日本学術会議の会員の政府による6名任命拒否について2020年10月08日

日本学術会議の会員の政府による6名任命拒否について

2020/10/6
https://news.yahoo.co.jp/articles/72fffd6722ce1b452689f6f8c46da3fdc05e7d79?fbclid=IwAR1EcIuCZVJf5GXqS8QPClOQ5CVSPAFGGEEL9BPHcMNi1nokd6-rntcRUtI
菅新首相も思い切ったことをやるなあと思っていたが、学問の自由の侵害だあ、との大合唱?には何か違和感を感じる。
 些末な事であるが私も日本学術会議には不信感を懐いたことがある。かつて医療崩壊が叫ばれた頃、日本をリードする識者はいったい何を考えているのかと群馬の田舎から六本木まで日本学術会議公開シンポジウムを聞きに行ったことがある。「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」平成 19年8月30日日本学術会議講堂(東京都港区六本木)との題であったが(既にとっくに医療崩壊してしまっていると思っていたが)、がっかりして帰ってきたことを覚えている。特に当時小児科の重鎮と言われた鴨○氏の意見にはこれが世の識者かと驚くばかりであった。質問時間もなく単なるガス抜きのシンポジウムであった。有識者だからと盲目に信じてはいけないことをこの時悟った。
メンバーの選び方や在り方も会議体内で工夫をしてきているようであるが、制度疲労が来ていてそろそろ見直した方が良い。かつての議長が偏っていることなどありえないと言ったそうだが空しく響く。偏ってしまうのが学問であり人事である。特に社会科学は政治と密接に関係し易い。本当にそう思っているならその方が心配である。そもそも会議組織内での推薦ということ自体が密室限定協議であり民主主義の根本である公開の原則に反する。既得権益の温存にもつながる。縦割り打破・規制改革・既得権益打破、これらは賛成反対を問わず糾える縄の如く互いに絡まりついている。なんでもそうだが同じ体制が長く続くと腐敗の温床になる。そうかと言ってコロコロ変えれば継続性発展性が阻害される。常に見直しのバランスが必要な理由である。
 この問題については、大手の新聞テレビは政府拒否の問題点ばかりを報道して偏っているが、別の見方をする小さなネット情報もある。
https://www.youtube.com/watch?v=X_zvYah8ZAs&feature=youtu.be&fbclid=IwAR28KWaVpiPa61X0yCdPJJKKtkXqFBlWv4kDAOzd19J2pUAnV60NvlDAACo

2020/10/8
新聞報道では相変わらず日本学術会議任命拒否問題で一方的な政府攻撃が続いている。
政府も説明しかねているようだ。もっとズバリと言ってほしいものだ。国の運営理念は各々国により様々ある。
今日まで、グローバル化と言いながら実はアメリカ化であることは誰も異存はないと思う。政治的なイデオロギーから宗教的な信念まで、相互に不可侵でありながら共存が要求されるのが今の世界だ。共存できなければ戦争になる。戦争は避けなければならないのは歴史が証明している。日本は今もこれからも少なくとも他国に無理に追随する必要はない。
その我が国の運営理念を分かり易く説明することが出来ない所にこそ問題がある。
今の日本は民主主義体制なので少なくとも51%の国民には、利点欠点を隠すことなく並べて分かり易く並べて納得できる説明をしてほしいと思う。

2020/10/19→11/10 追加
学問は本来が視野が狭くても深く究めることがその本質なので、もともと偏っており、それが特徴でもあり、それ故に専門性が許される。限りなく細分化され、進歩していく由縁でもある、と思う。学問の進歩の程度はその分野の細分化の程度を見れば直ぐ判るのでの積極的に分化すべきだ、これがアメリカ流考え方だ、とかつて聞いたことがある。確かに専門性は狭ければ狭いほど究めやすく、細分化・微分化すればするほど分野は無限に拡がり、その深さの限界もない。
専門性自体は全体とのバランスを考えることは必須ではない。むしろ全体とのバランスを考えない方が本人にとって楽であり楽しく何よりもより深く究めやすい。
従って学者の意見を参考にする意義は極めて大きいが直接政策に結び付けるのはむしろ危険である。社会政策という現実に当てはめる時の問題は、人的物的社会的資源が有限であるということ及びメリットデメリットと如何に整合性・バランスをとるか、ということに尽きる。

