明治期の帝国大学予備門の成立過程について ― 2022年06月26日
メモ::(一部追加訂正)(更に補足追加 R7.1.7. )
東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)
東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。
明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。
明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
明治19年 第一次中学校令で高等中学校(第一~第五高)と尋常中学校(一府県一校を原則)が規定された。同年の帝国大学令で初期の東京大学が帝国大学と名称変更した。(東京)帝国大学予備門は一高へ移行し名称変更した。この時は一高はまだ学区制であった。
<明治19年3月から4月にかけて森有礼文部大臣は従前の「教育令」に代わり一連の「学校令」の勅令(師範学校令・小学校令・中学校令・帝国大学令など)を公布した。この帝国大学令で帝国大学を「大学院及分科大学ヲ以テ構成ス」(2条)として,大学院を学術技芸の蘊奥を考究する所とする一方,分科大学を学術技芸の理論および応用を教授する所と規定し,法科大学,医科大学,工科大学,文科大学,理科大学の5分科大学を規定した(10条)。明治22年に農科を加えた6分科となった(帝国大学法科大学・帝国大学医科大学・帝国大学工科大学・帝国大学文科大学・帝国大学理科大学・帝国大学農科大学の6分科大学)。>
明治27年 高等学校令で高等中学校を高等学校に名称変更した。
明治30年 一高の学区制が廃止されて全国から一高を受験できるようになった。同年帝国大学は東京帝国大学と名称変更(京都帝国大学ができたため)。かつ農科大学も組み入れて東京帝国大学六分科大学になった(井上馨文部大臣の初期の構想は東京帝国大学を研究中心の大学院大学と教育を担当する分科大学にする予定で六分科大学としたが元の帝国大学の基盤が既に強すぎてその後のその構想は実現できず逆に各地に帝国大学自体が増設されていった)。
明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
明治32年 第二次中学校令で尋常中学校も中学校に改称された。
その後、大正7年の「大学令」公布及び大正8年の「帝国大学令」公布が、臨時教育会議の答申のもとに出されて、帝国大学は分科大学制から学部制に変わった。東京帝国大学農科大学の一部は後の農工大学・筑波大学等へ独立することになった。また大学令によってそれまでの官立大学=帝国大学であったものが官公私立大学にも大学令が適用されるようになった。第二次大戦後の昭和22年には廃止されて日本国憲法・教育基本法・学校教育法等により新たな教育制度になった。
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以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。
・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。
( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )
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(以下補足追加 R7.1.7. )
・明治元(1868)年 それまで既に幕府直轄の学問所の前身としてあった洋学中心の開成所・儒学中心の昌平黌・西洋医学中心の医学所の3つを官立の教育機関群としてそれぞれ指定し、開成学校・昌平学校・医学校と改称した。翌明治2年には大学校になった。
・明治4(1871)年廃藩置県とともに文部省設置し、大学校・中学校・小学校を管する職務とした。
・明治18(1885)年太政官制から内閣制度に変わったが文部省およびその職務はそのまま継続された。
<以下開成学校・昌平学校・医学校の沿革>
①開成学校: ペリー来航して洋学研究の必要性を痛感した幕府は1855年洋学所を開設し翌1856年に蕃所取調所(ばんしょとりしらべしょ)と改称→1862年洋書取調所→1863年開成所→明治元(1868)年開成学校→明治7(1874)年東京開成学校、と改称された。
②昌平黌(=昌平坂学問所): 江戸初期に家康が林羅山を登用し3代家光の時に土地を与えられて私塾として始まったのが起源である。1690年湯島聖堂或いは昌平坂聖堂と呼ばれた。1797年私塾から幕府直轄になり昌平坂学問所(=昌平黌)と呼称された。
③医学所: 長崎の蘭学や1722年8代将軍吉宗によって設立許可された小石川養生所をはじめ全国各地に医療所は既に散在していたが、1858年神田お玉が池に種痘所が設置され1860年に幕府直轄になりさらに1861年幕府直轄の医学所として設立された。1868年官立の医学校と改称。1869年官立大学校の一つとなった。
以上の3校が様々な変遷を経て後の、明治10年旧東京大学→明治19年帝国大学→昭和22年新東京大学、になっていく。
(参考: 文部科学省>学制百五十年史>第一編 近代教育制度の発足と拡充>第一章 近代教育制度の創始と整備 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/1420041_00011.htm 。)
東京(帝国)大学予備門の成立の経緯(学歴の権威付け、一高→東大の排他ルートが何時できたか?)
