10/3に保木間氷川神社と高輪泉岳寺に行ってきた。2025年10月13日

田中正造と保木間の誓いの看板
10/3に保木間氷川神社と高輪泉岳寺に行ってきた。

保木間氷川神社は足尾鉱毒事件で知る人ぞ知るの田中正造「保木間の誓い」の場所であり、泉岳寺は左部蘇和の歌碑「風樹碑」があった寺である。

〇保木間氷川神社について:
関東地方を中心に約1000社あるとされる氷川神社の一つ保木間氷川神社は現在東京都足立区保木間にある。日本神話に由来する神道信仰は地域により独特の信仰圏を形成して行き氷川信仰もその一つで氷川神社と言われその総本社は大宮氷川神社とされている。氷川という名は出雲国の斐伊川に由来するとされるが出雲や祇園信仰とは違う独自の氷川信仰が形成されてきて、出雲から勧進された須賀神社等や祇園信仰の八坂神社等とは系統が異なる。総本社の大宮氷川神社は勅祭社であり官幣大社であり神社本庁の定める別表神社であるという。
保木間氷川神社は江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守の伊興氷川社であったものを、明治五年分離して社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となったとされる。
足尾鉱毒事件で田中正造による明治31年の「保木間の誓い」が行われた場所として有名になった氷川神社である。保木間氷川神社は旧日光街道の東側に隣接しているので鉱毒事件第3回押し出しの通り道であったためのようだ。当時の淵江村は明治22年の町村合併で新設された村で現在の足立区に相当するという。
今は保木間氷川神社と真言宗寶積院寺院との間に昭和になって仕切りの塀が建てられているが明治の頃は仕切りがなく多くの人が集まれたと地元の清掃ボランティアの方が言っていた。

この保木間氷川神社で鉱毒被害民の3回目押し出しの約2500人を前にのちに「保木間の誓い」と言われる演説を田中正造がした。立ち会った聴衆だけでなく憲兵や警官も立ち会わせた上でのその演説は被害民だけでなく憲兵や警官等も含めて涙を流して聞いたという。
田中正造はこの時衆議院議員で大隈重信の憲政党内閣の与党に属し請願に答えてくれるはずであり新設された帝国憲法でも集団での示威行動は認められていないので10人に絞るように説得した(結局話し合いで50人に絞られた。又明治31年6月に出来たばかりの憲政党内閣はその正造演説の1か月後には、僅か4か月で崩壊してしまった)。
この田中正造の演説に対して左部彦次郎がそんな約束をして大丈夫かと正造に詰め寄ったことが、正造の日記に書いてある(「左部氏正造に言う、足下万一間違えば被害民に首を取られると。答、否間違いなしと。又曰く、やり損ね、否そこねぬと答ふ」(明治31年9月30日正造日記、現代ひらがな使いに変更))。いつの頃からかは不明だがこれが「保木間の誓い」と言われるようになった(足立区教育委員会設置の看板)。林竹二は『田中正造―その生涯と思想』1985年(林竹二著作集第3巻)の中で「保木間の誓い」の項を設けてその誓いについて深く洞察している。そこには深い同志として結ばれていた左部彦次郎にさえも窺い知れない田中正造の深奥の苦悩が描かれている。

注1.<※足尾鉱毒被害民の第3回目押し出しは明治31年9月26日に被害民1万人余が館林の雲竜寺を出発し警官隊等が進行を妨害したり利根川渡船を撤去する等妨害工作や虐待等受けたが9月28日には約2500人が氷川神社まで辿り着いた。
田中正造は9月27日の夕方7時に東京府芝区芝口の鉱毒事務所を左部彦次郎と共に人力車で出発して、28日朝6時頃被害民の一群に出会い、保木間氷川神社境内に約2500人の被害民を集合させて上記の演説をした。その前後には?正造の斡旋で氷川神社の他、神社北方400m弱の大乗院・淵江村村長坂田庄助方庭・同じく保木間の荒井忠之助宅に分かれて休憩場所?として炊き出しを行った。結局その後も事態は好転せず明治33年2月13日早朝出発した第4回目の押し出しに伴う正午頃の川俣事件発生に繋がる。>
注2.<※上記大隈内閣のエピソード追加:当時就任したばかりの慣れない大隈重信首相は1898年8月12日にアメリカのハワイ併合に対してマッキンリー米国大統領に対して極めて厳しい非難文書を送り外交危機に陥りそうになった。その少し前の1893年のハワイ事変ではリリウオカラニ女王の王党派から援助を求められて日本は邦人保護を理由に軍艦2隻を送りハワイ軍港に停泊した。艦長の東郷平八郎は欧米派に話し合いを求められても拒否して無言の圧力を加えた。更にその前の大王でリリウオカラニの実兄のクラカウア大王は1881年に日本訪問をしていて明治天皇に密会し5項目の援助や協力を依頼していた。その中には王室同士の婚姻やアジア連合等の対欧米構想の持ちかけもあった。残念ながら日本にも余力がなく欧米との不平等条約の改正等に四苦八苦している時であり、クラカウア大王の期待には応えられなかった。欧米列強と対峙していく過程でやがて日本も1894年日清戦争、1904年には日露戦争にも突入していくことになる。(ハワイ併合 Wikipedia https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AF%E3%82%A4%E4%BD%B5%E5%90%88 )。ホノルルの公文書館に明治天皇のハワイ国王への返書が保管されているという(アメリカの侵略を受けたハワイ。国王のカラカウアは助けを求め日本へ https://naoemon.com/hawaiian-kingdom/ )。
その他にも日本は、アメリカとは第二次大戦までは何かと利害関係が対立しやすく、第一次大戦後の講和会議等でも日英仏伊米の5大国に日本がいるのを米国は煙たがり日英同盟を廃止させてしまったこともあった。当時の英首相は「・・これを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」と言ったという。この頃日本は、国際連盟規約起草で「人種的差別撤廃提案」も行ったが否決されてしまった。アメリカ国内では日本の「人種的差別撤廃提案」に対して、黒人が日本への感謝の意を表明して喜んだが、否決されてしまったことで、多くの都市で暴動が起きたという。この頃は世界的にも人種差別から政策的に脱することができていなかった。ただ、1893年の武力行使のハワイ事変は100年後の1993年にクリントン大統領によってハワイ併合は不正義であったと謝罪している。この点は米国の偉いところではある。 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2023/04/15/9577324 。>


