性分と理念 道徳と倫理、 言葉の定義メモ ― 2024年01月07日
性分とは:
ヒトにはそれぞれ性分というものがあり、その塊である家族、会社、国にも同様な性分がある。その性分はいわゆる理念とも言う。
理念とは:
理念とは企業等のいわば家訓と言えるものである。家訓とはそれぞれの家の決まり事であり正邪善悪の枠は有っても無くても良い。その家族の意識の共有・アイデンティティを醸成するものである。家族の数だけ、企業の数だけ、国の数だけ、それぞれの理念があってしかるべきものである。「性分」とは「理念」と言い換えることができる。
従って、「道徳」や「倫理」から外れることがあり得る。そして完全な不可侵では人間社会の生存が保てないので完全な野放しはあり得ない。故に不可侵に扱うべき範囲の共有が最も大切であるということになる。
道徳と倫理の違い:
道徳と倫理との違いは後者が批判的吟味を必須とされていることである。
2024/1/10 追記。
今朝(2024/1/10)のNHK newsでLGBTQ+の子供の母親が生み出した「素自」という言葉について放映をしていた。そして思った、自分も若い頃、これは自分の性分だ、と見切って自らを納得させていたことがあったことを。この方の言う「素自」は自分の思った「性分」と同じ意味であると思った。調べてみたら過去の地方版の再放送だった(下記)。
〇【特集】“素自”で生きられる社会へ 母親が伝え続ける思い 12月14日 NHK東海News web https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20231214/3000033281.html 。
〇「生理もスカートも限界」カミングアウトした我が子と向き合い気づいたこと COSMOPOLITAN 2023/06/28 https://www.cosmopolitan.com/jp/trends/society/a44260616/uragari-tomoko-interview/ 。
〇「願書の性別に丸が書けない」 性別に違和感を持つ子ども・・ 中日新聞 2023年8月30日 https://www.chunichi.co.jp/article/758797 。
利根沼田地域関連の各 小学・中学・師範 の学校成立のながれ ― 2024年01月09日
蒼新好(あおによし)小学校:
明治5年学制発布により奈良村もいわゆる寺子屋はなくなり代わりに明治7年12月1日左部善兵衛の長屋で開校、翌明治8年3月公立(私立か)学校としての設立伺いを楫取県令に提出、明治9年奈良正円寺(しょうえんじ)に移り、明治30年には奈良居平(いだいら)に新校舎新築した。この間に校名は明治17年小学校令で奈良尋常小学校、明治20年には再び蒼新好小学校(但し下発知(しもほっち)尋常小学校の分校扱い)となり、明治22年には南池田尋常小学校と改称された。明治37年発知新田(ほっちしんでん)に池田高等小学校が新築されて明治41年からは尋常科6年・高等科2年の義務教育制となり名称も池田尋常高等小学校南分教場(ぶんきょうじょう)と改称された。大正5年には東分校(ひがしぶんこう)に改称、昭和16年には池田村国民学校東分教場と改称、昭和22年6-3-3制義務教育の発布で池田小中学校となり、昭和29年からは沼田市立池田小学校の東分校と再び改称された。
なお、蒼新好学校の校名の言われは万葉集の歌にあるように奈良の枕詞からとったものという(あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとくいまさかりなり ー 太宰少弐小野老朝臣)。 (参考:「池田村史」、「蒼新好」)
(2024/1/15追記:池田小学校記録では明治7年12月1日開校となっているようであるが、楫取群馬県令への公文書では「蒼新好小学校学事現況 明治13年9月25日」にて明治7年1月8日開校となっている。かつ授業料は無し、寄付金によるとなっている。また同年同日の県令宛の「蒼新好小学校設立届書」では明治12年の教育令で学区制が廃止されたので公立小学校となす、となっている。公文書を優先すれば、蒼新好小学校開校は明治7年1月8日であり学区制を廃した公立小学校化は明治13年ということになる。―「蒼新好」による。なお蒼新好小学校開校が明治7年12月1日との記録があるもこれは学区制の発知小学校設置の地が下発知観音寺から中発知に移り同時に中発知の発知小学校と奈良の蒼新好小学校の二校に明治7年12月1日に分かれたことによると思われる。奈良・下発知・秋塚3カ村が協力設立した小学校になったのはこの時である)
