左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について2025年09月11日

「そわ女三吟」『炉辺郷談』
2025/9/10 アサブロ

  左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について

今井善一郎著『炉辺郷談』の復刻版が古本屋で手に入った。初版数が少なく再版希望が多かったための再発行と言う。発行は昭和50年で発行者は北橘村教育委員会(初版は昭和36年)。
左部蘇和(1830-1891)(左部善兵衛寛信俳号三岳の長女で下箱田村今井善兵衛兼明に嫁し今井蘇和となる)の歌碑「風樹碑」 が高輪の泉岳寺にある事を「そわ女三吟」として記している。ここでは善六郎と七次郎を生んだと書かれている。著者の善一郎は今井善兵衛兼明の曾孫と言っている。七次郎は父に無断で東京へ出奔して費用の工面に母の蘇和が父との間で苦労したというが、父も内心お金の心配をしていたことが後に手帳を見て分かったという。蘇和の三句が載っている。
 手元の資料では、今井善兵衛兼明と蘇和の子は善六と善平となっているが善六は善六郎で後継の今井善兵衛兼直と思われるが七次郎については記録がないので善平の事か?不明。善兵衛兼直の次男今井恭次郎には館林正田文右衛門の娘が嫁している。左部彦次郎の妻堀越ゆわは正田家の縁戚と娘の大場美夜子は詩集の中で記している。左部善兵衛寛信の兄の佐部斧次良 は初代左部宇作の父でありその初代宇作は左部彦次郎の祖父である。巡り合わせの妙である。
<そわ女三吟>
 ・春風や空に消えゆく舟のみち(泉岳寺歌碑[風樹碑] ・・左部氏名蘇和子上野利根郡奈良村人左部善兵衛女也善兵衛名寛信号三岳・・)
 ・飛ぶ蛍 押へてやみのまさりけり
 ・朝顔や浮世の夢も花こヽろ (辞世の句という)

<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2025/09/11/7145b5.jpg.html"
target="_blank"
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(2025/9/17追加)
 別資料に依れば兼明・蘇和の長男は兼直・幼名善六・大正5年3月歿、次男は兼保・別名七次郎・幼名善平・大正5年11月歿となっていた。

NHK BS「・・政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望」2025年04月13日

NHK BS「・・政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望」

NHKテレビBS「英雄たちの選択」シリーズ 昭和のあけぼの (1)政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望(再放送2025/4/16(水) 午後5:00〜午後6:00) https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/BM1R2WRGM3/ 。

何となくビデオ録画しておいたものを見て予想外に大変勉強になった。
足尾鉱毒事件について左部彦次郎は世間では誤解されていると感じて以来調べ始めた歴史の素人が、田中正造やガンジーや牧野伸顕や黒澤酉蔵など様々な関係を知り、その歴史のダイナミックさに興味をそそられて以来、歴史に興味を持つようになった。
 しかし多くが断片的であるが今回、田中儀一首相が天皇に激怒されたこと、天皇機関説の意味、政党政治・藩閥政治の意味、元老院の意味、教育勅語の意味、天皇は君臨すれども統治せずの意味、それぞれバラバラに記憶に残っていたものを鮮やかに整理してくれた。そして歴史オタクの磯田 道史氏の知識には改めて敬服した。
 今、第二次大戦後の反省から築かれてきた世界の秩序から武力政治に逆行しつつある、その理由の一端を教えてくれた。

明治時代の教育者石田勝太郎に関する新たな情報2023年06月07日

現沼田市生まれの明治時代の教育者石田勝太郎に関する新たな情報を頂きました(教育者・石田勝太郎とその時代 https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2023/05/post-af5d07.html )。
 利根川源流調査に行っていたことなど初めて知りました。石田勝太郎と同年代で親戚関係にある左部彦次郎も利根川支流の片品川支流源流の皇海山方面に調査に入った記録が残っています。
 足尾銅山の会社は坑木等で足尾側の山林を伐採し尽くしてからは群馬県側の山林の伐採にも手を付けていたため、渡良瀬川だけでなく利根川の氾濫にも繋がると問題意識を持った左部彦次郎によって現地踏査が行われました。今でも行くのに大変な奥深い山中ですがそこに一大部落が出現し、それは明治から昭和の時代まで続きました。忽然と出現し忽然と消えて行った村です。(《幻の集落 根利山の軌跡》群馬・栃木県境にかつて3千人以上の村
 https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/14674 )踏査についての左部彦次郎から田中正造への手紙も残っています。
   (ブログの著者に感謝!)

NHK Eテレ「先人たちの底力 知恵泉 田中正造」をみて2023年04月15日

(2023/3/30 facebookメモ、追加分含む。)

NHK Eテレ初回放送日: 2023年3月28日「先人たちの底力 知恵泉 田中正造」をみて、
 偶々、足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴した田中正造についてのこの番組を見た。なるほど歴史番組はこういう風に作るのかと勉強になった。

 しかし、新聞報道の映像のペンネームみどり子は石川半山ではなくジャーナリストで女傑の松本英子である。石川半山はその上司の主筆なので間違いではないが松本英子が自律的に書いた報道である。石川半山だけでなく毎日新聞社長の島田三郎も田中正造に協力的であった。彼女は明治天皇直訴事件発生直前に毎日新聞に入社して鉱毒事件報道に深く関わり、被害民の側に立った現地報道を多く行い、広く全国に世論を喚起して、そのルポは59回に及んだというが1年足らずで退社して渡米してしまった。
 渡米してからも彼の地で目を見張るような積極的活動をしていて、稀に見る女傑と思われるが何故かあまり知られていないのが残念である。
 また、磔刑になった下総国の佐倉惣五郎は講談等で余りにも有名になったがその33年後の1686年にも上野国で同様磔刑になった杉木茂左衛門がいるがこれもなぜか余り知られていないのが残念である。佐倉藩も所領没収されたが、沼田真田藩もこれが要因となってお取潰しになり城も完全に破却された。

