続々群書類従 第四 「沼田記」 について ― 2020年06月24日
真田氏改易によって天和1(1681)年12月19日に沼田城の引き渡し式が高崎藩主ら総勢6500人が来て行われると、同日より幕府代官の竹村・熊沢が沼田藩に着任して治安維持に努めるとともに迅速な行動によって翌1月29日には完全に沼田城を破壊し尽して幕府側は帰って行った。この時に真田氏支配当時の状況報告書の提出が同代官から求められて、加沢平次左衛門が質問に答えて青山金左衛門が同報告書を筆記した。「加沢記」は平次左衛門が真田氏改易後に浪人となって下川田村に隠棲してからこれとは別に書かれたものという。加沢平次左衛門は元禄5(1692)年65才で亡くなった。
現在残されているものは加沢覚書・加沢記・沼田城破却記・沼田実録・沼田記・沼田根元記・沼田古来記・沼田昔物語・等類似の古文書が多数ある。沼田市史の中世資料編の付録の加沢記・沼田根元記の解説によれば、加沢記は天明2(1782)年の利根郡政所村の増田家本「加沢覚書」、天保3(1832)年の同増田家本「加沢記」が内閣文庫にあるが、加沢記の原本の一部「西山家本」も昭和37年に見つかったという。
一方、沼田記ないし沼田根元記は沼田の家々に多数みられる。何れも同じような部分と異なる部分が混在していて、抜書きをしたり写本を繰り返しているうちに異なってきたものではないかという。伝言ゲームが典型とされるが言い伝えているうちに結論が逆になることもあるという自然の流れを理解しこれが古文書に共通した特徴でもあると認識しながらの内容把握が順当なやり方であろう。たとえ異論があっても全く無視しては何も得られず、わずかの部分にも真実への道しるべが残されているかもしれないと考えて資料を探し求めることにもそれなりの価値は十分ある。 沼田根元記ないし沼田記で最も古いものは都丸家本の寛文10(1670)年「沼田根元記」であるという。これは沼田藩城主真田伊賀守信直の全盛時代に刊行された一冊本である。萩原進氏は沼田市史付録の解説文の中で隠棲後の加沢平次左衛門が藩命で編修した正式の史書として書いたものではないか、そして加沢記はその沼田根元記を書くための草稿であったのではないか、と推理している。
以下は、続々群書類従の中の黒川氏所蔵本の「沼田記」である。
前期沼田氏は大友氏説でほぼ確定。後期沼田氏説は3説のうち石田文四郎博士による三浦氏説がほぼ定説になっているようだが確定ではないようだ。
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例言
一、本編は、史伝部の第三巻として、余目氏旧記以下二十二種を収む、
一、余目氏旧記は、・・以下略
一、雙林寺伝記は、長尾昌賢影像記、及び上杉伝来記の二種より成る、・・以下略
一、公方両将記は、・・以下略
一、小弓御所様御討死軍物語は、・・以下略
一、平嶋記は、・・以下略
一、多賀谷七代記は、・・以下略
一、世田谷私記は、・・以下略
一、沼田記は、上州沼田の城主平経信、源頼朝に従って戦功を樹てしより以来、経信泰経常泰泰景義景家景の事績、及び景貞に至り、武田勝頼の為に滅されたる顛末を記す、文辞拙劣、誤脱また少なからずと言えども、沼田氏の事績を詳記せる唯一の史料たり、本書は黒川氏所蔵本を以て底本とせり、
一、棚守房顕手記は、・・以下略
一、佐野宗綱記は、・・以下略
一、香宗我部氏記録は、・・以下略
一、菅谷記は、・・以下略
一、箱根山中城責由来は、・・以下略
一、忍城戦記は、・・以下略
一、清正高麗陣覚書は、・・以下略
一、石川忠総家臣大坂陣覚書は、・・以下略
一、大坂陣山口休庵咄は、・・以下略
一、土屋忠兵衛知貞私記は、・・以下略
一、嶋原一揆松倉記は、・・以下略
一、嶋原天草日記は、以下略
一、山田右衛門作物語は、・・以下略
一、休明光記は、・・以下略
一、本編は、文学士堀田璋左右氏主として材料の選択、及び編集の労を執られたり、茲に一言謝意を表す、また史伝部第一例言に、「文学博士萩野由之氏親しく材料選択の労を執られ」たる旨を記載せるも、該編は、印刷に臨み、本会に於いてその材料を増減せるものあるを以て、同氏の為に之を訂正す、
明治四十年六月
続々群書類従第四史伝部
目録・・
以下略して「沼田記」のみ記す。
(130ページ)
沼田記