沼田尋常小学校:
明治5年の学制発布により沼田町においても小学校を翌年6月28日に創設した(人民を等しく学に就かしめるため邑に不学の戸なく家に不学の人無からしめんことを期す―学制)。明治6年6月28日に倉内小学校・坊新田小学校が設置され翌年1月火災で坊新田学校が焼失し倉内小学校に一時合併、同7年3月に沼田小学校を大手門内に設置し大部分の生徒は沼田小学校に移った。倉内小学校・沼田小学校両校児童は計150余人であった。初期には校長はいなくて区長が管理していた。教員はできたばかりの教員伝習学校(厩学校)に明治6年3月~5月の60日間の速成講習の募集に応じ教科の伝習を終わって帰り授業を担当した。並行して出来たばかりの暢発学校に入学卒業して正規の訓導資格を得た久米・小倉・正木の三氏が明治8年に戻り、近郷の小学校の巡回授業をしたという。児童の増加により明治9年には材木町に分校(柴田屋学校)・原新町分校を置き明治13年には沼田小学校本校を拡張し分校を統合して更に翌明治14年10月には倉内小学校を沼田小学校倉内分校として沼田小学校に統一した(沼田学校とも称した)。明治17年には第123学区利根第一小学校と改称(明治12年教育令の学区制廃止後に拘わらず徹底していない証拠)、明治19年12月には2階建の新校舎が竣工した。その後も明治23年・28年・40年・大正8年・昭和11年と増築を重ねたが昭和19年11月出火して一部焼失称して仮校舎を榛名神社等に借り受け戦後の昭和24年10月1日には沼田東小学校を分離独立させた。昭和25年10月には再び沼田小学校新校舎を増築した。児童数の驚くべき増加があり明治6年の創設時150余名から昭和15年には尋常科・高等科を合わせて2680名であった。
沼田小学校の名称変更の変遷については、明治7年の大手門内に沼田小学校と改名設置以来、明治14年に分校統合しての沼田小学校、明治17年利根第一小学校、明治19年4月1日利根第一尋常小学校とするも郡合併の影響で同敷地内に同4月3日には利根北勢多高等小学校が創設され、明治26年3月30日には利根第一尋常小学校内に高等小学校併設により沼田尋常高等小学校と改称して利根北勢多高等小学校は解散廃校となった(この廃校跡地に旧制沼田中学校の前身が入った)。明治41年義務教育延長で尋常科6年高等科2年に再編成されてその後昭和16年4月1日よりは沼田国民学校に改称、戦後の昭和22年4月1日より6-3-3制の実施で再び沼田小学校と改称しかつ小学校後援会が廃止されてPTAに改称設置された。なお、同窓会は明治27年より、子守学校は明治29年より、明治33年より裁縫専修科(裁縫学校→女子実業補習学校と改称)が、青年夜学会が明治40年より開始された。
(参考:沼田町史、沼田市史)
旧制沼田中学校:
高等小学校卒業後には前橋の群馬県尋常中学に行ける者は少なく、一方東京京都へ遊学する者も少なくなく、郡内での中等教育機関の必要性を痛感した有志により利根北勢多高等小学校廃校跡地に育材館の創設願いが県に提出されて明治26年4月15日育材館が設立認可された。
初め私立として申請認可されたが、明治29年5月25日には組合設立学校(沼田町外16ケ村組合設立学校)となりまもなく利根学校と改称して同29年9月2日には中山克己が利根学校長(月俸40円、後の初代沼中校長)として就任した(県会には既に分校化予算の話が出ていた)。明治30年1月10日には澤柳政太郎群馬県尋常中学校校長らが視察に来ている(澤柳は後の文部次官)。文部省の正式の許可も得て明治30年4月1日より群馬県尋常中学校利根分校となった。明治32年の中学校令で尋常中学校を中学校と尋常を削除しかつ分校を1校のみとすると決められたために6分校(高崎・富岡・太田・安中・藤岡・利根)のうち利根分校は残り外は独立して名称も群馬県立前橋中学校利根分校となった(明治34年4月から道府県立、郡立、市町村立、私立等の文字を追加すべきとされた)。本校分校問題は県費用の面でその後も続き4本校3分校となったりしたが、利根分校は明治45年4月になり独立中学として決定されて群馬県立沼田中学校となった。
(参考:沼高70年史、沼高百年史)
群馬県師範学校:
