室町時代前期の奈良原遺跡について2024年12月03日

奈良原遺跡の新聞記事(上毛新聞)
図1

室町時代前期の奈良原遺跡について

奈良原地区は高王山麓の発知川を挟んだ東対岸に位置した所で、高王山頂には戦国時代には高王山城が作られた。1581年の高王山城の戦いの際には、沼田平八郎景義が東毛の由良国繁の援軍とともに通った場所であると口伝えで言われている所である。平八郎は沼田氏内紛で会津へ逃れた後にその後上野に戻り東毛の由良氏の庇護のもとに女淵城の城主になっていたが、真田昌幸の城代支配になっていた旧領沼田城に復帰することを企てて由良氏援軍とともに1581年に数千の兵とともに原地区を通って高王山城に登って行ったと伝えられている。しかし伯父の金子美濃守の甘言に騙されて下山し武装を解いて沼田城に入ったところで殺されてしまったと言われている。その沼田平八郎景義を沼田大明神として祀った祠が法城院にある。
その時代を遡ること室町時代前期については今の所奈良村には文書記録が全く見つかっていない。しかしながら山を隔てた隣村の川場村及び白沢村には“氏時のゆだん川原”や”義宗のうつぶしの森”などの大友氏時や新田義宗のエピソード等その頃の記録が少なからずあるので大友氏と利根地域との関わりを中心に時系列で記してみた。
川場村谷地に現在もある吉祥寺は1339年に大友氏泰18歳の時に父貞宗の追善のために創建されたとされ、氏泰死去して弟の氏時が開基し、中巌円月が開山したと言われている。この時氏泰の兄即宗和尚が吉祥寺境内の止々庵に来たという(沼田市史)。
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奈良村の古文書は管見に依る限り江戸時代中期の奈良村名苗顕然記(みとり騒動で知られる石田要右衛門が永牢になる16年前に祖父から三代にわたって集めた資料を1766年にまとめたもの)が残存する以外には戦国以前の資料は殆どない。奈良原遺跡に係る記録のかけらがあるかもと思い名苗顕然記の江戸前期記録と地域の小字の位置関係を調べて示してみた(図1:新聞記事、図2:奈良村小字の位置関係)。
遺跡としては南端に奈良古墳群がわずかに今も残っているが以前は奈良の百塚と言われ自分の子供の頃は実際百基近くあったが今は数基しか残っていない。これは榛名山二ツ岳噴火後で聖徳太子の頃築造されたと思われる古墳時代終末期の典型的な群集墳とされている。渋川の日本のポンペイと言われる遺跡の住人が逃れて築造したとも想像されるものであるが遺跡発掘物以外には知る由もない。昭和30年の大学による発掘物は未だに未整理である。その後の発掘物からは馬生産に係る住人がいたことは確かのようだ。

図2
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2024/12/03/6e691a.jpg.html"
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以下に室町時代前期の頃の川場村を中心とした大友氏ら記録に残る利根の歴史事象について記してみた。

