明治維新の彰義隊について2019年06月07日

R.1.7.16. 訂正。

退職後歴史に興味を持つようになり、思いつくまま気の向くままにネットサーフィンもしていて、世の中には歴史の天才と思えるような方々がいることに感心している。特に左大臣光永という方がそれで、有り難く思いながら勉強している。明治維新は「勝てば官軍負ければ賊軍」でそれは宿命で避け難い歴史の流れなのだろう程度に受け取っていたが、今回彰義隊について読ませて頂いている時に、はたと考えてしまった。自分だったら名もない下層の人間としてどういう行動を取っていたであろうと思った時、自分は彰義隊結成理念に賛成したであろうし徳川慶喜の考え方に付いて行ったであろうことは間違いないであろうと思った。現代でもどちらを選択すべきかは日常茶飯事である。もしかしたら自分は歴史的に見て間違った選択に加担しているのではないかと空恐ろしいと感じ、彰義隊関連についてその流れを大雑把に調べて見た。

・1497年ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見。
・1522年ポルトガルのマゼランらがスペイン艦隊を率いて世界一周した。
・1612年山田長政が朱印船でタイに渡り活躍した。
・寛永11(1634)年以降は長崎の出島のみ外国貿易が継続しそれ以外は鎖国体制になる。
・安永7(1778)年ロシアのイルクーツク人のシャバリンが現在の根室市に上陸して交易を求めた。
・文化3年(1806年)と文化4年(1807年)文化露寇(ぶんかろこう)。ロシア皇帝から通商交渉のために派遣されたレザノフらにより樺太・択捉島が攻撃略奪された。この事件が幕府にロシアの脅威と国防体制・鎖国維持の強硬策を幕府に醸成させて1811年のゴローニン事件に繋がる。この時に分捕られた品々が今でもロシアの博物館にあるという。
・文化5(1808)年英国フェートン号事件。イギリス軍艦が長崎に侵入して物的損害はなく追い払うことが出来た。しかし警備の任を怠ったとのことで長崎奉行と鍋島藩家老が切腹し佐賀鍋島藩主は100日間閉門を幕府から仰せつかった。
・文化8(1811)年露国ゴローニン事件。ロシアのディアナ号艦長ゴローニンが6月4日捕縛され文化10年9月26日釈放。一方高田屋嘉兵衛も文化9年8月14日国後島沖で拿捕されて、文化露寇で捕虜になっていた中川良左衛門らと共に文化10年8~9月に釈放された。ゴローニンは帰国後の1816年に日本での捕囚生活の手記を執筆して日本でも文政8(1825)年に訳本が『遭厄日本記事』として出版され高田嘉兵衛も読んでいたという。同書は各国語に翻訳されて日本に関する信頼される資料として評価されたという。さらに明治27年(1894)に訳本『日本幽囚実記』として出版された。艦長ゴローニンとその釈放に奔走した副艦長リコルドの子孫が高田屋嘉兵衛の子孫と1999年に再会し今函館市に日露友好の碑がある。
・文政8(1825)年異国船打払令。水戸の漁民たちは数年前から沖合操漁の外国捕鯨船と物々交換をしていた。これが発覚して300人余りが幕府の取調べを受けた。この事件が引き金になって打払令が出たという。フェートン号事件以来イギリス船が頻繁に浦賀や琉球等に来て開国を要求していたという。
・天保8(1837)年米国モリソン号事件。マカオから日本人漂流民7人を送り届けた非武装の米国商船をイギリス艦船と間違えて薩摩や浦賀で攻撃した。1年後に漂流民送還・通商・布教のための来航と分り国内からも批判が起こり、幕府の対外政策を批判した渡辺崋山・高野長英らが投獄された(蛮社の獄)。 
・天保13(1842)年薪水給与令。
・天保14(1843)年嶺田楓江27才が蝦夷地の石狩地方を旅した。1849年にはアヘン戦争を記した「海外新話」をも発刊して幕府に咎められて入獄・絶版となる。