明治5年学制発布で教師養成のために、明治6年2月に第一次群馬県の小学教員伝習所が前橋の旧藩校跡に設立され(明治5年11月22日設立の一番小学校(厩橋学校)内に設立)、同年6月には熊谷県発足で本庄の安養院境内に移転し暢発学校と改称(本庄学校)、更に同年11月には熊谷の高城神社境内に移転した(熊谷学校)。明治9年第二次群馬県発足で同年9月高崎の興禅寺境内に移転して群馬県師範学校と改称され、同10月には前橋龍海院境内に移転した。明治11年新校舎が前橋曲輪町に落成。明治19年師範学校令で群馬県尋常師範学校と改称、明治31年師範教育令で群馬県師範学校と改称、大正元年に安中に第二師範学校ができたために前橋は群馬県第一師範学校と改称、大正2年には第一第二学校合併で再び群馬県師範学校と改称、昭和17年群馬県師範学校・群馬県女子師範学校(明治34年独立設立済)を統合して官立群馬師範学校を設置し男子部・女子部を置いた。昭和24年新制群馬大学となり2年後に旧制群馬師範学校は廃止された。
廃校記念誌「蒼新好」を中心に、 明治の学制発布に伴う教育制度の変遷等・・ ― 2024年01月16日
明治の学制発布に伴う教育制度の変遷等に係る時系列のメモ
(西暦年と旧暦新暦の関係を含む。主に利根沼田の小学校・中学校関連について)
最近、明治5年の学制発布に伴いそれまでの寺子屋方式から新たに設立された奈良村独自の蒼新好小学校(あおによししょうがっこう)の在校生全員1500余名の名前が載っている名簿(廃校記念誌「蒼新好」)を見つけた。蒼新好小学校は明治7年に村が自主的に創設し翌8年に学校として正式に認可してほしいと楫取素彦県令に村が陳情書を提出した。
慶応2年生まれから昭和40年生まれまでの学童全員の入学年度と生年月日が載っていた。足尾鉱毒事件の左部彦次郎の名前も同氏からの手紙が見つかった石田清作の名前も載っておりその家も特定できた。発刊日が抜け落ちているが昭和47年3月29日に廃校式を行い、漸く年度内に発刊の運びになった、と編集後記にあるので作成は昭和47年12月と思われる。編集後記を書いた蒼新好山人は左部賢氏である。
この中には左部彦次郎が地元で教員をしていたこと(明治25-29年地元に戻っていた頃か)、明治32年義務教育制度実施の時に必要な教科書の無料配布の意見書を政府に提出したこと等が書かれていて教員・義人と書かれていた。翌明治33年の第3次小学校令で授業料が無料となり就学率が急上昇した直前である。まもなく生じた明治37-38年の日露戦争になぜ勝てたのか勝因を調べたイギリスが日本の教育にありと分析しその中心人物として文部省の澤柳政太郎をイギリス本国に翌39年招聘したという経過があった。加えるにこの蒼新好小学校生徒名簿にも載っている彦次郎より4年後輩の石田勝太郎が文部省の澤柳政太郎の直属の部下として明治34年から39年まで働いていたという逸話もあった。左部彦次郎は足尾鉱毒事件の社会活動家として、石田勝太郎は地元の教員から文部省まで引き抜かれて同じ頃教育者として、社会の大波の中で活躍していたのである。
後年足尾銅山鉱毒事件に関わった左部彦次郎は安政7(1860)年奈良村から江戸へ出奔した父左弥太の次男として江戸(東京)で生まれて、奈良村の家督を継いだ父の弟の叔父宇作の養子に明治11(1878)年2月に入籍した。「蒼新好」の中の就学児童名簿には慶応3(1867)年10月生まれで学齢11才6か月とある。従って養子に入ってすぐに蒼新好小学校に入学したと思われる。彦次郎は明治21年に東京専門学校政治科に入学している。入学中から足尾鉱毒問題を知り同24年7月卒業と同時に現地調査をして農商務大臣への請願書を先導して明治25年1月15日付で4カ村から感謝状を受けている(この短期間は学生時代から既に関わっていた証拠とも言える)。このことは明治25年2月発行の東京専門学校の同攻会雑誌第11号の中の「近時片々」に「校友左部氏感謝状を浮く」と私費で行ったことがいち早く学苑内に伝えられた。そして明治25年に故郷奈良村に帰り初代消防頭や教員を務めたことになる。そして明治29年3月の県会議員選挙騒動の後に再び上京して明治31年になって鉱毒東京事務所の谷氏から援助を依頼されて再び足尾鉱毒問題(事件)にかかわるようになった。それ以後は周知のごとくである。
奈良村は上野国郡村誌(明治10年)によれば正治元(1199)年源頼朝が落馬して死亡した年に立村したと伝わる(正治元年鎌倉浪人石田勘解由ナル者本村ニ流寓ス・・とある)が、古代より人が居住しており地元では奈良の百塚と言われる如く多くの古墳が群集して鎌倉時代まで重葬墳として使われた痕跡もあるという(池田村史)。その古墳集積地は南面で日当たりが良く小さな河岸断層が今も見事に残っている。沼田市から「奈良古墳群」の指定を受けている。