※松本英子については、
〇『女のくせに』江刺昭子著。
〇「けやきのブログⅡ 2021年7月24日 (土)ジャーナリスト松本英子(永井ゑい子)、みどり子  https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2021/07/post-ca0b88.html   で紹介されている。
※礫刑茂左衛門については、下記で詳しい。『磔茂左衛門』後閑祐次著。
〇「杉木茂左衛門」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%9C%A8%E8%8C%82%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
〇茂左衛門地蔵尊 千日堂 https://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g1121071-d15580597-Reviews-Mozaemon_Jizoson_Sennichido-Minakami_machi_Tone_gun_Gunma_Prefecture_Kanto.html 
※明治天皇直訴事件については、
〇『田中正造と天皇直訴事件』布川了著、 に詳しい。
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◎先人たちの底力 知恵泉 田中正造 すべては人々のために(NHKテレビ Eテレ2023/3/30)https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2023032826012 
https://www.nhk.jp/p/chieizu/ts/R6Z2J4WP1Z/episode/te/PMMJ314PL4/ 

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(追加分)

インドのガンジーは1914年第一次世界大戦以降の非暴力・不服従運動で有名であるが(正確には1919年アムリットサル事件以降)、田中正造はガンジーより47年早くかつ年齢27歳の時に既に非暴力・不服従の姿勢で対六角家闘争に入っている(1867年)。その後の足尾銅山鉱毒事件(田中正造は1891年より関与開始)でもその姿勢を貫いている。この足尾銅山鉱毒事件は世界の公害問題の先駆けであり、其の上日本中に鉱毒問題という公害を喚起せしめた事件であり、かつ詳細な記録も多く残っている歴史的にも貴重な事件である。
それでも明治時代の富国強兵・殖産興業・世界の帝国主義化の流れには到底あらがえなかった。

 平和、平和と唱えても、今でもおそらくこれからも、「勝てば官軍負ければ賊軍」という人間社会の性を乗り切るためには力は無視出来ない。
明治維新自体が正しいわけではない。錦の御旗を捏造し手段を択ばず勝ち、勝った以上は正しい道に載せなければならないというその努力が正しいのである。そういう意味で大久保利通はやはり偉い。賊軍側の徳川慶喜も目先の意地でフランスの力を借りようとしなかったことは、もし借りていたら日本自体が西欧の属国に陥っていたかもしれないとの大局観を持っていたからこそであるという意味でやはり偉いのである。西郷隆盛も同じかもしれない。
結果は経過を正当化するのは勿論であるが経過も結果を正当化するのであり、一方通行ではないというのはそういうことである。

 その力の中心はできれば実力行使ではなく話し合いでとはだれでも願うことだ。そのためにはやはり世論を如何に喚起していくかがその基本になる。独りよがりではただのマスターベーションだ。世界の常識の方向が一つの王道に向かうことがその土台になっていくはずである。ヴィトゲンシュタインが言う如く一人ひとりにみな違う考え方即ち理念で生きているこの世界でその世界の常識の王道を如何に培うか、これは困難であっても平和のためには必要だ。古代中国の屈原が『漁父の辞』で云う如く漁父の柔軟な忍耐が生きるためには必要と認めながら頑なに死を選んだように、田中正造も漁父の生き方があることを認めた上で頑なな屈原の生き方を選んだのかも知れない。
正造は明治11(1878)年に財産を犠牲にして一身を公共のために尽くすことを父親にその許しを請い、父親も「死んでから仏になるはいらぬもの、生きているうちによき人となれ」という狂歌を示して快く許した。地元の区会議員に選出された時には「議員上任誓詞」を皆に示し赤飯を振る舞い沐浴して役職遂行を区村民に誓ったとの記録が残っている。
その想像を超える実直さ潔癖さは終生揺れることはなかったことからも、そう感ずる。「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべーし」との正造の言葉が残っているが、ガキ大将の正造が母親に戒められて成長する途次に身につけた自らを律する道徳心は武士道そのものであろう。
田中正造は世の理不尽さに対して徹底的に戦った。明治11年の区会議員当選、明治13年には県会議員に当選し自由民権運動に係る中で「国会開設建白書」を元老院に提出し、明治14年には明治天皇の「国会開設の詔」が出て、明治22年には帝国憲法が発布されて翌23年には第1回衆議院議員選挙に当選しブルドーザーの如き主張を国会で貫き「栃鎮」とあだ名され、異様な風貌の名物代議士として当時の新聞を賑わした。そして新たに発布された憲法を基に人民利益を第一と考えて藩閥政府との対決に心血を注いだ。しかし、それにも失望し残るはこれしかないと、当時天皇は現人神と言われる神であったが、死を賭してその明治天皇へ直訴に及んだ。この直訴が一朝一夕の決心でないことは『田中正造と天皇直訴事件』布川了著、を読めば分る。この事件に至るまで、帝国憲法を根拠に行った正造の行動は非暴力・不服従そのものだった。

その田中正造の頃と比べ現代社会は法治国家としての整備は格段に進歩していても、それを運用する人間の偏狭さは昔と変わらない、むしろ退歩していると言った方が良い。謙譲の美徳、不言実行等、かつての美徳は現在は不徳とさえ言われる。控えるべき偏執な主張は今ではするべきとされている。少なくとも自らを律するという武士道精神からは現代は明らかに退歩している。新渡戸稲造はアメリカの友人に宗教がなければモラルは育たないと言われてそんなことはない事を納得してもらうために『武士道』を書いたとされるが、宗教があるからモラルが育つわけではないことは歴史が証明している。社会の法によって相互の自己を律し合う以外に、即ちモラルの乱れを抑えるのは法治社会以外にない。
共産主義も民主主義も社会主義も一歩運用を間違えばその害は同じである。イデオロギーとモラルは別次元のことであるからである。
人種不平等も覇権主義も良くないとは既に皆分かっているにもかかわらず、目先の利益のために、それに今でも陥ってしまうという人間の性の拭いようもない事実は歴史が証明している。