 同じ頃、松浦武四郎26才は蝦夷地のロシア侵略(文化露寇やゴローニン事件)危機の事を長崎で聞き、蝦夷地の地理を調べなければならないと自ら蝦夷地行きを決意し1845年には1回目の蝦夷地探査を行った。1846年の2回目の樺太を含む蝦夷地探査の時は嶺田楓江らが送別会を開き江戸千住大橋まで見送った。3回目の1849年には国後・択捉島なども探査した。松浦武四郎はその後の明治2年には蝦夷地を北海道と命名した(7月北加伊道を提案し9月北海道と政府が決定した)。
・弘化2(1845)年鳥島付近で遭難した日本人22人を救助して送り届けた米国マンハッタン号が初めて浦賀入港を許された。
・嘉永6(1853)年ペリー来航。1年前よりこの来航は予告されており幕府と雄藩は情報共有されていたが末端役人には秘密にされていたため突然の黒船として大騒ぎになった。
国内の不安定化が進み薩摩藩などが合議体制を模索する中で幕府は統一見解が出せず、一方で下級武士らに流行った国学から攘夷論が出て来る。攘夷論は水戸学から出たともいう。尊王思想は古代より不変であるため攘夷論も尊王攘夷論も大きな違いはない。この攘夷論の中身は時勢と共に変わって行き過激な討幕派と穏健な幕政改革派(公武合体派)に収斂して行く。そして初期の鎖国を含む尊王攘夷という言葉の意味は変容して行き言葉とは裏腹に穏健派だけでなく過激派も侵略・植民地化を回避するために開国して外国に学ぶという方向に変わって行く。尊王攘夷思想がそのまま喧伝され続けるがその中身は討幕と同意になって行き鎖国攘夷がいつの間にか開国攘夷になっていてその矛盾を指摘することはなかった。新政府が鎖国論を議題としない旨を世に公表したのは明治2年になってからである。一方江戸時代は五摂家と武家伝奏以外の公家社会は内職をしなければならないほど生活は苦しく、朝廷内でも攘夷派と穏健派(親幕府派)に分裂して互いに浮沈を繰り返していた。孝明天皇自身は終始鎖国攘夷思考であったという。 
(言葉は同じ攘夷派でもその中身はばらばらで当時は矛盾を矛盾と感じないほどに混乱状態の同床異夢にあった。急進的な討幕派にとっては新政府の運営理念に、佐幕派にとっては幕政改革に「公議政体論」が唱えられるようになったが、鎖国に立脚した攘夷は不可能であるという理由で「開国和親」を国是とすることを決定し以後は鎖国論を議題としない旨を公表したのは明治2年(1869年)5月28日という。) 
・嘉永7(1854)年日米和親条約、人身保護と補給を主目的とした和親条約が締結され下田と函館が開港した。
・安政3(1856)年日米和親条約により下田に赴任した総領事ハリスと幕府との間で通商条約に向けた交渉が始められた。
・安政4(1857)年ハリスは江戸城に登城して将軍家定に謁見し国書を手渡した。
・安政5(1858)年2月5日幕府は堀田正陸を派遣して入京し条約勅許に尽力した。
3月12日廷臣八十八卿列参事件、条約の勅許を打診されたことを契機に、江戸時代政治的経済的に鬱屈した中・下級の公家たちが抗議の形で爆発して勅許阻止した。これが江戸幕府の権威失墜を招く結果となり公卿たちが台頭するきっかけにもなった。孝明天皇は、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば「神国日本を汚すことにはならない」と考えていたが、通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらすものと考え、3月20日勅許を拒否した。
6月19日日米修好通商条約締結。井伊直弼自身は最後まで事前勅許に拘ったが結局時流に任せて勅許を得ないまま締結することになってしまったという。この後9月にかけてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも条約を結んだ(安政5カ国条約)。この頃の朝廷の公家たちは攘夷派が強く違勅調印と非難して公武の緊張が高まり勅許しなかった。翌安政6年10月27日に斬首された吉田松陰もこの無勅許の条約調印に激怒して間部要撃策を提案したというが、まもなく松陰も開国と攘夷を結合した思想に変貌して行ったという。禁門の変後の朝廷攘夷派の発言力が弱まった慶応元(1865)年10月5日になって徳川慶喜の働きかけもあり孝明天皇の通商条約勅許が降りた(むしろ自己矛盾を抱えていたのは長州等の攘夷派であった)。
