしまったのだから鉱毒問題はもう片付いた」との答弁に対して田中正造は激怒し「この答弁書の有様を以て残酷なる愚かなる何とも名づけようもない政府であると断念し、もはや政府は頼まない」と正造は議会で言い切った。
同日に内閣に足尾鉱毒調査委員会(第一次)が設置された。5日後に榎本武揚は辞職し交代して大隈重信が農商務大臣になった。
・同年3月30日 神田美土代町青年会館にて鉱毒事件演説会があり、聴衆600余名、弁士は田中正造・栗原彦三郎・高橋秀臣・津田仙・谷千城らで慷慨悲憤の演説が続いた(明治30年4月1日付毎日新聞)。
鉱毒調査会ははじめ「操業停止」と「予防工事命令」の両者が挙がったがその後5月27日には後者で決着した(翌年の第3回押し出しに繋がる)。榎本農商務大臣は被害地をみて鉱毒調査委員会を立ち上げ辞職したがこの時鉱業停止に腹が決まっており閣議の結論も停止に決まっていたという。それを引っ繰り返したのが鉱毒調査委員の渡辺渡工学博士だったという。渡辺渡は古河の技術顧問をしており委員としても足尾銅山を視察して鉱毒の垂れ流しをみており防除施設の不備を逆に利用した。改善の余地があるので出来るだけ改善の努力をしてその結果を見てから停止するかどうかを決めれば良いと主張したという。一見正論に見えるこの意見が委員会を停止ではなく予防の方向に動かしたという。(「田中正造の生涯」林竹二著)。
田中正造は大八車に鉱毒土を積んで運び早稲田の大隈邸に運び込み大隈自慢の庭にぶちまけたという。偶々不在であった大隈は立腹して明治15年以来の交友関係をこの時から絶ったという(明治31年6月27日の正造日記に「・・昨夏大磯にて大隈伯と喧嘩す、故に絶交す。・・」とあるがこれとは別か?)。
・同年4月18日田中正造は農商務省次官大石正巳に操業停止の直談判をして、世論も紛糾していたが正造の盟友島田三郎は毎日新聞社説で操業停止に反対し、正造が師と仰ぐ福沢諭吉も同年4月13日時事新報の社説「内務大臣の視察」にて『専門家が調査し判断すべきで素人の大臣が視察するのは害にしかならない、被害民が多人数で政府に陳情するなど文明国にあるまじきことで断然排斥すべきだ云々・・と言い、大石正巳農商務次官は鉱山閉鎖に傾きかけた意見が福沢先生の意見で変わったと言い、5月27日結局操業停止ではなく鉱毒予防工事命令が出た。正造は島田三郎・福沢諭吉ら尊敬する友人達からも足を引っ張られていたことになる。
・同年5月19日鉱毒委員会に期待するのは無理であるという風評が流れ始め山田郡4カ町村の総代数十名が委員長に陳情のために上京してきた。3班に分けて陳情することになったが大隈・樺山両大臣には会うことが出来た。「具体的な話はなかったが「2両日中に何分の解決がある筈だから安心されたい」と言われて官邸を辞した。
・同年5月27日政府は東京鉱山監督署長南挺三名で被害民待望の足尾銅山鉱毒排除工事命令を出した。(榎本農相が辞任して設置されたばかりの鉱毒調査会委員や樺山内相も鉱毒地を視察し発せられたこの期限付き工事命令は一見厳しく古河市兵衛も突貫工事に努めて完成し鉱毒問題も解決に向かうとの大方の期待が世論に流れたが工事の検証も為されず世論の関心も薄れていた同年9月に洪水と鉱毒被害が再び発生し、被害民の政府・鉱業側への不信は極度に達した。なぜか南挺三は工事が終わると古河市兵衛の番頭(足尾鉱山所長)となってしまったという。検証の無い排除命令が如何に杜撰になるかを示す例である。林竹二は「田中正造の生涯」の中で、国がただ一度だけ本気で鉱毒問題を解決する意思を示しこの鉱毒予防命令は鉱業停止を狙っていたものとみている。帝国議会への失望の中でこれは田中正造にも僅かの希望を灯した出来事であったという。しかし後に明治34年3月22日の第15回帝国議会での島田三郎への政府答弁が要領を得ない事への田中正造からの質問書で、予防命令措置が逆に「悪事を働かしむるの器械となり」予防ではなく「国土亡滅被害民撲滅の手段」になってしまった、と正造は指弾し、しかも政府は鉱毒が止まないのを治水問題にすり替えてしまい更にそのすり替え作業を正造直訴後の第二次鉱毒調査委員会にさせた結果となった)。
同年6月1日鉱業停止命令ではなく鉱毒防御命令であることに憤慨して栗原彦三郎ら代表8人が大隈重信邸を訪れたが、大隈の意見は「・・その結果を見ずに突然鉱業停止するわけにはいかぬ。・・」だったという。一時平穏を取り戻し古河市兵衛の態度を見守ることになったが停止命令ではなく鉱害排除命令なので会社もそれなりの努力を示すが被害は続く。
これまでを萩原進氏は鉱毒事件の第2期としている。示談契約明けの次期示談交渉中でもありそれまで運動もばらばらであったのが明治29年の大洪水の大惨事をきっかけに示談派地主層も含めた多数の村々が「鉱業停止派に転換するようになり」雲龍寺に明治29年10月に開設された鉱毒事務所が核となり鉱業停止への大きな組織的結集に向かっていく。
・同年8月21日付「足尾銅山鉱毒既往の損害に関する陳情書」が内務・大蔵・農商務3大臣に鉱毒被害地在京委員室田忠七らにより提出され、明治30年8月22日毎日新聞に全文が掲載された。
・同年9月再び大洪水発生、これまで目先の局面打開のみに終始していてた県会・政府に対して水害と鉱毒被害は益々深刻化していった。一方で当時の公民権は租税2円以上納めないと公民権を失うとされていて県町村会議会議員の職を失職するものが続発し複雑な様相を呈して来たという。
・同年12月15日付朝日新聞に「一昨13日の群馬県会は満場一致を以て左の二建議案を可決したり前者は内務大臣に宛て後者は県知事に宛てたるものなり」と前年同様に建議案を提出し、鉱毒除害の方法を求め不可の時は選鉱停止・森林伐採の禁止・砂防工事堤防工事は鉱主が補償すること等を求めた記事が出た。
・明治31(1898)年1月2日田中正造は大磯の大隈邸を訪れ、「・・鉱毒談忽ち座上を破りて大勢のため追ひ出される」と日記に記した。この時に一匹狼としての活動を会得したのだろうという(早稲田百年史)。
 (明治31年1月6日の正造日記には鉱毒地宿泊中に鉱毒運動の現状を問われて「・・29年7月より11月までは正造1人なり、30年2月は3千4千の同志あり、6~10月までは又3―4人の同志となり、爾来少数の運動となれり。正造孤立となる事再三にして、或いは目的を達するに至らざるならん。・・」と呵々と笑いたり、とある。)
 同年3月第5回衆議院選挙、正造当選。
・4月30日大蔵省による鉱毒被害民への免租処分通達で該当者が公民権喪失した。
同年6月6日正造は「邦内の一国に比すべき戸口を有する土地に対し鉱毒加害処分を果たさざる儀に付質問」を提出説明演説した。8月には再び解散第6回総選挙、正造当選。
・同年6月 被害民の鉱毒東京事務所の谷元八が「手助けしてくれ」と左部彦次郎を訊ねてきた(田村紀雄「渡良瀬の思想史」風媒社p248)。左部彦次郎はこれ以降鉱毒被害運動の参謀長役として八面六臂の活躍をするようになった。議会質問資料調査や質問要旨は青年彦次郎の手によって作成されたという(池田村史)。
・6月30日~10月31日田中正造の属する政党の大隈重信内閣(隈板内閣)が成立するも4ヶ月で崩壊、11月8日山県内閣なる。大隈らは8月12日にはアメリカのハワイ併合に対してアメリカ大統領マッキンリーに対して極めて厳しい非難文書を送り外交危機に至るほどであったという。
(アメリカとはその後第二次大戦までは何かと利害関係が対立しやすく、第一次大戦後の講和会議等でも日英仏伊米の5大国に日本がいるのを煙たがり日英同盟を廃止させてしまった。当時の英首相は「・・これを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」と言ったという。この頃日本が提案した国際連盟規約起草における「人種的差別撤廃提案」も否決されてしまった。アメリカ国内では黒人が日本に感謝の意を表明したが否決されたことにより多くの都市で暴動が起きたという。この頃は世界的にも人種差別から政策的に脱することができていなかった。)
・同年9月3日及び7日再び洪水発生。世間の注目を集め政府の本気度と被害民とに大きな期待を持たせた前年の鉱毒予防工事も何の役にも立たなかった。
・9月25日雲龍寺に1万3千余人の憤激した被害民が集まり東京を目指した。巡査が行く手を阻む中5-6千人が利根川を渡り、東京府芝区芝口の鉱毒事務所にいた田中正造と左部彦次郎は9月28日午前1時過ぎ途中まで迎えに出て東京府下南足立郡淵江村保木間(現足立区保木間町)で遭遇、その氷川神社に到着した陳情民は総数3千人程であった。興奮している陳情民を休憩させて淵江村長に頼み炊き出し食事をさせ、午後2時頃田中正造が激越な演説を行い、代表50人だけが入京することになったという(この時被害民を氷川神社に集め「保木間の誓い」とも言われる「多勢入京せらるるは不可なり」と憲法の請願権は集団を予定していないので集団示威行動は不賛成との正造の考えで人数制限をしたという彦次郎は「足下万一間違ヘバ被害民ニクビヲ取ラレル」とそんなことを言って責任を取れるのかと正造に詰め寄ったという。(田中正造の日記には9月30日、総代50人、農商務に至る。大臣違約不逢。秘書拒絶。総代号泣すと。・・左部氏正造に云ふ、「足下万一間違へば被害民に首を取られる」と、答、「間違いなし」と。又曰く「やりそこねたら」、「否そこねぬ」と答ふ。と記されている(『田中正造之生涯』)。この時は正造の盟友大隈重信が首相の隈板内閣だった。)。二手に分かれて各省に陳情に行ったが大臣には会えず「野郎共事件」という侮辱まで受けた。左部彦次郎と須永金次郎両人が侮辱を詰問すべく責任者に面会を2日に亘って求めるも叶わなかったという。田中正造は保木間の押し出しで農民の大挙入京を思いとどまらせた経過を10月11日「政府及び被害民に対し、正造ほか同志の責任」との覚書にして板垣内相に渡しこれはのちに議会に提出されたという。しかし周りの政治家たちは猟官熱の焦々が如きものあり故に三千の被害民を説きて功とせり(官職を得ようと功を焦って被害民を返しただけだとの意か)との情けない捉え方だったという。もっとも田中正造は保木間の誓いを演説した時は既に隈板内閣に期待してはいなかったという。(田中正造の生涯林竹二著)。
・同年10月31日付の毎日新聞には鉱毒被害の惨状「栃木県渡良瀬川附近は去る7日の大洪水に今なお減水に至らずして沿岸村々の民家は床上まで浸水しあるの惨状にて、田園には採って食用に充つる作物なく家にはこれより来年麦作まで支ふるの食物なく唯に食物なきのみならず飲料水すら悉く混入のため近傍親戚故旧等より樽詰めにて送り来り。過般滞京と定まりたる50名の総代も、進んで当路の大臣に訴ふるの問題は極めて至難なるに顧みれば、家族の飢餓を如何ともする能わず、止むを得ず一先づ2-3名の総代を残して帰郷せしめ、残り3名の総代は各自憲政党総務委員を訪いたるに、皆大いに同情を寄せられたりと。」が載って現状を伝えた。
 同年12月10日正造は2通の質問書に付演説、同16日鉱毒質問中に軍人を攻撃したとのことで懲罰委員会に付せられて1週間の出席停止に処せられた。この時に正造が詠んだ詩「死なば死ね、殺さば殺せ、死んだ世に殺さるるとてかなしくもなし」が日記にある。罰の軽減の斡旋を受けることさえ恥として断っている。
第3回押し出しおよび保木間の誓い。
大騒動をしても大きな進展を見せなかったこの時期までを萩原進氏は鉱毒事件の第3期という。
・明治32(1899)年2月24日「被害民の保護を受くる請願」が初めて衆議院通過、引き続いて貴族院も通過した。
同年3月6日議員歳費値上げ案の反対討論を行った。
同10日第13回帝国議会延長会終了時に田中正造が歳費辞退した。地租増徴案に反対し議員歳費増加案にも反対の進歩党は反対演説を誰に依頼するかの相談をして田中正造に白羽の矢が当たったという。賛成演説を自由党星亨が行い進歩党島田三郎が反論した。125対134の9票差で可決された。議員歳費増加案についてはさすがに自由党内にも従来からの主張と違うと恥辱とする者もいたため星亨は「議員の歳費は辞退することを得ず」とあった法律を「辞することを得」と修正して賛成に回らせたという。 
同8日貴族院でも19票差で可決した。法案は即時実行されるので10日の議会閉会の日に各議員は増加された歳費の半分を受け取って門を出て行ったが田中正造唯独り辞退した。
同4月19日歳費辞退届書を衆議院議長に提出し一時書記官が受け取りを拒否したが正造の強い申し入れで間もなく受理された。各議員・各政党・世論・新聞等から賞賛・皮肉・妬み・貶め・邪推等の様々な論評が渦巻いた。
(隈板内閣が前年11月倒れて出来た薩長閥の山県内閣は自由党の板垣退助・星亨と提携して地租増徴案を提案し合わせて議員歳費増加案を提案した。自由党・進歩党共に本来減税派であったので対応に困り党総務は田中正造に反対演説を頼んだ。3月6日反対演説を行ったが僅差で両増加案が通過した。反対派の議員たち含め他議員全員は増加歳費をそのまま受け取って帰ったが田中正造唯一人増加歳費を辞退した。星亨は議員達を安心させるために従来の議院法も「議員の歳費は辞することを得ず」を修正して「辞することを得」と変更していた。そして田中への誹謗「田中の歳費辞退は名聞の為だ」が却って進歩党(憲政本党)の中に起こったという。左部彦次郎は同年5月著作「田中正造翁:歳費辞退」を出版した。明治34年7月24日の彦次郎宛の田中正造書簡に「・・辞退ノコトハ当時真ニ此理を有するものたるをしるもの少きハ、実ニ残念ニてありし。貴下独り偶之を解して其説を為せり・・」と自分の理解者として正造は感謝している。彦次郎はこの著作は田中翁の感知するものでなく自己の責で発行したとあとがきで言っている。)。
<田中正造は自叙伝で、自身の小中村は「古来の自治村」であり「名主は村内百姓の公選に依りて挙げられこれに村内の一切の公務を委ね、且つ非常の権力を授けて村費臨時費の徴収及び支払等悉くその意に一任し以てこれが決算報告をなさしむるにすぎず。然れども一方において総代組頭等は年暮れの決算報告会にはその出納を検査監督して一点の私局を挟ましめざるの制である」、と述べ、既に行われていたこれを自治的好慣例とした。
それに対して藩閥政治を持ち込んだ明治政府は藩レベルの権力支配構造を国レベルに押し上げただけであり、村の自治的慣行を無視するならば藩の権力に逆らったように、明治政府にも徹底して逆らう、という権力の前に泣き寝入りはしないという強い意志を持っていたという、「田中正造の生涯」林竹二著。藩レベルの権力構造で成り立つ政治と人民の政治は異なり、士族的民権運動はステレオパイプの発想から抜け出せず、藩閥的政治観から脱却できなかった故の不幸が明治の民権運動が進まなかった理由であるとしている。渡辺崋山も当時の良識家の一人であるが賞賛する酒井村村長彦八が「収斂を行う殿様は取り替えたらこそよかるべし」と言い放つのを聞き驚愕して狗にも劣ると非難した。武士階級のヒユーマニスト崋山もこの種の士道への囚われから抜けられなかったとも述べている。
人民という被支配層の考え方と士族と言う既得中間支配層の考え方は異なっていた。
田中正造のように自己生存のための既得権も平気で捨てられる者は滅多にいない。江戸時代に於いてはこのような自治政治を既に行っていたのが普通で、権力乱用の悪徳名主の村はむしろ少なかったのではないかと思う。>
・3月22日 邑楽郡長より群馬県知事あてに「足尾銅山鉱業停止の義に付再建議」されている。問題未解決のまま明治32年の年明けを迎えている。
・同年10月8日またまた洪水。この頃から被害関係者は交渉のやり方をまず邑楽郡長に直接交渉して攻め県庁には郡長を通して情報連絡させるようにしたが、同年4月1日雲龍寺での会議にてこの運動方法を田中正造が指示した為と言う(これからは鉱毒についての運動は郡役所だけにして県庁や出京はしないことにしたい。何故なら我々は郡長の仕事をしてやるようなもので却って我々が骨が折れて彼らを遊ばせて置くようなものであるからこれからは郡長に運動させるということにしたいと指示したという)。この年群馬県会は建議案は一つも出なかった。
 年末の冬期休暇に東京専門学校の講師阿部磯雄ら数人は現地調査を続けていたという。
・明治33(1900)年1月4日 雲龍寺での鉱毒委員会において連合9か村長を選び専任委員及び青年部の結成を発表した。同年1月18日雲龍寺事務所に僧侶18名その他280余名が集まり鉱毒被害非命者の施餓鬼施行した後左部彦次郎の先導で青年百余名と鉱毒悲歌を歌って鼓舞した、と館林警察署の記録にある。鉱毒悲歌は明治31年秋の上京時にも歌われたが、明治33年の鉱毒悲歌は内容が一変していて運動の精神的拠り所として足尾鉱毒だけの鼓舞歌を創作したもので革命歌であったという。萩原進氏の持つ原本には「鉱毒被害惨状の悲歌 悟毒海居士述」とあり左部彦次郎としていて、池田村史にも左部彦次郎作として載っている(明治33年8月28日館林警察署長の告発で出版法違反で出版人は罰金処分になった)。
・同年1月21日には青年行動隊結成を決死隊と名付けた。この時茂呂近助(谷中村下宮)は谷中村第6代村長に選ばれていた。同年2月4日雲龍寺に於いて上京繰り出しの大挙準備役員、上京員等を選出したが左部彦次郎ほか数十人の名前が館林警察署に記録に載っている。翌日熊谷郡長に陳情書(26カ村連名)が出されたが却下されたために同年同月12日雲龍寺に百名ほど集まり出京の決心を固めた。左部彦次郎、永島与八、野口春蔵ら危激な煽動を行いその決心を固からしめたという。館林警察署も他署の応援を受けて180余名体制及び憲兵10名で警戒に当たった。
同年2月13日 陳情民の大行進と警察隊との衝突「川俣事件」となった。(この川俣事件は前年明治32年9月より計画されて長い準備の元に決起下ものという&#40;田村紀雄))。
青年行動隊=川俣事件=第4回押し出し。
2500余名(毎日新聞では15000人)の大行進が雲龍寺を午前8時半出発した。14-5百名程が川俣(群馬県明和村)まで到着し一部暴力も使われしが抗しきれず午後6時雲龍寺に向かって引き上げたという。広報では警官は帯剣を麻縄で緊縛しており抜剣した者なく、憲兵も負傷なく、警官、人民共に軽負傷15名ほどのみであったという。しかし新聞に依れば被害民の多くは警官の抜剣した者を見たり、衝突現場での警官の殴打はやむを得ないとしても解散後の無抵抗者にも警官の殴打・目や口に泥を押し入れたり・警官数人で手足を取って水中に投げ入れたり・乱打・罵詈等甚だしく無抵抗の被害民の反攻する無きを路傍で見ていた父老はその意気地なきを憤慨していたという。雲龍寺事務所は閉鎖されて百余名の警官が同寺に詰めて帰り来る被害者は警官に暴行殴打されたりして一人も入れなかったという。永島与八、左部彦次郎、野口春蔵らまず8名がまず捕縛されさらに追加して計68名が前橋監獄署に送られた。7月9日前橋地方裁判所予審結審にて51名起訴、暴動首魁として左部彦次郎・野口春蔵・稲村与市・大出喜平・山本栄四郎5人は予審にて重罪となり裁判に付されたが上訴して明治35年3月15日東京控訴院にて無罪、検事は上告したが同年5月12日棄却されて無罪が確定した。福沢諭吉が創刊した時事新報(明治35年3月16日)にその詳細を報道している。大部分が有罪を取り消されて無罪か罰金刑になったこの判決は「名判決」として報道された。
(田中正造が押し出しを自ら肯定したのはこの時だけでしかも死者仇討ちの理屈が建つ「上京請願は1064人という非命の死者数にせよ」との意見だったといい基本的には憲法順守精神を貫く人であり、それ以外の押し出しは田中正造の意に反して流れで生じてしまったものと言う)。
同年2月9日正造は帝国議会で「足尾銅山鉱毒問題の請願に関する質問書」の説明演壇に立った。同13日にも再度演壇に立った。この朝川俣事件が起きていた。
同年2月10日治安維持法公布。
同年2月14日川俣事件を知った田中正造は第14回帝国議会で「政府自ら多年憲法を破毀し先には毒を以て今は官吏を以て人民を殺傷した・・」と政府の責任を追及した。
2月15日田中正造(60才)は鉱毒被害者の代表の議員であると宣言して憲政本党を脱党した(木下尚江は政党間争いの具にされるのを恐れて脱党したと解釈している)。同じ党員で毎日新聞社主の島田三郎議員は真相解明のため木下尚江を特派した。
2月17日田中正造の亡国演説「亡国に至るを知らざれば、これ即ち亡国の儀に付質問書、民を殺すは国家を殺すなり。・・」があった。同21日政府は「質問の旨趣、其要領を得ず、依て答弁せず。右及答弁也。内閣総理大臣侯爵山県有朋。」との答弁書を出した。田中正造はこの時に議員辞職宣言をしているが辞めるのは1年後の3月24日第15回帝国議会閉会日においてである(辞表提出は更にその半年後明治34年10月13日である)。
2月19日正造は当該議会5度目の登壇で「良民の請願を見て兇徒と為すの儀に付質問」を読み上げた。更に同23日には23通の質問書を提出して6度目の登壇をした。
2月23日第14回帝国議会閉会後まもなく田中正造は毎日新聞社を訪ね、そこで野村本之助の紹介で初めて木下尚江(毎日新聞社主島田三郎に勧められて渡良瀬沿岸や足尾の山の現地見聞記を連載していた頃)に会う。これ以降木下尚江は田中正造に深く関わることになる。
明治32~34年を萩原進氏は鉱毒事件第4期としている。
同年7月21日神田青年会館で鉱毒調査会有志会が組織された(谷干城・厳本善治・安部磯雄・花井卓蔵・三宅雄二郎ら21名)。
・同年8月2日洪水発生。同士が捕縛されて士気が衰えたが田中正造は積極的に政談集会や演説会を各地で開き事の完遂までは断じて皆戦えと沈滞した雰囲気を鼓舞して回った。
・同年7月9日予審が半年近くかかって結審。
同年11月28日前橋の第15回公判で検事論告中に大あくびをして官吏侮辱罪に問われる。
・同年12月22日前橋地方裁判所川俣事件第一審の判決、有罪29名・無罪22名、双方控訴した。
・明治34(1901)年3月14日島田三郎らが「足尾銅山鉱毒の件に関し院議を空しくせし処置に対する質問書」を提出。
同3月22日正造は病躯を押して登壇「大村・島田両代議士への答弁要領を得ざる儀に付質問」等7つの質問書を提出して論じた。
3月24日田中正造は第15回帝国議会閉会日に衆議院議員を全くの独断で突然に辞職宣言した(木下尚江に依れば「訣別の思いを込めて議会最後の演説をした」と解釈している。代議士の名義は川俣事件の鉱毒地臨検50人余り判事・検事・鑑定人・弁護士・新聞記者らが帰京する10月13日まで保持してから議員辞表を提出した)。
 <この第15回帝国議会で島田三郎は政府に対する2つの暴露演説を行った。鉱害予防措置と政府が公言していた粉鉱採集器は鉱害予防のための機械ではない事を判っていたこと、鉱滓と捨石流失は止むを得ず洪水で流失したものではなく捨て場に困った企業側が洪水に合わせて密かに川に意図的に流していたこと、の2つである。しかしこの暴露があっても政府の鉱毒調査会は鉱毒解決を治水のみに求めて企業も動かず議会も動かなかったという。正造もこの演説を聞いていたはずである。林竹二は正造への贐だったのだろうと言っている。「田中正造の生涯」林竹二著)。しかし島田三郎も鉱業停止を支持せず殖産興業を優先していた。>
・4月21日 内村鑑三・木下尚江らも足利で鉱毒演説会を開いている。
・6月21日から10日間ばかり内村鑑三・田中正造らが鉱毒調査有志会の委員として鉱毒地を視察した。
この年群馬県会は建儀もなく積極的な動きはなく11月の通常県会も鉱毒問題には沈黙してしまったという。これは実地検証のために東京控訴院の判検事が直接現地に来たり大蔵省も実地調査をしていて県庁は単なる中間機関となり地元と政府との直接交渉に陥ってしまったために「栃木群馬二県庁を廃止の動議。檄して日本帝国国民に告ぐ」という主張が現れて群馬栃木二県の為すべき無能ぶりの批判があった事情にもよるとされる。政府の無為、県庁の無能が叫ばれ逆に民衆の間から鉱毒問題救済の声が挙げられてきた。
・同年10月13日川俣事件控訴審での判事・検事・弁護士らが被害地を臨検した。
・同年11月27日都下学生有志600名程が正造の案内で鉱毒地視察した。
・同年11月29日夜に神田基督教青年会館にて鉱毒問題の演説会が開催された。聴衆に多くの感動を呼ぶ中で、この時古河市兵衛の妻のタメ(為子)の侍女がタメの命でメモを執っている処を木下尚江が感心しながら見ていた。翌日明け方タメが神田川に身を投げて自殺したのを知って驚いた木下尚江に依れば、メモを基に逐一侍女がタメに報告した所タメは目を閉じて溜息をつき涙が濽々と流れるのも覚えない有様であったという(早稲田大学百年史足尾鉱毒事件の項)。
・同年11月30日古河市兵衛の妻タメが神田川で入水自殺(精神病に罹っていたとも言われるが前記が実態と感ぜられる)。
・ 同年12月10日田中正造が第16回帝国議会開催式の帰途の明治天皇に直訴するも途中で遮られ失敗。
・同年12月12日内村鑑三、孝徳秋水らが東京神田で足尾鉱毒講演会を開く。
・同年12月27日東京学生1100余名が大挙して鉱毒地視察した。
同年下半期は鉱毒問題は大きな社会問題となり、東京にても救援物資、義捐金募集、現地に診療所設置、貧困児童の東京保護寮に受け入れ、鉱毒地救済婦人会の慈善事業、などが行われた。(萩原進氏は昭和36年キリスト教婦人矯風会の東京西大久保の慈愛館に収容されたことのある3人を見つけ出し様子を聞こうとしたが、皆口をつぐみ東京に行ったことも認めず貧乏人の女子として収容されたという世間体を恥じて誰にも語らなかったことを知ったという。たとえ生活が苦しくても子供は帰りたがり親も連れ戻したいということで4ヶ月くらいで翌年4月には被害地に戻ってしまったという。慈善事業の在り方の難しさでもあり、幸せは物や形では得られないものが有る事を示している。)同年12月10日孝徳秋水に依頼した草稿を加筆訂正した直訴状を携えて帝国議会開院式後の天皇陛下御還幸の途次虎の門内で車駕に向かって直訴を行った(直訴状は11月12日には草稿は既に出来ていて2人で一緒に何度も推敲していたという)。拘束されて失敗に終わったが間もなく内務大臣により直訴状は上奏された。田中正造は謹奏状を「御馬車の窓に投げ入れてその場に刺殺される積もりなりしが投げ入れることも出来ず殺されもせざりしは遺憾なり」と悔やんだという。田中正造が麹町警察署に引致されるや左部彦次郎らは差し入れをした(保釈中)。間もなく越後屋に帰宿を許されたが内村鑑三ら多くの見舞客が引きも切らなかったという。(明治34年12月11日付朝日新聞は「田中正造は昨日麹町警察署に於いて・・昨夜7時30分田中氏の身の上を気遣い正午頃より麹町署に詰め切り居たる鉱毒事件の被告左部彦次郎に田中氏を引き渡され左部他3名と共に麹町署を出で人力車にて芝口2丁目なる鉱毒事務所越中屋へ引き取り・・」とある。同新聞に、直訴の前日の田中正造の様子を左部彦次郎は「・・を聞きて尤もなり充分にやり遂げねばならぬとてしきりに涙を流し袂より手拭を取出して目を拭いたり左部は数年彼と近接し居れども未だ一度も涙を流したるを見たる事なきに何を感ぜしやと少しく訝かりたるも別に気にも留めず午後7時二人相共に芝口2丁目の旅人宿越中屋へ帰り彼は下座敷に左部は二階の事務室に入りて寝に就き昨朝は顔洗場にて両人顔を合せて平生の如く話し別室にて食事を済ませしが田中は程なく外出したり又例の運動ならんと思い・・」と言い、また「代議士を辞せる時も何人にも相談せざりしが此度も一人にて決行したりとは知らる警官の訊問に対しては只死を賭して此行に出でたりと答えたる由・・」、「尾○栄吉左部彦次郎の両人は塩谷弁護士と共に麹町署に到り平生小遣をも所持し居らざればとて小遣銭として5円を差し入れたり弁当は麹町署にて上等弁当を与えたり」、との記事が載っている。
