選択的夫婦別姓に反対する候補には「投票しない」と女たちの会 ― 2025年04月11日
選択的夫婦別姓に反対する候補には「投票しない」と女たちの会
行き過ぎた固定観念に異を唱える勇気ある人たちが行動に出てきた。
古い伝統と勘違いして明治になって初めて創られ、あるいは明治になって根付いてしまった習慣や観念は伝統と称して沢山ある。それにしがみつき過ぎるのはどうかと思う。
<選択的夫婦別姓に反対する候補には「投票しない」その明確な理由 「女たちの会」が参院選を前に声明公表2025年4月4日東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/article/396377?fbclid=IwY2xjawJlokVleHRuA2FlbQIxMQABHu1FDh7lzn3vSuvCfTnLUJ8210Ljo178q7eGKqiqd4grVmRMa7jrMdklFLpL_aem_bzylg_GtiX1yXLhYnhb0QQ 。>
男尊女卑という考えは紀元前の中国より有ったとはいえ、日本は鎌倉時代以降戦国時代までは実力社会で男女同権でもあったというのが事実であるようだ。聖徳太子の冠位十二階も始まりは身分に関係なく有能な人材の登用が目的であったという。しかし既得権益にしがみ付く人間の性ゆえに歪められて逆効果になることが古から今日に至る迄も繰り返されてきた。
鎌倉時代は女の地頭職や御家人も居たし、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉にも謁見して多くの記録も残したと言われるルイス・フロイスも「日本の女性が男性と対等の権利を持っている」と記録に残しているという。それより前でも熊谷氏の娘で発知二郎(沼田氏分家)に嫁し夫の死で後家になった尼明法乗信は熊谷郷の熊谷彦次郎に対して領地争いで1300年に訴訟を起こしている。
靖国神社は明治になって国策で初めて創建され戦争に利用され第二次世界大戦まで続いた。そして大戦後に民間の宗教法人になった。しかし何故か今でも得体のしれない恐ろしい程に一部の日本人の心を掴んでいる。明治から昭和にかけて多くの日本人が戦争で死に英霊として祀られているので、それを金科玉条に掲げられて反論できる日本人は誰もいないであろう。日本人の中には身内や親戚の誰も祀られてはいないという人はいないであろうが、身の回りには靖国神社に特別の感情を持っている人は居なかった(自分の母の弟も祀られているがその母に靖国神社への拘りは全くなかった)。一般国民に紛れて誰かが利用しているのは間違いない。そうでなければ福田康夫首相が千鳥ヶ淵を日本人の心にしようと決めて検討に入り間も無く立ち消えてしまったことを説明できない。
行き過ぎた固定観念に異を唱える勇気ある人たちが行動に出てきた。
古い伝統と勘違いして明治になって初めて創られ、あるいは明治になって根付いてしまった習慣や観念は伝統と称して沢山ある。それにしがみつき過ぎるのはどうかと思う。
<選択的夫婦別姓に反対する候補には「投票しない」その明確な理由 「女たちの会」が参院選を前に声明公表2025年4月4日東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/article/396377?fbclid=IwY2xjawJlokVleHRuA2FlbQIxMQABHu1FDh7lzn3vSuvCfTnLUJ8210Ljo178q7eGKqiqd4grVmRMa7jrMdklFLpL_aem_bzylg_GtiX1yXLhYnhb0QQ 。>
男尊女卑という考えは紀元前の中国より有ったとはいえ、日本は鎌倉時代以降戦国時代までは実力社会で男女同権でもあったというのが事実であるようだ。聖徳太子の冠位十二階も始まりは身分に関係なく有能な人材の登用が目的であったという。しかし既得権益にしがみ付く人間の性ゆえに歪められて逆効果になることが古から今日に至る迄も繰り返されてきた。
鎌倉時代は女の地頭職や御家人も居たし、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉にも謁見して多くの記録も残したと言われるルイス・フロイスも「日本の女性が男性と対等の権利を持っている」と記録に残しているという。それより前でも熊谷氏の娘で発知二郎(沼田氏分家)に嫁し夫の死で後家になった尼明法乗信は熊谷郷の熊谷彦次郎に対して領地争いで1300年に訴訟を起こしている。
靖国神社は明治になって国策で初めて創建され戦争に利用され第二次世界大戦まで続いた。そして大戦後に民間の宗教法人になった。しかし何故か今でも得体のしれない恐ろしい程に一部の日本人の心を掴んでいる。明治から昭和にかけて多くの日本人が戦争で死に英霊として祀られているので、それを金科玉条に掲げられて反論できる日本人は誰もいないであろう。日本人の中には身内や親戚の誰も祀られてはいないという人はいないであろうが、身の回りには靖国神社に特別の感情を持っている人は居なかった(自分の母の弟も祀られているがその母に靖国神社への拘りは全くなかった)。一般国民に紛れて誰かが利用しているのは間違いない。そうでなければ福田康夫首相が千鳥ヶ淵を日本人の心にしようと決めて検討に入り間も無く立ち消えてしまったことを説明できない。