7月6日第13代徳川家定逝去、享年35歳(日米修好通商条約批准書原本には第14代将軍徳川家茂の署名「源家茂」になっており、この文書は締結後でかつ7月6日以降に作成されたものと言える)。
8月8日戊午の密勅。孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書を直接下賜した。勅許なく7月29日日米修好通商条約に調印したこと・幕府は攘夷推進すること・その旨水戸藩から諸藩に廻達すること、と幕府ではなく蟄居中の水戸斉昭に下賜された。井伊大老は激怒して自分に与えられていた権限を駆使しこれによって安政の大獄が起き攘夷派も火が付いた。幕府に不満を持つ攘夷派は朝廷の攘夷派公卿たちも巻き込んだ尊王攘夷思想と結び付いていた。この頃おそらく日本の良識派たちは中国のアヘン戦争(1840~)・イギリスの上海租借(1845~)・太平天国の乱(1851~)等の隣国の国政侵略が進行中であることを知りつつあったであろうが、日本の公卿・武家を含む大部分が目先の利益のみで右往左往していたであろうと思われそれが尊王攘夷思想であったと思われる。孝明天皇の取り巻きもその無知の人達で占められていたであろうと思われる。
尊皇攘夷論はやがて過激な討幕派と穏健な公武合体派に分かれていく。朝廷内に於いても孝明天皇自身の意向と朝廷の意向は必ずしも一致せず、偽勅も出され天皇の勅もスムーズに実行できず末端の混乱の原因になったが孝明天皇の攘夷思考は終始変わらなかったという。
天皇の意向は「叡慮」として朝廷の権威付けに利用されていて、朝廷の意向として国を動かす時の大義名分にされてきているが、国を動かそうとする者には常にもう一つの大義名分が潜んでおり、叡慮がずれていれば奸臣が叡慮をずれさせていると唱えて奸臣征伐が大義名分になっていた。古代より天皇を利用するが天皇が悪いとは表向き決してならないのが日本の特徴と言える。大久保利通が慶応元年年11月11日西郷隆盛宛て書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視が「国内諸派の対立の根幹は天皇にある」と口走るのはその大義名分である。
・安政7(1860)年3月3日、桜田門外の変において井伊直弼が殺害されて安政の大獄が収束。
・文久2(1862)年4月23日寺田屋騒動、4月16日に入京した島津久光は朝廷から討幕派を始末するよう命を受け身内の薩摩藩士を上意討ちした。この時久光はまだ公武合体路線にいた。
8月21日島津久光が帰国途中に生麦事件発生。その後攘夷の勅命を受けた徳川慶喜が支払い拒否命令出すなどで横浜の緊張が高まり流動的な中で幕府が結局賠償金10万ポンド相当を支払ったが、薩摩藩は払わず犯人も行方不明として引き渡さなかった。
 9月21日攘夷奉承。土佐・長州・薩摩の尊王攘夷派が朝廷に運動し、幕府に攘夷を迫る勅使を江戸に遣わすことになり12月5日将軍家茂は江戸城にて攘夷奉承を回答した。
・文久3(1863)年3月4日朝廷が強く攘夷を迫って将軍家茂が従者3000人と共に上洛3月7日参内し攘夷を約束してしまう。家茂は前年和宮と結婚しており義兄になった孝明天皇に政務委任の勅命への謝辞も述べた。幕府はこの天皇からの「政務委任の大義」を常に気にしていたという。
5月10日初回下関事件発生。下関海峡を通るアメリカ商戦を長州藩の一部が攻撃、朝廷も攘夷実行を褒め称えた(孝明天皇自身によるかどうかは不明)。その後もフランス艦船・オランダ艦船を攻撃したため、アメリカ・フランス艦隊も攻撃し、長州藩も手痛い被害を蒙り欧米の軍事力の手強さを思い知らされた。しかしなお下関海峡の封鎖は続けようとした(この頃は単に外国人を追い払え程度の発想であったと思われるがこのような行動を通して方向修正して行くようだ)。
