安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。 テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・・ ― 2021年12月22日
安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。
テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・谷中村事件を考える」2021/12/19、於館林市文化会館2階、 に出席してきた。
赤上剛氏の司会のもと、安在邦夫氏が基調講演を行い、壇上の論者がそれぞれにそれぞれの切り口から独自の見解を述べて、大変分かり易く、また得ることが多かった。
壇上の論者は夫々、我が身に降りかかるその現場で活動している場合、少し引いて凝視しながら活動している場合、学問的に探究している場合、新しい切り口からの真実を探求している場合、それぞれの立場からの分析と見解と課題を分かり易く聞かせて頂いた。そして事前に用意されていたレジュメが良くまとめてあり、大変分かり易いレジュメで感動もした。
そもそも、足尾銅山鉱毒事件(足尾銅山鉱毒事件と谷中村事件はこの集会では切り離して考えた方が良いとの提案であったが、ここでは広義の足尾銅山鉱毒事件とする)は、世界の公害史の原点であった(田中正造は日本のガンジーだった。2019年08月19日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2019/08/19/9142742
)。
日本中を巻き込んだ大事件であったにも関わらず、当時の殖産興業・文明開花・国力増強・食うか食われるかの世界の戦いの大きな流れに掻き消されながらも、法治国家を意識した、非暴力不服従の抵抗を続けた事件である。当時同時発生していた秩父事件(困民党軍の組織ー軍律 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
)や加波山事件・群馬事件・自由民権運動等も原則は非暴力主義の抵抗を理念に掲げながらも小さな内乱についついなってしまうという中で、出来る限りの努力をしていたという実態を捉えることが出来る。
今回のテーマについて、これは安在邦夫氏が言うように、決して過去の話ではなく、現在にも通じる問題であり、東日本大震災福島原発事故の初期の功労者の双葉町長のその後の町民からのリコール、仲間であった者がやがて離脱と内部対立に向かう成田空港闘争での現在進行形の現実問題、全体闘争に政治が係わりながらやがて内部分裂に向かい問題の焦点が移って自己分裂から矮小な帰結に行き着いてしまう危惧、これらを浮き彫りにしてくれたように思う。
最後の最後まで戦いの同志であった田中正造と左部彦次郎が究極の途端場で袂を分かつたことにより、これがクローズアップされすぎて事の本質が見えにくくなってしまっているのではないか、との掘り下げが見え隠れしてきたように思う。官憲により谷中村の家々が破壊さて尽くしてもなおそこに最期まで居残った住民の心情(※)と、その前に谷中村を去り去った先で苦労を重ねた人たちの心情は天と地ほどに違う筈である。そして同じ谷中村を去り残留民からは裏切り者と言われ北海道移住後の金策に走り回った中では身内からも疫病神と嫌われた谷中村元村長の茂呂近助の心情はまた全く別のものであったであろう。互いに全く理解し合えない別次元のそれらの心情をない交ぜにしてすべてを田中正造と左部彦次郎の2項対立であるかのように単純化した見方によってそれらの心情の違いを覆ってしまい、その2項対立が表面上支配している現今の状況、官憲の破壊後に残った一部住民のあまりにも悲惨な運命に遠慮してそれぞれがうしろめたさを抱きながら何も言い出せず、そんな中での田中正造は神、左部彦次郎はそれに逆らった今悪魔との単純な矮小化された構図に甘んじてしまうというのは後世の検証の仕方としても許されないのではないか、との問題提起を投げかけていると感じる。
(※明治40年6月29日~7月5日の最後の谷中村堤内残留16家屋が官憲により強制破壊され、木下尚江は強制破壊の話を聞き「殺されるか、拘引か」のどちらかという悲壮な覚悟で谷中村に駆け付けたが、そこで見たものは「平然日常の稼業に従事して驚かざりし」といつもと少しも変わらぬ農民の姿をみて神々しいとさえ感じ、「谷中の残留民が身を以て示した非暴力不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示を見た」と言わしめ、田中正造は同年12月強制破壊された仮小屋の中で食糧なく風雨にさらされる苦境の中で残留民に笑い涙しながら「辛酸亦入佳境」と言った。それでもその田中正造でさえ、谷中人民の見えない深い怒りの本質に気付くのはその2年後であった(正造日記明治42年8月1日)と林竹二は言っている。朝日新聞は同年10月6日付で「谷中村問題漸く落着・・」と単純に報じた。)
これらの問題提起は大げさに言えば、いかなる理想の社会を我々が目指そうとも、人間の社会が続く限りそれ自身に内在する問題であるとも言える。
人間が人間として生きていくために必要な人間集団である「社会」、その互いに生きるために必要な「社会」がある限り、そこにはその社会の宿命とも言える深い問題が内在していることを示しているとも言え、その問題を安在先生は言おうとしているようにも見える。
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