見取り騒動の永牢での拷問、その100年前の茂左衛門磔刑2023年01月15日

1782年の見取り騒動の永牢での拷問、その100年前の1682年将軍直訴での茂左衛門磔刑と真田改易に関して、
天明2(1782)年5月より利根沼田の見取り騒動の罪で50余人が捕縛され9人が入牢しそのうち3人が首謀者として永牢となった。その3人は村人達の陳情等で数年後には出牢したがうち2人は出牢1か月及び2カ月で死亡した。地元では毒を盛られていたとも言われているが事実は不明のままである。池田村史では「・・牢入者はその科によって15貫目の大石を以って、荒まきの上に人をのせ、その大石を胴づきにかけ責めけり、又水責めにもしけり、其の上重き科人には、ねつてつをつぎけり、実に地獄の如くなり・・」と記録されている。
利根沼田地方には一つも見つかっていない水牢が隣の吾妻地方には複数見つかっている。
1, 中之条町大字横尾1639、「百瀬の水牢跡」
2, 東吾妻町新巻1034 「池の薬師堂水牢跡」
へ行ってみた。
1,

「百瀬の水牢跡」
中之条町百瀬の水牢
中之条町百瀬の水牢


2,

「池の薬師堂水牢跡」
東吾妻町 池の薬師水牢 aaa
東吾妻町 池の薬師水牢 aaa



※ 吾妻地方東部には9か所水牢が見つかっていて、利根沼田地方には一つもないのは、真田支配以前の支配者の斎藤氏らによるものではないかと中之条史はしているようだ。
但し、『磔茂左衛門』著者の後閑祐次氏はその中で上記水牢等の他に判明しているものとして、利根の地にも「下久屋水牢」(利根郡利南村下久屋)があったとの言い伝えがあったと言っている。「・・年貢の納期は12月20日である。滞納者は酷寒水牢に追い込まれ、責苦の無知に泣く。八寒地獄とはこのことを言うのだろう。」と記している。
後閑祐次氏は伊賀守が幼少時代を過ごした小川古城館に近い村の旧家で幸い300年間火災にあわず古文書も一部残っており父の代から追究してきた茂左衛門に係る遺稿を整理発表することが自分に課せられた使命と思って本書を書いたと自序で述べている。

※※ いつの世でも憎しみの中での殺し合いは、残酷である。西欧でも生きながら人間の皮を剝ぎ椅子を作った等の残酷物語があるし、戦国時代は数千の敵の首を城の周りに並べたという話もある。明治維新の時でも刀が穢れるとの理由で尻の穴から竹槍を刺して殺したとの話もある。これは今の時代でも変わらない。そして支配者自体の問題だけではない。その取り巻き連中の「性悪的な忖度」を許してしまうことが拍車をかけるためである。つい最近の湾岸戦争の時代でも探せば映像が残っているはずである。現在進行形のウクライナ侵攻でもあるはずだ。だからみんなで仲良くなどとは全くの幻想である。大事なのは憎しみ合うのは避けられないとしても殺し合いにまで行かないような、呉越同舟の道を如何に探すか、こそが殺し合いに終止符を打ち共存できる唯一の道である。人の性悪説は総てではないがその側面は確かにあるので、それを抑止できるのは法による制限しかないと思う、宗教は駄目だ。 自分にとって正しいと思えるものが他人にとっても正しいと信じ込むこと自体が幻想であることを、哲学者ヴィトゲンシュタインが既に指摘している。

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