アナーキック・エンパシー ということ。 ― 2021年07月03日
2021/7/2 アサブロ
「アナーキック・エンパシー」(Empathy=他者の靴を履くこと=意見の異なる相手を理解する知的能力、To put yourself in someone’s shoes。anarchicは混沌・無秩序・無政府状態。)ということ。
1~2週間前にT市のスーパーMに行ったとき、店先の移動販売車のフロントガラスに新型コロナワクチンは危険だから受けないようにとの宣伝チラシが貼ってあるのを偶々見つけて以来、そういう人たちのグループがいるのかと驚いていたが、つい最近になって本を出したり全国に講演して回っている医師がいるというのにまた驚いた(「医師が教える新型コロナワクチンの正体 本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン」)。ネットで調べた限り失礼ながら理性的な思考とは思われず酷い内容なので医師の経歴を見たら未だ若い人だった。まるで新興宗教だ。言う方も言う方だが講師に招いてまで聞く方も聞く方であり、こんなことが実際起きているのかとショックを受けた。ワクチン注射を受ける受けないは本人の自由の意志で好きにすればよいが、他人にまで自分の考えを押し付けようとするのは頂けない。
(『医師が教える新型コロナワクチンの正体 本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン』 単行本(ソフトカバー) – 2021/6/10 内海聡 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E6%80%96%E3%81%84%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3-%E5%86%85%E6%B5%B7%E8%81%A1/dp/4909249389 )。
かつて、『患者よ、がんと闘うな』近藤誠著など著書多数で、「がん放置療法論」や「がんもどき論」を展開してマスコミの注目を浴びていた人がいた。大部分の医師からは困惑の目で見られていたが一般大衆やマスコミには受けが良く引っ張りだこであった。文化的業績があったとして菊池寛賞まで貰っていた。( 近藤誠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%AA%A0 )
そもそも「がん」と一括りにして話を展開する所に無理があり、そこに様々な考えが入り込むすきがあったのであるが、素人からは分かり易かったのかもしれない。
がんは臓器によっても違うが同じ臓器のがんでもタイプによって或いは同じタイプでも人によって個々で天と地ほどに違うのが当たり前なのである。たとえば肺癌でも5年経っても殆ど変わらない癌もあれば、3か月前の検診ではなかったのが3か月後には末期(4期)ということもある。まず治らないという癌でも極めて稀に完治してしまう癌もある。例えば肺小細胞癌は極めて進行が速いが一時的には化学療法放射線療法が進行癌でも良く効く癌でもある。30-40年前はそれでも進行癌の3年生存率は治療しても1割も生きられなかった(無治療なら1年生存はゼロ)。それでもその頃完治した例を自分でも経験したことがある。それに自分勝手な理由を添えるかどうかで素人目からは名医と呼ばれるようにもなる。この進行の速い肺小細胞癌でもつい最近の全国癌10年生存率の国立がんセンター発表で1割に達した改善を示していたのを見て感心した。自分でも別のタイプの担癌生体であるがもう6年過ぎていて安定中である。もう5-6年はだいじょうぶではないかと勝手に思っている。
極めて進行の速い若者の癌がある一方、前立腺癌や乳癌の一部のタイプのように生命予後に影響しないという癌もあるし、高齢者の癌では全く症状がない進行癌で仲良く生体と癌が同居している長寿癌もあるのは有名な話である。( 天寿癌 北川知行 公益財団法人がん研究会がん研究所名誉所長
https://www.tyojyu.or.jp/net/topics/tokushu/koureisha-gann/gann-tenjugann.html )。
なので、がんと言わずにがんもどきと言ってもあながち否定しにくいし、放置しても進行が極めて緩徐であれば放置しても異論は挟みにくい。そしてかつては治療によってかえって寿命を縮めた方も確かにいたと思う。当時は抗がん剤では単剤で15-20%の人に効けば有効な薬剤とされ如何に組み合わせて効果を上げるかに視点を置いていた時代でもあったからである。癌と言えば死と直接思い込んでいた時期もあった。自分が医師1年目の時(50年前)ある中年の進行胃癌の男性が症状が消えたから退院すると駄々をこねていたのをある権威あるDrが見兼ねて君は胃癌なので僕が直してあげるからまだ入院していた方が良いと説得して退院を留まらせたことがあった。しかしその患者は胃癌と告知されてから食事も食べられなくなり1か月も経たないうちにカヘキシーとなり亡くなってしまった。これは強烈な印象として今でも忘れられない。勿論今では告知は当たり前として社会に受け入れられていて自分でも当たり前としているのは言うまでもないが、心の持ちようがここまで影響するのかということは忘れてはならない事であるとも思っている。
地球上のすべての人々が、一人ひとり皆違う考えと違う世界を持っていると言ったのは哲学者L.ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)である。確かにそうだと今そう思っているが客観的に考えて間違った自分の考えを他人に押し付けるというのは酷いではないかとも思う。
政治の世界では米中が険悪な状況になっており世界第2位の経済力をつけた中国も習近平総書記がきのう7月1日の党創設100年祝賀式典で中台統一を宣言して強気をあからさまにして来た。1989年東西冷戦が終わって世界が平和になるどころか一歩間違えれば新たな戦争が起きかねない状況になってしまった。小さなことでは学校のいじめが無くならず、大きなことでは宗教対立やイデオロギー対立が相変わらず無くならない。
何でこうなってしまうのだろうか。イデオロギーや宗教は善悪を超えた前提となるものなので、互いに許容し合わない限り排他的になり戦争になるのは誰でも分かっているし、この点では世界は歴史に学んできていると思う。
しかし今回の新型コロナワクチンも反対派が徒党を組んで相手に影響を及ぼうとするのを見ると、人は、あらゆるものを互いに許容し合わない限りは、どこまでいっても対立は解消しないように思える。LGBTQ+もそうだ。行政さえもあちらを立てればこちらが立たず、ということばかりなので必ずしも正義が常に行われているわけではない。日常職場においても常に意見の食い違いはあるので、かつて現役の頃7-3ルールと称して自己主張は3割通れば十分と思っていただきたいと部下の職員に言っていたことがあった。
最近の新型コロナ感染症の都道府県ごとの対応を見ていても、結論を先延ばしする知事もいれば先手先手で攻める知事もいる。そして結果においてはどちらが良いかの比較善悪の判断は難しい。どちらの判断にしてもそれなりの結果が出て、その後は新たなステージで再出発するということになるので善悪を言っていても始まらない。「歴史にもしは無い」というのは正にその通りである。
トップの決断はその集団のその先の行く末を決めるので確かに大事な場面はある。周り中が反対していても逆の決断が必要なことも確かにある。二者択一であればふつうは民主主義であれば51%の意見が選択されて49%の意見は切り捨てられてそれを互いに受け入れている。また受け入れなければ民主主義社会が成り立たない。今回のオリンピック開催か中止かの判断も善悪を超えた決断と言って良いのかもしれない。かつての第二次世界大戦も直接のきっかけは東條首相の一つの決断でそうなった。自分で調べた限りでは言い換えれば東条英機が決断できなかった故であった。(『NHK BSプレミアム 昭和の選択「太平洋戦争 東条英機 開戦への煩悶」』からは東條首相が決断出来ずに先送りしたことが即ち開戦に必然的に繋がったと言える。https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/12/15/9327246 )。
自分でもかつて、小さな小さな病院の院長をさせてもらったが、決断しなければ何もできないという経験をした。ある時、病院敷地内全面禁煙を幹部会議で提案したが総反対、出来ない理由を数えきれないほど並べられた。でも世の中はその方向で動いていると確信していたので、1年後の4月1日にそうすることを宣言した。ついては各自その方向での計画を進めるように伝えた。期限の1―2か月前になりそろそろ期限が見えてきたけれど進捗状況はどうかと幹部会議で話を出したところ誰も全く手を付けていない上に、もし火事等事故が起きたらどうするのかなどネガティブな意見百出であった。責任は誰が持つのかとまで言い出されたので、責任は院長である私が持つのは当然であるにしても、但し皆さん幹部には責任がないと思っていたら大間違い、私が、皆さんはこの一年何をしてきたのだ、として逆に訴えることを忘れないようにと釘を刺した。その後も多少の波乱はあったが皆しぶしぶ同意した。そもそも2―3年毎に心ある職員は転勤していくし、期待を持った新入職員は新人研修と称してマインドコントロールされてしまい1年も経つとダメになってしまう。しっかりしているのは引き抜かれて去って行ってしまう。初めは2割が味方ならどうにかなると4-4-2の法則などと自称していたがやがて7-2-1の法則になってしまった(1=協力者、2=足を引っ張る人、7=状況次第でどちらにも転ぶ人)。でもその1割に涙が出るほど助けられ嬉しかったこともあったのを覚えている。
そんなことに悶々としている時に数日前知ったのがこの「アナーキックエンパシー」という言葉である。イギリスでは中学生のシチズンシップ教育プログラムの中でアナーキックエンパシーについて教えるという。Empathy=他者の靴を履くこと=意見の異なる相手を理解する知的能力を意味し、anarchicは混沌・無秩序・無政府状態の意で、このEmpathyは共感する能力の意を含むという。努力しなければ得られない能力との意味のようだ。Sympathyは内から湧き出る自然の感情feelingであり、同じ共感と訳されるがEmpathyは身に着けるべき能力abilityを示すという違いがあるという。
正確にはまだその意図はよく分からないが、この世において意見が違っていても、嫌いな人とでも、嫌悪感を抱くことなく互いに生きられる術を意味している、のではないかという第一印象を与えてくれる期待を抱かせる言葉である。
呉越同舟でも互いに軋轢を起こさないで生きていける方法は、今のそしてこれからの世の中のすべての人が身に着けるべき相互に生き抜くための基本能力・基本姿勢ではないかと思う。早速書店でこの本を買ってきた。まだ読んでいないが、そんな期待を抱かせる本なので、これからちょびちょびと少しずつ読んでみようと思う。
「アナーキック・エンパシーのすすめ ー 他者の靴を履く」
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00432/00008/ 。
「ヴィトゲンシュタインの見た世界」
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2021/08/04/5fc5e7.jpg.html"
target="_blank"
