新型コロナ、 3密(3Cs) に関して,など2021年01月01日

新型コロナ、 3密(3Cs) に関して

 日本が初めて言い出した3密は今や世界の3Csとなっている。日本のマスク文化を揶揄していた欧米はマスクが無ければバンダナでも良いから使うようにと考え方を今回180度転換した。
 世界の3Csになったのは、WHO西太平洋事務局長5代目の尾身茂氏によれば、WHO西太平洋事務局長7代目の葛西健氏が日本の3密を英訳してからという。WHOでも3Csと言い出し米国CDCも3Csと言い出している。
https://www.who.int/brunei/news/infographics---english 
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO59916090T00C20A6000000 
 初期の頃はマスクをはじめ日本の対策は異質であると世界から皮肉交じりのバッシングを受けていた。マスクや3Csの有効性が認められて以来日本の「3密」は世界の「3Cs」となった。今でも新型コロナ感染症(COVID-19)対策の基本ポリシーの要となっている(日本内科学会雑誌109巻11号p2354-63.)。
 日本においては2020年1月15日中国武漢からの帰国者1名が初めてCOVID-19と確認されて、1月23日には中国による突然の武漢閉鎖で邦人が帰国できなくなったために1月29日の中国からのチャター便第1便に始まる邦人帰国が始まり2月17日の第5便まで計829名が帰国し、そのうち15名がPCR検査陽性であった。その中には帰国後2週間以上たってから陽性になった者も1名いた。
(NIID国立感染症研究所IASR「中国武漢市からのチャーター便帰国者について・・・2020年3月25日現在。 
https://www.niid.go.jp/niid/ja/diseases/ka/corona-virus/2019-ncov/2488-idsc/iasr-news/9557-483p04.html )
 2月3日にはダイアモンドプリンセス号が横浜港に入港し、乗客乗員計3711名が一時検疫で船内に留まり3月1日までに全員下船したが712名が感染していた。並行して欧米等海外からの帰国も始まっていた。NIIDは初期にはこの頃をCOVID-19第1波と言っていた。欧州でも1月末より感染者多発してきて2月にはパンデミックに陥りロックダウンする地域も出てきた。日本では3月になり欧米からも陽性者を含む帰国者が多くなった。そして、欧米に遅れること3~4週間して3月末より日本国内でも感染爆発が出現した。これをパンデミック第1波(COVID-19第2波)というようになり、これは欧州型ウイルスによると言われる。
 厚生労働省のクラスター対策班は2月25日に設置された。その時既に3密の凡その概念は出来ていたという。上記内科学会雑誌の中で尾身茂氏は、レトロスペクティブに検討してきた結果生まれた概念だったという。インフルエンザと違って8割の患者は他人に感染させないが残りの2割が他人にも感染させてクラスターを生んでいるようだということが後ろ向き調査で分かっていた。日本は早い段階からそのような違いが分かっていて同じように分かっていたのは台湾と香港くらいだろうという。SARSの時も同じような傾向があって当時はスーパースプレッディング現象と表現していたという。クラスター対策班の話し合いの中で3密の概念が具現化していき政府方針になった。この概念を生むには前向きの検討よりは後ろ向きの検討(=振り返りの検討)の方が効率が良かったという。
 日本では、4月7日には初めての特別措置法による緊急事態宣言が出された。強制力のない骨抜きの特別措置法の不備が指摘されながらも従順な国民性ゆえに第1波は沈静に向かったように見えた。しかし一部の地域でくすぶり7月になり東京新宿のエピセンター化に対して児玉龍彦東京大学名誉教授は国会でその深刻さを訴えた。そして、児玉龍彦氏はエピセンターおじさん、西浦博氏は8割おじさんと揶揄されたりして専門家も百家争鳴で、経済学者と感染症学者の共闘による経済予測シムレーションもなされずむしろ経済学者は対立を煽り政府も知事も決め手を打ち出せずに逡巡している間に、第2波が現実のものとなった。8月にピークを迎えた後低下傾向を見せたものの波動を描きながら全国に染み出るように拡がってしまった。