直訴2日後の明治34年12月12日付朝日新聞には「左部の劇忙。左部彦次郎は鉱毒事件を一身に引き受け左なきだに繁忙の身なるに此の事件を生じて百事其の指揮を要する上一作日は麹町署に出頭して差入れを為し事務所に取残したる田中氏の水薬を取り寄せ或いは同夜留置の用意を為すなど辛労子の父に於けるが如く、一昨朝より昨日まで寝食の暇なきに流石の左部も大いに疲労せしが昨日は又公判にて之を医するの暇あらざりき」との記事がある。これは田中正造への左部彦次郎の姿勢を具現化した風景である。さらに同日の別紙面には田中氏の談話として「・・不敬たるは固より之を知る然れども今日の事只だ此非常手段の外に訴願の途なきを如何せん、殊に上訴の事の如き之を議院内に於いてせば至尊に近づき奉るを得て便宜甚だ多きを知る然れども一たび斯かる異例を敢えてせん乎、其の事の容易なるが故に薄志弱行の徒時に或いは之に習うの後弊を胎す無きを保せず故に予は議員の職を辞して以て鹵簿を冒し奉りたる所以なり願わくは微意の存する所を察せよ云々」とある。これは武士道の気骨に通じる田中正造の姿勢である。)
(また直訴の翌日、のちの酪農学園大学と雪印乳業の創始者の黒沢酉蔵は足尾鉱毒事件の田中正造氏のその正義感と人間愛に深い感銘を受け当時16才で面会に行ったという。
正造の足尾銅山閉鎖すべしとの主張は、当時の殖産興国の風潮の中では大方が閉鎖すべきでないとの意見を持っていたので酉蔵少年も正造のこの主張は極論過ぎると思っていたが、若い酉蔵少年に田中正造氏は人間にとって国土がいかに大切かを優しく語り、酉蔵少年は以後4年間にわたり田中正造の元で助手として働いた。この間「反対運動よりも示談が得策だ」とする農民を説得しようとして逮捕・投獄され6ヶ月間の未決拘留の後に無罪放免されたがこの獄中での聖書との出会いがその後の酉蔵少年の人生に大きな影響を与えた。晩年になって黒沢はようやく正造の主張の正しさを理解したと述懐しているという。)
同年12月14日司法大臣からの指令により狂人として不起訴となり直訴状も本人に戻された。(直訴状の草案については孝徳秋水に依頼する前に左部彦次郎に頼んでいたともされる。根拠は「田中正造翁余禄」の共に巣鴨を訪ねる途中で田中正造から島田宗三が聞いた話、娘大場春江の「正造翁が直訴した文案も父の稿になるものだと私は聞かされている。考えてみると父は可成り筆のたった人らしい・・・」(残照の中で)との記録、そして田中正造の明治36年6月29日の日記「麹町11-22 斎藤うた 左部氏の母 支配人 上奏の時餅一備」にあるという)。同年12月27日東京府下の学生1000人余が大挙して木下尚江・内村鑑三らが引率して鉱毒被害地研修旅行名目で激甚被害地の海老瀬村・谷中村を視察した―板倉町史(東都学生被害地大視察団)。
・同年12月 松木村(足尾町字松木、現日光市松木渓谷)廃村。(明治17年頃より酸性雨による木の立ち枯れが始まり明治29年の山火事を契機として禿山が再生しなくなり桑も農産物も育たなくなり産業が成り立たず田中正造ら足尾鉱毒被害救済会が仲介して全村を足尾銅山側に売却、星野金次郎1名を残して契約が完結し村民は村を去り無人化した(田中正造の養女ツルの夫山田友次郎は任されてその買収問題に関与して妥協したとして正造の逆鱗に触れたが正造の死の直前にやっと和解できた)。同じ時頃松木村に隣接する久蔵村・仁田元村も廃村となった。後に谷中村も廃村になる。二次世界大戦後星野親子もひっそり村を去り1200年の歴史のある村が静かに幕を閉じたという。)
萩原進氏は明治34年を鉱毒事件の転換期としている。
・明治35(1902)年1月7日文部省は学生の鉱毒地救済運動を禁止する、と各大学・専門学校に訓令を出した。この時文部大臣・東京府知事は全面禁止の方針を出したが帝大総長山川健次郎は学生の行動を容認した。
この年、内務省は秘密裏に谷中村・利島村・川辺村の遊水地計画を練り始め、1月には早くも埼玉県利島村・河辺村両村に遊水地反対運動がおこったという。
・1月15日 館林町に邑楽郡各町村が集まり帝国議会請願のための協議し各地で説明会を開催。
・同年1月19日雲龍寺に学生が180名余り大挙して来て小学校校庭で鉱毒停止のため大挙して上京せよと木下尚江・内村鑑三・安部磯雄らが煽動的演説をした。
・同年1月31日群馬県雲龍寺と栃木県舟津川に被害民らそれぞれ400人、計800名余が鉱毒地視察名目で集まったが警察の説得により解散した。
・同年2月19日夜11時頃婦人100余名うち途中警察に食い止められなかった17名の陳情団が意表をついて入京した―板倉町史。青年部と共に隠密裏に婦人部も結成していたという。警察は威圧を加えて追い返そうとしたが婦人たちは容易に受け入れず御礼のために上京するに何の差し支えあるべきかと着京した。川俣事件で青年部が潰された後の婦人隊の出現は意外に功を奏し社会の関心を向けるに充分であったという。 婦人陳情団=第5回押し出し。
・同年3月15日川俣事件の控訴審の判決で総て無罪か罰金という名判決が出たが両者上訴して、同年12月25日には予想外の結末で裁判不成立として全員無罪となった。
・同年3月17日政府による鉱毒調査委員会(第二次)が設置された。この第二次鉱毒調査委員会は前年の直訴事件で捲起った世論を鎮めるために政府が設置して、明治30年の第一次鉱毒調査委員会の予防命令でも鉱毒問題は全く解決せず、もはや鉱業停止しても解決しないので治水問題にすり替えることが目的だったという(林竹二)。
・同年6月16日 2年前の前橋地方裁判所での川俣事件の青年たち51名の公判の傍聴中にあくびをして官吏侮辱罪に問われていた田中正造の有罪が確定して、正造が巣鴨監獄に入獄した(41日間投獄、この時初めて差し入れられた新約聖書を読んだ。6月16日~同年7月26日保釈で出獄)。この時盟友の内村鑑三は「田中正造翁の入獄」と万朝報(明治35年6月21日付)に署名入りで入獄非難の投稿している。田中正造は控訴して有罪を取消し明治40年6月13日無罪となったがそれまで5年かかった。
・同年8月9日利根・渡良瀬両川洪水、谷中村移堤の堤防決壊。
・同年9月28日再び関東大洪水被害が発生した。谷中村地方は明治31年頃千葉県関宿で江戸川河口を狭めた頃より目に見えて逆に洪水量が増えた。指導者を失い連年の闘争に疲れ果てたためか団結して立つことがなかったという。埼玉県は洪水被害を放置し利島・川辺両村(現北川辺町)の買収を計画するも両村拒否、納税・徴兵拒否決議等をしてこの計画を止めさせたという。
・同年11月7日付で警視総監が政府の鉱毒調査会宛てに「左部彦次郎の談話」として報告しているが、鉱毒調査会が鉱業停止の意向が全くなければ死を賭して戦うがもう少し鉱毒調査会の意向を探ることになっているとある(同会宛ての報告書の名称は鉱毒調査会とも鉱毒調査委員会とも両者混在している)。
・同年12月25日川俣事件宮城控訴院にて控訴棄却・公訴不受理にて公判消滅。(全員無罪。川俣事件は明治33年2月13日発生、同年7月9日51名起訴して予審結審、16回に及ぶ公判後12月22日前橋地方裁判所の1審判決出て双方が控訴、明治35年3月15日東京控訴審第2審判決3名の微罪を除き無罪・しかし世間の予想に反して被告団はたとえ一人でも有罪のうちは服せぬと上告し・検事も上告して、4度目の大審院での審理となり原判決の適法性という法律理論に終始しわずか1日で終わり明治35年5月12日第2審判決を棄却して宮城控訴院差戻し審の判決、同年10月8日公判開廷の呼び出し状が届き11月27日宮城控訴院にて公判開廷して書類の不備を指摘され検察の控訴が棄却され、12月25日公訴自体が不成立とされ全員無罪となった。単なる書類の不備であれば一審で再起訴も法技術的には可能であるがそうしなかった要因として、被告達の一歩も引かない不退転の決意・日露戦争直前の緊迫した政治の大きな力が働いたためという―田村紀雄著「川俣事件」。)
                    この時期を萩原進氏は終末期としている。
・明治36(1903)年1月 谷中村廃村事件の発端の土地買収案が栃木県会に提案されて否決された(翌明治37年12月10日日露戦争でのドサクサで逆転可決される)。
・同年3月3日第二次足尾銅山鉱毒調査委員会報告書で谷中村の貯水池化の方針の確定した報告を提出した。(初めは埼玉県に遊水地を作る予定であったが反対運動で断念して谷中村を候補地にしたという。)
・4月古河市兵衛死亡73才。(陸奥宗光の次男で養子に入っていた古河潤吉が後継)。
・6月3日 政府が鉱毒調査委員会の調査報告書を公表、谷中村貯水池案が浮上。
 この年は前年の大洪水の土砂が毒土を蔽い沃土となって豊作になり回復したかの錯覚に陥った。
・明治37(1904)年1月 白仁武が栃木県知事になった。
1月30日 谷中村廃村反対運動は多くの人の支持を得られなくなり孝徳秋水さえも平民新聞に「ただその局部に膏薬を貼付するが如き救済請願運動何を為さんや」と益無き抵抗と断じている。
・明治37&#40;1904)年2月10日~38年9月日露戦争、9月5日ポーツマス条約で講和成立。
・同年2月栃木県会が秘密会で谷中村買収案を通過させたことが判り足尾鉱毒事件が再び表面化してきた。時あたかも日露戦争の中で国民全体も緊張している下で、谷中村民も賛成派、反対派に二分されて喧々たるものがあった。
・同年7月30日より田中正造(63才)は谷中村下宮の川鍋岩五郎→次いで小川長三郎宅、へ寄留するようになった(谷中学が始まる)。ほぼ同じ頃左部彦次郎も谷中村に入ったという(谷中村下宮?)。
・同年9月谷中村の村長に明治35年以来成り手がないために下都賀郡書記が谷中村管掌村長として任命された。
・同年9月奈良村の祖母左部とさ87才没にて彦次郎の遺児2人は東京の彦次郎実家に引き取られたという。
・同9月28日に見舞いに村に入った笹川臨風はその惨状に驚愕したという(笹川臨風は帝大文学部出身の文人で当時宇都宮中学校長で正造の同情者であり正造を見舞うために入ったという―林竹二)。
・同年12月10日 栃木県会で栃木県による谷中村買収案が可決された。これは白仁栃木県知事が料亭で32人を集め県議会召集11人の反対を押し切って強行可決したという(名目は堤防修築費だったという)。この時川俣事件で総指揮をした野口春蔵(阿蘇郡界村助役)は「谷中一村が潰れることにより他の村々が救われるのだからやむを得ないだろう・・・」と言いこの主張は当時の被害地農民指導者の大方の考え方を代表している点もあった、としている―板倉町史。
・同年12月24日国会でも買収補助費を可決した。この補助費22万円は国と県が話し合い谷中村の堤防を堅固にするには120万円と毎年6万円維持費が必要との栃木県試算に対して谷中村1村にそんな金をかける訳にはいかないとして谷中村民を他の土地に移して谷中村を貯水池にするという方針で中央と県とで決まった買収費だった。12月10日の県会の買収案決定も既にその路線が決まっていての可決だったという。谷中村遊水地化は明治35年の関東大洪水で当時の溝部栃木県知事が立案し歴代の知事が課せられた宿題で数代の知事の交代後に白仁知事が成し遂げた。しかし谷中村1村のみでは洪水予防効果がないことは初期から判っていて埼玉県の川辺・利島村も候補に挙がっていたが両村は拒否したという。(「田中正造の生涯」林竹二著)。
谷中村買収案可決の原因の遊水地化構想は明治35年8・9月の関東大洪水で一気に浮上し明治36年6月第二次鉱毒調査委員会の俎上に上ってきたもので第二次鉱毒調査委員会も古河鉱業操業停止はもともと眼中になかった。明治35年以降は資金カンパ等による現地民による堤防仮工事努力に対して、栃木県官吏側は破れた堤防を放置しむしろ人夫を使って堤を壊す等の妨害に回り柳伐採・護岸取り崩し・表土剥ぎによる移堤工作を進め谷中村は屋根のみ水に浮かぶ谷中沼になっていて明治37年9月28日に見舞いに村に入った笹川臨風はその惨状に驚愕したという。国会の買収補助費可決の前日12月23日正造が支援して当選していた武藤金吉代議士から電報「谷中事件明日決まる、どうする、返事を」が正造に届き、正造は「谷中村下宮の茂呂武一宅にいる左部彦次郎に見せて至急大挙運動をするように言え」と島田宗三を通して頼んだが左部は動かなかったという。何を以て動けと頼んだのか理解に苦しむが鉱毒現地から東京に向けての突然の運動自体が無理であるが正造はそんな彦次郎を非難したという。
・明治38(1905)年1月1日調べとして田中正造の日記に谷中村外の安生順四郎が谷中村堤内外の土地を60町歩持っているとある。元下都賀郡長の安生順四郎は明治31年以来谷中村に村債を発行させて巧妙に操作して谷中村の土地を手に入れて大地主となっていたという。(林竹二)。
・3月18日栃木県庁は「救済のため請願によって谷中村民を適当の地に移転させる」との告諭を発し、同7月8日には貯水池設置事業準備のために・・土木吏が谷中村地内に立ち入ることを許す・・」との公告を出した。管掌村長は同11月6日に谷中村堤防は復旧しないことを宣言した。しかも実際はその前の8月頃から特殊工作員が活動していて買い手ががある売れるものは売った方が良い等住民を追い詰めて行っていたという。行政上は明治40年1月26日に土地収用法が適用されたが、住民にとってはその前から適用されているかのような印象を与えていて既に適用時は16戸しか残っていなかった。国・県・管掌村長・安生順四郎らによって住民の意志で移住したとの公式見解が結果的に作られていったという。島田三郎は帝国議会で名指しで安生順四郎を奸人と非難したという。(「田中正造の生涯」林竹二著)。
・2月17日~谷中村民が自力で破堤箇所を修築着手5月2日竣工。
・3月24日原敬が古河鉱業副社長に就任。
・5月頃より鉱毒運動の指導者たち、宮内喜平、神田重吉、針谷秀吉、大野定助、内田健三らが次々と買収事務員に引き抜かれていき、谷中村の助役田中与四郎も栃木県土木吏になったという。
・8月2日~3日谷中村議ら11名・総代10名が買収中止と堤防復旧の陳情に田中正造と共に上京した。
・同年8月19日の暴風雨で、それまで不眠不休で彦次郎ら村民と共に築いてきた堤防が崩れ去る現場をみて左部彦次郎は崩れ落ちるように座り込んでしまい村民が声をかけても動かなかったという5)。
・同年10月 左部彦次郎は栃木県土木吏になり、田中正造から袂を分った(離脱した)。田中正造の寄留先の川鍋岩五郎及びその長男重吉も翌年12月に左部彦次郎が説得陥落させて県の買収員にしてしまった。当時からの殆どの論調が左部彦次郎の「裏切り」と断罪してきたという。
島田宗三著「田中正造翁余禄上」の正造日記に「10月○日鉱毒問題以来ノ同情者トシテ谷中村買収反対ノ運動ヲ為シツツアリシ左部彦次郎氏、栃木県ノ土木吏トナル。為メニ村民或は激昂シ、或ハ気力ヲ喪フ。」(○は空欄)とある。
・同年11月買収を受け入れて谷中村の18戸が栃木県那須郡下江川村に移住した(那須塩原の開拓発展に尽力との三島神社がある)。
・明治39(1906)年1月7日原敬が内務大臣になる。
 3月5日谷中村民が急水留破壊箇所を修築着手。
 4月15日谷中村会は知事の奸策の廃村諮問案を否決した。
 4月22日田中正造は上京して新紀元社の集会で「土地兼併の罪悪」と題して講演。
・同年4月木下尚江、石川三四郎、荒畑寒村らが谷中村視察したが、多数の警官が見守る中で県官が自ら人夫を雇って村民が自力で修繕した堤防を破壊したので視察者や近村有志は大いに激昂した(田中正造余禄上)。木下尚江に依れば「県の堤防破壊を中止させるため石川三四郎・学生らおよそ18名と谷中に来援、30日県吏急水留工事を破壊」と記している。
・6月8日 白仁武栃木県知事が、反対派をリードして断乎戦い続けた田中正造を予戒令に引っかけて常時尾行付の監視下に置いた。
・同年7月1日栃木県は谷中村会が否決した廃村案を無視して谷中村を廃村して藤岡町に合併するという告示を出し法律上の谷中村は抹殺された(翌明治40年3月24日の島田三郎への正造書簡に依れば、この時点で谷中村に144戸が残っていた)。
・同年7月3日管掌村長鈴木豊三が田中正造を告訴し栃木警察署に連行し官吏侮辱罪で起訴された。12日保釈。10月5日有罪官吏侮辱罪で重禁固40日罰金7円の判決、直ちに控訴。(10日間、木下尚江。赤上剛は5日間としている。5回目の入獄。)
・同年8月正造の古くからの同志の蓼沼譲吉・津久居彦七らが「谷中から手を引き小中の故郷へ帰れ」と引退勧告をしたが正造は拒否した。(明治39年8月21日付朝日新聞に、阿蘇郡の有志にて田中正造翁慰問会を結成し「田中正造翁をして郷里に退隠せしめ専ら余生を後進子弟の矯風訓陶に努めしめ郡の長老として青年会等の世話役たらしめん・・」とあり本人にも納得させたとある。)
 同じく8月に栃木県知事に久保田清周が着任したが村民の請願に同情的であったので12月7日には山中喜代蔵と更迭した。「田中正造翁余禄上」74頁に正造翁の直話として「かつて渡良瀬川の鉱毒を沿岸民に警告した藤川栃木県令が島根県に左遷されたのは有名な話であるが谷中村に同情する者は官民を問わず皆攻略または排斥された」とある。また72頁には島田宗三の明治31年10才の頃の思出話として家族たちが「こうなっては北海道へでも移住するよりほかなかろう」「いや田中さんがお骨折りくださってるから何とか救ってもらえるかも知れない」「田中さん―あれが本当の生き神様と申すのでしょう」と年老いた祖父と病弱の父とが心配そうな顔をして暗く荒れた家の中で話していたのを、いまも猶忘れることができない、と述べている。谷中残留民の決心に田中正造の存在が大きかったことを示している。
・同年11月13日県の役人が谷中の買収員たちに命じて村の中央を流れる川の最下流の字真名・板倉にある堤防の樋門を閉ざし錠をかけて釘付けとした。72頁に谷中村の地勢の説明がある。従来の谷中村の洪水被害は思・巴波両川の水と利根川逆流水によるものが渡良瀬川鉱毒水よりはるかに多かったので水害を受けても鉱毒被害は他の渡良瀬川沿岸の町村より少なかったという。余水の排水の役割を担っていたこの樋門の閉鎖は村を水浸しすることを意味していた。おまけに漁具もひそかに持ち去ってしまった。この耕作妨害・漁具略奪行為を警察に訴えたが却下されたという。
・同年12月田中正造が最も信頼を寄せていた両翼の左部・川鍋の2人の川鍋岩五郎も栃木県土木吏になった。彦次郎が説得したという。「田中正造翁余禄上」島田宗三著の正造日記には「12月○日 本村買収反対運動ノ率先者タル川鍋岩五郎氏、県ノ土木吏トナル。是レ県ガ先キニ土木吏ト為シタル某ヲシテ勧誘シタルモノナリトノ風聞高シ。」とある。左部彦次郎の名前を出すのさえ嫌だったようだ。同書に島田宗三も「去年の秋県の土木吏と化したかつての同志が岩五郎を誘い出したことが年の瀬の迫る頃になって漸くわかった。いつもなら烈火のように怒る翁もこの奇怪な策動には呆然として語るべき言葉さえない程であった。」と述べて正造と同じく彦次郎の名前を出していない。村民が川鍋を追及しようとしたが逆に恐喝未遂で告発する騒ぎになり東京の逸見斧吉らが村民をなだめて川鍋との紛争が収まったと述べている。左部彦次郎は正造にとって他の離反者とは別格の存在でありそれは島田宗三にとっても然りであった。
・明治40(1907)年1月26日政府は谷中村に土地収用法適用の認定を公告した(西園寺公望首相、原敬内務大臣)。郡吏警官らが恐喝的説得に努めた(木下尚江)。
・同年2月4~7日足尾暴動事件。鉱毒予防工事費用がかさみ鉱山労働者賃金は安く労働条件も苛酷のために前年に結成された労働者組織の一部の抗議が全体に広がり暴動となって警察では鎮圧できない程になり栃木県知事が軍隊の出動を要請して鎮圧された。
・同年2月7日武藤金吉が暴動に関して鉱業停止の質問演説。
・同年2月24日正造土地収用法適用をめぐり東京で運動の為上京。 
・同年3月21日正造が用意した質問書にのっとり島田三郎が議会で質問演説。
・同年4月14日平民新聞廃刊。
・同年4月22日学生の救世軍ブース大将歓迎大会に大隈重信・島田三郎・新渡戸稲造・安部磯雄らと同席して世界の陸海軍全廃を主張した。
・同年6月4日別子銅山でも暴動。
・同年6月13日谷中村の最期まで反対して残っていた堤内16戸に対する強制執行命令を内務大臣原敬の指示のもとに栃木県知事が出し16戸に戒告書を渡した。この日法廷の官吏侮辱罪で控訴中の田中正造は無罪の判決を得た。これまでもこの後も田中正造は観念せずに谷中村復活の陳情運動を続けた。同13日に正造の管掌村長に対する官吏侮辱罪無罪判決。
・同年6月29日に始まり7月5日に終わった谷中村堤内残留民家屋16戸の強制破壊。田中正造・木下尚江・柴田三郎・菊地茂らは静かに見守っていて念頭にあったのは谷中人民が暴力に訴えて抵抗することを最も恐れていたという。今までの辛抱強い非暴力的抵抗が一気に息の根を止められて谷中の戦いを継続する望みが直ちに絶たれてしまうことが明らかだったからだという。田中正造にとっては川俣事件と言う農民の暴発が銅山や政府との根気強い戦いが一挙に息の根を止められてしまった苦い記憶があるためだという。木下尚江はこの破壊を前にしての最期の結合会で請われて短い演説し「谷中の残留民が身を以て示した非暴力不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示を見た」と告白したという。(林竹二)。
この16戸の強制破壊に当って県から古河町に人夫の要請があったとき当時の古河町長鷹見銈吾は、「古賀町からは一人といえども人夫を出さない。」と要請を拒否。更に町民に対しては「行きたい者は行ってもいい、しかし、二度と古河には帰ってこないように。」と言い切ったという。
東京救済会が仲介して谷中堤内地権者が7月29日土地収用補償金採決不服訴訟を提起(東京救済会はそのうち自然消滅、若干の勝訴の結審は正造死後大正7年だった)。
・同年8月25日利根・渡良瀬両川洪水、谷中村残留民の仮小屋が流された。この時に荒畑寒村著「谷中村滅亡史」発刊、直ぐ発禁になるも、水に浮かんだ村の正造宛てに著書が届いた。
・同年10月6日付朝日新聞には「谷中村問題漸く落着。谷中村事件は田中正造翁の頑固なる意見により村民の移住を拒みしが東京の谷中村救済会は村民の間を調和し群馬県邑楽郡蝦瀬村及び元谷中村付近上下本郷の堤外地を選定移住せしむる事とし栃木県庁に願い出で県庁も之を許可したり之にて此の問題も漸く落着せり」とに記事が出た。
・同年12月谷中村残留民家屋が強制破壊され仮小屋の中で食糧なく風雨にさらされ苦境の時期に正造が残留民に笑い涙しながら「辛酸亦入佳境」と揮毫したというが、後に死ぬ間際になっても谷中問題は決して諦めなかったという。18)
被害民のうち100余名が北海道に移住したという。
・明治43(1910)年4月渡良瀬川改修工事の瀦水池化工事を着工した(これは洪水調節機能はなく大正11年の渡良瀬川遊水地でも不十分→更に昭和38年からの調節池化工事に繋がる)。
・同年6月1日大逆事件で孝徳秋水逮捕、翌年死刑執行。
・同年8月11日関東大洪水。これによって田中正造は治水についての自説に自信を持ち広く関東の各河川の調査を始めたという。
・明治44(1911)年1月24日 孝徳秋水らが大逆事件で刑死。無政府主義者とされるが松本英一翁によれば鉱毒地を視察した秋水は「熱心に色々質問し非常に穏健な人で、この人が無産党かと思った」という。
・同年4月谷中村民16戸137人、北海道常呂郡佐呂間別原野に移住(第1次)。
その後も明治・大正・昭和に至るまで帝国議会に於いては足尾銅山鉱毒関連の問題はその側面を変えながら質問書・建議・請願等が継続していた。
・大正2(1913)年4月13日田中正造(この時73才)の最期の演説となる「下都賀南部危急存亡問題大演説会」を赤麻沼のほとり赤麻寺で開いた。
・同年5月正造は島田宗三ら谷中の青年数人を伴って阿蘇・足利郡下の河川視察に出かけた。
・同年7月15日「僕も君もこう一文なしになっては何とも仕方がないから上の方へ行って少し身付けて来ましょう」と笑いながら「・・不肖弁当欠乏に付たくはつに出ます」と島田宗三(この時25才)に書き残して病躯を人力車(車夫の泉田常吉は正造を神のように尊敬し幾日でも無賃で挽いて歩いたという。江戸の平和の時代に言われた‘駕籠に乗る人担ぐ人そのまた草鞋を作る人’を体現していた。)に委ね谷中から藤岡・佐野・足利をめぐり戻ろうとしたが、途中8月2日支援者吾妻村下羽田庭田清四郎宅で倒れ、9月4日に同所で病没73歳。死因は胃癌。(庭田清四郎は田中正造?(木下尚江?)が鉱毒地を初めて訪ねた時に毒塚など案内しながら佐野停車場まで送ってくれた人だったという。)
・大正3(1914)年9月11日谷中村の堤防が対岸海老瀬村の決死隊5名らに切り崩されて人為の大水害になり刑事事件となった。この時谷中村残留民は18戸百余名あった。
・大正6(1917)年3月島田宗三ら谷中村最後の残留民がすべて渡良瀬川改修工事に伴う埋立地に移転した。(島田宗三は13才で谷中村演説会の時に田中正造(61才)に会い以来田中正造の思想・生活・戦いを学び徹底して受け継ぎ、田中正造もその戦いの後事を託し人であり、明治39年皆が離れていく中でも些かの迷いもなく正造について行き失望することを知らなかったと林武二は言う。正造死亡後も最後まで谷中残留し自らを谷中遺民と称した。柴田三郎は「谷中村の人。十年来翁の手足の如くなって、よく翁を助けた青年。翁の発病以来逝去されるまで日夜翁の看護に尽くした人」と評した。島田宗三は谷中を離れてからも残りの人生すべてを田中正造のあらゆる資料の収集・保全に全力投入したという。『田中正造翁余禄上』)
 島田宗三(明治23年1月1日生、昭和55年1月23日90歳没)は、死ぬまで律儀さを厳守して(林竹二は「自己を持することのもっとも厳しい島田さん」と記している)、田中正造の最後の語は死ぬまで語らずそれが明らかになるのは昭和55年遺族によってであった。
・昭和9(1934)年予防工事命令で設置された沈殿池が溢水して甚大被害発生。 
・昭和12(1937)年北海道移住した旧谷中村民が帰郷請願書を栃木県知事に提出。
・昭和(1958)33年源五郎沢堆積場決壊で鉱毒被害再燃。
・昭和47(1972)年 5月10日足尾鉱毒対策の要請書持って栃木県選出の藤尾正行代議士(鉱毒問題に詳しく現代の田中正造を認じていて当時政務次官)を田島宗仁太田市長ら10人の陳情団が尋ねたところ建設省政務次官室に入った途端要請書を机の上に放り出され「今さら足尾鉱毒とはなんだ」とどやされ、世間の無理解さを痛い程知らされたという(「鉱毒と闘う」朝日新聞前橋支局1983。なお「鉱毒と闘う」では足尾鉱毒だけでなく群馬県安中東邦亜鉛鉱毒にも触れているが福田赳夫・中曽根康弘の地元なのに円満解決されないのはこれが現代の光に対する蔭の部分故で仕方のないことなのか?)。
・同年7月 総務省の外局に公害等調整委員会が再編発足され、時間と費用もかかる訴訟の代わりに公害紛争の早期解決を目的とした日本独自の制度が出来たという。渡良瀬川の鉱毒問題は2年後の昭和49年5月に調停成立。
・昭和48(1973)年 足尾銅山は閉山。但し輸入鉱による銅製錬操業は続けたために鉱毒問題は解決しなかった。
・平成元(1989)年 輸入鉱石による製錬操業も停止した。平成20年時点では産業廃棄物リサイクル事業のみ行っているという。
・平成23(2011)年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が東日本大震災により再び決壊。鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出された。
・平成25(2013)年 田中正造が明治天皇へ行おうとした実行未遂の直訴状は実に112年後のこの年渡良瀬遊水地や正造の出生地である佐野市を訪れた今上天皇に伝えられた。



