2023/2/16午前、八ヶ岳が見えた。 ― 2023年02月17日
諸行無常ということ? ― 2023年02月17日
2023/2/17 アサブロ
諸行無常? 何でこんなことをメモしたのだろうか?
かつて、中途半端なままメモしておいたものを見た。かつての日本学術会議でがっかりした思い出に係るのだろうか(日本学術会議公開シンポジウム「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」平成19年8月30日日本学術会議講堂 東京都港区六本木)。
いったい世の有識者と言われる人たちは何を考えているのだろうかと当時は清水の舞台から飛び降りる位に思い詰めて田舎から出て行き聴いたがその偏狭さにがっかりして帰ってきたことがあった。
それとも高齢者介護施設での仕事上での生活リハビリについて考えていた頃なのだろうか。あるいはカルロス・ゴーンが高額年俸を当たり前とマスコミに居直る姿を見ての日本人の違和感の頃なのだろうか、少なくとも日本の美学とは相容れなかった。
読み返して、これ以上は進まないなと思ったのでそのままメモとして載せておく。
( 日本学術会議の会員の政府による6名任命拒否について ― 2020年10月08日日本学術会議の会員の政府による6名任命拒否について ― https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/10/08/9303497 )
( Hidemasa Kuwabara2020年10月6日 https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid034y6aMXvk7GdjssVGJRL591NjrE9NfgRYHaSWC6C7HHoznJqq7RhwWfzzZTo9hSMQl?__cft__[0]=AZVEKfwBBmMfil1yUWdArFgEBnbaWHM8UFlGT-_SXC8R46cGT5-wYGPk0gR83mEZ19fsboi4gDFawzvcgLm4s8DjC8ruNNdCIsLX5LCYyUwsXs1VSan329wjjpc-zGhGUqE&__tn__=%2CO%2CP-R )
・・・<
2021/8/17 諸行無常ということ
人は路傍の石ならぬ路傍の雑草のごとく、踏み付けられ切り取られながらも辛抱強く生き続ける。その人の心象風景には名もない小さな花がきっとすべての人のそれぞれに咲いている。消えては生き生きては消えていく。そしてその中で、唯々粛々と絶えることなく新たな命をも繋いできている、人の一生とはそういうものだと思う。そうやって重なって行き歴史になっていく。そこには、たとえ路傍の石であっても路傍の雑草であっても歴史のささやかなひとこまを形成している。それは善悪とは超越した機序で成り立っている。
世のいわゆる有識者も優れた知性を持っていたとしても所詮その心象風景を超えた理解は出来ないようだ、75年の年を重ねてきたらそう思う。
かつて医療崩壊の現実に向き合った時、いったいこの国の有識者たちは何を考えているのかと日本学術会議のシンポジウムに行ってがっかりして帰ってきたことがあるが、今考えれば自分が期待し過ぎただけだった。
かつて2011年に「がん哲学外来ー二つの法則」というテーマでご講演して頂いたのをきっかけにがん哲学外来をお願いしていた樋野興夫先生は、たとえがんの末期であろうと人には必ず何か希望がありその希望の芽を会話の中で如何に紡ぎ出すかががん哲学外来の肝である、とおっしゃっていた。これは自分の捉えた解釈でご本人は「暇げな風貌と偉大なるおせっかい」とおっしゃっていた。当時なるほどと勉強させて頂いた。そんなこともあり今老健施設で仕事をしているが、入所していることは生活リハビリをしていることと同じであるとの信念のもとに仕事をしている。生活リハビリの意味は極めて広く元気な人から寝たきり迄、たとえ明日死にゆく方でも今を生きる価値があるとの信念のもとに残されたわずかの能力でもそれのもとに生きる活力を支えることを使命としている。一人一人違うその在り方を我々は生活リハビリと言っている(※)。