【参考:①『左部彦次郎の生涯』安在邦夫著2021年1月20日第2刷発行発行随想社。②「足尾鉱毒事件と左部彦次郎―その生涯と運動への関わり方―」桑原英眞著『群馬文化』第338号令和元年12月。③廃校記念誌『蒼新好』昭和47年12?月。④『石田勝太郎の生涯―左部彦次郎との関係及び弟達 角田暉次郎 石田文三郎の足跡を併せて―』石田勝太郎の足跡を辿る会著2022年12月6日発行 発行DiPS.A。⑤『池田村史』昭和39年。】
地元の歴史の一端を調べる基礎として学制発布に係る地域の状況を含む歴史の流れについて簡単にまとめておく。
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・慶応3年10月14日(新暦1867年11月9日)大政奉還:二条城で江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ奏上し、翌15日(1867年11月10日)に天皇が奏上を勅許した。「征夷大将軍」という官位を「禁裡様」(天皇)へ返上するという形で行われたので易姓革命という王朝交代ではないので「革命」と言わず「維新」の表現が選ばれた。
・慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古:討幕派公卿と5大名(5藩)が幕府政治から君主政治に転換する宣言をした。これに対し幕府体制派が対抗して戊辰戦争(鳥羽伏見の戦いから函館戦争まで)につながる。
・慶応4年(明治元年)1月3-7日 鳥羽・伏見の戦い(明治元年1月1日は慶応4年1月1日でもあり、新暦変更により西暦では鳥羽伏見の戦いは1868年1月27-30日に相当する)。明治元年4月11日(1868年5月3日)江戸城無血開城。
・慶應4年(明治元年)3月14日(1868年4月6日)五か条のご誓文布告:京都御所の紫宸殿で明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、天皇出御のもとに三条実美が神前でご誓文を読み上げた。億兆安撫国威宣揚の御宸翰という形で国民にも披歴された。この御誓文は数年後には木戸孝允・板垣退助らにより立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。
・慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)に明治新政府の政治体制を定めた「政体書」発布。
・慶応4年9月8日(1868年10月23日)改元の詔書が出された。慶応4年は1月1日にさかのぼって明治元年と定められたので慶応4年は明治元年でもある。
・明治2年6月17日(1869年7月25日)版籍奉還:全国の大名(藩)が所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。旧幕府や戊辰戦争で敵対した諸藩の領地を接収し直轄地として支配したがそれ以外の諸藩の本領は安堵されて領主権に大きな制約はまだ加えられなかった(2年後の廃藩置県で朝廷へ返還完成する)。
・明治4年7月14日(1871年8月29日)廃藩置県:約300の藩を廃止し国直轄の県とした。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。知藩事および藩士への俸給は国が直接支払い義務を負ったがのちに秩禄処分により削減・廃止された。→藩士らの不満が募り西南戦争につながる。
以後学制発布など
・明治5年8月2日(1872年9月4日)学制発布(太政官布告第214号)。日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令である。全国を学区(大学校区・中学校区・小学校区)に分け、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。教育令(明治12年太政官布告第40号)の公布により明治12(1879)年9月29日に廃止された。