NHK BS「・・政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望」 ― 2025年04月13日
NHK BS「・・政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望」
NHKテレビBS「英雄たちの選択」シリーズ 昭和のあけぼの (1)政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望(再放送2025/4/16(水) 午後5:00〜午後6:00) https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/BM1R2WRGM3/ 。
何となくビデオ録画しておいたものを見て予想外に大変勉強になった。
足尾鉱毒事件について左部彦次郎は世間では誤解されていると感じて以来調べ始めた歴史の素人が、田中正造やガンジーや牧野伸顕や黒澤酉蔵など様々な関係を知り、その歴史のダイナミックさに興味をそそられて以来、歴史に興味を持つようになった。
しかし多くが断片的であるが今回、田中儀一首相が天皇に激怒されたこと、天皇機関説の意味、政党政治・藩閥政治の意味、元老院の意味、教育勅語の意味、天皇は君臨すれども統治せずの意味、それぞれバラバラに記憶に残っていたものを鮮やかに整理してくれた。そして歴史オタクの磯田 道史氏の知識には改めて敬服した。
今、第二次大戦後の反省から築かれてきた世界の秩序から武力政治に逆行しつつある、その理由の一端を教えてくれた。
NHKテレビBS「英雄たちの選択」シリーズ 昭和のあけぼの (1)政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望(再放送2025/4/16(水) 午後5:00〜午後6:00) https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/BM1R2WRGM3/ 。
何となくビデオ録画しておいたものを見て予想外に大変勉強になった。
足尾鉱毒事件について左部彦次郎は世間では誤解されていると感じて以来調べ始めた歴史の素人が、田中正造やガンジーや牧野伸顕や黒澤酉蔵など様々な関係を知り、その歴史のダイナミックさに興味をそそられて以来、歴史に興味を持つようになった。
しかし多くが断片的であるが今回、田中儀一首相が天皇に激怒されたこと、天皇機関説の意味、政党政治・藩閥政治の意味、元老院の意味、教育勅語の意味、天皇は君臨すれども統治せずの意味、それぞれバラバラに記憶に残っていたものを鮮やかに整理してくれた。そして歴史オタクの磯田 道史氏の知識には改めて敬服した。
今、第二次大戦後の反省から築かれてきた世界の秩序から武力政治に逆行しつつある、その理由の一端を教えてくれた。
NHK歴史テレビ番組の ‘奇想天外な策略で戦国を生き抜いた伊達政宗”の意外な側面’ ― 2025年04月25日
NHK歴史テレビ番組の ‘奇想天外な策略で戦国を生き抜いた伊達政宗”の意外な側面’
伊達政宗のドラマは少なからず見たが、このような視点からの解釈は初めて聞いた。面白く、策略の天才とも思えた。地元の人たちにとっては知る人ぞ知るで当たり前のことだったのかもしれないが、それにしても摺上原の戦い前後の分析にはそうだったのかと大いに勉強した。
会津黒川城主の蘆名義広は、明治の足尾銅山鉱毒事件で名を馳せた左部彦次郎の先祖でもある。
蘆名義広は佐竹家から蘆名家へ養子に入り蘆名を名乗った人物だが常陸国の佐竹義重は蘆名義広の実父でその佐竹氏を継いだ義宣は実兄である。その佐竹義宣も1600年関ヶ原の戦い後に徳川家康から秋田城(正確には湊城/久保田城)への減転封を命じられたので、摺上原の戦いで政宗に敗走して佐竹に身を寄せていた義広も同行し、のちに支藩の角館城主になった(義広→盛重→義勝と改名を繰り返した)。
摺上原の戦いで伊達政宗は黒川城を手に入れたものの小田原合戦遅参を責められて豊臣秀吉は黒川城を蒲生氏郷に与えたため、伊達政宗は米沢城に戻ったものの同年中の奥州仕置(1590年)で米沢城も蒲生氏に与えられかつ翌年の領地没収で岩出山城に移った。その後の会津黒川城は1598年上杉景勝の手に渡ったが関ヶ原で西軍に付いたために米沢城へ減封(1600年)となり、転封して来た蒲生氏が再び黒川城に入城、その後は江戸時代になって(1643年)会津松平家にとって代わってからは戊辰戦争の松平容保まで続いた。
このような経過を辿った黒川城であったが秀吉は蘆名に返さず蒲生氏郷に渡してしまったために、蘆名義広の妾腹蘆名又十郎盛近は行き場を失い暫く常陸国田島村等に潜伏し殺害を恐れて家臣の勧めで佐部姓に改姓しのち上野国奈良村に移住した。これが家史の記録である。