そもそも沼田のはじめの其の根元は(監?)、赤城山、子持山に相続き、一面には谷川山、武尊山、其の内広々満々たる湖水二千幾歳を知らず、伝わる所人皇四拾代天皇白凰十三年正月、日本大じしん、諸国山崩れ、水湧き出る、人民六畜死する、伊予国温泉埋む、土佐国田地五拾余万頃没、伊豆国に俄かに一つの嶋出づる、上野国北山に湖水湧き出で上野下総押し流し、今ここに監?にアマド切り破り、其の跡自然と掘り流れ行き、下総国流出村と申す処に赤城山大権現御留まり、末世の印なり、其の後人皇四十八代称徳天皇天平神護元年七月、僧勝道初めて下野国荒山大権現開き、日光山是なり、同時赤城山開き、さて又湖水跡何分旧事知られざる広原なり、自然と控えず、民家遠国他国より集まり来たり、隠れ里と名附く、雪霜陰之有り、 然れども次第に縄張り家作り繁昌す、一番に和田の庄、二番に庄田庄、三番に忍田(恩田か)の庄、四番に硯田庄、五番に川田之庄、六番に下沼田之庄、七番に町田之庄、是を七田之庄と名附く、地頭も之無く年々暮らし、仏神を祭る事も知らず、鳥類畜類のごとく、川狩り野狩りを業として蕃(?)然る処に人王六拾代村上天皇天慶の頃、相馬の将門一乱に関わり八州騒動止む事なし、其の頃都より平氏何がし流浪となり庄田之庄へ来たり居住み、所の者帯刀を知らずや恐れ崇敬す、月日を増し主君のごとくかしずき、近郷の者集まり崇敬す事言うことなし、文武両道兼ね備え誠にケイナリける人なり、のちには和田之様と申しける、然る処庄田の一女嫁し、位ぶり類なき一子を出生し、いずれもかつごう仕り、和田四郎と申しける、拾五歳の頃鹿狩り野狩りを業として、七田の庄官となり、其の外近郷の者控え集まり一番に師の住人、二番に石墨の住人、三番に真庭の住人、四番に後閑の住人、五番に滝棚の住人、同根岸の住人、六番に牧の住人、七番に岡の住人、八番に発知の住人、九番に川場の住人、十番に生品の住人、拾壱番に古語父の住人、何れも集まり崇敬す、和田四郎成人し丑田の庄が娘嫁す、繁昌し、庄十壱の番づつの住人駒の立どなし、あるとき和田の庄の申しよう、我が父都より流浪の身なり、不思議に天道に叶いかくのごとく繁昌する事神徳なるべし、鎮守を祭り子孫の氏神とせん、上之山に社を立て、三峰山大明神これ都の神なり、さてまた和田の庄司一子出生歓び際なし、其の名を和田の太郎殿と申しける、成人弥増し右拾壱人の住人かつごう際なく、先例にしたがい、三峰山を祭り、先祖の和田太郎を改め平経家と名乗り、
(131ページ) 武芸弓馬に強く、諸国六芸の達者召し呼ばれ、さながら一騎をも取り立て、保元平治一乱に平の清盛天下一等権柄を取り、之によって武蔵上野下野の流人我も我もと馳せ集まる由聞き伝う、我も古えは平氏なり、今出でずばいつの世に出づるべしと、経家十八歳、上下人立ちの番に師左京、二番恩田兵部、三番下沼田舎人、四番町田主計、五番硯田平馬、六番川田圖書、七番に庄田丹宇、合わせて弐拾人、上下共出で立ちいさみける、程なく京着す、大将清盛に訴えを申し上げ、清盛武将左様なり、目見え申しける、経家御能上意たり、沼田の始終問辺言上し、之によりて沼田、利根勢多両郡の主たるべし、安堵の御教書を下され、暫し在京致すべしと仰せ付けられ候、其の外武蔵の七党、上野の八党、下野の七騎、在京なり、経家両郡の庄官免許を給わり、其の名を高くあらわし、翌年帰国、両郡の主万歳とうたいける、七田の庄拾壱蕃の住人門前に市を成し、ある時経家我かく官位に登り、能く場所見立て一城を築くべし、如何かあらんと申しける、今の住居の場せまし、之によりて小沢の原は能き所と成り、吉日をえらび、土手を掘り二重に致すべき由、外堀深さ三間、敷高さ九尺、内堀深さ五間、二間半、土手二間、近郷百姓は公屋敷を役(設か、しつらえ)、本丸共に年中に出来致し候に付き、町の屋敷割り和田の庄残らず引き取り、小沢の城と名附く、丑寅の方に当たり、瀧本山小沢寺祈願寺を立て、万歳を謡う、七田の庄十一番の家中立ちならべ、この城一方川有り、本丸の方に致し候を小沢川と名附く、さてまた位勢日々に増し、然る所に小川住人名作の住人、羽場の住人、布施の住人、須川住人、右四人御旗本に願い奉る、其の上東は平沢住人、生井住人、追貝の住人、日に御はたしたに?遊ばされ下されと願い出で、其の外数を知らず馳せ来たり伺公(伺候か)す、 その節古椀着類切れ古物流れ出で候、ご吟味遊ばされ、若し後日如何あらんと申し上げる、之によりて牧の住人、後閑の住人、小川の住人、右三人大勢添え山を別に尋ね見る所に、高山の岩根に稲荷あり、立ち寄り見れば老人男女居る、是は何方よりかかる片地に居る、真すぐに申せ、鎮ずるにおいては今打ち殺すと、てんでに太刀に手をかけひねりけり、老人答えて、我々奥州より迷い候ものなり、奥州乱世に山を超え是まで罷り出でけり、越後の山里へ参り、飯米を支度致し、平日は猪鹿と申すを取り給物に仕り候、貴公様方は何方より御出で成され候、我々は是より十四里程里に出で、この国の大将より位を蒙り参り候、さてまたこの国に御大将御座候わば、憐れ御慈悲に御手下に成され下され候わば有難く存じ奉り候、其の名をなんと申すぞ、恐れながらそれがし阿部の末流宗家と申す者、先祖は一騎前も仕り候、