中国は周恩来も鄧小平も覇権主義にはならないと確約していた。1972年の日中共同声明でも米中共同声明でも1978年の日中平和条約でも中国は覇権主義には陥らないと約束していた(〇覇権主義 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 
〇日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%A3%B0%E6%98%8E )。そして中国のその発展に日本は大いに協力していた。その奥には戦争で多大な迷惑を及ぼしてしまったとの深い罪の意識も大いにあったと思う。中華人民共和国憲法にさえ覇権主義には反対の文言があるという。
にもかかわらず習近平体制になった今、南沙諸島の人工島建設や飛行場建設などは覇権主義の典型だが、自分のものだから国内問題だとの詭弁で悪びれもしない。尖閣も資源があると知った途端に所有権を主張し出した。正義も不正義もないのが現実の世界だ。文明の進歩した今でさえ力のない正義はないのである。
米国も決して綺麗ごとだけではない。つい最近までも世界の警察として剛腕を当たり前のようにふるってきた。まさに覇権主義である。ベトナム戦争然り、イラク戦争然りである。第二次大戦前でも例えば明治31(1898)年に米国はハワイを武力併合した。そしてハワイ語を使うことも禁止した。今ではほぼ消滅してしまったという。
当時就任したばかりの慣れない大隈重信首相は1898年8月12日にアメリカのハワイ併合に対してマッキンリー米国大統領に対して極めて厳しい非難文書を送り外交危機に陥りそうになったという。その少し前の1893年のハワイ事変ではリリウオカラニ女王の王党派から援助を求められて日本は邦人保護を理由に軍艦2隻を送りハワイ軍港に停泊した。艦長の東郷平八郎は欧米派に話し合いを求められても拒否して無言の圧力を加えたという。更にその前の大王でリリウオカラニの実兄のクラカウア大王は1881年に日本訪問をしていて明治天皇に密会し5項目の援助や協力を依頼していた。その中には王室同士の婚姻やアジア連合等の対欧米構想の持ちかけもあったという。残念ながら日本にも余力がなく欧米との不平等条約の改正等に四苦八苦している時であり、クラカウア大王の期待には応えられなかった。欧米列強と対峙していく過程でやがて日本も1894年日清戦争、1904年には日露戦争にも突入していくことになる。(ハワイ併合 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BD%B5%E5%90%88 )。
ホノルルの公文書館に明治天皇のハワイ国王への返書が保管されているという(アメリカの侵略を受けたハワイ。国王のカラカウアは助けを求め日本へ https://naoemon.com/hawaiian-kingdom/ )。

その他にも日本は、アメリカとは第二次大戦までは何かと利害関係が対立しやすく、第一次大戦後の講和会議等でも日英仏伊米の5大国に日本がいるのを米国は煙たがり日英同盟を廃止させてしまったこともあった。当時の英首相は「・・これを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」と言ったという。この頃日本は、国際連盟規約起草で「人種的差別撤廃提案」も行ったが否決されてしまった。アメリカ国内では日本の「人種的差別撤廃提案」に対して、黒人が日本への感謝の意を表明して喜んだが、否決されてしまったことで、多くの都市で暴動が起きたという。この頃は世界的にも人種差別から政策的に脱することができていなかった。
ただ、1893年の武力行使のハワイ事変は100年後の1993年にクリントン大統領によってハワイ併合は不正義であったと謝罪している。この点は米国の偉いところではある。

「天は自ら助くる者を助く」の意味2023年03月15日

アサブロ (2023/3/12 FB メモ)
「天は自ら助くる者を助く」の意味について
「ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間」初回放送日: 2023年2月26日 https://www.nhk.jp/.../ts/2NY2QQLPM3/episode/te/WKKMRNYM8X/
 を見てショックを受けて忘れられず、もう一度NHKオンデマンドで見直してみた。
 「天は自ら助くる者を助く」の意味を初めて知った。この言葉は以前より知ってはいたがただ知っていただけだった。このウクライナの決断はその意味を如実に示していた。
 かつて明治維新前後の混乱の中で足尾銅山鉱毒事件の田中正造が東北地方の監獄の中で読んだという『西国立志編』(中村正直訳)に出て来る言葉で、「Heaven helps those who help themselves」(『Self-Help』Samuel Smiles)を中村正直が和訳した言葉と言う。
上記番組の説明書きには「2022年2月24日、世界に衝撃を与えたロシアによるウクライナ侵攻が始まった。欧米は72時間でキーウは陥落すると、ゼレンスキー大統領に脱出用のヘリコプターを準備していたという。しかし、大統領はこれを拒否、翌25日に「我々はキーウにいる。独立を守るために戦う」と世界に宣言した」とある。


鈴木宗男氏や森喜朗氏には想像もつかない世界なのだろう。
( 〇読売新聞オンライン2022/03/15「鈴木宗男氏、ウクライナ側にも責任あるとの認識…講演で「原因作った側にも幾ばくかの責任」ウクライナ情勢」 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220315-OYT1T50088/
 
〇 YAHOO!Japan 2023/1/17 鈴木宗男氏が主張 報道が不公平で「ウクライナに同情が寄る」ロシア兵の死者数報じられない https://news.yahoo.co.jp/.../a7142c009abb269878da26c78a23...
 
