「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)2021年03月26日

「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)
「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)

昨年初版が発行されましたが「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)がR3.1.20.に再び発行されました。
左部彦次郎についてはご存じない方が多いと思いますが、足尾鉱毒事件の田中正造を知らない方はいないと思います。左部彦次郎は公害問題で国家権力と徹底的に戦った田中正造の軍師的役割を果たした人物でした。
 足尾銅山鉱毒事件は世界に先駆けて日本で発生したもので、世界の公害史の中の原点ともいうべき事件でした。
 田中正造(1841年生まれ)は江戸時代の反六角家闘争からはじまり谷中村廃村に至るまで理不尽な権力者に対峙した時の行動が、終始非暴力と不服従に拘った生き方をしています。それはインドのガンジー(1869年生まれ)の非暴力・不服従の生き方そのものでした。
 田中正造はガンジーより28才年上で、27歳の時から既に時の権力に対して非暴力・不服従を貫きました。ガンジーが非暴力・不服従を始めたのは46歳の時ですので、ガンジーの47年前に既に同様の行動に入っていたことになります。まさに日本のガンジーで、ガンジーの先輩でした。
 左部彦次郎は田中正造よりも早くからその公害問題にかかわり、明治の殖産興業の大きなうねりの中で共に同士として徹底抗戦する中で、もはや状況は変えられないという土壇場で田中正造は自滅覚悟の道を歩み、左部彦次郎は現実的な次善の策を選択して両者袂を分かったという間柄でした。それ故もとの仲間同士の間にもそれぞれの人たちの深奥にしこりを残して解決を阻んできました。
 著者は終章で、この二人の間の問題は、最近の東電福島第一原発事故で運動の指導的立場にいた人が住民の批判を受けるようになりやがてその地位を追われる状況が生まれたことと、課題が重なると考察しています。決して過去の問題ではなく未来にも起き得る問題でさらに研究すべき課題であると言っているようです。

足尾の山が枯死していく一方で、坑道に使う木の補充に、一山超えた群馬県側の木を伐り出すためにと出来た村があり、足尾銅山の衰退とともに消え去った幻の村があったことを初めて知りました。
 その村の記録が見つかったとのことで過日、下記の展示会場に行って説明を聞いてきました。
(沼田市歴史資料館3/4~4/4 第11回企画展「足尾銅山を支えた根利山―幻の集落―根利山」 https://www.gunpaku.com/news/48/ )
 足尾の山木が枯死したために、百名山の皇海山の反対側にも一時期5000人の集落が出来ていたそうです。幸い古河鉱業が写真家も派遣していたために記録が残っていたとのことでした。

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_ johnanz ― 2021年11月10日 05:28

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