医療の分野では、富士山の如く高い専門性とその裾野のような幅広い総合性の両者が必須でありこれが医療人のあるべき理想であり理念である。これは万人が認めることであると思う。そしてこれは医療倫理の根幹でもある。そして個人の能力の限界と医療の理想とのギャップの大きさに如何に折り合いを付けるかが医師個々人で違ってくる。
限られた個人の能力と組織の能力そして限りある社会資源のバランスを最大限生かすべく努力するのが現実の医療になる。
個人の限界は組織の限界まで広げられ得るが、いかに効率的に広げられるかはそれぞれの組織の在り方や環境によって変わる。現在の医療は個人の限界を大きく逸脱してしまっているのでたとえ家族を犠牲にしても追いつかず一歩間違えば自身も燃え尽き症候群に陥りかねない。個人の限界を知らなければ医療者自身にとっても極めて辛い職業でもある。
日々医学医療は進歩するし目の前には次々と新しい病気・患者は出てくるし新しい情報をこなしながら目の前の現場もこなすのが精いっぱいで振り返って論文を書いている暇などない(言い訳)。でもこれが生の医療現場だ。そして大部分の医療スタッフ(医師・看護師など)はこれが天命だと辛さをやる気に変えて諦観しているかのように受け止めてその場で精いっぱい努力していると思う。
だから定年退職して、こんなにも穏やかな日常があったのかと改めて驚き実感した。
現実の医療はそれぞれの大小の組織の中で理想と現実のはざ間で葛藤しながら、各自が法に則りながら目的を果たそうとする努力によって成り立っている。自分が良いことだと思っても社会の法から外れることは禁止される。これが他の一般学問と違うところである。

医学・医療に於いては専門性には2種類ある。富士山のような裾野の広い専門性に対して裾野がないスカイツリーのような専門性の2種類である。しかも前者は本物の富士山から箱庭の富士山まで、そして後者は本物のスカイツリーからミニチュアツリーまで様々ある。
医学はその2種類のうちのどちらの専門性を追求しようと医師個人の自由である。
しかし医療は医学とは別物でありその所以は対象が複合疾患の塊のような人間であることである。各専門性とそれらの総合の全体性の調和が必要条件である所以でもある。医学を基礎としながらも医学とは別次元の在り方が医療には求められる。専門性に対してそれは総合性または統合性と言い換えられる。この意味で医学と医療は確かに違う。
医学という学問は倫理を除けば社会的な理想論に縛られず、個人の自由裁量は広い。真理の追究が主体なので偏りは許容されるし、偏ってこそ学問としての医学には価値が生ずる。学問の自由とは偏りを許容することである。もちろん自然科学と社会科学のはざ間にある医学という学問には自由裁量に一定の縛りが出来るのは言うまでもない。
一方医療は、複合疾患を持っているのがふつうであり一部を直したつもりが予想もしない離れた所に新しい変化を誘導してしまうことは良くある。一部品を直してもその機械が上手く働かない場合もあることと同じである。
そして医学の進歩に伴って医療においても専門分化に拍車が掛かって来ている。医療にも富士山型とスカイツリー型の専門分化があり、どちらを選ぶかは医師個人の裁量に任されている。
また疫学的統計的なEBMが大事と言われる今の世でこれを参考にすることは必須であるが、個々の患者/人間に当てはめることは全く別次元の問題になるがこれも混同されやすい。相関関係と因果関係は別物であるがこれも混同され易い。また多様性を認め合う民主主義の世の中に於いては医学のその多様性は各専門性に置き換えることができるが、多様性または専門性を互いに受容できなければ全体調和が失われるし角を矯めて牛を殺すということにもなりかねない。無理をすれば喧嘩になるし戦争にもなり得る。医療は医学の専門性と医療の総合性の調和が保てて初めてそのより良い価値が発揮できる。

現在の専門分化が当たり前と捉えられる社会において医療の専門分化一辺倒は富士山型とスカイツリー型がモザイク模様となって現実の医療を構成しているが、そのデメリットも様々に出てきている。専門分化一辺倒に偏った現代医療で現場では何が起こっているのか具体的問題点を挙げてみる。