(132ページ) 倅二人御座候、召し寄せられ御出で下し置かられ候わば有難きと願い出で候、私義は明日は存ぜず、之によって谷深く奥州道遠し、其の故藤原と申し候、然らば大将へ申し上げ候、この地に下し置かられ随分切り開き申すべく候、私一類共越後の山里に長男一人御座候召され下さるべく候、即ち野人ふとく、阿部の力丸と名乗り申し候、この段御大将へ申し上げ、御怡際(?)なし、 然る所へ東入りより申し上げ候は、一番に花咲の住人、腰本、土出、小川、右の村々の住人、其の外大勢にぞ願い出るは、我等住居仕り候山奥も人間ども知らず、悪鬼ども知らず、住居の里へ出候、人を追い払い給わりし物をかすめ取り、民家をなやませ、御退治仰せ付けられ下し置かれ候わば本山に入り手下に罷り成るべく、然らば案内仕るべく候、一番に川場の住人、二番に古証(語か)父の住人、三番に岡の谷の住人、四番に生品の住人、五番に発知の住人、六番に平沢の住人、生井の住人、其の外東山に入る者、土出での住人、小川の住人、腰本、追貝の住人、其の外名ある者ども里々村々より吉日を選び総人数千人の余打ち立て、籠居賊人みな阿部の末流、ある時は湖水勢多郡深し、さてさてたやすく返し成り候、阿部貞任末流ならん、奥州よりまよい出で、この所に住居するなり、折々奥州方会津へ相出で、押し取り切り取りを業として月日を送り、人の妻子を取り、又はこの東山入りて妻子をうばい取り、しゅでんどうじのごとくなり、之によりて大将経家出馬、東西北へ人を廻し、食い責め致すべく候、大手からめ責めけるに、大勢に無勢昼夜限らず責められて、うえに及びし大将を生け取り、経家の前に引き出す、己何者成り、この山に住居して氏家をなやます、阿部の貞任宗任暫くこの所にしのび罷り有り、我は多勢丸と申す者、住家之なくこの所に数年罷り有り、猪鹿と申す飯食い仕る、今之の如くむねんの次第と歯がみをなして申しける、則ち首打ち落としごく門に懸りたりけり、其の外同類打ち殺したり、所々うばい取りたる男女古郷へ帰しける、大将経家帰陣候、大小太刀在々所々御褒美下され候、 一、人王八拾代高倉院御宇に清盛悪逆し、木曽義仲信州より一揆起こし、北国西国納まらず、関東には頼朝公が寄々に廻文す、義経奥州に忍び、穏便ならず、石橋山合戦発り(おこり)、経家熊谷治郎に由身(よしみ)有るゆえ同道し、壱番に馳せ向かう、それより頼朝打ち負け、上総義助同じく心を合わせ打ち勝ちて、頼朝万歳後、経家近習たり、上総之助加勢して関八州人数百二十万騎、それより頼朝義経心を合わせ打ち勝ち、頼朝万歳なり、経家近習たり、沼田の城主永代安堵の御教書を下され、鎌倉に在番す、翌年帰国の暇下され、沼田へ帰城す、経家嫡男三つ峰へ登り、其の名を
(133ページ) 沼田左衛門之尉平経信と改める、次は女子うつも利根姫と申す、器量余りにすぐれ、夫婦の御寵愛世に余り、然る処に経家七田の庄十一番の住人を召し寄せ、この所暫く住居するといえども、城内せまし、是より向こう滝棚之原城内広く取り立て申すべきと仰せ付けられ、それより吉日を選び、是の北東西は岩、南一方は原なり、縄張りは外堀内堀本丸三の丸を構え、小川の堀を引き払い、士屋敷、町屋鋪を移し、其の上根岸の滝棚へ民家を引き移し、栄作に出来た、則ち瀧棚幕岩の堀(城か)と名附けるなり、経信へ師兵部の娘嫁す、男子出生、則ち兵部をうぶ親にす、然る処利根姫の美女たる事、頼朝の義は際なく、経家も弥(いよいよ)出当(読み?)なり、程なく利根局懐妊と聞こえける、然る処を政子聞き給いて、下部に申付け、利根を失い、夜に入り参ずべきの段申付け給う、頼朝聞きつけ然る者其のままには叶うまじとて、代官らへ下され、その夜にこしに乗せ、西国方へ遣わすとかや、其のみぎり哀気の藤九郎ありまた懐略(妊か)と成る、政子承り失い申すべき段、美女たる事、頼朝之を召し寄せ、則ち丹後の局と申す、御寵愛際なく、また懐略政子承り失い申すべきの段、下部に申付け、あやうき所に、本多何家へ頼朝仰せ付けられ、こしに乗せ、其の夜大坂さして急ぎける、住吉辺にぞ行き暮れて、庵室有り、立ち寄り見れば、庵主右行の者伴い女子を連れ、一夜は安い事、ただただ一夜頼むと、本多則ち丹後の局御入り、急にいたわり、夜半時分出産のきざし有り、窂坊(産屋?)