4。左部彦次郎に関する考察:
 
足尾銅山の地元では江戸時代より補償の話も出ていたとのことなので薄々気付いていたと思われるが明治13年までは鉱毒の公式概念はなかったようだ。明治13年に栃木県令藤川為親が渡良瀬川の魚族は衛生に害あるにより一切捕獲することを禁ずとの県令を出しその県令は左遷され、明治20年には群馬県及び栃木県数か村と工場側との示談交渉が始まっていたので地元ではこの頃既に鉱毒によるものとの認識があり国も薄々気付きながら黙殺していたものと思われる。藤川県令が左遷されたのは明治政府の殖産興業の方針にブレーキをかけると思われたためと思われる。さらに同年に東京専門学校生の長祐之および須永金三郎が行政学討論として初めて学校で鉱毒問題を論じていた。
田中正造は明治15年大隈重信が党首の立憲改進党に入党していて同年創立された東京専門学校には後に名物行事と言われる「早稲田模擬国会」があり現職議員・官僚・学生・実業家らが参加していて後には田中正造もしばしば演説していたというので、左部彦次郎が入学した明治21年には既に大隈重信、田中正造、左部彦次郎の接点はあったと言える。明治23年8月23日渡良瀬川の堤防が初めて決壊して大水害が発生した(海老瀬村松本英一翁と萩原進の対談)。東京専門学校生徒であった左部彦次郎は被害地大島村の親戚小山孝八郎宅(小山城主末裔)に身を寄せて綿密な被害調査をした(明治23年1月の新聞報道で鉱毒問題が社会問題化して栃木県側被害村は鉱業側と交渉を持ち群馬県側は左部彦次郎が調査したと板倉町史にある。一方、川俣事件の前橋地裁予審調書では在学中に鉱毒の在ることを知り明治24年7月卒業するや直ちに被害地に参り・・・と彦次郎は言っている)。
明治24年12月18日第2回帝国議会において彦次郎の調査を基に田中正造が「足尾銅山鉱毒の儀に付質問書」を提出して政府を詰問した。1か月後の明治25年1月15日には被害地四村から左部彦次郎宛の感謝状が「左部彦次郎君の尽力により明治24年12月28日に鉱毒除害並に採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に提出するに至れり」との趣旨で出され、県知事も仲介に入り明治25年3月には工場側と一部村との示談が成立している。工場側の不誠実さによりこの示談が後に却って仇になってしまう。その後の過程で示談派と請願派即ち鉱業停止派との対立も事件を複雑にしていく。
彦次郎は明治26年には最初の妻を亡くし明治27年には故郷奈良村(5年前の町村合併で池田村奈良と変更)に戻っていて初代消防頭を勤めたこと、卒業後奈良に戻ったと池田村史にあることから、東京、鉱毒地、奈良を行ったり来たりしていたとしても少なくとも明治25-26年には奈良に定住していたと思われる。そして明治29年には群馬県会議員選挙に立候補して落選し身内騒動を起こした。従って14才で養父が他界し12年契約で酒蔵屋「十一屋」を他人に明治13年に貸与していたが生活拠点はこの明治29年までは奈良村にありこの騒動後に奈良村から出村して戻らなかったものと思われる。明治31年6月被害民の鉱毒東京事務所の谷元八が「手助けしてくれ」と左部彦次郎を訊ねてきて間もなく明治31年11月に左部彦次郎は「請願運動部面の多き被害人の奔命に疲れて将に倒んとするに付便宜を与えられ度為め参考書」という論述を書き上げた。これは手助けの依頼を受けて自ら練り上げた鉱毒事件の戦略であり請願書運動の構想の雛型と思われる。
この奔命とは自らの調査であまりにも多い被害民の数や悲惨さの実態を知って奔走してきた自分を顧みての言葉と思われ、便宜を与えられたとはこの東京事務所の依頼を指していると思われる。そして一部の村と示談が成立し翌25年感謝状も頂いているのにも拘らず自らの納得をしていないことと明治29年故郷池田村での選挙騒動後の失意のもとに故郷を離れていった時の心情がこの将に倒れんとするという言葉に含まれていると推定される。
この論述の著者住所は池田村で発行は東京であることからも彦次郎は騒動出獄後故郷を離れ東京に戻っていたと思われる。池田村とは明治22年の町村合併で奈良村を含む8村が合併して誕生した村である。当時自殺した本家当主は41才、新宅の彦次郎は30才であった。そんな中で鉱毒東京事務所からの協力要請があり再奮起してまとめたのがこの論述である。
全体像をみるべく大局的見地から俯瞰的に把握することに勤め、かつ微に入り細に入り綿密に網羅しようと戦術に至るまで練り上げようとしている様子が分かる。これだけ見ても、単なる田中正造の秘書的立場で行動しているだけの人物とは思えない。過去の鉱毒事件関連の文献では殆どが田中正造に対比しての左部彦次郎の立場は途中までは秘書的役割ないし一参謀のような役割をしていたという捉え方である。明治38年10月田中正造と袂を分ってからは、敵視され鬼や裏切りのイメージが大きくむしろ無視して無きが如くに扱われている印象を拭えない。しかし田中正造没後、年に一度雲龍寺の墓参りをしている彦次郎親子に「もう、事件も大かた片付きましたから、このお嬢さんをこれからは仕合せにして下さい」と声をかけた村人もいたと娘大場春江の「かく生きて」にある。現地で事の始終を知っている村人だからこその言葉であろう。松本英一氏談で左部彦次郎の印象について「田中さんの一の子分でよく来ていましたが最後になって良くありませんでした・・・田中さんの精神に随行して働く男だとは思いませんでした・・・」と萩原進に語っている。松本英一は彦次郎に感謝状を出した村の村民である。明治31年9月第3回押し出し途中の保木間で「かくの多勢入京せらるるは不可なり」と演説した田中正造に対してそんなことを言って責任を取れるのかと左部彦次郎が詰め寄ったり、国会の谷中村買収補助費可決の前日の明治37年12月23日正造が支援して当選していた群馬県選出武藤金吉代議士から電報「谷中事件明日決まる、どうする、返事を」が正造に届き、正造は下宮(谷中村)の茂呂武一宅にいる左部彦次郎に見せて「至急大挙運動をするように言え」と谷中村島田宗三を通して頼んだが左部は動かずそんな彦次郎を田中正造はなじり非難したという。その時の客観情勢は明治36年3月3日政府の第二次鉱毒委員会報告書で谷中村の貯水池化の方針確定の報告が既に提出されていて、谷中村廃村反対運動は多くの人の支持を得られなくなっていて孝徳秋水さえも明治37年1月30日平民新聞に「ただその局部に膏薬を貼付するが如き救済請願運動何を為さんや」と言い、同37年12月10日には栃木県会で栃木県による谷中村買収案が可決されていた。同月24日には国会でも買収補助費が可決された。
そして明治38年5月頃より既に鉱毒運動の指導者たち宮内喜平、神田重吉、針谷秀吉らや谷中村助役の田中与四郎らも廃村推進の役人官吏側に引き抜かれていて換言すれば田中正造を裏切っていた。さらに明治38年8月19日の暴風雨でそれまでは行政役人側の様々な妨害工作にもめげず不眠不休で村民らと共に堤防を築き守ろうと努力してきた左部彦次郎は目の前で堤防が崩れ去るのをみて崩れ落ちるように座り込んでしまい村民が声をかけても動かなかった、という事態に至っていた。そして遂に明治38年10月あくまでも谷中村廃村に拘る田中正造に対して、行政側に寝返り谷中村廃村貯水池化、住民移住政策に加担するようになった。これらの事実は田中正造の一の子分と言えるような間柄ではなく偶々志を同じくしていた独立した同志であったことを示している。そして、朝日新聞記事「左部の劇忙」に見える田中正造直訴直後の彦次郎の正造への献身など、実行力のある彦次郎を頼りにしていたが故に同じく正造を裏切った他の人々以上に彦次郎を攻撃したと思われる。これは衆議院の1議席を争った木村半兵衛とその支持者に対して鉱毒事件も別行動を取るなど徹底的に攻撃した田中正造のやり方に似ている。被害地住民ではない外地人としては唯一人最初から最後まで熱く鉱毒事件に関わり田中正造死亡後は毎年墓参していて自らは寂しく亡くなっていったというその思いはどんなであっただろう。
資料を閲覧している中で、珍しく彦次郎を援護する昭和46年2月発行の月刊伝統と現代に左部彦次郎の復権をとの副題での論述を見つけた。10) 現地農村に定着し重大な指導力を発揮し鉱毒問題に誰よりも深いものを持っていた彦次郎がなぜ長い間鉱毒問題の歴史から抹殺されなければならなかったのか、と疑問を提起している。渡良瀬鉱毒地の散発的自然発生的農民運動の組織者であり、理論的指導者であり、中央東京の諸団体・新聞社・世論を結ぶ主要なパイプであった左部が谷中村廃村直前に運動から離れたばかりに非難され続けたことは歴史の悲劇であると断じている。孤立しながらも最後まで政府施策に反対しその姿勢を貫徹したことにより死後いっそう神格化されて行った田中正造に比し、左部は反比例してその記憶は次々と塗り潰されていったことへの著者の考察がのっている。娘の大場春江もこの論説を読んでいたと随筆詩集「かく生きて」にあった。
 物事をなすには揺るぎ無い理念(或いはビジョン・イデオロギー・使命)そして行動指針のもとに戦略そして戦術が必要とされる。そしてどちらが良いかは別として、あくまでも拘りぬいて自爆もやむなしと理念を変えずに前進するか、「君子豹変す」と言われるように、情勢判断によっては戦略を大きく転換したり場合によっては自らの理念さえも自ら引っ繰り返すことも辞さない非情さをもつかの二者がある。
どちらも真似のできない徹底さがあるが社会を変えるにはこの徹底さが必要なのかもしれない。日本では判官びいきと言われるように前者に同情が寄せられることが多い。戦国時代大坂の陣の真田幸村や太平洋戦争での山本五十六は前者かもしれない。左部彦次郎は田中正造に対しては後者のこの非情さを持っていたのかもしれない。
この論述から推定される彦次郎の考え方は独立した闘争家の姿勢である。あくまでも谷中村廃村反対で情勢判断を敢えて無視する姿勢の理念を持った田中正造翁と、絶大な信頼を得ていた上での「裏切り」が出来た非情な左部彦次郎との違いと思える。それが鉱毒事件への田中正造が持っていたであろう理念と彦次郎のそれとは同一とは思えずズレがあったことを感じさせる。そしてそれが左部彦次郎が田中正造から袂を分つた理由ではないかと思う。娘大場美夜子の「かく生きて」の『父恋い』の中に左部彦次郎親子が雲龍寺にある田中正造翁の墓参りをするシーンが描かれているが、これからも彦次郎の心情は傍で言う鬼や裏切りではないことは明らかである。
田中正造直訴の翌々日の明治34年12月12日付朝日新聞には「左部の劇忙。左部彦次郎は鉱毒事件を一身に引き受け左なきだに繁忙の身なるに此の事件を生じて百事其の指揮を要する上一作日は麹町署に出頭して差入れを為し事務所に取残したる田中氏の水薬を取り寄せ或いは同夜留置の用意を為すなど辛労子の父に於けるが如く、一昨朝より昨日まで寝食の暇なきに流石の左部も大いに疲労せしが昨日は又公判にて之を医するの暇あらざりき」との記事がある。田中正造も明治39年2月18日の高橋秀臣宛て書簡で「・・左部氏は已に逃げ去り、今は誠に助っ人少く社会には離間され普通人民の訪い来る人も無し・・」と寂しさを吐露している。明治45年10月25日原田勘七郎・たけ子宛て書簡「正造ハ少数の同志あるのみニて十一ケ年の戦争を継続せり。反対か敵かハ左の通り、・・」等ある(原田たけ子は正造の姪で養女)。田中正造と左部彦次郎は袂を分つたが底流では独立した個人として互いに尊敬し合っていた、そして共に孤独であったと言える。後の劇作「亡国の構図」で病に倒れて臨終に近い正造にここも敵地だと言わしめて孤独をその作者が表現したというが、田中正造は死ぬ間際でも谷中問題を諦めなかった。そして時と所で変わる敵と味方をしっかり使い分けていたという。18)

同じ上記直訴後の明治34年12月12日付朝日新聞の別欄に田中氏の談話として「・・不敬たるは固より之を知る然れども今日の事只だ此非常手段の外に訴願の途なきを如何せん、殊に上訴の事の如き之を議院内に於いてせば至尊に近づき奉るを得て便宜甚だ多きを知る然れども一たび斯かる異例を敢えてせん乎、其の事の容易なるが故に薄志弱行の徒時に或いは之に習うの後弊を胎す無きを保せず故に予は議員の職を辞して以て鹵簿を冒し奉りたる所以なり願わくは微意の存する所を察せよ云々」とある。武士道の気骨にも通じる、明治の東郷平八郎の「勝って兜の緒をしめよ」、昭和の「メザシの土光敏夫」と同じで、現代風潮の中では信じられないような事実である。田中正造は遵法精神を守りながら公権力に徹頭徹尾反対し武力闘争ではなく言論闘争で苦難の一生を捧げ神になったが(田中霊祠)、田中正造と犬猿の中であり反対するものは実力行使でなぎ倒し屁理屈を使ってでも田中正造を監獄にぶち込むなど権力でねじ伏せるごとく強引に実行した三島通庸も神になった(三島神社)。対照的な二人であるが、どちらのやり方にしても周囲は喜ぶ人も居れば迷惑する人もいる。どのような生き方が良いかを言う資格はないが、その時なりの最善の実質的貢献をした左部彦次郎が歴史の闇に埋もれたままなのは理不尽と思う。三島通庸のようなやり方は珍しくないが田中正造のようなやり方は極めて稀有で真似できるものではない。布川了は「田中正造たたかいの臨終」で病床語録を著しその稀有なる人柄を描きだしている。18)
田中正造の鉱毒問題への関わりから見える遵法精神はインドのガンジーを想起させる。そして人間の生き方を思う時、最近エベレスト登頂兆戦下山中に亡くなられた登山家栗城史多氏を思い浮かべてしまう。外野が様々なことを言う中で彼なりの生き方を実践し押し通した方である。それにしても鉱毒や田中正造という視点からは対極の悪の権化の古河市兵衛を崇敬する意見もあることをも知った。「明治の産業界の十二傑にはいっている古河市兵衛について、西洋技術を取り入れ明治近代化路線に貢献し足尾銅山を東洋一の銅山に育て上げた。公害の原点と言う負の蔭は光があって成り立つが、その光の部分も躊躇せず大いに語るべきだと、足尾の町民たちは困っていたと、足尾出身と言えなかった若者たちがいたと、かつてNHKの会長であった島桂次も足尾出身だが足尾と言えず日光だと言っていたと、等」述べているもの(三浦佐久子.足尾を語る会会報通巻第20号p38-44.2018年)もあった。確かに国の殖産興業には貢献し国もその側に就いたが見方を変えると、足尾鉱毒の総被害額は当時の足尾銅山年間売上高の約10倍であったという試算もある。16) そしてその時なりの予防工事は行ったとしても昭和48年足尾銅山閉山後も続き平成23年の東日本大震災でも鉱滓流出でなお被害を出している。原発事故を思い起こさせる。
資料を追っていく中で、田中正造の存在があまりにも大きいが故に田中正造というフィルターを通した記録が多いことと並行してフィルターを通さない埋もれた資料もまた多いことに気付き、また歴史の闇に消えて行った貢献者は地外人の左部彦次郎だけではなく被害地内人は無数いることにも気付く。戦国以前はいざ知らず明治の文明開化以降の事件としては何十万の住民を巻き込んだ鉱毒事件とそれを封じ込めようとした国家権力側との静かなる戦いでこれほど大きいものは今日までに他に無いのではないかと思えるようになった。国家の大義とは何か、何処まで許されるのかという命題を突き付けている。
 左部彦次郎については、資料を自分で調べてみて全体としては、鬼とも裏切り者とも思われていないことが判った。個性の強い一部の関係者からは恨まれているとしても社会全体としては左部彦次郎が特に恨まれているとは言えず、一部の個性の強く声の大きい関係者に遠慮しての左部彦次郎無視であると思えるようになった。鉱毒地の外だけでなくその中に於いてさえも夫々の理由で夫々の思惑が交差し時に反発しいがみ合い時に同調し同情し、多くの無名の人々が言葉では言い表せないほどの苦汁を嘗め堪えてそれを各々の魂が相互にその苦汁を感じるほどに、世話にはなってもどこの馬の骨か素性の分からない無難な地外者の左部彦次郎への無視と言う形を執っているだけであると思えるようになった。特にそれは周りの鉱毒被害の研究者達に言えるのではないかと思う。そして彦次郎よりもむしろ無視されながらも現地で生きて行かざるを得なかった人々の方が大変だったかもしれない。最初に読むべきだったと後で気付いた資料「板倉町史別巻1資料編足尾鉱毒事件」を最後の方で知ったが、良くまとめてあって分かり易かった。また板倉町史編さん室の宮田茂のあとがきは必読に値する。林竹二著「田中正造の生涯」には何度読んでも捉えきれない程の深い洞察が詰め込まれていた。


5。参考文献:

1、萩原進.足尾鉱毒事件.前橋市 上毛新聞社 1972.
2、文久3年 奈良村宗門人別改帳&#40;沼田高校保存文書).
3、石田家家史.石田侃家文書.群馬県立文書館.
4、左部彦次郎書簡.石田侃家文書.群馬県立文書館.
5、赤上剛.田中正造とその周辺.宇都宮市 随想舎2014.
6、加藤定彦.北毛俳壇の展開と月次句合(上・下)―左部家旧蔵資料の語るもの(その3).立教大学日本文学,p109~110,2013.
7、奈良村名苗顕然記.私蔵資料.
8、左部家家史.私蔵資料.
9、大場美夜子.かく生きて.東京 牧羊社1980.
10、田村紀雄.足尾鉱毒事件とその組織者.月刊伝統と現代第2巻第2号p68-79.東京 伝統と現代社 昭和46年2月.
11、田村紀雄.鉱毒農民の文書.明治両毛の山鳴り―民衆言論の社会史―.23-62p東京 百人社1981.
12、熊澤喜久雄 足尾銅山鉱毒事件を巡る農学者群像(続)―谷中村の貯水池化問題と鉱毒被害農地の改良―.肥料科学,第37号p1~73,2015.
13、田村紀雄.川俣事件.東京 社会評論社 2000.
14、荒畑寒村.谷中村滅亡史.明治40年初版発禁復刻版 東京新泉社 1970.
15、左部彦次郎.請願運動部面の多き被害人の奔命に疲れて将に倒んとするに付便宜を與へられ度為め参考書.発行人池田村左部彦次郎.印刷所東京濱田傳三郎 明治31年11月.
16、高石雅樹他.足尾銅山が引き起こした鉱害における環境およびヒトへの影響.国際医療福祉大学学会誌第20巻2号p59-69.2015.
17、板倉町史編さん委員会.板倉町史別巻1資料編足尾鉱毒事件.前橋 朝日印刷工業 昭和52年.
18、布川了.田中正造たたかいの臨終.宇都宮 随想舎1996.
19、朝日新聞前橋支局.鉱毒と闘う.高崎市 あさを社 1983.
20、島田宗三.田中正造翁余禄上・下.東京 三一書房.1972.
21、 朝日新聞「左部の劇忙」明治三十四年十二月十二日付.
22、小葉田淳.近世足尾銅山史の研究、日本歴史/歴史学会編通巻296号、p1~35、1973.
23、黒保根村誌編纂室.黒保根村誌1、前橋 朝日印刷、1997.
24、足尾町郷土誌編集委員会.足尾郷土誌、足尾町 不二工房、1993.
25、群馬県教育委員会.足尾銅山街道、前橋 朝日印刷、昭和54年3月.
26.木下尚江.田中正造の生涯.東京 宗高書房.昭和3年8月.
27.林竹二.田中正造の生涯.東京 講談社.昭和51年7月.


◎明治25年1月15日付け左部彦次郎への被害村よりの感謝状:
 義勇ナル清廉ノ士左部彦次郎君ニ謝ス我々四ケ村堤外地鉱毒ノ害ヲ受タル茲ニ年アリ然ルニ君ガ大愛ノ志ヲ以テ刻苦ノ余功遂ニ明治廿四年十二月廿八日ヲ以テ鉱毒除害並ニ採鉱事業停止ノ請願書ヲ農商務大臣ニ提出スルニ至レリ此レ実ニ公共義勇ノ志平素胸中ニ欝勃タルヨリ発シタルモノト感謝ニ不堪被害地所有人民千百有余名代表者トシ深ク君カ義心ヲ感謝シ聊カ 言ヲ以テ茲ニ鳴謝ス     
明治廿五年一月十五日 
        邑楽郡 渡瀬 村長 小林 偵七郎  職印
        同 郡 大島 村長 青山 嘉一郎  職印
        同 郡 西谷田村長 北山 常 吉  職印
        同 郡 海老瀬村長 太刀岡庄三郎  職印
   左部彦次郎 君

○この上記感謝状を受けたことが東京専門学校の「明治25年2月発行の同攻会雑誌第11号」の「近時辺々」欄にて『交友左部氏感謝状を受く』と題して以下の如くいち早く学苑内に伝えられた。
 「足尾銅山鉱毒事件に就ては、昨年中より沿岸被害地人民の激動一方ならず、各地其委員を選みて之を調査し、或は請願書を出せしこと等は夙に世人の知る所なるが、校友左部彦次郎氏(群馬県利根郡池田村)は、過般来私費を以て被害地の模様を調査し、鉱毒除害の請願書を農商務大臣に上申する等、該事件に尽力せし事少なからずとて、去月下旬同県邑楽郡渡瀬村々長外三村長より被害地人民千百有余名を代表せる感謝状を受けたりと云ふ。」(早稲田大学百年史)。
◎彦次郎の母が斎藤うたであることについて:
左部彦次郎の伯母夫婦大場竹次郎・彦次郎姉みき子夫妻が竹次郎甥の嘉兵衛を養子とし同じくみき子の遠縁のみつと結婚させようとしたが結婚式当日みつは彦次郎(彦次郎とも遠縁)に走ったという。明治21、22年の故郷の祖母とさへの手紙における彦次郎の住所は麹町11丁目22番地斎藤みつ方左部彦次郎となっているので学生になった当初から同居していた。明治36年の正造の日記の彦次郎母斎藤うたの住所も同じ麹町11ー22である。彦次郎前妻はんが明治36年没後の2子は祖母に育てられたが明治37年祖母とさ没後は伯母夫婦に引き取られたという。実父が左部左弥太=風間佐兵衛であることは身内で同居したこともある石田直太による石田家史添え書きに拠り確かとしてよいが実母ははっきりしない。斎藤うたと斎藤みつは互いに遠縁と考えられみつと同居した故の義母である可能性は完全には否定できないが、赤上剛氏の言うように明治36年の田中正造の日記からもみつとうたの同じ住所からも彦次郎実母である可能性が高い。
◎左部彦次郎の娘の大場美夜子について:
1、「かく生きて」の中の『かく生きて』:「死にたき日まだ生きたる日鳥曇り」、
そのまとめに、「『済まなかった。ありがとう』と洩らした一言が、嬉しく温かく今も私を包んで、生きる活力となっている。平塚で死なないで生きていてよかったと思う。」と言っている。あとがきに恩師が下さった一句の「かく生きて夏くれば夏わがものに」を題にさせて頂いたとある。
2、田中正造の「最期の語」で問題の同情者の唯一人といわれた島田宗三は後年大場美夜子に「あなたがあの正造翁のお葬式の時、彦次郎さんに抱かれて人力車で来られたのを、私ははっきりと記憶しておりますよ。メリンスの着物の柄は白地にみどりの濃い松の葉ちらしで、赤い三尺帯を結んで可愛いいおかっぱさんでした。」と語ったという。18)
◎石田家家史と日記:
 文化十五寅年六月改元文政元・・・・・六月 おとさ生る(之ハ左部宇作ノ妻トナリ
彦次郎ノ祖母ニテ左弥太、湊ノ母ナリ左部善兵衛ニ嫁シ新宅ニ出ル ――石田直太添え書き)。 天保四巳年・・・ 正月婚姻相整 とさ宇作方江遣(宇作ハ左部善兵衛ノ子也故ニ善兵衛ト婚姻シタル者ナリ、后ニ□ヘ分家ス子宇作、左弥太、湊、三男子アリ 左弥太子彦次郎、后□□□村会議員ノ候補ヲ争ヒ無財産トナル ――石田直太添え書き)。天保七申年・・・五月 左弥太生ル(おとさノ二男也――石田直太添え書き――宗門人別帳よりこれは直太氏の勘違いで実際は長男、又は長男夭逝していたかもしれない)
◎文久3(1863)年 奈良村宗門人別改帳:
浄土宗正行院 愛助事 宇作 ㊞ 当亥廿三才
              女房  かく   十七才
              兄   左弥太㊞ 廿八才 安政七年申二月欠落仕候     
              弟   湊  ㊞ 廿一才
              母   とさ ㊞ 四十六才      とある。
◎左部彦次郎の川俣事件予審調書の記録:
 「自分ハ明治24年ニ東京早稲田ノ専門学校ニ居ル時ニ鉱毒アルコトヲ聞知リタ故学校ヲ出ルヤ該地ニ臨ミ其被害反別及ヒ其額ヲ調査シ」、「全ク自分一己ノ考テシタ」、等とある。(田村紀雄.足尾鉱毒事件とその組織者)。
◎田中正造の「最期の語」:(布川了は「最後の語」としている。)18)
大正2年9月4日朝、田中正造は看病していた岩崎佐十を呼び寄せ、残留民支援の依頼と「最期の語」となった厳しい見解とを告げました。木下尚江は同席し島田宗三は敷居の外の縁側で耳をすませていました。尚江や佐十は完全に黙秘したまま世を去りました。残るのは尚江が書いて宗三に与えた巻紙だけでした。「翁は73年の生涯は最後の9月4日の『半日』に約せられ更に臨終の1呼吸に約せらる」と尚江は強調しながら、この遺言を自らは半句も洩らさず、宗三にも「みだりに他へ示すことなかれ」と発表することを押えてしまいました。・・秘匿された「最後の語」が世に出たのは、67年後の1980年になってのことでした。宗三が死去したあと・・遺族が公にしたのです。・・正造の死んだ翌5日朝、宗三は昨日耳にしたことを、なお佐十から聞いておこうと思い、尋ねると、「何もいいませんでした」と秘匿してしまった。・・傍で聞いていた木下氏は憤然として・・その旨を一気呵成に認めた。こうして次に掲げる「最後の語」はのこったのです。と以下の死の当日朝の語の記載がある。「同情と云うことにも二つある。此の正造への同情と正造の問題への同情とは分けてみなければならぬ。皆さんのは正造への同情で、問題への同情ではない。問題から言う時には此処も敵地だ。問題での同情で来て居て下さるのは島田宗三さん一人だ。谷中問題でもそうだ。問題の本当の所は谷中の人達にも解かって居ない」、と。
またさらに死の50分前の昼過ぎには岩崎佐十を呼んで、「お前方、大勢来て居るようだが、嬉しくも何とも思わねえ。お前方は田中正造に同情して呉れるか知らねえが、田中正造の事業に同情して来て居るものは、一人も無い。―――行って、皆んなにこう言へッ」と言ったが皆に伝えた気配はなかったという。18)
◎左部彦次郎に対して:不快の念を持っていたと思われる人々:
1、島田宗三は谷中村の遺民と自著の中で自称している。島田宗三が正造と一緒に巣鴨の新井奥𨗉を訪ねる途中、直訴の起草者について正造から「幸徳さんに頼む前に某さん(筆者その名を忘る)に頼んだ所寒中(略)水垢離をとって書上げたそうで大変良く出来ていたが、誰(筆者その名を忘る)かにチョット洩らしたというものですから、お気の毒でしたが返してしまった」と聞いたと「田中正造翁余禄」島田宗三,三一書房,下巻375-8p、にあり、これは忘れたというよりも筆者が憎っくきその名を出したくないとの意識か働いたためで別の根拠も示して彦次郎のことではないかと赤上剛は推論している。
2、のちの昭和35年9月17日に海老瀬村の松本英一翁は萩原進氏との対談で、「・・・品行、男女関係が良くなく私は気に入りませんでした。はじめから田中さんの精神に随行して働く男だとは思いませんでした。田中さんも余り好いていなかったようです。」と述べている。
3、布川了は「田中正造たたかいの臨終」で、&#91;人はまた、時と所によって敵に変わります。例えば左部彦次郎です。早稲田の学生時代から正造・鉱毒問題にかかわり、川俣事件の被告になり、谷中村に入ってからも奮闘しながら、ここで遂に変節したために、正造からは「悪魔」とさえ言われるに至りました。ところが谷中の悪魔も、館林の雲龍寺救現堂内の大位牌には恩人として名を連ねています。正造没後、彼は幼い娘を連れて雲龍寺に詣でています。途次、田畑に働く農民は、彼を見ると、冠り物をとって、彦次郎に「あの節はおせわになりました」とていねいに挨拶するので娘(大場美夜子)は誇らしい気持ちで父を仰いだといいます。(大場美夜子『残照の中で』)、]とある。
4、布川了は上記の中で&#91;野口春蔵の寿碑が、旧秋山川畔にポツンと建っています。第二次大戦後田中霊祠へ移しては、と話が出たとき、谷中村民の子孫から、異議が出てこれは沙汰止みになりました。遊水地化、改修工事賛成で、正造とも激論し、「野口君までが、ああなってしまった」と嘆かせた、そんなしこりが残っているのです。永島与八も正造から離れてしばらくしてから戻りました。東京では鉱毒反対の大弁論を振い、足尾視察後は一転して古河是認に変わった、牧者田村直臣も思い浮かびます。・・鉱毒問題・谷中問題・治水問題など、正造の問題とするものに理解・協力するものは、敵地に住む者でも味方で、しからざる者はすべて敵である、正造はそう考えていたのです。・・]とも言っている。
5、明治37年12月栃木県会が谷中村買収案を可決した時に野口春蔵(阿蘇郡界村助役)は「谷中一村が潰れることにより他の村々が救われるのだからやむを得ないだろう・・・」と言い(板倉町史はこの主張は当時の被害地農民指導者の大方の考え方を代表している点もあったとしている)、田中正造とも激論を交わして敵になり「野口君までがああなってしまった」と嘆かせたが、正造の臨終には同席している。18)
◎田中正造を中心とした鉱毒事件の流れの中で次第に肩身の狭い思いをしてきた人々:
1、梁田村の長祐之は明治20年東京専門学校生徒の時から鉱毒問題を先駆けて取り上げ、明治24年7月には「足尾銅山鉱毒・渡良瀬川沿岸被害事情」発行するも直ちに発禁(内務省告示第32号明治24年7月14日内務大臣)となっている。この鉱毒被害の最初の告発者が自由党木村半兵衛派なるが故に正造からは敵のように扱われ古河の奴隷・犬等と罵倒され、後に鉱毒運動から身を引いた裏切り者のように思われてきて、その孫の代までも祖父を誇りにしつつも‘なにか後ろめたくしっくりこなかった’と言う思いを孫たちは持っていたという。
2、赤上剛氏のフィールドワークの席上、松木弥栄子氏が「私は実は左部彦次郎の孫です。左部は裏切り者のように言われてきたので心苦しくこれまで言い出せませんでした。被害民運動について一緒に勉強してまいります」と述べたという。
3、谷中村村長で祖父の大野孫右衛門と父の東一が古河鉱業に妥協したとして非難され、それ故に東一の四男大野四郎(詩人逸見猶吉)と五男大野五郎(画家)は谷中村残留民に対して負い目を背負い続け苦悩していたという。それ故田中正造や被害者側に立って最期まで支えた他人の逸見斧吉の名の一部を借りて逸見猶吉をペンネームにしたという。その「逸見猶吉の詩碑」が旧谷中村合同慰霊碑の前にある。
4、谷中村の川鍋岩五郎宅には明治37年7月頃より田中正造が非買収派として頼りにして寄留していたが明治38年10月左部彦次郎が役人側の土木吏員になってからは翌明治39年12月にはその川鍋岩五郎及びその長男を説得して土木吏員にしてしまった。
5、谷中村廃村時の村長茂呂近助は残留派からは裏切り者・脱落者の汚名を着せられ、身内からは疫病神のレッテルを張られた。その子孫達は近助を疫病神として語ろうとしなかったがある子孫は足尾鉱毒シンポジウムで裏切り者の子孫でも気にしなくても良いですよと声をかけられた、等で旧村民や研究者の間でも田中正造と最後まで戦った者が英雄で他は脱落者・裏切り者という2分論が残っていてそもそも裏切り者とは何なのかとその烙印に、茂呂一族が向き合って調べその成果を纏めて一冊の本にしたという(末裔たちの足尾鉱毒事件,2001年)。彦次郎と同じ買収派に回った宮内喜平の子孫も「買収に回った裏切り者」の烙印に終生悩んだという。それぞれの立場でそれぞれが現地被害民全員が悩んでいたと言ってよい。
6、明治34年松木村が廃村になった時田中正造ら足尾鉱毒被害救済会が仲介して全村を足尾銅山側に売却、星野金次郎1名を残して契約が完結し村民は村を去り無人化したことがあったが、この時に田中正造の養女ツルの夫山田友次郎はその買収問題に関与して正造の逆鱗に触れ以来身を引いていたが事情を知る中順和尚が危篤状態の正造に許しを請うべく連れ出して亡くなる前日引き合わせ初め実にいやな顔をした正造は「兎角天下の事は思うようにはいかんものだ」と10年の疑い晴れて和解したという。
◎田中正造の演説は上手かった。
 田中正造は自叙伝で(明治28年読売新聞連載自伝「旧夢譚」/小冊子「田中正造昔話」)、学問もなく物覚えも悪いと自虐的に述べているが実は演説は分かり易く上手かったという。
明治23年12月正造が衆議院壇上で最初の演説を行った時、同じ第一期の議員として中江兆民は正造の演説の姿を書き留め、12月26日の『自由新聞』に「兆民生稿」として下記のように正造像を描いた。
「場中東北の隅より「議長」と呼ぶ声は左ながら長板橋上に魏軍を喝破したる張翼徳を想像せしむ、此人壇に上ぼりなば如何なる悲壮激發なる言辞を吐くやらんと人々手に汗を握り居る中ヒヨコヒヨコ然とし壇に向って進む、早已に笑容掬す可し、人をして殆んど最初「議長」と呼びたる人と今此壇に進む人とは別人に非ざるかを疑はしむ、其壇に上ぼり言を吐くや率直洒落にして意旨極て明白なり、駁論諧謔を帯び聴く者及び之れが駁を蒙むる者敦れも噱然たらざる莫し、率直にして明白にして諧謔にして簡単なるが故に、 此人の壇に在る間は誰れ一人欠伸せず咳せず私語せず。此人や、三百議員演説の始より終に至る迄聴者をして首尾能く聴取せしめ記者をして首尾能く記取せしむる底の自然の特権を有する者の一人なり、此人や、何日も羽織袴の出立なり、羽織は木棉なるか、若し木棉に非ざるも、 棉と絹との中間とも謂ふ可きもの、即ち手織紬位ひなり、の大の紋五箇、躯幹短矮にして肥実に眉目倶に八字形、 談話も亦率直にして明白にして簡単なり、余一日此人と倶に食堂に入り相対して卓に就けり、 余は麦酒を飲む、此人は洋食を喫す、其卓に就くや独語して曰く「ハヽ田舎漢が此様な所ろで飯を食ふッ」と其辺幅を修飾せざるを知る可し、余始て此人と一二語を交へたり、此人曰く「私が演説すると真面目でも人が滑稽と思ふには困まる…」 思ふに世間此くの如き事誠に多し、 荘厳にして洒脱と思はれ、 謹慎にして奇矯と思はれ、無意の言行にして有意の言行と思はれ、皮相もて胸中を料られ年中新聞雑報の種子にせられ、 影と身と全く別箇の両人にて此世を送る者幾何人なるを知らず、 独り此人のみに非ず此人や其極て御芽出度見える挙動或は沈痛真摯の意思あるも未だ知る可らず、 其麁野なる被服中或は水晶の肺腸を包むも未だ知る可らず、此人とは誰れぞ、各議員と及び一同にても傍聴したる人と一同にても速記録を見たる人とは、此文を誦して半に至らざる前早已に其誰某なるを知る可し。栃木縣選出議員田中正造君即ち是れなり。」、と正造の「率直にして明白にして諧謔にして簡単なる」演説振りを生き生き描き出さした、という。(「田中正造研究」以前の正造像:東京大学日本史学研究室紀要 第17号2013年3月)
       (この原資料には未検証の内容も含んでいる)。