onClick="return asablo.expandimage(this,322,381,'https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2021/08/04/5fc5e7.jpg')"><img src="https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2021/08/04/5fc5e6.jpg" alt="ヴィトゲンシュタインの見た世界" title="ヴィトゲンシュタインの見た世界" width="300" height="354"></a></div>
「アナーキック・エンパシー」(Empathy=他者の靴を履くこと=意見の異なる相手を理解する知的能力、To put yourself in someone’s shoes。anarchicは混沌・無秩序・無政府状態。)ということ。
1~2週間前にT市のスーパーMに行ったとき、店先の移動販売車のフロントガラスに新型コロナワクチンは危険だから受けないようにとの宣伝チラシが貼ってあるのを偶々見つけて以来、そういう人たちのグループがいるのかと驚いていたが、つい最近になって本を出したり全国に講演して回っている医師がいるというのにまた驚いた(「医師が教える新型コロナワクチンの正体 本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン」)。ネットで調べた限り失礼ながら理性的な思考とは思われず酷い内容なので医師の経歴を見たら未だ若い人だった。まるで新興宗教だ。言う方も言う方だが講師に招いてまで聞く方も聞く方であり、こんなことが実際起きているのかとショックを受けた。ワクチン注射を受ける受けないは本人の自由の意志で好きにすればよいが、他人にまで自分の考えを押し付けようとするのは頂けない。
(『医師が教える新型コロナワクチンの正体 本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン』 単行本(ソフトカバー) – 2021/6/10 内海聡 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E6%80%96%E3%81%84%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3-%E5%86%85%E6%B5%B7%E8%81%A1/dp/4909249389 )。
かつて、『患者よ、がんと闘うな』近藤誠著など著書多数で、「がん放置療法論」や「がんもどき論」を展開してマスコミの注目を浴びていた人がいた。大部分の医師からは困惑の目で見られていたが一般大衆やマスコミには受けが良く引っ張りだこであった。文化的業績があったとして菊池寛賞まで貰っていた。( 近藤誠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%AA%A0 )
そもそも「がん」と一括りにして話を展開する所に無理があり、そこに様々な考えが入り込むすきがあったのであるが、素人からは分かり易かったのかもしれない。
がんは臓器によっても違うが同じ臓器のがんでもタイプによって或いは同じタイプでも人によって個々で天と地ほどに違うのが当たり前なのである。たとえば肺癌でも5年経っても殆ど変わらない癌もあれば、3か月前の検診ではなかったのが3か月後には末期(4期)ということもある。まず治らないという癌でも極めて稀に完治してしまう癌もある。例えば肺小細胞癌は極めて進行が速いが一時的には化学療法放射線療法が進行癌でも良く効く癌でもある。30-40年前はそれでも進行癌の3年生存率は治療しても1割も生きられなかった(無治療なら1年生存はゼロ)。それでもその頃完治した例を自分でも経験したことがある。それに自分勝手な理由を添えるかどうかで素人目からは名医と呼ばれるようにもなる。この進行の速い肺小細胞癌でもつい最近の全国癌10年生存率の国立がんセンター発表で1割に達した改善を示していたのを見て感心した。自分でも別のタイプの担癌生体であるがもう6年過ぎていて安定中である。もう5-6年はだいじょうぶではないかと勝手に思っている。
極めて進行の速い若者の癌がある一方、前立腺癌や乳癌の一部のタイプのように生命予後に影響しないという癌もあるし、高齢者の癌では全く症状がない進行癌で仲良く生体と癌が同居している長寿癌もあるのは有名な話である。( 天寿癌 北川知行 公益財団法人がん研究会がん研究所名誉所長
https://www.tyojyu.or.jp/net/topics/tokushu/koureisha-gann/gann-tenjugann.html )。
なので、がんと言わずにがんもどきと言ってもあながち否定しにくいし、放置しても進行が極めて緩徐であれば放置しても異論は挟みにくい。そしてかつては治療によってかえって寿命を縮めた方も確かにいたと思う。当時は抗がん剤では単剤で15-20%の人に効けば有効な薬剤とされ如何に組み合わせて効果を上げるかに視点を置いていた時代でもあったからである。癌と言えば死と直接思い込んでいた時期もあった。自分が医師1年目の時(50年前)ある中年の進行胃癌の男性が症状が消えたから退院すると駄々をこねていたのをある権威あるDrが見兼ねて君は胃癌なので僕が直してあげるからまだ入院していた方が良いと説得して退院を留まらせたことがあった。しかしその患者は胃癌と告知されてから食事も食べられなくなり1か月も経たないうちにカヘキシーとなり亡くなってしまった。これは強烈な印象として今でも忘れられない。勿論今では告知は当たり前として社会に受け入れられていて自分でも当たり前としているのは言うまでもないが、心の持ちようがここまで影響するのかということは忘れてはならない事であるとも思っている。
地球上のすべての人々が、一人ひとり皆違う考えと違う世界を持っていると言ったのは哲学者L.ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)である。確かにそうだと今そう思っているが客観的に考えて間違った自分の考えを他人に押し付けるというのは酷いではないかとも思う。
政治の世界では米中が険悪な状況になっており世界第2位の経済力をつけた中国も習近平総書記がきのう7月1日の党創設100年祝賀式典で中台統一を宣言して強気をあからさまにして来た。1989年東西冷戦が終わって世界が平和になるどころか一歩間違えれば新たな戦争が起きかねない状況になってしまった。小さなことでは学校のいじめが無くならず、大きなことでは宗教対立やイデオロギー対立が相変わらず無くならない。
何でこうなってしまうのだろうか。イデオロギーや宗教は善悪を超えた前提となるものなので、互いに許容し合わない限り排他的になり戦争になるのは誰でも分かっているし、この点では世界は歴史に学んできていると思う。
しかし今回の新型コロナワクチンも反対派が徒党を組んで相手に影響を及ぼうとするのを見ると、人は、あらゆるものを互いに許容し合わない限りは、どこまでいっても対立は解消しないように思える。LGBTQ+もそうだ。行政さえもあちらを立てればこちらが立たず、ということばかりなので必ずしも正義が常に行われているわけではない。日常職場においても常に意見の食い違いはあるので、かつて現役の頃7-3ルールと称して自己主張は3割通れば十分と思っていただきたいと部下の職員に言っていたことがあった。
最近の新型コロナ感染症の都道府県ごとの対応を見ていても、結論を先延ばしする知事もいれば先手先手で攻める知事もいる。そして結果においてはどちらが良いかの比較善悪の判断は難しい。どちらの判断にしてもそれなりの結果が出て、その後は新たなステージで再出発するということになるので善悪を言っていても始まらない。「歴史にもしは無い」というのは正にその通りである。
トップの決断はその集団のその先の行く末を決めるので確かに大事な場面はある。周り中が反対していても逆の決断が必要なことも確かにある。二者択一であればふつうは民主主義であれば51%の意見が選択されて49%の意見は切り捨てられてそれを互いに受け入れている。また受け入れなければ民主主義社会が成り立たない。今回のオリンピック開催か中止かの判断も善悪を超えた決断と言って良いのかもしれない。かつての第二次世界大戦も直接のきっかけは東條首相の一つの決断でそうなった。自分で調べた限りでは言い換えれば東条英機が決断できなかった故であった。(『NHK BSプレミアム 昭和の選択「太平洋戦争 東条英機 開戦への煩悶」』からは東條首相が決断出来ずに先送りしたことが即ち開戦に必然的に繋がったと言える。https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/12/15/9327246 )。
自分でもかつて、小さな小さな病院の院長をさせてもらったが、決断しなければ何もできないという経験をした。ある時、病院敷地内全面禁煙を幹部会議で提案したが総反対、出来ない理由を数えきれないほど並べられた。でも世の中はその方向で動いていると確信していたので、1年後の4月1日にそうすることを宣言した。ついては各自その方向での計画を進めるように伝えた。期限の1―2か月前になりそろそろ期限が見えてきたけれど進捗状況はどうかと幹部会議で話を出したところ誰も全く手を付けていない上に、もし火事等事故が起きたらどうするのかなどネガティブな意見百出であった。責任は誰が持つのかとまで言い出されたので、責任は院長である私が持つのは当然であるにしても、但し皆さん幹部には責任がないと思っていたら大間違い、私が、皆さんはこの一年何をしてきたのだ、として逆に訴えることを忘れないようにと釘を刺した。その後も多少の波乱はあったが皆しぶしぶ同意した。そもそも2―3年毎に心ある職員は転勤していくし、期待を持った新入職員は新人研修と称してマインドコントロールされてしまい1年も経つとダメになってしまう。しっかりしているのは引き抜かれて去って行ってしまう。初めは2割が味方ならどうにかなると4-4-2の法則などと自称していたがやがて7-2-1の法則になってしまった(1=協力者、2=足を引っ張る人、7=状況次第でどちらにも転ぶ人)。でもその1割に涙が出るほど助けられ嬉しかったこともあったのを覚えている。
そんなことに悶々としている時に数日前知ったのがこの「アナーキックエンパシー」という言葉である。イギリスでは中学生のシチズンシップ教育プログラムの中でアナーキックエンパシーについて教えるという。Empathy=他者の靴を履くこと=意見の異なる相手を理解する知的能力を意味し、anarchicは混沌・無秩序・無政府状態の意で、このEmpathyは共感する能力の意を含むという。努力しなければ得られない能力との意味のようだ。Sympathyは内から湧き出る自然の感情feelingであり、同じ共感と訳されるがEmpathyは身に着けるべき能力abilityを示すという違いがあるという。
正確にはまだその意図はよく分からないが、この世において意見が違っていても、嫌いな人とでも、嫌悪感を抱くことなく互いに生きられる術を意味している、のではないかという第一印象を与えてくれる期待を抱かせる言葉である。
呉越同舟でも互いに軋轢を起こさないで生きていける方法は、今のそしてこれからの世の中のすべての人が身に着けるべき相互に生き抜くための基本能力・基本姿勢ではないかと思う。早速書店でこの本を買ってきた。まだ読んでいないが、そんな期待を抱かせる本なので、これからちょびちょびと少しずつ読んでみようと思う。
