最近、某感染症専門医に送った資料のメモ ― 2025年03月15日
2025/2/■
■■■■■■■ ■■■■
■■■■先生 御机下
■■先生へ最近のワクチン行政への助言のお願い、
突然のメールで失礼します。お願いがあってメールさせて頂きました。■■先生が不活化ワクチンは世界標準の筋注にすべきとのご意見は承知の上でのお願いです。先生のご指摘の通りに実際のワクチン行政が筋注に動いていることに対して一部危惧を感じている者ですが、御高名で発信力の強い先生故に是非高齢者施設の実態(医学的には筋注不可で医学的には皮下注になって仕舞う方「見做し筋注」が少なからずいるという実態)を知っておいて欲しいという思いからメール致します。(私は定年退職後に老健に勤務し、その最中にCOVID-19パンデミックを経験し、その老健も退職して今はアドバイザーとして週2日のみ関わっている78才内科医です。)
SARS-CoV-2ワクチンの導入初期の当時は副反応がどの程度出るのか不明であったために私の職場(■■:入所者100名)で筋注の可否をエコー検査でチェックした所入所者の約3割が医学的に筋注不可(エコー検査で明瞭に判定可能です。医療上は「見做し筋注」とも言える?)という結果でした。
免疫学で高名な専門家(■■■■教授)に当時お聞きした所では免疫効果は同じなので筋注できなければ皮下注すれば良いのではないかと気楽におっしゃっていましたが、私達現場の医師は添付文書に違反していないかどうかは診療上大事なポイントです。万が一ワクチン注射が原因で死亡して訴訟になれば裁判官や検事はその違反をつきかねないことは明白なので、施設での初回のSARS-CoV-2ワクチン注射の時はその3割の方は医学的に非適応との理由でワクチン注射を私はしませんでした。このことは全国老人保健施設協会(全老健)の■■■■■会議にも議題として取り上げて頂きましたが(幸い知人がその一人であったため)、出席者全員が “何処かに筋注できる筋肉があるのではないか“ との一同の意見でその知人からはお役に立てず申し訳ありませんでしたとのご返事でした。■■の指導者達さえ認識していないという現実がその時にはありました。
当時私は万が一を考えて「見做し筋注を認めてくれなければワクチン筋注できない高齢者がいると官邸にもメールした上で医学的に筋注不可の約3割の方には初回の新型コロナワクチン注射はしませんでした。勿論官邸からの返事はありませんでしたが最悪の場合を考えての行動でした。2回目3回目と高齢者のワクチン実施率が上がって90%位迄きたのを知り世間では皆、見做し筋注を行っているという実態を確信してそれからは実質医学的には皮下注であっても私も見做し筋注という名目でワクチン接種を行うようにしました(勿論衰弱しきった方は別の意味で非適応。なお日本製のインフルエンザワクチンは皮下注でかつアジュバント非含有で副反応も弱いので希望があれば気に病むことなく衰弱高齢者にも行えております)。
■■入所者と言っても施設毎にその廃用症候群のレベルは様々で、私たちは他の■■では受け入れられない方こそご家族のためには受け入れるべきだという方針で受け入れてきましたので普通の風邪合併でも死に直結するような方も少なからず入所しておりました。■■を運営しているDr達でさえも廃用症候群の筋委縮の実態と筋注・皮下注の法令上の違いは認識していないことの証左でした。
一方SARS-CoV-2ワクチンだけでなく、ここ数年の高齢者のワクチン行政は筋注限定に傾いていて昨年もPCV20が日本でも認可されましたがその添付文書には、小児は「皮下注ないし筋注/成人には筋注に限定」となっています。その状況については以前のPCV7から最新のPCV20に至るまで行政上の対応は同様でした。ワクチンの臨床試験自体が筋注のみで行っていますので添付文書記載の仕方も止むを得ないとも言えますが、それでは益々高齢化して医学的筋注ができなくなる高齢者が増えてくるという超高齢社会の現実から矛盾した行政対応になって仕舞うことは間違いありません。
免疫力の衰えた高齢者こそワクチン接種すべきだという一方で、高齢者のワクチンを筋注に限定するのは、超高齢社会のフロントランナーである日本の在り方としては矛盾している医療行政と言えます。
ワクチン認可のための治験が外国ではすべて筋注で、日本においては小児で少しの皮下注・筋注の比較試験があるのみで皮下注を許可していますので、ワクチン行政は実態の逆を走っているとも言えます。このままいけば超高齢射会のフロントランナーの日本の役割が世界に向けて果たせなくなるのではないでしょうか。高齢者にも適応になるワクチンの場合は試験の段階での皮下注・筋注の比較試験も併せて行い、ひいてはワクチンの添付文書の用法を高齢者も「皮下注ないし筋注」との融通ある表現に改めて頂けるようにワクチン行政を預かる方々にアドバイスして頂きたくお願い申し上げる次第です。
なお皮下注より筋注の方が副反応が少ないという筋注誘導への思惑が見え隠れする表現が専門家の間でもありますが、これも科学的な根拠に乏しい気がします。いくつかの治験データを見る限り有意差を認める副反応の違いはないようです。むしろアジュバントの違いや有無、そして筋注の方が深いので発赤や腫脹は目立ちにくいのが当たり前で局所疼痛という炎症効果の点では差がないということから見ても大きな差がないと取るのが順当ではないでしょうか(皮下注筋注の副反応比較資料は下記①②③)。
(長文で申し上げ失礼しました。)
①2022年6月23日Hidemasa Kuwabara免疫学の専門家が初めて、筋注・皮下注とで免疫効果は違わない・・・ https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid025WQuzhedNw96r7YAx4gKEAAcF18LYjVozfsiLfTc2Q8rhdNsvErG8M9peYsfyLWgl?__cft__[0]=AZWmHUwiYlqH1-EZowhecj4HcLYUOwLKJeku-cEFCN-MG36R995QWvu3HQSUY77NrAdsdKpMIOxqtYOZPQoDz8IYeldmk7fdOHSQnRUOOB9xq1lGdm9-WXfqxIsHZStl6iI&__tn__=%2CO%2CP-R 。
②審査結果報告書平成21年9月8日医薬食品局審査管理課(沈降7価肺炎球菌結合型ワクチン)安全性について局所反応全身反応p51-53. https://www.pmda.go.jp/drugs/2009/P200900053/53039600_22100AMX02255_A100_1.pdf 。
③審議結果報告書 令和6年3月4日 医薬局医薬品審査管理課(沈降20価肺炎球菌結合型ワクチン)7.2 国内第Ⅲ相試験p16-20. https://www.pmda.go.jp/drugs/2024/P20240327001/672212000_30600AMX00115_A100_2.pdf 。
ーーーー以上です。
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■■■■先生 御机下
■■先生へ最近のワクチン行政への助言のお願い、
突然のメールで失礼します。お願いがあってメールさせて頂きました。■■先生が不活化ワクチンは世界標準の筋注にすべきとのご意見は承知の上でのお願いです。先生のご指摘の通りに実際のワクチン行政が筋注に動いていることに対して一部危惧を感じている者ですが、御高名で発信力の強い先生故に是非高齢者施設の実態(医学的には筋注不可で医学的には皮下注になって仕舞う方「見做し筋注」が少なからずいるという実態)を知っておいて欲しいという思いからメール致します。(私は定年退職後に老健に勤務し、その最中にCOVID-19パンデミックを経験し、その老健も退職して今はアドバイザーとして週2日のみ関わっている78才内科医です。)
SARS-CoV-2ワクチンの導入初期の当時は副反応がどの程度出るのか不明であったために私の職場(■■:入所者100名)で筋注の可否をエコー検査でチェックした所入所者の約3割が医学的に筋注不可(エコー検査で明瞭に判定可能です。医療上は「見做し筋注」とも言える?)という結果でした。
免疫学で高名な専門家(■■■■教授)に当時お聞きした所では免疫効果は同じなので筋注できなければ皮下注すれば良いのではないかと気楽におっしゃっていましたが、私達現場の医師は添付文書に違反していないかどうかは診療上大事なポイントです。万が一ワクチン注射が原因で死亡して訴訟になれば裁判官や検事はその違反をつきかねないことは明白なので、施設での初回のSARS-CoV-2ワクチン注射の時はその3割の方は医学的に非適応との理由でワクチン注射を私はしませんでした。このことは全国老人保健施設協会(全老健)の■■■■■会議にも議題として取り上げて頂きましたが(幸い知人がその一人であったため)、出席者全員が “何処かに筋注できる筋肉があるのではないか“ との一同の意見でその知人からはお役に立てず申し訳ありませんでしたとのご返事でした。■■の指導者達さえ認識していないという現実がその時にはありました。
当時私は万が一を考えて「見做し筋注を認めてくれなければワクチン筋注できない高齢者がいると官邸にもメールした上で医学的に筋注不可の約3割の方には初回の新型コロナワクチン注射はしませんでした。勿論官邸からの返事はありませんでしたが最悪の場合を考えての行動でした。2回目3回目と高齢者のワクチン実施率が上がって90%位迄きたのを知り世間では皆、見做し筋注を行っているという実態を確信してそれからは実質医学的には皮下注であっても私も見做し筋注という名目でワクチン接種を行うようにしました(勿論衰弱しきった方は別の意味で非適応。なお日本製のインフルエンザワクチンは皮下注でかつアジュバント非含有で副反応も弱いので希望があれば気に病むことなく衰弱高齢者にも行えております)。
■■入所者と言っても施設毎にその廃用症候群のレベルは様々で、私たちは他の■■では受け入れられない方こそご家族のためには受け入れるべきだという方針で受け入れてきましたので普通の風邪合併でも死に直結するような方も少なからず入所しておりました。■■を運営しているDr達でさえも廃用症候群の筋委縮の実態と筋注・皮下注の法令上の違いは認識していないことの証左でした。
一方SARS-CoV-2ワクチンだけでなく、ここ数年の高齢者のワクチン行政は筋注限定に傾いていて昨年もPCV20が日本でも認可されましたがその添付文書には、小児は「皮下注ないし筋注/成人には筋注に限定」となっています。その状況については以前のPCV7から最新のPCV20に至るまで行政上の対応は同様でした。ワクチンの臨床試験自体が筋注のみで行っていますので添付文書記載の仕方も止むを得ないとも言えますが、それでは益々高齢化して医学的筋注ができなくなる高齢者が増えてくるという超高齢社会の現実から矛盾した行政対応になって仕舞うことは間違いありません。
免疫力の衰えた高齢者こそワクチン接種すべきだという一方で、高齢者のワクチンを筋注に限定するのは、超高齢社会のフロントランナーである日本の在り方としては矛盾している医療行政と言えます。
ワクチン認可のための治験が外国ではすべて筋注で、日本においては小児で少しの皮下注・筋注の比較試験があるのみで皮下注を許可していますので、ワクチン行政は実態の逆を走っているとも言えます。このままいけば超高齢射会のフロントランナーの日本の役割が世界に向けて果たせなくなるのではないでしょうか。高齢者にも適応になるワクチンの場合は試験の段階での皮下注・筋注の比較試験も併せて行い、ひいてはワクチンの添付文書の用法を高齢者も「皮下注ないし筋注」との融通ある表現に改めて頂けるようにワクチン行政を預かる方々にアドバイスして頂きたくお願い申し上げる次第です。
なお皮下注より筋注の方が副反応が少ないという筋注誘導への思惑が見え隠れする表現が専門家の間でもありますが、これも科学的な根拠に乏しい気がします。いくつかの治験データを見る限り有意差を認める副反応の違いはないようです。むしろアジュバントの違いや有無、そして筋注の方が深いので発赤や腫脹は目立ちにくいのが当たり前で局所疼痛という炎症効果の点では差がないということから見ても大きな差がないと取るのが順当ではないでしょうか(皮下注筋注の副反応比較資料は下記①②③)。
(長文で申し上げ失礼しました。)
①2022年6月23日Hidemasa Kuwabara免疫学の専門家が初めて、筋注・皮下注とで免疫効果は違わない・・・ https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid025WQuzhedNw96r7YAx4gKEAAcF18LYjVozfsiLfTc2Q8rhdNsvErG8M9peYsfyLWgl?__cft__[0]=AZWmHUwiYlqH1-EZowhecj4HcLYUOwLKJeku-cEFCN-MG36R995QWvu3HQSUY77NrAdsdKpMIOxqtYOZPQoDz8IYeldmk7fdOHSQnRUOOB9xq1lGdm9-WXfqxIsHZStl6iI&__tn__=%2CO%2CP-R 。
②審査結果報告書平成21年9月8日医薬食品局審査管理課(沈降7価肺炎球菌結合型ワクチン)安全性について局所反応全身反応p51-53. https://www.pmda.go.jp/drugs/2009/P200900053/53039600_22100AMX02255_A100_1.pdf 。
③審議結果報告書 令和6年3月4日 医薬局医薬品審査管理課(沈降20価肺炎球菌結合型ワクチン)7.2 国内第Ⅲ相試験p16-20. https://www.pmda.go.jp/drugs/2024/P20240327001/672212000_30600AMX00115_A100_2.pdf 。
ーーーー以上です。
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COVID-19ワクチンによる極々稀なアナフィラキシー併発症等(ATAK-complex)について ― 2025年02月28日
アサブロ(facebookメモ)
COVID-19ワクチンによる極々稀なアナフィラキシー併発症等(ATAK-complex)について
アナフィラキシー治療の第一選択はアドレナリンであることは誰も異論はないと思うけれども、アドレナリン自体がアナフィラキシーを誘発する場合も極々稀ながらあり得るという。
言われてみればアレルギー治療薬の副腎皮質ホルモン自体でアレルギー/アナフィラキシーを稀に起こし得ることは専門医であれば既知のことであるので驚くことではないかもしれない(主に含有安定剤として含まれるパラベンに依ることが多いがコハク酸塩自体が誘発する場合もある)。アドレナリン製剤の添付文書を見ると亜硫酸水素ナトリウム 0.5mg/ampleを含有と確かにある(⑦)。
しかし、米国接触皮膚炎協会(学会)がアドレナリン製剤に含まれる亜硫酸塩をアレルゲン・オブ・ザ・イヤーに指定したとなると気にしない訳にはいかない。あらゆる日常品に含まれ無害とされている亜硫酸塩にも注意すべきとの注意喚起の意味と思う(①②③④)。ATAK-complexもあるよと言われても時間を争うアナフィラキシーならば対応に逡巡している余裕はないので取り敢えず迷わずアドレナリン注する以外に選択肢はない。そして単純に器械的にこうすれば完璧だなどというものはなく、担当Drの心の内は悩みながらも迅速対応して反応を見て次の一手に対処する以外にはないのである。
COVID-19ワクチンによる急死例の原因も極めて稀ながら複数あり(それでもCOVID-19罹患よりは余程少ない)その原因の一つにアナフィラキシーがあるけれど、鑑別し難いいくつかが併発することにも注意すべきとATAK-complexとも表現されているようだ。通常のアナフィアキシーだけでなくアドレナリン誘発やたこつぼ心筋炎やKounis症候群が併発することも有り得ると言われては治療実践する立場としては益々悩まざるを得ないわけですが、推定死亡時体温46℃程の超高熱が出る死因もありその場合はAKAK-complexでも説明できないので更に別疾患と思われる(⑤⑥)。自分にはその超過換気症候群のような発熱原因現象を伴う場合は悪性症候群しか思い当たらない(⑧⑨)。今でも自分はそう思っている。
(資料)
① Covid-19ワクチン接種後のATAK複合体・・(ATAK Complex (Adrenaline, Takotsubo, Anaphylaxis, and Kounis Hypersensitivity-Associated Coronary Syndrome) after COVID-19 Vaccination and Review of the Literature . Vaccines 2023, 11(2), 322; https://doi.org/10.3390/vaccines11020322 ) https://bibgraph.hpcr.jp/abst/pubmed/36851200 。