〇 日本経済新聞2022年11月18日「森喜朗氏「ゼレンスキー大統領はウクライナ人苦しめた」」 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA18C0V0Y2A111C2000000/
 
〇 読売新聞オンライン2023/01/26「森・元首相「ロシアが負けること考えられない」「ウクライナに力を入れていいのか」」 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20230126-OYT1T50075/
 )
今もし日本がいきなり攻められたら、こうはならない。占領されるがままで何もできないであろう。逃げる場所もない。9年前のクリミア半島を取られた時はウクライナもそうだった。どちらが正解かは分らないが亡命政府を作ってもチベットの例を見れば分かる。中華民国と中華人民共和国の関係も似たようなものだ。強引にでも取ってしまえばそれが基に歴史が動いていく。正義が勝つわけではないのは歴史が証明している。「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。弱者への配慮が必要な所以でもある。

安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。 テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・・2021年12月22日

R3.12.19.安在邦夫氏の講演と対話集会
2021/12/22 アサブロ

安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。
テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・谷中村事件を考える」2021/12/19、於館林市文化会館2階、 に出席してきた。

赤上剛氏の司会のもと、安在邦夫氏が基調講演を行い、壇上の論者がそれぞれにそれぞれの切り口から独自の見解を述べて、大変分かり易く、また得ることが多かった。
 壇上の論者は夫々、我が身に降りかかるその現場で活動している場合、少し引いて凝視しながら活動している場合、学問的に探究している場合、新しい切り口からの真実を探求している場合、それぞれの立場からの分析と見解と課題を分かり易く聞かせて頂いた。そして事前に用意されていたレジュメが良くまとめてあり、大変分かり易いレジュメで感動もした。

 そもそも、足尾銅山鉱毒事件(足尾銅山鉱毒事件と谷中村事件はこの集会では切り離して考えた方が良いとの提案であったが、ここでは広義の足尾銅山鉱毒事件とする)は、世界の公害史の原点であった(田中正造は日本のガンジーだった。2019年08月19日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2019/08/19/9142742 
)。
 日本中を巻き込んだ大事件であったにも関わらず、当時の殖産興業・文明開花・国力増強・食うか食われるかの世界の戦いの大きな流れに掻き消されながらも、法治国家を意識した、非暴力不服従の抵抗を続けた事件である。当時同時発生していた秩父事件(困民党軍の組織ー軍律 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
)や加波山事件・群馬事件・自由民権運動等も原則は非暴力主義の抵抗を理念に掲げながらも小さな内乱についついなってしまうという中で、出来る限りの努力をしていたという実態を捉えることが出来る。
 今回のテーマについて、これは安在邦夫氏が言うように、決して過去の話ではなく、現在にも通じる問題であり、東日本大震災福島原発事故の初期の功労者の双葉町長のその後の町民からのリコール、仲間であった者がやがて離脱と内部対立に向かう成田空港闘争での現在進行形の現実問題、全体闘争に政治が係わりながらやがて内部分裂に向かい問題の焦点が移って自己分裂から矮小な帰結に行き着いてしまう危惧、これらを浮き彫りにしてくれたように思う。
 最後の最後まで戦いの同志であった田中正造と左部彦次郎が究極の途端場で袂を分かつたことにより、これがクローズアップされすぎて事の本質が見えにくくなってしまっているのではないか、との掘り下げが見え隠れしてきたように思う。官憲により谷中村の家々が破壊さて尽くしてもなおそこに最期まで居残った住民の心情(※)と、その前に谷中村を去り去った先で苦労を重ねた人たちの心情は天と地ほどに違う筈である。そして同じ谷中村を去り残留民からは裏切り者と言われ北海道移住後の金策に走り回った中では身内からも疫病神と嫌われた谷中村元村長の茂呂近助の心情はまた全く別のものであったであろう。互いに全く理解し合えない別次元のそれらの心情をない交ぜにしてすべてを田中正造と左部彦次郎の2項対立であるかのように単純化した見方によってそれらの心情の違いを覆ってしまい、その2項対立が表面上支配している現今の状況、官憲の破壊後に残った一部住民のあまりにも悲惨な運命に遠慮してそれぞれがうしろめたさを抱きながら何も言い出せず、そんな中での田中正造は神、左部彦次郎はそれに逆らった今悪魔との単純な矮小化された構図に甘んじてしまうというのは後世の検証の仕方としても許されないのではないか、との問題提起を投げかけていると感じる。
(※明治40年6月29日~7月5日の最後の谷中村堤内残留16家屋が官憲により強制破壊され、木下尚江は強制破壊の話を聞き「殺されるか、拘引か」のどちらかという悲壮な覚悟で谷中村に駆け付けたが、そこで見たものは「平然日常の稼業に従事して驚かざりし」といつもと少しも変わらぬ農民の姿をみて神々しいとさえ感じ、「谷中の残留民が身を以て示した非暴力不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示を見た」と言わしめ、田中正造は同年12月強制破壊された仮小屋の中で食糧なく風雨にさらされる苦境の中で残留民に笑い涙しながら「辛酸亦入佳境」と言った。それでもその田中正造でさえ、谷中人民の見えない深い怒りの本質に気付くのはその2年後であった(正造日記明治42年8月1日)と林竹二は言っている。朝日新聞は同年10月6日付で「谷中村問題漸く落着・・」と単純に報じた。)

 これらの問題提起は大げさに言えば、いかなる理想の社会を我々が目指そうとも、人間の社会が続く限りそれ自身に内在する問題であるとも言える。
 人間が人間として生きていくために必要な人間集団である「社会」、その互いに生きるために必要な「社会」がある限り、そこにはその社会の宿命とも言える深い問題が内在していることを示しているとも言え、その問題を安在先生は言おうとしているようにも見える。