〇泉岳寺の左部蘇和の歌碑「風樹碑」の所在について:
 以前より左部そわ(1830-1891、蘇和、蘇和子、楚和とも。16才で嫁して今井そわ。)の風樹碑の存在は知っていたが、実物を見ていないので気になっていた。
 今井家の方に聞いた所では赤穂浪士の墓の大幅な工事で別の所に移されたがまだある?と聞いた気がしていた(聖酒造7代目当主)ので確かめるために今回尋ねた。
 寺の受付で聞いた所では、今は当該場所にはないし碑の存在についても知らないが、以前有ったのであれば別の所にあるはずであるとのことであった。見たいと申し出ると、部外者には見せられない場所にあり、他にも多くの碑が片付けられていて山積みになっていることもあるので探すのにも探せないと言われた。結局風樹碑の実物は見つけられなかった。その代わり赤穂浪士の墓は境内の中に大きく整備されていて外国人も含めて多くの訪問者がいて観光場所化していた。尚大石内蔵助の像は東を睨んでいると説明書きにあるが南を向いていますねと余分なちゃちを入れてきた。 
 左部蘇和は父の三岳(左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて上州奈良村より江戸に遊び俳諧の素養を身に着けていて江戸にて詠んだ歌の碑という。江戸時代は泉岳寺の前には品川の海が拡がっていたという「春風や空に消えゆく舟のみち」。
 風樹碑はかつて泉岳寺の山門手前右奥にあったという。また別資料に依れば「義士300年祭のための境内整備で撤去して一般檀家墓地に移した・・・勝手に処分することなど絶対ありません・・・」とのことである。現在は大石内蔵助の巨大な像が経っていたがその奥の方に建ってあったという。
<a:「今井そわ女句碑を尋ねて」丸山知良著『群馬歴史散歩』102号1990年9月
b:左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について https://ku-wab.asablo.jp/blog/2025/09/11/9802319 。
 c:泉岳寺の今井そわ女の句碑はどこへ?2024年04月23日七代目蔵元日記 https://blog.goo.ne.jp/denchan1630/e/94a983c4a6913152111bfa7afce2c1ec 。>

今は見つからない「そわ女の歌碑『風樹碑』」(高輪泉岳寺)の碑文の表と裏2025年10月14日

そわ女の風樹碑の模写
今は見つからない「そわ女の歌碑『風樹碑』」(高輪泉岳寺)の碑文の表と裏

 左部そわ(1830-1891、蘇和、蘇和子、楚和とも。16才で嫁して今井そわ。)の風樹碑はかつて泉岳寺山門の手前の右奥にあったという。今は大石内蔵助の大きな像が建っている。義士300年祭(2003年)のための境内整備で撤去され一般檀家墓地に移されたという。 
 左部そわは江戸後期に父の三岳(左部善兵衛寛信の俳号)に連れられて上州奈良村より江戸に遊び俳諧の素養を身に着けていて、江戸にて幼き頃に詠んだ歌の碑といい、江戸時代は泉岳寺の前には品川の海が拡がっていたという。
「春風や空に消えゆく舟のみち」
 その石碑の裏には次のような碑文が残されていた。
碑陰(石碑の裏面)

 今井善治郎兼保(善平・七次郎とも)はそわの次男であり父の反対を押して出奔し慶応大学等に学んだが母の陰の助力に終生感謝していたという。老いた母を東京岩佐病院にて孝養に務めたが亡くなり、そわの侍医が岩佐純である。岩佐純は皇室の侍医でもあり、明治16年には皇室の一等侍医で宮中顧問官なども歴任して、明治45年宮中豊明殿で病に倒れ死去した。
 股野琢は内大臣や宮中顧問官など歴任して詩文や書道で名声が高かったという。大正10年死去した。
(参考)
a:「今井そわ女句碑を尋ねて」丸山知良著『群馬歴史散歩』102号20-22頁1990年9月。
b:「泉岳寺と上州」編集部著『季刊群馬風土記』特集ふるさと歴訪(通巻106号2011年7月)。
c:左部蘇和(今井蘇和)の泉岳寺の歌碑について https://ku-wab.asablo.jp/blog/2025/09/11/9802319 。
d:泉岳寺の今井そわ女の句碑はどこへ?2024年04月23日七代目蔵元日記 https://blog.goo.ne.jp/denchan1630/e/94a983c4a6913152111bfa7afce2c1ec 。

追記:
 蘇和子の父左部善兵衛寛信(俳号三岳、幼名豊三良)の兄の左部斧次良(俳号蓼化)は27才歿で早逝したが左部彦次郎の曾祖父である。