前橋北部地域の広瀬川・桃ノ木川・大正用水・群馬用水、そして新旧広瀬川誕生・旧利根川・古利根川について2024年02月17日

広瀬川・桃木川の水源付近の流れ
前橋北部地域の広瀬川・桃ノ木川・大正用水・群馬用水、そして新旧広瀬川誕生・旧利根川・古利根川について
広瀬川・桃木川の水源付近の流れ②

現在の広瀬川は人工河川のような印象があるが、そのように見えるのは暴れ川の利根川の流れに対峙してきた先人たちの苦労が沢山詰まっているという。調べてみると広瀬川も桃ノ木川も昔からその痕跡はあり、先人たちの苦労の末に今の広瀬川と桃ノ木川が、更には大正用水や群馬用水もあるということが解ってきた。そして関連する複数の発電所の存在やいにしえの用水跡を抜きにしては語れないことも分かってきた。

 Ⅰ、現在の水源について(図1,2)。

 ・広瀬川の水源は、1か所ではなく①吾妻川から取水している渋川発電所の排水路が吾妻川と利根川の川床下を横切ったトンネルにより利根川左岸に至り佐久発電所に流入して再利用されてからの流水、②遠く沼田の綾戸ダム(堰)から地下水路を通って北橘の真壁調整池(ダム)に至りサージタンクを介して佐久発電所に流入して発電した排水が再利用のために地下水路を通って坂東橋北第二取水口からの流水に合流して広瀬川の源流となり一部は利根川川床下のトンネルをUターンして右岸の天狗岩発電所にも流れて利用されている、③その坂東橋北第二取水口からの流水、以上3つの水源が合わさって現在の広瀬川の水源になっている。広瀬川には田口発電所・関根発電所・小出発電所・柳原発電所がある。 東京電力ではなく群馬県企業局の発電所である。東電管轄の佐久発電所の流路パンフレット等は東電に聞いても渋川市役所に聞いても要領を得ず解らなかった。文献資料①②によれば坂東橋南の坂東橋取水口が北に移動したのは昭和26年で佐久発電所の放流水が直結したのは昭和42年という。 坂東橋北取水口は「第二取水口」とも「坂東大堰取入合口」とも言うという。取入合口は12連の引入合口からなり4個の分水槽に連結し、3個の分水槽は広瀬桃木両用水の隧道に連結し、1個は天狗岩用水の隧道に連結し、利根川床下の横断暗渠によって利根川を横断して右岸に渡り天狗岩用水路へ流れて行く。昭和46年に分水施設が完成した。
 ・桃ノ木川の水源は、現在田口地区の県営団地群の南(片(かた)石山(こくやま)南西)に桃ノ木川水源の看板が立っている。そこには既に複数の水路から集まった水流がある。その元をたどると広桃発電所の水門につながっているという。桃ノ木川水源の看板から北へ17号線沿い田口発電所南のラーメン店西まで水路は追えるがそこからは地下水路になっている。その地下水路は広桃発電所の水門に追儺がっていると教えて頂いた(田口発電所事務所の方に感謝)。
 ・大正用水は、広瀬川水源の田口発電所付近から分かれる。坂東橋北の第二取水口付近で3つの水源が合流した流水は広瀬川水路になるが上下2本に分かれ、その上の水路の先に大正用水の取水口がある。下の水路は広桃発電所に入る。広桃発電所は㈱カーリットが利用しているがこれは佐久発電所創業者の浅野氏(アサノセメント)系列という。
 ・群馬用水は、真壁調整池付近から取水している。綾戸からのものである。この群馬用水は利根川対岸の子持村白井地区へも流れて潤しているという。

萩原朔太郎が愛した広瀬川からは想像し難い現在の広瀬川と感じたのでその歴史を調べてみた結果は上記のごときで驚くべき経過を経てきている。広瀬川自体は利根川の流れの一部として昔からあったものが、利根川の氾濫で流れが変わり昔の面影が無くなったものという。その流れの変遷について文献を調べたら、下記のものがあった。 文献資料: ①「前橋と古利根川―先史利根川と古代利根川―」上巻・下巻 小野久米夫著2019年。  ②「私考 利根川西巡そして広瀬川誕生(要約版)」岡本克則著2012年。 著者に感謝である。