5月20日朔平門外の変。過激派公家として知られた姉小路公知が薩摩藩士によって殺害された。これが「八月十八日の政変」に繋がる。
7月2日–4日薩英戦争、薩摩藩もイギリスと衝突して朝廷は島津家の攘夷実行を褒賞と共に称えた(孝明天皇自身によるものかどうかは不明)。このような攘夷行動が朝廷に近ずく要因になっていったが薩摩長州は実行動の中で攘夷行動の愚を悟る。
8月13日三条実美ら攘夷派公卿の画策で孝明天皇が神武天皇陵参拝し攘夷親征の詔を下す(大和行幸)。この行幸は過激派の三条実美らに牛耳られた朝廷が計画した行幸であったが孝明天皇の本意ではない勅書であることに危機を感じた孝明天皇は5月29日公武合体派の島津久光に対し「上京して姦人(三条らを指す)を排除せよ」との密勅を下したが薩英戦争の事後処置で対応できず代理を送り京都守護職の会津藩を巻き込んで「八月十八日の政変」となる。
 8月18日(八月十八日の政変)急進的な尊皇攘夷論を掲げて京都政局を主導していた長州藩が公武合体派の会津藩・薩摩藩らによって京都から追放され攘夷派の公家も朝廷から追放されていった。
(長州の過激派に対して穏健派はその中身は様々で、鎖国破約攘夷派の孝明天皇、佐幕派の中川宮朝彦親王・会津藩、幕政改革派・開国攘夷派の薩摩藩、それぞれに付く朝廷の公家たち等の同床異夢の混成集団で穏健派とは言い難い権謀術数の渦巻く穏健派であった。孝明天皇自身は終始長州を嫌っていたという。)
  9月28日~10月5日薩英戦争の講和交渉、横浜に戻ったイギリス艦隊は幕府仲介のもとに薩摩藩と3回にわたって和睦交渉を行い結局薩摩藩が賠償金2万5000ポンド相当6万300両を幕府から借用して支払い生麦事件の犯人は逃亡中として処罰しなかった。幕府から借用した賠償金はその後幕府に返さなかったという。イギリスと薩摩は講和交渉する中で信頼関係が出来て友好関係を深めていく。世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退したことは西洋の驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」と評し、イギリス議会や国際世論はイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃したのは必要以上の攻撃であったとキューパー提督を非難したという。
 この年関八州に於いても攘夷運動が多発し、上野国沼田城を攻め赤城山に挙兵計画を立てた桃井可堂らによる慷慨組、高崎城を攻め横浜異人館襲撃計画を立てた渋沢栄一らによる天朝組、上総国の真忠組などの討幕計画があったが不発に終わった。これらの計画には後に西郷隆盛によって幕府挑発に利用される相楽総三が関与していたという。相楽総三はその後戊辰戦争中に赤報隊を結成し闘うが西郷らに見捨てられ賊軍となって斬首される。 
・元治元(1864)年6月5日新撰組による池田屋事件。禁門の変の引き金になる。
6月19日アメリカ・イギリス・フランス・オランダ四国連合は下関海峡封鎖が解かれなければ武力行使を実行する旨を幕府に通達した。
7月19日禁門の変。尊皇攘夷の長州藩が京都で市街戦を繰り広げ一橋・会津・薩摩・桑名・筑前藩連合に負けて長州が朝敵になる。この時長州は「薩賊会奸」と称し薩摩と会津に深い遺恨を持ったという。このような中でも朝廷は相変わらず強く攘夷を幕府に迫っていた。
7月23日朝廷は幕府へ対して長州追討の勅命を発した(この時の朝廷は八月十八日の政変以来まだ穏健派が優位)。
