肺ラ音の命名ルールの共有について ― 2025年11月16日
肺の聴診音の表現について医師の相互共有が曖昧だった故に確認してみた。ラ音の分類と命名法、日本語・英語・ドイツ語の相互共有の統一は既に決まっていたと思っていた。
改めてその根拠をインターネットで調べてみたけれど見つからなかった。確か肺ラ音の命名については、過去に既に決まっていたはずであると思っていた。
私の頃は医療用語はドイツ語が中心であり英語等との語義同一性が混乱していた時期であり、英語等との共通理解が無かった。そのため肺音の相互理解の国際シンポジウムが当時開かれて日本からは当時三上理一郎先生が出席していた(1987年?)。その論文がどこかにある筈と思いインターネットで探してみた。しかし多くの論文がヒットするにも係らず肝心の国際的意志統一の根拠を示す論文を見つける事が出来なかった。記憶を辿って探したら手持ちの資料の中にあった論文の写しが添付の画像である。この論文は当時の国際シンポジウムの議事録をもとに書かれたものである(Am Rev Respir Dis 1987; 136:1016)。最近は医療用語がもっぱら英語か日本語であるが、この論文には日本語・英語・ドイツ語・フランス語・スペイン語・ポルトガル語の語義共有が併記されてある。
〇DW Cugell. Lung sound nomenclature. Am Rev Respir Dis. 1987 Oct;136(4):1016. (doi: 10.1164/ajrccm/136.4.1016.) https://www.atsjournals.org/doi/epdf/10.1164/ajrccm/136.4.1016?role=tab 。
赤堀道元について ― 2025年11月10日
赤堀家・中島本家・中島分家を併せて赤堀道元三屋敷という。その三家の関係は、
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2025/11/10/71d276.jpg.html"
target="_blank"
onClick="return asablo.expandimage(this,4032,2268,'https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2025/11/10/71d276.jpg')"><img src="https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2025/11/10/71d275.jpg" alt="赤堀城址" title="赤堀城址" width="300" height="168"></a></div>
赤堀家は藤原秀郷の末裔で治承4(1180)年赤堀郷の赤堀城を足利又太郎忠綱が居城としていてその子忠広が伊勢国へ移住した。戦国時代になり伊勢国4日市より赤堀上野介忠廣の次男良綱が上野国赤堀郷に移住した。24代綱歳が赤堀上野介赤堀入道で道完と言い現在地に館を定めて道完屋敷と言ったがウ冠が取れて道元屋敷になったとの赤堀家伝承があるという。中島家は戦国時代の川中島合戦で武田信玄配下で戦った中島筑後守盛信の子の信利が赤堀に土着した。その後各種事業に失敗するまではこの地の資産家であったという。赤堀家は養子を中島家から秀信源八を迎え家屋敷と赤堀姓の跡を継がせた。その源八が酒造業を延享元(1744)年に始めて200年続き繁盛したが酒造の衰退とともに昭和になり35代の時に落雷火災で廃業し道元三軒の一角が崩れたという。中島本家も事業に失敗してその後本間家に家屋敷を譲り東京に出て行った。中島分家は文化12(1812)年に本家より弟の祐八(初代祐八)が分家してこの時道元三軒になった。この中島分家は関根屋の屋号で第二代祐八の時に商売に成功して、道元の店と言われ大いに繁盛していた。第二代祐八は利根郡奈良村の石田家から養子に入った人である。第二代祐八(幼名逸作、後に量平と名乗る)の実父は石田良助忠超(初代良助)と言いその石田良助忠超も石田家に養子に入った人で、倉賀野城主金井淡路守の後胤金井源蔵賢敦の次男である。3代祐八は明治時代に衆議院議員として明治25年以来7回当選して活躍していたが病気で大正2年没し多大の借金を4代祐八に残した。足尾鉱毒事件で田中正造とともに戦っていた左部彦次郎もその3代祐八の援助を受けた一人である(左部彦次郎にとっては祖母とさの弟の子)。その中島分家も昭和に入り衰退して第二次大戦中にその関根屋を閉店した。現在は三家共になく中島分家跡に「道元三屋敷由来」の碑が建っていて「ほたるの里公園」になっている。
資料:
①伊勢崎市立赤堀図書館所蔵「ふるさとをたずねて 明治大正篇第一巻」赤堀町郷土研究会編集平成2年発行、(中島敏夫は3代祐八の孫)。
②群馬県立文書館石田侃家文書<石田家家史:文化十三(1816)子年 二月良助来ル栃久保村金井源蔵賢敦之次男也、先祖ハ倉賀野城主金井淡路守土岐澄政之後胤也、(石田良助初代、良助忠超タダオキ、通算14代?)