「アナーキック・エンパシーのすすめ ー 他者の靴を履く」
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00432/00008/ 。
「ヴィトゲンシュタインの見た世界」
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2021/08/04/5fc5e7.jpg.html"
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onClick="return asablo.expandimage(this,322,381,'https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2021/08/04/5fc5e7.jpg')"><img src="https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2021/08/04/5fc5e6.jpg" alt="ヴィトゲンシュタインの見た世界" title="ヴィトゲンシュタインの見た世界" width="300" height="354"></a></div>
旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々など ― 2021年07月08日
2021/7/7 アサブロ
旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々とその関連事象について
奈良村の互いに影響しあったであろう人物については、下記が挙げられる。
・石田伝九郎(天保元年12月10日生)、明治13年県会議員、勝太郎祖父、三代目石田良助の叔父、左部彦次郎の祖母とさの三番目の弟、幼名亭次。石田伝九郎家への入婿で、石田茂左衛門家の三代目良助の叔父に当る。黒船来航の翌年1854年に奈良村石田伝九郎は帯刀の上江戸へ出府せよとの御用の命を受け給金も出たという。
・石田良助(嘉永2年6月26日生)、明治17年県会議員、三代良助、石田直太の父、石田伝九郎の兄の二代良助の子。
・石田勝太郎(明治3年4月14日生)、伝九郎長男の石田準太の長男、左部彦次郎のはとこ。明治21年群馬師範学校卒業(19才)、群馬師範学校長滝沢菊太郎や群馬県立中学校長沢柳政太郎に優秀さを買われて明治30年群馬県視学→明治31年佐賀県視学→明治35年文部省学務局第二課長→明治39年東京府師範学校教諭(同41年東京府青山師範学校と改称)、同42年東京府青山師範学校舎監及び主事等で活躍。明治43年5月7日41才で没、東京青山の自宅で狂犬病犬に咬まれて死亡。「子供と父母」著書。
弟の角田喗次郎は「塩原太助」著書のほか多彩な事業を行う(勝太郎孫の石田俊一郎氏の話)。
同弟の石田文三郎は明治45年東京園芸学校(明治41年創設)を卒業し(21才)、恩師の勧めで東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)に赴任して同大農学部助教授および同大付属植物園(明治19年高名な植物学者の宮部金吾により設立完成され園長は昭和2年退官まで宮部金吾が務めた)主任として奉職し、昭和26年には札幌市花壇推進組合長として札幌大通公園花壇の設計にも携わった。勝太郎・喗治郎・文三郎のいわゆる石田三兄弟。
・左部彦次郎(慶応3年10月24日生)は、明治21年東京専門学校入学(数え22才)、24年7月卒業(25才)、明治29年3月の県会議員選挙後の恐喝事件の時30才、その後再上京して田中正造とともに鉱毒事件に関与したが、同じ頃(明治34-35年)石田勝太郎は文部省に勤務していた。大正15年3月24日没(60才)。
・石田直太(明治6年6月1日生、彦次郎のはとこ)は、成城学校(陸軍士官学校の予備校)入学時、一時左部彦次郎と東京で同居。卒業後帰郷した。
・桑原武一郎(明治16年6月11日生)は、明治36年3月前橋中学を卒業、明治36年7月東京帝国大学農科大学林学実科に入学、同39年7月卒業、直ちに農商務省に入省。墓石にのみ早稲田に関する記述がある。彦次郎に影響を受けて上京し、4月~7月のわずかの間に新設間もない帝大実科に変更したと思われる。24才で農商務省入省時に石田勝太郎と同じ青山に居住。父死亡で大正6年帰郷、県会議員に在職中の大正15年7月2日没44才(急性虫垂炎から腹膜炎になり死亡、この時弟の六郎二は東北帝国大学を卒業して医師になっていたがその時の対応は不明。東北帝国大学医学部は明治45年に新設されたばかりだった)。
・左部寿一郎(明治33年4月5日生、街三郎の孫)は武一郎が大正6年帰郷した時は18才、東京帝国大学経済学部を大正14年卒業(26才)、昭和17年6月14日没43才。帝大経済学部は大正8年新設されたばかりであった。門司市助役や北九州市合併等を主張、北九州市俳壇にも貢献し俳号赤城子としても名を馳せた。
これらの奈良村の同郷人たちは互いに影響し合っていたものと思われる。それぞれが新設間もない学校に入学していて、学びへの意欲が高かった。
明治29年の左部街三郎・左部彦次郎らの騒動は奈良村の中で武一郎14才の目の前で起きておりきわめて鮮明な記憶となった。それに先立つ明治25年1月の鉱毒被害地からの彦次郎への感謝状、同2月の学苑雑誌の「校友左部氏感謝状を受く」の発表もおそらく地元でも知られていて尊敬の目で見られていたと思われる。在京中の彦次郎は石田良助や準太にも手紙を出している。左部街三郎は騒動後自死したがその弟謙四郎の長男には川場村の外交官桑原鶴・女医の桑原くめ博士の姉が嫁している。
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群馬師範学校について
明治6(1873)年に、既にあった旧藩校の前橋県学校が教員伝習所(教員伝習学校)として前橋に設立された。まもなく熊谷県を経て第二次群馬県になり、明治9年9月に群馬県師範学校と改称して高崎市の興禅寺境内に移転し1か月後には前橋の龍海院境内に移転し、更に2年後の明治11年に前橋曲輪町(現大手町)新校舎落成して移転した。明治19(1886)年の師範学校令により群馬県尋常師範学校と改称(本科4年制)した。それまでは初等科(1年制)・中等科(2年制)・高等科(4年制)が設置されていてその後も簡易科2年制等も設置された。明治21(1898)年4月の師範教育令により群馬県師範学校と改称した。明治34(1901)年には女子尋常科准教員講習科も併設され2か月後には群馬県女子師範学校として設立認可された。
前橋中学校・利根分校について
前橋中学校は明治10(1877)年に第17番中学利根川学校として成立し、明治12(1879)年に同校閉鎖して師範学校内に群馬県中学校として開設された。明治19(1886)年に第一次中学校令により群馬県尋常中学校となり、明治30(1897)年に利根分校を含む6分校が開設された。明治32(1899)年に群馬県中学校(同32年の第二次中学校令で尋常を外した)、翌33年には群馬県前橋中学校、34年に群馬県立前橋中学校となった。明治45(1912)年に利根分校は沼田中学校として独立した。武一郎は明治36年前橋中学卒業で利根分校が既にあったが明治35年仲間と撮った写真が残っておりそこには県内各地の安中・山田郡・碓氷・渋川等の出身者が写っている。利根分校だけでなく前橋の地まで出かけていった様子がわかる。渋川の平形寿七氏も写っていたので友達だった。蟻川隆敬氏(武一郎妹ももの夫)も同級生だったようだ。旧制中学も草創期であり武一郎の在学中に群馬県立前橋中学校と名称変更された。
東京専門学校・早稲田大学・東京帝国大学農科大学実科について、
左部彦次郎が入学した時の東京専門学校(明治15年設立)は明治35年に早稲田大学と名称変更しているので武一郎が入学する前年には既に早稲田大学と改称していた(大学令による早稲田大学となったのは大正9年である)。早稲田大学を目指して明治36年に武一郎が上京したことに矛盾はない。
東京帝国大学は明治10年よりあった官立東京大学が明治19年に公布された帝国大学令に基づき同年改称設立されて唯一の帝国大学になったがまもなく京都帝国大学ができると明治30年東京帝国大学と改称した。東京帝国大学は武一郎が入学する明治36年頃は工科大学・農科大学・法科大学・文科大学・医科大学・理科大学の6分科大学(明治30年設置)で構成されていた。農科大学は明治23年設置されていたが明治30年6分科大学に組み入れられ東京帝国大学農科大学となった。元々本科・乙科があったが乙科は廃止方向となり明治31年5月実科を開設して、乙科の学生は明治34年9月には全員卒業ないし退学したという。この実科はのちに独立して今の農工大学・筑波大学の前身である。
武一郎は明治36年3月前橋中学卒業後上京、7月には帝大実科に入学しているので4月~7月の間に心境の変化があったと思われ、上京して後に5年前に出来たばかりの東京帝国大学農科大学実科に切り替えた。上京して早稲田以外にも道が有る事を知り明治31年に新設されたばかりの帝大実科に転じたものと思われる。
大学予備門は明治10年よりあり大学予備門→第一高等中学校→旧制一高になるのは明治27年であるが、明治時代の旧制中学 → 旧制一高 → 帝大,というルートはなお未整備で武一郎の頃は旧制中学から直接帝大に入学できたようだ。帝国大学実科は大学予備門ないし旧制高校相当と思われ、国が即戦力を養成するために設けたルートのようで3年で卒業している。
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東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)について、
東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。
・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。文京区の誠之小・千代田区の番町小・麹町小の各公立小学校は、「御三家」と呼ばれ、上流階級が好んで集ったという。
( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )
旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々とその関連事象について
奈良村の互いに影響しあったであろう人物については、下記が挙げられる。
・石田伝九郎(天保元年12月10日生)、明治13年県会議員、勝太郎祖父、三代目石田良助の叔父、左部彦次郎の祖母とさの三番目の弟、幼名亭次。石田伝九郎家への入婿で、石田茂左衛門家の三代目良助の叔父に当る。黒船来航の翌年1854年に奈良村石田伝九郎は帯刀の上江戸へ出府せよとの御用の命を受け給金も出たという。
・石田良助(嘉永2年6月26日生)、明治17年県会議員、三代良助、石田直太の父、石田伝九郎の兄の二代良助の子。
・石田勝太郎(明治3年4月14日生)、伝九郎長男の石田準太の長男、左部彦次郎のはとこ。明治21年群馬師範学校卒業(19才)、群馬師範学校長滝沢菊太郎や群馬県立中学校長沢柳政太郎に優秀さを買われて明治30年群馬県視学→明治31年佐賀県視学→明治35年文部省学務局第二課長→明治39年東京府師範学校教諭(同41年東京府青山師範学校と改称)、同42年東京府青山師範学校舎監及び主事等で活躍。明治43年5月7日41才で没、東京青山の自宅で狂犬病犬に咬まれて死亡。「子供と父母」著書。