8月5日4国連合艦隊攻撃事件(2回目の下関戦争)、連合艦隊が長州を攻撃して長州惨敗、8月8日高杉晋作が講和使節になった。出された要求は一つ以外は何の反対もなく総て受け入れたが賠償金は「外国船への攻撃は幕府が朝廷に約束し諸藩に通達した命令に従ったまで」との名目で幕府に支払わせたという。唯一つ彦島の租借だけは断固として拒否し香港の如き外国領土になるのを防いだとも言う ―これは史実かどうか不明というが隣国中国のようにならないように対応が必要であることは判ってきていた。
 8月13日第一次長州征伐、総勢15万で藩主父子のいる山口城を目指した。長州藩では藩主父子が恭順の意を示し俗論派が盛り返し三家老切腹・四参謀斬首・三条実美ら5卿の追放・藩主父子の謝罪書・山口城破却等の降伏条件で事態は収束していて12月27日征長軍側は解兵した。
 12月15日功山寺挙兵。長州藩内の元治の内乱が始まり、再び藩内急進派が実権を握る。
・元治2(1865)年1月5日(前年の禁門の変で、4月7日より慶応元年に改元)幕閣は解兵後も征長に拘り総督の徳川慶勝へ藩主父子と五卿を江戸まで拘引せよとの命令書を出し板挟みにあった慶勝はもう不可能であると連絡して大阪に留まって江戸に戻らなかった。
・慶応2(1866)年1月22日幕府による長州処分の最終案の奏上、勅許が下された。幕府側は命令に従わなければ6月5日を以て諸方面から進撃すると決定したが、薩摩藩の大久保利通は遡る4月14日出兵拒否の建白書を出していた。
 6月7日第二次長州征討。幕府側総督小笠原長行自身が消極的で7月20日将軍家茂が薨去し幕府側の全面敗北で9月2日停戦合意。遡る8月4日の朝議を受けた孝明天皇は戦争続行の叡慮を述べていたという。
この時の戦訓で西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、後の戊辰戦争で自軍1に対し幕府軍10で良いと見積ることになったという。
8月30日廷臣二十二卿列参事件が発生、岩倉具視の策謀によると言う。孝明天皇は逆に22卿を謹慎処分にした。
12月25日孝明天皇崩御、満35歳。孝明天皇は長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続けたという。
・慶応3(1867)年10月14日大政奉還と討幕の密勅。徳川慶喜が大政奉還し翌日天皇の勅許(この時明治天皇数え16才)。大政奉還の同日討幕の密勅が出た。これは討幕派が焦ったためという。この密勅は岩倉具視によるもので正式な手続きを経ておらず『維新史料聚芳』(1936年発行)が出るまで非公開で不審な点があるという。
 10月24日征夷大将軍の辞職願提出。
 12月9日王政復古の大号令、征夷大将軍の辞職願も勅許された。
 12月25日庄内藩等による江戸薩摩藩邸の焼討事件。市中の薩摩藩の浪人たちの挑発行為がエスカレートして行ったため薩摩藩江戸屋敷の浪人の処分を幕府が試みたが拒否されて庄内藩が爆発してしまった事件(西郷隆盛の挑発に乗ってしまった事件)。3日後大阪城の徳川慶喜に情報が伝わり鳥羽伏見の戦いに繋がる。
・慶応4(1868)年1月2日
3日~6日鳥羽伏見の戦い。
 3日、朝廷では緊急会議が召集された。大久保は「旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、徳川征討の布告と錦旗が必要」と主張し、春嶽は「これは薩摩藩と旧幕府勢力の私闘であり、朝廷は中立を保つべき」と意見が対立し紛糾したが、議定の岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢が決った。新政府軍5000、幕府軍15000で幕府軍が惨敗した。
1月5日大久保利通による岩倉具視への進言で錦の御旗を掲げて、征夷大将軍・仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が東寺を出発鳥羽にあらわれた(この錦旗は3ヵ月前から岩倉具視が玉松操にデザインさせて事前に造らせてぎりぎり間に合ったという)。