新型コロナ病床確保の在り方・熊本の慈恵病院の内密出産の苦悩・衆議院議員当選数時間のみで100万円の文通費・のテレビ報道で感じた事2021年11月19日

2020/11/19 アサブロ
新型コロナ病床確保の在り方・熊本の慈恵病院の内密出産の苦悩・衆議院議員当選数時間のみで100万円の文通費・のテレビ報道で感じた事


(以下SNS分転載)
A<2021/11/14 新型コロナ病床確保の在り方と熊本の慈恵病院の内密出産の苦悩について>

本日(2021/11/14)のフジテレビ日曜報道THE PRIMEを後半の一部のみ視聴して気になってYOUTUBEでもう一度聴き直してみた。
( 日曜報道 THE PRIME 2021年11月14日 FULL SHOW HD https://www.youtube.com/watch?v=trptBpqWH54 )
今回の医療崩壊レベル時の新型コロナの病床確保の在り方について、と熊本の慈恵病院の内密出産の苦悩、の2点について、勉強させて頂いた。

前者については田村憲久前厚労大臣は意外と分かっているんだと感心した。”本当に増えてきたときは臨時の医療施設なんです。一般医療は本来止められないので、・・・”と言っていた。野戦病院と言って具体的に動いたのは大阪府の吉村知事のみだったと思う。国も議員も理解の外だったと思っていたらこの田村前大臣は分かっていた。既存の病院をやり玉に挙げて悪者にしようとの発想しかないのかと疑っていたら、田村前大臣は理解していたことに驚いた。JCHO病院を開放しろなど発想が貧弱なことが多い中で、この方は有能な政治家と思う。アベノマスクだって、皆さん手作りマスクをお願いします、と言えば済んだ話である。
〇(尾身氏よ、自身の天下り病院の3000床を直ちにコロナ患者に開放せよ
サンデー毎日 毎日新聞 倉重篤郎のニュース最前線2021/8/26 
https://mainichi.jp/sunday/articles/20210823/org/00m/040/001000d )。
〇(「コロナ病床5%」旧国立・社保庁197病院への疑問 法律あっても病床確保は厚労相のお願いベース。松浦 新 朝日新聞記者2021/08/23 東洋経済online 
https://toyokeizai.net/articles/-/450095 )。

後者については熊本の慈恵病院の内密出産の苦悩について、こんなこともあるのかとやはり驚いた。こういう問題に対してなぜ国・政治家・日本医師会が動かないのか不思議だ。
医療の現場で刑法犯罪になってしまうのを避けようと必死に努力しているのに国も自治体も知らん顔と言うのはいくら何でも酷い。
病院が内密出産に対応すると戸籍への不実記載で刑法違反の犯罪者になるという。
暴行被害者や未成年の予期せぬ妊娠や赤ちゃんの遺棄や殺害事件が年間20数件現実に発生していることに対して、熊本の慈恵病院はその苦悩と対峙しながら診療しているということに対して何らかの免責方法を提示しないのは政治の怠慢ではないだろうか。
橋下徹弁護士が言うには「棄民」というものが法的扱いにあり日本国籍も与え得るという。日本国籍を持っていない子供も現実にいるので、この点国の出番ではないだろうか。



B<2021/11/16 衆議院議員当選数時間のみで100万円の文通費について>

(R3.11.14. 新型コロナ病床確保の在り方と熊本の慈恵病院の内密出産の苦悩について に追加 https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/3114686448759811 )
上記番組の冒頭で衆議院議員当選数時間のみで100万円の文通費が出たことに対して橋本徹氏が道理に反していると強調し、この問題になると何故か当事者の国会議員は沈黙してしまうと強調していたが、明治時代の田中正造が議員歳費辞退した時も同じことが起きていた。
 こういう問題は社会の成熟度には関係なく発生する。

以下その一部の抽出ーーー

〇a 明治32(1899)年・・3月6日議員歳費値上げ案の反対討論を行った。同10日第13回帝国議会延長会終了時に田中正造が歳費辞退した。地租増徴案に反対し議員歳費増加案にも反対の進歩党は反対演説を誰に依頼するかの相談をして田中正造に白羽の矢が当たった・・貴族院でも19票差で可決・・田中正造唯独り辞退・・歳費辞退届書を衆議院議長に提出し・・受理された。各議員・各政党・世論・新聞等から賞賛・皮肉・妬み・貶め・邪推等の様々な論評が渦巻いた。・・
〇b ・・田中正造は議員歳費増加案に反対して自らの増加歳費を辞退したが、却って「田中の歳費辞退は名聞の為だ」との田中への誹謗が、自身の属する進歩党(憲政本党)の中に起こった。一方左部彦次郎は同年五月に著作『田中正造翁:歳費辞退』を書き上げて出版した。この彦次郎の著作について、田中正造は明治三四年七月二四日付の彦次郎宛の書簡で「・・辞退ノコトハ当時真ニ此理を有するものたるをしるもの少きハ、実ニ残念ニてありし。貴下独り偶之を解して其説を為せり・・」と自分の理解者として正造は感謝している(28)。・・(〇c 左部彦次郎はたった2ヶ月でこの事件を執筆してしまった程に筆がたったようだ。)
(以下元資料)
〇a(「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)2021年03月26日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/03/26/9360762 )
〇b(足尾鉱毒事件と左部彦次郎 : その生涯と運動への関わり方 https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I030612092-00 )
〇c(田中正造翁 : 歳費辞退 左部彦次郎 著 明32.5  https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000436193-00 )
〇d(わずか4時間で100万円」国会議員の特権に橋下氏吠える 日曜報道THE PRIME 
2021年11月14日 https://www.fnn.jp/articles/-/270049 )

旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々など2021年07月08日

2021/7/7 アサブロ

旧奈良村における左部彦次郎に関して、互いに影響をし合ったと思われる人々とその関連事象について

奈良村の互いに影響しあったであろう人物については、下記が挙げられる。

・石田伝九郎(天保元年12月10日生)、明治13年県会議員、勝太郎祖父、三代目石田良助の叔父、左部彦次郎の祖母とさの三番目の弟、幼名亭次。石田伝九郎家への入婿で、石田茂左衛門家の三代目良助の叔父に当る。黒船来航の翌年1854年に奈良村石田伝九郎は帯刀の上江戸へ出府せよとの御用の命を受け給金も出たという。
・石田良助(嘉永2年6月26日生)、明治17年県会議員、三代良助、石田直太の父、石田伝九郎の兄の二代良助の子。
 ・石田勝太郎(明治3年4月14日生)、伝九郎長男の石田準太の長男、左部彦次郎のはとこ。明治21年群馬師範学校卒業(19才)、群馬師範学校長滝沢菊太郎や群馬県立中学校長沢柳政太郎に優秀さを買われて明治30年群馬県視学→明治31年佐賀県視学→明治35年文部省学務局第二課長→明治39年東京府師範学校教諭(同41年東京府青山師範学校と改称)、同42年東京府青山師範学校舎監及び主事等で活躍。明治43年5月7日41才で没、東京青山の自宅で狂犬病犬に咬まれて死亡。「子供と父母」著書。
 弟の角田喗次郎は「塩原太助」著書のほか多彩な事業を行う(勝太郎孫の石田俊一郎氏の話)。
 同弟の石田文三郎は明治45年東京園芸学校(明治41年創設)を卒業し(21才)、恩師の勧めで東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)に赴任して同大農学部助教授および同大付属植物園(明治19年高名な植物学者の宮部金吾により設立完成され園長は昭和2年退官まで宮部金吾が務めた)主任として奉職し、昭和26年には札幌市花壇推進組合長として札幌大通公園花壇の設計にも携わった。勝太郎・喗治郎・文三郎のいわゆる石田三兄弟。
・左部彦次郎(慶応3年10月24日生)は、明治21年東京専門学校入学(数え22才)、24年7月卒業(25才)、明治29年3月の県会議員選挙後の恐喝事件の時30才、その後再上京して田中正造とともに鉱毒事件に関与したが、同じ頃(明治34-35年)石田勝太郎は文部省に勤務していた。大正15年3月24日没(60才)。
・石田直太(明治6年6月1日生、彦次郎のはとこ)は、成城学校(陸軍士官学校の予備校)入学時、一時左部彦次郎と東京で同居。卒業後帰郷した。
・桑原武一郎(明治16年6月11日生)は、明治36年3月前橋中学を卒業、明治36年7月東京帝国大学農科大学林学実科に入学、同39年7月卒業、直ちに農商務省に入省。墓石にのみ早稲田に関する記述がある。彦次郎に影響を受けて上京し、4月~7月のわずかの間に新設間もない帝大実科に変更したと思われる。24才で農商務省入省時に石田勝太郎と同じ青山に居住。父死亡で大正6年帰郷、県会議員に在職中の大正15年7月2日没44才(急性虫垂炎から腹膜炎になり死亡、この時弟の六郎二は東北帝国大学を卒業して医師になっていたがその時の対応は不明。東北帝国大学医学部は明治45年に新設されたばかりだった)。
・左部寿一郎(明治33年4月5日生、街三郎の孫)は武一郎が大正6年帰郷した時は18才、東京帝国大学経済学部を大正14年卒業(26才)、昭和17年6月14日没43才。帝大経済学部は大正8年新設されたばかりであった。門司市助役や北九州市合併等を主張、北九州市俳壇にも貢献し俳号赤城子としても名を馳せた。

 これらの奈良村の同郷人たちは互いに影響し合っていたものと思われる。それぞれが新設間もない学校に入学していて、学びへの意欲が高かった。
 明治29年の左部街三郎・左部彦次郎らの騒動は奈良村の中で武一郎14才の目の前で起きておりきわめて鮮明な記憶となった。それに先立つ明治25年1月の鉱毒被害地からの彦次郎への感謝状、同2月の学苑雑誌の「校友左部氏感謝状を受く」の発表もおそらく地元でも知られていて尊敬の目で見られていたと思われる。在京中の彦次郎は石田良助や準太にも手紙を出している。左部街三郎は騒動後自死したがその弟謙四郎の長男には川場村の外交官桑原鶴・女医の桑原くめ博士の姉が嫁している。
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群馬師範学校について
明治6(1873)年に、既にあった旧藩校の前橋県学校が教員伝習所(教員伝習学校)として前橋に設立された。まもなく熊谷県を経て第二次群馬県になり、明治9年9月に群馬県師範学校と改称して高崎市の興禅寺境内に移転し1か月後には前橋の龍海院境内に移転し、更に2年後の明治11年に前橋曲輪町(現大手町)新校舎落成して移転した。明治19(1886)年の師範学校令により群馬県尋常師範学校と改称(本科4年制)した。それまでは初等科(1年制)・中等科(2年制)・高等科(4年制)が設置されていてその後も簡易科2年制等も設置された。明治21(1898)年4月の師範教育令により群馬県師範学校と改称した。明治34(1901)年には女子尋常科准教員講習科も併設され2か月後には群馬県女子師範学校として設立認可された。

前橋中学校・利根分校について
前橋中学校は明治10(1877)年に第17番中学利根川学校として成立し、明治12(1879)年に同校閉鎖して師範学校内に群馬県中学校として開設された。明治19(1886)年に第一次中学校令により群馬県尋常中学校となり、明治30(1897)年に利根分校を含む6分校が開設された。明治32(1899)年に群馬県中学校(同32年の第二次中学校令で尋常を外した)、翌33年には群馬県前橋中学校、34年に群馬県立前橋中学校となった。明治45(1912)年に利根分校は沼田中学校として独立した。武一郎は明治36年前橋中学卒業で利根分校が既にあったが明治35年仲間と撮った写真が残っておりそこには県内各地の安中・山田郡・碓氷・渋川等の出身者が写っている。利根分校だけでなく前橋の地まで出かけていった様子がわかる。渋川の平形寿七氏も写っていたので友達だった。蟻川隆敬氏(武一郎妹ももの夫)も同級生だったようだ。旧制中学も草創期であり武一郎の在学中に群馬県立前橋中学校と名称変更された。