大友氏の祖は平安時代後期には既に上野国の北毛と言われる沼田利根の地に住んでいたという記録がある。『北毛乃史跡と伝説』『古馬牧史』によれば大友経家(平経家)の祖の大友良部助善正が住した大友氏館が下牧村の師に既にあり、古墳時代の難波皇子の子大宅真人の末裔の利根氏でもあるとされる。源義家が奥州征伐凱旋の折にその下牧村玉泉寺(1063年利根太郎宗平が建立)の八幡宮に甲冑を収めたという。後三年の役(1083―1087年)では源義家は戦功を朝廷から認められず私戦と非難され、配下への恩賞は私財を放出した。上野国はじめ関東を育んだのはもともとは平氏であったが、これがきっかけとなり、後に関東に於ける源氏の名声を高めることになり約100年後の頼朝の勝利にも繋がったとされている。この頃(1091年)すでに藤原氏の荘園として利根の地に土井荘があったとの記録が「後二条師通記」にある。
1108年に浅間山の天仁大規模噴火が発生し、この時上野国一帯が埋まり田畑の再開発に伴って豪族の私有化とその荘園化が一気に促される契機になったという(日本歴史地名大系第10巻1987年)。
後に室町幕府を開く足利氏の足利荘及び新田氏の新田荘の元が上野国東毛地区にできるのもこの頃である。足利荘は源義家の孫の源義国が安楽寿院に寄進し、家人の藤原姓足利家綱が開発領主として在地の下司となり源義国がその預所職(統括職)となり、その後源義国の次男源義康も父から足利荘を相続して足利義康を名乗りその下司職になっていた(この時はまだ藤原姓足利氏と源姓足利氏は協調関係にあった。安楽寿院領足利荘は1142年に成立)。新田荘は源義国の長男の新田義重が空閑地を開発して私領を形成し花山院藤原忠雅に寄進して在地の下司職になり1157年に成立した(源義国の長男新田義重が新田氏の祖となり、次男の足利義康が源姓足利氏の祖となった)。
この頃上野国北毛の利根荘も安楽寿院領だった(この頃の利根荘は土出庄=土井出笠科荘と範囲が重なるようになっていた)。
1159年に大友経家18歳の時に京に上り平清盛から上野国の利根と勢多(現在の利根沼田全域)を賜り、1172年には相模国足柄上郡大友郷も清盛から賜った。この頃より利根の地は大友氏の所領になっていった。(大友経家は相模国波多野遠義の子で上野国沼田氏を継ぎ経家弟の沼田家通が相模国沼田郷を開発しその子孫が越中沼田氏の祖になったという。経家の兄波多野義通は相模国波多野荘を継いだ。大友経家は平経家とも利根四郎経家、和田四郎経家とも言った。)
利根郡誌によれば奈良村は承安の頃沼田左衛門経家領とあるので1199年の石田勘解由らによる奈良村立村前から平経家の領地であったと思われる。
1170年頃表面上は清盛に従いながら内実では源氏方として伊豆流配中の頼朝にも接し、経家は娘の利根局を側室に差し出し世話をさせ、大友能直を生んだ。これが九州大友氏の祖である(大友能直は頼朝の欧州征伐にも従軍しており1193年には22才で頼朝より豊前・豊後の守護職に任ぜられて能直以後の利根沼田はその代官支配となっていた)。
1186年大友経家は頼朝より利根の地頭職に任ぜられ、この頃から大友一族が利根沼田全域を支配し大友氏領となった。この頃の土出笠科荘(利根郡のほぼ東半分)は安楽寿院領であるが従前より平経家が地頭であった。
1222年には川場村谷地にも大友館が築かれたという(沼田市史、川場村の歴史と文化。沼田荘の庄田の地にもすでに大友館があったことが知られている)。
1247年宝治合戦で三浦氏一族500人以上が集団自決して相模三浦氏滅びるも、泰村の次男三浦景泰が逃れて利根の荘田城(薄根村井土上)に来て、後期沼田氏(三浦沼田氏)初代となったが、同じ頃大友親秀(九州大友2代)が近隣の古馬牧村に明徳寺城(みなかみ町後閑)を築いているので、大友沼田氏と三浦沼田氏は一時併存していたが(大友親秀の妻は三浦義連即ち佐原十郎左衛門義連の娘である)、やがて三浦沼田氏が優勢になっていく。
1333年建武の中興で鎌倉幕府滅亡し、後醍醐天皇の親政はじまったが間もなく足利尊氏離反して(護良親王が征夷大将軍・足利尊氏が鎮守府将軍に任命されるも両者の折り合いが悪化)2年半で崩壊した。
上野国・越後国・播磨国の国司は新田義貞がなり一族の代官が政務を執っていたが、後醍醐天皇側に就いた新田義貞は。1335年上野・越後の守護職を尊氏により剥奪され上杉憲房に任命替えされた。
1336年12月足利尊氏は建武式目を定めて政権樹立を宣言(征夷大将軍任命は1338年)して南北朝時代が始まった。九州大友氏の貞載・氏泰兄弟は戦いの最中に南朝方から尊氏北朝方に寝返り(大友氏泰・氏時兄弟は足利尊氏の猶子となった)、一方三浦沼田氏は新田義貞南朝方についた。
1339年川場村吉祥寺が大友氏泰・氏時によって、先に述べた如く創建された。
1351年足利尊氏・直義兄弟の対立で観応の擾乱となり、主に九州の地では南朝方・北朝方の戦いが繰り広げられていた。翌1352年には南朝後村上天皇が征夷大将軍宗良親王を通して新田義貞の遺子らの新田義興(次男)・新田義宗(三男)・脇屋義治(義宗従弟)らに足利氏追討の命を出して挙兵し一時鎌倉占拠するも越後へ敗走した。
一方九州の地では1354年南朝方菊地武光が勢力を盛り返し北朝方大友氏泰が敗退した。大友氏時も筑後川の戦いで南朝方菊池武光に破れた。1361年には菊地武光ら南朝方が九州大宰府を制圧して北朝方から奪取した。
しかし、京都は北朝方一色であり、氏時に対して後光厳天皇と将軍足利義詮から南朝方菊地武光らを追討せよとの命令が出ていた(将軍義詮は鎌倉執事上杉憲顕に命じて利根荘を大友氏時に返付せしめたと言う記録が有る。北朝(南朝の間違い)に味方した三浦沼田氏も尊氏に所領没収されて滅亡したとも言われるが一部で存続していた。後の戦国時代には再び実権を握り逆転を繰り返す)。
この頃九州大友氏の遠隔所領として大友氏の在地代官が沼田荘ではなく川場村を拠点として利根の荘の各郷に代官を置くようになったという(沼田市史)。
1363年大友氏時が逃れて利根郡川場村に来て谷地の大友館に住す(沼田町史、利根村誌、川場村の歴史と文化)。この時、今井氏・高山氏・関氏・吉野氏・桑原氏・久保田氏・外山氏の7人の郎党とともに落ちてきて来て、川場村門前に土着した(川場村名主館記、川場村の歴史と文化)。
<大友氏時は戦いに嫌気がさして川場村に逃れてきたとも言われるが、その死亡場所については異説ある。川場村に大友氏時妻大智庵祐宗比丘尼・大友家家老桜井兵部および大友一族が居住していたことは確かであり、氏時の子の珠垣媛もいたという(根岸氏家伝の墓石に記されている)。氏時自身は豊後国で既に死去したとの説もあるが、『北毛乃史跡と伝説』には大友氏時夫婦の墓石のある川場村桂昌寺住職高橋宗育宛に「大友氏時の死は豊後の館にあらずして川場谷地の館の方が真に近し」と豊後大友宗家大友義一氏から便りが昭和11年夏にあったとある。しかし現在大分県史では大分の地で没したことになっている。>