  Ⅱ、広瀬川・桃ノ木川はいつからあったか。

広瀬川も桃ノ木川も川自体は昔からありそれは旧利根川の流路跡だという。利根川は万葉集にも既に載っているが暴れ川の名にふさわしく、今とは全く異なる流れを形成していたという。利根川は日本一の暴れ川で古代より様々に流路を変えて住民を悩ませ戦ってきた歴史があるという。日本の3大暴れ川は坂東太郎(利根川)・筑紫次郎(筑後川)・四国三郎(吉野川)といつの頃からか通称されてきている。自分も子供の頃、坂東太郎・筑紫次郎・四国三郎があり坂東太郎は長男だと親から聞かされてきた。江戸中期の『本朝俗諺志』、『和訓栞』、江戸後期の『廻国雑記標注』に三大河の記載があり、明治24年の『治水雑誌第五巻』に「全国直轄十数大川ノ中板東太郎、信濃岐蘇等ノ諸大川其他筑紫次郎四国三郎トイフベキ千年川(筑後川ノコト)」とあり明治の治水関係者にはその認識があったという。

桃ノ木川と広瀬川の取水口は明治時代には既に合同取水口となっていたが、昭和22年のカスリン台風の影響で昭和26年には坂東橋の南から北側に移されて、その時に大正用水と天狗岩用水の取水口も合同となった。そして昭和42年には佐久発電所からの放流水も合流するようになったという。

利根川の流路変遷の歴史は下記文献資料によれば大きく4期に分類されるという。 大水上山南面を源流とする利根川、三国吾妻山系からの吾妻川、赤城山系・榛名山系からの水流が合流することで、前橋付近の利根川は形成されている。
第1期:先史利根川 ― 先史利根川は田口地区の片(かた)石山(こくやま)の東北側の橘山(たちばなやま)との間にも流れ左岸を形成して川端、鎌倉、端気地区にも流れていたという。1.8万年前に榛名山相馬岳が爆発したことから岩屑なだれが古利根川の流路を東に押しやり田口町から東南方向に変流して赤城山南麓を東南に流れ、それが1万年以上続いたという。そして古墳時代以前には片石山の東ルートは既に閉塞していたという。(20万年前に赤城山爆発、2.4万年前に浅間山爆発,前橋市岩神の飛石はこの時のもの、1.8万年前に榛名山相馬岳爆発)。古墳時代に2回の噴火を起こし日本のポンペイ遺跡(黒井峯遺跡、金井東裏遺跡)を作った榛名山二ツ岳噴火が利根川変流にどう影響したかは不詳である。
第2期:古代(平安以前)/中世(鎌倉戦国期)利根川 ― 先史利根川は縄文から古墳時代にかけて田口地区から岩神、昭和、住吉地区へと南へ変流するようになったという。そして前橋台地の北を東南方向に流れ青柳・龍蔵寺地区は流路であったという。田口地区にはかつて古墳が多く存在していたので古墳時代には流路は既に閉鎖していて片石山の西側に流れるようになっていた。その先前橋旧市街を東南東に、現在の広瀬川、桃ノ木川の位置も含み、大河となって1000年に亘り流れていた。その川幅は1.5kmに及びその南岸(右岸)の痕跡は現在のルナパークに見られるという。それが1108年の浅間山大噴火をきっかけに平安~戦国期の過程の中で利根川西遷(西巡)に変わって行った。人工用水路である赤堀付近の女堀も浅間噴火後の平安末期に作られたという。現広瀬川の柳原発電所の土手は厩橋城築城と同じ頃に風呂川とともに築造されたという。利根川変流は用水路開発と自然の川氾濫との戦いの相互作用の中で形成されて行った。中世利根川は東ルート(田口→関根→荒牧→上小出)と西ルート(田口→関根→川原→敷島)があり、それらは県庁のある前橋台地の北側を東へ広瀬低地帯に流れていた。江戸期には東ルートは既に消失していたという。
第3期:中世(鎌倉戦国期)/近世(江戸期)利根川 ― 中世になって川氾濫が重なり群馬県庁直西を南流するように利根川が変流した、即ち利根川の流れが西遷(西巡)した。県庁以南の流路は現在も変わらないという。1500年代戦国期の度重なる利根川氾濫による土砂礫の堆積でそれまでの主流であった桃ノ木川・広瀬川流路の川床上昇・閉塞をきたしたとされる。一方で青柳、龍蔵寺付近も古利根川の水流がなくなり白川も東へ変流(人工的に?)してその後に龍蔵寺が建立された(龍蔵寺建立1370年前後)。この西巡メカニズムは近世(江戸期)まで続いていた。厩橋城が江戸期に損壊して一時棄城になった頃はその西巡が確立しつつある時期と思われる。榛名水系の支流路が利根川本流になった。その先行河川と言われる車川(久留馬川)の位置も上記文献資料は推定している。この車川は古代利根川からの先人たちの人工の用水路の軌跡でもあるという。利根川右岸地区に天狗岩用水の元となる流路が開鑿されたのは江戸初期であったが当時総社地区は用水不足であったことを示している。 文献資料①によればこの利根川西遷(西巡)は1427年の応永洪水に始まりその後の繰り返す洪水で約100年かけて完成したという。その西巡(変流)の原因と時期について3段階説を提言している。
第4期:近代(明治以降)利根川 ― 江戸末になり現在の群大教育学部の位置の流路が西側へ変流した。川原・緑ヶ丘・敷島各町の東側を流れていた利根川が西側に変流したのはこの頃という。現在の関根町の県総合スポーツセンターのあたりは江戸時代には利根川の中州であった。明治初めまでは現在の群大教育学部東正門(新町名になるまでは字源齊と言った)付近に広瀬川取水口があったが、その後徐々に北側に移動していき昭和26年には坂東橋北側まで北上した。

