ETV特集「昭和天皇が語る 開戦への道 前編・後編を見て ― 2021年12月14日
ETV特集「昭和天皇が語る 開戦への道 前編・後編」を見て
ーー近年の若者の自殺にも関連しているようにも見えてきたーー
◎A.( ETV特集▽「昭和天皇が語る 開戦への道 前編 張作霖爆殺事件から日中戦争 1928-1937」初回放送日: 2021年12月4日 https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2021120411042?cid=jp-timetable-icon-vod )
◎B.( ETV特集▽「昭和天皇が語る 開戦への道 後編 日中戦争から真珠湾攻撃 1937-1941」初回放送日: 2021年12月11日) https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/J9QKR9Z7RN/
この上記◎A.B.のドキュメンタリーを見ていて思った。
世の中の流れが戦争に向かって「行くも戻るも地獄」となってしまった場合、自分ならどう行動が出来るかを考えた。自分でも徹底的に前に進むしかないとの判断を選んでしまうであろう、と思った。事実これまでの自分の人生でも「毒を食らわば皿まで」と居直ったこともある。幸い運よくこれまで生き永らえただけだ。
様々な報道によって世論の流れが「行け行けどんどん」になってしまってからではもう流れを戻せない。「なるようにしかならない」と思うだろう。サイレント・マジョリティの理性よりも理性を失った民衆の狂気の方が世論になるのは今でも同じような気がする。
実は事故だと今では言われている「北欧ネズミ レミングの集団自殺」の場合と同じである( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0
)。
上記ドキュメンタリーによれば、最近公開された当時侍従長の「百武三郎日記」と敗戦後の初代宮内庁長官田島道治「拝謁記」からは勢いに引きずられて軍部の政治関与を止められず「結局勢いというもので、戦争はしてはいかぬと思いながら、ああいうことになった。」、そうでなければ内乱になった、と天皇でさえも世論の大きな流れが出来てしまってからでは止められなかった、と言っている。
世界第二次大戦の開戦への流れもそうだったし、明治維新の尊王攘夷の流れもそうだった、鎌倉時代の三浦一族の集団自決もそうだった。
たとえ大戦前の斎藤孝夫の国会演説があっても(粛軍演説も反軍演説 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%9A%86%E5%A4%AB )、あるいは明治時代の田中正造の国会演説があっても(B<2021/11/16 衆議院議員当選数時間のみで100万円の文通費について> https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/11/19/9441414 )、でもその時の社会の流れは全く変わらなかった。
多くの反戦運動家も出るがその度にかき消されてしまうのがおちだ。例え決定権を持っていても近衛首相のように大きな流れが出てしまっては太刀打ちできなくなってしまう。天皇陛下でさえ「君臨すれども統治せず」によって組織が維持されるとの理念の下では甘んじて受け入れる以外なくなる。しかし戦争を阻止できる可能性があるとすればやはり上に立つ為政者がそれを阻止するしかない。例え国民の熱狂のもとに殆どが戦争を望んでいるように見えても阻止するのが正しい方向性であるとの確信を持っていれば為政者はその方向を死守すべきでありそれは為政者しかできないはずである。
東条英機が首相になって初めて近衛の気持ちが分かったと言ったが結局決断できずに先延ばしして必然的に戦争に突入した(『NHK BSプレミアム 昭和の選択「太平洋戦争 東条英機 開戦への煩悶」』<決断できる知事できない知事新型コロナ第3波で2020年12月15日>https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/12/15/9327246 )。
生半可な意志で人の上に立ったのでは出来ない決断であることが良く判る。でも私たち末端はどんな決断であろうと、結局はその為政者の決断とともに一蓮托生の道を歩むことになる。
「君子は豹変す」や「朝令暮改」や「改むるに憚ること勿れ」等の様々な格言はあれどそれには柔軟性に対応できる能力は必要であるが同時にいざと言う時には、例えば戦争に突入させないという信念はもっともっと奥深い人間の魂に直接響くものでなければならない。そしてその信念は、ここぞということでは決して腰砕けしない鋼鉄のような信念、戦争には絶対しないという信念であり、これを持っていないと出来ない決断である。そうでなければ流される、腰砕けになる、先送りする、等になって大きな流れに負けてしまう。この信念こそが政治指導者には求められる必須のものと思う。