1368年新田義貞の遺児義宗らが川場村大友氏時らを攻めた白澤村戦争が発生した。前年に第2代将軍義詮・弟の基氏(初代鎌倉公方)が没したため新田義宗・脇屋義治が越後で挙兵上野国に入る。
3月に南朝方義宗らにより北朝足利方の大友氏時が川場村で討ち取られる(氏時のゆだん川原)。7月には利根沼田各地で鎌倉足利方と戦い新田義宗も白澤村で討ち死にする(義宗のうつぶしの森)、享年37歳(地元民による新田方、足利方の両者多数死亡者を弔う塚跡が残存し、雲谷寺に義宗の墓がある)。(大友氏時の内室と娘珠垣媛は生き残った。珠垣姫は高平村領主根岸登格之輔橘騰雅タカマサの3男に嫁し茂木主馬之助シュメノスケと名を隠し一時流浪しその後貝之瀨村に来て旧姓根岸に戻り帰農したという。根岸虎司氏は大友氏時19世の孫という(糸之瀬村誌、貝之瀨の墓誌、北毛の史跡と伝説、久屋館址) )。
<『川場村の歴史と文化』109頁の大友義一氏の所録には「現今氏能の子孫利根郡貝之瀬に住み姓を根岸と称すと云へり」とあり、大友宗家もこの件は承知していた、氏能は氏時末子。大友氏時本人が川場へ来たかどうかについてはこの中では否定的であり、その奥方心月祐宗比丘尼及び家来衆が川場に来て隠棲し川場で亡くなったのは史実で間違いないという。地元では氏時がゆだん河原で亡くなったともいうが九州の地で亡くなりしかも、合戦で亡くなったのではなく敗戦後5年目に亡くなり豊後府中の乙原の吉祥寺に葬られたのではないかとこの村史はしている(地元郷土史家の岸大洞は川場死亡説を採っている―沼田万華鏡第6号)。また、のちの戦国時代に上杉謙信らが越山で利用した三国越えと清水越え等のルートのうち清水越えの拠点の清水城はこの頃築城されたとされる(『清水越の歴史』谷川岳山岳資料館)。このルートは幻の国道として今も登録されている。>

この時、川田村屋形原、利根村及び白澤村(反町城趾あり)は新田方、隣村川場村は足利方で敵同士であった。沼田氏一族は新田義貞方で戦いその後尊氏に領地を没収されて衰退して行った(白旗一揆のグループに入りのちに再起する)ので、この時点は各々村や郷の代官が足利方か新田方か不明。利根沼田地方は新田源氏挙兵の重要地点でありかつ狭い地域で敵味方入り乱れていた(沼田市史、沼田町史、白澤村史、薄根村史、川場村の歴史と文化)。川田村屋形原で防戦した新田方大将は屋形原八幡宮に祀られている新田義貞の孫の生形義脇とされている(川田村史)。脇屋義治は出羽に逃れたとも阿波に逃れたとも言われる。新田義宗の最期についても逃れて出羽国・阿波国・伊予国まで行ったとの伝承もあるが、この点は大友氏時についても言えることで、近しい人物がいたからこそ生まれた伝承と考えて良いであろう。
1392年の明徳の和約の成立まで南北朝の対立は燻ぶり続き、さらにそれ以後も利根沼田地域は内輪もめ、足利、上杉、北条、武田、真田、長尾等入り乱れて秀吉全国統一まで約200年続く戦乱の時代に突入していく。

参考:
https://ku-wab.asablo.jp/blog/2015/12/08/7941612 。