弟の角田喗次郎は「塩原太助」著書のほか多彩な事業を行う(勝太郎孫の石田俊一郎氏の話)。
同弟の石田文三郎は明治45年東京園芸学校(明治41年創設)を卒業し(21才)、恩師の勧めで東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)に赴任して同大農学部助教授および同大付属植物園(明治19年高名な植物学者の宮部金吾により設立完成され園長は昭和2年退官まで宮部金吾が務めた)主任として奉職し、昭和26年には札幌市花壇推進組合長として札幌大通公園花壇の設計にも携わった。勝太郎・喗治郎・文三郎のいわゆる石田三兄弟。
・左部彦次郎(慶応3年10月24日生)は、明治21年東京専門学校入学(数え22才)、24年7月卒業(25才)、明治29年3月の県会議員選挙後の恐喝事件の時30才、その後再上京して田中正造とともに鉱毒事件に関与したが、同じ頃(明治34-35年)石田勝太郎は文部省に勤務していた。大正15年3月24日没(60才)。
・石田直太(明治6年6月1日生、彦次郎のはとこ)は、成城学校(陸軍士官学校の予備校)入学時、一時左部彦次郎と東京で同居。卒業後帰郷した。
・桑原武一郎(明治16年6月11日生)は、明治36年3月前橋中学を卒業、明治36年7月東京帝国大学農科大学林学実科に入学、同39年7月卒業、直ちに農商務省に入省。墓石にのみ早稲田に関する記述がある。彦次郎に影響を受けて上京し、4月~7月のわずかの間に新設間もない帝大実科に変更したと思われる。24才で農商務省入省時に石田勝太郎と同じ青山に居住。父死亡で大正6年帰郷、県会議員に在職中の大正15年7月2日没44才(急性虫垂炎から腹膜炎になり死亡、この時弟の六郎二は東北帝国大学を卒業して医師になっていたがその時の対応は不明。東北帝国大学医学部は明治45年に新設されたばかりだった)。
・左部寿一郎(明治33年4月5日生、街三郎の孫)は武一郎が大正6年帰郷した時は18才、東京帝国大学経済学部を大正14年卒業(26才)、昭和17年6月14日没43才。帝大経済学部は大正8年新設されたばかりであった。門司市助役や北九州市合併等を主張、北九州市俳壇にも貢献し俳号赤城子としても名を馳せた。
これらの奈良村の同郷人たちは互いに影響し合っていたものと思われる。それぞれが新設間もない学校に入学していて、学びへの意欲が高かった。
明治29年の左部街三郎・左部彦次郎らの騒動は奈良村の中で武一郎14才の目の前で起きておりきわめて鮮明な記憶となった。それに先立つ明治25年1月の鉱毒被害地からの彦次郎への感謝状、同2月の学苑雑誌の「校友左部氏感謝状を受く」の発表もおそらく地元でも知られていて尊敬の目で見られていたと思われる。在京中の彦次郎は石田良助や準太にも手紙を出している。左部街三郎は騒動後自死したがその弟謙四郎の長男には川場村の外交官桑原鶴・女医の桑原くめ博士の姉が嫁している。
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群馬師範学校について
明治6(1873)年に、既にあった旧藩校の前橋県学校が教員伝習所(教員伝習学校)として前橋に設立された。まもなく熊谷県を経て第二次群馬県になり、明治9年9月に群馬県師範学校と改称して高崎市の興禅寺境内に移転し1か月後には前橋の龍海院境内に移転し、更に2年後の明治11年に前橋曲輪町(現大手町)新校舎落成して移転した。明治19(1886)年の師範学校令により群馬県尋常師範学校と改称(本科4年制)した。それまでは初等科(1年制)・中等科(2年制)・高等科(4年制)が設置されていてその後も簡易科2年制等も設置された。明治21(1898)年4月の師範教育令により群馬県師範学校と改称した。明治34(1901)年には女子尋常科准教員講習科も併設され2か月後には群馬県女子師範学校として設立認可された。
前橋中学校・利根分校について
前橋中学校は明治10(1877)年に第17番中学利根川学校として成立し、明治12(1879)年に同校閉鎖して師範学校内に群馬県中学校として開設された。明治19(1886)年に第一次中学校令により群馬県尋常中学校となり、明治30(1897)年に利根分校を含む6分校が開設された。明治32(1899)年に群馬県中学校(同32年の第二次中学校令で尋常を外した)、翌33年には群馬県前橋中学校、34年に群馬県立前橋中学校となった。明治45(1912)年に利根分校は沼田中学校として独立した。武一郎は明治36年前橋中学卒業で利根分校が既にあったが明治35年仲間と撮った写真が残っておりそこには県内各地の安中・山田郡・碓氷・渋川等の出身者が写っている。利根分校だけでなく前橋の地まで出かけていった様子がわかる。渋川の平形寿七氏も写っていたので友達だった。蟻川隆敬氏(武一郎妹ももの夫)も同級生だったようだ。旧制中学も草創期であり武一郎の在学中に群馬県立前橋中学校と名称変更された。
東京専門学校・早稲田大学・東京帝国大学農科大学実科について、
左部彦次郎が入学した時の東京専門学校(明治15年設立)は明治35年に早稲田大学と名称変更しているので武一郎が入学する前年には既に早稲田大学と改称していた(大学令による早稲田大学となったのは大正9年である)。早稲田大学を目指して明治36年に武一郎が上京したことに矛盾はない。
東京帝国大学は明治10年よりあった官立東京大学が明治19年に公布された帝国大学令に基づき同年改称設立されて唯一の帝国大学になったがまもなく京都帝国大学ができると明治30年東京帝国大学と改称した。東京帝国大学は武一郎が入学する明治36年頃は工科大学・農科大学・法科大学・文科大学・医科大学・理科大学の6分科大学(明治30年設置)で構成されていた。農科大学は明治23年設置されていたが明治30年6分科大学に組み入れられ東京帝国大学農科大学となった。元々本科・乙科があったが乙科は廃止方向となり明治31年5月実科を開設して、乙科の学生は明治34年9月には全員卒業ないし退学したという。この実科はのちに独立して今の農工大学・筑波大学の前身である。
武一郎は明治36年3月前橋中学卒業後上京、7月には帝大実科に入学しているので4月~7月の間に心境の変化があったと思われ、上京して後に5年前に出来たばかりの東京帝国大学農科大学実科に切り替えた。上京して早稲田以外にも道が有る事を知り明治31年に新設されたばかりの帝大実科に転じたものと思われる。
大学予備門は明治10年よりあり大学予備門→第一高等中学校→旧制一高になるのは明治27年であるが、明治時代の旧制中学 → 旧制一高 → 帝大,というルートはなお未整備で武一郎の頃は旧制中学から直接帝大に入学できたようだ。帝国大学実科は大学予備門ないし旧制高校相当と思われ、国が即戦力を養成するために設けたルートのようで3年で卒業している。
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東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)について、
東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
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以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。
・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。文京区の誠之小・千代田区の番町小・麹町小の各公立小学校は、「御三家」と呼ばれ、上流階級が好んで集ったという。
( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )
またまた、アナフィラキシーに関して ― 2021年07月09日
2021/7/9 アサブロ
またまた、アナフィラキシーに関して。( 2021年02月24日 アナフィラキシーの診療の実際 http://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/02/24/9350430 に追加)。
日本救急医学会が最近「アナフィラキシー対応簡易チャート」を作ったという。
【〇日本救急医学会、新型コロナウイルス感染症特別委員会 アナフィラキシー対応簡易チャート https://www.jaam.jp/info/2021/files/anaphylaxis_chart.pdf?v=20210622 】
新型コロナワクチンを行き渡らせるために国を挙げて推進しているときに、その考え方を一般向けに均霑化しようとの姿勢には敬意を表するが、少し引っかかるものがあったので一言記すことにした。重症度の表である。
確かに国は相変わらずブライトン分類を使って副反応を分類していて、それと共にマニュアルには過去のアレルギー学会の別の分類も国はそのまま引用している。国の場合は過去のデータとの整合性を保つためにはブライトン分類をそのまま使うのも止むを得ない措置とは思う。
【〇時事ドットコムニュース、2021年03月12日 アレルギー頻度「比較難しい」 報告17例、国際基準では7例―厚労省部会
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031201092&g=soc
〇東京新聞、2021年3月12日 コロナワクチン接種9割が痛み アナフィラキシー国際基準では7人 https://www.tokyo-np.co.jp/article/91215
〇日本アレルギー学会、Anaphylaxis 対策特別委員会 2014年11月1日発行
https://anaphylaxis-guideline.jp/pdf/guideline_slide.pdf
〇重篤副作用疾患別対応マニュアルアナフィラキシー平成 20年3 月厚生労働省
https://www.info.pmda.go.jp/juutoku/file/jfm0803003.pdf 】
気になっていたことは、アナフィラキシーの定義もその重症度分類も最近まで議論の中にあり、特にその定義は2011年のWAO(世界アレルギー機構)の決定によってやっと決まったと思っていたら、今回の新型コロナ騒動で明らかになったのは、相変わらず専門家の言うことが尚バラバラで、世界の考え方も未だに統一されていないということで、そしてそれにそれぞれの国際的な学会がやっと気付いたことである。そしてその重症度分類についてはWAOの意見も多少の調整が必要であったようで、新しい?WAO声明文でもブライトン分類と整合性を持つように若干変化してきている。それでもブライトン分類が消化器症状はminor criteriaに入っている等今でもWAOとは若干の違いはある。
そんな中で国際的な学会が意思統一をしてやっと決めた重症度分類が下記のように出来ていたのに、
【World Allergy Organization Journal(2020) 13:100472, POSITION PAPERWorld Allergy Organization AnaphylaxisGuidance 2020
https://www.worldallergyorganizationjournal.org/action/showPdf?pii=S1939-4551%2820%2930375-6 】、である。