蘆名盛近から19代目?の左部寿一郎は『躍進群馬県誌』昭和15年発行45頁で「天正年間会津城主蘆名氏滅亡に当り次男雅樂池田村奈良に逃れ郎党と共にこの地に住し、・・・左部と改め現在に及んで19代なり」と述べている。左部寿一郎は東京帝国大学を卒業後北九州市の合併等に尽力し俳諧にも通じ(俳号赤城子)、先祖代々と同様に俳諧にも造詣が深かったが早逝した。
江戸高輪泉岳寺に歌碑がある蘇和も父の三岳(江戸時代後期の14代目?左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて江戸に遊んだという。寿一郎の弟左部千馬(俳号人日居)も旧制中学時代に “千円もあれば日本詩壇を掻きまわして見せる” などと豪語していたと友人の児童文学者で詩人の小野忠孝に語る程に自負を持っていた(『詩集 若き日の歌』の跋文)。芝高輪泉岳寺の蘇和の『楓樹の碑』に「春風や空に消えゆく舟のみち」。
左部彦次郎の娘で歌人の大場美夜子は詩集『かく生きて』の中で左部千馬と会っていて「自分の俳句好きも家系によるらしい」と書いている。
〇NHK歴史探偵「伊達政宗の策略」初回放送日:2025年4月23日再放送予定4月29日(火) 午後11:50〜午前0:35 https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/BR4KVL1RJ2/ 。
〇YAHOO!Japanニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/a02df6e22797a9df8177dbc45cec72f3cf795446 。
伊達政宗のドラマは少なからず見たが、このような視点からの解釈は初めて聞いた。面白く、策略の天才とも思えた。地元の人たちにとっては知る人ぞ知るで当たり前のことだったのかもしれないが、それにしても摺上原の戦い前後の分析にはそうだったのかと大いに勉強した。
会津黒川城主の蘆名義広は、明治の足尾銅山鉱毒事件で名を馳せた左部彦次郎の先祖でもある。
蘆名義広は佐竹家から蘆名家へ養子に入り蘆名を名乗った人物だが常陸国の佐竹義重は蘆名義広の実父でその佐竹氏を継いだ義宣は実兄である。その佐竹義宣も1600年関ヶ原の戦い後に徳川家康から秋田城(正確には湊城/久保田城)への減転封を命じられたので、摺上原の戦いで政宗に敗走して佐竹に身を寄せていた義広も同行し、のちに支藩の角館城主になった(義広→盛重→義勝と改名を繰り返した)。
摺上原の戦いで伊達政宗は黒川城を手に入れたものの小田原合戦遅参を責められて豊臣秀吉は黒川城を蒲生氏郷に与えたため、伊達政宗は米沢城に戻ったものの同年中の奥州仕置(1590年)で米沢城も蒲生氏に与えられかつ翌年の領地没収で岩出山城に移った。その後の会津黒川城は1598年上杉景勝の手に渡ったが関ヶ原で西軍に付いたために米沢城へ減封(1600年)となり、転封して来た蒲生氏が再び黒川城に入城、その後は江戸時代になって(1643年)会津松平家にとって代わってからは戊辰戦争の松平容保まで続いた。
このような経過を辿った黒川城であったが秀吉は蘆名に返さず蒲生氏郷に渡してしまったために、蘆名義広の妾腹蘆名又十郎盛近は行き場を失い暫く常陸国田島村等に潜伏し殺害を恐れて家臣の勧めで佐部姓に改姓しのち上野国奈良村に移住した。これが家史の記録である。
蘆名盛近から19代目?の左部寿一郎は『躍進群馬県誌』昭和15年発行45頁で「天正年間会津城主蘆名氏滅亡に当り次男雅樂池田村奈良に逃れ郎党と共にこの地に住し、・・・左部と改め現在に及んで19代なり」と述べている。左部寿一郎は東京帝国大学を卒業後北九州市の合併等に尽力し俳諧にも通じ(俳号赤城子)、先祖代々と同様に俳諧にも造詣が深かったが早逝した。
江戸高輪泉岳寺に歌碑がある蘇和も父の三岳(江戸時代後期の14代目?左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて江戸に遊んだという。寿一郎の弟左部千馬(俳号人日居)も旧制中学時代に “千円もあれば日本詩壇を掻きまわして見せる” などと豪語していたと友人の児童文学者で詩人の小野忠孝に語る程に自負を持っていた(『詩集 若き日の歌』の跋文)。芝高輪泉岳寺の蘇和の『楓樹の碑』に「春風や空に消えゆく舟のみち」。
左部彦次郎の娘で歌人の大場美夜子は詩集『かく生きて』の中で左部千馬と会っていて「自分の俳句好きも家系によるらしい」と書いている。
〇NHK歴史探偵「伊達政宗の策略」初回放送日:2025年4月23日再放送予定4月29日(火) 午後11:50〜午前0:35 https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/BR4KVL1RJ2/ 。
〇YAHOO!Japanニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/a02df6e22797a9df8177dbc45cec72f3cf795446 。
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