② 亜硫酸塩に関するファクトシート(内閣府食品安全委員会資料2012年2月2日) https://www.fsc.go.jp/fsciis/foodSafetyMaterial/show/syu03520110208#:~:text=%E4%BA%9C%E7%A1%AB%E9%85%B8%E5%A1%A9%E3%81%AF%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%8B,%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E7%B5%90%E8%AB%96%E4%BB%98%E3%81%91%E3%81%9F%E3%80%82 。
③ 亜硫酸塩:2024年米国接触皮膚炎協会アレルゲン・オブ・ザ・イヤー(Sulfites: The 2024 American Contact Dermatitis Society Allergen of the Year) https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39787305/ 。
④ アレルギー性心筋梗塞のジレンマ:それはアナフィラキシーかエピネフリンか?(The allergic myocardial infarction dilemma: is it the anaphylaxis or the epinephrine?) https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33544285/ 。
⑤ Four cases of cytokine storm after COVID-19 vaccination: Case report Front Immunol. 2022 Aug 15:13:967226. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36045681/ .。
⑥ コロナワクチン接種後死亡剖検例報告 大学病院医療情報ネットワークセンター https://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/nagao_masataka.html 。
<急死時の推定体温30~max46℃、これは通常のアナフィラキシーやKounis症候群では説明できない。>
⑦ 日本薬局方 アドレナリン注射液(ボスミン注1mgアンプル、第一三共kk)添付文書 https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00057227.pdf 。
<1アンプル中には亜硫酸水素ナトリウム 0.5mgを含有している。>
⑧ 愛西市ワクチン死亡の件 https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid031NzLc6LfbM2xpWSoMEG7KGmycCzeFkrGubosQDHv3AXQ4TqcHVWvHvfG7gxhJGnxl?__cft__[0]=AZX1HYN2kYpUlHUSD5_oP5tbaq7ARFoh_I2ZQBH7raJ5OCuGyH5QsdSk-jn5kXM0mOZXEqsBISO2V78kdm2wMLmhSr1IgPQn9SNMB8tBU__zMscw6NIJUFXY9JulmiDGaps0aHpS4xxTQFZk7jCa7uFYpUUdzQI_a3Alq0bLdN2nVw&__tn__=%2CO%2CP-R 。
⑨ オミクロン株BA.4/5ワクチン注射直後に急変した事例は悪性症候群? https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid02iE7SDPnmbH4RazBkpy2H1cYrDf61JtF3pU3GHd4quiJhmKxhhHBwcMxGhrM7P1tsl?__cft__[0]=AZWAgZ8D6zH4QErytUSC-JNldPj6pjPcDu7MBMo-mGYKEFFTrwjoCbr6jfD1wZ3uKnPO6Wtg079dYWI74is-oEKqh-uvpmcVa5cnVONix98y9pLU_ZDICuyGya3tLxgB4Ow&__tn__=%2CO%2CP-R 。
COVID-19ワクチンによる極々稀なアナフィラキシー併発症等(ATAK-complex)について
アナフィラキシー治療の第一選択はアドレナリンであることは誰も異論はないと思うけれども、アドレナリン自体がアナフィラキシーを誘発する場合も極々稀ながらあり得るという。
言われてみればアレルギー治療薬の副腎皮質ホルモン自体でアレルギー/アナフィラキシーを稀に起こし得ることは専門医であれば既知のことであるので驚くことではないかもしれない(主に含有安定剤として含まれるパラベンに依ることが多いがコハク酸塩自体が誘発する場合もある)。アドレナリン製剤の添付文書を見ると亜硫酸水素ナトリウム 0.5mg/ampleを含有と確かにある(⑦)。
しかし、米国接触皮膚炎協会(学会)がアドレナリン製剤に含まれる亜硫酸塩をアレルゲン・オブ・ザ・イヤーに指定したとなると気にしない訳にはいかない。あらゆる日常品に含まれ無害とされている亜硫酸塩にも注意すべきとの注意喚起の意味と思う(①②③④)。ATAK-complexもあるよと言われても時間を争うアナフィラキシーならば対応に逡巡している余裕はないので取り敢えず迷わずアドレナリン注する以外に選択肢はない。そして単純に器械的にこうすれば完璧だなどというものはなく、担当Drの心の内は悩みながらも迅速対応して反応を見て次の一手に対処する以外にはないのである。
COVID-19ワクチンによる急死例の原因も極めて稀ながら複数あり(それでもCOVID-19罹患よりは余程少ない)その原因の一つにアナフィラキシーがあるけれど、鑑別し難いいくつかが併発することにも注意すべきとATAK-complexとも表現されているようだ。通常のアナフィアキシーだけでなくアドレナリン誘発やたこつぼ心筋炎やKounis症候群が併発することも有り得ると言われては治療実践する立場としては益々悩まざるを得ないわけですが、推定死亡時体温46℃程の超高熱が出る死因もありその場合はAKAK-complexでも説明できないので更に別疾患と思われる(⑤⑥)。自分にはその超過換気症候群のような発熱原因現象を伴う場合は悪性症候群しか思い当たらない(⑧⑨)。今でも自分はそう思っている。
(資料)
① Covid-19ワクチン接種後のATAK複合体・・(ATAK Complex (Adrenaline, Takotsubo, Anaphylaxis, and Kounis Hypersensitivity-Associated Coronary Syndrome) after COVID-19 Vaccination and Review of the Literature . Vaccines 2023, 11(2), 322; https://doi.org/10.3390/vaccines11020322 ) https://bibgraph.hpcr.jp/abst/pubmed/36851200 。
② 亜硫酸塩に関するファクトシート(内閣府食品安全委員会資料2012年2月2日) https://www.fsc.go.jp/fsciis/foodSafetyMaterial/show/syu03520110208#:~:text=%E4%BA%9C%E7%A1%AB%E9%85%B8%E5%A1%A9%E3%81%AF%E5%AE%89%E5%85%A8%E3%81%8B,%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A8%E7%B5%90%E8%AB%96%E4%BB%98%E3%81%91%E3%81%9F%E3%80%82 。
③ 亜硫酸塩:2024年米国接触皮膚炎協会アレルゲン・オブ・ザ・イヤー(Sulfites: The 2024 American Contact Dermatitis Society Allergen of the Year) https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39787305/ 。
④ アレルギー性心筋梗塞のジレンマ:それはアナフィラキシーかエピネフリンか?(The allergic myocardial infarction dilemma: is it the anaphylaxis or the epinephrine?) https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/33544285/ 。
⑤ Four cases of cytokine storm after COVID-19 vaccination: Case report Front Immunol. 2022 Aug 15:13:967226. https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36045681/ .。
⑥ コロナワクチン接種後死亡剖検例報告 大学病院医療情報ネットワークセンター https://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/nagao_masataka.html 。
<急死時の推定体温30~max46℃、これは通常のアナフィラキシーやKounis症候群では説明できない。>
⑦ 日本薬局方 アドレナリン注射液(ボスミン注1mgアンプル、第一三共kk)添付文書 https://pins.japic.or.jp/pdf/newPINS/00057227.pdf 。
<1アンプル中には亜硫酸水素ナトリウム 0.5mgを含有している。>
⑧ 愛西市ワクチン死亡の件 https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid031NzLc6LfbM2xpWSoMEG7KGmycCzeFkrGubosQDHv3AXQ4TqcHVWvHvfG7gxhJGnxl?__cft__[0]=AZX1HYN2kYpUlHUSD5_oP5tbaq7ARFoh_I2ZQBH7raJ5OCuGyH5QsdSk-jn5kXM0mOZXEqsBISO2V78kdm2wMLmhSr1IgPQn9SNMB8tBU__zMscw6NIJUFXY9JulmiDGaps0aHpS4xxTQFZk7jCa7uFYpUUdzQI_a3Alq0bLdN2nVw&__tn__=%2CO%2CP-R 。
⑨ オミクロン株BA.4/5ワクチン注射直後に急変した事例は悪性症候群? https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid02iE7SDPnmbH4RazBkpy2H1cYrDf61JtF3pU3GHd4quiJhmKxhhHBwcMxGhrM7P1tsl?__cft__[0]=AZWAgZ8D6zH4QErytUSC-JNldPj6pjPcDu7MBMo-mGYKEFFTrwjoCbr6jfD1wZ3uKnPO6Wtg079dYWI74is-oEKqh-uvpmcVa5cnVONix98y9pLU_ZDICuyGya3tLxgB4Ow&__tn__=%2CO%2CP-R 。
スピリチュアルということ ― 2025年02月16日
スピリチュアルということ
今や不治の病ではなくなった癌もかつては不治の病でその苦痛を表現するときに身体的・精神的・社会的苦痛の他にスピリチュアルな苦痛があるとされた。心の癒しだけではない、生きがいの本質を探るその解決策として 樋野興夫先生の始めた癌哲学外来や松本文男先生が始めた傾聴療法士養成等の試みがある。この両者共にヒトのこころを引きつけるのはその神髄にスピチュアリティの視点があるからだと思っている。
日本人は「こころ」という一語に幅広い意味を包含させてある時は浅くある時はとてつもなく深いスピリチュアルまでを含む意味をしのばせて使い、かつその使い方で深さの違いをかぎ分ける能力を備えていると思う。
しかし欧米では従来よりmentalとspiritualは分けて使っているという。石丸昌彦氏はかつてアメリカ留学時の1995年に長男の入園した幼稚園の園長先生が「皆さんはこれからお子さんたちが4つの面で日毎に成長していくのを楽しまれることでしょう。4つの面での成長、即ちphysical、mental、social and spiritual developmentです。」と挨拶していたと述べている(NHKテキストこころをよむ2024年7月-9月号,第12回9月22日放送)。WHOでも1999年にヒトの健康の定義にspiritualも含めることが話合われほぼ決定する寸前での総会で統一見解が得られずに頓挫してしまった。決まらなかった背景には捉え方が様々で特に宗教的背景が見え隠れすることを嫌ったり宗教と混同されたり代替医療が横行する危惧等への不審があったゆえに採決に至らなかったというのがその理由ではないかともいう。スピリチュアルの定義を限定しようとする論考はWHOも含めて少なからずあるようであるが未だに成功しているとは思えない。
Frailが適当な訳語が決まらずフレイルになったようにspiritualも適当な日本語訳が決まらずスピリチュアルに決まった経緯があったがもともとスピチチュアルは多義的がその本質かもしれない(frailの日本語訳が決まらなかった理由は別にある)。しかし高校保健体育の教科書には「生きがい」と表現されているというし、Spiritual painは生きがいの喪失と捉える方もいる。樋野興夫先生の癌哲学外来はまさにその生きがい喪失を取り戻すことに視点を置いた実演面接をしていた。その「生きがい」自体は個人ごとに異なっても良いし宗教色の有無も問わない。
前記の樋野興夫先生や松本文男先生の見定める先にはこの生きがいを見つける手助けがあり、樋野先生は「偉大なおせっかい」と表現していた。松本先生は全てのヒトが潜在能力を持っていると100%信頼していた。このご両人についてはかつて普及初期の頃に自分の病院でも講演を何回かお願いしたり定期的に実演開催したりしていた。そのスピリチュアルの捉え方はヒト毎に異なりその心象風景はヴィトゲンシュタイン(L.Wittgenstein,1889-1951)が言うようにヒトの数だけある。
上記の所謂通俗的なスピリチュアルとは別の側面であるのように見えるスピリチュアルの、その入口へのヒントを与えてくれるかもしれない著書に出会った。
そう言う自分も担癌生体のまま今10年になれども予想を超えて今尚元気である。癌もまた様々なのである。
(資料)
①がん哲学外来とは https://gantetsugaku.org/aboutus/ 。 https://www.yuumi.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/booklet19.pdf 。 https://numata.hosp.go.jp/info/20160731.html 。
②傾聴療法士養成講座 NHK文化センター https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1245316.html 。
③WHO憲章における「健康」の定義の改正案のその後について(第52回WHO総会の結果)厚労省報道発表資料 https://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/1110/h1026-1_6.html 。
④スピリチュアリティ『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3 。
⑤スピリチュアル『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB 。
⑥スピリチュアリティとQOLの関係に関する理論的検討.真鍋顕久他著,名古屋女子大学紀要56(人・社)41〜52.2010. https://researchmap.jp/read0084617/published_papers/24440906 。
⑦『あの世とこの世の仕組み』三上直子著2021年 https://booklive.jp/product/index/title_id/1315836/vol_no/001 。