足尾銅山鉱毒事件に係った左部彦次郎の出自に関係のある手紙3通について ― 2025年11月09日
<足尾銅山鉱毒事件に係った左部彦次郎の出自に関係のある手紙3通について>
手紙①は、明治13年に中嶋量平から石田良助宛に出した手紙である。左部彦次郎の義父の第3代左部宇作の死を悼んだお悔やみ状でもある。関係者の名前が複数でて来ている。説明書きにある通り、中嶋量平は第2代中島祐八の事であり彦次郎の祖母とさの弟で赤堀村の中島家に養子に行った人である。この石田良助はとさの弟である2代良助の子の第4代良助であり、2代良助の弟である第2代中島祐八の甥でもある。
手紙②は、明治21年に左部彦次郎から石田良輔および祖母とさ・宗助宛に出した手紙である。この石田良輔は第4代良助で石田直太の父である。この宗助は初代左部宇作・とさ夫婦の間の四男と思われる(長男:左弥太(2代宇作)、次男:3代宇作、三男:湊)。彦次郎が東京専門学校政治科に合格したこと、同宿の直太も成城学校入学の試験で頑張っていること、無駄遣いしないよう心掛けるので費用補助と生活補助のお願い等の手紙である。これらのことは左部とさの実家の石田家からの援助も少なからずあったことを物語っている。
手紙③は、明治23年に第2代中島祐八から石田良助宛に出した、石田宗助死亡へのお悔やみ状である。この宗助は左部とさの四男の左部宗助(惣助)と思われ、石田家に養子に入っていたようだ。
(※以上の手紙は県立文書館の石田家家史の中にあるものの読み下しである。)
10/3に保木間氷川神社と高輪泉岳寺に行ってきた。 ― 2025年10月13日
保木間氷川神社は足尾鉱毒事件で知る人ぞ知るの田中正造「保木間の誓い」の場所であり、泉岳寺は左部蘇和の歌碑「風樹碑」があった寺である。
〇保木間氷川神社について:
関東地方を中心に約1000社あるとされる氷川神社の一つ保木間氷川神社は現在東京都足立区保木間にある。日本神話に由来する神道信仰は地域により独特の信仰圏を形成して行き氷川信仰もその一つで氷川神社と言われその総本社は大宮氷川神社とされている。氷川という名は出雲国の斐伊川に由来するとされるが出雲や祇園信仰とは違う独自の氷川信仰が形成されてきて、出雲から勧進された須賀神社等や祇園信仰の八坂神社等とは系統が異なる。総本社の大宮氷川神社は勅祭社であり官幣大社であり神社本庁の定める別表神社であるという。
保木間氷川神社は江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守の伊興氷川社であったものを、明治五年分離して社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となったとされる。
足尾鉱毒事件で田中正造による明治31年の「保木間の誓い」が行われた場所として有名になった氷川神社である。保木間氷川神社は旧日光街道の東側に隣接しているので鉱毒事件第3回押し出しの通り道であったためのようだ。当時の淵江村は明治22年の町村合併で新設された村で現在の足立区に相当するという。
今は保木間氷川神社と真言宗寶積院寺院との間に昭和になって仕切りの塀が建てられているが明治の頃は仕切りがなく多くの人が集まれたと地元の清掃ボランティアの方が言っていた。
この保木間氷川神社で鉱毒被害民の3回目押し出しの約2500人を前にのちに「保木間の誓い」と言われる演説を田中正造がした。立ち会った聴衆だけでなく憲兵や警官も立ち会わせた上でのその演説は被害民だけでなく憲兵や警官等も含めて涙を流して聞いたという。
田中正造はこの時衆議院議員で大隈重信の憲政党内閣の与党に属し請願に答えてくれるはずであり新設された帝国憲法でも集団での示威行動は認められていないので10人に絞るように説得した(結局話し合いで50人に絞られた。又明治31年6月に出来たばかりの憲政党内閣はその正造演説の1か月後には、僅か4か月で崩壊してしまった)。