東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学に倣い、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関として作られたのが大学予備門であった(旧制高等学校wikipedia)。
東京(帝国)大学の予備門の機能は東京開成学校の頃より未成熟ながらあった。大学の授業を外国語人が母国語でおしえていたためと思われる。日本語でも教える講師が導入されたのは文学部の日本文化の講師に日本人も入れたのが始まりという。東京開成学校は普通科3年と専門科3年で構成されていて予科としての普通科を卒業したのちに専門科に進んだ。この普通科(予科)への入学生は大半が英語学校卒業生であったという。東京開成学校の当時から専門科の講座を増やし専門大学として充実することを考えていたために、予科を分離独立させたいとの思惑があり、それは東京大学に移行後に徐々に実現していった。
明治9年の東京開成学校普通科への入学者は79人中75人が英語学校卒業生であった。しかもそのうち半分が東京英語学校からであったという。これは開成学校に地理的に近いというだけでなく東京英語学校の教育方針自体が開成学校への予備教育機関としての役割に的を絞っていたためという。
明治10年2月には東京開成学校も東京英語学校もその旨の伺書を文部省に提出して、同3月には東京英語学校が東京開成学校普通科を譲り受けて東京大学予備門を形成することになり同4月文部省付達第3号により法理文3学部の管轄下での東京大学付属「東京大学予備門」と改称し公的に成立した。東京医学校は東京大学になってからも独自の予科を持っていてなお暫く継続していく。
明治19年 第一次中学校令で高等中学校(第一~第五高)と尋常中学校(一府県一校を原則)が規定された。同年の帝国大学令で初期の東京大学が帝国大学と名称変更した。(東京)帝国大学予備門は一高へ移行し名称変更した。この時は一高はまだ学区制であった。
<明治19年3月から4月にかけて森有礼文部大臣は従前の「教育令」に代わり一連の「学校令」の勅令(師範学校令・小学校令・中学校令・帝国大学令など)を公布した。この帝国大学令で帝国大学を「大学院及分科大学ヲ以テ構成ス」(2条)として,大学院を学術技芸の蘊奥を考究する所とする一方,分科大学を学術技芸の理論および応用を教授する所と規定し,法科大学,医科大学,工科大学,文科大学,理科大学の5分科大学を規定した(10条)。明治22年に農科を加えた6分科となった(帝国大学法科大学・帝国大学医科大学・帝国大学工科大学・帝国大学文科大学・帝国大学理科大学・帝国大学農科大学の6分科大学)。>
明治27年 高等学校令で高等中学校を高等学校に名称変更した。
明治30年 一高の学区制が廃止されて全国から一高を受験できるようになった。同年帝国大学は東京帝国大学と名称変更(京都帝国大学ができたため)。かつ農科大学も組み入れて東京帝国大学六分科大学になった(井上馨文部大臣の初期の構想は東京帝国大学を研究中心の大学院大学と教育を担当する分科大学にする予定で六分科大学としたが元の帝国大学の基盤が既に強すぎてその後のその構想は実現できず逆に各地に帝国大学自体が増設されていった)。
明治31年9月からは東京帝国大学(法・理・文3学部のみ?)への入学資格者は旧制高等学校の大学予科の卒業生に限定されて、逆に一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。
明治32年 第二次中学校令で尋常中学校も中学校に改称された。
その後、大正7年の「大学令」公布及び大正8年の「帝国大学令」公布が、臨時教育会議の答申のもとに出されて、帝国大学は分科大学制から学部制に変わった。東京帝国大学農科大学の一部は後の農工大学・筑波大学等へ独立することになった。また大学令によってそれまでの官立大学=帝国大学であったものが官公私立大学にも大学令が適用されるようになった。第二次大戦後の昭和22年には廃止されて日本国憲法・教育基本法・学校教育法等により新たな教育制度になった。
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以下凡その経過:
・明治10(1877)年官立東京大学(東京開成学校専門科の法・理・文と東京医学校の4学部で構成)を新設。それと共に同年に東京開成学校普通科(予科)と東京英語学校を合併して官立東京大学予備門も形成された。
明治11(1878)年4月東京大学予備門の教則が制定されて修業年限は4年制、13歳以上、等になった。またこの時に文学部和漢学科への進学者を考慮して和漢学も科目に新設された。その後も改定は毎年のように試行錯誤しながら行われていく。旧制高校は3年制になったり7年制も許可されたりしていく。
・明治18年工芸学部(工学部)が出来て東京大学は5学部となった。