本田立ちさわぎ、近所氏家を尋ね、老女をたのみ取り上げて、玉のようなる男子なり、かたわらなる信家を頼み、月日を送り、この若君成人には成らず、随分と大切にいたわり、年月を経て、既に拾壱歳の頃、頼朝公大仏供養に上京のみぎり、本田丹後の局を打ち連れ、御若君諸ともに御先にたたずみたり、御先払いの武士何者成りとあやしみける、本田罷り出で、我々御訴訟申し上げたき事御座候、この段申し上げ、頼朝公御目通りへ召し出され御免し(お許しるし)有り、御こしより飛び出し給う、さてさて本田が忠節、丹後の局がふし物(寝具?)具えず、則ち秩父の重忠へ仰せ付けられて、旅宿を改め大勢の人々終計なり、それより其の名を改め鳴津之三郎と申す、大隅、薩摩両国を下さるとかや、さてまた経家倅左衛門殿、頼朝下向の後、鎌倉へ召し寄られて、経家老衰たるに依りて、沼田其の方より今安部(堵?)為すべし、経信有難きし合せに存じ奉り候と沼田へ帰国す、沼田勢多利根両郡の由来書付出し申すべきの段、重忠を以て仰せ付けられ恐れながら帰城す、家中の面々途中まで罷り出で恐悦申し上げる、経家老病養生叶わず死去、経信はじめ家中闇夜のごとくなり、古城を名付け法城院殿心岸主田大居士と号す、元亀三庚午六月十五日なり、
(134ページ) そもそも沼田利根郡と申す事、其の水上は奥州金花山、その先はあや切り湖水干形なり、たえず流れ出る、金花山裏通りにて金水たえず、およそ沼田より三拾里程奥にぞ金水流るるなり、利金水の文字返して利根利金相生の義を取るなり、さてまた勢多郡と申す事、沼田より二十五里程奥に湖水あり、大湖水多勢丸住居の場ゆえ、おぜの沼と申すなり、この流れは勢多郡俗に多勢の沼と申すなり、 一、人王四拾五代聖武天皇の御宇、行基大師吉備大臣入唐帰朝のみぎり、日本三拾三カ国を六十六か国に改め、後に諸国順見す、然る所奥州小田郡より黄金出る、初めて献上する、之によりて金水ゆえ利根川と申す事なり、沼田左衛門平経信は父におくれ案じる事、家老家の子を召し寄せ、我考える所、此の城大鋪(おおやしき)居所にあらず、是より下瀧、棚倉懸け(崖?)と申す所、如何に候や、壱番に師兵部、忍(恩)田舎人、庄田隼人、硯田左京、平沢豊前、仰せ御尤もに存じ候、御忌服明け候わば、仰せつけられ然るべしと御請け申す、材木は川田より出すべく、月日を送り、経信忌服済み、それより吉日を改め、本丸三の丸両輪構え屋敷町割り普請年中に出来候、移徒祝義(儀か)にて、家中万歳して楽謡けり、然る所鎌倉より申し来たり、実朝公天下の譲を請い、頼家不行跡たるに依り、鎌倉に馳せ登り、継目申し上げ、御礼相済み、御教書を頂戴す、帰国して家中の面々途中まで御迎え万歳謡いけり、其の上川田の住人平井右近の一女嫁す、則ち城に入り済み、蓬莱を荘(かざ)り婚儀整いける、然る処拾月より大雪降り、東西南北の往来留まり、およそ雪一丈余り之有る故、死するもの多し、経信米石を出し、民を救る(救う?)、則ち経信一女、次は男子なり、成人の後女子は下沼田の庄婚儀下され、次男今年十五歳、父に勝ちて武道を能くし、則ち三峰山に登り、氏神を拝し泰経と名乗る、家禄を継ぎ家老家の子一等に恐悦申し上げ、然る処鎌倉より飛脚到来し、実朝公逝去、之によりてお世継ぎ御座なく、執権陸奥守平の義時、政子と談じ、京都関白道家公四男頼経と号し、天下は政子の簾中が政を取り、之によりて泰経は鎌倉へ馳せ登り、継目御祝儀申し上げ、御教書を給わり帰国を之れ願う、其の上北上野、沼田、片地取り山賊強盗さかんにして鎮め難し、之によりて早々御暇願い上げ出立有るべく候の段、仰せつけられ帰国す、家老総家中途中まで罷り出で帰城す、千秋の謡い相済み有る時泰経の申し様、我両郡の境を知らず、誰か参り候は相究むべく候や、忍田舎人、師兵部、和田の庄司、平井右近、右四人は境目遊ぶべしと仰せ付けられて先ず一番沼田の船渡しをを境とす、それより戸鹿野船渡しを越えあやど坂峠境を立て、それより空沢を通り、それより不動峠境を立て、ここに名棚誂(名胡桃か)の住人鈴木内匠と申す一騎当千の者罷り出で、
(135ページ 御先祖御先仕り、人数合わせてそれより須川大度峠(大道峠か)と申す所へ出垣立て、それより布施猿ヶ原(猿ヶ京)と申す所へ出で、長井三国峠へ懸り、社人罷り出で申し様、伝え承わり候、古え行泰大師御通りの節、飯場御見立て、則ち三社権現の印を立つ、是れ三国の境なりと仰せられて、其の後の往来の者難所を安ん事参り、銭を掛け置きたまりて神社と成す、 上野国赤城山 信濃国諏訪 是れ則ち三国三社権現なり 越後国弥万孫 此の所を境と遊び下向し、猿ヶ京へ帰す、それより湯河原と申す処へ案内す、峠を越え湯河原より谷川、此の所より越後を通り之有ると聞く、成る程歩行道御座候、越後何と申す処へ出る、山里と申す所へ出で候、それより段下り、米石洞と申す所へも出で候と申し上げる、此の高山越後まで上州境と定め、不尽山と申す、また奥に藤原と申す所有り、奥州まで谷ふじゆへ、不尽原と申す、是より奥州何ほど有りと申す、大方十里余も参道なし、大木の下また十里も之有り、奥州金山の裏へ出で、それより御通り成さるべく候、我々此の谷は仰せ付けられ候ても、鬼神にても及び申さず候、然らば末々遊ぶべしと、それより湯原へ帰り、川を越え、牧村へ出で、是より佐山村へ越し、案内罷り出で、大沼村を越えてご案内、左の高山は何と申す、是は天ふだん雪降り申し候、それより発知村へ出で候、此の所に木村宇母と申す者永く御座候ご案内、さてまたこの向山は何と申す、この山は弘法大師が諸国廻りの時、此の所へ御出で、大唐の五大山僊(せん?)