東京専門学校・早稲田大学・東京帝国大学農科大学実科について、
 左部彦次郎が入学した時の東京専門学校(明治15年設立)は明治35年に早稲田大学と名称変更しているので武一郎が入学する前年には既に早稲田大学と改称していた(大学令による早稲田大学となったのは大正9年である)。早稲田大学を目指して明治36年に武一郎が上京したことに矛盾はない。
 東京帝国大学は明治10年よりあった官立東京大学が明治19年に公布された帝国大学令に基づき同年改称設立されて唯一の帝国大学になったがまもなく京都帝国大学ができると明治30年東京帝国大学と改称した。東京帝国大学は武一郎が入学する明治36年頃は工科大学・農科大学・法科大学・文科大学・医科大学・理科大学の6分科大学(明治30年設置)で構成されていた。農科大学は明治23年設置されていたが明治30年6分科大学に組み入れられ東京帝国大学農科大学となった。元々本科・乙科があったが乙科は廃止方向となり明治31年5月実科を開設して、乙科の学生は明治34年9月には全員卒業ないし退学したという。この実科はのちに独立して今の農工大学・筑波大学の前身である。
 武一郎は明治36年3月前橋中学卒業後上京、7月には帝大実科に入学しているので4月~7月の間に心境の変化があったと思われ、上京して後に5年前に出来たばかりの東京帝国大学農科大学実科に切り替えた。上京して早稲田以外にも道が有る事を知り明治31年に新設されたばかりの帝大実科に転じたものと思われる。
 大学予備門は明治10年よりあり大学予備門→第一高等中学校→旧制一高になるのは明治27年であるが、明治時代の旧制中学 → 旧制一高 → 帝大,というルートはなお未整備で武一郎の頃は旧制中学から直接帝大に入学できたようだ。帝国大学実科は大学予備門ないし旧制高校相当と思われ、国が即戦力を養成するために設けたルートのようで3年で卒業している。
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東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)について、

 東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
 東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
 明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
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以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
 また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
 高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
 明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
 前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。

・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。文京区の誠之小・千代田区の番町小・麹町小の各公立小学校は、「御三家」と呼ばれ、上流階級が好んで集ったという。

( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究 
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )

「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)2021年03月26日

「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)
「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)

昨年初版が発行されましたが「左部彦次郎の生涯」第二刷(修正版?)がR3.1.20.に再び発行されました。
左部彦次郎についてはご存じない方が多いと思いますが、足尾鉱毒事件の田中正造を知らない方はいないと思います。左部彦次郎は公害問題で国家権力と徹底的に戦った田中正造の軍師的役割を果たした人物でした。
 足尾銅山鉱毒事件は世界に先駆けて日本で発生したもので、世界の公害史の中の原点ともいうべき事件でした。
 田中正造(1841年生まれ)は江戸時代の反六角家闘争からはじまり谷中村廃村に至るまで理不尽な権力者に対峙した時の行動が、終始非暴力と不服従に拘った生き方をしています。それはインドのガンジー(1869年生まれ)の非暴力・不服従の生き方そのものでした。
 田中正造はガンジーより28才年上で、27歳の時から既に時の権力に対して非暴力・不服従を貫きました。ガンジーが非暴力・不服従を始めたのは46歳の時ですので、ガンジーの47年前に既に同様の行動に入っていたことになります。まさに日本のガンジーで、ガンジーの先輩でした。
 左部彦次郎は田中正造よりも早くからその公害問題にかかわり、明治の殖産興業の大きなうねりの中で共に同士として徹底抗戦する中で、もはや状況は変えられないという土壇場で田中正造は自滅覚悟の道を歩み、左部彦次郎は現実的な次善の策を選択して両者袂を分かったという間柄でした。それ故もとの仲間同士の間にもそれぞれの人たちの深奥にしこりを残して解決を阻んできました。
 著者は終章で、この二人の間の問題は、最近の東電福島第一原発事故で運動の指導的立場にいた人が住民の批判を受けるようになりやがてその地位を追われる状況が生まれたことと、課題が重なると考察しています。決して過去の問題ではなく未来にも起き得る問題でさらに研究すべき課題であると言っているようです。

足尾の山が枯死していく一方で、坑道に使う木の補充に、一山超えた群馬県側の木を伐り出すためにと出来た村があり、足尾銅山の衰退とともに消え去った幻の村があったことを初めて知りました。
 その村の記録が見つかったとのことで過日、下記の展示会場に行って説明を聞いてきました。
(沼田市歴史資料館3/4~4/4 第11回企画展「足尾銅山を支えた根利山―幻の集落―根利山」 https://www.gunpaku.com/news/48/ )
 足尾の山木が枯死したために、百名山の皇海山の反対側にも一時期5000人の集落が出来ていたそうです。幸い古河鉱業が写真家も派遣していたために記録が残っていたとのことでした。

