モクレン・ハクモクレン・コブシの違い2023年04月02日

2023/4/1 アサブロ
モクレン・ハクモクレン・コブシの違い
ハクモクレンはモクレンの白いものと思っていたら間違っていた。
モクレンはシモクレン(紫木蓮)のことで紫色で花弁は6枚で咢は緑色、
ハクモクレンは花弁が9枚とのこと(咢が白くて花弁のように大きいため9枚に見える)、
コブシは花弁が6枚で咢は緑色。直ぐ下に1枚緑葉あり、である。 その他にも違いがあるという。
開花の順はハクモクレン←→コブシ→モクレンの順という。

〇モクレン(シモクレン=紫木蓮):樹高4-5mの中高木、株立ちになり易い、花の大きさ8-10cm、花弁は倒卵円形紅紫色、上向きに咲き半開き、古くからあるが中国原産。
2023/4/1モクレン 沼田奈良

(2023/4/6 訂正 上記の写真はハクモクレンだった。蕾が紫がかっていたこと、業者から購入した時はモクレンだったことから勘違いしてしまった。5日後の開花を調べたら花弁が9枚あった。花の大きさも20cmあった。以下2枚写真追加。)
20230406ハクモクレンだった、花弁9枚。

20230406ハクモクレンだった、花弁9枚。花の裏。



〇ハクモクレン(白木蓮):樹高20mの高木、花の大きさ10-15cm、花弁は卵形で肉厚、上向きに咲き半開き、古くからあるが中国原産。
2023/4/1ハクモクレン 赤城南面千本桜内


〇コブシ:樹高5-20mの中高木、花の大きさ4-5cm、花弁はへら状で薄い、巾広く開き横や下向き、日本に自生。
2023/4/1コブシ① 沼田奈良aaa
2023/4/1コブシ② 沼田奈良aaa


※ この写真のコブシは以前、園芸業者から「コブシ」として購入し植えたものである。
そしてよく見ると、インターネット情報のコブシとは違うようだ。
花が大きく15cmφ位ある。緑の咢片がなく、小さく細い白色の咢片らしきものが3つあり(下写真黄色矢印を指す)、ハクモクレンに似て合わせると9枚になる。花の直ぐ下には緑葉が1枚ついている点はコブシに似ている。花弁が9枚でそのうち3枚は小さいタムシバ(ニオイコブシ)に似るがタムシバは花の下の緑葉がない。交雑種なのだろうか。

牧野富太郎の原色図鑑を見ると、タムシバの花は15cmと大きい、花の下の葉はない、と書いてある。モクレン・コブシ・タムシバは載っているがハクモクレンは載っていない。

20230402コブシ小花弁 沼田奈良 

結局、花だけを見ると、この写真の「コブシ?」は白色花弁9枚の内3枚が小さい点と花が大きい点でタムシバに近いが、花直下の緑葉がある点でコブシに似る。 交雑種ないし変種ではあるようだ。素人なのでこれ以上は分からない。


(2023/4/4 追加)
〇別のコブシの花:(関越道赤城パーキングエリア内)   花弁は6枚、緑咢はない、花の大きさ10cm位、上記の沼田奈良のコブシに比してさらに小さな白色の咢様の小片がある、花弁はへら状である。同じコブシでも少しずつ違っている。
コブシ 赤城パーキング1
コブシ 赤城パーキング2
コブシ 赤城パーキング3

NHK Eテレ「先人たちの底力 知恵泉 田中正造」をみて2023年04月15日

(2023/3/30 facebookメモ、追加分含む。)

NHK Eテレ初回放送日: 2023年3月28日「先人たちの底力 知恵泉 田中正造」をみて、
 偶々、足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴した田中正造についてのこの番組を見た。なるほど歴史番組はこういう風に作るのかと勉強になった。

 しかし、新聞報道の映像のペンネームみどり子は石川半山ではなくジャーナリストで女傑の松本英子である。石川半山はその上司の主筆なので間違いではないが松本英子が自律的に書いた報道である。石川半山だけでなく毎日新聞社長の島田三郎も田中正造に協力的であった。彼女は明治天皇直訴事件発生直前に毎日新聞に入社して鉱毒事件報道に深く関わり、被害民の側に立った現地報道を多く行い、広く全国に世論を喚起して、そのルポは59回に及んだというが1年足らずで退社して渡米してしまった。
 渡米してからも彼の地で目を見張るような積極的活動をしていて、稀に見る女傑と思われるが何故かあまり知られていないのが残念である。
 また、磔刑になった下総国の佐倉惣五郎は講談等で余りにも有名になったがその33年後の1686年にも上野国で同様磔刑になった杉木茂左衛門がいるがこれもなぜか余り知られていないのが残念である。佐倉藩も所領没収されたが、沼田真田藩もこれが要因となってお取潰しになり城も完全に破却された。