・明治5年12月旧暦(太陰暦)から新暦(太陽暦)への切り替え(グリゴレオ暦,1582年以前はユリウス暦)。【旧暦の明治5(1872)年12月3日を新暦の明治6(1873)年1月1日に定めた、ので旧暦の明治5年は約11か月で終わった。新暦は1年365日で12か月・閏年は4年に1回・1日24時間等が決まった(明治5年太政官布告第337号)。
(従って旧暦明治4年11月21日から新暦明治5(1872)1月1日と西暦1871→1872年に切り替わる。明治4年の11月20日までは西暦1871年)。】
・明治7年1月8日奈良村に蒼新好(あおによし)小学校開設。【江戸時代より寺子屋式教育は行われていたが、この年に下発知・奈良・秋塚の3カ村が団結して初め左部善兵衛長屋を借用して開設しまもなく正円寺に移り、翌年8年学制発布に伴い学校としての設立陳情書を楫取素彦県令に提出した(運営は寄付金)。明治13年近隣3カ村(奈良村・下発知村・秋塚村)の公立小学校となる(なお蒼新好小学校開校が明治7年12月1日との記録があるもこれは学区制の発知小学校設置の地が下発知観音寺から中発知に移り同時に中発知の発知小学校と奈良の蒼新好小学校の二校に明治7年12月1日に分かれたことによると思われる。奈良・下発知・秋塚3カ村が協力設立した小学校になったのはこの時である)。明治19年4月町村立蒼新好小学校となる。明治23年8月蒼新好小学校から南池田尋常小学校と改名、明治26年には池田南尋常小学校と改名、明治31年9月校舎を奈良村居平に新築し正円寺から移る。明治41年4月1日より池田村に本校一校として池田尋常小学校本校を設立し池田南尋常小学校を南分教場とした。大正6年より東分教場に改称、昭和47年分校統合して本校へのスクールバス通学となる。その統合記念誌「蒼新好」(あおによし)には明治7年から昭和46年までの就学児童名が載っている。左部彦次郎や石田勝太郎も就学児童として載っている。】
・明治26年4月私立育材館が発足した。【江戸時代より土岐氏の武士子弟のための藩校の沼田学舎および農町民らのための寺子屋はあったが明治5年の学制発布直後には藩校は廃校となった。私立育材館は空き校舎になった利根北勢多高等小学校を使って設立されて明治29年4月より利根郡立利根学校と改名した。学制発布初期の頃は小学校等の初等教育の普及に力を入れていたが中等教育の必要性も痛感されるようになり高等小学校を卒業した男子のために私立育材館が発足し後の利根学校→利根分校→旧制沼田中学校の始まりとなった。】
・明治30年4月群馬県尋常中学校の6分校の一つとして利根分校が発足した。【明治32年の中学校令改正で高等中学校を高等学校に、尋常中学校を中学校に名称変更等が定められて翌明治33年4月には群馬県前橋中学校利根分校と改名更に翌々34年には群馬県立前橋中学校利根分校と改称した。明治45年4月からは独立して群馬県立沼田中学校(旧制)となった。
「覇権主義」 の定義 メモ ― 2024年01月19日
ウクライナ・ロシア戦争、イスラエル・パレスチナ ガザ地区戦争、イラン・パキスタン間紛争、米英のイエメン・フーシ派空爆、解決が見通せない中で北朝鮮が武器商人国家になりあがり世界を巻き込む政情不安が世界中を覆い、平和ボケした日本も火の粉が降り注いでいる時代になってしまった。覇権主義・権威主義・民主主義等の言葉が時に空しく時に重く圧し掛かるような状況の中で改めて「覇権主義」という言葉の普遍性について調べてみた。
〇覇権(=ヘゲモニー=hegemony)とは、政治的あるいは経済的あるいは軍事的に抜きん出た国家が他国を支配・統制すること、と捉えて良いようだ。覇権 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9 。
〇覇権主義(hegemonism)とは、影響力を拡大させるために一つの大国が軍事面・経済面・政治面で自国より弱い他の国々に介入し、その国の主権を侵害し続けること。通常では批判的な文脈で用いられることが多い。古い時代の使用例も見られるが冷戦以降は超大国を形容する通例的な用語となり主にアメリカ・ソ連・ロシア・中華人民共和国への批判に使う、とある。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%87%E6%A8%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 。
日本国語大辞典・Oxford English Dictionaryでもほぼ同意のようなので、世界の中でも「覇権」「覇権主義」は、ほぼ世界共通の概念のようだ。