今回の救急医学会の「アナフィラキシー対応簡易チャート」をみたら、これらを無視するかのように、古い重症度分類が載っていた。特に問題があるわけではないが、今回の新型コロナ騒動でアナフィラキシーへの過剰反応もある中で、アカデミアは新分類を提示する等学問的にはもう少し気を使っても良いのではないかというちょっとした疑問を感じた。
(2021/7/17反省: このWAO声明文の中のGrade1~5分類については国際的コンセンサスを得ているものではないようで例示のようだ。個人的にはこれで良いと思っているけれども。何よりも素人にも分かり易く日本政府もCDCも似たような古いブライトン分類を現に新型コロナの副反応の区分けで本来のアナフィラキシーとの違いの説明に使っている。)
( 2021/7/21更に反省: Brighton分類は2007年なのでWAO2011年の定義より古いと思っていたが現在も活動中であった。Brighton Collaboration is working diligently to fight the coronavirus disease (COVID-19) pandemic. https://brightoncollaboration.us/covid-19/
。アナフィラキシーの分類は、大雑把には合意出来ていても分類の詳細は未だコンセンサスを得ていないようだ。 )
( 2021/7/26三たび反省:日本アレルギー学会はなぜ黙っているのかと思っていたらちゃんとそれなりに動いてはいた。
〇「新型コロナウイルスワクチン接種にともなう重度の過敏症 (アナフィラキシー等)の管理・診断・治療」について2021年3月1日、令和3年6月14日 改訂 https://www.jsaweb.jp/modules/news_topics/index.php?content_id=546
https://www.jsaweb.jp/modules/about/index.php?content_id=81
〇JSA/WAO Joint Congress 2020, 2020/09/17 https://confit.atlas.jp/guide/event/jsawao2020/subject/20013/detail?lang=ja
アナフィラキシーUp-to-date アレルギー2021年70巻5号p.376-383
https://doi.org/10.15036/arerugi.70.376
〇コミナティ筋注®接種後のアナフィラキシーが疑われた1例に対しPolyethylene glycol 2000を用いたプリックテストの結果 アレルギー 2021年70巻5号p.392-393
https://doi.org/10.15036/arerugi.70.392 ここにはブライトン分類とアレルギー学会分類とが一致しない例を挙げている。
※ 次代の国際疾病分類のICD-11では非アレルギー性のアナフィラキシーの項も入っている。なぜ世界の免疫・アレルギー関連学会のEAACI・AAA/ACAAI・ASCIA・NIAID・WHO ICD-11等とは合意しているのにBrighton分類作業部会とは合意しないのかわからない。 )
2021/8/9更に追加。
〇日本アレルギー学会 学会見解 新型コロナワクチン接種について(学会声明)令和3年8月3日、など。 https://www.jsaweb.jp/modules/about/index.php?content_id=81 。本来の専門家の日本アレルギー学会でも発言してきているようだ。
〇Epinephrine absorption in children with a history of anaphylaxis. J Allergy Clin Immunol. 1998 Jan;101(1 Pt 1):33-7. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/9449498/
アドレナリン(ボスミン)注射の効果と注射経路については、この論文を根拠にしてアドレナリン吸収に5-10分かかるとか皮下注ではなく筋注でなければダメだとかと解釈している意見があるが、この論文は内因性と外因性アドレナリンの鑑別は行っていないので神経反射による内因性アドレナリン放出も含まれていると思われる。
また、皮下注も筋注も吸収程度の差はあるが同じ最短測定時間の5分に最初のピークがあるので効果の発現時間に大きな差はなく、個体間の感受性の差も考えれば皮下注ではだめだとの根拠にもならない。勿論吸収効率の差はあるので効果発現強度や最大効果時間は異なるので薬剤追加のタイミングは違ってくるかもしれない。
個体間の感受性や同一個体での病態による感受性変化がどの程度係わっているかの詳細は尚解っていないので、実地臨床では注射の効果を見ながら追加のタイミングを見定めているのが実態であるしこれこそが大切と思う。従って、アナフィラキシーでのボスミン注射は大腿外側広筋に拘ることなく三角筋でも皮下注でも露出している部分に行えば良いと思う。
またまた、アナフィラキシーに関して。( 2021年02月24日 アナフィラキシーの診療の実際 http://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/02/24/9350430 に追加)。
日本救急医学会が最近「アナフィラキシー対応簡易チャート」を作ったという。
【〇日本救急医学会、新型コロナウイルス感染症特別委員会 アナフィラキシー対応簡易チャート https://www.jaam.jp/info/2021/files/anaphylaxis_chart.pdf?v=20210622 】
新型コロナワクチンを行き渡らせるために国を挙げて推進しているときに、その考え方を一般向けに均霑化しようとの姿勢には敬意を表するが、少し引っかかるものがあったので一言記すことにした。重症度の表である。
確かに国は相変わらずブライトン分類を使って副反応を分類していて、それと共にマニュアルには過去のアレルギー学会の別の分類も国はそのまま引用している。国の場合は過去のデータとの整合性を保つためにはブライトン分類をそのまま使うのも止むを得ない措置とは思う。
【〇時事ドットコムニュース、2021年03月12日 アレルギー頻度「比較難しい」 報告17例、国際基準では7例―厚労省部会
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021031201092&g=soc
〇東京新聞、2021年3月12日 コロナワクチン接種9割が痛み アナフィラキシー国際基準では7人 https://www.tokyo-np.co.jp/article/91215
〇日本アレルギー学会、Anaphylaxis 対策特別委員会 2014年11月1日発行
https://anaphylaxis-guideline.jp/pdf/guideline_slide.pdf
〇重篤副作用疾患別対応マニュアルアナフィラキシー平成 20年3 月厚生労働省
https://www.info.pmda.go.jp/juutoku/file/jfm0803003.pdf 】
気になっていたことは、アナフィラキシーの定義もその重症度分類も最近まで議論の中にあり、特にその定義は2011年のWAO(世界アレルギー機構)の決定によってやっと決まったと思っていたら、今回の新型コロナ騒動で明らかになったのは、相変わらず専門家の言うことが尚バラバラで、世界の考え方も未だに統一されていないということで、そしてそれにそれぞれの国際的な学会がやっと気付いたことである。そしてその重症度分類についてはWAOの意見も多少の調整が必要であったようで、新しい?WAO声明文でもブライトン分類と整合性を持つように若干変化してきている。それでもブライトン分類が消化器症状はminor criteriaに入っている等今でもWAOとは若干の違いはある。
そんな中で国際的な学会が意思統一をしてやっと決めた重症度分類が下記のように出来ていたのに、
【World Allergy Organization Journal(2020) 13:100472, POSITION PAPERWorld Allergy Organization AnaphylaxisGuidance 2020
https://www.worldallergyorganizationjournal.org/action/showPdf?pii=S1939-4551%2820%2930375-6 】、である。
今回の救急医学会の「アナフィラキシー対応簡易チャート」をみたら、これらを無視するかのように、古い重症度分類が載っていた。特に問題があるわけではないが、今回の新型コロナ騒動でアナフィラキシーへの過剰反応もある中で、アカデミアは新分類を提示する等学問的にはもう少し気を使っても良いのではないかというちょっとした疑問を感じた。
(2021/7/17反省: このWAO声明文の中のGrade1~5分類については国際的コンセンサスを得ているものではないようで例示のようだ。個人的にはこれで良いと思っているけれども。何よりも素人にも分かり易く日本政府もCDCも似たような古いブライトン分類を現に新型コロナの副反応の区分けで本来のアナフィラキシーとの違いの説明に使っている。)
( 2021/7/21更に反省: Brighton分類は2007年なのでWAO2011年の定義より古いと思っていたが現在も活動中であった。Brighton Collaboration is working diligently to fight the coronavirus disease (COVID-19) pandemic. https://brightoncollaboration.us/covid-19/
。アナフィラキシーの分類は、大雑把には合意出来ていても分類の詳細は未だコンセンサスを得ていないようだ。 )
( 2021/7/26三たび反省:日本アレルギー学会はなぜ黙っているのかと思っていたらちゃんとそれなりに動いてはいた。
〇「新型コロナウイルスワクチン接種にともなう重度の過敏症 (アナフィラキシー等)の管理・診断・治療」について2021年3月1日、令和3年6月14日 改訂 https://www.jsaweb.jp/modules/news_topics/index.php?content_id=546
https://www.jsaweb.jp/modules/about/index.php?content_id=81
〇JSA/WAO Joint Congress 2020, 2020/09/17 https://confit.atlas.jp/guide/event/jsawao2020/subject/20013/detail?lang=ja
アナフィラキシーUp-to-date アレルギー2021年70巻5号p.376-383
https://doi.org/10.15036/arerugi.70.376
〇コミナティ筋注®接種後のアナフィラキシーが疑われた1例に対しPolyethylene glycol 2000を用いたプリックテストの結果 アレルギー 2021年70巻5号p.392-393
https://doi.org/10.15036/arerugi.70.392 ここにはブライトン分類とアレルギー学会分類とが一致しない例を挙げている。
※ 次代の国際疾病分類のICD-11では非アレルギー性のアナフィラキシーの項も入っている。なぜ世界の免疫・アレルギー関連学会のEAACI・AAA/ACAAI・ASCIA・NIAID・WHO ICD-11等とは合意しているのにBrighton分類作業部会とは合意しないのかわからない。 )