この田中正造の演説に対して左部彦次郎がそんな約束をして大丈夫かと正造に詰め寄ったことが、正造の日記に書いてある(「左部氏正造に言う、足下万一間違えば被害民に首を取られると。答、否間違いなしと。又曰く、やり損ね、否そこねぬと答ふ」(明治31年9月30日正造日記、現代ひらがな使いに変更))。いつの頃からかは不明だがこれが「保木間の誓い」と言われるようになった(足立区教育委員会設置の看板)。林竹二は『田中正造―その生涯と思想』1985年(林竹二著作集第3巻)の中で「保木間の誓い」の項を設けてその誓いについて深く洞察している。そこには深い同志として結ばれていた左部彦次郎にさえも窺い知れない田中正造の深奥の苦悩が描かれている。
注1.<※足尾鉱毒被害民の第3回目押し出しは明治31年9月26日に被害民1万人余が館林の雲竜寺を出発し警官隊等が進行を妨害したり利根川渡船を撤去する等妨害工作や虐待等受けたが9月28日には約2500人が氷川神社まで辿り着いた。
田中正造は9月27日の夕方7時に東京府芝区芝口の鉱毒事務所を左部彦次郎と共に人力車で出発して、28日朝6時頃被害民の一群に出会い、保木間氷川神社境内に約2500人の被害民を集合させて上記の演説をした。その前後には?正造の斡旋で氷川神社の他、神社北方400m弱の大乗院・淵江村村長坂田庄助方庭・同じく保木間の荒井忠之助宅に分かれて休憩場所?として炊き出しを行った。結局その後も事態は好転せず明治33年2月13日早朝出発した第4回目の押し出しに伴う正午頃の川俣事件発生に繋がる。>
注2.<※上記大隈内閣のエピソード追加:当時就任したばかりの慣れない大隈重信首相は1898年8月12日にアメリカのハワイ併合に対してマッキンリー米国大統領に対して極めて厳しい非難文書を送り外交危機に陥りそうになった。その少し前の1893年のハワイ事変ではリリウオカラニ女王の王党派から援助を求められて日本は邦人保護を理由に軍艦2隻を送りハワイ軍港に停泊した。艦長の東郷平八郎は欧米派に話し合いを求められても拒否して無言の圧力を加えた。更にその前の大王でリリウオカラニの実兄のクラカウア大王は1881年に日本訪問をしていて明治天皇に密会し5項目の援助や協力を依頼していた。その中には王室同士の婚姻やアジア連合等の対欧米構想の持ちかけもあった。残念ながら日本にも余力がなく欧米との不平等条約の改正等に四苦八苦している時であり、クラカウア大王の期待には応えられなかった。欧米列強と対峙していく過程でやがて日本も1894年日清戦争、1904年には日露戦争にも突入していくことになる。(ハワイ併合 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BD%B5%E5%90%88 )。ホノルルの公文書館に明治天皇のハワイ国王への返書が保管されているという(アメリカの侵略を受けたハワイ。国王のカラカウアは助けを求め日本へ https://naoemon.com/hawaiian-kingdom/ )。
その他にも日本は、アメリカとは第二次大戦までは何かと利害関係が対立しやすく、第一次大戦後の講和会議等でも日英仏伊米の5大国に日本がいるのを米国は煙たがり日英同盟を廃止させてしまったこともあった。当時の英首相は「・・これを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」と言ったという。この頃日本は、国際連盟規約起草で「人種的差別撤廃提案」も行ったが否決されてしまった。アメリカ国内では日本の「人種的差別撤廃提案」に対して、黒人が日本への感謝の意を表明して喜んだが、否決されてしまったことで、多くの都市で暴動が起きたという。この頃は世界的にも人種差別から政策的に脱することができていなかった。ただ、1893年の武力行使のハワイ事変は100年後の1993年にクリントン大統領によってハワイ併合は不正義であったと謝罪している。この点は米国の偉いところではある。 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577324 。>
〇泉岳寺の左部蘇和の歌碑「風樹碑」の所在について:
以前より左部そわ(1830-1891、蘇和、蘇和子、楚和とも。16才で嫁して今井そわ。)の風樹碑の存在は知っていたが、実物を見ていないので気になっていた。