・・・
病院で外来診察をしていると、必要以上に辛いのをじっと我慢しすぎて手遅れになりかねない場合があるので、とにかく待合室の状況には目を配り、異変を感じるようであれば順番を入れ替えて早めの診察に回すようにと職員には注意していたが、順番が狂っても理解してくれる患者もいれば、俺の方が早いと言って文句を言い出す患者もいる。心に余裕がなくなれば誰でも周りの状況が見えなくなってしまう。自分が一番辛いと客観的な判断が出来ずに思い込んでしまう事は屡々みられる。現役時代に5つの病棟があったが、各病棟のスタッフは何で私たちだけがこんなに忙しい思いをしなくちゃならないのかと愚痴を言われることが屡々あったがそういう病棟ほど一番忙しくない事の方が多かった。はっきり言って皆さんの病棟が一番楽な状況ですよ、とたしなめることは何度もあった。何か不都合が生じた場合、相手を攻撃するタイプと自分が至らなかったせいだと自分を責めてしまう2つのタイプが人にはあるが、特に自分を責めてしまうタイプには気を配る必要がある。酷い場合にはうつや自殺に繋がるからである。
そのように人間は本来利己的な生き物である。それが社会と言う環境の中でその人それぞれの人生をかけて少しずつ学んで理性と感情を共に紡ぎ一人ひとり違う心象風景を醸成していく中で倫理感も育っていくものと思う。そして新たな生命に変わればまたゼロからの出発をする。科学は引き継がれるが一人ひとりの心象風景は引き継がれない。自らの経験と知識に基づく実感のみが人の数ほどある個々の心象風景に影響を及ぼし得るのである。
歴史は繰り返すと言われるが、人生戦国時代は50年、最近長くなったとは言えたかが100年、次世代に残せるものもあるが残せないもののほうが多い。残せるものの代表は科学であり、残せないものの代表は各人の心の中の心象風景である。そしてそれは人の理性と感情が生み出す倫理感につながる。生者必滅という厳然たる事実。そしてこの世の中の人間社会は、正しいものが勝つわけではなく勝つから正しくなるに過ぎない、と75年生きてきてやっと分かった。正しいか正しくないかとは無関係に事実が重なり歴史となっていくだけである。如何に大事な一個人であっても残すものはささやかな足跡だけである。その足跡によって引き継げるのは科学だけである。個々の人間の心象風景は出来ては消え、何も無かったかのように出来ては消えていく。その心象風景とそれから生ずる理性・感情、そしてそれらによって紡ぎ出される倫理感は、これらは独立しているようには見えないが、紀元前の中国の孔子や古代ギリシャのアリストパネスの頃より変わらない。個々人が先人のその思いを継承しても所詮その個々人が一生をかけてその人なりの倫理感を紡いでいっているに過ぎない。そしてその個人が消えればまたゼロから始まる。個々人のそれがグループとなり社会倫理を構築しても別のグループが別の社会倫理を構築すれば星の数ほどの社会倫理が生まれるだけであり結局十分な統合はされない。歴史がそう教えている。人は本来視野の狭い利己的な生き物であるということである。倫理感はささやかな経験によってのみ紡ぎ出されるものなので一生をかけて理解できるようにするしかない。経験が無くても積み重ねられる科学とはそこが違う。
科学の進歩は時を経るに従って恐らく大古より少しづつ進歩を続けていて、特に21世紀に入っては驚異の進歩を遂げている。それとは対照的に人間の「社会倫理」は恐らく大古より少しも進歩していない。社会が成立したのは何時ごろからか知らないが社会が成立して維持されるためには社会倫理が必要不可欠と思われる。紀元前からその社会を維持するための社会倫理は変わらないようだ。少なくとも中国の孔子やインドのお釈迦様や古代ギリシャのアリストパネスの頃から進歩していない。アリストパネスは悪貨は良貨を駆逐すると皮肉り、司馬遷も『史記』の中の伯夷列伝で「悪人は榮え正しきは報われず」と嘆いている。それゆえに宗教は仏教もキリスト教もイスラム教も儒教も、この人間社会を維持するためになるべく人々がぶれないようにと必然的に社会に浸透してきたものであろう。