実際、1972年の「日中共同声明」でも「米中共同声明」でも、1878年#の「日中平和友好条約」でも使われている。その定義の共有がなされており同床異夢の言葉ではなく生きた言葉と言えるようだ。(追記:#1978年の間違い)
〇「日中共同声明」(1972年9月29日締結)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%A3%B0%E6%98%8E 。
これは日中平和友好条約の前段階の国交樹立のためのものであるが、やはり「覇権」の語が使われている。簡体字かどうかの違いはあるが日本文も中国文も覇権・霸权で同じである。英文はhegemonyという言葉を使っている。
〇米中共同声明(=上海コミュニケ=米中共同コミュニケ、1972年2月27日締結)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B1 。
ここでも中国文では霸权=覇権を使い、英文ではhegemonyを使っている(米中関係資料集 東京大学東洋文化研究所 https://worldjpn.net/documents/indices/USC/index.html )。
下記に日中平和友好条約の具体的条文を記しておく。
〇「日中平和友好条約」(1978年8月12日締結・1978年10月23日発効)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E5%8F%8B%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84 。
第2条で反覇権条項・第4条で第三国条項が謳われた。即ち中国はソ連を意識した反覇権を臭わしたのに対して日本は北方領土問題の解決を意識してソ連を意識したものではないと明示したいとの思惑から反覇権条項と第3国条項の両者が盛り込まれてやっと成立した。
【<日本語正文>(第二条 両締約国は、そのいずれも、アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても覇権を求めるべきではなく、また、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国又は国の集団による試みにも反対することを表明する。
第四条 この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない。)
<中国語正文>(第二条 缔约双方表明:任何一方都不应在亚洲和太平洋地区或其他任何地区谋求霸权,并反对任何其他国家或国家集团建立这种霸权的努力。
第四条 本条约不影响缔约各方同第三国关系的立场。)】
日本語正文にも中国語正文にも「覇権」=「霸权」が使われている。
かつて周恩来がソ連を意識して覇権主義には絶対反対の意思を示し、北方領土問題解決の弱みを持っていた日本側がソ連を臭わす表現には絶対反対で直ぐには纏まらなかった1978年の日中平和友好条約が、特定の国を指すものではないという第3国条項を入れることでやっと纏まった頃からは想像できない程に、今の中国はその覇権主義の先頭を走っている。
また一方、民主主義や権威主義という言葉の定義は曖昧のようだ。本人個々の自由なイメージで使われている、全く同床異夢の言葉のようだ。何せ北朝鮮が朝鮮民主主義人民共和国を名乗っているのだから言わずもがなである。
(〇民主主義と権威主義2021年6月22日東京新聞 https://www.tokyo-np.co.jp/article/112023 。
政治学では、非民主主義の体制を権威主義とする考え方もあれば、民主主義と全体主義の中間にあるのが権威主義とする捉え方もあるという。)
特に民主主義という言葉は権威主義国家も覇権主義国家も中央集権としか言いようのない国家も使っているし、名実ともに民主主義の総本山と自他ともに認める米国さえ中身のない空しい言葉になってきている。利己主義と言った方が相応しい程に目暗だましのような言葉になり重みのない言葉になってしまった印象がある。ビジョンなき哲学なき戦略と戦術になりかねない状況に陥りつつあるように映る。日本流に言えば、仁義なき戦いが世界を今席巻している。

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