・明治19年第一次帝国大学令により帝国大学になり分科大学と大学院で構成されることになった(第二次は大正8年で分科大学を廃止して学部制とし大学院も創設した)。
また同年の第一次中学校令により尋常中学(5年)と高等中学(2年)が作られた。帝国大学予備門は第一高等中学校に分離独立改組され高等中学校に大学予備教育を委ねることになる。一高~五高まで初期は学区制であったが明治(1897)30年4月には学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
高等中学校では大学予備教育に特化した本科(2年)と専門科(3年但し医学部は4年)等が設置され、過渡期では本科に入るための予科(3年)・予科に入るための予科補充科(2年)も形成された(尋常中学5年相当)というが、間もなく明治29年には廃止されて尋常中学(5年制)が全国各地に急速に増設された。
・明治27年高等学校令により明治19年からの第一高等中学校は第一高等学校(後の東京大学教養学部)に名称変更されて、修業年限は2年から3年となり、かつ帝国大学予科に特化して位置付けられた。一高は明治23年から全寮制で学生自治制度が特色となった。倫理講堂には菅原道真と坂上田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
明治32年第二次中学校令により「尋常中学校」から「中学校」に名称変更した。
前橋中学校は以前から師範学校内にあった群馬県中学校が明治34年に群馬県立前橋中学校となった。(この時点では尋常中学5年卒業後第一高等中学3年に入学か?帝国大学入学は更にその後か?)(鈴木貫太郎は明治10年に父親が楫取素彦県令の下で働くために群馬に転居したが群馬の教育が優れている故に一緒に連れてきたためだと母の従兄の平形義人さんが繰り返し言っていた。鈴木貫太郎は明治16年に群馬県中学校に入学した)。
・明治30年帝国大学が東京帝国大学に名称変更した(京都にも帝国大学が増設されたため)。同時に農科大学も組み入れて六分科大学になった。入学資格者には大学予備門卒業生からの者や尋常中学校卒業生など学歴レベルの違う学生たちが混在していて学生間の軋轢もあった?
・明治31年9月からは東京帝国大学への入学資格者を高等学校大学予科卒業生に限定した(法・理・文・医・工のみ?)。一高卒業生は専攻に拘らなければそのまま帝国大学に入学できた。そのため一高に入るための中学校更に小学校まで近隣施設に人気が集まっていった(旧制高校のない官立大学は旧制高校相当の大学予科を置いた、北海道帝国大学や外地の台北帝国大学等)。
( 参考文献: 東京大学予備門成立過程の研究
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400005530.pdf )
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(以下補足追加 R7.1.7. )
・明治元(1868)年 それまで既に幕府直轄の学問所の前身としてあった洋学中心の開成所・儒学中心の昌平黌・西洋医学中心の医学所の3つを官立の教育機関群としてそれぞれ指定し、開成学校・昌平学校・医学校と改称した。翌明治2年には大学校になった。
・明治4(1871)年廃藩置県とともに文部省設置し、大学校・中学校・小学校を管する職務とした。
・明治18(1885)年太政官制から内閣制度に変わったが文部省およびその職務はそのまま継続された。
<以下開成学校・昌平学校・医学校の沿革>
①開成学校: ペリー来航して洋学研究の必要性を痛感した幕府は1855年洋学所を開設し翌1856年に蕃所取調所(ばんしょとりしらべしょ)と改称→1862年洋書取調所→1863年開成所→明治元(1868)年開成学校→明治7(1874)年東京開成学校、と改称された。
②昌平黌(=昌平坂学問所): 江戸初期に家康が林羅山を登用し3代家光の時に土地を与えられて私塾として始まったのが起源である。1690年湯島聖堂或いは昌平坂聖堂と呼ばれた。1797年私塾から幕府直轄になり昌平坂学問所(=昌平黌)と呼称された。
③医学所: 長崎の蘭学や1722年8代将軍吉宗によって設立許可された小石川養生所をはじめ全国各地に医療所は既に散在していたが、1858年神田お玉が池に種痘所が設置され1860年に幕府直轄になりさらに1861年幕府直轄の医学所として設立された。1868年官立の医学校と改称。1869年官立大学校の一つとなった。
以上の3校が様々な変遷を経て後の、明治10年旧東京大学→明治19年帝国大学→昭和22年新東京大学、になっていく。
(参考: 文部科学省>学制百五十年史>第一編 近代教育制度の発足と拡充>第一章 近代教育制度の創始と整備 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/1420041_00011.htm 。)
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