NHKラジオ第2「こころをよむー『方言と日本のこころ』」を聞いていて ― 2023年08月09日
2023/8/6 アサブロ
NHKラジオ第2「こころをよむー『方言と日本のこころ』」を聞いていて、
朝ドラ「らんまん」の万太郎は小学校も出ていないのに英語の手紙をすらすら読める。すごい才能だ。モデル元の牧野富太郎もそんなに優秀だったのだろうかと思う一方、学校に出ていようがいまいがその心さえあれば人は目的を成就できるのだろう、とも思う。そうすると受け取り方・考え方の画一化を求める学校教育はむしろ害にもなっているのかもしれない。
日本の今に続く教育制度は明治時代に文部省専門学務局長の上田万年と同普通学務局長の澤柳政太郎によって構築されたが、その根底には国のアイデンティテーは国語の統一にあるとの認識があった故であった。渡欧してヨーロッパ各国がそれに悩み努力していることを上田万年が学んで帰ってきた。そして現れた結果が、日露戦争に勝った要因は日本の教育制度にあり、とイギリスに言わしめたことに表れた。これは換言すれば教育の画一化であり標準語制定でもあった。澤柳政太郎は教育の在り方についてもっと深い考察をしていたようであるが表面に出てきたことはそういうことである。
言葉は大事、考え方も受け取り方も大事、でも言葉が通じなくても江戸時代の鎖国時代には日本の周りに言葉が通じないロシア人やポルトガル・オランダ・イギリス・フランス・アメリカ等が我国の周りに出没していてそれなりの交渉をしていた事実がある。コミュニケーションは言葉が分からなくても成立するはずだ。そんなことをぼんやり考えながらその朝ドラを見ていた時に、NHK第2の澤村美幸氏の放送を偶々聞いた。
その時間帯のラジオは以前より朝の目覚ましに毎日ぼんやりとラジオを自動スイッチオンで聞いている。そしてたまたま上記の澤村美幸氏の『方言と日本の心』を聞いていて、はっ、とさせられた。平安時代の言葉の記録は国民の極一部の超エリート層しか文字を残せなかったという。奈良時代でも万葉集(780年頃成立)の東歌などで例外的には残っているとしても、当時の話し言葉は貴族の一部、住民の4万分の1が使った言葉しか残っていないという。我々はその偏った一面の歴史しか見ていない。言われてみればそうだった。そもそも日本に漢字が入ってきて記録を残せるようになったのは応神天皇16年(3-4世紀)の時からと言う。百済に亡命していた漢人の王仁が論語10巻と千字文1巻を応神天皇機に献上し漢字が初めて日本に公伝したと言われている。そして歴史記録がの残るようになった
それらの言葉について、読み書きができる一部の貴族たちの学者や僧侶が記録したものしか現代のわれわれは知ることが出来ない。一般庶民にも話し言葉はあったはずであるがその超エリート層が使う言葉に染まった人々の言葉に対して地方のいわゆる方言を比較した論考で、大変勉強になるお話である。早速テキストを購入した。
NHKラジオ第2「こころをよむー『方言と日本のこころ』」を聞いていて、
朝ドラ「らんまん」の万太郎は小学校も出ていないのに英語の手紙をすらすら読める。すごい才能だ。モデル元の牧野富太郎もそんなに優秀だったのだろうかと思う一方、学校に出ていようがいまいがその心さえあれば人は目的を成就できるのだろう、とも思う。そうすると受け取り方・考え方の画一化を求める学校教育はむしろ害にもなっているのかもしれない。
日本の今に続く教育制度は明治時代に文部省専門学務局長の上田万年と同普通学務局長の澤柳政太郎によって構築されたが、その根底には国のアイデンティテーは国語の統一にあるとの認識があった故であった。渡欧してヨーロッパ各国がそれに悩み努力していることを上田万年が学んで帰ってきた。そして現れた結果が、日露戦争に勝った要因は日本の教育制度にあり、とイギリスに言わしめたことに表れた。これは換言すれば教育の画一化であり標準語制定でもあった。澤柳政太郎は教育の在り方についてもっと深い考察をしていたようであるが表面に出てきたことはそういうことである。
言葉は大事、考え方も受け取り方も大事、でも言葉が通じなくても江戸時代の鎖国時代には日本の周りに言葉が通じないロシア人やポルトガル・オランダ・イギリス・フランス・アメリカ等が我国の周りに出没していてそれなりの交渉をしていた事実がある。コミュニケーションは言葉が分からなくても成立するはずだ。そんなことをぼんやり考えながらその朝ドラを見ていた時に、NHK第2の澤村美幸氏の放送を偶々聞いた。
その時間帯のラジオは以前より朝の目覚ましに毎日ぼんやりとラジオを自動スイッチオンで聞いている。そしてたまたま上記の澤村美幸氏の『方言と日本の心』を聞いていて、はっ、とさせられた。平安時代の言葉の記録は国民の極一部の超エリート層しか文字を残せなかったという。奈良時代でも万葉集(780年頃成立)の東歌などで例外的には残っているとしても、当時の話し言葉は貴族の一部、住民の4万分の1が使った言葉しか残っていないという。我々はその偏った一面の歴史しか見ていない。言われてみればそうだった。そもそも日本に漢字が入ってきて記録を残せるようになったのは応神天皇16年(3-4世紀)の時からと言う。百済に亡命していた漢人の王仁が論語10巻と千字文1巻を応神天皇機に献上し漢字が初めて日本に公伝したと言われている。そして歴史記録がの残るようになった
それらの言葉について、読み書きができる一部の貴族たちの学者や僧侶が記録したものしか現代のわれわれは知ることが出来ない。一般庶民にも話し言葉はあったはずであるがその超エリート層が使う言葉に染まった人々の言葉に対して地方のいわゆる方言を比較した論考で、大変勉強になるお話である。早速テキストを購入した。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ku-wab.asablo.jp/blog/2023/08/09/9608394/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。