 そして11月より再上昇に転じてパンデミック第3波(あるいは第2波の大波)の真っただ中に入っている。
 かつてのSARS、新型インフルエンザの経験は生かせず、同じことを繰り返しているように見える。
 些末なことであるが自分の経験を記しておく。
 SARSは2003年3月にWHOからグローバルアラートが発せられて、日本においても緊張が走った。我が県においても県・大学を中心にして対応が話し合われた。当時は第一種指定医療機関は我が県には未だ未指定で、もし発生したらどうするか、第2種指定医療機関は各10医療圏に各4~6床あったがSARSを受け入れるには施設基準が不十分であった。当時は第一種は東京・千葉・新潟・大阪に各1施設あった。そこに受け入れをお願いするしかなかったが、現実的には他県発生の患者を受け入れる余裕はないであろうということで自分の施設で一時的には診るしかないと腹をくくっていた。また県内第2種機関でも溢れる場合には、ある一つの病院を丸ごとその専用病院にしようと内内諾も得ていた。当施設にも第2種病床が4床あったので何度も地域保健所と共にシミュレーションを繰り返していた。
 当時も今回の新型コロナと同じように直接病院受診はしないで保健所に電話相談してから保健所を通して受診し受け入れることに決まっていた。地域医師会とは、万が一にSARS確定入所の時は1病棟分50床の閉鎖も必要になるので一般患者の即時の転入院受け入れをお願いして了解を頂いていた。これは病床レイアウトの問題とスタッフマンパワー不足の問題のため1病棟閉鎖して対応するしかなかった。そして実際起きたことは以下のようなことだった。
 ある日体調不良で近隣病院受診した患者が、診察室で”実は数日前に中国深圳出張から帰ってきたばかりなのですが”と言い出したのである。直ちに当病院に紹介されてきた。SARSの診断確定は特異検査結果が出てからなので、出る前の臨床的疑いの状態は「SARS疑い」である。従って臨床現場では「SARS疑いの疑い」の段階で先手対応が必要である。一通りの検査の後、翌日のポータブル胸部レントゲン検査結果で肺炎の影があれば隣接50床病棟閉鎖を覚悟していた(検査機器は一般使用のものを感染防御処置を施したうえで持ち込むので手間がかかる)。一方、丁度衛生研究所に新検査キットが届いていたことを知っていたので所長と相談の上で初めての検査に使ってみようと合意していた。そこへ本庁の担当課長が聞き付けて、わが県にSARSが居る訳はないと強引に待ったを掛けられてしまった。所長も逆らう訳に行かず新検査キット使用は立ち消えになってしまった。幸い肺炎の影はなく「SARS疑いの疑い」から進展することはなく、病棟閉鎖も免れた。日本国内ではその後ほかでも発生はなく恐らく各県ともにSARS新検査キットは一度も使うことなく破棄になってしまったと思われる。発生時の手順を保健所経由と決めていても実際は医師診察の現場に来てから”実は・・”と切り出されることの方が多いのが現実である。
 2009年新型インフルエンザパンデミック(A/N1H1pdm)では、今回の新型コロナで問題になったことと同じことが保健所で起きていた。西村大臣がPCR検査の施行基準はあくまでも目安を示したのに過ぎないと医師が希望しても受け付けてくれないと不満が噴出していたのを、後になって言い訳をしていたが、地域保健所からすればどこかに線を引かなければならず、結果的に目安ではなく基準となり、基準に該当しなければ杓子定規に検査不要と切り捨てることになる。またそうしなければ保健所担当者の身が持たない。新型インフルエンザパンデミックの時も既にこれは問題になっていた。当地域がそうであったように、日本各地で医師が検査を希望しても基準に該当しないので検査不要と切り捨てられていたと思われるが、偶々神戸市内で2009年5月海外渡航歴のない高校生を診察した開業Drが本疾患を疑い、同地の保健所の担当者も柔軟に対応したことにより検査ができた結果陽性初発例が確認された。そしてこれをきっかけに次々と見つかるようになった。これもまもなく季節性インフルエンザ化して、専門家は問題点を報告書にして残しているが顧みられることはなく結果として経験が生かされることはなかった。

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