※松本英子については、
〇『女のくせに』江刺昭子著。
〇「けやきのブログⅡ 2021年7月24日 (土)ジャーナリスト松本英子(永井ゑい子)、みどり子  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2021/07/post-ca0b88.html   で紹介されている。
※礫刑茂左衛門については、下記で詳しい。『磔茂左衛門』後閑祐次著。
〇「杉木茂左衛門」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%A8%E8%8C%82%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
〇茂左衛門地蔵尊 千日堂 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1121071-d15580597-Reviews-Mozaemon_Jizoson_Sennichido-Minakami_machi_Tone_gun_Gunma_Prefecture_Kanto.html 
※明治天皇直訴事件については、
〇『田中正造と天皇直訴事件』布川了著、 に詳しい。
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◎先人たちの底力 知恵泉 田中正造 すべては人々のために(NHKテレビ Eテレ2023/3/30)https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2023032826012 
https://www.nhk.jp/p/chieizu/ts/R6Z2J4WP1Z/episode/te/PMMJ314PL4/ 

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(追加分)

インドのガンジーは1914年第一次世界大戦以降の非暴力・不服従運動で有名であるが(正確には1919年アムリットサル事件以降)、田中正造はガンジーより47年早くかつ年齢27歳の時に既に非暴力・不服従の姿勢で対六角家闘争に入っている(1867年)。その後の足尾銅山鉱毒事件(田中正造は1891年より関与開始)でもその姿勢を貫いている。この足尾銅山鉱毒事件は世界の公害問題の先駆けであり、其の上日本中に鉱毒問題という公害を喚起せしめた事件であり、かつ詳細な記録も多く残っている歴史的にも貴重な事件である。
それでも明治時代の富国強兵・殖産興業・世界の帝国主義化の流れには到底あらがえなかった。

 平和、平和と唱えても、今でもおそらくこれからも、「勝てば官軍負ければ賊軍」という人間社会の性を乗り切るためには力は無視出来ない。
明治維新自体が正しいわけではない。錦の御旗を捏造し手段を択ばず勝ち、勝った以上は正しい道に載せなければならないというその努力が正しいのである。そういう意味で大久保利通はやはり偉い。賊軍側の徳川慶喜も目先の意地でフランスの力を借りようとしなかったことは、もし借りていたら日本自体が西欧の属国に陥っていたかもしれないとの大局観を持っていたからこそであるという意味でやはり偉いのである。西郷隆盛も同じかもしれない。
結果は経過を正当化するのは勿論であるが経過も結果を正当化するのであり、一方通行ではないというのはそういうことである。

 その力の中心はできれば実力行使ではなく話し合いでとはだれでも願うことだ。そのためにはやはり世論を如何に喚起していくかがその基本になる。独りよがりではただのマスターベーションだ。世界の常識の方向が一つの王道に向かうことがその土台になっていくはずである。ヴィトゲンシュタインが言う如く一人ひとりにみな違う考え方即ち理念で生きているこの世界でその世界の常識の王道を如何に培うか、これは困難であっても平和のためには必要だ。古代中国の屈原が『漁父の辞』で云う如く漁父の柔軟な忍耐が生きるためには必要と認めながら頑なに死を選んだように、田中正造も漁父の生き方があることを認めた上で頑なな屈原の生き方を選んだのかも知れない。
正造は明治11(1878)年に財産を犠牲にして一身を公共のために尽くすことを父親にその許しを請い、父親も「死んでから仏になるはいらぬもの、生きているうちによき人となれ」という狂歌を示して快く許した。地元の区会議員に選出された時には「議員上任誓詞」を皆に示し赤飯を振る舞い沐浴して役職遂行を区村民に誓ったとの記録が残っている。
その想像を超える実直さ潔癖さは終生揺れることはなかったことからも、そう感ずる。「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべーし」との正造の言葉が残っているが、ガキ大将の正造が母親に戒められて成長する途次に身につけた自らを律する道徳心は武士道そのものであろう。
田中正造は世の理不尽さに対して徹底的に戦った。明治11年の区会議員当選、明治13年には県会議員に当選し自由民権運動に係る中で「国会開設建白書」を元老院に提出し、明治14年には明治天皇の「国会開設の詔」が出て、明治22年には帝国憲法が発布されて翌23年には第1回衆議院議員選挙に当選しブルドーザーの如き主張を国会で貫き「栃鎮」とあだ名され、異様な風貌の名物代議士として当時の新聞を賑わした。そして新たに発布された憲法を基に人民利益を第一と考えて藩閥政府との対決に心血を注いだ。しかし、それにも失望し残るはこれしかないと、当時天皇は現人神と言われる神であったが、死を賭してその明治天皇へ直訴に及んだ。この直訴が一朝一夕の決心でないことは『田中正造と天皇直訴事件』布川了著、を読めば分る。この事件に至るまで、帝国憲法を根拠に行った正造の行動は非暴力・不服従そのものだった。