今井家の方に聞いた所では赤穂浪士の墓の大幅な工事で別の所に移されたがまだある?と聞いた気がしていた(聖酒造7代目当主)ので確かめるために今回尋ねた。
寺の受付で聞いた所では、今は当該場所にはないし碑の存在についても知らないが、以前有ったのであれば別の所にあるはずであるとのことであった。見たいと申し出ると、部外者には見せられない場所にあり、他にも多くの碑が片付けられていて山積みになっていることもあるので探すのにも探せないと言われた。結局風樹碑の実物は見つけられなかった。その代わり赤穂浪士の墓は境内の中に大きく整備されていて外国人も含めて多くの訪問者がいて観光場所化していた。尚大石内蔵助の像は東を睨んでいると説明書きにあるが南を向いていますねと余分なちゃちを入れてきた。
左部蘇和は父の三岳(左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて上州奈良村より江戸に遊び俳諧の素養を身に着けていて江戸にて詠んだ歌の碑という。江戸時代は泉岳寺の前には品川の海が拡がっていたという「春風や空に消えゆく舟のみち」。
風樹碑はかつて泉岳寺の山門手前右奥にあったという。また別資料に依れば「義士300年祭のための境内整備で撤去して一般檀家墓地に移した・・・勝手に処分することなど絶対ありません・・・」とのことである。現在は大石内蔵助の巨大な像が経っていたがその奥の方に建ってあったという。
<a:「今井そわ女句碑を尋ねて」丸山知良著『群馬歴史散歩』102号1990年9月
b:左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について https://ku-wab.asablo.jp/blog/2025/09/11/9802319 。
c:泉岳寺の今井そわ女の句碑はどこへ?2024年04月23日七代目蔵元日記 https://blog.goo.ne.jp/denchan1630/e/94a983c4a6913152111bfa7afce2c1ec 。>
左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について ― 2025年09月11日
左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について
今井善一郎著『炉辺郷談』の復刻版が古本屋で手に入った。初版数が少なく再版希望が多かったための再発行と言う。発行は昭和50年で発行者は北橘村教育委員会(初版は昭和36年)。
左部蘇和(1830-1891)(左部善兵衛寛信俳号三岳の長女で下箱田村今井善兵衛兼明に嫁し今井蘇和となる)の歌碑「風樹碑」 が高輪の泉岳寺にある事を「そわ女三吟」として記している。ここでは善六郎と七次郎を生んだと書かれている。著者の善一郎は今井善兵衛兼明の曾孫と言っている。七次郎は父に無断で東京へ出奔して費用の工面に母の蘇和が父との間で苦労したというが、父も内心お金の心配をしていたことが後に手帳を見て分かったという。蘇和の三句が載っている。
手元の資料では、今井善兵衛兼明と蘇和の子は善六と善平となっているが善六は善六郎で後継の今井善兵衛兼直と思われるが七次郎については記録がないので善平の事か?不明。善兵衛兼直の次男今井恭次郎には館林正田文右衛門の娘が嫁している。左部彦次郎の妻堀越ゆわは正田家の縁戚と娘の大場美夜子は詩集の中で記している。左部善兵衛寛信の兄の佐部斧次良 は初代左部宇作の父でありその初代宇作は左部彦次郎の祖父である。巡り合わせの妙である。
<そわ女三吟>
・春風や空に消えゆく舟のみち(泉岳寺歌碑[風樹碑] ・・左部氏名蘇和子上野利根郡奈良村人左部善兵衛女也善兵衛名寛信号三岳・・)
・飛ぶ蛍 押へてやみのまさりけり
・朝顔や浮世の夢も花こヽろ (辞世の句という)
<div class="msg-pict"><a href="https://ku-wab.asablo.jp/blog/imgview/2025/09/11/7145b5.jpg.html"
target="_blank"