高崎市の綿貫観音山古墳について2020年08月12日

綿貫観音山古墳
                                 R2.8.11.
綿貫観音山古墳について

 R2.8.10.に群馬県立歴史博物館の企画展「綿貫観音山古墳のすべて」に行ってきた。1500年前の凄いものを観たという一語に尽きる。
特に「金銅鈴付大帯」は全国に3例しかなく鈴付きのものはこの1例のみという。その他の国宝級の発掘物がゴロゴロ出土している。
 この綿貫観音山古墳は97mで中規模の前方後円墳である。石室は榛名山噴火の角閃石安山岩を使っているという。即ち榛名山噴火(497年渋川噴火、522年伊香保噴火)の後の築造である。6世紀後半の築造であることに矛盾しない。

 昭和43年に明治大学考古学大塚教室の協力により発掘調査が行われたというが、実に50年後の今やっと脚光を浴びてきたというのも驚きである。一般的にはもっと大きな古墳群に今まで目が行っていてこの綿貫観音山古墳は決して有名ではなかったようだ。また幸い盗掘を免れていたというのも奇跡的である。
 一方昭和43年金メッキの馬具が発掘されたと上毛新聞に載ったとの記事があるが、その古墳の約100年後築造の奈良古墳群も昭和30年に発掘調査されていて、金メッキの馬具も出土していたはずであるが60年以上経た現在もなおその発掘物は未整理で詳細不明である。

 大山古墳等の超大型の大王墓は別格として、前方後円墳のうち60m以上のものは群馬県には計97基あり(うち100m以上16基)、畿内には河内・大和を合わせても60m以上の前方後円墳は計32基しかない(うち100m以上は16基のみ。和泉・摂津・山城には60m以上でも計7基のみ)。このように前方後円墳は関東の中でも上野国に突出して多いという事実がある。
 この綿貫観音山古墳は6世紀後半に築造された。この少し前6世紀前半は、6世紀初頭(507年)に第26代継体天皇が即位し、512年には朝鮮半島の伽耶国の一部を百済に割譲し代わりに五経博士が献上されて日本の歴史記録が始まった頃であり、伽耶国を支配していた大伴氏が没落して物部氏に勢力交代した頃であり、九州では527年磐井の乱が関東では534年武蔵国造の乱が勃発した頃でもある。
 この頃以降は畿内では古墳が縮小化に向かい畿内以外でも100m以上の造営は見られなくなったが関東地方のみ例外であるという(白石太一郎氏)。
 これは、ヤマト王権が経済的にも軍事的にも東国特に関東地方に依存していて、ヤマト王権から権限も委譲されていたことの反映であることを物語っているという。
 古墳時代後期の同じ6世紀後半に築造されたものに、総社二子山古墳・天川二子山古墳・山王二子山古墳・二ツ山2号古墳・割地山古墳、などがある。

続々群書類従 第四 「沼田記」 について2020年06月24日

 真田氏改易によって天和1(1681)年12月19日に沼田城の引き渡し式が高崎藩主ら総勢6500人が来て行われると、同日より幕府代官の竹村・熊沢が沼田藩に着任して治安維持に努めるとともに迅速な行動によって翌1月29日には完全に沼田城を破壊し尽して幕府側は帰って行った。この時に真田氏支配当時の状況報告書の提出が同代官から求められて、加沢平次左衛門が質問に答えて青山金左衛門が同報告書を筆記した。「加沢記」は平次左衛門が真田氏改易後に浪人となって下川田村に隠棲してからこれとは別に書かれたものという。加沢平次左衛門は元禄5(1692)年65才で亡くなった。
 現在残されているものは加沢覚書・加沢記・沼田城破却記・沼田実録・沼田記・沼田根元記・沼田古来記・沼田昔物語・等類似の古文書が多数ある。沼田市史の中世資料編の付録の加沢記・沼田根元記の解説によれば、加沢記は天明2(1782)年の利根郡政所村の増田家本「加沢覚書」、天保3(1832)年の同増田家本「加沢記」が内閣文庫にあるが、加沢記の原本の一部「西山家本」も昭和37年に見つかったという。
 一方、沼田記ないし沼田根元記は沼田の家々に多数みられる。何れも同じような部分と異なる部分が混在していて、抜書きをしたり写本を繰り返しているうちに異なってきたものではないかという。伝言ゲームが典型とされるが言い伝えているうちに結論が逆になることもあるという自然の流れを理解しこれが古文書に共通した特徴でもあると認識しながらの内容把握が順当なやり方であろう。たとえ異論があっても全く無視しては何も得られず、わずかの部分にも真実への道しるべが残されているかもしれないと考えて資料を探し求めることにもそれなりの価値は十分ある。  沼田根元記ないし沼田記で最も古いものは都丸家本の寛文10(1670)年「沼田根元記」であるという。これは沼田藩城主真田伊賀守信直の全盛時代に刊行された一冊本である。萩原進氏は沼田市史付録の解説文の中で隠棲後の加沢平次左衛門が藩命で編修した正式の史書として書いたものではないか、そして加沢記はその沼田根元記を書くための草稿であったのではないか、と推理している。
 以下は、続々群書類従の中の黒川氏所蔵本の「沼田記」である。
 前期沼田氏は大友氏説でほぼ確定。後期沼田氏説は3説のうち石田文四郎博士による三浦氏説がほぼ定説になっているようだが確定ではないようだ。
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表題
奥書
続々群書類従 第四
例言
一、本編は、史伝部の第三巻として、余目氏旧記以下二十二種を収む、
一、余目氏旧記は、・・以下略
一、雙林寺伝記は、長尾昌賢影像記、及び上杉伝来記の二種より成る、・・以下略
一、公方両将記は、・・以下略
一、小弓御所様御討死軍物語は、・・以下略
一、平嶋記は、・・以下略
一、多賀谷七代記は、・・以下略
一、世田谷私記は、・・以下略 
一、沼田記は、上州沼田の城主平経信、源頼朝に従って戦功を樹てしより以来、経信泰経常泰泰景義景家景の事績、及び景貞に至り、武田勝頼の為に滅されたる顛末を記す、文辞拙劣、誤脱また少なからずと言えども、沼田氏の事績を詳記せる唯一の史料たり、本書は黒川氏所蔵本を以て底本とせり、
一、棚守房顕手記は、・・以下略
一、佐野宗綱記は、・・以下略
一、香宗我部氏記録は、・・以下略
一、菅谷記は、・・以下略
一、箱根山中城責由来は、・・以下略
一、忍城戦記は、・・以下略
一、清正高麗陣覚書は、・・以下略
一、石川忠総家臣大坂陣覚書は、・・以下略
一、大坂陣山口休庵咄は、・・以下略
一、土屋忠兵衛知貞私記は、・・以下略
一、嶋原一揆松倉記は、・・以下略
一、嶋原天草日記は、以下略
一、山田右衛門作物語は、・・以下略
一、休明光記は、・・以下略 

一、本編は、文学士堀田璋左右氏主として材料の選択、及び編集の労を執られたり、茲に一言謝意を表す、また史伝部第一例言に、「文学博士萩野由之氏親しく材料選択の労を執られ」たる旨を記載せるも、該編は、印刷に臨み、本会に於いてその材料を増減せるものあるを以て、同氏の為に之を訂正す、 
    明治四十年六月 