今や不治の病ではなくなった癌もかつては不治の病でその苦痛を表現するときに身体的・精神的・社会的苦痛の他にスピリチュアルな苦痛があるとされた。心の癒しだけではない、生きがいの本質を探るその解決策として 樋野興夫先生の始めた癌哲学外来や松本文男先生が始めた傾聴療法士養成等の試みがある。この両者共にヒトのこころを引きつけるのはその神髄にスピチュアリティの視点があるからだと思っている。
日本人は「こころ」という一語に幅広い意味を包含させてある時は浅くある時はとてつもなく深いスピリチュアルまでを含む意味をしのばせて使い、かつその使い方で深さの違いをかぎ分ける能力を備えていると思う。
しかし欧米では従来よりmentalとspiritualは分けて使っているという。石丸昌彦氏はかつてアメリカ留学時の1995年に長男の入園した幼稚園の園長先生が「皆さんはこれからお子さんたちが4つの面で日毎に成長していくのを楽しまれることでしょう。4つの面での成長、即ちphysical、mental、social and spiritual developmentです。」と挨拶していたと述べている(NHKテキストこころをよむ2024年7月-9月号,第12回9月22日放送)。WHOでも1999年にヒトの健康の定義にspiritualも含めることが話合われほぼ決定する寸前での総会で統一見解が得られずに頓挫してしまった。決まらなかった背景には捉え方が様々で特に宗教的背景が見え隠れすることを嫌ったり宗教と混同されたり代替医療が横行する危惧等への不審があったゆえに採決に至らなかったというのがその理由ではないかともいう。スピリチュアルの定義を限定しようとする論考はWHOも含めて少なからずあるようであるが未だに成功しているとは思えない。
Frailが適当な訳語が決まらずフレイルになったようにspiritualも適当な日本語訳が決まらずスピリチュアルに決まった経緯があったがもともとスピチチュアルは多義的がその本質かもしれない(frailの日本語訳が決まらなかった理由は別にある)。しかし高校保健体育の教科書には「生きがい」と表現されているというし、Spiritual painは生きがいの喪失と捉える方もいる。樋野興夫先生の癌哲学外来はまさにその生きがい喪失を取り戻すことに視点を置いた実演面接をしていた。その「生きがい」自体は個人ごとに異なっても良いし宗教色の有無も問わない。
前記の樋野興夫先生や松本文男先生の見定める先にはこの生きがいを見つける手助けがあり、樋野先生は「偉大なおせっかい」と表現していた。松本先生は全てのヒトが潜在能力を持っていると100%信頼していた。このご両人についてはかつて普及初期の頃に自分の病院でも講演を何回かお願いしたり定期的に実演開催したりしていた。そのスピリチュアルの捉え方はヒト毎に異なりその心象風景はヴィトゲンシュタイン(L.Wittgenstein,1889-1951)が言うようにヒトの数だけある。
上記の所謂通俗的なスピリチュアルとは別の側面であるのように見えるスピリチュアルの、その入口へのヒントを与えてくれるかもしれない著書に出会った。
そう言う自分も担癌生体のまま今10年になれども予想を超えて今尚元気である。癌もまた様々なのである。
(資料)
①がん哲学外来とは https://gantetsugaku.org/aboutus/ 。 https://www.yuumi.or.jp/wp-content/uploads/2022/06/booklet19.pdf 。 https://numata.hosp.go.jp/info/20160731.html 。
②傾聴療法士養成講座 NHK文化センター https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1245316.html 。
③WHO憲章における「健康」の定義の改正案のその後について(第52回WHO総会の結果)厚労省報道発表資料 https://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/1110/h1026-1_6.html 。
④スピリチュアリティ『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3 。
⑤スピリチュアル『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB 。
⑥スピリチュアリティとQOLの関係に関する理論的検討.真鍋顕久他著,名古屋女子大学紀要56(人・社)41〜52.2010. https://researchmap.jp/read0084617/published_papers/24440906 。
⑦『あの世とこの世の仕組み』三上直子著2021年 https://booklive.jp/product/index/title_id/1315836/vol_no/001 。
4年前の心を打つ不思議な短文 ― 2025年02月11日
4年前の心を打つ不思議な短文
もう4年前になるけれど折に触れ思い出し、何故その奥様は小生にあの時あの短文を手紙に添付してきたのだろうかと、今でも少しいぶかしくも不安にもなる文章だった。それとも生前患者さんから頂いたものなのだろうか。亡くなったご主人の机の中にあったという。そのDrは小生より5年先輩だった。そして添え書きもなく唐突に送ってくれたその奥様もDrだった。以下に忘備録として載せておく。
―――――――――――――――――――――――――
2021/3/11 facebook ある介護老人の短文ー心の吐露
長らく疎遠でありましたが最近足利でいとこが亡くなり、遺族からご報告のお手紙を頂き、下記の詠み人しらずの短文が同封されていましたが妙に胸に刺さりました。
高齢者の医療介護業務に従事する者は、この様なお心を皆が奥に秘めているかもしれないことを忘れてはならないと訴えているような、自らを戒めてくれる言葉ではないかと思い紹介致します。以下がその短文
――――――――――――――――――
君は老ひたる者の悲しみを知るまい。
歳老ひて生きつづけるとき
もはや 道化して過ごすしかないことを知るまい。
そして私も それを知らなかった。
思いもしないものによって
老人は 『老い』 という オリ につながれてゐる。
つなぐ側も つながれてゐる側も
つゆ それを知ることなく。
君は 老の悲しみを
知ってゐるか。
72歳女性 老人ホーム入所中 S.60年
――――――――――――――――――
ーー以上です。
もう4年前になるけれど折に触れ思い出し、何故その奥様は小生にあの時あの短文を手紙に添付してきたのだろうかと、今でも少しいぶかしくも不安にもなる文章だった。それとも生前患者さんから頂いたものなのだろうか。亡くなったご主人の机の中にあったという。そのDrは小生より5年先輩だった。そして添え書きもなく唐突に送ってくれたその奥様もDrだった。以下に忘備録として載せておく。
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2021/3/11 facebook ある介護老人の短文ー心の吐露
長らく疎遠でありましたが最近足利でいとこが亡くなり、遺族からご報告のお手紙を頂き、下記の詠み人しらずの短文が同封されていましたが妙に胸に刺さりました。
高齢者の医療介護業務に従事する者は、この様なお心を皆が奥に秘めているかもしれないことを忘れてはならないと訴えているような、自らを戒めてくれる言葉ではないかと思い紹介致します。以下がその短文
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君は老ひたる者の悲しみを知るまい。
歳老ひて生きつづけるとき
もはや 道化して過ごすしかないことを知るまい。
そして私も それを知らなかった。
思いもしないものによって
老人は 『老い』 という オリ につながれてゐる。
つなぐ側も つながれてゐる側も
つゆ それを知ることなく。
君は 老の悲しみを
知ってゐるか。
72歳女性 老人ホーム入所中 S.60年
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ーー以上です。
忘備録: 『トヨタ中国の怪物(豊田章男を社長にした男)』児玉博著2024年文芸春秋発行、を読んで ― 2025年02月07日
忘備録:
『トヨタ中国の怪物(豊田章男を社長にした男)』児玉博著2024年文芸春秋発行、を読んで
2009年8月に発生した米国のトヨタ車の高速走行中制御不能事故をきっかけに付随するリコール問題等も発生して様々な憶測も伴い、米国議会の公聴会での詰問等厳しいバッシングにもその豊田章男社長は晒されたが、丁寧に説明して見事その難局を乗り切ったその経過は見事、と心に残っていた人物であった。その豊田章男を社長にした男との副題に思わず目をとめて本を購入して読んだ。
中国の文化大革命は計り知れない程の多くの大切な遺産を失ったであろうというのは世界の誰もが認める事実であるが、その最中だけでなくその前も中国に生まれ育ち中国にて想像を絶する環境の中で生きて来て現代中国の建設初期から昭和45年に日本に戻るまで中国で暮らし生き抜き、昭和45年待望の日本に戻ってからは偶然トヨタ自動車に勤務して、今に至るまでの「服部悦雄」(1943年伊春市生れ―)の生きざまの記録であった。人目を惹く本の章分けとは別に貴重な個人の沿革史を通して現代中国の裏面史が描かれていて一気に読めた。
若い頃(20才台?)文革時代を描いた映画『芙蓉鎮』のビデオを友人の家で夜中に2人で見た。その時の印象は強烈で、中国人は何と忍耐強い人たちなのだろうと驚嘆した。そしてビデオが終わるまで互いに共に一言も発せず終わってから一言 “すげえ映画だったなー” と言い合って明け方近くに自分の家に帰って行ったことを今でも鮮明に覚えている。とてもまねできない程の忍耐強さという印象を持っていたが、この服部悦雄氏によれば、好死不如懶活(hǎosǐbùrúlàihuóきれいに死ぬよりも惨めに生きた方がましと言う意味と言う)が中国人の生きざまという。潔さを美徳とする日本人には到底まねできそうにないと感じていたが見方を変えれば好死不如懶活でもあるのかと妙に納得した。半世紀前にインド貧乏旅行をした頃は中国とインドは眠れる獅子と龍とも言われていたが今は両者ともに目覚めている。
人肉を食らわっても場合に依ったら生きることを選ぶという中国人のしぶとさは忘れてはならない史実かもしれない。その本の中にある『大飢饉の時代1958~1962年中国』(原題: The Great Famine in China,1958-1962 Edited by Zhou Xun 周遜, Date: 2012, Yale University Press、Pages: 256、 https://www.jstor.org/stable/j.ctt1nq1qr まだ日本語訳本はないようだ。)はいつか読みたいと思っている。
『トヨタ中国の怪物(豊田章男を社長にした男)』児玉博著2024年文芸春秋発行、を読んで
2009年8月に発生した米国のトヨタ車の高速走行中制御不能事故をきっかけに付随するリコール問題等も発生して様々な憶測も伴い、米国議会の公聴会での詰問等厳しいバッシングにもその豊田章男社長は晒されたが、丁寧に説明して見事その難局を乗り切ったその経過は見事、と心に残っていた人物であった。その豊田章男を社長にした男との副題に思わず目をとめて本を購入して読んだ。
中国の文化大革命は計り知れない程の多くの大切な遺産を失ったであろうというのは世界の誰もが認める事実であるが、その最中だけでなくその前も中国に生まれ育ち中国にて想像を絶する環境の中で生きて来て現代中国の建設初期から昭和45年に日本に戻るまで中国で暮らし生き抜き、昭和45年待望の日本に戻ってからは偶然トヨタ自動車に勤務して、今に至るまでの「服部悦雄」(1943年伊春市生れ―)の生きざまの記録であった。人目を惹く本の章分けとは別に貴重な個人の沿革史を通して現代中国の裏面史が描かれていて一気に読めた。
若い頃(20才台?)文革時代を描いた映画『芙蓉鎮』のビデオを友人の家で夜中に2人で見た。その時の印象は強烈で、中国人は何と忍耐強い人たちなのだろうと驚嘆した。そしてビデオが終わるまで互いに共に一言も発せず終わってから一言 “すげえ映画だったなー” と言い合って明け方近くに自分の家に帰って行ったことを今でも鮮明に覚えている。とてもまねできない程の忍耐強さという印象を持っていたが、この服部悦雄氏によれば、好死不如懶活(hǎosǐbùrúlàihuóきれいに死ぬよりも惨めに生きた方がましと言う意味と言う)が中国人の生きざまという。潔さを美徳とする日本人には到底まねできそうにないと感じていたが見方を変えれば好死不如懶活でもあるのかと妙に納得した。半世紀前にインド貧乏旅行をした頃は中国とインドは眠れる獅子と龍とも言われていたが今は両者ともに目覚めている。
人肉を食らわっても場合に依ったら生きることを選ぶという中国人のしぶとさは忘れてはならない史実かもしれない。その本の中にある『大飢饉の時代1958~1962年中国』(原題: The Great Famine in China,1958-1962 Edited by Zhou Xun 周遜, Date: 2012, Yale University Press、Pages: 256、 https://www.jstor.org/stable/j.ctt1nq1qr まだ日本語訳本はないようだ。)はいつか読みたいと思っている。
ビジョン・ビジョナリー 違い ― 2025年01月24日
ビジョナリー力を調べていて、改めて考えてみた
今度の大阪大学総長は人徳のある方がなったらしいと聞きかじり調べてみたら、何とその選考会議の議長があの大波から生還した村木厚子氏だったと知り更に興味がわき、勉強のためと思い選考理由をチェックしてみた。15の共通評価指標が載っていたが、その一部にビジョナリー力と言うのがあり、ビジョンと言わずにビジョナリー力と表現した理由を知りたくて調べてみた。
ビジョンは単純に将来構想又はあるべき姿、ビジョナリーは先見の明をもって先導することを意味して革新的な実行力も伴うというニュアンスを含むという。初めてその違いを知った。
ビジョナリーの由来は『ビジョナリーカンパニー』ジム・コリンズ著山岡洋一訳1995年発行(原著「Built to Last: Successful Habits of Visionary Companies」1994年)、の中で定義付けられて以来定着した言葉であると言いその本は今では不朽のビジネス書になって続編も多く出ていると言う。ビジョナリー力とはこういうものかと勉強になった。Oxford dictionaryではvisionaryは意味が12種類あると書いてあった。Visionは更に曖昧模糊として幅が広すぎるようだ。しかし自分にとってビジョンは思い入れの深い言葉である。なぜなら使命や理念や運営哲学よりも上位概念としておいた方が分かり易いと自分なりにこれまで捕えてきたからである。
組織のマネジメントではビジョン・哲学・使命・理念・基本方針・コンセプト・モットー・社是・信条・パーパス・クレド・ポリシー・スローガン・行動指針・行動姿勢・戦略・戦術等様々な言葉が使われていた。組織マネジメントに理念は必須と言われているが、ビジョンやミッション(使命)との関係をどう位置付けるかは使う人によって未だにバラバラのようだ。 自分の位置付けは下記であった。自分なりに七転八倒して得た考え方である。
・ビジョン(Vision) → 哲学を超えると思われる理性的な人間の道しるべ(但し広義過ぎて使い方で理念の一部とみる捉え方も含まれる。)
・哲学(Philosophy) → 理性的な人間としての生き方の道しるべ
・使命(ミッションMission) → その社会※から期待され求められるべき客観的役割
・理念(Management philosophy) → 家訓(family rules)と同じレベルで組織毎に異なるのが当たり前の組織の主観的役割 (善悪を超えた宗教やイデオロギーは理念の範疇に入ると最近は思っている)
・行動指針(Management philosophy) → 行動の向かう方向の道しるべ(結果の方向性を示すベクトル)
・行動姿勢(Policy) → 行動の道しるべ(経過のあるべき姿の行動ベクトル)
・戦略(Strategy) → 中長期目標
・戦術(Tactics) → 年度目標等短期目標
※拠って立つ座標が同じ(同じ土俵)でなければ咬み合わない。
※※理念が使命から外れていれば反社会的になるので理念は使命と調和していなければならない。簡略な理念(基本方針)の具体的説明として行動指針と行動姿勢を添え理念とする。離職する理由の大部分は仲間同士の不和なので、最近は「話し合いの3原則」も必要であると思っている。
参考:
① 大阪大学次期総長予定者の決定について2024.11.29 ※選考理由 https://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/topics/2024/11/29003 。
② 経営理念とは?実例から目的や作り方をわかりやすく解説(創業手帳)更新日:2024年3月29日 https://sogyotecho.jp/management-philosophy/ 。
③ ビジョン・戦略・戦術を理解することで成功へのステップが描ける2024 7/25(comodo) https://comodobiz.jp/2024/07/25/vision-strategy-2/ 。
④ 1000万部超の大ヒットは偶然の産物?『ビジョナリー・カンパニーZERO』(南龍太) https://www.flierinc.com/pickup/sp12 。
⑤1. ミッション基本編(事業計画情報) http://bplanhacks.com/mission/ 。
今度の大阪大学総長は人徳のある方がなったらしいと聞きかじり調べてみたら、何とその選考会議の議長があの大波から生還した村木厚子氏だったと知り更に興味がわき、勉強のためと思い選考理由をチェックしてみた。15の共通評価指標が載っていたが、その一部にビジョナリー力と言うのがあり、ビジョンと言わずにビジョナリー力と表現した理由を知りたくて調べてみた。
ビジョンは単純に将来構想又はあるべき姿、ビジョナリーは先見の明をもって先導することを意味して革新的な実行力も伴うというニュアンスを含むという。初めてその違いを知った。
ビジョナリーの由来は『ビジョナリーカンパニー』ジム・コリンズ著山岡洋一訳1995年発行(原著「Built to Last: Successful Habits of Visionary Companies」1994年)、の中で定義付けられて以来定着した言葉であると言いその本は今では不朽のビジネス書になって続編も多く出ていると言う。ビジョナリー力とはこういうものかと勉強になった。Oxford dictionaryではvisionaryは意味が12種類あると書いてあった。Visionは更に曖昧模糊として幅が広すぎるようだ。しかし自分にとってビジョンは思い入れの深い言葉である。なぜなら使命や理念や運営哲学よりも上位概念としておいた方が分かり易いと自分なりにこれまで捕えてきたからである。
組織のマネジメントではビジョン・哲学・使命・理念・基本方針・コンセプト・モットー・社是・信条・パーパス・クレド・ポリシー・スローガン・行動指針・行動姿勢・戦略・戦術等様々な言葉が使われていた。組織マネジメントに理念は必須と言われているが、ビジョンやミッション(使命)との関係をどう位置付けるかは使う人によって未だにバラバラのようだ。 自分の位置付けは下記であった。自分なりに七転八倒して得た考え方である。
・ビジョン(Vision) → 哲学を超えると思われる理性的な人間の道しるべ(但し広義過ぎて使い方で理念の一部とみる捉え方も含まれる。)
・哲学(Philosophy) → 理性的な人間としての生き方の道しるべ
・使命(ミッションMission) → その社会※から期待され求められるべき客観的役割
・理念(Management philosophy) → 家訓(family rules)と同じレベルで組織毎に異なるのが当たり前の組織の主観的役割 (善悪を超えた宗教やイデオロギーは理念の範疇に入ると最近は思っている)
・行動指針(Management philosophy) → 行動の向かう方向の道しるべ(結果の方向性を示すベクトル)
・行動姿勢(Policy) → 行動の道しるべ(経過のあるべき姿の行動ベクトル)
・戦略(Strategy) → 中長期目標
・戦術(Tactics) → 年度目標等短期目標
※拠って立つ座標が同じ(同じ土俵)でなければ咬み合わない。
※※理念が使命から外れていれば反社会的になるので理念は使命と調和していなければならない。簡略な理念(基本方針)の具体的説明として行動指針と行動姿勢を添え理念とする。離職する理由の大部分は仲間同士の不和なので、最近は「話し合いの3原則」も必要であると思っている。
参考:
① 大阪大学次期総長予定者の決定について2024.11.29 ※選考理由 https://www.osaka-u.ac.jp/ja/news/topics/2024/11/29003 。
② 経営理念とは?実例から目的や作り方をわかりやすく解説(創業手帳)更新日:2024年3月29日 https://sogyotecho.jp/management-philosophy/ 。
③ ビジョン・戦略・戦術を理解することで成功へのステップが描ける2024 7/25(comodo) https://comodobiz.jp/2024/07/25/vision-strategy-2/ 。
④ 1000万部超の大ヒットは偶然の産物?『ビジョナリー・カンパニーZERO』(南龍太) https://www.flierinc.com/pickup/sp12 。
⑤1. ミッション基本編(事業計画情報) http://bplanhacks.com/mission/ 。
高度先進医療と社会インフラとしての医療の違い ― 2024年12月25日
(facebookからのメモに追加した)
高度先進医療と社会インフラとしての医療の違い
新型コロナの惨事の時には早くから医療・介護が社会インフラとして途切れさせてはいけないものとしてその重要性を国が認識主導したのでその点では現場の我々当事者にとっては逃げる気持を払拭し背水の陣の覚悟を敷けたので良かったと思っている。そのうちの医療にはそもそも2種類ある。
一つは選択と集中の企業理念に通じる側面を持つ高度先進医療であり、もう一つは社会インフラとしての医療である。華やかな先端医療に比べて社会インフラの医療は地味である。しかしそれが無くなると社会自体が成り立たなくなるという点で大事な医療でもある。
医師の働き方改革が唱えられてもう10年以上たった(①)が状況は変わらず、今でも下記のようなDrがいるからこそ、社会インフラとしての医療は成り立っている。エールを送り秘かにありがとうと言いたい。
< 地域情報(県別)地域ニュース 【群馬】みどり市唯一の分娩施設、年500件の分娩実施‐星野正道・岩宿クリニック院長に聞く◆Vol.1 周産期医療崩壊の危機に、実家の隣の土地が売りに出て開業決断 2024年12月20日 (金)配信m3.com地域版 https://www.m3.com/news/kisokoza/1247364?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD241222&dcf_doctor=true&mc.l=1090921980 。>
――――――――――――――――――――――――――――――――
(以下は蛇足)
医師の働き方改革の始まりは梅村聡参議院議員が国会で医師も労働基準法を守るべきだと質問し、事もあろうに舛添要一厚労大臣が自分もそう思うと応答したのに始まったと思っている(②③)。たまたま当時それを見ていて “あーあ、とうとうパンドラの箱を開けてしまった” と居合わせた同僚と言ったのを覚えている。何と浅はかな(失礼)と思いながらも、もう後戻りはできないのは確かと複雑な感情に包まれたが現在に至るも未だに改革が成功したとはとても思えない。
企業も官も行政でさえも企業理念の選択と集中に浮かれていた頃でも、哲学者宇沢弘文氏は社会インフラとしての医療の大切さを理解できた数少ない有識者であった(④)。
(資料)
①厚生労働省ホーム > 政策について > 分野別の政策一覧 > 健康・医療 > 医療 > 医師の働き方改革 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/ishi-hatarakikata_34355.html 。
②第171回国会 参議院 厚生労働委員会 第8号 平成21年4月14日(発言No095梅村聡質問、096 舛添要一答弁) https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117114260X00820090414&spkNum=75¤t=5 。
③パンドラの箱を開けるのは今―宿直問題は国民的議論の入口にすぎません!梅村聡(参議院議員)2009/05/11 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/mric/200905/510465.html 。
④日本医師会 日医NEWS 第1012号(平成15年11月5日)オピニオン―各界有識者からの提言―ヒポクラテスの誓いと,社会的共通資本としての医療 宇沢弘文(日本学士院会員,東京大学名誉教授) https://www.med.or.jp/nichinews/n151105i.html 。
(以下追加分、時系列で其の他の関連事象を思いつくまま下記に列記してみた)
・1998年川崎協同病院事件がおきた。(しかし裁判では、本来の筋と混同され、裁判官の理解の限界が見えた事件であった)。
・1999年横浜市大附属病院患者取り違え事件(この頃より医師バッシングが始まった。今では診療援助の表現になったが当時はバイトと表現して厳禁と厳しく扱われ、まず麻酔科医確保が困難になって民間麻酔科医プールを持つ開業医からの派遣に頼る以外方法が無くなった。医師不足は麻酔医不足から始まっていたが、更に悪化し手術料収入が麻酔医手当で消えてしまうという珍現象が出現した時期でもあった。社会の専門医信仰故に手術には麻酔医が必須とされるようになっていた。それ以前は外科医が麻酔の研修もして麻酔医不足は目立たなかったが世情がそれを許さなくなった、専門医信仰の一端である。)。
・1999年東京都立広尾病院事件(最高裁が、医師法第21条の検案を「死体の外表を検査すること」との限定解釈を出した。以後これが法律上の異状死体の医師届出義務の定義となったが、実際の自治体の指導では毎年更新している厚労省死亡診断書記入マニュアルに基づき病死自然死以外はすべて外因死として警察への届出は今尚変わらず、現在でも相変わらず義務付けている。要するにH27年の医療事故報告制度施行後も肝心の問題は何も解決していないのである)。
・2002年~、ナンバー講座制から臓器別講座制へ(一人の患者が臓器別診療科に受診して回る専門医信仰の始まりで複合疾患が当たり前の患者にとっては個人医療費も倍増しても不満は出ていないしむしろ複数科受診を希望さえしている。内科も内科と言う科は無くなったと一部で揶揄されるようになった。2018年新専門医制度で正式に総合診療科が基本領域として設置されたが2024年の現在もそれは未だに定着していない。抑々病気を見て病人を見ないとの悪弊はそれ以前より既に医療界では戒められていたが公認されてしまうようになった)。
・2003年横浜市堀病院事件(警察の横暴と医師側からの反発が起きて、大きな社会問題になったが警察の捜査課長も厚労省看護課長も看護協会もルール通りと嘯き木で鼻を括る応答をしたのみであり、その後通知で条件付き許可は出たが既に遅しで以後お産難民が各地で発生するようになった)。
・2004年福島県立大野病院事件。(社会的医療と純粋医学的医療の判断は分ける必要があると自覚の有無に係りなく医師が実感するようになる頃でもあった。その医師の無罪判決が出たのは4年後であった。亡くなった妊婦に対して良かれと思って書いた県による公費出費理由が警察介入逮捕のきっかけになったと記憶している。)
・2004年~この頃より企業理念の「選択と集中」が国の政策にも取り入れられてきた。これは企業にこそ必要な理念と思われたが、何故か官と行政が社会インフラの医療システムにまで取り入れるようになって医療界も大きな流れに飲み込まれていった。例えば行政と大学が産科医や小児科医を僻地から引き剥がし中央に集めたこともあった。当然周辺小病院には医師がいなくなる。医師を初め医療資源が限られる中で医師余り・看護師余りの共通概念が逆回転し始めて不足に転じた頃でもあり、引き続く2006年の7:1導入は一気に看護師不足に拍車をかけた。それまでの医師抑制策が増加策に逆転したのも2008年だった。
・2006年 射水市民病院事件。(この事件以後、救急蘇生の現場が変わった。個人的には一時的にでも人工呼吸器を取り付けるべきではないかと思われる症例でさえ一旦装着すれば外せなくなるとして救急現場等で躊躇するようになったのである)
・2006年『医療崩壊: 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』小松秀樹著が発刊された。(これがベストセラーとなる。世の中には優秀な人がいるものだと上手い表現に感心する中で、でも話せば分かるはずと自分は苦闘している中でこんなことでは医療が成り立たないと本省の訟務専門官にも聞きに言ったが全く得るものが無かった頃である)
・2006年の診療報酬改定で7対1看護体制が導入された。(当時の本省の看護課長自身があまりにも大きい影響にたじろいだが、厚労省から取り消されることなく条件を厳しくしながら今もなお存続している(国は一旦決めると戻せないという無謬主義の典型例であった)。当時東大病院が全国看護学校行脚をして一気に300人看護師採用したのはあまりにも有名である。当然ながら地方の病院の看護師余りはその年に一気に著明不足に逆転した。診療報酬上の7:1看護の発想の原点を遡ると『にわか役人奮闘記』を書き看護師余りの将来予測を先取りした久常節子元本省看護課長だった。)
・2006年8月奈良県大淀病院事件(32才妊婦たらい回し事件、脳出血で死亡。)
・2007年8月同じく奈良県たらい回し事件(今度は38才妊婦で救急車からの救急要請16回の末に死産、奈良県立医大病院は空きベッドがあったのに断ったとマスコミによる医療バッシングが行われ、その過程で全国の産科救急の過酷な実態が明らかになった。この年には11月にも札幌未熟児たらい回し事件が報道された。
しかしこの頃より逆にたらい回しが当たり前になり社会も専門医がいないのだからと容認に逆転してきた頃でもある。たらい回しこそ避けるべきであるとのそれまでの医師(医療界)の常識が、世間の専門医信仰と相まって覆されるようになったのである。萎縮医療・小間切れ医療を患者側も医療側も容認するようになった頃でもある。以来今に至るまで救急たらい回しがあっても世間もマスコミも専門医がいないので当たり前と受け入れている珍現象の不思議が続いている。)
・2007年日本学術会議が「公開シンポジウム「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」」を開催。(既に医療崩壊は生じていたのであるが、日本の有識者は何を考えているのかと思いつめ清水の舞台から飛び降りる位の覚悟で六本木に行ったが有識者のレベルはこんな程度のものだったのかとがっかりして帰った。以来日本学術会議には不信を持っている。)
・2007年12月28日厚労省通知が出る<医師及び医療関係職と事務職員等との間等での役割分担の推進について(通知)医政発第1228001号平成19年12月28日>。(よし、これで明日からは世の中が良い方に変わると希望を抱いた通知であったが、変わる兆しはその後も全く見えなかった。世の動きとはこういうものなのかとがっかりした出来事だった)。
・2008年 それまで医療費亡国論から始まり引き続く小泉内閣等の医師数抑制策が一転、舛添厚労大臣主導で医師増加策に逆転した。
・2008年専門医信仰の始まり(日本専門医制評価・認定機構が出来る)。(臓器別講座制が導入される以前より医師の役割は専門馬鹿になってはいけないと自浄作用が働いていたが、臓器別講座制が始まり社会的にも専門医信仰が助長されるようになり、縦割り専門医の弊害も既に指摘されているにも係らず現実は逆行しており、その後2018年に正式に総合診療科も創設されたが6年経っても旧態依然のままで細切れ医療が当たり前の世情になり現在に至っている)
・2008年都立墨東病院事件。(36才妊婦が脳出血で死亡、赤ちゃん無事、たらい回しの末に死亡したとマスコミによる病院バッシングがあったが気丈にも夫は「病院にはお世話になった、誰も責めるつもりはない、担当医は辞めないでいて欲しい」といったという。現場医療者にはせめてもの慰めにはなったと思われる。)
・2009年3月東京の恩賜財団愛育病院が労基署の指導を受け、それでは病院運営が遂行できないとして総合周産期母子医療センターの認定を返上した。
・2009年4月14日、国会質問に対して舛添厚労大臣が医師働き方改革の必要性に同意して労働基準法を守るべきと答弁して自らパンドラの箱を開けた。前年の2008年に舛添大臣によって医師増員に急転するまでは長らく医師余り看護師余りが疑うことなく予測されていて医学部定員制限や看護学校統廃合が実際行われていたのである。このパンドラの箱が開けられてからは更に医師不足・看護師不足の世相は専門医信仰と相まって坂道を転げ落ちるように一変して行った。今もなお混沌の状況から抜け出せてはいない。