この決してぶれない、行くべき方向を示すベクトルは何があっても曲げないという信念を、人の上に立つ者は持つべきである。
この自己の魂に響く程の決してぶれないベクトルを持つためにはその人それぞれに何が必要か。意外と身近にある事を最近気づいた。カール・ロジャースの2:7:1の法則である(高尾美穂、カール・ロジャースの2:7:1の法則について 2021年11月01日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/11/01/9436660 )。
ここでは人間関係について2を気が合う人、7はどちらでも良い人、1は気が合わない人、とに分けている。最も大事なことは2を見極めることで、7や1はいて当たり前と捉えることで、しかもこの2を思い込み過ぎない事といっている。7は状況次第でどちらにも転ぶし、1は必ずある群なのでこれも意識し過ぎず軋轢を起こさなければ良しとする、と言う。
これは人間関係だけに限らず、社会の中で各人が持つべき人生哲学であると思う。自分の信念をある程度失わず、民主主義の中では7との円満も考えなければならないが、1に対しては必ずいるのでそれに対しては喧嘩をしないことが最終目的とすれば、人生穏やかに過ごせるという事でもある。そしてその1がたとえ9になってもいざと言う時にはそのベクトルを為政者は曲げてはいけない。
実際この2:7:1の法則は1:2:7と自分で順序は入れ替えたが(1が味方:2が横車:7が中立)、知らず知らず多用して自分を納得させてきた( アナーキック・エンパシー ということ2021年07月03日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2021/07/03/9394381 )。カール・ロジャースのいう1が2になろうが3になろうが、理屈は同じである。
これは国と国の関係で言えばたとえ気に入らなくても相互生存の道を選ぶべきだし、人と人の関係で言えば呉越同舟の道を模索すべきである。今流にいえば多様性の受け入れである。哲学者ヴィトゲンスタイン流にいえば一人ひとりみな違う心象世界を互いに受け入れるということである(歴史とは何か?2020年11月25日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/11/25/9320321 )。
最近の日本の自殺者は年間3万人を超え交通事故死の5.8倍という。しかもその殆どが10代~40代の若者だという。若い多感な時代は必要以上に心が傷つき易い。それを乗り越える術を身に付けなければならないが、色々な人がいろいろのことを言う割に相変わらず暗中模索が続いているのが今の世の中である。
このカール・ロジャースの法則のように、10人に1人は必ずそりが合わない仲間がいるという前提で生きることを伝え、一人もいない事の方が異常なのだと若い人たちに言い聞かせながら、そのそりが合わない人ともいかに上手に付き合って世の中を生きていくかが大事であるのでこれを楽しみながら歩むのが人生の醍醐味なのだと教えたらよいと思う。
( 自殺対策に関する参考統計資料 厚労省 https://www.mhlw.go.jp/content/h28h-s6.pdf )
( 子どもの自殺の実態 文科省 https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2009/04/13/1259190_4.pdf )
そうすれば、木村花さんのような悲劇は無くならないまでも少なくなるのではないだろうか(女子プロレスラーの木村花選手、22歳で死去 SNSで中傷されていたと示唆 2020年5月24日 BBC NEWS Japan https://www.bbc.com/japanese/52787007 )。
そして、追い詰める側も一定以上は決して相手を追い詰めないというお互いの「基本ルール」を教えることも大事である。
安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。 テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・・ ― 2021年12月22日
安在邦夫(早稲田大学名誉教授)の講演と対話集会。
テーマ「左部彦次郎の生涯と足尾鉱毒事件・谷中村事件を考える」2021/12/19、於館林市文化会館2階、 に出席してきた。