宗教やイデオロギーや人間やその組織が形作る理念も本来は善悪を超えたものである。偶々善になったり悪になったりする結果論の問題である。しかし社会倫理は違う。その社会を継続的に成り立たせ得るかどうかではっきり善悪が決まる。そして宗教もイデオロギーも、社会と言う大きな土俵の上に成り立ったものであるから善悪と無縁ではない。
そしてそういう意味では社会倫理の成り立ちは既存宗教よりもかなり古いし、一種の宗教とも言える。社会倫理を宗教と言わないのは理性のみを判断基準にするからであり、宗教は理性と感情を併せ持つ盲信を含むものだからではないか。明治時代にアメリカに渡った新渡戸稲造は日本人は無宗教だとしたら道徳や倫理感を支えるものは何なのかと問われて、確固とした道徳も社会倫理もある事を説明するために武士道を著したという。
そういう意味では宗教は人の数だけあって良いし、社会倫理も構成する社会の数だけあっても良い。その社会も各国総てが地球人という大きな土台の上に成り立つゆえに地球人と言う社会の縛りからは逃れられない。いつの日か宇宙開発が進めば更に大きな社会の縛りが現れるはずである。その社会には地球人→各国→各グループと大小有るからややこしい。争いになるのは各グループや国の社会倫理の衝突からである。
大古の昔から現在に至るまでお互いが安全に生きるために、殺し合わないために、様々な工夫をしてきていても相変わらず戦争は止まず、殺し合いもなくならない。社会倫理はその根本のためにあるはずであるが、その社会倫理の上に成り立つ宗教やイデオロギーが感情や盲信も伴うために、衝突を繰り返して収まることがない。
社会倫理は地球人としての社会倫理、日本の国としての社会倫理、日本の様々なグループとしての社会倫理などの様々な段階の社会倫理がある。そして大きな段階の社会倫理よりも目先の利益の小さな社会倫理の方が優先されるという人間の性がある。誰かがやるだろうと思われて誰もやらない、と言うのもその一つである。
哲学者L.ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は、地球上のすべての人々が一人ひとり皆違う考えと違う世界を持っていると言った。その一人一人の世界を保持するために人はグループを作り、国を作る。そしてそれぞれの社会倫理を作り上げる。しかも、自分にとって正しいものは相手にとっても正しいと錯覚してついつい押し付けてしまう。そこに衝突が生まれる。
理性も感情も人それぞれが一生をかけて紡ぐものであるが、生まれてくるときは白紙である。そして死ねばそこで終わり、新たな生命はまた白紙からのスタートになる。先人の知恵と知識は受け継がれていっても、理性と感情は受け継がれない。別の脳になるからである。理性も感情も人生3歩進んでも死んで3歩下がることになる。
・・・・
自分の中では、諸行無常は、かつてから抱いていた則天去私も同じ意味に捉えていると今は思っている。
・・・・
※ 生活リハビリを我々は、「生活リハビリテーションとは、日常生活全般をリハビリと捉えて心身の衰えた機能の維持改善や残存機能の範囲での自立生活が出来るようになることを目指して、各人に合った自立支援を行うことを言います。ヒトはそれぞれ出来ること出来ないことは皆違いますが、それぞれを的確に評価して特に保持している能力に視点を置いたリハビリを行います。生きる活力や希望を醸し出すための対応の仕方とも言えます。そしてそれらをご家族を含めた多職種協働でケアプランを作成して行うのが老健施設の生活リハビリテーションです。定期的な見直しも行われます。」と定義している。
・・・
(日経BP 日経ビジネス 日経トップリーダー 「オレがオレが」が経営者の晩節を汚す 稲盛氏が伝説の東証講演で語った哲学 2019.5.16 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19nv/00124/00016/ )
・・・> 以上。
諸行無常? 何でこんなことをメモしたのだろうか?