、大瀧蔵山と仰せられて一宇有るべしと仰せられ、之による所は麓に一宇建立仕り候、其の後は庵主も御座なく候、金山の水流なり、此の山所のもの申すには、発知山と申す、それより川場へご案内仕るべく候、川場より案内とうげへ出られ、このところにゆしま庄司御先を仕り、一宿遊ばされ、是より古証文むらやまのふもとをとおり、ひらさわと申すところへ出で、ここに平沢豊前と申す者お迎えに出で、生井村、棚村のもの共御迎えに罷り出で、是より東谷入りへ参るべく仰せ付けられ、此の奥山難所にぞ人馬立ち兼ね候由申し上げ、是より会津通り東入りへ廻文を遣わし御迎罷り出で、追欠村(追貝村)金子の住人、小河(小川)平沢の住人、土出で村星野住人、腰本村田村住人、右の者ども御先払い、戸倉と申す処へ付き、里々村々谷々の者集まり、是より会津まで何ほど有るぞ、如何様八里計り御座候と申し上げる、馬足立ち申さず、則ち戸倉、土出で、小河へ仰せ付けられ一宿遊ばされ、此の山奥は何と申す所ぞと御尋ね、去るいにしえ阿部の多勢丸と申す盗賊この里をなやまししを、御先祖ご退治下され、
(136ページ) 今は安穏に御座候、其の先は何共知り申さず、奥州にほど近く御座候利根川の本なり、金山の裏へこの多勢丸の湖は皆勢多郡会津の境を究む、それより御帰り沼田へ右の趣段々に言上す、泰経、師左京娘婚礼、城入り相済み、家中恐悦申し上げる、万歳を謡う、泰経申す様、領分の道橋随分能く、民の困窮之なき様致すべし、薄根川橋三か所懸け片品川地領入合い、沼須舟渡し、利根川、戸鹿野村ふな渡し、後閑村舟渡し然るべし、出水等之れ有らば、日本一の要害名城なり、経泰男子出生歓びなり、然る処に鎌倉より廻文来たり、今度頼経公逝去、頼嗣公へ、御世を譲り申し候、早速馳せ登り、執権武蔵守時氏御目見え相済み、鎌倉上番仕るべく候と仰せ付けられ、沼田阿部(安堵)のお願い書き下され、翌年御暇下され、お城より家中の面々途中まで御迎え出で、万歳を謡いけり、泰経男子成人し、今年七歳、三峰山へ登り、御供師左京、忍田舎人、根岸兵部、右三人登り、山神を拝し、其の名を改め、沼田勘左衛門平の安泰と号し下向す、文武両道達者にて、家中諸士敬いける、月日重なり、次第に父に勝り、国も治まる御勢いなり、然る処に鎌倉より廻文来たり、この度頼嗣ご逝去、お世継ぎ之なく、後嵯峨院第一皇子宗尊親王鎌倉へ下り、天下の将軍と成る、泰平の由申し来たり、之によりて早速馳せ走り、執権相模守平時頼御目見え仕り、鎌倉在番たり、鎌倉の親王五代にはじまり、時頼におとない(訪い)民懐かしき、六拾余州無事、翌年泰経沼田へ帰国仰せ付けられ帰城す、家中面々途中まで御迎え城に入る、恐悦申し上げる、然る処泰経病気重なり、安泰を取り立て候様に申し則ち逝去、人々かなしみ限りなし、月日積もり安泰父の跡を継ぎ、繁昌の其の上に鎌倉へ登り、継ぎ目申し上げ、安堵の御教書を下され御帰国、治むる事第一なりと仰せ付けられ帰国、家中面々御迎え万歳謡いける、皆々武芸第一に致せと仰せ付けられ、弓馬懸り行き、稽古専らなり、猪鹿狩りなぐさみたるべし、天下大平と申すは此の節なり、安泰今に御寵愛なく、町小沢主計娘嫁入りす、何れも宜しく申し上げ、婚儀済む、然る処沼田町大小頼りの状上り、御城水不足に付き、町々難儀に仕り候、何卒上水御奉行仰せ付けられ下され候わば、行徳無水も参ずべき処、水引き落としに付、行き届き申さず候の段申し上げ、之によりて塩野井平右衛門に上水の役仰せ付けられ滞りなく参ずべく候、足軽三人平井隼人急ぎ申し上げ、上水境中山の賊人出馬し合わせて二百人ばかり押し込み、在家に押し取り仕り、何とも難儀仕り候、御人数御借り下さるべく申し上げ、早速遣わすべしと根岸大膳平井隼人両人手下三百人指し遣わし、則ち峠にて弓引きかけ、鏑をならし、打ち掛け打ち掛け、坂の麓へ追い落とし、石を飛ばせ、いきもつがせづ追い敗(やぶり)しける、跡をも見ずして逃げにけり、