赤上剛氏の司会のもと、安在邦夫氏が基調講演を行い、壇上の論者がそれぞれにそれぞれの切り口から独自の見解を述べて、大変分かり易く、また得ることが多かった。
壇上の論者は夫々、我が身に降りかかるその現場で活動している場合、少し引いて凝視しながら活動している場合、学問的に探究している場合、新しい切り口からの真実を探求している場合、それぞれの立場からの分析と見解と課題を分かり易く聞かせて頂いた。そして事前に用意されていたレジュメが良くまとめてあり、大変分かり易いレジュメで感動もした。
そもそも、足尾銅山鉱毒事件(足尾銅山鉱毒事件と谷中村事件はこの集会では切り離して考えた方が良いとの提案であったが、ここでは広義の足尾銅山鉱毒事件とする)は、世界の公害史の原点であった(田中正造は日本のガンジーだった。2019年08月19日 https://ku-wab.asablo.jp/blog/2019/08/19/9142742
)。
日本中を巻き込んだ大事件であったにも関わらず、当時の殖産興業・文明開花・国力増強・食うか食われるかの世界の戦いの大きな流れに掻き消されながらも、法治国家を意識した、非暴力不服従の抵抗を続けた事件である。当時同時発生していた秩父事件(困民党軍の組織ー軍律 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
)や加波山事件・群馬事件・自由民権運動等も原則は非暴力主義の抵抗を理念に掲げながらも小さな内乱についついなってしまうという中で、出来る限りの努力をしていたという実態を捉えることが出来る。
今回のテーマについて、これは安在邦夫氏が言うように、決して過去の話ではなく、現在にも通じる問題であり、東日本大震災福島原発事故の初期の功労者の双葉町長のその後の町民からのリコール、仲間であった者がやがて離脱と内部対立に向かう成田空港闘争での現在進行形の現実問題、全体闘争に政治が係わりながらやがて内部分裂に向かい問題の焦点が移って自己分裂から矮小な帰結に行き着いてしまう危惧、これらを浮き彫りにしてくれたように思う。
最後の最後まで戦いの同志であった田中正造と左部彦次郎が究極の途端場で袂を分かつたことにより、これがクローズアップされすぎて事の本質が見えにくくなってしまっているのではないか、との掘り下げが見え隠れしてきたように思う。官憲により谷中村の家々が破壊さて尽くしてもなおそこに最期まで居残った住民の心情(※)と、その前に谷中村を去り去った先で苦労を重ねた人たちの心情は天と地ほどに違う筈である。そして同じ谷中村を去り残留民からは裏切り者と言われ北海道移住後の金策に走り回った中では身内からも疫病神と嫌われた谷中村元村長の茂呂近助の心情はまた全く別のものであったであろう。互いに全く理解し合えない別次元のそれらの心情をない交ぜにしてすべてを田中正造と左部彦次郎の2項対立であるかのように単純化した見方によってそれらの心情の違いを覆ってしまい、その2項対立が表面上支配している現今の状況、官憲の破壊後に残った一部住民のあまりにも悲惨な運命に遠慮してそれぞれがうしろめたさを抱きながら何も言い出せず、そんな中での田中正造は神、左部彦次郎はそれに逆らった今悪魔との単純な矮小化された構図に甘んじてしまうというのは後世の検証の仕方としても許されないのではないか、との問題提起を投げかけていると感じる。
(※明治40年6月29日~7月5日の最後の谷中村堤内残留16家屋が官憲により強制破壊され、木下尚江は強制破壊の話を聞き「殺されるか、拘引か」のどちらかという悲壮な覚悟で谷中村に駆け付けたが、そこで見たものは「平然日常の稼業に従事して驚かざりし」といつもと少しも変わらぬ農民の姿をみて神々しいとさえ感じ、「谷中の残留民が身を以て示した非暴力不服従の戦いの中に世界史的な偉大な啓示を見た」と言わしめ、田中正造は同年12月強制破壊された仮小屋の中で食糧なく風雨にさらされる苦境の中で残留民に笑い涙しながら「辛酸亦入佳境」と言った。それでもその田中正造でさえ、谷中人民の見えない深い怒りの本質に気付くのはその2年後であった(正造日記明治42年8月1日)と林竹二は言っている。朝日新聞は同年10月6日付で「谷中村問題漸く落着・・」と単純に報じた。)
これらの問題提起は大げさに言えば、いかなる理想の社会を我々が目指そうとも、人間の社会が続く限りそれ自身に内在する問題であるとも言える。
人間が人間として生きていくために必要な人間集団である「社会」、その互いに生きるために必要な「社会」がある限り、そこにはその社会の宿命とも言える深い問題が内在していることを示しているとも言え、その問題を安在先生は言おうとしているようにも見える。

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