onClick="return asablo.expandimage(this,1622,1021,'https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2025/09/11/7145b5.jpg')"><img src="https://ku-wab.asablo.jp/blog/img/2025/09/11/7145b4.jpg" alt="『炉辺郷談』の表紙と奥付き" title="『炉辺郷談』の表紙と奥付き" width="300" height="188"></a></div>
(2025/9/17追加)
別資料に依れば兼明・蘇和の長男は兼直・幼名善六・大正5年3月歿、次男は兼保・別名七次郎・幼名善平・大正5年11月歿となっていた。
マイルド・サイコパスとはー(私たちの身近にいる人格障害) ― 2025年09月06日
(以前書いてもう少し掘り下げようと思って放置していたファイルに気が付いたので取り敢えず忘備録として載せておく。)
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(2025/6/30)マイルド・サイコパスとは
<私たちの身近にいる人格障害、「マイルド・サイコパス」水谷心療内科 水谷雅信 https://www.dr-mizutani.jp/dr_blog/psychopath/ 。>
このブログはサイコパスに係る診療現場での悩みを具体的に教えてくれている点で勉強になる(サイコパスPsychopathは精神病質者でサイコパシーpsychopathyは精神病質を表すという.。広義では精神病質は人格障害の他に統合失調症やうつ等も含むがここでは狭義の人格障害≒パーソナリティー障害を指しているようだ)。
“ ・・・「相手も人の子だからいつかはわかってもらえる」との切ない期待なのですが、サイコパスには全く伝わりません。サイコパスに対して自分の気持ちや考えを伝えても彼らの「認知的共感」だけが得られるだけで、それをかえって悪用されるばかりで、事態は悪化するばかりになります。ハラスメントやストーカー行為はより巧妙になり悪質化してしまいます。・・・ ” これはカールロジャース「2:7:1の法則」にも通ずることである。大部分のヒトは話せば相手も解るはずと思っているのではないだろうか。でも実際はいくら話しても徒労で理解してもらえないことはあり、その点で成程と思う。
でも待てよ、と思った。マイルドと付くと際限なくスペクトラムが広がってしまうリスクがあるし、単なるレッテル貼りに陥ってしまうリスクもあるし、特にステレオタイプの発想をし易いのがヒトなので、そのリスクは大丈夫なのかと逆に思ってしまうのは自分だけであろうか。
医療者としてはまず病気と正常は両極端で次元が異なるということをまず強調しておくべきである。その上での人格障害(サイコパス等)であり神経発達障害(ASD,ADHD,LD等)の捉え方である。特に若者がネガティブなレッテルを自らに貼ることがないように大人は気を配るべきである。
スペクトラムとは正常から極端な異常迄の連続的な捉え方なので、前向きに捉えて特徴を生かそうとポジティブに捉える分には問題ないがネガティブに捉えてしまうととんでもない方向にも行きかねないリスクもある。若者の自殺者が増えてきている現状と無関係ではないと思っている。
専門医視点なので単なるレッテル貼りや差別につながらないで欲しいとの前提でのご意見と思うので念のために調べてみた。このブログではそう言っているようにも思えるけれど、それでも注意しなさいと教えてくれている。医師にとってもそれを見極める能力は基本に備えるべきものなのについつい忘れてしまう。
同じものを見ていても心に映る心象世界は一人ひとり全て皆違うと言ったのは哲学者L.Wittgensteinであるが、「それでも話せば解る筈と思って切ない努力を重ねる」のが心ある普通のヒトである。