1月6日夜、勤王のつもりが朝敵となってしまい狼狽した徳川慶喜が、徳川のために戦っている会津藩や桑名藩の将兵を見捨てて大阪城を脱出した。
1月7日朝、大坂天保山沖から軍艦開陽丸に乗り込み、わずかな供回りと共に江戸へ逃げ出した。同日徳川慶喜ほかに対する追討令が発せられた。
1月8日出航、11日朝品川沖に到着、12日朝浜御殿(現浜離宮恩賜庭園)に入り同夜江戸城西の丸に入った。10日徳川慶喜の官位が剥奪された。慶喜より少し遅れて幕臣達も次々と大阪から江戸に戻ってきた。主戦論を唱える家臣達が多い中で慶喜は主戦派の小栗上野介忠順(ただまさ)を罷免して(1月15日陸軍奉行及び勘定奉行を罷免)、勝海舟の恭順論を採り、「鳥羽・伏見の戦いは行き違いで、追討令が出されたのは心外である」旨、1月17日付松平春嶽への書簡で新政府軍への仲介を頼んだ。しかし慶喜が朝敵になったことで代々徳川への親藩であった松山藩・松江藩・高松藩らが新政府側に寝返ったことから慶喜は方針を変え戦意がないこと・逆らわないことを示すためにひたすら謹慎することにして、「朝敵の汚名を被った以上、ひたすら天皇の裁きを待つほかは無い。そのほうらの憤慨はもっともである。しかし戦となると外国の干渉を招く。インドや中国の二の舞となる。日本は瓦解し、民は塗炭の苦しみにあえぐことになろう。私は天皇に対して二重に罪を犯すことになる。どうかわが意思を汲み、暴動を起こしてくれるな。軽挙に及ぶ者はわが家臣ではない」と家臣へのお触れを出した。
2月3日、天皇親征の勅が発せられ、同9日有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が天皇の代理人として征東大総督に任じられた。
2月12日慶喜は江戸城を出て菩提寺の上野寛永寺に移り、以後謹慎生活に入り朝廷へも恭順を誓う書状を送った。
同日雑司ヶ谷の会合。鬼母子神の門前茶屋・茗荷屋に慶喜の家臣達17名が集まり、その時の参加者への触れ状が残っているという。「慶喜公は天皇への忠義を尽くし、昨年暮れに大政を奉還された。しかるに賊徒どもの悪巧みによって、朝敵に転落されたことは遺憾の限りである。君辱められれば臣死するの時という。一橋家当主の時以来、慶喜公にお仕えする者が、どうしてこの事態を傍観していられようか。多年の御恩に報いるのは、この時である」(『彰義隊戦史』山崎有信著。その後も4回にわたって会合が開かれて彰義隊結成に繋がる。
2月15日、有栖川宮熾仁親王は朝廷より錦の御旗と節刀を授けられ、京都を出発した。
有栖川宮熾仁親王のもと参謀の西郷隆盛が実際の指揮にあたった。東征軍は東海道・中山道・北陸道の三手に分かれて江戸を目指した。 
2月17日、2月21日にも慶喜家臣たちの会合が四谷の円応寺にて行われ2月21日の会合では人数は67名に増え、4回目の2月23日の会合では浅草の東本願寺の会合では130名集まり、会合名を「尊王恭順有志会」とし、隊の名前を彰義隊とした。この時頭取渋沢成一郎と副頭取天野八郎が選ばれて彰義隊結成の趣の書状を幕府に提出するも受取を拒否された。書状に曰く「慶喜公は尊王のお心が強いあまり君側の奸に利用され、天皇のお怒りを買ってしまった。ひたすら恭順して天皇のおさばきを待つお考えである。臣下の身分で何も言うことはできぬが、このまま黙っているわけにもいかない。死を決して同盟し、今回のことは冤罪であると、訴える所存である」と過激であったための拒否という。しかしながら彰義隊結成を知った参加希望者が集まってきてまもなく千人を超える規模になり
勝海舟以下の幕府首脳部は、今新政府を刺激するのはまずいとのことで軍事組織ではないことを示すために江戸市中見回りの役を与えたという。彰義隊は江戸っ子に人気を博し東本願寺には入りきれなくなり4月3日浅草東本願寺から上野寛永寺に屯所をうつした。
3月5日有栖川宮熾仁親王が駿府城に入り、3月6日江戸城総攻撃が3月15日と決まった。