かつて、中途半端なままメモしておいたものを見た。かつての日本学術会議でがっかりした思い出に係るのだろうか(日本学術会議公開シンポジウム「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」平成19年8月30日日本学術会議講堂 東京都港区六本木)。
いったい世の有識者と言われる人たちは何を考えているのだろうかと当時は清水の舞台から飛び降りる位に思い詰めて田舎から出て行き聴いたがその偏狭さにがっかりして帰ってきたことがあった。
それとも高齢者介護施設での仕事上での生活リハビリについて考えていた頃なのだろうか。あるいはカルロス・ゴーンが高額年俸を当たり前とマスコミに居直る姿を見ての日本人の違和感の頃なのだろうか、少なくとも日本の美学とは相容れなかった。
読み返して、これ以上は進まないなと思ったのでそのままメモとして載せておく。
( 日本学術会議の会員の政府による6名任命拒否について ― 2020年10月08日日本学術会議の会員の政府による6名任命拒否について ― https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/10/08/9303497 )
( Hidemasa Kuwabara2020年10月6日 https://www.facebook.com/hidemasa.kuwabara/posts/pfbid034y6aMXvk7GdjssVGJRL591NjrE9NfgRYHaSWC6C7HHoznJqq7RhwWfzzZTo9hSMQl?__cft__[0]=AZVEKfwBBmMfil1yUWdArFgEBnbaWHM8UFlGT-_SXC8R46cGT5-wYGPk0gR83mEZ19fsboi4gDFawzvcgLm4s8DjC8ruNNdCIsLX5LCYyUwsXs1VSan329wjjpc-zGhGUqE&__tn__=%2CO%2CP-R )
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2021/8/17 諸行無常ということ
人は路傍の石ならぬ路傍の雑草のごとく、踏み付けられ切り取られながらも辛抱強く生き続ける。その人の心象風景には名もない小さな花がきっとすべての人のそれぞれに咲いている。消えては生き生きては消えていく。そしてその中で、唯々粛々と絶えることなく新たな命をも繋いできている、人の一生とはそういうものだと思う。そうやって重なって行き歴史になっていく。そこには、たとえ路傍の石であっても路傍の雑草であっても歴史のささやかなひとこまを形成している。それは善悪とは超越した機序で成り立っている。
世のいわゆる有識者も優れた知性を持っていたとしても所詮その心象風景を超えた理解は出来ないようだ、75年の年を重ねてきたらそう思う。
かつて医療崩壊の現実に向き合った時、いったいこの国の有識者たちは何を考えているのかと日本学術会議のシンポジウムに行ってがっかりして帰ってきたことがあるが、今考えれば自分が期待し過ぎただけだった。
かつて2011年に「がん哲学外来ー二つの法則」というテーマでご講演して頂いたのをきっかけにがん哲学外来をお願いしていた樋野興夫先生は、たとえがんの末期であろうと人には必ず何か希望がありその希望の芽を会話の中で如何に紡ぎ出すかががん哲学外来の肝である、とおっしゃっていた。これは自分の捉えた解釈でご本人は「暇げな風貌と偉大なるおせっかい」とおっしゃっていた。当時なるほどと勉強させて頂いた。そんなこともあり今老健施設で仕事をしているが、入所していることは生活リハビリをしていることと同じであるとの信念のもとに仕事をしている。生活リハビリの意味は極めて広く元気な人から寝たきり迄、たとえ明日死にゆく方でも今を生きる価値があるとの信念のもとに残されたわずかの能力でもそれのもとに生きる活力を支えることを使命としている。一人一人違うその在り方を我々は生活リハビリと言っている(※)。