2021/8/9更に追加。
〇日本アレルギー学会 学会見解 新型コロナワクチン接種について(学会声明)令和3年8月3日、など。 https://www.jsaweb.jp/modules/about/index.php?content_id=81 。本来の専門家の日本アレルギー学会でも発言してきているようだ。
〇Epinephrine absorption in children with a history of anaphylaxis. J Allergy Clin Immunol. 1998 Jan;101(1 Pt 1):33-7. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/9449498/
アドレナリン(ボスミン)注射の効果と注射経路については、この論文を根拠にしてアドレナリン吸収に5-10分かかるとか皮下注ではなく筋注でなければダメだとかと解釈している意見があるが、この論文は内因性と外因性アドレナリンの鑑別は行っていないので神経反射による内因性アドレナリン放出も含まれていると思われる。
また、皮下注も筋注も吸収程度の差はあるが同じ最短測定時間の5分に最初のピークがあるので効果の発現時間に大きな差はなく、個体間の感受性の差も考えれば皮下注ではだめだとの根拠にもならない。勿論吸収効率の差はあるので効果発現強度や最大効果時間は異なるので薬剤追加のタイミングは違ってくるかもしれない。
個体間の感受性や同一個体での病態による感受性変化がどの程度係わっているかの詳細は尚解っていないので、実地臨床では注射の効果を見ながら追加のタイミングを見定めているのが実態であるしこれこそが大切と思う。従って、アナフィラキシーでのボスミン注射は大腿外側広筋に拘ることなく三角筋でも皮下注でも露出している部分に行えば良いと思う。
新型コロナワクチンの三角筋注射に係る手技・免疫学的意義・副反応等について再考 ― 2021年07月18日
2021/7/14 アサブロ
新型コロナワクチンの三角筋注射に係る手技・免疫学的意義・副反応等について、あらためて考え方を纏めてみる。
三角筋筋注については、その具体的手技とともにその免疫学的解釈の仕方や考え方について計らずも今回の新型コロナウイルスワクチンで医療者からの注目を浴び、気にもしなかった問題や予想もしなかった疑問点が出てきている。 勉強になる有難い意見もあれば反面教師のような真似してはいけないような或いはまともに受け取ってはいけないような意見もある。自分でも分かっていたつもりが意外に勘違いしていた面もあり( https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/03/19/9358533 )、今から思うと反省すべきものもある。
様々な意見がある中で取捨選択が必要であることを感じる。それなりの理由があるものもあるし、的外れなものもある。的をある程度得ていても道理に合わなかったり理屈からは首を傾げたくなるものもある。理屈には合っていても自分の主義からはそれに乗らない方が良いと思うものもある。エビデンスと主張されながら合点できない狭い範囲でのエビデンスであることもあり、そして大家やCDC等のいわゆる権威者が言っていることにも眉唾のことがあり、常に批判的理解が必要なのが今の世の中であると感ずる。
医療は社会倫理性を必須とする職業であるが故に医師は特に自分が良いと思っても、社会が認めない或いはその社会の在り方にそぐわない考え方や施療はしてはいけない、ということは言うまでもない。そこが他の学問や職業とは異なっていると思っている。医療と医学は違うが当然無関係ではない。業務独占という医師のこの職業に付きまとう根本命題である。
医療はあまねく均霑化することが好ましいとは思うが、やはり限界があるようで、現場ではその場で均霑化しても代が変われば土台も変わることが屡々あるし、ベストな方法が一つではないので、個々の対象で異なる具体的対応の違いは大局的に見れば吹っ飛んでしまう。徒弟制度が崩れてしまったことと同じである。
従って、自分なりの考え方を纏めておく必要があると思い文字に記してみる。
奈良県立医大の方式では、上腕三頭筋外側頭に筋注してしまうリスクがあるので問題であるとの指摘も最近目にした。そんなことがあるのかと思っていたがネットの画像を見る限りそれらしい画像を確かに見かける。三角筋筋注が三角筋以外の筋注になることなど問題外であると思っていたが、その心配は確かにあるらしい。上腕三頭筋外側頭にしてしまう危険があるとすればこれは無視できない。その下には橈骨神経が走っているからである。
第1に橈骨神経障害は問題の大きな別格のリスクとなるので、単純に肩峰から下垂線何cmという表現だけでは不十分なのかもしれないがそんなことは指摘されるまで考えもしなかった。従って三角筋自体を触診してその中央部にしましょうとの意見には納得できる。
第2に肩峰下滑液包炎のリスクの回避即ち肩峰下4cm以内を避けるのは念頭に置かなければならないがこれも誰もが納得する点と思う。
第3については意見が分かれても仕方ないような気がする。後上腕回旋動脈及び随伴する腋窩神経はその三角筋中央部付近の深部を横走していて肩峰から下5cm又は3横指と言われてきたことである。この走行部位は人によって若干の変動がある。( 腋窩神経筋枝は三角筋と小円筋を支配する。腋窩神経皮枝は三角筋部の皮膚知覚を支配するが、肩峰の皮膚知覚は鎖骨上神経である。慶応大学解剖学Spalteholz http://www.anatomy.med.keio.ac.jp/funatoka/anatomy/spalteholz/J950.html )。
これは腋窩神経分枝については障害リスクを完全には避けられないとも言える。運悪く神経に当たっても回復しやすいという意味では前2者程の心配は不要とも言える。血管も細い故に心配ないとも言われる。しかし軽症ながら稀な三角筋内血腫出た例が身近にもあったと聞いているのでリスクがゼロではない。今回のコロナワクチンのように遍く三角筋筋注を普及させるためには、万が一の免責に配慮してシビレ確認と陰圧確認は不要とするのは仕方ないとしても、やはり施術者がシビレの有無と逆流の有無を念頭に置くことは、その場合針先を2-3mmずらせばよいだけなので褒められることはあっても否定されるべきことではない。陰圧をかけると組織を挫滅するとの屁理屈が一部で言われるが、吸引ピストルを使って吸引細胞診をする場合等は強い陰圧なので、これは別次元の問題と混同している。従って第3の問題は三角筋の下には後上腕回旋動脈及び随伴する腋窩神経が走っている事と三角筋下滑液包がある事を念頭においておけば、三角筋内への注射であれば部位の差と言うより注射施行時の注意の問題であると思う。故に三角筋を確認することは当然である。
その他の手技上の問題では、肥満やるい瘦は注射針が短すぎるや長すぎる等の注意点はよく言われるが、そもそも注射できる程の三角筋筋肉が認められない人もいるという声は未だに聞いたことがない。しかし介護施設にはそういう人も確かにいる。筋肉が殆ど無く実質的には皮下注になってしまう看做し筋注でも可とのオフィシャルな了解があれば、何の問題もなくそういう衰弱者にもワクチンの恩恵を届けられるが、筋注に限定されると施行し難い。日本のインフルエンザワクチンの場合は皮下注可とされているため、また副作用が少ないために、そういう人にも実際インフルエンザワクチン注射を行っている。しかし新型コロナワクチンのように、皮下注ではダメ、筋注でなければ免疫効果が出ない、筋注の方が副反応は弱い等の意見の下では看做し筋注は行い難い。実際自分の施設入所者の1/3弱は今回その理由からCOVID-19ワクチンは施行できなかった。
今回の新型コロナワクチンは初めてのmRNAワクチン故に効果も副反応もその程度が実用初期には証拠不十分であったので、初期の頃は高齢者入所対象者のどの範囲まで行うべきか迷っていたが幸運にも極めて有効で副反応も心配は杞憂であることが分かってきたので出来るならば衰弱高齢者にも社会倫理的に許されれば行った方が良いかもしれないと思っていた。しかし明確に筋注に限定されてかつその差が針小棒大に専門機関?に規定されたために、これは医学的にもワクチン注射出来ない人を確定する必要があると考えて三角筋部位をエコーで判定した。高齢者全体が若者の筋肉とは大きく違い脂肪化が強かったが筋肉そのものが認められず医学的にも筋注不可の人も少なからずいるということが分かった(1割弱)。皮下脂肪そのものがないるい瘦者に加えて皮下脂肪は残っていても筋注と言える程の筋肉がそもそも認められないという人もいた。殆どが寝たきり状態であったが、副反応の問題からではなく社会医学的な問題で不可判定をさせてもらった(2割弱、計1/3が対象から外れた)。日本には西洋と違い食べられなくなっても脱水を防ぐための点滴注射や経管栄養で生命を維持している人もいるが、そのような高齢衰弱者にワクチン注射自体を行う適応をどうするかの社会的な問題も別の意味で存在すことは勿論である。
新型コロナワクチン注射の効果、副反応等の意義については、従来の蛋白抗原ではなくmRNAという新ワクチンであるために未知の点が多々あるとしても、筋注と皮下注の免疫原性の違いを強調しすぎる医療関係者が圧倒的に多いのには驚き、本当にそうなのかと違和感を持ち、その道の専門家にも聞いてみたがその方はエビデンスがないだけでそう違わないと思っているとのことであったので、この違和感はそのまま今も持っている。それは自分が医師になりたての頃(50年前)既に注射ルートによる免疫原性の違いやアジュバントの違いによる問題は議論になっていて免疫原性は皮内注>皮下注≒筋注ということに落ち着いたと思っていたからである。副反応についても皮下注/筋注の違いによることを強調するが調べた限り、それ以外の因子の方が強くそもそも皮下注のエビデンスそのものが乏しい中での日本の医療者のCDC信仰は度が過ぎると今も感じている。
(関連テーマ)
〇 ワクチン注射は皮下注か筋注か、で気になったのでちょっと一言 ― https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/11/11/9315455
〇 新型コロナー筋注・皮下注についてー追記. ― 2021年06月16日 アサブロ https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/06/16/9388503
〇 (過去の、2021年03月19日への追加) 新型コロナワクチン筋注とSIRVA等合併症を避けるということの本質) ― 2021年06月18日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/06/18/9389164
新型コロナワクチンの三角筋注射に係る手技・免疫学的意義・副反応等について、あらためて考え方を纏めてみる。
三角筋筋注については、その具体的手技とともにその免疫学的解釈の仕方や考え方について計らずも今回の新型コロナウイルスワクチンで医療者からの注目を浴び、気にもしなかった問題や予想もしなかった疑問点が出てきている。 勉強になる有難い意見もあれば反面教師のような真似してはいけないような或いはまともに受け取ってはいけないような意見もある。自分でも分かっていたつもりが意外に勘違いしていた面もあり( https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/03/19/9358533 )、今から思うと反省すべきものもある。