以上、前橋地区の利根川の西遷(西巡)の歴史を当該文献資料から紐解いてみた。旧利根川、古利根川、古代利根川、先史利根川等の言葉の定義の理解は必ずしもできているとは思えず誤解もあるであろうとの思いの中で、えいやっと、おざっぱな流れを思い切り纏めてみた。旧利根川とは現広瀬川・桃の木川の流路の位置周辺の流れと言い換えても良さそうだ。
上記3つの文献資料は小冊子ながら中身は驚くほど濃く、もっと厚い書籍に纏めて再発行して頂きたいと思うほどの力作で感激した。


2024/4/3 追加:
 前橋台地(又は前橋高崎台地)は前橋泥流堆積物で出来上がったものでそれは2.6万年前の浅間山(そのうちの黒斑山)噴火に伴いその山体崩壊で発生した前橋泥流の際のものとされている。70km以上離れた前橋岩神の飛石稲荷の巨岩もそのときに流れついたものである。
 その前橋台地を突き破ってその台地の中に旧利根川が変流したのは(応永~天文年間、ほぼ1400~1550年)頃で、氾濫を繰り返して100年以上かけてその変流が完成したという。これを前橋地区の利根川西遷という(その後も川原町付近は更に西に移動しているが)。
それまでは広瀬川低地を氾濫原として500m~3kmの幅で広く網状に流れていた旧利根川が2~3m高い前橋台地を突き破って変流するようになったのが上記の時期であるという。その変流には先行河川(人工/自然併せて)があったはずでそれが久留間川=車川=ひとね川≒吉岡川≒八幡川であろうという。
その変流の過程では、戦国時代の石倉城と厩橋城は前橋台地にあったにもかかわらず利根川の本流支流の氾濫で崩壊を繰り返した。その利根川変流の要素の一つとして城堀掘削や灌漑用水掘削等の人工河川も関わっていたという(崩壊を繰り返した石倉城砦と石倉城は別のものを指しているというが詳細は不明)。
利根川変流完成頃に作られたという戦国時代の厩橋城城堀の風呂川について、そのいわれの看板が前橋公園北の柳原発電所の上側に今も立っているが、上杉謙信が厩橋城に入城した頃に築造されたという。風呂川は広瀬川から引き入れられた(現在の小出発電所の位置が取入れ口)。
近くの臨江閣は広瀬川低地の一部であり児童公園は更に少し低く虎ケ淵と呼ばれた浅い谷だったという。広瀬川低地より2~3m高い前橋台地北端はこの臨江閣やるなぱーくの南側付近であるという。
それまでの旧利根川の流れは網状流で今の広瀬川や桃木川の流れのあたりの広瀬川低地を網状に幅広く氾濫原として東南に向かっていて、その流れは1000年以上に亘って変わらなかった。
榛名二ツ岳噴火(早川によれば497年渋川噴火、522年伊香保噴火)の噴出物はその河床にあり、利根川西遷の応永~天文年間までの少なくとも1000年間は利根川の流路は現在の広瀬川/桃木川のルートに沿って流れていたという。
前橋台地と広瀬川低地との境界に沿って多くの古墳が残っているのは二ツ岳噴火前から旧利根川が両者境界に流れていたことに矛盾しない(八幡山古墳・天神山古墳・飯玉神社古墳・亀塚山古墳・金冠塚古墳・文殊山古墳・大塚古墳・経塚古墳等)。
(参考:A―『前橋台地の利根川(2014年)その2(2015年一部訂正追加)』澤口宏(良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 群馬県環境森林部自然環境課)、 https://www.gmnh.pref.gunma.jp/wp-content/uploads/93030775f2c1320fe2ab436fe1a651a9.pdf 。
B-木片の14C年代測定による前橋泥流堆積時期の再検討(予察) 佐藤興平ほか,群馬県立自然史博物館研究報告(22):原著論文2018年2月1日,95-101, 2018.  https://www.gmnh.pref.gunma.jp/wp-content/uploads/bulletin22_8.pdf 。)

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