歴史とは何か?2020年11月25日

「歴史とは何か? こんにちは。左大臣光永です。」
https://sirdaizine.com/CD/rekishitowa.html
 この方は歴史オタクと思われる方で、古典については極めて幅広い知識を身に着けている。歴史の天才ではないかとも思っている。そしてそのホームページを時々見に行って勉強させて頂いている。
 このご意見、誠にごもっともと思う。
 明治維新しかり、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康しかり、成功させたものはみな偉人でもあり生き方の天才でもありそして紙一重の狂人でもある。そこには善悪はない。数の力・物理的な力・社会的な権力、信仰の力、何らかの力で成就させればそれが歴史の土台となっていく。
 最後は正義が勝つ、なんて若い頃は信じて疑わなかったが、現実はそんなことはない。社会を動かしているものが正しいとは限らない。でもそれを土台に社会が成り立っていく。そしてそれが歴史になる。2000年前史記を書いた司馬遷も伯夷列伝で、正しくても報われず悪人も栄える、といって嘆いたという。明治維新も正義だから勝ったのではなく勝ったから正義になり官軍になった。「勝てば官軍負ければ賊軍」である。無理が通れば道理引っ込むとも悪貨は良貨を駆逐するとも言う。今のトランプ大統領をみても判る。正義か不正義か、そんなことは大海の中のコップの水の中でのことであり、自分が正しいと思うこと自体がはかなく空しいことだ。諸行無常である。大きな自然の流れから見れば長くても100年ちょっとしか生きられない人間個々人など吹けば飛んで消えるような有っても無くても良いようなものだ。
 しかし所詮そのようなものであるからこそ、生まれた以上人はみな皆それぞれに生きる価値があり、生きる意味もあり、その軽重はない。科学は進歩するが心は進歩しない。心は何千年と行きつ戻りつして進歩せず、大部分の人は歴史の中に元々無かったかのように消えていく。哲学者ヴィトゲンシュタインはジャストローの絵「アヒルに見える?ウサギに見える?」等の「絵」を使って、「人は一人ひとりみな違う」ということを説明したが人間一人ひとりみな見ているものは違う。網膜に映る像は同じでもその解釈は大脳後頭葉の視覚野で行うので同じものを見ているというのは単なる錯覚である。事実を見たと思っても同じ事実を見ていない。地球上の70億人全てが同じものを見ても脳の解釈は夫々別のものを見ていることになる。

<div class="msg-pict"><a href="http://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2020/11/25/5c66a6.jpg.html"
target="_blank"
onClick="return asablo.expandimage&#40;this,384,453,'http://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2020/11/25/5c66a6.jpg')"><img src="http://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2020/11/25/5c66a5.jpg" alt="アヒルに見える?ウサギに見える?" title="アヒルに見える?ウサギに見える?" width="300" height="353"></a></div>

 即ち、人間は見るもの聞くもの考えるもの、相互に偏っている。偏っていることを相互に自覚しないことが対立を生み、戦争を生む。その違いを受け入れない限り共存は出来ない。その典型が宗教とイデオロギーである。そこには善悪も正義不正義もない。思い込みあるいはそれぞれの信念があるのみである。そしてしばしば衝突する。
 数日前にジョンレノンのドキュメンタリーをNHKテレビBSで「イマジンは生きている ジョンとヨーコからのメッセージ」を放映していた。「イマジン」の歌詞でジョンレノンを赤で危険人物とその時の米国FBIが断定していたそうだ。no religionの言葉尻をとらえて宗教を侮辱していると保守派の攻撃も受けたという。どこでケチを付けられるか分かったものではない。不動の心をもって、どこまで協調しどこから服従するかは難しいし、その判断は一人ひとり違う。それでも共存するためにひとつ言えることは、論語にもあるように「和して同ぜず」ということだ。そしてそこに善かろうが悪かろうがすべての存在意義がある。
 昨夜、やはりNHK BSでアナザーストーリー「三島由紀夫 最後の叫び」を放映していた。ちょうど50年前の出来事だ。自分は学生時代でどう生きるべきかで悩んでインドを無銭旅行したりしていた頃だった。この頃は自分のことを考えることが精いっぱいで、色々な人がいるなという程度の受け取り方だった。強い印象は残っていない。あの頃は学生運動が真っ盛りの頃で集団でのリンチ殺人や早稲田大学構内で殺人事件があっても罪にならなかった変な時代だった。ノンポリで何もしないのは悪いことをしているのと同じだと責められて辛い思いもした。それでも「これは俺の性分だ」と自らに言い聞かせた。でも悩みながらインドにも行った。静岡三島の沖ヨガ道場にも行った。四国多度津の少林寺拳法道場にも行った。そんな時代に三島由紀夫事件は起きた。今初めてその真相を知った。自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室で真一文字に横に10cm以上、腸が飛び出るほどの見事な切腹だったという。その介錯をした森田も並んで切腹した。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
)。その時朝日・毎日等大手の新聞は示し合わせたように狂気の暴走、反民主主義的な行動と簡単に断罪し、警察当局も事件を単なる暴徒乱入事件で処理する方針であったという。国内においては横並びの評価なのに対して、海外からは「私は佐藤首相が三島の行動を狂気と言ったのが間違いであることを知っている。三島の行動は論理的に構成された不可避のものであった。・・・世界は大作家を失ったのである」(ドナルド・キーン)、「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか。・・かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレキサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう。・・・彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ。」(ヘンリー・ミラー)等との評価もあったという。益田兼利総監はなぜこんなことをするんだと聞いたが三島はこうするしか仕方なかったと言ったという。用意周到に計画されて三島にとっては死を覚悟した上での行動だったという。
 これを聞いた時に、明治時代の田中正造が思い浮かんだ。
 権力に逆らい自分の行動が効を奏しないのは承知の上で消えゆく谷中村に最後まで残留し続けそしてその途上亡くなった。一方、同じく権力に逆らい続けた同志の左部彦次郎は土壇場で現実的な次善の策を選んで袂を分かち田中正造からは今悪魔と言われ、世間からは裏切り者のレッテルを貼られ寂しく亡くなった。どちらも自らの信条に基づき行動せざるを得なかった選択であったと思う、互いが互いの信念に従って「こうするしか仕方なかった」と。田中正造はガンジーに47年先駆けて ”非暴力不服従” を貫いた人である。約120年前の足尾鉱毒事件の評価は今でも田中正造は神で左部彦次郎は裏切り者という世間のレッテルは変わらない。いかに理不尽で世間の断罪が軽薄なものか、あてにできないか、この三島事件の放映を見ても分かる。世間の評価がどうであろうと、自分は自分で生きて行って良いのである。