様々な意見がある中で取捨選択が必要であることを感じる。それなりの理由があるものもあるし、的外れなものもある。的をある程度得ていても道理に合わなかったり理屈からは首を傾げたくなるものもある。理屈には合っていても自分の主義からはそれに乗らない方が良いと思うものもある。エビデンスと主張されながら合点できない狭い範囲でのエビデンスであることもあり、そして大家やCDC等のいわゆる権威者が言っていることにも眉唾のことがあり、常に批判的理解が必要なのが今の世の中であると感ずる。
医療は社会倫理性を必須とする職業であるが故に医師は特に自分が良いと思っても、社会が認めない或いはその社会の在り方にそぐわない考え方や施療はしてはいけない、ということは言うまでもない。そこが他の学問や職業とは異なっていると思っている。医療と医学は違うが当然無関係ではない。業務独占という医師のこの職業に付きまとう根本命題である。
医療はあまねく均霑化することが好ましいとは思うが、やはり限界があるようで、現場ではその場で均霑化しても代が変われば土台も変わることが屡々あるし、ベストな方法が一つではないので、個々の対象で異なる具体的対応の違いは大局的に見れば吹っ飛んでしまう。徒弟制度が崩れてしまったことと同じである。
従って、自分なりの考え方を纏めておく必要があると思い文字に記してみる。
奈良県立医大の方式では、上腕三頭筋外側頭に筋注してしまうリスクがあるので問題であるとの指摘も最近目にした。そんなことがあるのかと思っていたがネットの画像を見る限りそれらしい画像を確かに見かける。三角筋筋注が三角筋以外の筋注になることなど問題外であると思っていたが、その心配は確かにあるらしい。上腕三頭筋外側頭にしてしまう危険があるとすればこれは無視できない。その下には橈骨神経が走っているからである。
第1に橈骨神経障害は問題の大きな別格のリスクとなるので、単純に肩峰から下垂線何cmという表現だけでは不十分なのかもしれないがそんなことは指摘されるまで考えもしなかった。従って三角筋自体を触診してその中央部にしましょうとの意見には納得できる。
第2に肩峰下滑液包炎のリスクの回避即ち肩峰下4cm以内を避けるのは念頭に置かなければならないがこれも誰もが納得する点と思う。
第3については意見が分かれても仕方ないような気がする。後上腕回旋動脈及び随伴する腋窩神経はその三角筋中央部付近の深部を横走していて肩峰から下5cm又は3横指と言われてきたことである。この走行部位は人によって若干の変動がある。( 腋窩神経筋枝は三角筋と小円筋を支配する。腋窩神経皮枝は三角筋部の皮膚知覚を支配するが、肩峰の皮膚知覚は鎖骨上神経である。慶応大学解剖学Spalteholz http://www.anatomy.med.keio.ac.jp/funatoka/anatomy/spalteholz/J950.html )。
これは腋窩神経分枝については障害リスクを完全には避けられないとも言える。運悪く神経に当たっても回復しやすいという意味では前2者程の心配は不要とも言える。血管も細い故に心配ないとも言われる。しかし軽症ながら稀な三角筋内血腫出た例が身近にもあったと聞いているのでリスクがゼロではない。今回のコロナワクチンのように遍く三角筋筋注を普及させるためには、万が一の免責に配慮してシビレ確認と陰圧確認は不要とするのは仕方ないとしても、やはり施術者がシビレの有無と逆流の有無を念頭に置くことは、その場合針先を2-3mmずらせばよいだけなので褒められることはあっても否定されるべきことではない。陰圧をかけると組織を挫滅するとの屁理屈が一部で言われるが、吸引ピストルを使って吸引細胞診をする場合等は強い陰圧なので、これは別次元の問題と混同している。従って第3の問題は三角筋の下には後上腕回旋動脈及び随伴する腋窩神経が走っている事と三角筋下滑液包がある事を念頭においておけば、三角筋内への注射であれば部位の差と言うより注射施行時の注意の問題であると思う。故に三角筋を確認することは当然である。
その他の手技上の問題では、肥満やるい瘦は注射針が短すぎるや長すぎる等の注意点はよく言われるが、そもそも注射できる程の三角筋筋肉が認められない人もいるという声は未だに聞いたことがない。しかし介護施設にはそういう人も確かにいる。筋肉が殆ど無く実質的には皮下注になってしまう看做し筋注でも可とのオフィシャルな了解があれば、何の問題もなくそういう衰弱者にもワクチンの恩恵を届けられるが、筋注に限定されると施行し難い。日本のインフルエンザワクチンの場合は皮下注可とされているため、また副作用が少ないために、そういう人にも実際インフルエンザワクチン注射を行っている。しかし新型コロナワクチンのように、皮下注ではダメ、筋注でなければ免疫効果が出ない、筋注の方が副反応は弱い等の意見の下では看做し筋注は行い難い。実際自分の施設入所者の1/3弱は今回その理由からCOVID-19ワクチンは施行できなかった。
今回の新型コロナワクチンは初めてのmRNAワクチン故に効果も副反応もその程度が実用初期には証拠不十分であったので、初期の頃は高齢者入所対象者のどの範囲まで行うべきか迷っていたが幸運にも極めて有効で副反応も心配は杞憂であることが分かってきたので出来るならば衰弱高齢者にも社会倫理的に許されれば行った方が良いかもしれないと思っていた。しかし明確に筋注に限定されてかつその差が針小棒大に専門機関?に規定されたために、これは医学的にもワクチン注射出来ない人を確定する必要があると考えて三角筋部位をエコーで判定した。高齢者全体が若者の筋肉とは大きく違い脂肪化が強かったが筋肉そのものが認められず医学的にも筋注不可の人も少なからずいるということが分かった(1割弱)。皮下脂肪そのものがないるい瘦者に加えて皮下脂肪は残っていても筋注と言える程の筋肉がそもそも認められないという人もいた。殆どが寝たきり状態であったが、副反応の問題からではなく社会医学的な問題で不可判定をさせてもらった(2割弱、計1/3が対象から外れた)。日本には西洋と違い食べられなくなっても脱水を防ぐための点滴注射や経管栄養で生命を維持している人もいるが、そのような高齢衰弱者にワクチン注射自体を行う適応をどうするかの社会的な問題も別の意味で存在すことは勿論である。
新型コロナワクチン注射の効果、副反応等の意義については、従来の蛋白抗原ではなくmRNAという新ワクチンであるために未知の点が多々あるとしても、筋注と皮下注の免疫原性の違いを強調しすぎる医療関係者が圧倒的に多いのには驚き、本当にそうなのかと違和感を持ち、その道の専門家にも聞いてみたがその方はエビデンスがないだけでそう違わないと思っているとのことであったので、この違和感はそのまま今も持っている。それは自分が医師になりたての頃(50年前)既に注射ルートによる免疫原性の違いやアジュバントの違いによる問題は議論になっていて免疫原性は皮内注>皮下注≒筋注ということに落ち着いたと思っていたからである。副反応についても皮下注/筋注の違いによることを強調するが調べた限り、それ以外の因子の方が強くそもそも皮下注のエビデンスそのものが乏しい中での日本の医療者のCDC信仰は度が過ぎると今も感じている。
(関連テーマ)
〇 ワクチン注射は皮下注か筋注か、で気になったのでちょっと一言 ― https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/11/11/9315455
〇 新型コロナー筋注・皮下注についてー追記. ― 2021年06月16日 アサブロ https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/06/16/9388503
〇 (過去の、2021年03月19日への追加) 新型コロナワクチン筋注とSIRVA等合併症を避けるということの本質) ― 2021年06月18日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/06/18/9389164
メトフォルミンマニアになって欲しいとの提案に対して ― 2021年07月22日
2021/7/21 アサブロ
メトフォルミンマニアになって欲しいとの提案に対して、
週刊日本医事新報に面白いテーマの記事が載っていた(下記)。
( 日本医事新報 トップ>特集>No.5074:メトホルミンマニア─多彩な作用機序を理解して実際の使用法を考える 2021-07-20 )。 メトフォルミンマニアになって欲しいとの提案である。
そう言えば、90才過ぎの高齢者にもこのメトフォルミンが処方されているのも最近時々見かけるようになった。これは乳酸アシドーシスのリスク故にかつて日本では製造中止になりその後外国でその有効性を見直されて逆輸入され再販されるようになった糖尿病薬である。今ではその効能が見直されて広く再使用されるようになってきている。
かつて医療保険の審査委員をしていた時にあまりにも安易に使われすぎていると感じてこの問題を提起したことがあった時に、それは医師個々の判断に委ねるべきことだと言われて素直に引き下がったことがあったが、そのとおりでもある。
この判断について、自分の思い込みが間違っているのかも知れないが、今でも自分はこの薬は75歳以上の高齢者には処方しない主義である。それによって患者に不利益を及ぼすこともないと思っているからでもある。
原因の異なる乳酸アシドーシスはこれまでの医者人生で2-3例経験しているが、念頭に無ければ診断が困難で適時適切な治療をしなければ命にも係る病態である。従って医学的或いは医療倫理上には認められていても性分として自分は行わないという医療手段は他にもあるがその一つである。喘息に対するケナコルトA、末期癌に対する睡眠剤自体による持続導入、等その他にもいくつかはある。
また、出血性腸炎とMRSAとの関係は相関関係があっても因果関係はなかったと今では受け取られているが、かつては出血性腸炎の原因としてのMRSAが当たり前のごとく多くの症例報告がなされ今では因果関係がほぼ否定されているものもある。エビデンスへの批判的吟味の必要性を示す例である。
自分が愛用しているものは他人にも良いと思い薦めたくなる気持ちは誰にもあると思われるがこの多様性の社会で対立を生まないためにはその気持ちを戒めた方が良いものが沢山ある。
たとえ家族や夫婦であってもその見極めは大事である。同じ事実に対してさえその心象風景は人間一人ひとり皆違う。理屈では分かっていても自分には出来ない・したくないということを、相手にも分かり易く表現するのに ’自分の性分だから’ と表現した人がいたが成程と思ったことがかつてあった。
イデオロギーや宗教がその典型であるし、医療も特に高齢者医療では常にぶつかる問題であり無視しては成り立たない程に沢山ある。
メトフォルミンマニアになって欲しいとの提案に対して、
週刊日本医事新報に面白いテーマの記事が載っていた(下記)。
( 日本医事新報 トップ>特集>No.5074:メトホルミンマニア─多彩な作用機序を理解して実際の使用法を考える 2021-07-20 )。 メトフォルミンマニアになって欲しいとの提案である。
そう言えば、90才過ぎの高齢者にもこのメトフォルミンが処方されているのも最近時々見かけるようになった。これは乳酸アシドーシスのリスク故にかつて日本では製造中止になりその後外国でその有効性を見直されて逆輸入され再販されるようになった糖尿病薬である。今ではその効能が見直されて広く再使用されるようになってきている。