大部分はそうだとは思うけれど、そうでない場合も稀に例外があるので、それを見極めなさいと教えてくれている。かつての『他者の靴を履くーアナ―キック・エンパシーのすすめ』(ブレディみかこ著)や高尾美穂Drのカールロジャース「2:7:1の法則」を思い出した。
〇サイコパシー(Psychopathy、精神病質)フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%B3%AA 。
〇「精神病質者(サイコパス)とは」 日本医事新報No.4758 (2015年07月04日発行) P.68 https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=3772 。
(広義のサイコパス=精神病質者は人格障害の他に統合失調症やうつ病、双極性障害も含むが、狭義では人格障害≒パーソナリティー障害に限定して使われ易いという。反社会的かどうかについても含む場合と含まない場合があるという。
<なお、神経発達障害(ICD-11及びDSM-5、ASD・ADHD・LDなど)が先天性の脳発達障害と捉えられているのに対して、精神病質は後天性にも生ずるもので、全く違うという。>
ヤブカンゾウ(八重のワスレグサ)が咲いていた。 ― 2025年07月27日
ヤブカンゾウ(八重のワスレグサ)が咲いていた。
遠くで見るとオニユリのような橙色の花が川原近くのママ(土手・叢)に咲いていた。
近寄って調べてみたらこれがヤブカンゾウ(藪萱草)で、別名ワスレグサ(忘れ草)とも言うという(一字違いだが勿忘草ワスレナグサとは全く別物である)。遠景ではニッコウキスゲやオニユリのような色をしていた。
このヤブカンゾウは食べるとおいしいという。離弁花のユリと違って合弁花である。咢はユリもヤブカンゾウもどちらにもないが咢は花弁様にどちらも変化しているという。ヤブカンゾウは一日花と言われ萎んで枯れた花と盛りの花が混在している。ヒガンバナが鱗茎で増えるようにヤブカンゾウも匍匐茎(地下茎)で増えていき種子を作れないので(3倍体のため)、周りの全ての個体はクローン体であるゆえ遺伝的に全て同じものであり、他地域に拡がっているのはヒトの手や洪水等による拡散のためという。
ヤブカンゾウの分類は「新エングラー体系」では旧ユリ科ススキノキ属→ススキノキ科→ツルボラン科ワスレグサ属と変遷し、「APG-Ⅳ体系/2016年」ではツルボラン科ワスレグサ属に分類されているという。新エンゲラー体系は従来からの形態に基づく分類体系で、APG体系はDNA遺伝情報に基づく分類でどちらも変遷してきているがAPG-Ⅳ(2016年)が最新と言う。
ワスレグサ属は一日花で種類が多く3万種以上あると言われ、分類体系も変化していて、ヤブカンゾウの仲間やニッコウキスゲの仲間もワスレグサ属にはいるという(ヤブカンゾウ・ノカンゾウ・ハマカンゾウ・トキワカンゾウ・ニシノハマカンゾウ・ヒメカンゾウ、および、ニッコウキスゲ・ユウスゲ・アサマキスゲ・エゾキスゲ・マンシュウキスゲなど)。 ヤブカンゾウなどのカンゾウ(萱草)はワスレグサとして万葉集にも既に謳われていて、中国原産とされている(定説ではない!)が有史以前より日本に既に帰化して生育していたという。
ワスレグサ属は合弁花で花筒が1-2cm長あるが、これは花冠筒だとされている(素人の自分には花冠筒/花托筒/咢筒の区別ができない)。ニッコウキスゲも同属で花冠筒とネットでは言われていたのでいつか確認してみたい。
各花茎と花との間の1-2cmの部分の所謂花筒は、花被弁との連続性からは花冠筒の特殊型と言えそうだ。合弁花との判断と整合性もある。つつじ等の花冠筒が中空であることから見れば充実性故の特殊型であるが、その特徴に言及したものはネット上では見つけられなかった。
また総状花序で下から上に順に咲いていく無限花序とされている(有限花序の散形花序という意見もある?)。自分がみた花も下方から萎んで行くので無限花序に見えた。蓮の花の托筒は定説のようだが一般的な托筒とは全く違うように見える。リンゴやイチゴの果実も花托が変化したものと言う。
落花は花筒と花茎の間で起こる。
参考にユリの花と比較してみた。
自宅の玄関にスズメバチの巣、そして今年のスズメバチトラップ ― 2025年06月01日