(137ページ) 暫し飯屋を拵えて十日ばかり見合わせけり、其の後は音もなし、何れ帰りけり、安泰に此の如く申し上げる、境を押し込むところ、早速打ち払いし事勢力優れたりとて、御ほうび下され候、去るほどに安泰一子男子が出生し、お喜び際なし、然る処文永十一年鎌倉より宗尊親王御遠行に付き、早速鎌倉に馳せ登り、則ち惟康親王御代の執権相模守時宗へ御目見え仕り、之によりて沼田の事お尋ねの上申し上げるべく、鎌倉に在勤仰せ付けられて、安堵の御教書を下されて、翌三月帰国のお暇を下される、お城御安泰、嫡子成人して今年七歳、三峰山へ登り、お供は師左京、庄田左門、忍田舎人、家臣は氏神を並び拝し、沼田上野之助、平之常泰と号し、則ち下向し、父お喜びかぎりなし、然る所に須川の住人須川兵庫が注進し、上の山大道峠の城下に我妻郡の賊人が日々に峠に追入り(押し入り?)、此方の民家をかすめ、里へ出でて狼藉仕り候、御加勢下さるべしと申し候、則ち三百人を遣わされ、手勢とも人数五百人夜を日についで急ぎける、此の方麓に小屋を懸けて弓鑓棒さまざまの道具をかまえ出向き責め戦い賊人は責め立てられ、或は疵を請け或は生け捕り終に縛す、跡方□なく追いちらし、又は参ずべき之の峠にをり火を焼き、凡そ十五日程詰め居たり、沼田へ帰り、右の段いちいち申し上げ候えば、御目見え仰せ付けられ、此の度の出勢去儀何れも休足のお暇下され候、さてまた常泰成人遊ばされて、勇力当年十五歳の春の頃、領地の山々猪狩り致すべきなり、雪澤山に有時の節なり、家中諸士に仰せ付けられて、三峰山は鎮守のやまなり、その外の山々狩り致すべしと、仰せ付けられ候、発知へ川端山勢子の人数を出し、勢子大将は発知たるべし、日々に狩りをこのみける、然る処安泰老病を引き請け、養生叶わず逝去す、成孝院殿春王道英大居士、成孝院開禅なり、家老家中寄り、常泰をいさめける、父の養生叶わず天命の究る所なり、則ち山陵に納め仰せらるるとなり、常泰月日おくり忌服過ぎ、家中大小の士、古軍の事申し渡し、領内の民の歩行なし、清道但しく鎌倉より廻文来たり、其の書に曰く、惟康親王御遠行、お世継ぎ之無し、深草之院第二の皇子久明親王お世継ぎ給い、執権は相模守貞時なり、常泰早速鎌倉に馳せ登り、貞時にお目見え仕り、常泰申し上げるは拙方代々の先祖が相談納り候所に、近年賊人徒が原境の領内をおびやかし、御地のものかすめ取り、雪国にて雪霜の間、四箇月程に限り難儀仕り候の段申し上げる、尤に思し召されて、則ちお暇下されて下向す、家中の面々大小途中までお迎えに罷り出で拝祝す、城に入り万歳を謡いける、常泰忍田舎人娘婚儀調い、城に入りお悦び限りなし、年来ほど有りて懐胎身彌大切に、臨月を待つ所、若君御平産、お歓び際なし、然る処追欠(追貝か)の金子市蔵と申すもの
(138ページ) 注進す、近郷東上州新田の方、井山家のものども根利家の棟峠と申す所、其より在々所々かすめ取り、男子をかどわかしける、難儀仕り候御加勢下され追い払い、あんのんに仕りたき義願いあげ、御老人数三百人差し越し、何れも長柄の鎌鑓弓矢長刀やうい(用意?)日についで案内させ、右の峠近くに飯屋立ち待ち居たり、あんのごとく百人計り有れども知らぬ峠へ上りける所を、すはやと追い懸けられ、思いも寄らぬ責め道具で打たず打たれず大勢に無勢、叶わず賊共命をおしみ逃げる所を、追い打ちに弓矢を以て討ち懸け打ちちらし、暫し見合いたりけり、番所と所の者を差し置き、皆沼田へ帰り逐一に右の段言上仕り、遠方へ別して大義至極と御褒美下され、何れも在所に帰り、休足(休息か)仕るべきと仰せ出された、さてまた常泰の一子成人し、当年七歳、吉日を改め、三峰山へ登り、氏神を拝し、お供は師兵部、和田の庄司、庄田右衛門、右三人登山致し、並びに拝し仕り、沼田右近大夫平泰景と改め、和田大膳と申す者は根元縁と伝わるなり、和田常泰の申しよう、鎌倉において祈願菩提寺申す事有り、此の城下に両寺建立すべし、則ち新田大光院僧と申す趣呼び寄せて、正覚寺と号す、新田、瀬良田、長楽寺の僧を呼び寄せて、三光院と号す、各々一宇建立す、然る処に町田主計が申し上げ候、此の頃上之原に夜夜光り物出でて、往来成り難し、何卒御吟味なし下され候わば、有難く存じ候、小沢大膳同道にて参り候処、見る所に二つの塚有り、堀りくずし見れば、黄金の観音一体光りをはなって出る、是は所の守護なり、大切に致し、其の所に一宇を立て、堂を立て、則ち別当は堀口民部に仰せ付けられける、其の頃鎌倉執権より廻し文参り候、久明親王御遠行に付き、守邦親王へ御世を譲り、早々罷り登り申すべく、之によりて其の時鎌倉の執権相模守高時へ継ぎ目のお目見え仕り、則ち鎌倉在番仕るべき段仰せ付けられ、翌年春帰国の暇下されて、沼田へ帰りける、城に入り恐悦申し上げる、然る処嫡子右近の大夫は当年拾七