続々群書類従第四史伝部 
    目録・・  

以下略して「沼田記」のみ記す。 

(130ページ) 
沼田記  
そもそも沼田のはじめの其の根元は(監?)、赤城山、子持山に相続き、一面には谷川山、武尊山、其の内広々満々たる湖水二千幾歳を知らず、伝わる所人皇四拾代天皇白凰十三年正月、日本大じしん、諸国山崩れ、水湧き出る、人民六畜死する、伊予国温泉埋む、土佐国田地五拾余万頃没、伊豆国に俄かに一つの嶋出づる、上野国北山に湖水湧き出で上野下総押し流し、今ここに監?にアマド切り破り、其の跡自然と掘り流れ行き、下総国流出村と申す処に赤城山大権現御留まり、末世の印なり、其の後人皇四十八代称徳天皇天平神護元年七月、僧勝道初めて下野国荒山大権現開き、日光山是なり、同時赤城山開き、さて又湖水跡何分旧事知られざる広原なり、自然と控えず、民家遠国他国より集まり来たり、隠れ里と名附く、雪霜陰之有り、 然れども次第に縄張り家作り繁昌す、一番に和田の庄、二番に庄田庄、三番に忍田(恩田か)の庄、四番に硯田庄、五番に川田之庄、六番に下沼田之庄、七番に町田之庄、是を七田之庄と名附く、地頭も之無く年々暮らし、仏神を祭る事も知らず、鳥類畜類のごとく、川狩り野狩りを業として蕃(?)然る処に人王六拾代村上天皇天慶の頃、相馬の将門一乱に関わり八州騒動止む事なし、其の頃都より平氏何がし流浪となり庄田之庄へ来たり居住み、所の者帯刀を知らずや恐れ崇敬す、月日を増し主君のごとくかしずき、近郷の者集まり崇敬す事言うことなし、文武両道兼ね備え誠にケイナリける人なり、のちには和田之様と申しける、然る処庄田の一女嫁し、位ぶり類なき一子を出生し、いずれもかつごう仕り、和田四郎と申しける、拾五歳の頃鹿狩り野狩りを業として、七田の庄官となり、其の外近郷の者控え集まり一番に師の住人、二番に石墨の住人、三番に真庭の住人、四番に後閑の住人、五番に滝棚の住人、同根岸の住人、六番に牧の住人、七番に岡の住人、八番に発知の住人、九番に川場の住人、十番に生品の住人、拾壱番に古語父の住人、何れも集まり崇敬す、和田四郎成人し丑田の庄が娘嫁す、繁昌し、庄十壱の番づつの住人駒の立どなし、あるとき和田の庄の申しよう、我が父都より流浪の身なり、不思議に天道に叶いかくのごとく繁昌する事神徳なるべし、鎮守を祭り子孫の氏神とせん、上之山に社を立て、三峰山大明神これ都の神なり、さてまた和田の庄司一子出生歓び際なし、其の名を和田の太郎殿と申しける、成人弥増し右拾壱人の住人かつごう際なく、先例にしたがい、三峰山を祭り、先祖の和田太郎を改め平経家と名乗り、
(131ページ) 武芸弓馬に強く、諸国六芸の達者召し呼ばれ、さながら一騎をも取り立て、保元平治一乱に平の清盛天下一等権柄を取り、之によって武蔵上野下野の流人我も我もと馳せ集まる由聞き伝う、我も古えは平氏なり、今出でずばいつの世に出づるべしと、経家十八歳、上下人立ちの番に師左京、二番恩田兵部、三番下沼田舎人、四番町田主計、五番硯田平馬、六番川田圖書、七番に庄田丹宇、合わせて弐拾人、上下共出で立ちいさみける、程なく京着す、大将清盛に訴えを申し上げ、清盛武将左様なり、目見え申しける、経家御能上意たり、沼田の始終問辺言上し、之によりて沼田、利根勢多両郡の主たるべし、安堵の御教書を下され、暫し在京致すべしと仰せ付けられ候、其の外武蔵の七党、上野の八党、下野の七騎、在京なり、経家両郡の庄官免許を給わり、其の名を高くあらわし、翌年帰国、両郡の主万歳とうたいける、七田の庄拾壱蕃の住人門前に市を成し、ある時経家我かく官位に登り、能く場所見立て一城を築くべし、如何かあらんと申しける、今の住居の場せまし、之によりて小沢の原は能き所と成り、吉日をえらび、土手を掘り二重に致すべき由、外堀深さ三間、敷高さ九尺、内堀深さ五間、二間半、土手二間、近郷百姓は公屋敷を役(設か、しつらえ)、本丸共に年中に出来致し候に付き、町の屋敷割り和田の庄残らず引き取り、小沢の城と名附く、丑寅の方に当たり、瀧本山小沢寺祈願寺を立て、万歳を謡う、七田の庄十一番の家中立ちならべ、この城一方川有り、本丸の方に致し候を小沢川と名附く、さてまた位勢日々に増し、然る所に小川住人名作の住人、羽場の住人、布施の住人、須川住人、右四人御旗本に願い奉る、其の上東は平沢住人、生井住人、追貝の住人、日に御はたしたに?遊ばされ下されと願い出で、其の外数を知らず馳せ来たり伺公(伺候か)す、 その節古椀着類切れ古物流れ出で候、ご吟味遊ばされ、若し後日如何あらんと申し上げる、之によりて牧の住人、後閑の住人、小川の住人、右三人大勢添え山を別に尋ね見る所に、高山の岩根に稲荷あり、立ち寄り見れば老人男女居る、是は何方よりかかる片地に居る、真すぐに申せ、鎮ずるにおいては今打ち殺すと、てんでに太刀に手をかけひねりけり、老人答えて、我々奥州より迷い候ものなり、奥州乱世に山を超え是まで罷り出でけり、越後の山里へ参り、飯米を支度致し、平日は猪鹿と申すを取り給物に仕り候、貴公様方は何方より御出で成され候、我々は是より十四里程里に出で、この国の大将より位を蒙り参り候、さてまたこの国に御大将御座候わば、憐れ御慈悲に御手下に成され下され候わば有難く存じ奉り候、其の名をなんと申すぞ、恐れながらそれがし阿部の末流宗家と申す者、先祖は一騎前も仕り候、 
(132ページ) 倅二人御座候、召し寄せられ御出で下し置かられ候わば有難きと願い出で候、私義は明日は存ぜず、之によって谷深く奥州道遠し、其の故藤原と申し候、然らば大将へ申し上げ候、この地に下し置かられ随分切り開き申すべく候、私一類共越後の山里に長男一人御座候召され下さるべく候、即ち野人ふとく、阿部の力丸と名乗り申し候、この段御大将へ申し上げ、御怡際(?)なし、 然る所へ東入りより申し上げ候は、一番に花咲の住人、腰本、土出、小川、右の村々の住人、其の外大勢にぞ願い出るは、我等住居仕り候山奥も人間ども知らず、悪鬼ども知らず、住居の里へ出候、人を追い払い給わりし物をかすめ取り、民家をなやませ、御退治仰せ付けられ下し置かれ候わば本山に入り手下に罷り成るべく、然らば案内仕るべく候、一番に川場の住人、二番に古証(語か)父の住人、三番に岡の谷の住人、四番に生品の住人、五番に発知の住人、六番に平沢の住人、生井の住人、其の外東山に入る者、土出での住人、小川の住人、腰本、追貝の住人、其の外名ある者ども里々村々より吉日を選び総人数千人の余打ち立て、籠居賊人みな阿部の末流、ある時は湖水勢多郡深し、さてさてたやすく返し成り候、阿部貞任末流ならん、奥州よりまよい出で、この所に住居するなり、折々奥州方会津へ相出で、押し取り切り取りを業として月日を送り、人の妻子を取り、又はこの東山入りて妻子をうばい取り、しゅでんどうじのごとくなり、之によりて大将経家出馬、東西北へ人を廻し、食い責め致すべく候、大手からめ責めけるに、大勢に無勢昼夜限らず責められて、うえに及びし大将を生け取り、経家の前に引き出す、己何者成り、この山に住居して氏家をなやます、阿部の貞任宗任暫くこの所にしのび罷り有り、我は多勢丸と申す者、住家之なくこの所に数年罷り有り、猪鹿と申す飯食い仕る、今之の如くむねんの次第と歯がみをなして申しける、則ち首打ち落としごく門に懸りたりけり、其の外同類打ち殺したり、所々うばい取りたる男女古郷へ帰しける、大将経家帰陣候、大小太刀在々所々御褒美下され候、 一、人王八拾代高倉院御宇に清盛悪逆し、木曽義仲信州より一揆起こし、北国西国納まらず、関東には頼朝公が寄々に廻文す、義経奥州に忍び、穏便ならず、石橋山合戦発り(おこり)、経家熊谷治郎に由身(よしみ)有るゆえ同道し、壱番に馳せ向かう、それより頼朝打ち負け、上総義助同じく心を合わせ打ち勝ちて、頼朝万歳後、経家近習たり、上総之助加勢して関八州人数百二十万騎、それより頼朝義経心を合わせ打ち勝ち、頼朝万歳なり、経家近習たり、沼田の城主永代安堵の御教書を下され、鎌倉に在番す、翌年帰国の暇下され、沼田へ帰城す、経家嫡男三つ峰へ登り、其の名を 
(133ページ) 沼田左衛門之尉平経信と改める、次は女子うつも利根姫と申す、器量余りにすぐれ、夫婦の御寵愛世に余り、然る処に経家七田の庄十一番の住人を召し寄せ、この所暫く住居するといえども、城内せまし、是より向こう滝棚之原城内広く取り立て申すべきと仰せ付けられ、それより吉日を選び、是の北東西は岩、南一方は原なり、縄張りは外堀内堀本丸三の丸を構え、小川の堀を引き払い、士屋敷、町屋鋪を移し、其の上根岸の滝棚へ民家を引き移し、栄作に出来た、則ち瀧棚幕岩の堀(城か)と名附けるなり、経信へ師兵部の娘嫁す、男子出生、則ち兵部をうぶ親にす、然る処利根姫の美女たる事、頼朝の義は際なく、経家も弥(いよいよ)出当(読み?)なり、程なく利根局懐妊と聞こえける、然る処を政子聞き給いて、下部に申付け、利根を失い、夜に入り参ずべきの段申付け給う、頼朝聞きつけ然る者其のままには叶うまじとて、代官らへ下され、その夜にこしに乗せ、西国方へ遣わすとかや、其のみぎり哀気の藤九郎ありまた懐略(妊か)と成る、政子承り失い申すべき段、美女たる事、頼朝之を召し寄せ、則ち丹後の局と申す、御寵愛際なく、また懐略政子承り失い申すべきの段、下部に申付け、あやうき所に、本多何家へ頼朝仰せ付けられ、こしに乗せ、其の夜大坂さして急ぎける、住吉辺にぞ行き暮れて、庵室有り、立ち寄り見れば、庵主右行の者伴い女子を連れ、一夜は安い事、ただただ一夜頼むと、本多則ち丹後の局御入り、急にいたわり、夜半時分出産のきざし有り、窂坊(産屋?)本田立ちさわぎ、近所氏家を尋ね、老女をたのみ取り上げて、玉のようなる男子なり、かたわらなる信家を頼み、月日を送り、この若君成人には成らず、随分と大切にいたわり、年月を経て、既に拾壱歳の頃、頼朝公大仏供養に上京のみぎり、本田丹後の局を打ち連れ、御若君諸ともに御先にたたずみたり、御先払いの武士何者成りとあやしみける、本田罷り出で、我々御訴訟申し上げたき事御座候、この段申し上げ、頼朝公御目通りへ召し出され御免し(お許しるし)有り、御こしより飛び出し給う、さてさて本田が忠節、丹後の局がふし物(寝具?)具えず、則ち秩父の重忠へ仰せ付けられて、旅宿を改め大勢の人々終計なり、それより其の名を改め鳴津之三郎と申す、大隅、薩摩両国を下さるとかや、さてまた経家倅左衛門殿、頼朝下向の後、鎌倉へ召し寄られて、経家老衰たるに依りて、沼田其の方より今安部(堵?)為すべし、経信有難きし合せに存じ奉り候と沼田へ帰国す、沼田勢多利根両郡の由来書付出し申すべきの段、重忠を以て仰せ付けられ恐れながら帰城す、家中の面々途中まで罷り出で恐悦申し上げる、経家老病養生叶わず死去、経信はじめ家中闇夜のごとくなり、古城を名付け法城院殿心岸主田大居士と号す、元亀三庚午六月十五日なり、 
(134ページ) そもそも沼田利根郡と申す事、其の水上は奥州金花山、その先はあや切り湖水干形なり、たえず流れ出る、金花山裏通りにて金水たえず、およそ沼田より三拾里程奥にぞ金水流るるなり、利金水の文字返して利根利金相生の義を取るなり、さてまた勢多郡と申す事、沼田より二十五里程奥に湖水あり、大湖水多勢丸住居の場ゆえ、おぜの沼と申すなり、この流れは勢多郡俗に多勢の沼と申すなり、 一、人王四拾五代聖武天皇の御宇、行基大師吉備大臣入唐帰朝のみぎり、日本三拾三カ国を六十六か国に改め、後に諸国順見す、然る所奥州小田郡より黄金出る、初めて献上する、之によりて金水ゆえ利根川と申す事なり、沼田左衛門平経信は父におくれ案じる事、家老家の子を召し寄せ、我考える所、此の城大鋪(おおやしき)居所にあらず、是より下瀧、棚倉懸け(崖?)と申す所、如何に候や、壱番に師兵部、忍(恩)田舎人、庄田隼人、硯田左京、平沢豊前、仰せ御尤もに存じ候、御忌服明け候わば、仰せつけられ然るべしと御請け申す、材木は川田より出すべく、月日を送り、経信忌服済み、それより吉日を改め、本丸三の丸両輪構え屋敷町割り普請年中に出来候、移徒祝義(儀か)にて、家中万歳して楽謡けり、然る所鎌倉より申し来たり、実朝公天下の譲を請い、頼家不行跡たるに依り、鎌倉に馳せ登り、継目申し上げ、御礼相済み、御教書を頂戴す、帰国して家中の面々途中まで御迎え万歳謡いけり、其の上川田の住人平井右近の一女嫁す、則ち城に入り済み、蓬莱を荘(かざ)り婚儀整いける、然る処拾月より大雪降り、東西南北の往来留まり、およそ雪一丈余り之有る故、死するもの多し、経信米石を出し、民を救る(救う?)、則ち経信一女、次は男子なり、成人の後女子は下沼田の庄婚儀下され、次男今年十五歳、父に勝ちて武道を能くし、則ち三峰山に登り、氏神を拝し泰経と名乗る、家禄を継ぎ家老家の子一等に恐悦申し上げ、然る処鎌倉より飛脚到来し、実朝公逝去、之によりてお世継ぎ御座なく、執権陸奥守平の義時、政子と談じ、京都関白道家公四男頼経と号し、天下は政子の簾中が政を取り、之によりて泰経は鎌倉へ馳せ登り、継目御祝儀申し上げ、御教書を給わり帰国を之れ願う、其の上北上野、沼田、片地取り山賊強盗さかんにして鎮め難し、之によりて早々御暇願い上げ出立有るべく候の段、仰せつけられ帰国す、家老総家中途中まで罷り出で帰城す、千秋の謡い相済み有る時泰経の申し様、我両郡の境を知らず、誰か参り候は相究むべく候や、忍田舎人、師兵部、和田の庄司、平井右近、右四人は境目遊ぶべしと仰せ付けられて先ず一番沼田の船渡しをを境とす、それより戸鹿野船渡しを越えあやど坂峠境を立て、それより空沢を通り、それより不動峠境を立て、ここに名棚誂(名胡桃か)の住人鈴木内匠と申す一騎当千の者罷り出で、 
(135ページ  御先祖御先仕り、人数合わせてそれより須川大度峠(大道峠か)と申す所へ出垣立て、それより布施猿ヶ原(猿ヶ京)と申す所へ出で、長井三国峠へ懸り、社人罷り出で申し様、伝え承わり候、古え行泰大師御通りの節、飯場御見立て、則ち三社権現の印を立つ、是れ三国の境なりと仰せられて、其の後の往来の者難所を安ん事参り、銭を掛け置きたまりて神社と成す、   上野国赤城山   信濃国諏訪  是れ則ち三国三社権現なり   越後国弥万孫 此の所を境と遊び下向し、猿ヶ京へ帰す、それより湯河原と申す処へ案内す、峠を越え湯河原より谷川、此の所より越後を通り之有ると聞く、成る程歩行道御座候、越後何と申す処へ出る、山里と申す所へ出で候、それより段下り、米石洞と申す所へも出で候と申し上げる、此の高山越後まで上州境と定め、不尽山と申す、また奥に藤原と申す所有り、奥州まで谷ふじゆへ、不尽原と申す、是より奥州何ほど有りと申す、大方十里余も参道なし、大木の下また十里も之有り、奥州金山の裏へ出で、それより御通り成さるべく候、我々此の谷は仰せ付けられ候ても、鬼神にても及び申さず候、然らば末々遊ぶべしと、それより湯原へ帰り、川を越え、牧村へ出で、是より佐山村へ越し、案内罷り出で、大沼村を越えてご案内、左の高山は何と申す、是は天ふだん雪降り申し候、それより発知村へ出で候、此の所に木村宇母と申す者永く御座候ご案内、さてまたこの向山は何と申す、この山は弘法大師が諸国廻りの時、此の所へ御出で、大唐の五大山僊(せん?)、大瀧蔵山と仰せられて一宇有るべしと仰せられ、之による所は麓に一宇建立仕り候、其の後は庵主も御座なく候、金山の水流なり、此の山所のもの申すには、発知山と申す、それより川場へご案内仕るべく候、川場より案内とうげへ出られ、このところにゆしま庄司御先を仕り、一宿遊ばされ、是より古証文むらやまのふもとをとおり、ひらさわと申すところへ出で、ここに平沢豊前と申す者お迎えに出で、生井村、棚村のもの共御迎えに罷り出で、是より東谷入りへ参るべく仰せ付けられ、此の奥山難所にぞ人馬立ち兼ね候由申し上げ、是より会津通り東入りへ廻文を遣わし御迎罷り出で、追欠村(追貝村)金子の住人、小河(小川)平沢の住人、土出で村星野住人、腰本村田村住人、右の者ども御先払い、戸倉と申す処へ付き、里々村々谷々の者集まり、是より会津まで何ほど有るぞ、如何様八里計り御座候と申し上げる、馬足立ち申さず、則ち戸倉、土出で、小河へ仰せ付けられ一宿遊ばされ、此の山奥は何と申す所ぞと御尋ね、去るいにしえ阿部の多勢丸と申す盗賊この里をなやまししを、御先祖ご退治下され、 
(136ページ)  今は安穏に御座候、其の先は何共知り申さず、奥州にほど近く御座候利根川の本なり、金山の裏へこの多勢丸の湖は皆勢多郡会津の境を究む、それより御帰り沼田へ右の趣段々に言上す、泰経、師左京娘婚礼、城入り相済み、家中恐悦申し上げる、万歳を謡う、泰経申す様、領分の道橋随分能く、民の困窮之なき様致すべし、薄根川橋三か所懸け片品川地領入合い、沼須舟渡し、利根川、戸鹿野村ふな渡し、後閑村舟渡し然るべし、出水等之れ有らば、日本一の要害名城なり、経泰男子出生歓びなり、然る処に鎌倉より廻文来たり、今度頼経公逝去、頼嗣公へ、御世を譲り申し候、早速馳せ登り、執権武蔵守時氏御目見え相済み、鎌倉上番仕るべく候と仰せ付けられ、沼田阿部(安堵)のお願い書き下され、翌年御暇下され、お城より家中の面々途中まで御迎え出で、万歳を謡いけり、泰経男子成人し、今年七歳、三峰山へ登り、御供師左京、忍田舎人、根岸兵部、右三人登り、山神を拝し、其の名を改め、沼田勘左衛門平の安泰と号し下向す、文武両道達者にて、家中諸士敬いける、月日重なり、次第に父に勝り、国も治まる御勢いなり、然る処に鎌倉より廻文来たり、この度頼嗣ご逝去、お世継ぎ之なく、後嵯峨院第一皇子宗尊親王鎌倉へ下り、天下の将軍と成る、泰平の由申し来たり、之によりて早速馳せ走り、執権相模守平時頼御目見え仕り、鎌倉在番たり、鎌倉の親王五代にはじまり、時頼におとない(訪い)民懐かしき、六拾余州無事、翌年泰経沼田へ帰国仰せ付けられ帰城す、家中面々途中まで御迎え城に入る、恐悦申し上げる、然る処泰経病気重なり、安泰を取り立て候様に申し則ち逝去、人々かなしみ限りなし、月日積もり安泰父の跡を継ぎ、繁昌の其の上に鎌倉へ登り、継ぎ目申し上げ、安堵の御教書を下され御帰国、治むる事第一なりと仰せ付けられ帰国、家中面々御迎え万歳謡いける、皆々武芸第一に致せと仰せ付けられ、弓馬懸り行き、稽古専らなり、猪鹿狩りなぐさみたるべし、天下大平と申すは此の節なり、安泰今に御寵愛なく、町小沢主計娘嫁入りす、何れも宜しく申し上げ、婚儀済む、然る処沼田町大小頼りの状上り、御城水不足に付き、町々難儀に仕り候、何卒上水御奉行仰せ付けられ下され候わば、行徳無水も参ずべき処、水引き落としに付、行き届き申さず候の段申し上げ、之によりて塩野井平右衛門に上水の役仰せ付けられ滞りなく参ずべく候、足軽三人平井隼人急ぎ申し上げ、上水境中山の賊人出馬し合わせて二百人ばかり押し込み、在家に押し取り仕り、何とも難儀仕り候、御人数御借り下さるべく申し上げ、早速遣わすべしと根岸大膳平井隼人両人手下三百人指し遣わし、則ち峠にて弓引きかけ、鏑をならし、打ち掛け打ち掛け、坂の麓へ追い落とし、石を飛ばせ、いきもつがせづ追い敗(やぶり)しける、跡をも見ずして逃げにけり、
(137ページ)  暫し飯屋を拵えて十日ばかり見合わせけり、其の後は音もなし、何れ帰りけり、安泰に此の如く申し上げる、境を押し込むところ、早速打ち払いし事勢力優れたりとて、御ほうび下され候、去るほどに安泰一子男子が出生し、お喜び際なし、然る処文永十一年鎌倉より宗尊親王御遠行に付き、早速鎌倉に馳せ登り、則ち惟康親王御代の執権相模守時宗へ御目見え仕り、之によりて沼田の事お尋ねの上申し上げるべく、鎌倉に在勤仰せ付けられて、安堵の御教書を下されて、翌三月帰国のお暇を下される、お城御安泰、嫡子成人して今年七歳、三峰山へ登り、お供は師左京、庄田左門、忍田舎人、家臣は氏神を並び拝し、沼田上野之助、平之常泰と号し、則ち下向し、父お喜びかぎりなし、然る所に須川の住人須川兵庫が注進し、上の山大道峠の城下に我妻郡の賊人が日々に峠に追入り(押し入り?)、此方の民家をかすめ、里へ出でて狼藉仕り候、御加勢下さるべしと申し候、則ち三百人を遣わされ、手勢とも人数五百人夜を日についで急ぎける、此の方麓に小屋を懸けて弓鑓棒さまざまの道具をかまえ出向き責め戦い賊人は責め立てられ、或は疵を請け或は生け捕り終に縛す、跡方□なく追いちらし、又は参ずべき之の峠にをり火を焼き、凡そ十五日程詰め居たり、沼田へ帰り、右の段いちいち申し上げ候えば、御目見え仰せ付けられ、此の度の出勢去儀何れも休足のお暇下され候、さてまた常泰成人遊ばされて、勇力当年十五歳の春の頃、領地の山々猪狩り致すべきなり、雪澤山に有時の節なり、家中諸士に仰せ付けられて、三峰山は鎮守のやまなり、その外の山々狩り致すべしと、仰せ付けられ候、発知へ川端山勢子の人数を出し、勢子大将は発知たるべし、日々に狩りをこのみける、然る処安泰老病を引き請け、養生叶わず逝去す、成孝院殿春王道英大居士、成孝院開禅なり、家老家中寄り、常泰をいさめける、父の養生叶わず天命の究る所なり、則ち山陵に納め仰せらるるとなり、常泰月日おくり忌服過ぎ、家中大小の士、古軍の事申し渡し、領内の民の歩行なし、清道但しく鎌倉より廻文来たり、其の書に曰く、惟康親王御遠行、お世継ぎ之無し、深草之院第二の皇子久明親王お世継ぎ給い、執権は相模守貞時なり、常泰早速鎌倉に馳せ登り、貞時にお目見え仕り、常泰申し上げるは拙方代々の先祖が相談納り候所に、近年賊人徒が原境の領内をおびやかし、御地のものかすめ取り、雪国にて雪霜の間、四箇月程に限り難儀仕り候の段申し上げる、尤に思し召されて、則ちお暇下されて下向す、家中の面々大小途中までお迎えに罷り出で拝祝す、城に入り万歳を謡いける、常泰忍田舎人娘婚儀調い、城に入りお悦び限りなし、年来ほど有りて懐胎身彌大切に、臨月を待つ所、若君御平産、お歓び際なし、然る処追欠(追貝か)の金子市蔵と申すもの 
(138ページ) 注進す、近郷東上州新田の方、井山家のものども根利家の棟峠と申す所、其より在々所々かすめ取り、男子をかどわかしける、難儀仕り候御加勢下され追い払い、あんのんに仕りたき義願いあげ、御老人数三百人差し越し、何れも長柄の鎌鑓弓矢長刀やうい(用意?)日についで案内させ、右の峠近くに飯屋立ち待ち居たり、あんのごとく百人計り有れども知らぬ峠へ上りける所を、すはやと追い懸けられ、思いも寄らぬ責め道具で打たず打たれず大勢に無勢、叶わず賊共命をおしみ逃げる所を、追い打ちに弓矢を以て討ち懸け打ちちらし、暫し見合いたりけり、番所と所の者を差し置き、皆沼田へ帰り逐一に右の段言上仕り、遠方へ別して大義至極と御褒美下され、何れも在所に帰り、休足(休息か)仕るべきと仰せ出された、さてまた常泰の一子成人し、当年七歳、吉日を改め、三峰山へ登り、氏神を拝し、お供は師兵部、和田の庄司、庄田右衛門、右三人登山致し、並びに拝し仕り、沼田右近大夫平泰景と改め、和田大膳と申す者は根元縁と伝わるなり、和田常泰の申しよう、鎌倉において祈願菩提寺申す事有り、此の城下に両寺建立すべし、則ち新田大光院僧と申す趣呼び寄せて、正覚寺と号す、新田、瀬良田、長楽寺の僧を呼び寄せて、三光院と号す、各々一宇建立す、然る処に町田主計が申し上げ候、此の頃上之原に夜夜光り物出でて、往来成り難し、何卒御吟味なし下され候わば、有難く存じ候、小沢大膳同道にて参り候処、見る所に二つの塚有り、堀りくずし見れば、黄金の観音一体光りをはなって出る、是は所の守護なり、大切に致し、其の所に一宇を立て、堂を立て、則ち別当は堀口民部に仰せ付けられける、其の頃鎌倉執権より廻し文参り候、久明親王御遠行に付き、守邦親王へ御世を譲り、早々罷り登り申すべく、之によりて其の時鎌倉の執権相模守高時へ継ぎ目のお目見え仕り、則ち鎌倉在番仕るべき段仰せ付けられ、翌年春帰国の暇下されて、沼田へ帰りける、城に入り恐悦申し上げる、然る処嫡子右近の大夫は当年拾七才、何れ成るとも妻を見立て申すべき段仰せ付けられ候、家中面々忍田舎人に申し上げる、平沢息女然るべき由、則ち平沢へ仰せ付けられ候、有難くお請け申し、吉日を選び婚儀済む、其の頃新田足利両家より内通折々なり、鎌倉高時の悪行日々に重なり、時節見合わせ一騎おこし申すべき段一身連判の廻文来たり、いよいよ相違これなき趣申し候、月日を送り軍を張り高時さらにそのいろ見ず、然れども毎年鎌倉出仕はやめざりけり、右近の大夫に男子出生、父歓びかぎりなく家中いよいよ恐悦す、然る処常泰病気に付き養生叶わず死去、家中大小闇夜の燈消えたる如く、弓馬の家に生まれし城主国主は、只誠をもって民をなで、士卒を扶持する事第一の之を名君とすべきなり、月日を送り家老役人召されて、郡中へ触れをなし、
(139ページ)  ほどこし宝をくばりけり、新田の内通もだしがたし、家中の若士武芸を磨くべし、弓馬別して(特別に)磨くべし、強くありけん、然る処右近の尉、父の継目申し上げるべく鎌倉へ参上す、高時にお目見え仕り、安堵の御教書を下され、しばし在番致すべしと仰せ付けられて、翌年沼田へ帰国す、家中の面々三日三夜万歳謡いける、  正慶二、鎌倉にて守邦親王薨(みまかる)、御年三拾三、同年新田左中将源義貞が高時を亡ぼす、北条九代百五拾年にて亡、是より一乱起き日本国中刃をけずり止む事なし、高氏打ち負けて西国へ落ちける、義貞利軍?加勢を才束(催促?)、之によりて新田よりなお才束す、義貞勝ちほこり、こうとうの内侍を下されける、高氏西国より押し来たり、義貞打ち負け高氏天下をにぎる、然れども国の庄官国主駈動(騒動か)止む事なし、然る処右近尉嫡子当年十一歳、三峰山へ登り氏神を拝す、お供師民部、和田庄司、庄田右衛門、社人和田大膳、則ち神前に並び拝し、沼田左衛門尉平義景と名乗る、則ち御下向す、さてまた鎌倉にては後醍醐之天皇第二の皇子大塔の宮尊雲二品親王は治世三歳、直義がために薨、同第三の王成良親王治世三年薨、是より鎌倉親王五代にして滅す、尊氏天下一等、六拾四州掌に入るといえども、三代義満にいたり天下納まる、天下泰平と成る、同十二年の内なり、去るほどに右近の尉泰貞、直義の使いにて鎌倉に相談在番す、鎌倉において病死の段、飛脚到来し、左衛門の尉義景早速馳せ登り、父の遺蹟継目し、鎌倉在番を仰せ付けられて相詰める、沼田は家老共計り相守る、然る処新田義貞の余類越前越後より三国を通り、沼田へ流浪し、ここかしこの民家をさわがし、其の上新田館辺より沼田へ押し寄せ、若し別心あらば一戦に於いて及ぶべきの段之を申し越し、之によりて左衛門の尉鎌倉に在番す、この段早々に申し渡し、指図次第早速帰国致し、一戦に及び候わば、加勢付けべき段仰せ付けられる、頓而(やがて)沼田より急ぎ城意する、沼田にても今や今やと待ち駒引き立てける、其の上越後通りの勢、新田よりの勢前後より責め懸る、左衛門の尉の申しよう、とかく申し訳なく、家中の士誰一人先に応じて一身仕るべき旨申し、其の上ともかくも時これしきに致すべし、之によりて新田の陣屋に使いを立て、一身仕るべく、庄田成馬に申しつけ、沼須川向いの陣屋へ罷り渡り、大将脇屋義治へ申し上げ、向後は鎌倉を打ち捨て、御身方仕るべく申し上げる、其の義神妙なり、則ち返礼差出し申すべき段、大森の後何寺、細須田豊前等を引かれ、新田の一族に軍用催促所々に触れける、左衛門の尉は沼田の城に誓居す、然る処家老の面々打ち寄り、君には御寵愛も之なく、幸い岡谷兵部が娘美女に御座候召し寄せられ然るべしと申し上げる、
(140ページ)  尤もに思し召し、兵部へこの段申し聞かせける、有難くお請け申し、則ち吉日を改めて婚儀済む、さてまた都には建武二年より応永元年まで四拾年の間、京都吉野の年号は両朝二つ立ち、吉野皇居も五十二年にて滅す、一天帝王と極みける、然る処にて沼田左衛門尉出世せんとすれば、新田より押し寄せ、また新田へ組みせんとすれば鎌倉も心もとなく、如何せんと家中一等評議す、先暫(まずしばらく)見合わせて世の中を御讒勘(ざんかん?)遊ばすべき段一統に申し上げ、尤もに思召すなり、月日重なり左衛門の尉男子を設け御歓び際なし、然る処に鎌倉より廻し文、両上杉管領相極み、和田の余類悉く討ち果たし、天下一等納まり、早々に馳せ登り、異議之無き旨申し上げ、則ち鎌倉在番致すべき段両上杉より仰せ付けられ、浦々島々まで足利殿一類遺恨を懐く者なし、義景も鎌倉に相詰めて、沼田は家老が取り計らい、然る処景義の男子当年十五歳、父は鎌倉に御座候らえども、家老打ち寄り、御父は当主たり共、御名を改め則ち三峰山へ登り然るべし、御供は師左京、真庭大学、後閑舎人、右三人登山せり、社人和田大膳は祓幣(はらいぬさ)を取り並び拝し、沼田民部大夫平の家景と名乗る、則ち下向の威勢ゆゆしける、さてまた鎌倉には両管領位をあらそい、意恨(遺恨?)山のごとく、表はむつまじく候らえども、数年御迎拝烈(?)、嫡子成人してご覧じ、お悦びは際なし、家老の面々国の□法お聞き遊ばされて、少しも違乱之なき段吉慶たり、然る処に大胡豊前、楢村、細村、南雲村を掠押し取り、それより長井川□村森下まで押領(横領?)せんとす、之によりて大森の後何寺より飛脚来たり、右の段加勢下さるべきと急に乞い候、則ち物頭一組、大小の士総人数三百人直ちに早馬を飛ばせける、大森も大勢一手に成りて相待ちける、豊前も是にたまりかね、永井坂へ引きにけり、暫し窺がいける、坂下へ押し詰め、山手にかかり、遠見を置き、豊前も今はせんなしとて引きにけり、自分も暫し日を重ねて大森へ引き取り、沼田勢も直ちに帰りける、大森方真下の一族に返礼に出陣の面々へ礼物持参せり、さてまた家景当年十八歳、御妻女なく、之によりて西山兵庫の娘然るべし申し上げ、尤もと思召されて、右の段兵庫へ仰せ付けられて、有難くお請け申し、吉日を選びて婚儀済む、さてまた大森一等平日に片品河通り境論日々に止むことなく、此方よりも手痛く攻め防ぎ、重ねて手を入れず、さてまた義景老病にて医薬叶わず逝死す、長男家景に遺譲す、正覚寺山後に納葬し慎み成りて月日を送り忌明き、家中の面々継目の御祝儀申し上げて、今度鎌倉へ出立の御供立て仰せ付けられて、吉日を改め出仕あり、急ぎ鎌倉へ参り着す、両管領へお目見え済ませ則ち父の遺譲相違なく安堵の御教書を下さり、在番仰せ付けられ翌年帰国お暇で、沼田へ帰る、家中の面々御祝の義申し上げ、此の節京都にては高氏、 
(141ページ) 西国にては毛利弘元、赤松一等、駿河義元、尾張、小田原北條、甲斐信玄、越後の景虎、在国出立なし、之によりて両上杉は領関八州を責めるべく思し召しの出立なり、其の味方数を知らず、 さてまた家景男子出生しお歓び際なし、成人を待ちにけり、鎌倉では両上杉の相論互いに止む事なし、其の上小田原北條に打ち破られ、関東の数年の戦い、管領長尾景虎一人にて意を振り、其の上一類共の在所は越後が日々に横領す、箕輪の城主長尾信濃、白井の城主長尾上野之助、平井の城主長尾武蔵守、然るに長尾信濃守沼田へ入魂これあり互いにむつまじく、則ち沼田、景虎の旗下となりけり、沼田家景嫡子当年十五歳、氏神三峰山へ登り家名を改め、御供師左京、忍田舎人、和田庄司、右三人社人和田大膳神前を拝し、沼田上野之助平景貞と名乗り下向す、家中一統に恐悦す、然る処に箕輪の城主長尾信濃守より飛脚来る、其の文に曰く、我等今貴殿と入魂の上は、長く御身を結び申すべく候、之の治女を貴殿の娘に遣わすべし如何と申し越し候、家景歓びけり、急ぎ家老一人遣わすべし、則ち忍田舎人に申付け、早速罷り越し大喜びと申し、然らば婚礼は当十一月差し越し申すべしと相究め、舎人お暇乞い罷り帰る、家景へ右の段申し上げ、お歓び際なし、普請を申付け、お望みの通り程なく出来せり、十一月初旬に至り日限究めこし、迎えに大勢指越し、箕輪より沼田まで櫛のはを引き沼田に着き城内へ入りにけり、家中の面々上下お歓び申し上げる、景貞ご夫婦むつまじく、父母の御怡(およろこび)浅からず聞こえける、程過(まもなく?)上野之助景貞、箕輪の城に着す、信濃守出向き御礼済み一間にしょうじ(招じ?)景貞の立ち回りをみてお歓び浅からず、貞方へもけんざん、日本一の士と申しける、貞方の申しよう、当所鎮守は榛名大権現御座を立ち勧請?致す旨申し候、景貞尤もに思し召し、別当に申付け、沼田へ移す、当所八幡は関東初の八幡、是も勧請申すべしと、板鼻の八幡是なり、戸鹿野村に建立、榛名権現は根岸村に建立、是より御領内の総鎮守なりとて、人々敬い参詣す、其の後根岸村を榛名村と申し伝えるなり、右両社は城主より御建立なり、然る処に鎌倉管領小田原北條の威勢強く鎌倉を押し破り、管領憲政を押し払い、北條の天下の如くなり、之によりて憲政は武蔵平井へ欠け落ち、ここに暫し住居す、然る処甲斐信玄に責められここにも叶わず、越後へ逃げ廻る、景虎をたのみ、管領職を譲り隠居す、之によりて景虎威勢強く、其の頃白井長尾意元入道色々知謀を通し、入道の申す事も用いずしてついに平井落城する、憲政ここかしこにて打たれ、或は三国通りもあり、或は沼田通りもあり、沼田の内下沼田と申す所に百人ばかり待ち休みにて打たれ、湯原通り上牧小松と申す所にても打たれ、
(142ページ)  或は出水に流れ、残りは越後へ行くとて道にて打たれける、長尾信濃守、信玄に多度責められ意玄入道も打たれ、関東おおかた北條になりけり、沼田は景虎の加勢にぞ、信州川中島年々数度の戦い止むことなく、小田原北條は越後領へ押し寄せ、前橋、平井、箕輪、白井、沼田は越後領なり、景虎と度々打ち出で、また信州へ信玄を打ち出で両度戦い、不意を破る、 然れども年若く成った大将にて、其の上管領印を持ち、京都より義輝の教文を下され、輝虎と号す、北條次男を養子に致し静かなり、然る処輝虎三十九歳にて病死、此の様子をみて信玄の諸士勝頼に所し(?)、直ちに我妻郡残らず攻め取り、横谷、西窪、湯本、鎌原、四人打ち従い、是を案内人にして沼田を打ち取り申すべく、案内いたせと申す、真田弾正忠は手勢を3千引き取り、我妻より中山を通り責め落とす、それより沼田へ急げる、程なく沼田へ押し寄せ、ときの声を上げにけり、思いも寄らぬ事なれば、慌てふためき迷いける、その勢い雲霞のごとくなり、家老面々打ち寄り、兎に角城を明け降参いたすにしくはなしと声をふるえて申しける、之によりて景貞妻をつれ住し城を忍び出で、貝野瀬通りを落ち行きける、家老共真田へ降参仕り城を渡しける、矢沢但馬に騎馬相添い、諸士を籠め置き、城主景貞は出奔す、尋ね出し候わば先地を相違なく下さるべく候と触れける、景貞は妻子を引き連れ、夜に紛れて新田の方へ落ち行く、然る処金子美濃と申すもの悪逆無道のものは尋ね出し、先地に成り申さんと、則ち跡をしたい(?)、景貞に尋ね逢い、真田軍勢皆々引き帰り候、先君御一人は忍びて御帰り成されと申し候、先ず久屋通りそれより町田観音堂へ廻り、是より御しょうぞく御替え仕り、星□論よりお入りなされと申す、是れに御家来皆々打ち寄り、御迎と申し上げる、左様と思し召し、則ち本輪へ廻り門に入らんとする所、同待ち懸りし士共首撃ち落とす、其の首大将へ美濃差し上げる、則ち御ほうび下され、、其の上金子美濃儀は数代の君主を打つ事、大逆無道の悪人なり、之によりて我妻川原の穽(おとしあな?)へ入る、諸人のみせしめたるべし、其の後我と死す、海野能登、矢沢但馬、交代に城代す、 然る処小田原北條、関八州残らず納め、片地沼田を残し置くこと、之によりて軍勢押し寄せ手もなく責め落とす、城代一人たまりかね城を渡しける、其の後猪俣能登守御詮議厳しく、真田防ぐ、北條も末になり、秀吉公に責め落とされ、さてまた猪俣能登守と出奔す、関東権現公御領となる、関ヶ原陣の時の働きに付、真田安房守昌幸へ天正十八年入部、同伊豆守信幸、同元和八年大内記信政、同河内守信吉、同伊賀守信行、同弾正忠信成、六世にて天和二歳酉の十一月領地没収、おしむかな沼田の城主はじめ真田安房守貞方、
(143ページ) 本多中務大輔平八郎忠房の娘、其の上権現公御孫なり、昌幸沼田に暫し居城す、之によりて貞方お願いに付、天守まで立てる者なり、大連院殿鍛冶町正覚寺に御霊供これあり、奥方沼田領分に鎮守、信州の諏訪大明神勧請し、村ごとに立てる、其の上武尊大明神、沼田総鎮守なり、是れまた相立つべしと仰せ付けられ、真田安房守沼田物領の時節に建立致し候なり、天正十八庚寅年なり、真田伊賀守まで六世にて没収す、その濫觴(ランショウ・始まり)を尋ぬるに、伊賀守もと妾腹にて、沼田領内小川五千石にて部屋住の人、成人後なにとぞ信濃守拾万石を心懸け、常に其のこころのみ、然る処に河内守へ信州十万石家督を渡し、沼田三万石は伊賀守へ渡る、心外に請け取り、城主となる、それより松代と観音へ通わず、是より同高に致すべしと領分三万石新撿(検と同じ?)を入れ、十三万三千石に打ち出し、之によりて領分百姓へ過役を申付け、難儀日々に増し、其の上浪人を高知行にて召し抱え、年々として不勝手になる、之によりて江戸両国橋架け替えに付、いず方の地頭成るとも望みの方へ手金として三千両なりとのお触れに付、伊賀守信行、永城代の面々諸役人を召され、近年不勝手に付、我が領分に此の通りの橋木これ有るや、若年之有り候わば三千両受け取り勤め仕りたく、並びに当用にもなり、其の上材木出方は尋ね役百姓に申付け如何候と仰せ出されて、諸役人御尤もに存ぜられ候、御注文御請け書差し上げて、来年八月上旬に両国橋へ着け仕りさすべきと申し上げ候、家老並びに山奉行普請奉行兼帯役なり、連判証文差し出すべく、此の旨下書き下されて、家老之なく、根岸宮内は川田に押し込み置き、仮の城主舎人を家老と判じ(?)、山奉行宮下七太夫、麻田権兵衛右三人右連判証文を差し上げる、即ち三千両の金受け取り、首尾良しと歓びそれより藤原山、発知村、川幡(場)村、佐山村、手分け木材ご注文の通り見立て残らず根伐致し、出し方は領分の百姓役に申付け候処に、未申酉三箇年は大飢饉、百姓夫食(ふじき)之なく、材木の山出し成り申さず、年中懸りても里へも出ず、数年按立てられ候こと、其の上八月中旬の証文暮れになりても城下へも見えず、引き延ばしの返事も申さずの躰、其の上に大将家綱公に度々の乗り打ち立林様の時も之なく、無礼数度に至り、口数箇条御書き申し訳立たず、伊賀守天奏の召しで青縄かけ、宇津之宮(宇都宮か)奥平能大夫殿へ御願い、御家門の面々残らず所々へ御預け、沼田の城の破却の仰せ付け、之によりて御城請け取り、御上使には安藤対馬守、新庄因幡守、その外大勢異議なく渡し、それより天守引き倒し、堀に埋め土居崩し、一城官広原と成る、御代官竹村惣左衛門、熊沢武兵衛、新町士屋敷二軒残し置き陣屋とす、 
(144ページ) 然る処に借り置きし橋木材木屋長嶋屋長兵衛へ仰せ付けられ、半年ばかりに江戸へ着す、百姓願いに付、即ち貞享元年より新撿仰せ付けられ、酒井雅樂守様へ仰せ付けられる、五百(万?)三千石余りに相定むものなり、天和元辛酉より元禄壱五壬午まで二十一年御代官所なり、

(この沼田記は続々群書類従第四の中に収録されているもので黒川本を底本としたものであるが、おそらく原文は漢文でそれの写本・印刷を経ていて、文辞拙劣、誤字脱字、誤読、誤植等あるも沼田氏についての唯一の史料ゆえに収録したと言っている。間違いがかなりあると言っても地元の人にとっては参考になる記載も多々ある。)

何故昭和天皇は軍部の暴走を止められなかったか。2019年09月18日

大戦前の昭和天皇、「国家主権は天皇にある」かつ「君臨すれども統治せず」の意味と実態について、

 大部分の国民が抱いているであろうと思われる「何で天皇は大権があるのに、軍部の独走や戦争を、抑えられなかったのであろう」という素朴な疑問は、ないわけではないと思う。インターネット上でも未だにそれぞれの言い分が錯綜している。それも一理ある、あれも一理ある、と百家鳴騒/百家争鳴である。自分なりに整理してみる必要がありそうなので表記をキーワードにして考えてみた。

「国家主権」という言葉は、法律学上は「天皇主権説」も「天皇機関説」も両方含む用語だという。更に現在の日本の「国民主権」をも含む言葉という。
明治23年11月29日大日本帝国憲法が施行されて以来、第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、第4条の「天皇ハ・・統治権ヲ総攬シ」の解釈には天皇主権説(=天皇主体説)と天皇機関説の2説があり、初め学者による天皇主権説・天皇機関説の両者は拮抗していたが次第に天皇機関説をとる学者が多くなり、大正2(1913)年には両者の論争にけじめがつき法律論上は天皇機関説が勝った。天皇機関説は大日本帝国憲法が出来てから、明治・大正と30年余りに亘って昭和10年まで、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説であるという。昭和天皇は、大正10年からは大正天皇に代わって摂政となって既に代行していた。
天皇主権説は、議会や内閣を超越した絶対統帥権限が天皇にある、という解釈である。一方、天皇機関説(昭和天皇の言う天皇=機関=器官)は、国家という法人に主権があり天皇はその統治機構の一機関(=器官)であるので天皇の統帥権は内閣や議会の輔弼のもとに成り立つ、という憲法の条文に沿った解釈であるという。司法や軍部の統帥権は議会や政府から独立していた天皇大権とされていたが、行政・立法側は輔弼(55条)・協賛(5条64条)の資格をそれぞれ有していたため、国権(国家主権)の運用の実態は天皇機関説に沿って為されていた。
天皇機関説(昭和天皇は人体に例えて天皇器官説でも良いではないかと云った)をとる美濃部達吉は、主権について、統治権が天皇個人に属するとすれば国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとし、国務大臣の輔弼を必要とするという帝国憲法規定にも矛盾が生じ、国務大臣の責任も議会の信任も必要なくなるので帝国憲法規定に矛盾が生じるとした。更に国権の任命権が超越した天皇にあるとすると瑕疵が生じた場合は任命権者である天皇の責任になり、万世一系の絶対君主天皇論が成り立たなくなるという。そのため形式上は元老(明治維新の元老が高齢化した後は内大臣)が推薦責任を負って天皇が認可するという形式をとっていたという。 

 しかしながら、昭和5年統帥権干犯問題・昭和6年三月事件同十月事件のクーデター未遂・昭和7年の五・一五事件等で力で黙らせる軍部の発言力が強まり政党政治が瓦解してしまった。
昭和9(1934)年には「国体明徴運動」が起こり、憲法学者や昭和天皇が天皇機関説を支持しているにもかかわらず天皇機関説の美濃部達吉は国会等で排撃され始めた。
翌10年には「国体明徴声明」を岡田内閣が軍部の圧力に屈して出してしまい、天皇機関説を異端学説として葬ってしまった。貴族院本会議において軍人議員の菊池武夫(中世の南朝方菊池氏の末裔で、足利尊氏さえも逆賊として糾弾した)により天皇機関説非難の演説が行われ軍部や右翼による機関説と美濃部達吉への排撃が激化した。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行い自己の学説の正当性を説いた。この時の美濃部の理路整然とした演説に議場は満場水をうったような静けさだったという。しかしその著書は発禁処分、美濃部は不敬罪の疑いで検事局の取り調べも受け、同年9月美濃部は貴族院議員を辞職し公職を退いた。
更に翌11年2月21日右翼暴漢により美濃部達吉が襲われて重傷を負い、その審理の過程で警護巡査のピストル弾丸による疑いも出て弾丸線条痕で目先の犯人とは別人のものもあると確認されたが警視庁は協力をせずその真犯人は未だに不明という。更に翌12年には文部省が「国体の本義」を編纂して国体明徴運動に理論的意味付けをしてしまった。
憲法上も軍・政府・議会は同等の権限のもとに独立していたために、軍の発言力が政府・議会を無視して暴走するようになり、あからさまな軍国主義に陥って行った。自分たちの要求が通らないのは天皇を取り巻く君側の奸によるものと若手皇道派が勝手きに決めつけて昭和維新断行を掲げて昭和11年の二・二六事件が暴発した。昭和天皇の意思とは無関係に、また憲法学者の意見も無視して、天皇主権説が前面に出てくる中で、軍予算削減等の国家予算の使い方に不満を持った軍幹部が狭視野の若手将校たちを焚付けていたためであった。
こうなると学問上の解釈や説よりも通念上での大衆への浸透の有無の方が大きな力を持ってしまったということになる。

 昭和天皇自身は大正天皇の摂政(大正10年11月より摂政)の頃から天皇機関説に賛成であり、「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と言い、「君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ」とも述べていたという。
もともと大日本帝国憲法下では天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていたという。昭和3年の張作霖爆殺事件の処理に関して総理の田中義一を叱責・退陣させて以降はさらにその傾向が強まった。昭和天皇は激怒し田中は落涙して総辞職した。29歳だった昭和天皇は後年の独白録で「若気の至り」と反省し「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」と云った。昭和天皇が政治に介入してしまった具体例である。「元老西園寺公望もこの時には『今後は余計な事は言ってはなりません、それは憲法違反になりますから』と昭和天皇に奏上したのではないか」と半藤一利は推定している。宮中内においても牧野内大臣・鈴木侍従長が会談を持ち政変や天皇と陸軍との関係不和を心配していた。
天皇機関説が当然と受け取っていた昭和天皇は、皇道派の思想に靡いていた秩父宮(皇位継承者第1位であった)の考え方も否定していた。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げた。(Wikipedia)。
大戦末期の昭和19(1944)年、確たる信念を持たず気の弱い近衛文麿が、木戸内大臣を通じて昭和天皇に「戦争指導に行き詰まり経済・社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏したことに対し、天皇は次のように、「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)、と論駁した。
大戦後の昭和26年11月11日に近畿巡幸に向かう特別列車の車内で田島宮内庁長官に昭和天皇は、「私の退位云々の問題ニついてだが」と切り出し、「帝王の位といふものは不自由な犠牲的の地位である/その位を去るのはむしろ個人としてハ難有(ありがた)い事ともいへる 現ニマ元帥が生物学がやりたいのかといつた事もある。/地位ニ止まるのは易きニ就くのではなく難きニ就き 困難ニ直面する意味である」と力説した。これに対して田島長官は「恐れ多くございますが/陛下は法律的ニハ御責任なきも道義的責任がありと思召(おぼしめ)され此責任を御果しになるのに二つあり、一つは位を退かれるといふ消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建の為に困難な道ニ敢て当らうと遊ばす事と存じます そして陛下は只今も色々仰せになりましたやうに困難なる第二の責任をとる事の御気持ちである事を拝しまするし 田島の如きはいろいろ考へまして その方が日本国の為であり結構な結論と存じまする」と述べたと記されている。(田島道治宮内庁長官の昭和天皇「拝謁記」)。

 統帥権干犯問題:
大正11(1922)年のワシントン会議、昭和5(1930)年のロンドン会議で、日本、米国、英国などの主要国は、アジア・太平洋の地域秩序を確立するために、中国の主権尊重・門戸開放、海軍力制限等の三つの条約を締結した。ワシントン体制と呼ばれるこの国際協調秩序確立と海軍力制限に大日本帝国海軍軍令部は強く反発した。当時の加藤寛治海軍軍令部長はロンドン条約調印に反対するため、 裁可の直後の4月2日に直接、昭和天皇に抗議して辞表を提出した。しかし昭和天皇は浜口内閣のロンドン条約調印決定を裁可した。濱口雄幸首相は昭和天皇の裁可を得て英断を行ったが同5年11月14日右翼に襲われて重傷を負い翌年死亡した。
統帥権干犯問題の本質は「陸海軍は天皇に直属する」という憲法の規定を盾に軍部が政府を無視して暴走することができたという点にあるという。
元軍神の東郷平八郎元帥も引っ張り出して軍部が反対し昭和天皇伯父の伏見宮博恭王元帥(海軍皇族の代表)も海軍力制限に強く反対したが天皇は裁可した。海軍は条約派と艦隊派に分かれて紛糾していたが、その後に艦隊派の肩を持つ伏見宮は対米英戦を避けようとする条約派の将官をその後徹底的に追放して、米国を仮想敵国とする艦隊派を多く採用した。これが対米開戦に繋がったという。