覇権主義・権威主義そして泥棒政治、その違いとは ― 2025年05月26日
クレプトクラシー(泥棒政治、kleptocracy)はネットの裏世界を見れば今尚生きているが少なくとも先進国の表の世界では死語になっていたと思われた。事実、アメリカは2006年にブッシュ・ジュニア大統領が世界に向けてその排除声明の宣言をしている。その「クレプトクラシー」が表の顔でも今現実になって戻って来ていた。
1、グリーンランドをよこせ、パナマ運河をよこせ、カナダをアメリカに併合する、等の悪い冗談としか思えないことが現職トランプ大統領から現実に発せられるという現実社会は誰も予想できなかったのではないだろうか。挙句の果ては公けの賄賂とでもいうべきジャンボジェット機をくれるというのだから有難く貰ってしまえというこれまでの常識では考えられないことが起きている。矮小なことで申し訳ないがかつて“儲けて何が悪い”と居直って顰蹙を買ったライブドアの元社長がいたがこれらと比べればちっぽけのものであったがそれでも当時は有罪になった。渋沢栄一が典型と思われるが儲けるにも道理があるというのが少なくとも日本の良識である。それが覆ってしまった。
2、ロシアのプーチンもクリミア半島を10年前に突然併合し更にはウクライナ自体が自分のものだと言って武力で取り戻そうと3年前より戦争を始めて今も継続中である。プーチンの豹変も誰も予想できなかったであろうし、特にドイツのあの真面目なメルケル首相は想像さえできなかったことが現実に起きてしまったと感じているのではないだろうか。
3、中国は鄧小平の改革開放政策により大きく成長し今や超大国の一つとしての地位を築いた。その鄧小平に精一杯、贖罪の気持ちも含めて日本も大いに協力してその成長に貢献してきたのは万人の認める所である。そして周恩来首相以来覇権主義には絶対陥らないと中華人民共和国の憲法にさえ記載してあるその中国が今やその覇権主義の先頭を走ってしまっている。
これらは、当たり前と思ってぬるま湯に漬かって油断してきた世の所謂有識者にとっては青天の霹靂であろうが厳然とした事実であり、世界中の国々が防衛力増強に政策変更していること自体も悪夢の現実である。武器商人国家はこれまで揶揄的な意味合いを含んでいたが今や立派な国家理念であると受け止めざるを得ない状況に陥ってしまった。
それらを表すのに、覇権主義・権威主義・全体主義・独裁国家・泥棒政治等の様々な表現の言葉が使われているが、どう違うのか改めて調べてみた。
A. 覇権主義(ヘゲモニー、Hegemonism)について:少なくとも米中共同声明(1972年)では覇権主義とヘゲモニーは同じ概念で使われ、中国は決して超大国にもならず覇権主義にもならないとその時に宣言している。
B. 権威主義について:権威主義は全体主義と違って反対勢力の存在を実質的に許容する場合である。但し権威者に同意しないことは大多数の人々から反逆とみなされるという点で被支配者の思考様式からみた言葉であるという。表面上の許容だけでは全体主義の範疇に入る。スウェーデンのV-DEM研究所の『デモクラシーレポート2022』では国家や地域を、選挙権威主義・選挙民主主義・独裁国家・自由民主主義に分けているという。中華人民共和国は独裁国家に入る。
C. 全体主義・独裁国家について:独裁国家には2種類あり全体主義(強制服従を伴う)と権威主義(自発的服従を伴う)という違いがあるという。
D. クレプトクラシー(泥棒政治)について:少なくともアメリカは第41代大統領のジョージ・ブッシュ・ジュニアの時には2006年に泥棒政治は排除すると世界に宣言している。
参考:
〇「覇権主義」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 。
〇「権威主義」 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9#:~:text=%E6%A8%A9%E5%A8%81%E4%B8%BB%E7%BE%A9%EF%BC%88%E3%81%91%E3%82%93%E3%81%84%E3%81%97%E3%82%85,%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 。