才、何れ成るとも妻を見立て申すべき段仰せ付けられ候、家中面々忍田舎人に申し上げる、平沢息女然るべき由、則ち平沢へ仰せ付けられ候、有難くお請け申し、吉日を選び婚儀済む、其の頃新田足利両家より内通折々なり、鎌倉高時の悪行日々に重なり、時節見合わせ一騎おこし申すべき段一身連判の廻文来たり、いよいよ相違これなき趣申し候、月日を送り軍を張り高時さらにそのいろ見ず、然れども毎年鎌倉出仕はやめざりけり、右近の大夫に男子出生、父歓びかぎりなく家中いよいよ恐悦す、然る処常泰病気に付き養生叶わず死去、家中大小闇夜の燈消えたる如く、弓馬の家に生まれし城主国主は、只誠をもって民をなで、士卒を扶持する事第一の之を名君とすべきなり、月日を送り家老役人召されて、郡中へ触れをなし、
(139ページ) ほどこし宝をくばりけり、新田の内通もだしがたし、家中の若士武芸を磨くべし、弓馬別して(特別に)磨くべし、強くありけん、然る処右近の尉、父の継目申し上げるべく鎌倉へ参上す、高時にお目見え仕り、安堵の御教書を下され、しばし在番致すべしと仰せ付けられて、翌年沼田へ帰国す、家中の面々三日三夜万歳謡いける、 正慶二、鎌倉にて守邦親王薨(みまかる)、御年三拾三、同年新田左中将源義貞が高時を亡ぼす、北条九代百五拾年にて亡、是より一乱起き日本国中刃をけずり止む事なし、高氏打ち負けて西国へ落ちける、義貞利軍?加勢を才束(催促?)、之によりて新田よりなお才束す、義貞勝ちほこり、こうとうの内侍を下されける、高氏西国より押し来たり、義貞打ち負け高氏天下をにぎる、然れども国の庄官国主駈動(騒動か)止む事なし、然る処右近尉嫡子当年十一歳、三峰山へ登り氏神を拝す、お供師民部、和田庄司、庄田右衛門、社人和田大膳、則ち神前に並び拝し、沼田左衛門尉平義景と名乗る、則ち御下向す、さてまた鎌倉にては後醍醐之天皇第二の皇子大塔の宮尊雲二品親王は治世三歳、直義がために薨、同第三の王成良親王治世三年薨、是より鎌倉親王五代にして滅す、尊氏天下一等、六拾四州掌に入るといえども、三代義満にいたり天下納まる、天下泰平と成る、同十二年の内なり、去るほどに右近の尉泰貞、直義の使いにて鎌倉に相談在番す、鎌倉において病死の段、飛脚到来し、左衛門の尉義景早速馳せ登り、父の遺蹟継目し、鎌倉在番を仰せ付けられて相詰める、沼田は家老共計り相守る、然る処新田義貞の余類越前越後より三国を通り、沼田へ流浪し、ここかしこの民家をさわがし、其の上新田館辺より沼田へ押し寄せ、若し別心あらば一戦に於いて及ぶべきの段之を申し越し、之によりて左衛門の尉鎌倉に在番す、この段早々に申し渡し、指図次第早速帰国致し、一戦に及び候わば、加勢付けべき段仰せ付けられる、頓而(やがて)沼田より急ぎ城意する、沼田にても今や今やと待ち駒引き立てける、其の上越後通りの勢、新田よりの勢前後より責め懸る、左衛門の尉の申しよう、とかく申し訳なく、家中の士誰一人先に応じて一身仕るべき旨申し、其の上ともかくも時これしきに致すべし、之によりて新田の陣屋に使いを立て、一身仕るべく、庄田成馬に申しつけ、沼須川向いの陣屋へ罷り渡り、大将脇屋義治へ申し上げ、向後は鎌倉を打ち捨て、御身方仕るべく申し上げる、其の義神妙なり、則ち返礼差出し申すべき段、大森の後何寺、細須田豊前等を引かれ、新田の一族に軍用催促所々に触れける、左衛門の尉は沼田の城に誓居す、然る処家老の面々打ち寄り、君には御寵愛も之なく、幸い岡谷兵部が娘美女に御座候召し寄せられ然るべしと申し上げる、
(140ページ) 尤もに思し召し、兵部へこの段申し聞かせける、有難くお請け申し、則ち吉日を改めて婚儀済む、さてまた都には建武二年より応永元年まで四拾年の間、京都吉野の年号は両朝二つ立ち、吉野皇居も五十二年にて滅す、一天帝王と極みける、然る処にて沼田左衛門尉出世せんとすれば、新田より押し寄せ、また新田へ組みせんとすれば鎌倉も心もとなく、如何せんと家中一等評議す、先暫(まずしばらく)見合わせて世の中を御讒勘(ざんかん?)遊ばすべき段一統に申し上げ、尤もに思召すなり、月日重なり左衛門の尉男子を設け御歓び際なし、然る処に鎌倉より廻し文、両上杉管領相極み、和田の余類悉く討ち果たし、天下一等納まり、早々に馳せ登り、異議之無き旨申し上げ、則ち鎌倉在番致すべき段両上杉より仰せ付けられ、浦々島々まで足利殿一類遺恨を懐く者なし、義景も鎌倉に相詰めて、沼田は家老が取り計らい、然る処景義の男子当年十五歳、父は鎌倉に御座候らえども、家老打ち寄り、御父は当主たり共、御名を改め則ち三峰山へ登り然るべし、御供は師左京、真庭大学、後閑舎人、右三人登山せり、社人和田大膳は祓幣(はらいぬさ)を取り並び拝し、沼田民部大夫平の家景と名乗る、則ち下向の威勢ゆゆしける、さてまた鎌倉には両管領位をあらそい、意恨(遺恨?)