 二・二六事件:
陸軍皇道派が、君側の奸の尊王討奸・昭和維新断行を掲げて、天皇を中心とした軍事政権を樹立しようとした。
26日未明の決起直後に決起部隊代表が官邸に行き川島義行陸相が軟弱だと責められて陸相は決起をみとめた。その直後川島陸相は元陸軍大将で参事官の真崎甚三郎と対談し陸軍政権樹立を決めた。決起部隊は政権のトップに真崎を祀り上げる予定だったという。同じ頃、神(天皇34歳)が伏見宮(海軍軍令部総長、海軍軍人皇族の代表)に会っていた。不安を抱く天皇に伏見宮は海軍が決起部隊に加わる心配はないと伝えた。軍隊が秩父宮を代わりに天皇に担ぐという噂が有り、軍部からは大元帥として仕事を天皇はしていないと言われていた。秩父宮は決起部隊の安藤輝三と交流を持ち、天皇の親政の必要性や憲法停止も考えるべきであるとの意見を持っていて昭和天皇と激論したことがあり「秩父宮の考えは断じて不可」と昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に言ったこともあるという。
不安を抱く昭和天皇はこの時に伏見宮から海軍が同調しないことを確認して、更にその海軍陸戦隊の指揮官の人選には部下を十分握り得る指揮官にするようにとも気を使った。陸軍には模様眺めの上層部が沢山いた。海軍が同調しないことを確認した天皇は海軍に大海令を出して鎮圧に踏み出した。海軍は陸軍との市街戦も覚悟していた。海軍の一部には反乱軍に同情的な者もいて、小笠原長生元海軍中将は軍政府樹立に奔走していた。
27日決起部隊から海軍軍令部にもTELがあり、岡田中佐が出向く。岡田は決起の趣旨を否定せず相手の出方を見極めようとしていた。
同日午後9時決起部隊がトップに担ごうとした真崎大将が石原莞爾大佐と会い鎮圧説得に動き出した。真崎・石原は7―9割の確実性で説得は成功すると考えていたというが実際は説得に失敗した。両者の事態の捉え方が甘いという象徴的な事実である。一旦暴走すれば窮地に追い込まれて、窮鼠は却って猫を咬む、を理解していなかった。
28日午前5時天皇の奉勅命令がでた。しかし陸軍小藤大佐は反乱軍に奉勅命令を伝えずあいまいな態度をとり続けた。しかし雰囲気から決起部隊は陸軍上層部が反乱軍と位置付けたことに気付いた。決起部隊は海軍の岡田中佐とも交渉決裂した。同日午後9時決起部隊磯部浅一から陸軍にTELして文部大臣官邸にて近衛師団の山下大尉と会談、天皇の御意志を聞きたいと訪ねてきた。会談は決裂、山下は皇族の邸宅を傷付けないように気を付けろとだけ伝えて別れた。決起部隊は天皇に訴える道筋を次々に失って行き、市民に向けて自分たちは天皇に背いたわけではない、天皇と国民のためにクーデターを起こしたと訴え始めた。決起した青年将校らは、君側の奸を排除すれば天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていた。事件の詳細を知らない国民たちは妥協するなと激励し感謝の言葉を送っていた。
決起部隊が天皇に意志を直接伝えたいと閑院宮陸軍参謀総長宅前で閑院宮を待った。閑院宮(陸軍軍人皇族の代表)を通じて天皇に意志を伝えようとしたが閑院宮に会えなかった。
 29日午前2時40分、前夜から噂が飛び交わっていたが、秩父宮(安藤輝三・西田税ら国体原理派から担がれていた。皇位第一継承者。昭和8年明仁親王が生まれて皇位継承者から外れた。)を奉戴して行動するとの具体情報が鎮圧部隊に入った。同早朝から陸軍鎮圧部隊は本格的な鎮圧に動き出した。海軍陸戦隊も攻撃準備を完了していた。同10:05AM頃より決起部隊の一部が降伏し始めた。1:00PM平定した。陸軍上層部は天皇と決起部隊との間で迷走を続けたが、平定後の陸軍は組織の不安は取り除いたと宣言し、事件の責任は決起将校とその思想家にあると断定した。これを契機に政治家も財界人も軍部に本格的に抵抗する気力を失って行った。軍部に軽視されていた天皇は結果的にクーデターを鎮圧したとしてその権威(神格化)を高めていき軍部はその権威を利用していく。
海軍は1週間前より不穏な動きを掴んでいた。昭和11年2月19日に東京憲兵隊長が海軍省次官に首謀者名と被襲撃者の実名を挙げて陸軍皇道派将校らが決起することを報告していた。(全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る - NHKスペシャルなど)
決起将校の一人磯部浅一は処刑前の獄中手記で天皇機関説を悪と断定しており、「陛下の側近は国民を圧する奸漢で一杯でありますゾ」と書き、更に新聞記事で天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と側近に語ったとの新聞記事を読んで激怒し「毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております、天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」と記したという。磯部浅一は1年後に銃殺刑になった時天皇陛下万歳は唱えなかった。また決起将校らは昭和維新の詔勅と真崎への大命降下という計画を立てており、真崎は決起直後に反乱軍が占拠する陸軍大臣官邸に行き更に伏見宮と共に参内して伏見宮が昭和天皇に会ったが昭和維新については相手にされずやむを得ず反乱軍に和する大臣告示を出した。磯部浅一は獄中で、軍法会議での真崎の態度に幻滅し真崎を呼び捨てにして激しく非難した。真崎は226事件では有罪を求刑されたが無罪となりその後も生き、第二次大戦による東京裁判でも責任転嫁と自己弁明に終始して無罪となり昭和31年,79才で死亡。皇道派の首領の荒木貞夫は予備役に退かされ第二次大戦では終身刑になったがその後釈放されて昭和41年,90才で死亡。皇道派が激化するきっかけを作った菊池武夫元陸軍中将は東京裁判でA級戦犯とされたが無罪となり昭和30年,81才で死亡。
大日本帝国憲法下では総理大臣の任命規定がなく権限は弱く、元老が総理大臣を指名して天皇が大命降下で組閣を命ずるという方法を執っていたが元老の高齢化でその数が減り機能しなくなり、天皇が内大臣(内務大臣とは別で飛鳥時代よりある令外官)に諮問し、内大臣が「重臣」(首相経験者など)と協議して候補者を絞りこんで奉答する態勢になって行っていたという。
また二・二六事件の思想犯として西田税と共に民間人の北一輝が銃殺刑に処せられたが、北一輝の思想は当時の天皇制は否定していたが天皇主権論者あるいは国体原理主義者等とは別次元の思想であり、むしろ戦後民主主義に近かったと思われ、大戦後の日本国憲法には北一輝の考え方が反映されているともいう。

「君臨すれども統治せず」:
「国王は君臨すれども統治せず」とは、西欧において1500年代より言われており、国王の監督のもとにある連合共和国家における政治原則を要約した言葉として広く言われてきていたという。
日本においては、明治新政府が近代的な国家体制を模索する中で、大英帝国やドイツ帝国などのヨーロッパの立憲君主制国家をモデルとして目指すようになった。それぞれ「君臨すれども統治せず」の理念を遂行する方法論には違いがあり、一部で言われる「イギリスの政治制度を誤解した」という見方は当らないようである。伊藤博文らはベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。そして憲法の草案過程では明治14年の政変等の生みの苦しみがあり、大日本帝国憲法の明治22年公布してからその施行前の明治23年10月12日には「国会開設の勅諭」を出し政治的休戦と内乱の企ては処罰するとして憲法議論終了の厳しい態度で臨んだという。
当時の有識者たちが日本に合うように導入しようとして、明治14年の政変等を経て、大日本帝国憲法を構築したものと考えられる。
「統治せず」というのは自我としての天皇自らの意見を強要しないということで、天皇としての意見を言わないわけではない。実際折ある毎に言っていたようである。それでも聞かぬふりをして重臣が自我の意見を臣下の総意であるかのように押し通したり、上意下達・下意上達の情報交換の分断をすることの弊害が出るか出ないかの問題のようである。現在に言うホウレンソウ(報告・連絡・相談)という正確な相互の情報伝達は、「これで必要十分」という有り方はないのが、相変わらずの現実である。
昭和天皇は、政治・外交に関して自分の考えを大臣・重臣たちにかなりはっきりと伝えており、大臣・重臣も自分たちの意見を昭和天皇に伝えていて、互いに議論もしていたという。彼らは必ずしも、昭和天皇の意見に賛同したわけではなく、御前会議など正式の会議で決まったことについては、昭和天皇はたとえそれが自分の考えと違っていても、一切反対はしなかったという。「大日本帝国憲法の規定により、正式な会議で決まったことは天皇も守らなければならない」と昭和天皇は、考えていたからだという。ただ、正式に会議で決まる前は自分の意見を述べても構わないとも考えていたという。
このような考え方は昭和天皇だけでなく、明治天皇も同じで、明治天皇は日清戦争に反対だったが、御前会議で決まったらそれを了承していた。しかし、「日清戦争は、朕の戦争ではない」とも言ったという。
会議の席では声の大きい方が勝ってしまいがちというよくある悪弊を避けるべきことが如何に会議出席者にとって必要な義務であるかを示している。 
 もし、明治天皇や昭和天皇が天皇主権説に同調していたら、今の日本の天皇制もあり得なかったと思われる。目先の正しいか正しくないかの議論よりも、正邪を超えた国造りには、揺るがぬ理念を保つことがいかに重要であるか、を考えさせられる。そして国民の素朴な疑問にも向き合っていないと極端を好む国民からは国が見放されるようだと歴史を調べていて思う。


(9/25追記: 田島道治宮内庁長官の昭和天皇「拝謁記」について:NHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~(総合 2019年8月17日(土) )が新事実と放映した内容は正確に言うと、『昭和天皇と田島道治と吉田茂』人文館2006年加藤恭子著、で既に明らかになっていたことに、より詳細な根拠を与えたに過ぎないものでありNHKが新事実が出たと報道したのは言い過ぎだと原武史は『文芸春秋』10月号2019、で指摘している。)

田中正造は日本のガンジーだった。2019年08月19日

田中正造は日本のガンジーだった。       (R1.12.24.一部改訂)

世界の公害史の中で、振り返ってみると世界に先駆けてその原点となっていた、明治時代の足尾鉱毒事件について調べた。非暴力不服従という極めて稀有なる対応の一生を捧げた田中正造と、その軍師とも同志とも言える左部彦次郎を中心にまとめてみた。公権力側は小さな暴力でもこれ幸いと潰しに懸ってくる。これは今の時代にも通ずる。この意味では香港も危ない。

田中正造について調べている中で江戸時代の反六角家闘争からはじまり谷中村廃村に至るまで理不尽な権力者に対峙した時にとった行動が、終始非暴力と不服従に拘った生き方をしているのはインドのガンジーの非暴力・不服従の生き方そのものであると思える。しかもガンジーより年は28才先輩である。ガンジーが非暴力・不服従を始めたのは46歳の時、田中正造は27歳の時である。ガンジーの47年前に既に同様の行動に入っていたことになる。公害という観点からは、足尾鉱毒事件は世界のそのさきがけといって良いし、非暴力・不服従を実践していた時期はガンジーより古く遡る。田中正造の非暴力主義という観点からは日本のガンジーであり、ガンジーの先輩と言える。その視点から足跡を辿ってみた。