高度先進医療と社会インフラとしての医療の違い
新型コロナの惨事の時には早くから医療・介護が社会インフラとして途切れさせてはいけないものとしてその重要性を国が認識主導したのでその点では現場の我々当事者にとっては逃げる気持を払拭し背水の陣の覚悟を敷けたので良かったと思っている。そのうちの医療にはそもそも2種類ある。
一つは選択と集中の企業理念に通じる側面を持つ高度先進医療であり、もう一つは社会インフラとしての医療である。華やかな先端医療に比べて社会インフラの医療は地味である。しかしそれが無くなると社会自体が成り立たなくなるという点で大事な医療でもある。
医師の働き方改革が唱えられてもう10年以上たった(①)が状況は変わらず、今でも下記のようなDrがいるからこそ、社会インフラとしての医療は成り立っている。エールを送り秘かにありがとうと言いたい。
< 地域情報(県別)地域ニュース 【群馬】みどり市唯一の分娩施設、年500件の分娩実施‐星野正道・岩宿クリニック院長に聞く◆Vol.1 周産期医療崩壊の危機に、実家の隣の土地が売りに出て開業決断 2024年12月20日 (金)配信m3.com地域版 https://www.m3.com/news/kisokoza/1247364?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD241222&dcf_doctor=true&mc.l=1090921980 。>
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(以下は蛇足)
医師の働き方改革の始まりは梅村聡参議院議員が国会で医師も労働基準法を守るべきだと質問し、事もあろうに舛添要一厚労大臣が自分もそう思うと応答したのに始まったと思っている(②③)。たまたま当時それを見ていて “あーあ、とうとうパンドラの箱を開けてしまった” と居合わせた同僚と言ったのを覚えている。何と浅はかな(失礼)と思いながらも、もう後戻りはできないのは確かと複雑な感情に包まれたが現在に至るも未だに改革が成功したとはとても思えない。
企業も官も行政でさえも企業理念の選択と集中に浮かれていた頃でも、哲学者宇沢弘文氏は社会インフラとしての医療の大切さを理解できた数少ない有識者であった(④)。
(資料)
①厚生労働省ホーム > 政策について > 分野別の政策一覧 > 健康・医療 > 医療 > 医師の働き方改革 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/ishi-hatarakikata_34355.html 。
②第171回国会 参議院 厚生労働委員会 第8号 平成21年4月14日(発言No095梅村聡質問、096 舛添要一答弁) https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117114260X00820090414&spkNum=75¤t=5 。
③パンドラの箱を開けるのは今―宿直問題は国民的議論の入口にすぎません!梅村聡(参議院議員)2009/05/11 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/mric/200905/510465.html 。
④日本医師会 日医NEWS 第1012号(平成15年11月5日)オピニオン―各界有識者からの提言―ヒポクラテスの誓いと,社会的共通資本としての医療 宇沢弘文(日本学士院会員,東京大学名誉教授) https://www.med.or.jp/nichinews/n151105i.html 。
(以下追加分、時系列で其の他の関連事象を思いつくまま下記に列記してみた)
・1998年川崎協同病院事件がおきた。(しかし裁判では、本来の筋と混同され、裁判官の理解の限界が見えた事件であった)。
・1999年横浜市大附属病院患者取り違え事件(この頃より医師バッシングが始まった。今では診療援助の表現になったが当時はバイトと表現して厳禁と厳しく扱われ、まず麻酔科医確保が困難になって民間麻酔科医プールを持つ開業医からの派遣に頼る以外方法が無くなった。医師不足は麻酔医不足から始まっていたが、更に悪化し手術料収入が麻酔医手当で消えてしまうという珍現象が出現した時期でもあった。社会の専門医信仰故に手術には麻酔医が必須とされるようになっていた。それ以前は外科医が麻酔の研修もして麻酔医不足は目立たなかったが世情がそれを許さなくなった、専門医信仰の一端である。)。
・1999年東京都立広尾病院事件(最高裁が、医師法第21条の検案を「死体の外表を検査すること」との限定解釈を出した。以後これが法律上の異状死体の医師届出義務の定義となったが、実際の自治体の指導では毎年更新している厚労省死亡診断書記入マニュアルに基づき病死自然死以外はすべて外因死として警察への届出は今尚変わらず、現在でも相変わらず義務付けている。要するにH27年の医療事故報告制度施行後も肝心の問題は何も解決していないのである)。
・2002年~、ナンバー講座制から臓器別講座制へ(一人の患者が臓器別診療科に受診して回る専門医信仰の始まりで複合疾患が当たり前の患者にとっては個人医療費も倍増しても不満は出ていないしむしろ複数科受診を希望さえしている。内科も内科と言う科は無くなったと一部で揶揄されるようになった。2018年新専門医制度で正式に総合診療科が基本領域として設置されたが2024年の現在もそれは未だに定着していない。抑々病気を見て病人を見ないとの悪弊はそれ以前より既に医療界では戒められていたが公認されてしまうようになった)。
・2003年横浜市堀病院事件(警察の横暴と医師側からの反発が起きて、大きな社会問題になったが警察の捜査課長も厚労省看護課長も看護協会もルール通りと嘯き木で鼻を括る応答をしたのみであり、その後通知で条件付き許可は出たが既に遅しで以後お産難民が各地で発生するようになった)。
・2004年福島県立大野病院事件。(社会的医療と純粋医学的医療の判断は分ける必要があると自覚の有無に係りなく医師が実感するようになる頃でもあった。その医師の無罪判決が出たのは4年後であった。亡くなった妊婦に対して良かれと思って書いた県による公費出費理由が警察介入逮捕のきっかけになったと記憶している。)
・2004年~この頃より企業理念の「選択と集中」が国の政策にも取り入れられてきた。これは企業にこそ必要な理念と思われたが、何故か官と行政が社会インフラの医療システムにまで取り入れるようになって医療界も大きな流れに飲み込まれていった。例えば行政と大学が産科医や小児科医を僻地から引き剥がし中央に集めたこともあった。当然周辺小病院には医師がいなくなる。医師を初め医療資源が限られる中で医師余り・看護師余りの共通概念が逆回転し始めて不足に転じた頃でもあり、引き続く2006年の7:1導入は一気に看護師不足に拍車をかけた。それまでの医師抑制策が増加策に逆転したのも2008年だった。
・2006年 射水市民病院事件。(この事件以後、救急蘇生の現場が変わった。個人的には一時的にでも人工呼吸器を取り付けるべきではないかと思われる症例でさえ一旦装着すれば外せなくなるとして救急現場等で躊躇するようになったのである)
・2006年『医療崩壊: 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』小松秀樹著が発刊された。(これがベストセラーとなる。世の中には優秀な人がいるものだと上手い表現に感心する中で、でも話せば分かるはずと自分は苦闘している中でこんなことでは医療が成り立たないと本省の訟務専門官にも聞きに言ったが全く得るものが無かった頃である)
・2006年の診療報酬改定で7対1看護体制が導入された。(当時の本省の看護課長自身があまりにも大きい影響にたじろいだが、厚労省から取り消されることなく条件を厳しくしながら今もなお存続している(国は一旦決めると戻せないという無謬主義の典型例であった)。当時東大病院が全国看護学校行脚をして一気に300人看護師採用したのはあまりにも有名である。当然ながら地方の病院の看護師余りはその年に一気に著明不足に逆転した。診療報酬上の7:1看護の発想の原点を遡ると『にわか役人奮闘記』を書き看護師余りの将来予測を先取りした久常節子元本省看護課長だった。)
・2006年8月奈良県大淀病院事件(32才妊婦たらい回し事件、脳出血で死亡。)
・2007年8月同じく奈良県たらい回し事件(今度は38才妊婦で救急車からの救急要請16回の末に死産、奈良県立医大病院は空きベッドがあったのに断ったとマスコミによる医療バッシングが行われ、その過程で全国の産科救急の過酷な実態が明らかになった。この年には11月にも札幌未熟児たらい回し事件が報道された。
しかしこの頃より逆にたらい回しが当たり前になり社会も専門医がいないのだからと容認に逆転してきた頃でもある。たらい回しこそ避けるべきであるとのそれまでの医師(医療界)の常識が、世間の専門医信仰と相まって覆されるようになったのである。萎縮医療・小間切れ医療を患者側も医療側も容認するようになった頃でもある。以来今に至るまで救急たらい回しがあっても世間もマスコミも専門医がいないので当たり前と受け入れている珍現象の不思議が続いている。)
・2007年日本学術会議が「公開シンポジウム「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」」を開催。(既に医療崩壊は生じていたのであるが、日本の有識者は何を考えているのかと思いつめ清水の舞台から飛び降りる位の覚悟で六本木に行ったが有識者のレベルはこんな程度のものだったのかとがっかりして帰った。以来日本学術会議には不信を持っている。)
・2007年12月28日厚労省通知が出る<医師及び医療関係職と事務職員等との間等での役割分担の推進について(通知)医政発第1228001号平成19年12月28日>。(よし、これで明日からは世の中が良い方に変わると希望を抱いた通知であったが、変わる兆しはその後も全く見えなかった。世の動きとはこういうものなのかとがっかりした出来事だった)。
・2008年 それまで医療費亡国論から始まり引き続く小泉内閣等の医師数抑制策が一転、舛添厚労大臣主導で医師増加策に逆転した。
・2008年専門医信仰の始まり(日本専門医制評価・認定機構が出来る)。(臓器別講座制が導入される以前より医師の役割は専門馬鹿になってはいけないと自浄作用が働いていたが、臓器別講座制が始まり社会的にも専門医信仰が助長されるようになり、縦割り専門医の弊害も既に指摘されているにも係らず現実は逆行しており、その後2018年に正式に総合診療科も創設されたが6年経っても旧態依然のままで細切れ医療が当たり前の世情になり現在に至っている)
・2008年都立墨東病院事件。(36才妊婦が脳出血で死亡、赤ちゃん無事、たらい回しの末に死亡したとマスコミによる病院バッシングがあったが気丈にも夫は「病院にはお世話になった、誰も責めるつもりはない、担当医は辞めないでいて欲しい」といったという。現場医療者にはせめてもの慰めにはなったと思われる。)
・2009年3月東京の恩賜財団愛育病院が労基署の指導を受け、それでは病院運営が遂行できないとして総合周産期母子医療センターの認定を返上した。
・2009年4月14日、国会質問に対して舛添厚労大臣が医師働き方改革の必要性に同意して労働基準法を守るべきと答弁して自らパンドラの箱を開けた。前年の2008年に舛添大臣によって医師増員に急転するまでは長らく医師余り看護師余りが疑うことなく予測されていて医学部定員制限や看護学校統廃合が実際行われていたのである。このパンドラの箱が開けられてからは更に医師不足・看護師不足の世相は専門医信仰と相まって坂道を転げ落ちるように一変して行った。今もなお混沌の状況から抜け出せてはいない。
戦争の理不尽さ、むごさ、人間の非情さ等を示す貴重なドキュメンタリー ― 2024年12月06日
戦争の理不尽さ、むごさ、人間の非情さ等を示す貴重なドキュメンタリーと思い、この3つのドキュメンタリーは後で見直し調べようと思いメモしておいたものだが、手を付けられなそうなのでここにメモしておく。
①は、終戦後にホロコ-ストで亡くなった遺体の海をドイツ婦人や少女たちに掘り起こさせて腐った人間のぬるぬるした所にうつ伏せに横たわらせて腐敗した地獄のような場所にドイツ人女性たちに顔を押し込ませて腐った人間の体の一部が口や鼻の中に入り込ませた等は報復としても地獄以上で想像もつかない、でもそれが起きていたという。
日本でも前九年の役の1062年に安倍氏に寝返った藤原経清を源頼義が苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首したとか戦国時代では城の周りに敵の首を何千とさらし首にしたとか明治維新の時でさえ刀が汚れると尻から竹槍を差し込んで殺したとか残忍さには事欠かないが、これはまた別の次元の残忍さであると思った。
②は、敗戦処理にフィリピンへ向かう使節を阻止しようと厚木航空隊の反乱軍がいて命の危険がある中で幸いにも役割を遂行出来たこと、その他いくつかの危機一髪で回避できたために、今の平和な日本がある事を知った。この本は買ったがまだ読んでない。
③は、①とは別の意味でむごく悲惨、人間の非情であるのを垣間見る。死んだ方がましだとはこういうことを言うのだろうかと教えてくれる気がした。
以下3つのドキュメンタリー:
① ふたつの敗戦国 ドイツ さまよえる人々初回放送日:2024年10月28日 NHKテレビ映像の世紀バタフライエフェクト https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/1KVY3KLGK2/ 。
② 昭和の選択 敗戦国日本の決断 マッカーサー「直接軍政」の危機 https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/4MJW61938G/ 。
③ (NHKクローズアップ現代)2024年8月28日(水)終わらない戦争(2) “生きていることが疎ましい” 知られざる戦渦の中絶 https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4933/ 。
①は、終戦後にホロコ-ストで亡くなった遺体の海をドイツ婦人や少女たちに掘り起こさせて腐った人間のぬるぬるした所にうつ伏せに横たわらせて腐敗した地獄のような場所にドイツ人女性たちに顔を押し込ませて腐った人間の体の一部が口や鼻の中に入り込ませた等は報復としても地獄以上で想像もつかない、でもそれが起きていたという。
日本でも前九年の役の1062年に安倍氏に寝返った藤原経清を源頼義が苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸挽きによって斬首したとか戦国時代では城の周りに敵の首を何千とさらし首にしたとか明治維新の時でさえ刀が汚れると尻から竹槍を差し込んで殺したとか残忍さには事欠かないが、これはまた別の次元の残忍さであると思った。
②は、敗戦処理にフィリピンへ向かう使節を阻止しようと厚木航空隊の反乱軍がいて命の危険がある中で幸いにも役割を遂行出来たこと、その他いくつかの危機一髪で回避できたために、今の平和な日本がある事を知った。この本は買ったがまだ読んでない。
③は、①とは別の意味でむごく悲惨、人間の非情であるのを垣間見る。死んだ方がましだとはこういうことを言うのだろうかと教えてくれる気がした。
以下3つのドキュメンタリー:
① ふたつの敗戦国 ドイツ さまよえる人々初回放送日:2024年10月28日 NHKテレビ映像の世紀バタフライエフェクト https://www.nhk.jp/p/butterfly/ts/9N81M92LXV/episode/te/1KVY3KLGK2/ 。
② 昭和の選択 敗戦国日本の決断 マッカーサー「直接軍政」の危機 https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/4MJW61938G/ 。
③ (NHKクローズアップ現代)2024年8月28日(水)終わらない戦争(2) “生きていることが疎ましい” 知られざる戦渦の中絶 https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4933/ 。
手術で救える病院と救えない病院の違いとは? ― 2024年12月06日
(詳しく調べようと思いながらそのままにしていた下記をメモ代わりにアサブロに載せておく)
手術で救える病院と救えない病院の違いとは?