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病院で外来診察をしていると、必要以上に辛いのをじっと我慢しすぎて手遅れになりかねない場合があるので、とにかく待合室の状況には目を配り、異変を感じるようであれば順番を入れ替えて早めの診察に回すようにと職員には注意していたが、順番が狂っても理解してくれる患者もいれば、俺の方が早いと言って文句を言い出す患者もいる。心に余裕がなくなれば誰でも周りの状況が見えなくなってしまう。自分が一番辛いと客観的な判断が出来ずに思い込んでしまう事は屡々みられる。現役時代に5つの病棟があったが、各病棟のスタッフは何で私たちだけがこんなに忙しい思いをしなくちゃならないのかと愚痴を言われることが屡々あったがそういう病棟ほど一番忙しくない事の方が多かった。はっきり言って皆さんの病棟が一番楽な状況ですよ、とたしなめることは何度もあった。何か不都合が生じた場合、相手を攻撃するタイプと自分が至らなかったせいだと自分を責めてしまう2つのタイプが人にはあるが、特に自分を責めてしまうタイプには気を配る必要がある。酷い場合にはうつや自殺に繋がるからである。
そのように人間は本来利己的な生き物である。それが社会と言う環境の中でその人それぞれの人生をかけて少しずつ学んで理性と感情を共に紡ぎ一人ひとり違う心象風景を醸成していく中で倫理感も育っていくものと思う。そして新たな生命に変わればまたゼロからの出発をする。科学は引き継がれるが一人ひとりの心象風景は引き継がれない。自らの経験と知識に基づく実感のみが人の数ほどある個々の心象風景に影響を及ぼし得るのである。
歴史は繰り返すと言われるが、人生戦国時代は50年、最近長くなったとは言えたかが100年、次世代に残せるものもあるが残せないもののほうが多い。残せるものの代表は科学であり、残せないものの代表は各人の心の中の心象風景である。そしてそれは人の理性と感情が生み出す倫理感につながる。生者必滅という厳然たる事実。そしてこの世の中の人間社会は、正しいものが勝つわけではなく勝つから正しくなるに過ぎない、と75年生きてきてやっと分かった。正しいか正しくないかとは無関係に事実が重なり歴史となっていくだけである。如何に大事な一個人であっても残すものはささやかな足跡だけである。その足跡によって引き継げるのは科学だけである。個々の人間の心象風景は出来ては消え、何も無かったかのように出来ては消えていく。その心象風景とそれから生ずる理性・感情、そしてそれらによって紡ぎ出される倫理感は、これらは独立しているようには見えないが、紀元前の中国の孔子や古代ギリシャのアリストパネスの頃より変わらない。個々人が先人のその思いを継承しても所詮その個々人が一生をかけてその人なりの倫理感を紡いでいっているに過ぎない。そしてその個人が消えればまたゼロから始まる。個々人のそれがグループとなり社会倫理を構築しても別のグループが別の社会倫理を構築すれば星の数ほどの社会倫理が生まれるだけであり結局十分な統合はされない。歴史がそう教えている。人は本来視野の狭い利己的な生き物であるということである。倫理感はささやかな経験によってのみ紡ぎ出されるものなので一生をかけて理解できるようにするしかない。経験が無くても積み重ねられる科学とはそこが違う。
科学の進歩は時を経るに従って恐らく大古より少しづつ進歩を続けていて、特に21世紀に入っては驚異の進歩を遂げている。それとは対照的に人間の「社会倫理」は恐らく大古より少しも進歩していない。社会が成立したのは何時ごろからか知らないが社会が成立して維持されるためには社会倫理が必要不可欠と思われる。紀元前からその社会を維持するための社会倫理は変わらないようだ。少なくとも中国の孔子やインドのお釈迦様や古代ギリシャのアリストパネスの頃から進歩していない。アリストパネスは悪貨は良貨を駆逐すると皮肉り、司馬遷も『史記』の中の伯夷列伝で「悪人は榮え正しきは報われず」と嘆いている。それゆえに宗教は仏教もキリスト教もイスラム教も儒教も、この人間社会を維持するためになるべく人々がぶれないようにと必然的に社会に浸透してきたものであろう。