・天保12(1841)年11月3日 田中正造は下野国阿蘇郡小中村(現佐野市小中)生まれ、幼名兼三郎、父庄造(富蔵)、母サキである。7才の頃に備後福山藩出身の儒家の赤尾小四郎の塾に入り、教育熱心な父は謝礼に米2石(1人扶持、年間玄米5俵、1人1年分相当)を出した。母も下僕をいじめる自己中心的で強情な幼き正造には雨の中2時間余戸外に放置したこともあった。この頃から餓鬼大将ではあったが腕力だけでは駄目で人の信頼が大事であることを悟ったという。既にこの頃から、面と向かって罵詈悪口を言われるのは気にしないが、母親が「そんなことをすると村の者が悪く言うよ」との訓言指導は正造の心を痛く動かし、生来の滅茶苦茶の強情ッ張りを矯め直してくれた、と本人が述懐している。富者が金力に任せて贅沢をすることを酷く憎み屡々その鼻柱を砕くのが性癖だったという。既に道徳心とは如何あるべきかという確たる本質を身に着けていたと言える。
・安政4(1857)年、17才の時、藩の財政改善に貢献した父が割元(六角領7か村の名主の束ね役)に昇進したために小中村名主となる。父の代に苗字帯刀を許された。正造は寺子屋も開き農業に努める中で農の利潤は僅少のために、父の忠告を受け入れずに逆らい、副業藍玉商も営み3年で300両(現在の3000万円位)の利益を得た。そのために家事経済を村老萩原某に、商業を高原某に、藍玉製造を青木某に習い実践躬行の日課を定めたという。自分で決めたことは父に逆らっても実行するという「生来の一徹心」は既にあったと自ら認めている。この一生を楽に暮らせる程の大金もその後の六角家払奸事件で費やしてしまう。
・文久2(1862)年六角家の用人坂田某が病没。正造の父の富蔵がこの坂田某と協力して倹約に努め六角家の負債を解消し更に5000両を上積みしていた。この坂田某が病没して代わって林三郎兵衛が用人筆頭に着任して目につけたのが5000両の余剰金であった。これを私せんと欲し奸計を巡らせるが父富蔵らが江戸屋敷に申し出て領主も納得して奸計を防いでいた(12才の若君に奥方嫁するにつき御館の普請が肝要と言出し、丁度文久2年8月21日の生麦事件の頃で世の形勢から徒に費やすべきに非ずと申出て領主越前守も大いに意見を同じくした等。当時普請金額の3割から5割を賄賂とする弊害があった。)が、そんな富蔵を邪魔にした三郎兵衛は領主と共に大和と京都に富蔵が出張中に、村人達を富蔵から離反させる様々な奸計を行った。(丁度大和国に神武天皇陵が発見された時で高家である六角家領主の越前守に将軍の名代が命じられ富蔵もお供を申付けられた。更に臨時御用で京都に年余の滞在を余儀なくされた。神武天皇陵は江戸初期光圀の頃よりその地の比定が試みられていたが天保5年には水戸斉昭が神武天皇陵修陵を建議し、文久3年に戸田大和守和三郎忠至により「文久の修陵」がなされた。)京都にいる富蔵は書を寄せてたとえ林らがいかなる奸計を巡らせようとも上に明君がいるのだから言う立場にない正造は余分なことは言うなと諭したという。
父の意に背いて正造は過激な上書を江戸屋敷に届け出た。明君の速やかな英断を期待しての上書であったが、逆に直ちに名主職を免職になった。しかし村民たちの江戸屋敷への懇願挙動が知られて直ぐ復職となった。その後も林等は奸策を巡らせていてまもなく領主越前守が亡くなり幼君となり益々奸策酷くなり、ここに至って富蔵・正造父子の意見は同じ「無用有害の土木を起こすなかれ」となった。富蔵と正造父子を邪魔にした林等は名主永島藤吉らを騙し正造父子の割元・名主の自らの辞表を提出させるように仕向けた。言われた通り辞表を出したが村々の名主たちが驚き7村7百余名の連判書を江戸屋敷に提出したために父子の長文の辞表は却下された。しかし林等の政弊改まらず、永島藤吉らも林らの奸計に気付き領内人民の結束が高まった。正造父子は一同の忠告もあり局外に居て署名も控えて前面に立たないようにし、永島藤吉とかつての割元の小林藤七を結束人民の大将に決めた。正造は2回目の辞表も却下されていたがすったもんだの末にやっと辞職できた。この時将軍徳川慶喜は上野寛永寺に謹慎に入った。小中村にも幕府方の敗残兵がきて通過して間もなく今度は官軍が来る中で両者の間に巻き込まれないように慎重に対応して、林ら奸人を静岡の駿府大総督府に訴え出て効を奏し在獄になったが1か月で放免になってしまった。
出獄後の林らは自分達を訴えた藤七・藤吉両人を捕え投獄した。無政府状態の時勢にて如何なる残虐も殺戮も起こり得るため正造は人民に相談する猶予もなく、領主六角家の親族を通して本家筋の烏丸家へ渡ることを想定して手を尽くして上書を領主の親戚の小石川七軒町の六角家へ渡した所また逆に領主側の六角家へ渡ってしまった。そして入獄していた小林藤七・永島藤吉と入れ替えに今度は正造が3尺立方の牢獄に入れられた。
本家筋の烏丸家に奉呈した書の中には「・・三郎兵衛以下関係の者共を厳重御処分の上御当主様御暗君の趣に付恐れ入り奉り候へ共御隠居遊ばされ御次男様を以て御家督遊ばされたく候・・」とあった。正造自ら、君主を暗君と呼び執権を奸族といい・・命があったこと自体が思えば幸いだったと自伝で省みている。
性分として相手の弱みには決して付け込まないという正造の道徳的頑固心を示すエピソードが『六角家払奸始末(2)』にある。江戸屋敷に上書を届けることを聞き付けた寺の住僧がいて私欲を潜めて正造を宥め言含められたがそれを承知で表面上は逆らわず謹んで拝聴しておいたが、後年明治14年に県会議員の正造と大隈派の島田三郎が人力車2台を雇って演説会に行こうとした所、何とその一人の車夫がかつての僧であったという。「何ぞ図らむ其車夫の一人は曽て威権赫々たりし御朱印地の寺院浄蓮寺の住僧ならんとは、予や人の落魄に乗じて之を鞭ち之を駆りて殆ど牛馬の如くならしむるに忍びず、乃ち島田氏には他の腕車を供し、予は此の落魄僧に相当の賃を取らせて之を帰し、徒歩島田氏に尾して会に臨みぬ。」と自分は徒歩で島田三郎の人力車と並走したと記している。
 ・明治元(1868)年5月 正造28才の時、入獄。六角家江戸屋敷の3尺四方の牢に在獄10か月と20日(林竹二による。赤上剛に拠れば11月出獄で7か月ともいう)(1回目の入獄)。 
拷問にも頑として主張を変えず、入獄中は毒殺を最も恐れて差し入れの鰹節で30日間飢えをしのいだという。
六角家の筆頭用人が坂田某から林三郎兵衛になって、古来の自治村を壊して勝手に村役人を任命したり賄賂を要求したり江戸屋敷普請の使途不明金を要求したりの不正を行ったので正造は村の先頭に立って林らの悪政に逆らい、その悪政を領主・東征総督府・六角家本家の烏丸家・幕府などへ嘆願書を出したが幕末の混乱と領主の死で効を奏さず、そのような悪政を許してきた新領主は暗君とまで称し隠退させてその弟に家督相続させることを求める嘆願書を作成したが領主側に渡ってしまい六角家江戸屋敷の牢獄に入れられた。吟味の途中で本家烏丸家から吟味役が来て毒は入れないと保証したので断食を辞めた。六角家領主は引退・弟が家督相続・林は免職という申し渡しがあった。普通であれば領主に逆らえば即刻打ち首であるが維新の時代背景もあったのか幸運にも生き延びて正造の訴えが全面的に認められた判決で結果的には勝訴といってよかった。この六角家事件を通して、正造は人民の「自治的好慣例」を守った。権力が人民の自治を無視するなら、それと徹底的に闘うことが正造にとっての人民の代表である名主の責任であった。死と隣り合わせの獄中生活を不屈の精神で耐え抜き目的を達成したことは、幼い頃より名主としての心得をたたき込まれてきた正造にとって大きな自信となった。この一身を犠牲にして人民のために闘うという精神は明治時代にも引き継がれていった。
 田中正造は自伝で「予は下野の百姓なり」と言っているが、その強い百姓としての自意識にもかかわらず一般の農民とは異なる意識構造が顕著であったという。それは小中村名主としての12年間(17才~29才)の経験でえたもの、それは正造の言う「古来の自治村」では仲間の百姓から選ばれて名主という公の職責を引き受けているという自覚で、身分ではなく公職と捉えていたためという(林竹二)。
 ・明治2(1869)年4月正造29才出獄(在獄10ヶ月と20日、林竹二)、「一家残らず領分永の追放」処分。その他、藤七・藤吉両人は「領分払い」、その他の名主は「村払い」。相手側は林・張本ら奸侍は「永の暇」、奸側に付いた平塚は「永の領分払い」「御幼君隠居・御次男家督」と正造側の全面勝利。しかし5年にわたるこの事件で巨額の借金・妻子兄弟の離散等の惨状もあった。正造は対岸の堀米地蔵堂に一時独り住み寺子屋を開く。8月勉学の志を立てて江戸に出て同郷の先輩織田龍三郎の家の食客になる。この時に祖父と同じ名前の正造を名乗ったという。12月やはり友人の早川信斎が江差県から用務で上京してきて正造を訪ね他の先輩もいるからと陸中国江差行を勧められた。
 ・明治3(1870)年3月知り合いの紹介で江刺県の小官吏になりしかも新設したばかりの花輪支庁に出張勤務となった。未だ県境・郡境も決まっておらず租税簿冊もなく政務も緒に就かず人はいるがバラバラで支庁とは名ばかりの浪人部屋の如きであったという。
・明治4(1871)年6月10日 正造31才、江刺県での上司木村新八郎の2月3日暗殺事件での冤罪による入獄。花輪→遠野→盛岡と獄を転々とし凍死や拷問を潜り抜けた(鞭打ち・算盤責め拷問などに耐え、死んだ囚人の服を借りて凍死を逃れた。同年11月廃藩置県で江刺県を廃止して第2次盛岡県設置、翌年岩手県に名称変更。この頃風聞で正造が生きていることを知った父富蔵と妹婿が江刺県まで訪ねて来て種々手配し何処の馬の骨か判らぬ者と侮蔑されていたが身元が知れて獄丁の扱いもやや緩くなって辛うじて冬を越せたと自伝にある)。明治5年3月には岩手の獄に移され明治6年新獄則が施行されて畳生活になり読書も可能になって盛岡の獄では入獄中に英国人スマイルズの中村敬宇翻訳本「西国立志編」を読んだ。この時、談話と喧嘩を同一に聞き取られるような自身の話し方も禍を呼ぶと反省し話し方を研究するためにも西国立志編中の流暢なる章句を何遍も年余に亘って復唱したという。この時に吃りを直し、西洋近代思想・政治・経済を学んだ。盛岡の獄では書籍等の差し入れも自由で知人西山高久は鶏卵毎日2個を差し入れてくれた。この時の岩手県令は島惟精で自身も入獄の経験があり囚人に寛容であった。 
・明治7(1874)年3月入獄中に正造の母が死亡。島県令により無罪が証明されて4月5日正造出獄・34才、数日西山宅にて介抱された。この出獄後の数日「夢にあらずやと幾度か眼を擦り空を眺め漸く夢にあらざることを覚ゆるなど殆ど茫然自失・・」と天国のようであったと述懐している。数日後故郷小中村より正造の叔父が迎えに来て同道して5月故郷小中村に帰郷、既に義人として尊敬されていた正造は村の戸籍簿は既に3年前に処刑死亡となっていたが帰国することを聞き村の戸籍簿訂正していて村人は温かく迎えてくれたという。在獄2年9か月(2回目の入獄)。
5年ぶりに戻った田中正造は酒屋の番頭をしたり塾を開いたりした。正造は出獄後病気がちであった。 
・明治9年正造は酒屋の番頭を2年間で辞めさせられて夜学塾を開いた。
・明治10(1877)年2月~9月西南戦争。西南戦争で政府は紙幣を増発し、正造は物価高騰が起こることを見越して田畑を購入し3千余円の利益を得て六角家闘争で失った祖父の財力を取り戻した。(名主になった時の副業藍玉商・今回の不動産売買等、商才が元々あった。)
・明治11年5月大久保利通が暗殺された。犯人は「不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている」などの5罪を記した斬奸状をもっていた。西郷隆盛戦死10か月後であった。
同7月、正造38才、第4大区3小区の区会議員に選出された。その時正造は赤飯を隣人にふるまい斎戒沐浴して役職の遂行を区村民に誓った。誓詞が残っているという。本人自伝では「斎戒3日、・・実行を神祇に誓う」とある。正造は父に「一身一家の利益を擲つて政治改良に専心したい」と希望を述べたところ反対すると思った父は逆に「死んでから仏になるはいらぬ事、生きているうち善き人になれ」と某禅師の狂歌を記して正造にエールをおくったという。(木下尚江のいう「政治への発心」)。
正造は村会設立案を起草し仲間の区会議員にも相談して県知事に提出した。この時に政治に発心してこれ以降は県会議員、衆議員議員の政治家としての道を歩む(「田中正造の生涯」木下尚江著の中の『政治への発心』)。
 同年渡良瀬川のアユが大量死したが原因不明だったという。 
・明治12(1879)年 前年に府県会規則が制定されて、この年田中正造39才は第1回栃木県会議員選挙に立候補したが落選。並行して8月田中正造は栃木新聞(社主は斎藤清澄、主筆は山田勇、編集長は田中正造)の創業者の一人として創刊して編集長となり国会開設要望の論陣を張った(創刊号は60部足らずしか売れず、その後の栃木新聞と正造の苦心については木下尚江著「田中正造の生涯」の『野村本之助の回想録』に詳述がある)。
・明治13(1880)年2月 前年の第1回栃木県会議員選挙では辞退者が相次ぎ田中正造は関根彦十郎辞任の補欠選挙に立候補して県会議員に初回当選した(栃木県史資料編)。
同年11月栃木群馬両県6郡684名連署の憲法制定・国会開設請願書提出して田中正造がその総代となった。
同年12月、栃木県令藤川為親が渡良瀬川の魚族は衛生に害あるにより一切捕獲することを禁ずとの県令を出す。藤川県令はその後維新政府の怒りに触れ明治16年10月島根県令に左遷されて後任は福島事件で悪名高い三島通庸が任命されて着任した―板倉町史。
・明治14年の政変。大隈重信は伊藤博文ら薩長勢と対立しかつ失政もあり明治14年(1881年)10月12日参議を免官、10月15日付で大隈重信は辞表を提出した。「大隈は福澤一派と結託して政権を奪い取ろうとしている」との流言が生じて犬養毅ら大隈派が下野した。
・明治15(1882)年 梁田郡朝倉村「地誌編輯材料取調書」に「魚ハ鮎・鮠多ク居リタレトモ明治15年頃ヨリ足尾銅山工事開設以来右魚類更ニ相見エサリキ」と記録がある如くこの頃には鉱毒との関連が指摘されて明治20年の梁田郡の長祐之らによる東京専門学校の行政学討論に繋がる。
同年3月大隈重信は「立憲改進党」を結成10月「東京専門学校」を開設し、福沢諭吉も正確な情報発信のために同3月「時事新報」を創刊した。
同年6月田中正造42才も立憲改進党に入党した(自由党に入ろうとしていたが板垣退助が私欲に走ったと激怒して改進党を選んだ)。党員数は栃木県が全国1位になったという。東京専門学校と田中正造の関わりはこの頃からと思われる。
・明治16年12月栃木県令に三島通庸が福島県令のまま兼任で赴任した。赴任前より暴君の噂高く栃木県においても有無を言わせぬ暴政を行った。正造自伝「田中正造昔話」に詳しい記述がある。
・明治17年3月県会を無視した宇都宮への県庁舎移転・土木工事等の三島の一方的行政に対して反対運動を開始。元々声の大きい田中正造が議会での激しい攻撃に、さすがの三島通庸も議場から逃げ出すほどの剣幕でその暴挙を責めたてたが、三島通庸は刺客を送り込んできたため一時危険を感じて東京に逃れたりしながら三島通庸の残虐さを証明する証拠集めに奔走していたが9月加波山事件の一味であるとでっち上げられた。刺客から逃れながら東京の警視庁に名乗り出た。栃木県に護送する任務を果たすという担当課長に対し、正造が「それは困る、栃木県には法律がない、田中正造は三島の乱暴に反抗している、その無法律の栃木県に送られれば彼らは必ず事を構えて正造を死地に陥れるは鏡にかけてみるよりも明らかである、まずこの証拠を見られよ」と説明しようとすると、その警視庁の担当課長は遮っての問答の最後に「足下知らずや、わが大日本帝国の治下、尺寸の地といえども無法律の所無きを、その点は十分保証してあげます」と述べ、正造は「貴官の言、必ず責任あらん」と言って証拠物件の保存を託して護送に応じたが、しかしこの約束は守られなかった(悪気はなくともこの世の常ならん)。
同年10月18日三島県令が加波山事件に名を借りて正造を投獄した。獄中からも三島への対決文を支持者に送り続けた。在獄70日、12月23日出獄(3回目の入獄)。 
同年12月三島の悪評は中央にも流れ三島県令が免官となった。その直後同月23日田中正造は県民歓呼の内に出獄。正造は三島追い落としの英雄として県民に熱烈に迎えられたが、三島通庸は左遷ではなく内務省土木局長→警視総監に栄転した。三島のバックには常に伊藤博文がいたという。正造自伝によれば三条実美らの閣議で三島処分の議を開き可否同数であり漸く三条公の意で決したという。
・明治18(1885)年 朝野新聞に「未曽有の香魚大量死、足尾銅山より丹礬の気の流出が原因か」と発表された。
・明治19年正造46才、5度目の県会議員当選、県会議長となり、以後明治19~23年まで2期議長を務めた。
・明治20(1887)年秋、東京専門学校生徒の長祐之(梁田村)および須永金三郎(梁田村)が校内の行政学討論として初めて鉱毒問題を論じた。田中正造が鉱毒被害に興味を持つのはその4年後である。
(鉱毒被害初期の告発者である長祐之や須永金三郎は、衆議院議員選挙において木村半兵衛の地盤の梁田郡であり、阿蘇郡地盤の田中正造とは1議席を争った宿敵であったので、 田中正造からは示談派の木村派の者達は裏切り者のように見なされ、鉱毒運動でも分裂して敵のように扱われて「古河の奴隷、犬」などと一方的に罵倒されて鉱毒運動の歴史舞台から忘れられてしまったという。)
同年栃木県5か村群馬県4か村が組んで古河市兵衛と示談交渉始まる。邑楽郡海老瀬村1村だけが単独示談に応じてしまったという。
・明治21(1888)年 渡良瀬川の漁民数は7年前の四分の一に減少した。
・明治22(1889)年 2月11日、「大日本帝国憲法」が公布された。藩閥官僚の三島通庸のような暴政は徐々に消滅していくことが期待された。田中正造も発布式典に県会議長として参列した。翌年初の衆議院選挙および国会開設となった。
 この頃、政府は足尾銅山付近の官林7600町歩を古河市兵衛に、その他の官林3700町歩を下都賀郡長の安生順四郎に安価で払い下げた。(江戸以来の水源涵養林が乱伐に向かったとされる)。 
・明治23年7月1日第1回衆議院議員選挙、田中正造は栃木3区より立候補して当選、以後明治34年10月13日自主辞職まで連続6回衆院当選。
・同年8月10日の下野新聞が「足尾薪炭夫の暴行」を報道した。明治17年以来の煙害・乱伐採等で苦境に陥った薪炭夫300余名が銅山会社に押しかけ暴行に及び宥めに入った松木某巡査をも暴行して頭部へ負傷せしめたとの報道で、労働問題でも先駆けて起こっている(明治39年には坑夫の足尾暴動事件が発生)。
同年8月23日渡良瀬川の洪水発生、この年初めて堤防が決壊し以後毎年決壊するようになって沿岸の鉱毒水氾濫が酷くなった。
同年11月26日の東京日日新聞が「足尾銅山に関する紛紜」と題して、足尾銅山鉱場より流来る・・5郡結合して其筋に上申し若し聴かれずば法廷へも持出すべき決心の模様ありと云ふ。」と農民たちの怒りを伝えた
・明治24年2月梁田郡の河島伊三郎により雑誌「足尾之鉱毒」第1号創刊されるも直ちに発禁。
同年3月19日 群馬県会が鉱毒防止の建議書可決。群馬県会に於いて地元邑楽郡出身の小島文六議員らが足尾鉱毒問題の議案を提出し可決されて3月20日付で県会議長名で建議書が群馬県知事あてに提出されたが、実態の動きは見られず放任無視されていたという。(萩原進氏はこの冷淡な態度は総て本省の指示によることを原則とした官僚政治の一面を現しているとしている、が人事のゴタゴタもあるか?)。この時の県知事(明治19年に県令から県知事に呼称変更)は佐藤 與三で公娼廃止延期令を出して県会で知事辞職勧告をされ可決されて同4月9日辞職、同日から中村元雄に県知事交代、中村元雄が同24年に公娼廃止令を公布した。
同年9月田中正造が初めて鉱毒被害地を視察。7月より被害調査には着手していたという。
同年11月正造の父死亡。
同年12月18日第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を提出した。同24日に議院壇上に立ち政府を追及した。
同年12月28日群馬県南4か村(海老瀬・大島・渡瀬・西谷田)が独自に鉱毒除害並に採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に提出し、その努力に対して翌年1月15日付で左部彦次郎宛に感謝状が出された。
・明治25(1892)年1月15日 被害激甚地の邑楽郡四村から左部彦次郎宛に「左部彦次郎君の尽力により明治24年12月28日に鉱毒除害並に採鉱事業停止の請願書を農商務大臣に提出するに至れり」との趣旨で感謝状が出された。このことは明治25年2月発行の東京専門学校の同攻会雑誌第11号の「近時辺々」欄にて「校友左部氏感謝状を受く」と題して自費で行った結果がいち早く学苑内に伝えられた。
同年2月10日付東京日日新聞の政府和田鉱山局長の意見として「・・・足尾銅山より生ずる公利は被害地の損害より遥に大にして充分に損害賠償に依って取消し得らるべきものなり・・・」と国家的見地の利益の方が一被害地の損害よりも優先するという当時の政府見解は現代にも通じる問題であろうと萩原進は述べている。 
同年2月22日付で栃木県内務部が「渡良瀬川沿岸被害原因調査ニ関スル農科大学ノ報告」を出版。足尾鉱毒被害の事実を行政府が初めて認めた歴史記録とされるがなぜか急速に色褪せて行ったという。
・同年3月末より政府行政ルートが主導して銅山と被害民との示談が始まる。同27年には会社はこれを永久示談に切り替えることに狂奔し始めた―「田中正造の生涯」林竹二著。
・同年4月1日群馬県側地元と古河市兵衛との間で「足尾銅山主古河市兵衛契約書」が一定の条件のもとに示談成立、8月23日には栃木県側地元とも示談成立した(第1次示談)。 
同年5月12日足尾鉱毒被害民代表50人余が政府に陳情のため上京した。
明治25年5月から29年までは双方とも満足できないまま被害民の不満が表面化しなくなった。その理由は、示談があったこと・議会解散が頻繁だったこと・日清戦争で内紛を差し控えたためという。 
同年6月13日第3回帝国議会で田中正造が「農商務大臣の答弁に付質問書」を提出した。
・明治26年6月4日前年1月に左部彦次郎に感謝状を贈った4村長が発起人となり両毛鉱毒倶楽部を設け田中正造らを招いて向後の運動方針を講究する事に衆議一致したが演説した者は全員改進党員で近来同地方では稀なる盛会だった(明治26年6月9日付毎日新聞)。
・同年7月~8月田中正造は渡良瀬川沿岸の群馬県邑楽郡22か町村を巡回し8月28日には田中代議士の慰労会を館林町金松楼にて開催し全員が田中代議士の運動を称賛した(明治26年9月1日付毎日新聞)。
・明治27(1894)年 東京専門学校を卒業して鉱毒地で活躍した左部彦次郎は帰郷してこの年奈良村の初代消防頭を勤めた。
同年8月1日~翌28年4月17日まで日清戦争。
 ・明治28年8月田中正造の読売新聞連載自伝「旧夢譚」が小冊子「田中正造昔話」として刊行。田中正造自筆原稿の一部が佐野市郷土資料館にある。
  同年10月 栃木県・群馬県の両知事の連名で内務大臣・農商務大臣宛ての予防措置を求める上申書が提出され、この時既に足尾の官有林を伐採禁にして銅山の予防工事の必要性にも言及していた。同12月の群馬県会の議論は慎重派・鉱業停止過激派等様々で結局うやむやになってしまったという。
・明治29(1896)年 3月14日 左部彦次郎は群馬県会議員選挙に立候補して落選、隣村の松井八十吉を支持した本家の左部街三郎寛忠(俳号三舟)らと身内騒動を起こし恐喝事件として双方4人が入牢。
・同年3月25日第9回帝国議会に於いて田中正造が永久示談の不当性を追求した。
・同年7月21日及び9月8日1の2回再び渡良瀬川大洪水、1府5県に及ぶ関東大洪水となった。鉱毒水による大氾濫は人口52万人、戸数12万戸、反別10万町歩、に及んだ。農産物も漁業も壊滅的惨状でこれを契機にバラバラだった被害民運動が統一されて田中正造も事の重大さに目覚め以後一生を鉱毒運動に尽くすことになったとされる。それまで代議士選挙でも争った田中正造支持派の仲裁会と木村半兵衛支持派の査定会が互いに相手を敵視し合って争って田中は示談反対論を主張していたがこの年の大洪水以降は鉱業停止で一本化された(足利・梁田・阿蘇三郡で衆議院議員定員1を争った)。日清戦争が始まる頃でもあり示談が強制されていて村々が示談に流されていたので示談契約の欺瞞性に気付き鉱業停止で一本化するまでは逆に梁田郡久野村の岩崎佐十ら5戸の示談拒否農民は明治25~29年までは村八分状態であったという。
同年10月5日示談契約の欺瞞性に気付いた被害民たちは鉱毒問題の根本解決を期して雲龍寺に近隣10か村が集まり群馬栃木両県の足尾銅山鉱業停止請願事務所を設立した(地元民は複数の名称で呼んでいたという)。田中正造が早川田の雲龍寺を鉱毒請願事務所に借り受けた。田中正造は蓼沼丈吉宛の手紙で示談派の横尾輝吉たちを「・・・横尾輝吉他数名の者、古河の委嘱を受け金銭をもって請願者を瞞着せん・・・仮にも示談仲裁等のごとき腰抜不節操の挙動・・・」(明治29年12月3日付)と強い口調で非難していた。
・同年11月2日邑楽郡渡瀬村の雲龍寺にて群馬栃木両県関係者有志50余名が集まり第1回協議会が開催され、①徹頭徹尾鉱毒問題解決の運動実行、②終始一貫すること、③如何なる困難にも挫折しないこと、④鉱毒区域の指導啓発遊説をなすこと、⑤被害民中裏切るものは徳義的制裁を加えること、⑥右条項の確保のため「茲に一死を以て精神的契約を為す」という精神的契約書を調印した(雲龍寺に統一の鉱毒事務所が開設された)。以後毎月例会を開き不穏な動きも漂い館林警察署も密かに情勢探索していた。その後農民密会の場所として集団示威強行も含む事件の中心となって行く。この時はまだ旧梁田郡(既に足利郡に合併)からは田中派の久野村だけが参加していて木村派の数か村は参加していない。4県百か村に跨る精神的凝集の核になるのは後の事と言う。最初期より鉱毒被害が認識され最も被害が甚大であった梁田郡全域の態度が鉱毒停止に決まったのは鉱毒運動の流れを決する重要な出来事であったという。
・明治30(1997)年2月24日第10回帝国議会に正造が「公益に有害の鉱業を停止せざるに付質問書」を提出、同26日質問演説した。3月15,17日にも政府の答弁を促す演説を行った。田中正造の質問内容は「政府が主導して示談推進工作をして鉱毒は今後流さないからと政府が保証したから被害民も安心して明治25年の短期間で全被害町村で示談契約を結んだのにその後も鉱毒は流れ続き、明治27年の洪水で毒が流れたら知事とその部下たちが欺瞞に溢れた方法で被害民を騙して永久示談契約に結び直してしまった」との主旨の政府の示談工作への追及であった。翌18日漸く政府は官が間に入って示談を成立させた等の答弁を行ったが被害民と企業側が勝手に契約を結んだので政府は関知しないと言わんばかりの回答のその誠意の無さに被害民は激昂した。鉱毒地一帯が忽ち殺気立って大挙上京の用意が始まったという(この時の内閣は松方内閣であったが外務大臣大隈重信・農商務大臣榎本武揚で田中正造も与党進歩党であった。)
 同年2月28日東京で初めて鉱毒被害演説会が開かれた(演者は高橋秀臣・松村介石・津田仙・田中正造・島田三郎)。
・同年3月2日第10回帝国議会開催中に政府当局の放任に激昂した渡良瀬川沿岸罹災の人民2千余名による鉱業停止請願の集団示威運動が起きた(第1回押し出し)。
そのうち700余名は深夜上京して早朝6時に日比谷が原に集合し、陳情しようとしたがこれは不成功に終った。同3月13日 政党人による足尾銅山鉱毒停止期成同盟会発足。関係4県の総代等諸氏50余名及び貴衆両議員・県会議員らが上京、呉服橋外栁屋に集合して、足尾銅山鉱業停止を達成することを目的とし達成するまでやめないこと等を決議した(明治30年3月16日毎日新聞)が、上京後の政府当局の処理がはかばかしくない為3月下旬には再度上京の企てが議せられた。
同年3月23日の夜5-6日分の弁当持参で雲龍寺に3800名程が集合し警察の目を避けるようにして3-4日がかりで野宿しながら散々にして突然に日比谷が原に数百名の被害民が現れたという(第2回押し出し)。
この時は野口春蔵・谷元八らは大蔵省・内務省に陳情に行ったが被害地調査委員が任命されたことを聞き小数を残して200名以上の多人数が帰途に就いた(明治30年3月31日付毎日新聞)。
・同年3月24日(第10回帝国議会最終日)この日も帝国議会の演壇に立って田中正造は政府を追及していたが、多数の議員は他人事で速記録には(笑い声起こる)とあるという。3月18日の政府の「示談契約が出来てしまったのだから鉱毒問題はもう片付いた」との答弁に対して田中正造は激怒し「この答弁書の有様を以て残酷なる愚かなる何とも名づけようもない政府であると断念し、もはや政府は頼まない」と正造は議会で言い切った。
同日に内閣に足尾鉱毒調査委員会(第一次)が設置された。5日後に榎本武揚は辞職し交代して大隈重信が農商務大臣になった。
・同年3月30日 神田美土代町青年会館にて鉱毒事件演説会があり、聴衆600余名、弁士は田中正造・栗原彦三郎・高橋秀臣・津田仙・谷千城らで慷慨悲憤の演説が続いた(明治30年4月1日付毎日新聞)。
鉱毒調査会ははじめ「操業停止」と「予防工事命令」の両者が挙がったがその後5月27日には後者で決着した(翌年の第3回押し出しに繋がる)。榎本農商務大臣は被害地をみて鉱毒調査委員会を立ち上げ辞職したがこの時鉱業停止に腹が決まっており閣議の結論も停止に決まっていたという。それを引っ繰り返したのが鉱毒調査委員の渡辺渡工学博士だったという。渡辺渡は古河の技術顧問をしており委員としても足尾銅山を視察して鉱毒の垂れ流しをみており防除施設の不備を逆に利用した。改善の余地があるので出来るだけ改善の努力をしてその結果を見てから停止するかどうかを決めれば良いと主張したという。一見正論に見えるこの意見が委員会を停止ではなく予防の方向に動かしたという。(「田中正造の生涯」林竹二著)。
・同年4月18日田中正造は農商務省次官大石正巳に操業停止の直談判をして、世論も紛糾していたが正造の盟友島田三郎は毎日新聞社説で操業停止に反対し、正造が師と仰ぐ福沢諭吉も同年4月13日時事新報の社説「内務大臣の視察」にて『専門家が調査し判断すべきで素人の大臣が視察するのは害にしかならない、被害民が多人数で政府に陳情するなど文明国にあるまじきことで断然排斥すべきだ云々・・と言い、大石正巳農商務次官は鉱山閉鎖に傾きかけた意見が福沢先生の意見で変わったと言い、5月27日結局操業停止ではなく鉱毒予防工事命令が出た。正造は島田三郎・福沢諭吉ら尊敬する友人達からも足を引っ張られていたことになる。
・同年5月27日政府は東京鉱山監督署長南挺三名で被害民待望の足尾銅山鉱毒排除工事命令を出した。(榎本農相が辞任して設置されたばかりの鉱毒調査会委員や樺山内相も鉱毒地を視察し発せられたこの期限付き工事命令は一見厳しく古河市兵衛も突貫工事に努めて完成し鉱毒問題も解決に向かうとの大方の期待が世論に流れたが工事の検証も為されず世論の関心も薄れていた同年9月に洪水と鉱毒被害が再び発生し、被害民の政府・鉱業側への不信は極度に達した。なぜか南挺三は工事が終わると古河市兵衛の番頭(足尾鉱山所長)となってしまったという。
同年6月1日鉱業停止命令ではなく鉱毒防御命令であることに憤慨して栗原彦三郎ら代表8人が大隈重信邸を訪れたが、大隈の意見は「・・その結果を見ずに突然鉱業停止するわけにはいかぬ。・・」だったという。一時平穏を取り戻し古河市兵衛の態度を見守ることになったが停止命令ではなく鉱害排除命令なので会社もそれなりの努力を示すが被害は続く。
・4月30日大蔵省による鉱毒被害民への免租処分通達で該当者が公民権喪失した。
・明治31年6月6日帝国議会で正造は「邦内の一国に比すべき戸口を有する土地に対し鉱毒加害処分を果たさざる儀に付質問」を提出説明演説した。8月には再び解散第6回総選挙、正造当選。 
・6月30日~10月31日田中正造の属する政党の大隈重信内閣(隈板内閣)が成立するも4ヶ月で崩壊、11月8日山県内閣なる。大隈らは8月12日にはアメリカのハワイ併合に対してアメリカ大統領マッキンリーに対して極めて厳しい非難文書を送り外交危機に至るほどであったという。
・同年6月 被害民の鉱毒東京事務所の谷元八が「手助けしてくれ」と左部彦次郎を訊ねてきた(田村紀雄「渡良瀬の思想史」風媒社p248)。左部彦次郎はこれ以降鉱毒被害運動の参謀長役として八面六臂の活躍をするようになった。議会質問資料調査や質問要旨は青年彦次郎の手によって作成されたという(池田村史)。
・同年9月3日及び7日再び洪水発生。世間の注目を集め政府の本気度と被害民とに大きな期待を持たせた前年の鉱毒予防工事も何の役にも立たなかった。
・9月25日雲龍寺に1万3千余人の憤激した被害民が集まり東京を目指した。巡査が行く手を阻む中5-6千人が利根川を渡り、東京府芝区芝口の鉱毒事務所にいた田中正造と左部彦次郎は9月28日午前1時過ぎ途中まで迎えに出て東京府下南足立郡淵江村保木間(現足立区保木間町)で遭遇、その氷川神社に到着した陳情民は総数3千人程であった。興奮している陳情民を休憩させて淵江村長に頼み炊き出し食事をさせ、午後2時頃田中正造が激越な演説を行い、代表50人だけが入京することになったという(この時被害民を氷川神社に集め「保木間の誓い」とも言われる「多勢入京せらるるは不可なり」と憲法の請願権は集団を予定していないので集団示威行動は不賛成との正造の考えで人数制限をしたという。左部彦次郎は「足下万一間違ヘバ被害民ニクビヲ取ラレル」とそんなことを言って責任を取れるのかと正造に詰め寄ったという。(田中正造の日記には9月30日、総代50人、農商務に至る。大臣違約不逢。秘書拒絶。総代号泣すと。・・左部氏正造に云ふ、「足下万一間違へば被害民に首を取られる」と、答、「間違いなし」と。又曰く「やりそこねたら」、「否そこねぬ」と答ふ。と記されている(『田中正造之生涯』)。この時は正造の盟友大隈重信が首相の隈板内閣だった。)。二手に分かれて各省に陳情に行ったが大臣には会えず「野郎共事件」という侮辱まで受けた。左部彦次郎と須永金次郎両人が侮辱を詰問すべく責任者に面会を2日に亘って求めるも叶わなかったという。田中正造は保木間の押し出しで農民の大挙入京を思いとどまらせた経過を10月11日「政府及び被害民に対し、正造ほか同志の責任」との覚書にして板垣内相に渡しこれはのちに議会に提出されたという。しかし周りの政治家たちは猟官熱の焦々が如きものあり故に三千の被害民を説きて功とせり(官職を得ようと功を焦って被害民を返しただけだとの意か)との情けない捉え方だったという。もっとも田中正造は保木間の誓いを演説した時は既に隈板内閣に期待してはいなかったという。(田中正造の生涯林竹二著)。第3回押し出しおよび保木間の誓い。
・明治32(1899)年2月24日「被害民の保護を受くる請願」が初めて衆議院通過、引き続いて貴族院も通過した。
同年3月6日議員歳費値上げ案の反対討論を行った。同10日第13回帝国議会延長会終了時に田中正造が歳費辞退した。地租増徴案に反対し議員歳費増加案にも反対の進歩党は反対演説を誰に依頼するかの相談をして田中正造に白羽の矢が当たったという。賛成演説を自由党星亨が行い進歩党島田三郎が反論した。125対134の9票差で可決された。議員歳費増加案についてはさすがに自由党内にも従来からの主張と違うと恥辱とする者もいたため星亨は「議員の歳費は辞退することを得ず」とあった法律を「辞することを得」と修正して賛成に回らせたという。同8日貴族院でも19票差で可決した。法案は即時実行されるので10日の議会閉会の日に各議員は増加された歳費の半分を受け取って門を出て行ったが田中正造唯独り辞退した。
同4月19日歳費辞退届書を衆議院議長に提出し一時書記官が受け取りを拒否したが正造の強い申し入れで間もなく受理された。各議員・各政党・世論・新聞等から賞賛・皮肉・妬み・貶め・邪推等の様々な論評が渦巻いた。
(隈板内閣が前年11月倒れて出来た薩長閥の山県内閣は自由党の板垣退助・星亨と提携して地租増徴案を提案し合わせて議員歳費増加案を提案した。自由党・進歩党共に本来減税派であったので対応に困り党総務は田中正造に反対演説を頼んだ。3月6日反対演説を行ったが僅差で両増加案が通過した。反対派の議員たち含め他議員全員は増加歳費をそのまま受け取って帰ったが田中正造唯一人増加歳費を辞退した。星亨は議員達を安心させるために従来の議院法も「議員の歳費は辞することを得ず」を修正して「辞することを得」と変更していた。そして田中への誹謗「田中の歳費辞退は名聞の為だ」が却って進歩党(憲政本党)の中に起こったという。左部彦次郎は同年5月著作「田中正造翁:歳費辞退」を出版した。明治34年7月24日の彦次郎宛の田中正造書簡に「・・辞退ノコトハ当時真ニ此理を有するものたるをしるもの少きハ、実ニ残念ニてありし。貴下独り偶之を解して其説を為せり・・」と自分の理解者として正造は感謝している。彦次郎はこの著作は田中翁の感知するものでなく自己の責で発行したとあとがきで言っている。)。
<田中正造は自叙伝で、自身の小中村は「古来の自治村」であり「名主は村内百姓の公選に依りて挙げられこれに村内の一切の公務を委ね、且つ非常の権力を授けて村費臨時費の徴収及び支払等悉くその意に一任し以てこれが決算報告をなさしむるにすぎず。然れども一方において総代組頭等は年暮れの決算報告会にはその出納を検査監督して一点の私局を挟ましめざるの制である」、と述べ、既に行われていたこれを自治的好慣例とした。
それに対して藩閥政治を持ち込んだ明治政府は藩レベルの権力支配構造を国レベルに押し上げただけであり、村の自治的慣行を無視するならば藩の権力に逆らったように、明治政府にも徹底して逆らう、という権力の前に泣き寝入りはしないという強い意志を持っていたという、「田中正造の生涯」林竹二著。藩レベルの権力構造で成り立つ政治と人民の政治は異なり、士族的民権運動はステレオパタイプの発想から抜け出せず、藩閥的政治観から脱却できなかった故の不幸が明治の民権運動が進まなかった理由であるとしている。渡辺崋山も当時の良識家の一人であるが賞賛する酒井村村長彦八が「収斂を行う殿様は取り替えたらこそよかるべし」と言い放つのを聞き驚愕して狗にも劣ると非難した。武士階級のヒユーマニスト崋山もこの種の士道への囚われから抜けられなかったとも述べている。人民という被支配層の考え方と士族と言う既得中間支配層の考え方は異なっていた。田中正造のように自己生存のための既得権も平気で捨てられる者は滅多にいない。江戸時代に於いてはこのような自治政治を既に行っていたのが普通で、権力乱用の悪徳名主の村はむしろ少なかったのではないかと考えられる。>
・明治33(1900)年1月4日 雲龍寺での鉱毒委員会において連合9か村長を選び専任委員及び青年部の結成を発表した。同年1月18日雲龍寺事務所に僧侶18名その他280余名が集まり鉱毒被害非命者の施餓鬼施行した後左部彦次郎の先導で青年百余名と鉱毒悲歌を歌って鼓舞した、と館林警察署の記録にある。鉱毒悲歌は明治31年秋の上京時にも歌われたが、明治33年の鉱毒悲歌は内容が一変していて運動の精神的拠り所として足尾鉱毒だけの鼓舞歌を創作したもので革命歌であったという。萩原進氏の持つ原本には「鉱毒被害惨状の悲歌 悟毒海居士述」とあり左部彦次郎としていて、池田村史にも左部彦次郎作として載っている(明治33年8月28日館林警察署長の告発で出版法違反で出版人は罰金処分になった)。
・同年1月21日には青年行動隊結成を決死隊と名付けた。この時茂呂近助(谷中村下宮)は谷中村第6代村長に選ばれていた。同年2月4日雲龍寺に於いて上京繰り出しの大挙準備役員、上京員等を選出したが左部彦次郎ほか数十人の名前が館林警察署に記録に載っている。翌日熊谷郡長に陳情書(26カ村連名)が出されたが却下されたために同年同月12日雲龍寺に百名ほど集まり出京の決心を固めた。左部彦次郎、永島与八、野口春蔵ら危激な煽動を行いその決心を固からしめたという。館林警察署も他署の応援を受けて180余名体制及び憲兵10名で警戒に当たった。
同年2月13日 陳情民の大行進と警察隊との衝突「川俣事件」となった。(この川俣事件は前年明治32年9月より計画されて長い準備の元に決起したものという(田村紀雄))。
青年行動隊=川俣事件=第4回押し出し。
2500余名(毎日新聞では15000人)の大行進が雲龍寺を午前8時半出発した。14-5百名程が川俣(群馬県明和村)まで到着し一部暴力も使われしが抗しきれず午後6時雲龍寺に向かって引き上げたという。広報では警官は帯剣を麻縄で緊縛しており抜剣した者なく、憲兵も負傷なく、警官、人民共に軽負傷15名ほどのみであったという。しかし新聞に依れば被害民の多くは警官の抜剣した者を見たり、衝突現場での警官の殴打はやむを得ないとしても解散後の無抵抗者にも警官の殴打・目や口に泥を押し入れたり・警官数人で手足を取って水中に投げ入れたり・乱打・罵詈等甚だしく無抵抗の被害民の反攻する無きを路傍で見ていた父老はその意気地なきを憤慨していたという。雲龍寺事務所は閉鎖されて百余名の警官が同寺に詰めて帰り来る被害者は警官に暴行殴打されたりして一人も入れなかったという。永島与八、左部彦次郎、野口春蔵らまず8名がまず捕縛されさらに追加して計68名が前橋監獄署に送られた。7月9日前橋地方裁判所予審結審にて51名起訴、暴動首魁として左部彦次郎・野口春蔵・稲村与市・大出喜平・山本栄四郎5人は予審にて重罪となり裁判に付されたが上訴して明治35年3月15日東京控訴院にて無罪、検事は上告したが同年5月12日棄却されて無罪が確定した。福沢諭吉が創刊した時事新報(明治35年3月16日)にその詳細を報道している。
・明治34(1901)年3月14日島田三郎らが「足尾銅山鉱毒の件に関し院議を空しくせし処置に対する質問書」を提出。
同3月22日正造は病躯を押して登壇「大村・島田両代議士への答弁要領を得ざる儀に付質問」等7つの質問書を提出して論じた。
3月24日田中正造は第15回帝国議会閉会日に衆議院議員を全くの独断で突然に辞職宣言した(木下尚江に依れば「訣別の思いを込めて議会最後の演説をした」と解釈している。代議士の名義は川俣事件の鉱毒地臨検50人余り判事・検事・鑑定人・弁護士・新聞記者らが帰京する10月13日まで保持してから議員辞表を提出した)。
・同年11月29日夜に神田基督教青年会館にて鉱毒問題の演説会が開催された。聴衆に多くの感動を呼ぶ中で、この時古河市兵衛の妻のタメ(為子)の侍女がタメの命でメモを執っている処を木下尚江が感心しながら見ていた。翌日明け方タメが神田川に身を投げて自殺したのを知って驚いた木下尚江に依れば、メモを基に逐一侍女がタメに報告した所タメは目を閉じて溜息をつき涙が濽々と流れるのも覚えない有様であったという(早稲田大学百年史足尾鉱毒事件の項)。
・同年11月30日古河市兵衛の妻タメが神田川で入水自殺(精神病に罹っていたとも言われるが前記が実態と感ぜられる)。
・ 同年12月10日田中正造が第16回帝国議会開催式の帰途の明治天皇に直訴するも途中で遮られ失敗。直訴2日後の明治34年12月12日付朝日新聞には「左部の劇忙。左部彦次郎は鉱毒事件を一身に引き受け左なきだに繁忙の身なるに此の事件を生じて百事其の指揮を要する上一作日は麹町署に出頭して差入れを為し事務所に取残したる田中氏の水薬を取り寄せ或いは同夜留置の用意を為すなど辛労子の父に於けるが如く、一昨朝より昨日まで寝食の暇なきに流石の左部も大いに疲労せしが昨日は又公判にて之を医するの暇あらざりき」との記事がある。これは田中正造への左部彦次郎の姿勢を具現化した風景である。さらに同日の別紙面には田中氏の談話として「・・不敬たるは固より之を知る然れども今日の事只だ此非常手段の外に訴願の途なきを如何せん、殊に上訴の事の如き之を議院内に於いてせば至尊に近づき奉るを得て便宜甚だ多きを知る然れども一たび斯かる異例を敢えてせん乎、其の事の容易なるが故に薄志弱行の徒時に或いは之に習うの後弊を胎す無きを保せず故に予は議員の職を辞して以て鹵簿を冒し奉りたる所以なり願わくは微意の存する所を察せよ云々」とある。これは武士道の気骨に通じる田中正造の姿勢である。
また直訴の翌日、のちの酪農学園大学と雪印乳業の創始者の黒沢酉蔵は足尾鉱毒事件の田中正造氏のその正義感と人間愛に深い感銘を受け当時16才で面会に行ったという。
正造の足尾銅山閉鎖すべしとの主張は、当時の殖産興国の風潮の中では大方が閉鎖すべきでないとの意見を持っていたので酉蔵少年も正造のこの主張は極論過ぎると思っていたが、若い酉蔵少年に田中正造氏は人間にとって国土がいかに大切かを優しく語り、酉蔵少年は以後4年間にわたり田中正造の元で助手として働いた。この間「反対運動よりも示談が得策だ」とする農民を説得しようとして逮捕・投獄され6ヶ月間の未決拘留の後に無罪放免されたがこの獄中での聖書との出会いがその後の酉蔵少年の人生に大きな影響を与えた。晩年になって黒沢はようやく正造の主張の正しさを理解したと述懐しているという。
同年12月14日司法大臣からの指令により狂人として不起訴となり直訴状も本人に戻された。(直訴状の草案については孝徳秋水に依頼する前に左部彦次郎に頼んでいたともされる。根拠は「田中正造翁余禄」の共に巣鴨を訪ねる途中で田中正造から島田宗三が聞いた話、娘大場春江の「正造翁が直訴した文案も父の稿になるものだと私は聞かされている。考えてみると父は可成り筆のたった人らしい・・・」(残照の中で)との記録、そして田中正造の明治36年6月29日の日記「麹町11-22 斎藤うた 左部氏の母 支配人 上奏の時餅一備」にあるという ― 赤上剛)。
・同年12月12日内村鑑三、孝徳秋水らが東京神田で足尾鉱毒講演会を開く。
・同年12月27日東京府下の学生1000人余が大挙して木下尚江・内村鑑三らが引率して鉱毒被害地研修旅行名目で激甚被害地の海老瀬村・谷中村を視察した―板倉町史(東都学生被害地大視察団)。
・同年12月 松木村(足尾町字松木、現日光市松木渓谷)廃村。(明治17年頃より酸性雨による木の立ち枯れが始まり明治29年の山火事を契機として禿山が再生しなくなり桑も農産物も育たなくなり産業が成り立たず田中正造ら足尾鉱毒被害救済会が仲介して全村を足尾銅山側に売却、星野金次郎1名を残して契約が完結し村民は村を去り無人化した(田中正造の養女ツルの夫山田友次郎は任されてその買収問題に関与して妥協したとして正造の逆鱗に触れたが正造の死の直前にやっと和解できた)。同じ時頃松木村に隣接する久蔵村・仁田元村も廃村となった。後に谷中村も廃村になる。二次世界大戦後星野親子もひっそり村を去り1200年の歴史のある村が静かに幕を閉じたという。)