(手術で救える病院と救えない病院の違いとは? 消化器外科のFTR率に焦点を当てた日本の研究から 2024年07月26日 https://medical-tribune.co.jp/rensai/2024/0726563759/ 。)
この情報は全ての専門医からは反論が出そうな論文であるがそんなことをよく言ったものだと拍手を送りたいと思う一方、詳しく調べようと思ってもいながら放置したままになっていたものである。
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今の世の中の医療はEBMに基づく考え方が正当なものだと捉えられている。しかしEBMとされる根拠の大部分は疫学的な論法によるものが殆どである。従ってその場合は統計学的には正しいとしても個々人の医療にそのまま当てはめようとする場合は落とし穴が存在するので注意せよということでもある。現場の医療はそれをわきまえた上で個々に適正な医療を行わなければならないのは周知の事である。
手術の腕も同様に術数件数が多ければ多い程手術成績も向上する、だから集約化すべきだとの方針で医療体制も構築されてきた。即ちある手術で100人行った医師と10人行った医師の腕を比べた場合100人行った医師の方が腕が上がる、との捉え方が正しいとされる。これは統計学的には正しいかもしれないが個々の医師に当てはめた場合は1例1例に込めた内容によっては10例行った医師の方が腕が良い場合もあるということでもある。
この論文の結論は、手術成績が良好な理由は大病院だからではなく、学会認定の有無でもなく、多職種がカンファレンスに参加しているからでもなかった。これまで大病院の方が成績が良いとか手術数が多い方が成績が良いとか、表面的に捉えられた理由のみが付けられて説明され、しかも実際それで医療政策も組み立てられてきた感があった。
今回の論文は、その考え方から、一歩踏み込んで、深く掘り下げられた論文である。しかもこの論文は日本の大学から提出されたものである。現在の日本の政策の流れに待ったをかけるような重要なデータではないかとも思った。この論文を論評したこの著者も立派である、そうも思った。
見方を変えれば、医療事故を専門医が行っても上手く行かなかったのだから仕方ないという専門故の単純な免罪符にしていけないということでもあり、常に専門でも非専門でも気になる点があれば常に検証が欠かせないということでもある。
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さらに話を広げれば報告すべき医療事故とは何ぞや、と言うことにも係る問題でもある。この論争は法医学会ガイドラインがH6年に発表されて以来H27年に一段落して医療事故調査制度が出来るまで喧々諤々と続いたのを覚えている。
医療過誤のない医療事故もあるし、知識や腕が未熟故の医療事故もあり得るし、どんなに腕が良くても100%上手く行くとは限らないし、これが医療である。あってはならないが有り得る宿命を背負っているという意味で航空機事故と医療事故は似ていると言われてきた。そのために医療事故に対しては責任追及よりも再発防止が優先される。これは理屈上は万人が認めることでもある。しかし現実の行政上運用になると立場立場で齟齬が生じてしまう。総論賛成・各論反対である。
医療に限らないことではあるが、犯罪性があればそれ相当のペナルティを個人に与えられるべきなのは当たり前である。しかし必要以上に医師個人への責任追及を行えばそれに対抗する防衛医療・萎縮医療に傾くのもこれまた当たり前のことである。そして防衛医療に傾けば傾くほど本来なら助けられるべき命も助けられなくなるということもこれまた当たり前の流れである。例えば90%助けられないとしても10%の可能性があれば手を出すかどうかはその防衛医療のレベルに依存する、勿論医師の独断ではなく本人や家族とのI.C.の上での場合である。
自分はかつて大手術を経験して幸い未だに生きているが、今の責任追及が厳しい時代で防衛医療・萎縮医療の中であればおそらく手術そのものの適応がないと諦められていた病気であった。そういう意味で危険を承知で手術して下さったDrには感謝しているし術前に駄目だったらそのまま閉じると言われてもそれは仕方ないと完全に俎上の鯉になることが出来ていたし複数の幸運が重なって今がある、と今でも思っている。
そもそも今の医療事故の報告制度・調査制度は21年以上前からの様々な議論の末にできたが、このH27年に出来た今の制度のその後の実態は却ってそれ以前より悪化ないし退歩していると最近は思っている。詳しく検討すべき責任の判断が各病院の院長に委ねられるようになったがその検証がなされていないと感ずる事例が複数でてきているからである。これは院長の責任と言うよりも係る担当行政者が院長の役割(予想できなかったとする根拠の施行規則3条件を確認していること)の実のある研修を怠っているからではないかと思っている。ましてや大学からの天下り院長など余程勉強しなければ理解の外で或るのが当たり前であるから院長個人にのみ責任を負わせるのは酷である。医師不足・医療崩壊を経てきたためか最近はマスコミも医療崩壊の過去に遠慮してか回りくどい言い方しかしていない。
新型コロナワクチン後の突然死の原因は複数あるが原因究明の解剖もしないと逆に遺族から訴えられている事例が2例あったし、名古屋セントラル病院の心カテ事例も然りである。これらが自然死で処理できるわけがない。先に記した如く医療事故は航空機事故に似てあってはならないけれども残念ながら有り得るという宿命を背負っているという意味で、医療事故もワクチン副反応も同じで責任追及ではなく再発防止こそが本質であるべきである。それが自然死扱いでは本末転倒である。その都度の検証と責任追及ではなく再発防止への途切れない努力とはとても言えない。
H6(1994)年異状死は何でも警察に届け出るようにとの日本法医学会異状死ガイドラインが発表された同じ頃多くの他学会からも賛成の意をもって同様のガイドラインが次々と発表されたがまもなく少なからぬ問題が内蔵されていることが解り、法医学会ガイドラインを除くすべての学会のガイドラインが取り下げられ法医学会ガイドラインのみ残存する中で、それ以来多くの議論が喧々諤々なされてきた。
厚労省見解が医師法21条は異状死ではなく異状死体を指すとの見解を出し一時は日本医師会初めとした多くの団体は矛を収めたと思われたが、厚労省が毎年更新している死亡診断書マニュアルの法医学会のガイドラインを参考にする様にとの数行の項目がH27年度版で削除されるまでは問題がなおくすぶっていた。
またH27年になりようやく医療法(法律)、その施行規則(省令)さらにその通知が出され(②)、医療事故調査制度が新たな出発を迎えて、問題は解消するかに思われた。しかしそれから今、はやくも9年経ったが最近感ずることは、医療事故報告もその調査の制度も返って改悪されてしまっているという印象を持つようになった。報告されるべきであろうと思われるものも報告されなくなり、厚労省の死亡診断書記入マニュアルは旧態依然で自然死以外は外因死(異状死)として警察が届出先になっているのである。報告先は第3者機関であるべきだとすべての関連団体がしていたにも係らずであるが、行政上は旧態依然として警察が届け先の変更はされていない。厚労省の死亡診断書記入マニュアルでは病死か自然死以外は外因死(事実上異状死)として警察に届出ることとの行政指導も実際している。之は旧態依然として変わっていないことを示している。即ち今は異状死(外因死)の届出は旧態依然の警察への届出と医療機能調査機構への届出との双方に届けなければならなくなっていて、手間が増えただけである。
現場のDrや病院管理者の気持ちを思うと異状死判断をして煩わしい手続きをしたくないのは分からないではないが、極めて稀な新型コロナワクチンの急死例が異状死でなく原因究明も不要とはとても思えない。
① 医療事故調査制度について 厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000061201.html 。
② 厚生労働省通知(医政発0508第1号平成27年5月8日) https://www.hospital.or.jp/pdf/15_20150508_01.pdf 。
③ 長文で失礼します。(愛西市ワクチン死亡の件)2024/6/3 facebook https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid0wdYjhJk6mkFB5LD3M3andEB2wxcSE3BEc3BzSXprhTDtSgxZG782kfp5bekEGHKEl?__cft__[0]=AZW76nxIXPrziaphFcTDygQzEA9dQd7cspueCqVO_0TWOFe6Cpx27F6mof3bez6i6ZFJF9TC9nlrn-FEt-Q5f6-jghphxFzlVDws_0thLX4kvU3TszeewCgnf8zxyyoUwsSLhknX_SyT5CSjkN7uUcrvEa9w2O1la79XwMppbwZUtA&__tn__=%2CO%2CP-R 。
手術で救える病院と救えない病院の違いとは?
(手術で救える病院と救えない病院の違いとは? 消化器外科のFTR率に焦点を当てた日本の研究から 2024年07月26日 https://medical-tribune.co.jp/rensai/2024/0726563759/ 。)
この情報は全ての専門医からは反論が出そうな論文であるがそんなことをよく言ったものだと拍手を送りたいと思う一方、詳しく調べようと思ってもいながら放置したままになっていたものである。
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今の世の中の医療はEBMに基づく考え方が正当なものだと捉えられている。しかしEBMとされる根拠の大部分は疫学的な論法によるものが殆どである。従ってその場合は統計学的には正しいとしても個々人の医療にそのまま当てはめようとする場合は落とし穴が存在するので注意せよということでもある。現場の医療はそれをわきまえた上で個々に適正な医療を行わなければならないのは周知の事である。
手術の腕も同様に術数件数が多ければ多い程手術成績も向上する、だから集約化すべきだとの方針で医療体制も構築されてきた。即ちある手術で100人行った医師と10人行った医師の腕を比べた場合100人行った医師の方が腕が上がる、との捉え方が正しいとされる。これは統計学的には正しいかもしれないが個々の医師に当てはめた場合は1例1例に込めた内容によっては10例行った医師の方が腕が良い場合もあるということでもある。
この論文の結論は、手術成績が良好な理由は大病院だからではなく、学会認定の有無でもなく、多職種がカンファレンスに参加しているからでもなかった。これまで大病院の方が成績が良いとか手術数が多い方が成績が良いとか、表面的に捉えられた理由のみが付けられて説明され、しかも実際それで医療政策も組み立てられてきた感があった。
今回の論文は、その考え方から、一歩踏み込んで、深く掘り下げられた論文である。しかもこの論文は日本の大学から提出されたものである。現在の日本の政策の流れに待ったをかけるような重要なデータではないかとも思った。この論文を論評したこの著者も立派である、そうも思った。
見方を変えれば、医療事故を専門医が行っても上手く行かなかったのだから仕方ないという専門故の単純な免罪符にしていけないということでもあり、常に専門でも非専門でも気になる点があれば常に検証が欠かせないということでもある。
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さらに話を広げれば報告すべき医療事故とは何ぞや、と言うことにも係る問題でもある。この論争は法医学会ガイドラインがH6年に発表されて以来H27年に一段落して医療事故調査制度が出来るまで喧々諤々と続いたのを覚えている。
医療過誤のない医療事故もあるし、知識や腕が未熟故の医療事故もあり得るし、どんなに腕が良くても100%上手く行くとは限らないし、これが医療である。あってはならないが有り得る宿命を背負っているという意味で航空機事故と医療事故は似ていると言われてきた。そのために医療事故に対しては責任追及よりも再発防止が優先される。これは理屈上は万人が認めることでもある。しかし現実の行政上運用になると立場立場で齟齬が生じてしまう。総論賛成・各論反対である。
医療に限らないことではあるが、犯罪性があればそれ相当のペナルティを個人に与えられるべきなのは当たり前である。しかし必要以上に医師個人への責任追及を行えばそれに対抗する防衛医療・萎縮医療に傾くのもこれまた当たり前のことである。そして防衛医療に傾けば傾くほど本来なら助けられるべき命も助けられなくなるということもこれまた当たり前の流れである。例えば90%助けられないとしても10%の可能性があれば手を出すかどうかはその防衛医療のレベルに依存する、勿論医師の独断ではなく本人や家族とのI.C.の上での場合である。
自分はかつて大手術を経験して幸い未だに生きているが、今の責任追及が厳しい時代で防衛医療・萎縮医療の中であればおそらく手術そのものの適応がないと諦められていた病気であった。そういう意味で危険を承知で手術して下さったDrには感謝しているし術前に駄目だったらそのまま閉じると言われてもそれは仕方ないと完全に俎上の鯉になることが出来ていたし複数の幸運が重なって今がある、と今でも思っている。
そもそも今の医療事故の報告制度・調査制度は21年以上前からの様々な議論の末にできたが、このH27年に出来た今の制度のその後の実態は却ってそれ以前より悪化ないし退歩していると最近は思っている。詳しく検討すべき責任の判断が各病院の院長に委ねられるようになったがその検証がなされていないと感ずる事例が複数でてきているからである。これは院長の責任と言うよりも係る担当行政者が院長の役割(予想できなかったとする根拠の施行規則3条件を確認していること)の実のある研修を怠っているからではないかと思っている。ましてや大学からの天下り院長など余程勉強しなければ理解の外で或るのが当たり前であるから院長個人にのみ責任を負わせるのは酷である。医師不足・医療崩壊を経てきたためか最近はマスコミも医療崩壊の過去に遠慮してか回りくどい言い方しかしていない。
新型コロナワクチン後の突然死の原因は複数あるが原因究明の解剖もしないと逆に遺族から訴えられている事例が2例あったし、名古屋セントラル病院の心カテ事例も然りである。これらが自然死で処理できるわけがない。先に記した如く医療事故は航空機事故に似てあってはならないけれども残念ながら有り得るという宿命を背負っているという意味で、医療事故もワクチン副反応も同じで責任追及ではなく再発防止こそが本質であるべきである。それが自然死扱いでは本末転倒である。その都度の検証と責任追及ではなく再発防止への途切れない努力とはとても言えない。
H6(1994)年異状死は何でも警察に届け出るようにとの日本法医学会異状死ガイドラインが発表された同じ頃多くの他学会からも賛成の意をもって同様のガイドラインが次々と発表されたがまもなく少なからぬ問題が内蔵されていることが解り、法医学会ガイドラインを除くすべての学会のガイドラインが取り下げられ法医学会ガイドラインのみ残存する中で、それ以来多くの議論が喧々諤々なされてきた。