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件が鳥羽伏見の戦いのきっかけになったが、これは西郷隆盛の策で相楽総三が誘導した。その後彼は赤報隊を結成したが新政府軍の指示に従わなかったために「偽官軍」の汚名を着せられて同3月信濃国下諏訪で斬首された。孫の木村亀太郎によって相楽総三の名誉が回復されたのは昭和3年になってからで靖国神社にも合祀されたという。西郷隆盛や西南戦争の賊軍および会津藩等の賊軍側は未だに合祀されていないという。同神社の理念と実態の不一致を示す一面である。
4月3日彰義隊が上野寛永寺に引っ越してきたが慶喜警護には既に旧幕臣が1500~1600人いたので慶喜にとっては迷惑で、縄張り争いを心配した渋沢成一郎も彰義隊は境内の外の外回り警護に当たることにした。
4月11日江戸城開城。 東征軍参謀・海江田信義に率いられた薩摩・長州・尾張・熊本・岡山・大村・佐土原の七藩の藩兵が江戸城桜田門から入り、幕府側陸軍歩兵奉行の大鳥圭介は徹底抗戦を主張し、開城の当日江戸城を脱出し、海軍副総裁の榎本武揚も徹底抗戦で八隻の軍艦を率いて館山沖に向かった。
江戸城開城当日早朝、慶喜も寛永寺を出て慶喜を警護していた幕臣200人余と共に水戸藩に預け処分に従い水戸に向かい、道中憔悴しきった慶喜を見て涙を流す者も多くあったという。
4月21日東征大総督の有栖川宮熾仁親王が補佐大村益次郎と共に江戸城に入り、江戸城に新政府の総督府を置いた。
閏4月24日関東監察使の三条実美が新政府首脳部の意向を受けて江戸城に入り、対応が生ぬるい江戸の大総督府に対し、徳川家の処分を決定させた。「徳川の家名は田安亀之助(徳川家達)に相続させる。徳川の臣は駿府に移封し、江戸城は返還しない。禄高は70万石とする」として閏4月29日に実行され、同日、温情派の大総督府参謀の林玖十郎が罷免されたが西郷隆盛は残った。
4月28日、彰義隊分裂。「軍資金重視・江戸大火回避」を唱えて江戸を離れることを主張する渋沢成一郎と「軍資金よりも気合いの精神論・大火回避よりも上野寛永寺に留まることが優先」と主張する天野八郎と意見が合わず分裂して渋沢成一郎ら同志100名余は、武州田無村へ移り「振武軍」と名附けて分裂した。
5月1日新政府は勝海舟らに委任していた江戸の市中取締の任を解き、大総督府の直接管理下に置き、同日大総督府より上野寛永寺の彰義隊に対して、彰義隊の江戸市中取締の解任と彰義隊の武装解除を通告した。賊軍になった彰義隊は市中で不祥事を起し寛大路線の参謀西郷隆盛も見過ごせなくなった。
5月9日慎重派の海江田信義と積極派の大村益次郎の意見が対立したが西郷の一言で彰義隊への総攻撃が決議された。驚いた勝海舟が幕臣山岡鉄舟を寛永寺の実質的責任者である覚王院義観や皇族で門跡の輪王寺宮にも遣わし彰義隊を解散するように説得するも全く聞く耳を持たず新政府側に反感を持ち、彰義隊もこの頃一時は軍資金が潤沢であったという。
5月15日上野戦争、大村益次郎率いる新政府軍に半日で討伐された。新政府軍12000、彰義隊1000(3000だったが脱落してこの時1000名程)。大村益次郎は半日で勝てると豪語していたが軍資金と江戸大火を心配していたといい、軍資金50万両の半分は大隈重信が負担したという。彰義隊は全滅し生き残った者は東側の門から逃げ延び、渋沢成一郎の振武軍に合流する者や榎本武揚の軍艦に便乗する者がいた。輪王寺宮はその後寛永寺を逃れ榎本武揚の軍艦に便乗して奥羽越列藩同盟の盟主になり一時アメリカ公使は二人のミカドが出来たと本国に伝えたともいう。天野八郎は榎本艦隊に誘われたが断って江戸での再起を狙っていたが7月13日新政府軍に捕えられ罰せられる前に獄中で病死、享年38歳。
5月23日飯能戦争。渋沢成一郎らは敗走し一時伊香保に逃れたが江戸に戻り榎本艦隊に合流して函館戦争にも参加して降参。入獄するもやがて赦免されて渋沢喜作と名を変え実業家として成功し大正元年75才没。