〇「全体主義」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9 。
〇「ヘゲモニー政党制」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%B2%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%88%B6 。
〇「クレプトクラシー(泥棒政治)」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A5%E6%A3%92%E6%94%BF%E6%B2%BB 。
〇「覇権主義」 の定義 メモ―2024年01月19日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2024/01/19/9651960 。
〇中国はいったいどうなってしまったのか?―2023年09月02日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2023/09/02/9614626 。
クルマミズキ(通称団子の木)について(同属のヤマボウシ・ハナミズキ・クルマミズキ 違い、花は全く違う!) ― 2025年05月23日
今まで気づかなかったがクルマミズキが見事に咲いていた。遠景で階段状・テーブル状に見えるのが特徴と言う。子供の頃小正月になると繭玉飾りにこの木を採ってくるように母親から言われたのでだんごの木と言っていたのを思い出す。トサミズキも身近にあるが同じミズキでも全くの別科であることを今回調べてみて初めて知った。
同じミズキの語呂を調べてみると、ハナミズキ(アメリカヤマボウシ)・ヤマボウシ・ヒマラヤヤマボウシ・クルマミズキ・クマノミズキ があり、トサミズキ・ヒューガミズキは同じミズキの語呂でも全く別科という。前者は全てミズキ科ミズキ属である一方、後者はマンサク科トサミズキ属で、マンサクはマンサク科マンサク属になる。サンシュユはミズキとは言わないが前者のミズキ科ミズキ属の仲間である。
ミズキ科ミズキ属のハナミズキ・ヤマボウシ・ヒマラヤヤマボウシ・クルマミズキ・クマノミズキ・サンシュユの中で葉の互生なのはクルマミズキのみで他は全て対生という。
因みにサンシュユは牧野富太郎はハルコガネバナと名付けて別種をサンシュユとして異論を述べたという。
実際に葉の付き方を比べて見るとヤマボウシもクルマミズキも枝の先端に纏まって接近して着いていて判別しにくいがクルマミズキの葉は僅かずれて互生に見える(これを互生と言うのかと素人としては納得するしかない)。
〇葉と枝による樹木検索図鑑(ヤマボウシヤマボウシ・ハナミズキ・ヒマラヤヤマボウシ) https://elm3.web.fc2.com/top/ruijisyu-miwakekata-hoka/yamabousi-hanamizuki-himarayayamabousi.html 。 〇葉と枝による樹木検索図鑑(ミズキ・クマノミズキ・サンシュユ) https://elm3.web.fc2.com/top/ruijisyu-miwakekata-hoka/mizuki-kumanomizuki-sansyuyu.html 。 〇葉と枝による樹木検索図鑑(トサミズキ・ヒュウガミズキ・コウヤミズキ・ショウコウミズキ) https://elm3.web.fc2.com/top/ruijisyu-miwakekata-hoka/tosamizuki-hyuugamizuki-kouyamizuki-syoukoumizuki.html 。
2025/6/5 追加
薄ピンクの花のヤマボウシを見かけて珍しいものかと思い調べてみたらしばしば見られ珍しくないことが解った。




















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