1、心筋梗塞でPCI治療をしたが基礎疾患の治療をすることなく糖尿病コントロールは極めて不良状態で退院してきた。
2、慢性心不全と重症の膠原病を合併していて心臓が落ち着いているからと退院してきたが膠原病の入院治療が必要な状態であり逆紹介で戻すも心臓は大丈夫なので入院させられないと返されてしまった。Drに直接交渉をして病気を見るだけでなく病人を見て頂きたい、だめなら病院から他病院へ紹介する手続きをして頂きたいと文句を言ったことがある。
3、通院患者で心臓の薬はA病院、呼吸器の薬はB病院、消化器の薬はC病院と病院を渡り歩くので、大変でしょうから紹介状を書くから一つの病院から処方をして頂いてくださいと提案したがご本人が複数病院受診の現状を続けることを希望した。
4、失神で大病院の脳外科を受診したが大丈夫とのことで内服処方で帰宅したが別日に腹部大動脈瘤を指摘されて入院した。大病院でも横の連携が無いことがある。
5、線維筋痛症で他県の大病院まで1日がかりで通院していたが甲状腺機能障害を指摘され地元の病院を受診するように言われたとのことで受診に来た。なぜ同じ病院内の担当科を紹介しないのか不思議であった。
6、ボランティア精神のあるDrがある遠方の小病院へ一般内科の応援に行ったが、そこには循環器内科医が4-5人いて、自分は汗水たらして忙しくしているのに常勤の循環器内科医は暇そうにしているのを見て、自分は何のために応援に来たのかと不満を感じたとそのDrの感想を聞いた。
7、専門医数を1病院に集中させればさせるほど、その病院は潤うはずなのに実際は益々当該の専門医師不足に陥るというパラドックスが発生することがある。具体的には整形外科医と小児科医の数で実体験したことがある。
8、あるセンター病院の小児科医からもう疲れたので貴院に勤めたいとtelがあり、その病院は県の南北両端の小病院から婦人科と小児科をそれぞれ引き抜きそのセンター病院に集められていたことを知っていたので、あなたの病院は余裕ができて楽になったはずだと聞いた所、変わらないとのことなので事情を聞いた所、小児科医が増えた分さらに機能細分化されて当直の数も減らないとのことであった。もちろん医師を引き抜かれた病院は診療科閉鎖になっていた。
9、整形外科医が1か所に集められたので余裕ができたはずなのに地域の骨折救急は受け入れが減った。以前は1-2人で手術していたのを3-4人と手術室に入り手術中で手が空かない等の理由で受け入れ不可とのことであった。以前は受け入れ病院が複数あったのが1つになったための減少と思われたことと、以前は術中であってもその一人が手を下ろして急患対応するなど柔軟に対応できていたが柔軟性がなくなったこと、などが減少の理由と思われた。
10、田舎の病院で内科医当直の時に東京から小児患者が受診して、当直医が診ようとしたら母親になぜこの病院は小児科医がいないのかと文句を言われたために、そんなことまで言われて診ることはないと当該医師から言われて、確かにそうだと納得したことがあった。医学的には訓練を受けていさえすれば夜間診療は小児科医でなくとも同じであった。しかし最近専門分化が進んで日常的に接することがなくなると訓練自体がなくなり他科患者の診察には自信がなくなり悪循環で診られなくなってしまうのはやむを得ない。
11、以前は全身内科学として病気を診るだけでなく病人を診ることが基本なので、診察室に入ったところから既に診察が始まっていると言われていたが、最近(臓器別専門分化体制後)は内科自体がさらに細分化されたために臓器の細切れ医療になってしまっている。そのために内科という科は消滅したとも言われてもう10年以上になる。
12、私事であるがかつて腹部腫瘍(GIST)で訳あって毒を食らわば皿までと放置してラグビーボール大まで大きくしてしまい仕事が一段落してから気が変わり、もしかしたらと摘出できるかどうか不明のまま手術を受けたが大動脈からは剥がせたものの下大静脈からは剥がせず下大静脈は切断閉鎖して手術終了できた。その時は心臓血管外科医+消化器外科医がチームを組んで下さり血液が入れ替わるほどの大量出血ながら輸血とともに九死に一生を得た。今はその環境にある病院は見回しても見当たらない。今なら手術適応なしと判定されるだろうと思っている。運が良かった。
13、昔は(平成初期まで)医師の第一に守るべきは救急のたらい回しを避けることでありそのための日頃の訓練を経験させていたが、現在は専門医がいない等の理由でたらい回しが当たり前で社会もそれを容認している。勿論今も昔も手に負えなければ転送するのは言うまでもない。
14、誰かが診るであろうと言われながら誰も診ないという狭間医療は昔からあったが、今は専門分化の細切れ医療が多発してその診るべき狭間医療も多発しているが患者の自己責任に任せられている。
15、冠動脈血流不全にアスピリンは当たり前のように使われている。最近でこそ胃潰瘍や小腸潰瘍の合併症にも目を向けられるようになったがそれまでは空腹時であろうがなかろうが咬み砕いても内服させろという合併症無視の時期を経て来ている。
16、新薬使用は様々な合併症は覚悟の上で慎重に使うが、例えば肺の病気で使っている新薬で頑固な下痢を伴っていても中止の判断ができず、消化器科に依頼して内視鏡検査等コンサルトして薬の上乗せをしていて中止の判断に逡巡していることをその患者から間接に聞いた。余分な口出しかもしれないがまず中止が先ではないかと思ったことがある。混乱を招くので勿論患者には言えない。
17、内科学会で内科総合医という専門医を作り、日本専門医機構が総合診療専門医という専門医を作った。これは全く次元が異なる専門医であるが、なぜか総合診療専門医の人気は出てこない。批判して申し訳ないが内科総合医は単なる知識の総合医であり現場で具体的に対応できるかどうかは別問題であると思っている。内科学会専門医の役割は終わったと思っていたがやはり歴史のある学会の主張する専門医はしたたかに生き残っているようだ。総合診療専門医(又は病院総合医や家庭医)は理想としては納得できるものではないかと思っていたが実現となるとやはり負担が大き過ぎて手を挙げる医師は少ないようだ。スカイツリー型のような狭い範囲で素人にも分かりやすい専門性の方が本人にとっても比較的楽だし人気も出やすいからであろう。

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