・明治35年1月7日文部省は学生の鉱毒地救済運動を禁止する、と各大学・専門学校に訓令を出した。この時文部大臣・東京府知事は全面禁止の方針を出したが帝大総長山川健次郎は学生の行動を容認した。
この年、内務省は秘密裏に谷中村・利島村・川辺村の遊水地計画を練り始め、1月には早くも埼玉県利島村・河辺村両村に遊水地反対運動がおこった。
・1月15日 館林町に邑楽郡各町村が集まり帝国議会請願のための協議し各地で説明会を開催。
・同年1月19日雲龍寺に学生が180名余り大挙して来て小学校校庭で鉱毒停止のため大挙して上京せよと木下尚江・内村鑑三・安部磯雄らが煽動的演説をした。
・同年1月31日群馬県雲龍寺と栃木県舟津川に被害民らそれぞれ400人、計800名余が鉱毒地視察名目で集まったが警察の説得により解散した。
・同年2月19日夜11時頃婦人100余名うち途中警察に食い止められなかった17名の陳情団が意表をついて入京した―板倉町史。青年部と共に隠密裏に婦人部も結成していたという。警察は威圧を加えて追い返そうとしたが婦人たちは容易に受け入れず御礼のために上京するに何の差し支えあるべきかと着京した。川俣事件で青年部が潰された後の婦人隊の出現は意外に功を奏し社会の関心を向けるに充分であったという。 婦人陳情団=第5回押し出し。
6月16日正造が官吏侮辱罪で入獄、入獄期間41日間で保釈。(4回目の入獄)。前橋地方裁判所での川俣事件の審理で15回公判の明治23年11月28日の検事論告中に正造が抗議の大あくびをして官吏侮辱罪に問われて裁判にかけられて2年後のこの日に有罪判決が出て収監された。この時盟友の内村鑑三は「田中正造翁の入獄」と万朝報(明治35年6月21日付)に署名入りで入獄非難の投稿した。田中正造は控訴して有罪を取消し無罪となるのは5年後の明治40年6月13日であった。官吏侮辱罪で入獄中に差し入れの聖書を読み保釈されてからは田中正造は若い黒沢酉蔵と一緒に聖書を勉強しに新井奧𨗉の所に通ったという。 
・同年11月7日付で警視総監が政府の鉱毒調査会宛てに「左部彦次郎の談話」として報告しているが、鉱毒調査会が鉱業停止の意向が全くなければ死を賭して戦うがもう少し鉱毒調査会の意向を探ることになっているとある(同会宛ての報告書の名称は鉱毒調査会とも鉱毒調査委員会とも両者混在している)。
・同年12月25日川俣事件宮城控訴院にて控訴棄却・公訴不受理にて公判消滅。(全員無罪。川俣事件は明治33年2月13日発生、同年7月9日51名起訴して予審結審、16回に及ぶ公判後12月22日前橋地方裁判所の1審判決出て双方が控訴、明治35年3月15日東京控訴審第2審判決3名の微罪を除き無罪・しかし世間の予想に反して被告団はたとえ一人でも有罪のうちは服せぬと上告し・検事も上告して、4度目の大審院での審理となり原判決の適法性という法律理論に終始しわずか1日で終わり明治35年5月12日第2審判決を棄却して宮城控訴院差戻し審の判決、同年10月8日公判開廷の呼び出し状が届き11月27日宮城控訴院にて公判開廷して書類の不備を指摘され検察の控訴が棄却され、12月25日公訴自体が不成立とされ全員無罪となった。単なる書類の不備であれば一審で再起訴も法技術的には可能であるがそうしなかった要因として、被告達の一歩も引かない不退転の決意・日露戦争直前の緊迫した政治の大きな力が働いたためという―田村紀雄著「川俣事件」。)
・明治36(1903)年3月3日第二次足尾銅山鉱毒調査委員会報告書で谷中村の貯水池化の方針の確定した報告を提出した。初めは埼玉県に遊水地を作る予定であったが反対運動で断念して谷中村を候補地にした。
 この年、田中正造は「政府がこの鉱毒の激甚地を棄てるなら、余はこれを拾ってそこに一つの天国を新造すべし」と云ったという(林竹二)。
・4月古河市兵衛死亡73才。(陸奥宗光の次男で養子に入っていた古河潤吉が後継)。
・6月3日 政府が鉱毒調査委員会の調査報告書を公表、谷中村貯水池案が浮上。
 この年は前年の大洪水の土砂が毒土を蔽い沃土となって豊作になり回復したかの錯覚に陥った。
・明治37(1904)年1月 白仁武が栃木県知事になった。
1月30日 谷中村廃村反対運動は多くの人の支持を得られなくなり孝徳秋水さえも平民新聞に「ただその局部に膏薬を貼付するが如き救済請願運動何を為さんや」と益無き抵抗と断じている。
明治37年2月~38年9月日露戦争。
同37年7月30日より田中正造(63才)は谷中村下宮の川鍋岩五郎→次いで小川長三郎宅、へ寄留するようになった(谷中学が始まる)。ほぼ同じ頃左部彦次郎も谷中村(同じく下宮?)に入ったという。
・同37年9月谷中村の村長に明治35年以来成り手がないために下都賀郡書記が谷中村管掌村長として任命された。
同年12月24日 国会が谷中村買収補助費を可決。前日の12月23日正造が支援して当選していた武藤金吉代議士から電報「谷中事件明日決まる、どうする、返事を」が正造に届き、正造は「谷中村下宮の茂呂武一宅にいる左部彦次郎に見せて至急大挙運動をするように言え」と島田宗三を通して頼んだが左部は動かなかったという。何を以て動けと頼んだのか理解に苦しむが鉱毒現地から東京に向けての突然の運動自体が無理であるが正造はそんな彦次郎を非難したという。
・明治38(1905)年1月1日調べとして田中正造の日記に谷中村外の安生順四郎が谷中村堤内外の土地を60町歩持っているとある。元下都賀郡長の安生順四郎は明治31年以来谷中村に村債を発行させて巧妙に操作して谷中村の土地を手に入れて大地主となっていた。(林竹二)。島田三郎も帝国議会で名指しで安生順四郎を奸人と非難したという。
・3月24日原敬が古河鉱業副社長に就任。
・5月頃より鉱毒運動の指導者たち、宮内喜平、神田重吉、針谷秀吉、大野定助、内田健三らが次々と買収事務員に引き抜かれていき、谷中村の助役田中与四郎も栃木県土木吏になったという。
・8月2日~3日谷中村議ら11名・総代10名が買収中止と堤防復旧の陳情に田中正造と共に上京した。
・同年8月19日の暴風雨で、それまで不眠不休で彦次郎ら村民と共に築いてきた堤防が崩れ去る現場をみて左部彦次郎は崩れ落ちるように座り込んでしまい村民が声をかけても動かなかったという。
・同年10月 左部彦次郎は栃木県土木吏になり、田中正造から袂を分った(離脱した)。田中正造の寄留先の川鍋岩五郎及びその長男重吉も翌年12月に左部彦次郎が説得陥落させて県の買収員にしてしまった。当時からの殆どの論調が左部彦次郎の「裏切り」と断罪してきたという。島田宗三著「田中正造翁余禄上」の正造日記に「10月○日鉱毒問題以来ノ同情者トシテ谷中村買収反対ノ運動ヲ為シツツアリシ左部彦次郎氏、栃木県ノ土木吏トナル。為メニ村民或は激昂シ、或ハ気力ヲ喪フ。」(○は空欄)とある。
・明治39(1906)年1月7日原敬が内務大臣になる。
・同年7月3日管掌村長鈴木豊三が田中正造を告訴し栃木警察署に連行し官吏侮辱罪で起訴された。12日保釈。10月5日有罪官吏侮辱罪で重禁固40日罰金7円の判決、直ちに控訴。(入獄10日間、木下尚江。赤上剛は5日間としている)。5回目の入獄。
・同年8月正造の古くからの同志の蓼沼譲吉・津久居彦七らが「谷中から手を引き小中の故郷へ帰れ」と引退勧告をしたが正造は拒否した。(明治39年8月21日付朝日新聞に、阿蘇郡の有志にて田中正造翁慰問会を結成し「田中正造翁をして郷里に退隠せしめ専ら余生を後進子弟の矯風訓陶に努めしめ郡の長老として青年会等の世話役たらしめん・・」とあり本人にも納得させたとある。)
 同じく8月に栃木県知事に久保田清周が着任したが村民の請願に同情的であったので12月7日には更迭して山中喜代蔵とした。「田中正造翁余禄上」74頁に正造翁の直話として「かつて渡良瀬川の鉱毒を沿岸民に警告した藤川栃木県令が島根県に左遷されたのは有名な話であるが谷中村に同情する者は官民を問わず皆攻略または排斥された」とある。また72頁には島田宗三の明治31年10才の頃の思い出話として家族たちが「こうなっては北海道へでも移住するよりほかなかろう」「いや田中さんがお骨折りくださってるから何とか救ってもらえるかも知れない」「田中さん―あれが本当の生き神様と申すのでしょう」と年老いた祖父と病弱の父とが心配そうな顔をして暗く荒れた家の中で話していたのを、いまも猶忘れることができない、と述べている。谷中残留民の決心に田中正造の存在が大きかったことを示している。
・同年12月田中正造が最も信頼を寄せていた両翼の左部・川鍋の2人の川鍋岩五郎も栃木県土木吏になった。彦次郎が説得したという。島田宗三著「田中正造翁余禄上」の正造日記には「12月○日 本村買収反対運動ノ率先者タル川鍋岩五郎氏、県ノ土木吏トナル。是レ県ガ先キニ土木吏ト為シタル某ヲシテ勧誘シタルモノナリトノ風聞高シ。」とある。村民が川鍋を追及しようとしたが逆に恐喝未遂で告発する騒ぎになり東京の逸見斧吉らが村民をなだめて川鍋との紛争が収まったと述べている。
同書にて島田宗三自身も「去年の秋県の土木吏と化したかつての同志が岩五郎を誘い出したことが年の瀬の迫る頃になって漸くわかった。いつもなら烈火のように怒る翁もこの奇怪な策動には呆然として語るべき言葉さえない程であった。」と述べている。島田宗三も田中正造も同じく彦次郎の名前を敢えて出していない。これは他の決別した人達とは扱いが違うような印象を受ける。左部彦次郎は正造にとって他の離反者とは別格の存在でありすなわちそれは島田宗三にとっても然りであったと言える。
・明治40(1907)年1月26日政府は谷中村に土地収用法適用の認定を公告した(西園寺公望首相、原敬内務大臣)。郡吏警官らが恐喝的説得に努めた(木下尚江)。
・同年6月29日に始まり7月5日に終わった谷中村堤内残留民家屋16戸の強制破壊。田中正造・木下尚江・柴田三郎・菊地茂らは静かに見守っていて念頭にあったのは谷中人民が暴力に訴えて抵抗することを最も恐れていたという。今までの辛抱強い非暴力的抵抗が一気に息の根を止められて谷中の戦いを継続する望みが直ちに絶たれてしまうことが明らかだったからだという。田中正造にとっては川俣事件と言う農民の暴発が銅山や政府との根気強い戦いが一挙に息の根を止められてしまった苦い記憶があるためだという。木下尚江は伊香保に隠棲していたが強制破壊の話を聞き「殺されるか、拘引か」のどちらかという悲壮な覚悟で谷中村に駆け付けたが、そこで見たものは「平然日常の稼業に従事して驚かざりし」といつもと少しも変わらぬ農民の姿であったという。木下尚江はこの破壊を前にしての最期の結合会で請われて短い演説し「谷中の残留民が身を以て示した非暴力不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示を見た」と告白したという。(林竹二)。
・同年9月5日付の逸見斧吉宛の手紙では「谷中の人民権利に暗く、誠に太古の民で、堤防を破られて憤ること少く、しかも忽ち忘れ」と述べている如くこの時までもなお、谷中の人民は保護してやらねばならぬ存在で人民を上から見降ろす知識人の視点で正造も人民を見ていた。谷中残留民の生活の悲惨さに対して移住先を見つけてやろうとしたり、病弱者を風雨を避ける家に移そうとしたりしていた。谷中人民の見えない深い怒りの本質に気付くのは正造でさえこの2年後正造の明治42年8月1日の正造日の頃からと林竹二は述べている。
・同年10月6日付朝日新聞には「谷中村問題漸く落着。谷中村事件は田中正造翁の頑固なる意見により村民の移住を拒みしが東京の谷中村救済会は村民の間を調和し群馬県邑楽郡蝦瀬村及び元谷中村付近上下本郷の堤外地を選定移住せしむる事とし栃木県庁に願い出で県庁も之を許可したり之にて此の問題も漸く落着せり」とに記事が出た。
・同年12月谷中村残留民家屋が強制破壊され仮小屋の中で食糧なく風雨にさらされ苦境の時期に正造が残留民に笑い涙しながら「辛酸亦入佳境」と揮毫したが、後に死ぬ間際になっても谷中問題は決して諦めなかった。
・明治42年3月23日正造69才は「破憲破道に関する質問書」を起草し、島田三郎ら4人の名義で衆議院に提出した。この時までは正造は明治34年代議士をやめ議会を捨て政治をも捨てたはずであったがそのやり方は本質的に変わらなかった。即ち憲法・法律を正当に実行せしめて谷中村を復活するという合法的政治的な戦いに固執していた。そしてその5か月後の8月1日の正造の日記から、ようやくこれまでの政治家時代と同じ戦い方をしていることの愚を悟ったという。これが田中正造の「谷中の苦学」の成果であったと林竹二は言っている。それまで長い間谷中人民の保護者であった正造が谷中人民の一人となり人民を同志として、それまでの旧同志とは全く決別した新同志として新たな自分を作り替えていくことになった。正造は自己改造して徹底的な河川調査をすることにした。徹底した正造の活動方針の変更は2年後の明治44年に結実した。
同年9月政府は渡良瀬川改修案を関係各県に諮問して各県の県会を通過して翌43年3月には帝国議会も簡単に可決承認してしまった。この渡良瀬川改修と遊水地設置によって政府は一帯の被害を免れると保証し谷中村の死活も決まった。これによって鉱毒反対で一致して闘ってきた地域の間に決定的な分裂が持ち込まれてしまった。多年の正造の盟友野口春蔵も「谷中一村が潰れることにより他の村々が救われるのだからやむを得ないだろう・・・」と云った。明治42年9月20日付島田三郎宛て書簡で改修絶対反対の正造は「・・甲県を利して乙県を害さば不義なり。甲郡を利して乙郡を害さば失徳なり。・・極言せば神にあらざれば治水の平を得るなし。いわんや偏頗偏見奸策私欲愛憎の治水は到底治水というべからずして、害の最害あるのみ・・」と言い、この渡良瀬川改修阻止が田中正造最後の政治活動になったと林竹二は云う。
・明治43年12月の日記の中で正造は大学は「今の学士は皆壮年にして智識あり。能く国家を亡ぼすに足るの力あり。無経験にして悪事を働く能者たり。・・」と腐敗の根源なので、大学は廃すべし、と言った。権力の中枢にあるものが精神を持たないことが人民の不幸を生んだ。例えば明治23年12月足尾銅山の実地検査に政府が派遣した鉱山局長和田維四郎と工科大学教授野呂景義は粉鉱採集器の効果を現物も見ないで暗に保証した。それを法学士の栃木県知事はこれを根拠に現地での示談を成功させた。明治35年5月榎本武揚農商務省が一旦決断した鉱毒停止命令を「設備が不完全であるということは逆に改良の余地がいくらでもある」という理屈で鉱毒予防命令にすり替えたのは工科大学教授渡辺渡であった、と具体的に揚げて、学士たちは政府が加害者企業と合体して鉱毒被害民を更に圧し潰す政府の行為の有能な設計者であったと林竹二は断罪した。

・明治44年9月22日の正造の日記には、「政治家は大勢を察す。我は勢力の罪悪を改めしむ。然れども予の既往は罪悪の言行のみ。一も二も善い事はなし。然れども今はこれを改めんとす。」とあり、政治の罪悪を指摘して矯正する姿勢から転換しようという気持ちを表している。
同年10月15日付近藤政平宛の正造の書簡「・・只老盲駑馬のそしりのみは耳に聞こえけれども、そないの褒貶はもとより耳をかすにも足らず、ここの日本第一の智謀者、日本第一の富有者たる谷中村民と枕を同じうするの快楽あるを覚えたり。昨年の洪水以降は関東の北部河川を調べ、殊に下野は大小もれなく経めぐりたり。今の正造は既往の正造あらずして治水を云うものなり。」に、徹底した正造の活動方針の変更が表れているという。これは単に治水運動に転換したということではなく鉱毒を除する能力を持たない政府・有識者に対して自ら実証してその本質を教えてやることこそが自らの使命であるという使命感の転換であった(林竹二)。平たく言えば御用学者には任せておけないことが判ったので学者の代わりに自分がやるしかない、ということであろう。
・大正2(1913)年7月15日田中正造は島田宗三25才に書き置きして病躯を人力車(車夫の泉田常吉は正造を神のように尊敬し幾日でも無賃で挽いて歩いたという)に委ね谷中から藤岡・佐野・足利をめぐり戻ろうとしたが、途中8月2日支援者吾妻村下羽田庭田清四郎宅で倒れ、9月4日に同所で病没73歳。死因は胃癌。
・大正6(1917)年3月島田宗三ら谷中村最後の残留民がすべて渡良瀬川改修工事に伴う埋立地に移転した。(島田宗三は13才で田中正造(61才)に会い以来田中正造の思想・生活・戦いを学び徹底して受け継ぎ、田中正造もその戦いの後事を託し人であり、明治39年皆が離れていく中でも些かの迷いもなく正造について行き失望することを知らなかったと林武二は言う。正造死亡後も最後まで谷中残留し自らを谷中遺民と称した。柴田三郎は「谷中村の人。十年来翁の手足の如くなって、よく翁を助けた青年。翁の発病以来逝去されるまで日夜翁の看護に尽くした人」と評した。島田宗三は谷中を離れてからも残りの人生すべてを田中正造のあらゆる資料の収集・保全に全力投入したという。『田中正造翁余禄上』)
 島田宗三(明治23年1月1日生、昭和55年1月23日90歳没)は、死ぬまで律儀さを厳守して(林竹二は「自己を持することのもっとも厳しい島田さん」と記している)、田中正造の最後の語は死ぬまで語らずそれが明らかになるのは昭和55年遺族によってであった。
・昭和9(1934)年予防工事命令で設置された沈殿池が溢水して甚大被害発生。 
・昭和48(1973)年 足尾銅山は閉山。但し輸入鉱による銅製錬操業は続けたために鉱毒問題は解決しなかった。
・平成元(1989)年 輸入鉱石による製錬操業も停止した。平成20年時点では産業廃棄物リサイクル事業のみ行っているという。
・平成23(2011)年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が東日本大震災により再び決壊。鉱毒汚染物質が渡良瀬川に流下し、下流の農業用水取水地点で基準値を超える鉛が検出された。
・平成25(2013)年 田中正造が明治天皇へ行おうとした実行未遂の直訴状は実に112年後のこの年渡良瀬遊水地や正造の出生地である佐野市を訪れた今上天皇に伝えられた。
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明治22年の帝国憲法発布及び翌23年の国会開設した時よりその前の明治12年より、田中正造は栃木新聞を発行して国会開設の論陣を張り、明治15年大隈重信が立憲改進党を結成すると同年それに参加して、以来終始一貫して民権運動に挺身していわゆる民党に属して活動してきたが最後まで人民を裏切らなかった唯一の民権活動家であった。田中正造にあれほど違った独自の道を歩ませたものは何だったのだろうか。鉱毒問題で一緒に戦った多くの活動家や指導者がその局面の転換と共に戦列を離れていく中で最後まで人民に寄り添って行ったあの一貫性は何によって保証されていたのか、その秘密を探ってみたいと林竹二は「田中正造の生涯」の中で下記のように述べている。 
彼は政治家田中正造にあの独自の歩みをさせた大きい要因としてまず彼の出自を挙げた。
正造は江戸末期の封建的世界に於いて支配階級の武士とは全く異なる、村での政治的経験を持っていた。17才~29才の12年間の小中村名主の経験は正造自身がしばしば口にした「古来の自治村」の経験であった。名主であったということは彼が支配階級に属する人間であったということではない。同じ百姓仲間から選ばれ、村の政治の責任者として村の人民全体にかかわる問題の処理に当たるが、支配者ではなく支配の仕事を引き受けていたのである。人民に対して責任を持つ政治が「古来の自治村」にはあった。
藩レベルの政治は人民との関係では明確な権力による階級支配の営みではあったが、村の政治は、藩から政治的下請け的任務を任されているとしても藩レベルの支配階級社会とは一線を画されていた。村内の運営は名主に任されており名主は公選で選ばれ、村内一切の公務を委ねられ、且つ権力を授けられ、采配を一任される。しかし一方で年暮の決算報告会には総代・組頭等は監査監督をして一点の私曲を挟めないような制度になっているので、領内の平和を維持する上で自治的好慣例である、と正造は自叙伝で述べている。正造は「古来の自治村」である封建時代末期の小中村を実体験済の理想村として持っていた。

一方で、他の民権派政治家は意識においてさえ政治と権力は離れがたいものであり、藩閥政治家と同種同根であるとした。自由民権運動の理論的指導者であり土佐藩士であった植木枝盛でさえも「平民は昔より国事に関与せず知識も元気も弁別少なき故に、平民でなく士族こそが自由民権運動を推進する能力と志向を有している」と説いている。渡辺崋山さえ尊敬する酒井村村長の彦八との問答で崋山の主家領主が慈仁の心が無いことに対して「収斂を行う殿様は取り替えたらこそよかるべし」と彦八が言い放つのを聞いて、驚愕して、狗にも劣るべしと非難したという。武士階級中のヒューマニスト崋山でさえこの種の武士道への囚われから抜け出すことが出来ていなかった。明治の士族的自由民権運動が政府に対決する事だけに集中し結局権力奪取するか権力に迎合して人民を裏切るかのいずれかの道を歩むことしかできなかったために自由民権運動も情けない結末に終わってしまったと林竹二は言っている。人民は非才で無学な弱い者で被治者であり治者階級の一端を担う我々こそが政治を変革できるとステレオタイプの発想から抜け出られなかったことが、慢心した士族階級の民権主義者の限界であった。しかし正造は人民から権限を与えられても慢心しなかった。人民から信頼には自らの潔癖さを捧げることで応えようとした。
江戸時代末の封建世界において、正造は六角家との闘争で領主に対して正面切って「暗君につき」と殿様の交代を要求した。明治維新の混乱が幸いしいて幸運にも生き延び成功体験として正造の心に残った。正造には権力に頼って為し得ることは一つもなかったが権力の前に泣き寝入りすることもなかった。この非権力的な戦いによって最後まで権力の恣意と闘う意志即ち不服従を捨てなかった。
子供のころから餓鬼大将ではあったが腕力だけでは駄目で人の信頼が大事であることを悟っていた。母親の「そんなことをすると村の者が悪く言うよ」との訓言指導は正造の心を痛く動かし、生来の滅茶苦茶の強情ッ張りを矯め直してくれた。富者が金力に任せて贅沢をすることを酷く憎み屡々その鼻柱を砕くのが性癖だった。正造自ら述懐しているこの点で、既に道徳心とは如何あるべきかという確たる本質は身に着けていたと言える。これに無鉄砲と言える行動力が六角家闘争に結び付き幸運にもそれが成功した。この20才代での六角家事件において既に道理に訴えて暴力は振るわずかつ道理に合わないことには決して服従しないという、決してブレない非暴力・不服従の精神を実践していた。
この一身を犠牲にする以外に何の武器も持たない戦いが明治の新時代になっても引き継がれた。明治になって各自治体は藩閥政治と同じ明治政府の単なる手足になりさがってしまっていた。「古来の自治村」とは異質の政治に対して、闘う意志以外に何一つ頼るもののない戦いを封建世界で正造に戦わせたものが、明治の新しい世界になっても新しい権力から「人民の生活と権利を守る」戦いに向かわせた。
 その決心をさせたのが木下尚江の言う「正造の明治11年の政治への発心」であったという(「田中正造の生涯」木下尚江著)。

江戸時代は敵討ちが美徳とされた。現代においてさえ一般的には相手の権力や暴力によって自分が被害を被った場合は、相手を恨んだり、目には目を歯には歯を、という報復心・復讐心が普通の感情と思われるが田中正造は違った。感情には走らなかった。道理を重んずる自己の潔癖性に基づいて行動した。正造を正造たらしめた本質はその生来の「潔癖性」と「実行力」であった。17歳で名主になった時には既に、道徳心とは如何あるべきかという確たる本質を身に着けていた。そうでなければ六角家事件を乗り切れなかった。賄賂には様々な段階がある。嫌われても害されても、このくらいは許されるという甘えを断つ潔癖性を堅持することは決して容易なことではない。六角家事件・江刺事件・三島県令事件、いずれも信念を通すという潔癖性とそれを押し通す無鉄砲なほどの実行力がないと机上の信念に終わり現実に流されてしまう。幸いにもその3事件には勝った。しかし鉱毒事件は古河市兵衛のバックに大きな国が居たために悲惨であった。江戸時代の「古来の自治村」から国という巨大な「新たな自治村」を信じた正造にとって、殖産興業という国の大きな流れの中では、正造らが必死に足尾の鉱毒と闘うも叶わなかった。正造の考える道徳心と政治権力が考える道徳心とは必ずしも咬み合わなかった。ましてや林竹二の言う政治の設計者、即ち政府のお先棒を担ぐ大学卒業の学士たちにおいては正造からは理解不能の別世界にいた。
明治43年12月の正造の日記の「今の学士は・・能く国家を亡ぼすに足るの力あり。無経験にして悪事を働く能者たり。・・」と既に言っていた腐敗の根源となってしまった大学は廃すべし(明治36年6月正造日記)との認識をさらに確定させた。今風に云えば政府は学士を利用し学士は政治に忖度した理由付に走るという、御用学者ないし有識者会議である。勿論まともなものもあるのは言うまでもない。農科大学古在由直助教授のように権力に阿ず科学に忠実な学者もいた。 昭和51年古在由直の子息古在由重は田村紀雄との対談で、父からは「自分の一生のうちであれほど忙しい2か月間はなかった」と、母からは「あの時はお父さんは脅迫や誘惑をかけられて大変だったんだよ」とのみ聞いてる。無口な人ではあったが「人が何を言うか、というよりも物が何を言うか」であって他人がどうこう言うなどというのはつまらんことじゃ」と父は言っていたという。(「私にとっての田中正造」田村紀雄編)。
明治20年の国家予算は年間8000万円、同26年8800万円(日清戦争前)、同30年2億5000万円(日清戦争後)、同39年5億円(日露戦争後)、と19年で6倍になった。日本の近代化に貢献した輸出品目の生糸は明治9年から昭和8年まで50年以上に亘って第1位を維持した。銅は明治末期には全体輸出量の5%程度ながら繊維産業(生糸30%・絹織物6%・綿糸11%・綿織物5%計52%)の次の第2位を占めた。輸出総量は明治18年3700万円から28年間で6億3千万円と20倍に急増した。愛媛の別子銅山も同じく鉱毒被害を出していたが足尾銅山のような想像を絶する大被害を出してはいないようである。何が違ったのかは今尚明らかにされていない。
明治38年8月まで正造とともに谷中村に入りその再生に尽力していたが突如同10月左部彦次郎は田中正造と決別して県側に付いた。彦次郎は現実を直視し、時代と妥協した。一方、正造は理想の政治の潔癖性からは離れなかった。たとえそれが自身を破滅に導くと判っていても離れなかった。自己に閉じこもり時代の流れに敢えて適応せずやがて明治40年12月の、強制破壊された後の食糧なく風雨にさらされた苦境の谷中村の仮小屋の中で残留民に笑い涙しながら揮毫した、「辛酸亦入佳境」に繋がった。
夏目漱石が同時代に「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、兎角に人の世は住みにくい」と言った如く、その時代に如何に流されず適度に適応しない処世術を実践するという非潔癖性に惑わされることなく、それでも正造は臆することなく闘う意志を貫徹した。今の世でも、時代に適応せず原理原則に拘り過ぎると却って身動きが取れなくなり、自己に閉じこもるようになり、心の傷になり、益々過激になり、時代にも適応できなくなってしまうのが一般であるが正造は違った。常に前を向いて希望を失わなかった。むしろその時々で新たな希望を創って行った。
正造は代議士をやめ議会を捨て政治をも捨てたはずなのに、明治42年3月23日までは「破憲破道に関する質問書」を起草し、島田三郎ら4人の名義で衆議院に提出している如く、そのやり方は本質的に変わらなかった。憲法・法律を正当に実行せしめて谷中村を復活するという合法的政治的な戦いに固執していた。そしてその5か月後に至って初めて8月1日の正造の日記に見るごとく、政治家時代と同じ戦い方をしていることの愚を悟った。これが田中正造の「谷中の苦学」の成果であったと林竹二は言っている。それまで長い間谷中人民の保護者であった正造が谷中人民の一人となり人民を同志として、それまでの旧同志とは全く決別した新同志として新たな自分を作り替えていくことになった。正造は自己改造して徹底的な河川調査をすることにした。そして、学士たちが天下りしてきて各町村が行政府の下請けになり国の意思の上意下達の流れ作業の一機関に成り下がってしまったことに対して正造は「谷中人民田中正造の希望は自治の復活にあり」(明治44年7月栃木の法廷で ― 林竹二)と述べたという。
明治42年9月政府は渡良瀬川改修案を関係各県に諮問して各県会を通過し翌43年3月には帝国議会も可決承認した。これが鉱毒反対で一致して闘ってきた地域の間に決定的な分裂を持ち込んだ。正造の盟友野口春蔵も「谷中一村が潰れることにより他の村々が救われるのだからやむを得ないだろう・・・」と谷中貯水池化が決まった時に既に云い、その後も改修絶対反対の正造は明治42年9月20日付島田三郎宛書簡で「・・甲県を利して乙県を害さば不義なり。甲郡を利して乙郡を害さば失徳なり。・・極言せば神にあらざれば治水の平を得るなし。いわんや偏頗偏見奸策私欲愛憎の治水は到底治水というべからずして、害の最害あるのみ・・」と言いあらがったが、大方の意見はこの改修案を受け入れた。
そして、正造自身が明治44年「・・谷中村民と枕を同じうするの快楽あるを覚えたり。昨年の洪水以降は関東の北部河川を調べ、殊に下野は大小もれなく経めぐりたり。今の正造は既往の正造あらずして治水を云うものなり。」という如く、戦い方を変えた。しかし島田宗三が生前決して口にしなかった正造「最後の語」に示す如く、最期まで死ぬ間際まで闘うことは止めなかった。
正造は、20才代の六角事件から江刺事件、三島事件、そして足尾鉱毒事件のすべての経過において暴力に訴えることはなかった。保木間の誓いと言われる如く集団示威行動さえ否定した。明治40年の谷中残留民家屋の官憲による強制破壊時は田中正造や木下尚江らが暴力を以て逆らうことを最も恐れて駆け付けて見守ったというが、そこには暴力とはかけ離れたいつもと変わらぬ被害民の日常があって木下尚江は神々しいと感動している。もし暴力を以て逆らっていたらこれ程まで国民の記憶に残る鉱毒事件とはなっていないであろう。そして谷中村廃村を意味する渡良瀬川改修案に賛成し、谷中残留民に対してのちの子孫まで引け目を感じて生きていかなければならない人々が出ることもなかったであろう。正造ら残留民は、半ば水没した谷中村に生きるという悲惨な代価を払って、国家の手で亡ぼされることを拒否する姿勢を非暴力・不服従で示した。この教訓は今も生きている。同様な官憲の論理による強制執行はいつの世も過去にも現在にもそして未来にもあり得るからである。