厚労省見解が医師法21条は異状死ではなく異状死体を指すとの見解を出し一時は日本医師会初めとした多くの団体は矛を収めたと思われたが、厚労省が毎年更新している死亡診断書マニュアルの法医学会のガイドラインを参考にする様にとの数行の項目がH27年度版で削除されるまでは問題がなおくすぶっていた。
またH27年になりようやく医療法(法律)、その施行規則(省令)さらにその通知が出され(②)、医療事故調査制度が新たな出発を迎えて、問題は解消するかに思われた。しかしそれから今、はやくも9年経ったが最近感ずることは、医療事故報告もその調査の制度も返って改悪されてしまっているという印象を持つようになった。報告されるべきであろうと思われるものも報告されなくなり、厚労省の死亡診断書記入マニュアルは旧態依然で自然死以外は外因死(異状死)として警察が届出先になっているのである。報告先は第3者機関であるべきだとすべての関連団体がしていたにも係らずであるが、行政上は旧態依然として警察が届け先の変更はされていない。厚労省の死亡診断書記入マニュアルでは病死か自然死以外は外因死(事実上異状死)として警察に届出ることとの行政指導も実際している。之は旧態依然として変わっていないことを示している。即ち今は異状死(外因死)の届出は旧態依然の警察への届出と医療機能調査機構への届出との双方に届けなければならなくなっていて、手間が増えただけである。
現場のDrや病院管理者の気持ちを思うと異状死判断をして煩わしい手続きをしたくないのは分からないではないが、極めて稀な新型コロナワクチンの急死例が異状死でなく原因究明も不要とはとても思えない。
① 医療事故調査制度について 厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000061201.html 。
② 厚生労働省通知(医政発0508第1号平成27年5月8日) https://www.hospital.or.jp/pdf/15_20150508_01.pdf 。
③ 長文で失礼します。(愛西市ワクチン死亡の件)2024/6/3 facebook https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid0wdYjhJk6mkFB5LD3M3andEB2wxcSE3BEc3BzSXprhTDtSgxZG782kfp5bekEGHKEl?__cft__[0]=AZW76nxIXPrziaphFcTDygQzEA9dQd7cspueCqVO_0TWOFe6Cpx27F6mof3bez6i6ZFJF9TC9nlrn-FEt-Q5f6-jghphxFzlVDws_0thLX4kvU3TszeewCgnf8zxyyoUwsSLhknX_SyT5CSjkN7uUcrvEa9w2O1la79XwMppbwZUtA&__tn__=%2CO%2CP-R 。
室町時代前期の奈良原遺跡について ― 2024年12月03日
図1
室町時代前期の奈良原遺跡について
奈良原地区は高王山麓の発知川を挟んだ東対岸に位置した所で、高王山頂には戦国時代には高王山城が作られた。1581年の高王山城の戦いの際には、沼田平八郎景義が東毛の由良国繁の援軍とともに通った場所であると口伝えで言われている所である。平八郎は沼田氏内紛で会津へ逃れた後にその後上野に戻り東毛の由良氏の庇護のもとに女淵城の城主になっていたが、真田昌幸の城代支配になっていた旧領沼田城に復帰することを企てて由良氏援軍とともに1581年に数千の兵とともに原地区を通って高王山城に登って行ったと伝えられている。しかし伯父の金子美濃守の甘言に騙されて下山し武装を解いて沼田城に入ったところで殺されてしまったと言われている。その沼田平八郎景義を沼田大明神として祀った祠が法城院にある。
その時代を遡ること室町時代前期については今の所奈良村には文書記録が全く見つかっていない。しかしながら山を隔てた隣村の川場村及び白沢村には“氏時のゆだん川原”や”義宗のうつぶしの森”などの大友氏時や新田義宗のエピソード等その頃の記録が少なからずあるので大友氏と利根地域との関わりを中心に時系列で記してみた。
川場村谷地に現在もある吉祥寺は1339年に大友氏泰18歳の時に父貞宗の追善のために創建されたとされ、氏泰死去して弟の氏時が開基し、中巌円月が開山したと言われている。この時氏泰の兄即宗和尚が吉祥寺境内の止々庵に来たという(沼田市史)。
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奈良村の古文書は管見に依る限り江戸時代中期の奈良村名苗顕然記(みとり騒動で知られる石田要右衛門が永牢になる16年前に祖父から三代にわたって集めた資料を1766年にまとめたもの)が残存する以外には戦国以前の資料は殆どない。奈良原遺跡に係る記録のかけらがあるかもと思い名苗顕然記の江戸前期記録と地域の小字の位置関係を調べて示してみた(図1:新聞記事、図2:奈良村小字の位置関係)。
遺跡としては南端に奈良古墳群がわずかに今も残っているが以前は奈良の百塚と言われ自分の子供の頃は実際百基近くあったが今は数基しか残っていない。これは榛名山二ツ岳噴火後で聖徳太子の頃築造されたと思われる古墳時代終末期の典型的な群集墳とされている。渋川の日本のポンペイと言われる遺跡の住人が逃れて築造したとも想像されるものであるが遺跡発掘物以外には知る由もない。昭和30年の大学による発掘物は未だに未整理である。その後の発掘物からは馬生産に係る住人がいたことは確かのようだ。
図2
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2024/12/03/6e691a.jpg.html"
target="_blank"
onClick="return asablo.expandimage(this,718,1026,'https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2024/12/03/6e691a.jpg')"><img src="https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2024/12/03/6e6919.jpg" alt="奈良村の小字名" title="奈良村の小字名" width="300" height="428"></a></div>
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以下に室町時代前期の頃の川場村を中心とした大友氏ら記録に残る利根の歴史事象について記してみた。
大友氏の祖は平安時代後期には既に上野国の北毛と言われる沼田利根の地に住んでいたという記録がある。『北毛乃史跡と伝説』『古馬牧史』によれば大友経家(平経家)の祖の大友良部助善正が住した大友氏館が下牧村の師に既にあり、古墳時代の難波皇子の子大宅真人の末裔の利根氏でもあるとされる。源義家が奥州征伐凱旋の折にその下牧村玉泉寺(1063年利根太郎宗平が建立)の八幡宮に甲冑を収めたという。後三年の役(1083―1087年)では源義家は戦功を朝廷から認められず私戦と非難され、配下への恩賞は私財を放出した。上野国はじめ関東を育んだのはもともとは平氏であったが、これがきっかけとなり、後に関東に於ける源氏の名声を高めることになり約100年後の頼朝の勝利にも繋がったとされている。この頃(1091年)すでに藤原氏の荘園として利根の地に土井荘があったとの記録が「後二条師通記」にある。
1108年に浅間山の天仁大規模噴火が発生し、この時上野国一帯が埋まり田畑の再開発に伴って豪族の私有化とその荘園化が一気に促される契機になったという(日本歴史地名大系第10巻1987年)。
後に室町幕府を開く足利氏の足利荘及び新田氏の新田荘の元が上野国東毛地区にできるのもこの頃である。足利荘は源義家の孫の源義国が安楽寿院に寄進し、家人の藤原姓足利家綱が開発領主として在地の下司となり源義国がその預所職(統括職)となり、その後源義国の次男源義康も父から足利荘を相続して足利義康を名乗りその下司職になっていた(この時はまだ藤原姓足利氏と源姓足利氏は協調関係にあった。安楽寿院領足利荘は1142年に成立)。新田荘は源義国の長男の新田義重が空閑地を開発して私領を形成し花山院藤原忠雅に寄進して在地の下司職になり1157年に成立した(源義国の長男新田義重が新田氏の祖となり、次男の足利義康が源姓足利氏の祖となった)。
この頃上野国北毛の利根荘も安楽寿院領だった(この頃の利根荘は土出庄=土井出笠科荘と範囲が重なるようになっていた)。
1159年に大友経家18歳の時に京に上り平清盛から上野国の利根と勢多(現在の利根沼田全域)を賜り、1172年には相模国足柄上郡大友郷も清盛から賜った。この頃より利根の地は大友氏の所領になっていった。(大友経家は相模国波多野遠義の子で上野国沼田氏を継ぎ経家弟の沼田家通が相模国沼田郷を開発しその子孫が越中沼田氏の祖になったという。経家の兄波多野義通は相模国波多野荘を継いだ。大友経家は平経家とも利根四郎経家、和田四郎経家とも言った。)
利根郡誌によれば奈良村は承安の頃沼田左衛門経家領とあるので1199年の石田勘解由らによる奈良村立村前から平経家の領地であったと思われる。
1170年頃表面上は清盛に従いながら内実では源氏方として伊豆流配中の頼朝にも接し、経家は娘の利根局を側室に差し出し世話をさせ、大友能直を生んだ。これが九州大友氏の祖である(大友能直は頼朝の欧州征伐にも従軍しており1193年には22才で頼朝より豊前・豊後の守護職に任ぜられて能直以後の利根沼田はその代官支配となっていた)。
1186年大友経家は頼朝より利根の地頭職に任ぜられ、この頃から大友一族が利根沼田全域を支配し大友氏領となった。この頃の土出笠科荘(利根郡のほぼ東半分)は安楽寿院領であるが従前より平経家が地頭であった。
1222年には川場村谷地にも大友館が築かれたという(沼田市史、川場村の歴史と文化。沼田荘の庄田の地にもすでに大友館があったことが知られている)。
1247年宝治合戦で三浦氏一族500人以上が集団自決して相模三浦氏滅びるも、泰村の次男三浦景泰が逃れて利根の荘田城(薄根村井土上)に来て、後期沼田氏(三浦沼田氏)初代となったが、同じ頃大友親秀(九州大友2代)が近隣の古馬牧村に明徳寺城(みなかみ町後閑)を築いているので、大友沼田氏と三浦沼田氏は一時併存していたが(大友親秀の妻は三浦義連即ち佐原十郎左衛門義連の娘である)、やがて三浦沼田氏が優勢になっていく。
1333年建武の中興で鎌倉幕府滅亡し、後醍醐天皇の親政はじまったが間もなく足利尊氏離反して(護良親王が征夷大将軍・足利尊氏が鎮守府将軍に任命されるも両者の折り合いが悪化)2年半で崩壊した。
上野国・越後国・播磨国の国司は新田義貞がなり一族の代官が政務を執っていたが、後醍醐天皇側に就いた新田義貞は。1335年上野・越後の守護職を尊氏により剥奪され上杉憲房に任命替えされた。
1336年12月足利尊氏は建武式目を定めて政権樹立を宣言(征夷大将軍任命は1338年)して南北朝時代が始まった。九州大友氏の貞載・氏泰兄弟は戦いの最中に南朝方から尊氏北朝方に寝返り(大友氏泰・氏時兄弟は足利尊氏の猶子となった)、一方三浦沼田氏は新田義貞南朝方についた。
1339年川場村吉祥寺が大友氏泰・氏時によって、先に述べた如く創建された。
1351年足利尊氏・直義兄弟の対立で観応の擾乱となり、主に九州の地では南朝方・北朝方の戦いが繰り広げられていた。翌1352年には南朝後村上天皇が征夷大将軍宗良親王を通して新田義貞の遺子らの新田義興(次男)・新田義宗(三男)・脇屋義治(義宗従弟)らに足利氏追討の命を出して挙兵し一時鎌倉占拠するも越後へ敗走した。
一方九州の地では1354年南朝方菊地武光が勢力を盛り返し北朝方大友氏泰が敗退した。大友氏時も筑後川の戦いで南朝方菊池武光に破れた。1361年には菊地武光ら南朝方が九州大宰府を制圧して北朝方から奪取した。
しかし、京都は北朝方一色であり、氏時に対して後光厳天皇と将軍足利義詮から南朝方菊地武光らを追討せよとの命令が出ていた(将軍義詮は鎌倉執事上杉憲顕に命じて利根荘を大友氏時に返付せしめたと言う記録が有る。北朝(南朝の間違い)に味方した三浦沼田氏も尊氏に所領没収されて滅亡したとも言われるが一部で存続していた。後の戦国時代には再び実権を握り逆転を繰り返す)。
この頃九州大友氏の遠隔所領として大友氏の在地代官が沼田荘ではなく川場村を拠点として利根の荘の各郷に代官を置くようになったという(沼田市史)。
1363年大友氏時が逃れて利根郡川場村に来て谷地の大友館に住す(沼田町史、利根村誌、川場村の歴史と文化)。この時、今井氏・高山氏・関氏・吉野氏・桑原氏・久保田氏・外山氏の7人の郎党とともに落ちてきて来て、川場村門前に土着した(川場村名主館記、川場村の歴史と文化)。
<大友氏時は戦いに嫌気がさして川場村に逃れてきたとも言われるが、その死亡場所については異説ある。川場村に大友氏時妻大智庵祐宗比丘尼・大友家家老桜井兵部および大友一族が居住していたことは確かであり、氏時の子の珠垣媛もいたという(根岸氏家伝の墓石に記されている)。氏時自身は豊後国で既に死去したとの説もあるが、『北毛乃史跡と伝説』には大友氏時夫婦の墓石のある川場村桂昌寺住職高橋宗育宛に「大友氏時の死は豊後の館にあらずして川場谷地の館の方が真に近し」と豊後大友宗家大友義一氏から便りが昭和11年夏にあったとある。しかし現在大分県史では大分の地で没したことになっている。>
1368年新田義貞の遺児義宗らが川場村大友氏時らを攻めた白澤村戦争が発生した。前年に第2代将軍義詮・弟の基氏(初代鎌倉公方)が没したため新田義宗・脇屋義治が越後で挙兵上野国に入る。
3月に南朝方義宗らにより北朝足利方の大友氏時が川場村で討ち取られる(氏時のゆだん川原)。7月には利根沼田各地で鎌倉足利方と戦い新田義宗も白澤村で討ち死にする(義宗のうつぶしの森)、享年37歳(地元民による新田方、足利方の両者多数死亡者を弔う塚跡が残存し、雲谷寺に義宗の墓がある)。(大友氏時の内室と娘珠垣媛は生き残った。珠垣姫は高平村領主根岸登格之輔橘騰雅タカマサの3男に嫁し茂木主馬之助シュメノスケと名を隠し一時流浪しその後貝之瀨村に来て旧姓根岸に戻り帰農したという。根岸虎司氏は大友氏時19世の孫という(糸之瀬村誌、貝之瀨の墓誌、北毛の史跡と伝説、久屋館址) )。
<『川場村の歴史と文化』109頁の大友義一氏の所録には「現今氏能の子孫利根郡貝之瀬に住み姓を根岸と称すと云へり」とあり、大友宗家もこの件は承知していた、氏能は氏時末子。大友氏時本人が川場へ来たかどうかについてはこの中では否定的であり、その奥方心月祐宗比丘尼及び家来衆が川場に来て隠棲し川場で亡くなったのは史実で間違いないという。地元では氏時がゆだん河原で亡くなったともいうが九州の地で亡くなりしかも、合戦で亡くなったのではなく敗戦後5年目に亡くなり豊後府中の乙原の吉祥寺に葬られたのではないかとこの村史はしている(地元郷土史家の岸大洞は川場死亡説を採っている―沼田万華鏡第6号)。また、のちの戦国時代に上杉謙信らが越山で利用した三国越えと清水越え等のルートのうち清水越えの拠点の清水城はこの頃築城されたとされる(『清水越の歴史』谷川岳山岳資料館)。このルートは幻の国道として今も登録されている。>