その田中正造の頃と比べ現代社会は法治国家としての整備は格段に進歩していても、それを運用する人間の偏狭さは昔と変わらない、むしろ退歩していると言った方が良い。謙譲の美徳、不言実行等、かつての美徳は現在は不徳とさえ言われる。控えるべき偏執な主張は今ではするべきとされている。少なくとも自らを律するという武士道精神からは現代は明らかに退歩している。新渡戸稲造はアメリカの友人に宗教がなければモラルは育たないと言われてそんなことはない事を納得してもらうために『武士道』を書いたとされるが、宗教があるからモラルが育つわけではないことは歴史が証明している。社会の法によって相互の自己を律し合う以外に、即ちモラルの乱れを抑えるのは法治社会以外にない。
共産主義も民主主義も社会主義も一歩運用を間違えばその害は同じである。イデオロギーとモラルは別次元のことであるからである。
人種不平等も覇権主義も良くないとは既に皆分かっているにもかかわらず、目先の利益のために、それに今でも陥ってしまうという人間の性の拭いようもない事実は歴史が証明している。

中国は周恩来も鄧小平も覇権主義にはならないと確約していた。1972年の日中共同声明でも米中共同声明でも1978年の日中平和条約でも中国は覇権主義には陥らないと約束していた(〇覇権主義 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 
〇日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%A3%B0%E6%98%8E )。そして中国のその発展に日本は大いに協力していた。その奥には戦争で多大な迷惑を及ぼしてしまったとの深い罪の意識も大いにあったと思う。中華人民共和国憲法にさえ覇権主義には反対の文言があるという。
にもかかわらず習近平体制になった今、南沙諸島の人工島建設や飛行場建設などは覇権主義の典型だが、自分のものだから国内問題だとの詭弁で悪びれもしない。尖閣も資源があると知った途端に所有権を主張し出した。正義も不正義もないのが現実の世界だ。文明の進歩した今でさえ力のない正義はないのである。
米国も決して綺麗ごとだけではない。つい最近までも世界の警察として剛腕を当たり前のようにふるってきた。まさに覇権主義である。ベトナム戦争然り、イラク戦争然りである。第二次大戦前でも例えば明治31(1898)年に米国はハワイを武力併合した。そしてハワイ語を使うことも禁止した。今ではほぼ消滅してしまったという。
当時就任したばかりの慣れない大隈重信首相は1898年8月12日にアメリカのハワイ併合に対してマッキンリー米国大統領に対して極めて厳しい非難文書を送り外交危機に陥りそうになったという。その少し前の1893年のハワイ事変ではリリウオカラニ女王の王党派から援助を求められて日本は邦人保護を理由に軍艦2隻を送りハワイ軍港に停泊した。艦長の東郷平八郎は欧米派に話し合いを求められても拒否して無言の圧力を加えたという。更にその前の大王でリリウオカラニの実兄のクラカウア大王は1881年に日本訪問をしていて明治天皇に密会し5項目の援助や協力を依頼していた。その中には王室同士の婚姻やアジア連合等の対欧米構想の持ちかけもあったという。残念ながら日本にも余力がなく欧米との不平等条約の改正等に四苦八苦している時であり、クラカウア大王の期待には応えられなかった。欧米列強と対峙していく過程でやがて日本も1894年日清戦争、1904年には日露戦争にも突入していくことになる。(ハワイ併合 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BD%B5%E5%90%88 )。
ホノルルの公文書館に明治天皇のハワイ国王への返書が保管されているという(アメリカの侵略を受けたハワイ。国王のカラカウアは助けを求め日本へ https://naoemon.com/hawaiian-kingdom/ )。

その他にも日本は、アメリカとは第二次大戦までは何かと利害関係が対立しやすく、第一次大戦後の講和会議等でも日英仏伊米の5大国に日本がいるのを米国は煙たがり日英同盟を廃止させてしまったこともあった。当時の英首相は「・・これを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」と言ったという。この頃日本は、国際連盟規約起草で「人種的差別撤廃提案」も行ったが否決されてしまった。アメリカ国内では日本の「人種的差別撤廃提案」に対して、黒人が日本への感謝の意を表明して喜んだが、否決されてしまったことで、多くの都市で暴動が起きたという。この頃は世界的にも人種差別から政策的に脱することができていなかった。
ただ、1893年の武力行使のハワイ事変は100年後の1993年にクリントン大統領によってハワイ併合は不正義であったと謝罪している。この点は米国の偉いところではある。

「ムシトリナデシコ」について、フクロナデシコとの違い?2023年04月19日

2014/6/21 12:08 ムシトリナデシコ?(沼田奈良)
「ムシトリナデシコ」について、

「ムシトリナデシコ」 Silene armeria(別名 シレネ・アルメリア, Silene armeria, コマチソウ, 小町草, ハエトリナデシコ, 蠅取撫子):
 https://www.flower-db.com/ja/flowers/silene-armeria 
 数年前の6月に不明の雑草花を見つけ撮影しておいたものが、1昨日(2023/4/16)国営ひたち海浜公園に行った時に、超広大なネモフィラの群落の中の一角にフクロナデシコ(Silene pendula 
https://www.flower-db.com/ja/flowers/silene-pendula
 )が咲いていて、これをきっかけに「ムシトリナデシコ」であるらしいことが分かった。但し自信はない。