宗教やイデオロギーや人間やその組織が形作る理念も本来は善悪を超えたものである。偶々善になったり悪になったりする結果論の問題である。しかし社会倫理は違う。その社会を継続的に成り立たせ得るかどうかではっきり善悪が決まる。そして宗教もイデオロギーも、社会と言う大きな土俵の上に成り立ったものであるから善悪と無縁ではない。
そしてそういう意味では社会倫理の成り立ちは既存宗教よりもかなり古いし、一種の宗教とも言える。社会倫理を宗教と言わないのは理性のみを判断基準にするからであり、宗教は理性と感情を併せ持つ盲信を含むものだからではないか。明治時代にアメリカに渡った新渡戸稲造は日本人は無宗教だとしたら道徳や倫理感を支えるものは何なのかと問われて、確固とした道徳も社会倫理もある事を説明するために武士道を著したという。
そういう意味では宗教は人の数だけあって良いし、社会倫理も構成する社会の数だけあっても良い。その社会も各国総てが地球人という大きな土台の上に成り立つゆえに地球人と言う社会の縛りからは逃れられない。いつの日か宇宙開発が進めば更に大きな社会の縛りが現れるはずである。その社会には地球人→各国→各グループと大小有るからややこしい。争いになるのは各グループや国の社会倫理の衝突からである。
大古の昔から現在に至るまでお互いが安全に生きるために、殺し合わないために、様々な工夫をしてきていても相変わらず戦争は止まず、殺し合いもなくならない。社会倫理はその根本のためにあるはずであるが、その社会倫理の上に成り立つ宗教やイデオロギーが感情や盲信も伴うために、衝突を繰り返して収まることがない。
社会倫理は地球人としての社会倫理、日本の国としての社会倫理、日本の様々なグループとしての社会倫理などの様々な段階の社会倫理がある。そして大きな段階の社会倫理よりも目先の利益の小さな社会倫理の方が優先されるという人間の性がある。誰かがやるだろうと思われて誰もやらない、と言うのもその一つである。
哲学者L.ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)は、地球上のすべての人々が一人ひとり皆違う考えと違う世界を持っていると言った。その一人一人の世界を保持するために人はグループを作り、国を作る。そしてそれぞれの社会倫理を作り上げる。しかも、自分にとって正しいものは相手にとっても正しいと錯覚してついつい押し付けてしまう。そこに衝突が生まれる。
理性も感情も人それぞれが一生をかけて紡ぐものであるが、生まれてくるときは白紙である。そして死ねばそこで終わり、新たな生命はまた白紙からのスタートになる。先人の知恵と知識は受け継がれていっても、理性と感情は受け継がれない。別の脳になるからである。理性も感情も人生3歩進んでも死んで3歩下がることになる。
・・・・
自分の中では、諸行無常は、かつてから抱いていた則天去私も同じ意味に捉えていると今は思っている。
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※ 生活リハビリを我々は、「生活リハビリテーションとは、日常生活全般をリハビリと捉えて心身の衰えた機能の維持改善や残存機能の範囲での自立生活が出来るようになることを目指して、各人に合った自立支援を行うことを言います。ヒトはそれぞれ出来ること出来ないことは皆違いますが、それぞれを的確に評価して特に保持している能力に視点を置いたリハビリを行います。生きる活力や希望を醸し出すための対応の仕方とも言えます。そしてそれらをご家族を含めた多職種協働でケアプランを作成して行うのが老健施設の生活リハビリテーションです。定期的な見直しも行われます。」と定義している。
・・・
(日経BP 日経ビジネス 日経トップリーダー 「オレがオレが」が経営者の晩節を汚す 稲盛氏が伝説の東証講演で語った哲学 2019.5.16 https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19nv/00124/00016/ )
・・・> 以上。
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