この時、川田村屋形原、利根村及び白澤村(反町城趾あり)は新田方、隣村川場村は足利方で敵同士であった。沼田氏一族は新田義貞方で戦いその後尊氏に領地を没収されて衰退して行った(白旗一揆のグループに入りのちに再起する)ので、この時点は各々村や郷の代官が足利方か新田方か不明。利根沼田地方は新田源氏挙兵の重要地点でありかつ狭い地域で敵味方入り乱れていた(沼田市史、沼田町史、白澤村史、薄根村史、川場村の歴史と文化)。川田村屋形原で防戦した新田方大将は屋形原八幡宮に祀られている新田義貞の孫の生形義脇とされている(川田村史)。脇屋義治は出羽に逃れたとも阿波に逃れたとも言われる。新田義宗の最期についても逃れて出羽国・阿波国・伊予国まで行ったとの伝承もあるが、この点は大友氏時についても言えることで、近しい人物がいたからこそ生まれた伝承と考えて良いであろう。
1392年の明徳の和約の成立まで南北朝の対立は燻ぶり続き、さらにそれ以後も利根沼田地域は内輪もめ、足利、上杉、北条、武田、真田、長尾等入り乱れて秀吉全国統一まで約200年続く戦乱の時代に突入していく。
参考:
https://ku-wab.asablo.jp/blog/2015/12/08/7941612 。
室町時代前期の奈良原遺跡について
奈良原地区は高王山麓の発知川を挟んだ東対岸に位置した所で、高王山頂には戦国時代には高王山城が作られた。1581年の高王山城の戦いの際には、沼田平八郎景義が東毛の由良国繁の援軍とともに通った場所であると口伝えで言われている所である。平八郎は沼田氏内紛で会津へ逃れた後にその後上野に戻り東毛の由良氏の庇護のもとに女淵城の城主になっていたが、真田昌幸の城代支配になっていた旧領沼田城に復帰することを企てて由良氏援軍とともに1581年に数千の兵とともに原地区を通って高王山城に登って行ったと伝えられている。しかし伯父の金子美濃守の甘言に騙されて下山し武装を解いて沼田城に入ったところで殺されてしまったと言われている。その沼田平八郎景義を沼田大明神として祀った祠が法城院にある。
その時代を遡ること室町時代前期については今の所奈良村には文書記録が全く見つかっていない。しかしながら山を隔てた隣村の川場村及び白沢村には“氏時のゆだん川原”や”義宗のうつぶしの森”などの大友氏時や新田義宗のエピソード等その頃の記録が少なからずあるので大友氏と利根地域との関わりを中心に時系列で記してみた。
川場村谷地に現在もある吉祥寺は1339年に大友氏泰18歳の時に父貞宗の追善のために創建されたとされ、氏泰死去して弟の氏時が開基し、中巌円月が開山したと言われている。この時氏泰の兄即宗和尚が吉祥寺境内の止々庵に来たという(沼田市史)。
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奈良村の古文書は管見に依る限り江戸時代中期の奈良村名苗顕然記(みとり騒動で知られる石田要右衛門が永牢になる16年前に祖父から三代にわたって集めた資料を1766年にまとめたもの)が残存する以外には戦国以前の資料は殆どない。奈良原遺跡に係る記録のかけらがあるかもと思い名苗顕然記の江戸前期記録と地域の小字の位置関係を調べて示してみた(図1:新聞記事、図2:奈良村小字の位置関係)。
遺跡としては南端に奈良古墳群がわずかに今も残っているが以前は奈良の百塚と言われ自分の子供の頃は実際百基近くあったが今は数基しか残っていない。これは榛名山二ツ岳噴火後で聖徳太子の頃築造されたと思われる古墳時代終末期の典型的な群集墳とされている。渋川の日本のポンペイと言われる遺跡の住人が逃れて築造したとも想像されるものであるが遺跡発掘物以外には知る由もない。昭和30年の大学による発掘物は未だに未整理である。その後の発掘物からは馬生産に係る住人がいたことは確かのようだ。
図2
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2024/12/03/6e691a.jpg.html"
target="_blank"
onClick="return asablo.expandimage(this,718,1026,'https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2024/12/03/6e691a.jpg')"><img src="https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2024/12/03/6e6919.jpg" alt="奈良村の小字名" title="奈良村の小字名" width="300" height="428"></a></div>
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以下に室町時代前期の頃の川場村を中心とした大友氏ら記録に残る利根の歴史事象について記してみた。
大友氏の祖は平安時代後期には既に上野国の北毛と言われる沼田利根の地に住んでいたという記録がある。『北毛乃史跡と伝説』『古馬牧史』によれば大友経家(平経家)の祖の大友良部助善正が住した大友氏館が下牧村の師に既にあり、古墳時代の難波皇子の子大宅真人の末裔の利根氏でもあるとされる。源義家が奥州征伐凱旋の折にその下牧村玉泉寺(1063年利根太郎宗平が建立)の八幡宮に甲冑を収めたという。後三年の役(1083―1087年)では源義家は戦功を朝廷から認められず私戦と非難され、配下への恩賞は私財を放出した。上野国はじめ関東を育んだのはもともとは平氏であったが、これがきっかけとなり、後に関東に於ける源氏の名声を高めることになり約100年後の頼朝の勝利にも繋がったとされている。この頃(1091年)すでに藤原氏の荘園として利根の地に土井荘があったとの記録が「後二条師通記」にある。
1108年に浅間山の天仁大規模噴火が発生し、この時上野国一帯が埋まり田畑の再開発に伴って豪族の私有化とその荘園化が一気に促される契機になったという(日本歴史地名大系第10巻1987年)。
後に室町幕府を開く足利氏の足利荘及び新田氏の新田荘の元が上野国東毛地区にできるのもこの頃である。足利荘は源義家の孫の源義国が安楽寿院に寄進し、家人の藤原姓足利家綱が開発領主として在地の下司となり源義国がその預所職(統括職)となり、その後源義国の次男源義康も父から足利荘を相続して足利義康を名乗りその下司職になっていた(この時はまだ藤原姓足利氏と源姓足利氏は協調関係にあった。安楽寿院領足利荘は1142年に成立)。新田荘は源義国の長男の新田義重が空閑地を開発して私領を形成し花山院藤原忠雅に寄進して在地の下司職になり1157年に成立した(源義国の長男新田義重が新田氏の祖となり、次男の足利義康が源姓足利氏の祖となった)。
この頃上野国北毛の利根荘も安楽寿院領だった(この頃の利根荘は土出庄=土井出笠科荘と範囲が重なるようになっていた)。
1159年に大友経家18歳の時に京に上り平清盛から上野国の利根と勢多(現在の利根沼田全域)を賜り、1172年には相模国足柄上郡大友郷も清盛から賜った。この頃より利根の地は大友氏の所領になっていった。(大友経家は相模国波多野遠義の子で上野国沼田氏を継ぎ経家弟の沼田家通が相模国沼田郷を開発しその子孫が越中沼田氏の祖になったという。経家の兄波多野義通は相模国波多野荘を継いだ。大友経家は平経家とも利根四郎経家、和田四郎経家とも言った。)
利根郡誌によれば奈良村は承安の頃沼田左衛門経家領とあるので1199年の石田勘解由らによる奈良村立村前から平経家の領地であったと思われる。
1170年頃表面上は清盛に従いながら内実では源氏方として伊豆流配中の頼朝にも接し、経家は娘の利根局を側室に差し出し世話をさせ、大友能直を生んだ。これが九州大友氏の祖である(大友能直は頼朝の欧州征伐にも従軍しており1193年には22才で頼朝より豊前・豊後の守護職に任ぜられて能直以後の利根沼田はその代官支配となっていた)。
1186年大友経家は頼朝より利根の地頭職に任ぜられ、この頃から大友一族が利根沼田全域を支配し大友氏領となった。この頃の土出笠科荘(利根郡のほぼ東半分)は安楽寿院領であるが従前より平経家が地頭であった。
1222年には川場村谷地にも大友館が築かれたという(沼田市史、川場村の歴史と文化。沼田荘の庄田の地にもすでに大友館があったことが知られている)。
1247年宝治合戦で三浦氏一族500人以上が集団自決して相模三浦氏滅びるも、泰村の次男三浦景泰が逃れて利根の荘田城(薄根村井土上)に来て、後期沼田氏(三浦沼田氏)初代となったが、同じ頃大友親秀(九州大友2代)が近隣の古馬牧村に明徳寺城(みなかみ町後閑)を築いているので、大友沼田氏と三浦沼田氏は一時併存していたが(大友親秀の妻は三浦義連即ち佐原十郎左衛門義連の娘である)、やがて三浦沼田氏が優勢になっていく。
1333年建武の中興で鎌倉幕府滅亡し、後醍醐天皇の親政はじまったが間もなく足利尊氏離反して(護良親王が征夷大将軍・足利尊氏が鎮守府将軍に任命されるも両者の折り合いが悪化)2年半で崩壊した。
上野国・越後国・播磨国の国司は新田義貞がなり一族の代官が政務を執っていたが、後醍醐天皇側に就いた新田義貞は。1335年上野・越後の守護職を尊氏により剥奪され上杉憲房に任命替えされた。
1336年12月足利尊氏は建武式目を定めて政権樹立を宣言(征夷大将軍任命は1338年)して南北朝時代が始まった。九州大友氏の貞載・氏泰兄弟は戦いの最中に南朝方から尊氏北朝方に寝返り(大友氏泰・氏時兄弟は足利尊氏の猶子となった)、一方三浦沼田氏は新田義貞南朝方についた。
1339年川場村吉祥寺が大友氏泰・氏時によって、先に述べた如く創建された。
1351年足利尊氏・直義兄弟の対立で観応の擾乱となり、主に九州の地では南朝方・北朝方の戦いが繰り広げられていた。翌1352年には南朝後村上天皇が征夷大将軍宗良親王を通して新田義貞の遺子らの新田義興(次男)・新田義宗(三男)・脇屋義治(義宗従弟)らに足利氏追討の命を出して挙兵し一時鎌倉占拠するも越後へ敗走した。
一方九州の地では1354年南朝方菊地武光が勢力を盛り返し北朝方大友氏泰が敗退した。大友氏時も筑後川の戦いで南朝方菊池武光に破れた。1361年には菊地武光ら南朝方が九州大宰府を制圧して北朝方から奪取した。
しかし、京都は北朝方一色であり、氏時に対して後光厳天皇と将軍足利義詮から南朝方菊地武光らを追討せよとの命令が出ていた(将軍義詮は鎌倉執事上杉憲顕に命じて利根荘を大友氏時に返付せしめたと言う記録が有る。北朝(南朝の間違い)に味方した三浦沼田氏も尊氏に所領没収されて滅亡したとも言われるが一部で存続していた。後の戦国時代には再び実権を握り逆転を繰り返す)。
この頃九州大友氏の遠隔所領として大友氏の在地代官が沼田荘ではなく川場村を拠点として利根の荘の各郷に代官を置くようになったという(沼田市史)。
1363年大友氏時が逃れて利根郡川場村に来て谷地の大友館に住す(沼田町史、利根村誌、川場村の歴史と文化)。この時、今井氏・高山氏・関氏・吉野氏・桑原氏・久保田氏・外山氏の7人の郎党とともに落ちてきて来て、川場村門前に土着した(川場村名主館記、川場村の歴史と文化)。
<大友氏時は戦いに嫌気がさして川場村に逃れてきたとも言われるが、その死亡場所については異説ある。川場村に大友氏時妻大智庵祐宗比丘尼・大友家家老桜井兵部および大友一族が居住していたことは確かであり、氏時の子の珠垣媛もいたという(根岸氏家伝の墓石に記されている)。氏時自身は豊後国で既に死去したとの説もあるが、『北毛乃史跡と伝説』には大友氏時夫婦の墓石のある川場村桂昌寺住職高橋宗育宛に「大友氏時の死は豊後の館にあらずして川場谷地の館の方が真に近し」と豊後大友宗家大友義一氏から便りが昭和11年夏にあったとある。しかし現在大分県史では大分の地で没したことになっている。>
1368年新田義貞の遺児義宗らが川場村大友氏時らを攻めた白澤村戦争が発生した。前年に第2代将軍義詮・弟の基氏(初代鎌倉公方)が没したため新田義宗・脇屋義治が越後で挙兵上野国に入る。
3月に南朝方義宗らにより北朝足利方の大友氏時が川場村で討ち取られる(氏時のゆだん川原)。7月には利根沼田各地で鎌倉足利方と戦い新田義宗も白澤村で討ち死にする(義宗のうつぶしの森)、享年37歳(地元民による新田方、足利方の両者多数死亡者を弔う塚跡が残存し、雲谷寺に義宗の墓がある)。(大友氏時の内室と娘珠垣媛は生き残った。珠垣姫は高平村領主根岸登格之輔橘騰雅タカマサの3男に嫁し茂木主馬之助シュメノスケと名を隠し一時流浪しその後貝之瀨村に来て旧姓根岸に戻り帰農したという。根岸虎司氏は大友氏時19世の孫という(糸之瀬村誌、貝之瀨の墓誌、北毛の史跡と伝説、久屋館址) )。
<『川場村の歴史と文化』109頁の大友義一氏の所録には「現今氏能の子孫利根郡貝之瀬に住み姓を根岸と称すと云へり」とあり、大友宗家もこの件は承知していた、氏能は氏時末子。大友氏時本人が川場へ来たかどうかについてはこの中では否定的であり、その奥方心月祐宗比丘尼及び家来衆が川場に来て隠棲し川場で亡くなったのは史実で間違いないという。地元では氏時がゆだん河原で亡くなったともいうが九州の地で亡くなりしかも、合戦で亡くなったのではなく敗戦後5年目に亡くなり豊後府中の乙原の吉祥寺に葬られたのではないかとこの村史はしている(地元郷土史家の岸大洞は川場死亡説を採っている―沼田万華鏡第6号)。また、のちの戦国時代に上杉謙信らが越山で利用した三国越えと清水越え等のルートのうち清水越えの拠点の清水城はこの頃築城されたとされる(『清水越の歴史』谷川岳山岳資料館)。このルートは幻の国道として今も登録されている。>
この時、川田村屋形原、利根村及び白澤村(反町城趾あり)は新田方、隣村川場村は足利方で敵同士であった。沼田氏一族は新田義貞方で戦いその後尊氏に領地を没収されて衰退して行った(白旗一揆のグループに入りのちに再起する)ので、この時点は各々村や郷の代官が足利方か新田方か不明。利根沼田地方は新田源氏挙兵の重要地点でありかつ狭い地域で敵味方入り乱れていた(沼田市史、沼田町史、白澤村史、薄根村史、川場村の歴史と文化)。川田村屋形原で防戦した新田方大将は屋形原八幡宮に祀られている新田義貞の孫の生形義脇とされている(川田村史)。脇屋義治は出羽に逃れたとも阿波に逃れたとも言われる。新田義宗の最期についても逃れて出羽国・阿波国・伊予国まで行ったとの伝承もあるが、この点は大友氏時についても言えることで、近しい人物がいたからこそ生まれた伝承と考えて良いであろう。
1392年の明徳の和約の成立まで南北朝の対立は燻ぶり続き、さらにそれ以後も利根沼田地域は内輪もめ、足利、上杉、北条、武田、真田、長尾等入り乱れて秀吉全国統一まで約200年続く戦乱の時代に突入していく。
参考:
https://ku-wab.asablo.jp/blog/2015/12/08/7941612 。
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