かつて医療保険の審査委員をしていた時にあまりにも安易に使われすぎていると感じてこの問題を提起したことがあった時に、それは医師個々の判断に委ねるべきことだと言われて素直に引き下がったことがあったが、そのとおりでもある。
この判断について、自分の思い込みが間違っているのかも知れないが、今でも自分はこの薬は75歳以上の高齢者には処方しない主義である。それによって患者に不利益を及ぼすこともないと思っているからでもある。
原因の異なる乳酸アシドーシスはこれまでの医者人生で2-3例経験しているが、念頭に無ければ診断が困難で適時適切な治療をしなければ命にも係る病態である。従って医学的或いは医療倫理上には認められていても性分として自分は行わないという医療手段は他にもあるがその一つである。喘息に対するケナコルトA、末期癌に対する睡眠剤自体による持続導入、等その他にもいくつかはある。
また、出血性腸炎とMRSAとの関係は相関関係があっても因果関係はなかったと今では受け取られているが、かつては出血性腸炎の原因としてのMRSAが当たり前のごとく多くの症例報告がなされ今では因果関係がほぼ否定されているものもある。エビデンスへの批判的吟味の必要性を示す例である。
自分が愛用しているものは他人にも良いと思い薦めたくなる気持ちは誰にもあると思われるがこの多様性の社会で対立を生まないためにはその気持ちを戒めた方が良いものが沢山ある。
たとえ家族や夫婦であってもその見極めは大事である。同じ事実に対してさえその心象風景は人間一人ひとり皆違う。理屈では分かっていても自分には出来ない・したくないということを、相手にも分かり易く表現するのに ’自分の性分だから’ と表現した人がいたが成程と思ったことがかつてあった。
イデオロギーや宗教がその典型であるし、医療も特に高齢者医療では常にぶつかる問題であり無視しては成り立たない程に沢山ある。
高齢者の癌は恐れるに足らず、について。 ― 2021年07月25日
2021/7/24 アサブロ
高齢者の癌は恐れるに足らず、について。
これは癌自体がそもそも多様性の塊なので、一律に扱おうとすること自体も無理な話で、一言で断定できないのは当然であるが、一般的には高齢になれば癌になる確率は高くなるし、進行も遅いものが多いので当たらずとも遠からずとは言える。
二人に一人が一生のうちには癌になると言われて既に久しいが、どのタイプの癌になるかはもうその人の運命と言うしかない。甘んじて受け入れざるを得ないことがこの世の中にはその他にもたくさんある。独りで生まれて独りで死んでいくことを考えればそれも当たり前なのかもしれない。何のために生きるのかの基本命題に通じることでもある。
死に方も選べない。恐らく皆自覚をしていないようであるが自分では選べない。西洋では自殺ほう助は条件によっては可能な場合があるが基本的には選べない。これは見方によっては生の醍醐味とも言えると思っている。
死に向かう時の病態の性質によって様々な形があり、穏やかに眠るように逝くこともあるし、真綿で首を絞められるように逝くこともあるし、ピンピンコロリのこともある。急変して急に心臓が止まっても条件が偶々そろっていればパッと目を開けて生き返り死への不安も喜びも感じることなく再び連続して生きている人もいる。ただ、生死の限界点においては見かけ上は苦しんで逝くように見えても穏やかに逝くように見えても、本人の意識にとってはどちらもあまり変わらないのではないかと、これまで多くの死を看取ってきて思う。昔から死戦期と言って限界点では時々努力様呼吸になり素人目には苦しいように見えることがあり本人にとっては何の感覚もないが、慣れないスタッフが家族と一緒になり慌てて家族の不安を助長することがある場合は粛々と見送るようにと戒めることがあった。
焼身自殺を図った人が救急車で運び込まれ焼け焦げた皮膚の中で目だけが異様にギラギラと光り絞り出すように放った’死なせてくれえー’という光景は今でも決して忘れることはない。進行は徐々であるが確実に肺胞を置き換えるように進展し(かつてのBAC、2015年以降はAISと分類名称変更?)、もう打つ手はないからと大学病院から逆紹介で戻ってきて、最期は酸欠の極期にあっても麻薬の使用を本人が拒否して意識清明のまま死を迎えた方もいた。夜間就眠中に夢見心地で酸素マスクを外してしまい苦しいとベッドから起き出し酸欠で意識を失い再投与で再び意識の回復を繰り返していても’ぼーっとなったまま死にたくはない’とはっきり言ってまもなく苦痛緩和を拒否したまま亡くなられた。
癌は進行すればいつの日かカヘキシーになり、ある時点から急に悪化していき亡くなる。それまでは症状はなく、健康人と何ら変わらないことが多い。そのカヘキシーは現在の所サイトカインストームによると考えられている。そのサイトカインストームは平たく言えば体が癌と喧嘩して生ずるものである。だから癌と喧嘩をしないで併存していればカヘキシーには陥らない。長寿癌或いは天寿癌と言われるものはそれ故である。
( 2021年07月03日 アナーキック・エンパシー ということ。
https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/07/03/9394381 )
数年前のある時に認知症棟に入所中の認知症高齢者が穿孔性腹膜炎に陥った。病院に送ったところ、原因は膵臓癌が胃まで浸潤拡散してその部位から胃に穴が開いたためと判明した。勿論膵臓癌の末期で手術適応なくそのまま経過観察となったが何と数日の禁食後に再び食事できるようになり自然閉鎖したようなので施設に返したいと病院から連絡があった。そして再び施設に戻って見かけ上は従前どおりに食事できるようになり半年存命してからカヘキシーになり亡くなった。一人ひとり癌との喧嘩の仕方は違うようで同じ病気でもその経過は異なる。癌の種類も数えきれないほどにあるので、担癌生体の日常経過の在り方は人の数だけあると言って良い。
一時は死に方はピンピンコロリが理想と言われて来たが、現在のように超高齢社会になると身の回りの整理できるような期間があった方が本人の満足度が高いのではないかとも思う。誤解を恐れずに言えば、高齢になってからは癌で死ねるのは幸せかもしれない。若者や働き盛りの人の癌とは決定的に違う所である。
心臓でも脳卒中でもコロリと逝く場合もあればダラダラと廃人のように逝く場合もある。どれも同じ「生」で、生きている限りは生きている、として尊厳を忘れないこと、あるがままを受け入れること、というのが高齢者に係る介護現場の基本姿勢である。だから積極的安楽死を認めるべきだとの主張を聞くと自分の死へのイメージは何をもってそう言っているのだろうかと思う。自分では選べない死に方を前に、いったいどうなるのかと考えながら今少しずつ整理をしてきている。
高齢者の癌は恐れるに足らず、について。
これは癌自体がそもそも多様性の塊なので、一律に扱おうとすること自体も無理な話で、一言で断定できないのは当然であるが、一般的には高齢になれば癌になる確率は高くなるし、進行も遅いものが多いので当たらずとも遠からずとは言える。
二人に一人が一生のうちには癌になると言われて既に久しいが、どのタイプの癌になるかはもうその人の運命と言うしかない。甘んじて受け入れざるを得ないことがこの世の中にはその他にもたくさんある。独りで生まれて独りで死んでいくことを考えればそれも当たり前なのかもしれない。何のために生きるのかの基本命題に通じることでもある。
死に方も選べない。恐らく皆自覚をしていないようであるが自分では選べない。西洋では自殺ほう助は条件によっては可能な場合があるが基本的には選べない。これは見方によっては生の醍醐味とも言えると思っている。
死に向かう時の病態の性質によって様々な形があり、穏やかに眠るように逝くこともあるし、真綿で首を絞められるように逝くこともあるし、ピンピンコロリのこともある。急変して急に心臓が止まっても条件が偶々そろっていればパッと目を開けて生き返り死への不安も喜びも感じることなく再び連続して生きている人もいる。ただ、生死の限界点においては見かけ上は苦しんで逝くように見えても穏やかに逝くように見えても、本人の意識にとってはどちらもあまり変わらないのではないかと、これまで多くの死を看取ってきて思う。昔から死戦期と言って限界点では時々努力様呼吸になり素人目には苦しいように見えることがあり本人にとっては何の感覚もないが、慣れないスタッフが家族と一緒になり慌てて家族の不安を助長することがある場合は粛々と見送るようにと戒めることがあった。
焼身自殺を図った人が救急車で運び込まれ焼け焦げた皮膚の中で目だけが異様にギラギラと光り絞り出すように放った’死なせてくれえー’という光景は今でも決して忘れることはない。進行は徐々であるが確実に肺胞を置き換えるように進展し(かつてのBAC、2015年以降はAISと分類名称変更?)、もう打つ手はないからと大学病院から逆紹介で戻ってきて、最期は酸欠の極期にあっても麻薬の使用を本人が拒否して意識清明のまま死を迎えた方もいた。夜間就眠中に夢見心地で酸素マスクを外してしまい苦しいとベッドから起き出し酸欠で意識を失い再投与で再び意識の回復を繰り返していても’ぼーっとなったまま死にたくはない’とはっきり言ってまもなく苦痛緩和を拒否したまま亡くなられた。
癌は進行すればいつの日かカヘキシーになり、ある時点から急に悪化していき亡くなる。それまでは症状はなく、健康人と何ら変わらないことが多い。そのカヘキシーは現在の所サイトカインストームによると考えられている。そのサイトカインストームは平たく言えば体が癌と喧嘩して生ずるものである。だから癌と喧嘩をしないで併存していればカヘキシーには陥らない。長寿癌或いは天寿癌と言われるものはそれ故である。
( 2021年07月03日 アナーキック・エンパシー ということ。
https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/07/03/9394381 )
数年前のある時に認知症棟に入所中の認知症高齢者が穿孔性腹膜炎に陥った。病院に送ったところ、原因は膵臓癌が胃まで浸潤拡散してその部位から胃に穴が開いたためと判明した。勿論膵臓癌の末期で手術適応なくそのまま経過観察となったが何と数日の禁食後に再び食事できるようになり自然閉鎖したようなので施設に返したいと病院から連絡があった。そして再び施設に戻って見かけ上は従前どおりに食事できるようになり半年存命してからカヘキシーになり亡くなった。一人ひとり癌との喧嘩の仕方は違うようで同じ病気でもその経過は異なる。癌の種類も数えきれないほどにあるので、担癌生体の日常経過の在り方は人の数だけあると言って良い。
一時は死に方はピンピンコロリが理想と言われて来たが、現在のように超高齢社会になると身の回りの整理できるような期間があった方が本人の満足度が高いのではないかとも思う。誤解を恐れずに言えば、高齢になってからは癌で死ねるのは幸せかもしれない。若者や働き盛りの人の癌とは決定的に違う所である。
心臓でも脳卒中でもコロリと逝く場合もあればダラダラと廃人のように逝く場合もある。どれも同じ「生」で、生きている限りは生きている、として尊厳を忘れないこと、あるがままを受け入れること、というのが高齢者に係る介護現場の基本姿勢である。だから積極的安楽死を認めるべきだとの主張を聞くと自分の死へのイメージは何をもってそう言っているのだろうかと思う。自分では選べない死に方を前に、いったいどうなるのかと考えながら今少しずつ整理をしてきている。
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