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(未読だけれども読むべき本:「彰義隊戦史」明治37年山崎有信著、「海舟先生氷川清話」明治42年勝安芳著)。
 行政はいつの世でも後手後手のようだ。民間交流は既に始まっており時勢の流れは開国が必要と判っているのに時の権力者或いは時の有識者が逆の攘夷を唱えて大勢がそちらに流されて行き途中で間違ったと、鎖国攘夷から開国攘夷へ無意識に方向転換して行く。今の世も同じかもしれない。気付きながら攘夷という言葉が徹底して使われ続けたのはなぜか?攘夷という言葉は一般民衆を含めて誰も逆らわない魔法の言葉だったためか?言っていることとやっていることが違うではないか?しかしこれで世の中が実際に動いた。
外国の進んだ知恵を学ばざるを得ず、外国と仲良くするためではなく圧力に屈しないために一見矛盾する開国と攘夷を融合させた。その矛盾を新政府として公式に解消したのは明治2年になってからである。 鎖国に立脚した攘夷は不可能であるという理由で「開国和親」を国是とすることを決定し以後は鎖国論を議題としない旨を公表したのは明治2年(1869年)5月28日という。

明治維新の流れは、もともとは猪突猛進で視野の狭かった長州や薩摩が実践の中で身に染みて修正・視界を広くして行く一方、幕府の中の良識派や徳川慶喜はもともと広い視野を持ちながら気付かない自分の殻を背負ったままであったために旧弊から抜け出せず右往左往して、結局は視野の狭かった人たちに力で駆逐されてしまった。そう見える。
その明治維新は下級武士により成されたが結局は藩閥政治が国に導入されただけで、被支配階級の人民に対して、下級武士の下層支配階級の政治観は自由民権活動と言っても、士道に囚われた権力構造を容認した藩閥的政治観からは脱却出来なかった。その為に田中正造が体現していたと思われる小中村の「古来の自治村」の人民政治が国レベルでもあるべき姿と捉えていたであろう田中正造の政治観からは維新後の政治は程遠いものであった(「田中正造の生涯」林竹二著)。結果として殖産興業・富国強兵の優先策によって日清戦争に勝ち日露戦争にも勝った。

日本は古代より王胤の家と家臣の家の区別があり(臣下の家間での争いのみで国の形を変えてきた)、易姓革命(前王権の全てを否定抹殺するという在り方で国を変えてきた)が当たり前の世界の他の国々とは異なる特徴を持った国であることはやはり間違いなさそうだ。しかも明治維新は孝明天皇自身が強く鎖国攘夷を望みながらも、結局は大きな流れに天皇も身を委ねていき、結局は逆方向の明治維新が成立して行くさまを目の当たりにできる。
天皇を戴きながらも目先の御意志ではなく天皇に集約した社会の意志を御意志「叡慮」として頂くという、日本の国家形成の基本理念がみえるようだ。天皇も人民に身を委ねている証でもある。そして天皇に対しても決してイエスマンではなく天皇が間違った判断をされるのは奸臣の先導が悪いためとの解釈で積極的に奸臣征伐を大義名分にしてお諫めもするという言動が見える。「叡慮」として素直にその玉を受け入れ「臣下としての価値判断」をして天皇の取り巻き連中にその玉を投げ返す。それでも駄目なら南北朝時代のように王胤の家から別の天皇に入れ替え内戦にまで発展することも辞さない。昭和天皇も軍部が強かった時代、弟君に替えるべきとの一部の意見が出てその雰囲気を天皇自身も分かっていたようだ、ともいう。面従腹背が当然と言い放ち保身を優先する最近の某次官とは別世界の話である。たとえ敵対してもその底では基本理念に大きな違いはないと互いに自信を持てるような行動をしたいと思う。私たちは権力者や有識者に政策を任せるのではなくどうしたら望む方向に彼らを誘導できるかを考えなければならないようだ。

ホタルブクロ2019年06月28日

ホタルブクロ in Numata Nara
沼田奈良でもやっとホタルブクロが咲いた。前橋より1か月遅い。