山のごとく、表はむつまじく候らえども、数年御迎拝烈(?)、嫡子成人してご覧じ、お悦びは際なし、家老の面々国の□法お聞き遊ばされて、少しも違乱之なき段吉慶たり、然る処に大胡豊前、楢村、細村、南雲村を掠押し取り、それより長井川□村森下まで押領(横領?)せんとす、之によりて大森の後何寺より飛脚来たり、右の段加勢下さるべきと急に乞い候、則ち物頭一組、大小の士総人数三百人直ちに早馬を飛ばせける、大森も大勢一手に成りて相待ちける、豊前も是にたまりかね、永井坂へ引きにけり、暫し窺がいける、坂下へ押し詰め、山手にかかり、遠見を置き、豊前も今はせんなしとて引きにけり、自分も暫し日を重ねて大森へ引き取り、沼田勢も直ちに帰りける、大森方真下の一族に返礼に出陣の面々へ礼物持参せり、さてまた家景当年十八歳、御妻女なく、之によりて西山兵庫の娘然るべし申し上げ、尤もと思召されて、右の段兵庫へ仰せ付けられて、有難くお請け申し、吉日を選びて婚儀済む、さてまた大森一等平日に片品河通り境論日々に止むことなく、此方よりも手痛く攻め防ぎ、重ねて手を入れず、さてまた義景老病にて医薬叶わず逝死す、長男家景に遺譲す、正覚寺山後に納葬し慎み成りて月日を送り忌明き、家中の面々継目の御祝儀申し上げて、今度鎌倉へ出立の御供立て仰せ付けられて、吉日を改め出仕あり、急ぎ鎌倉へ参り着す、両管領へお目見え済ませ則ち父の遺譲相違なく安堵の御教書を下さり、在番仰せ付けられ翌年帰国お暇で、沼田へ帰る、家中の面々御祝の義申し上げ、此の節京都にては高氏、
(141ページ) 西国にては毛利弘元、赤松一等、駿河義元、尾張、小田原北條、甲斐信玄、越後の景虎、在国出立なし、之によりて両上杉は領関八州を責めるべく思し召しの出立なり、其の味方数を知らず、 さてまた家景男子出生しお歓び際なし、成人を待ちにけり、鎌倉では両上杉の相論互いに止む事なし、其の上小田原北條に打ち破られ、関東の数年の戦い、管領長尾景虎一人にて意を振り、其の上一類共の在所は越後が日々に横領す、箕輪の城主長尾信濃、白井の城主長尾上野之助、平井の城主長尾武蔵守、然るに長尾信濃守沼田へ入魂これあり互いにむつまじく、則ち沼田、景虎の旗下となりけり、沼田家景嫡子当年十五歳、氏神三峰山へ登り家名を改め、御供師左京、忍田舎人、和田庄司、右三人社人和田大膳神前を拝し、沼田上野之助平景貞と名乗り下向す、家中一統に恐悦す、然る処に箕輪の城主長尾信濃守より飛脚来る、其の文に曰く、我等今貴殿と入魂の上は、長く御身を結び申すべく候、之の治女を貴殿の娘に遣わすべし如何と申し越し候、家景歓びけり、急ぎ家老一人遣わすべし、則ち忍田舎人に申付け、早速罷り越し大喜びと申し、然らば婚礼は当十一月差し越し申すべしと相究め、舎人お暇乞い罷り帰る、家景へ右の段申し上げ、お歓び際なし、普請を申付け、お望みの通り程なく出来せり、十一月初旬に至り日限究めこし、迎えに大勢指越し、箕輪より沼田まで櫛のはを引き沼田に着き城内へ入りにけり、家中の面々上下お歓び申し上げる、景貞ご夫婦むつまじく、父母の御怡(およろこび)浅からず聞こえける、程過(まもなく?)上野之助景貞、箕輪の城に着す、信濃守出向き御礼済み一間にしょうじ(招じ?)景貞の立ち回りをみてお歓び浅からず、貞方へもけんざん、日本一の士と申しける、貞方の申しよう、当所鎮守は榛名大権現御座を立ち勧請?致す旨申し候、景貞尤もに思し召し、別当に申付け、沼田へ移す、当所八幡は関東初の八幡、是も勧請申すべしと、板鼻の八幡是なり、戸鹿野村に建立、榛名権現は根岸村に建立、是より御領内の総鎮守なりとて、人々敬い参詣す、其の後根岸村を榛名村と申し伝えるなり、右両社は城主より御建立なり、然る処に鎌倉管領小田原北條の威勢強く鎌倉を押し破り、管領憲政を押し払い、北條の天下の如くなり、之によりて憲政は武蔵平井へ欠け落ち、ここに暫し住居す、然る処甲斐信玄に責められここにも叶わず、越後へ逃げ廻る、景虎をたのみ、管領職を譲り隠居す、之によりて景虎威勢強く、其の頃白井長尾意元入道色々知謀を通し、入道の申す事も用いずしてついに平井落城する、憲政ここかしこにて打たれ、或は三国通りもあり、或は沼田通りもあり、沼田の内下沼田と申す所に百人ばかり待ち休みにて打たれ、湯原通り上牧小松と申す所にても打たれ、
(142ページ) 或は出水に流れ、残りは越後へ行くとて道にて打たれける、長尾信濃守、信玄に多度責められ意玄入道も打たれ、関東おおかた北條になりけり、沼田は景虎の加勢にぞ、信州川中島年々数度の戦い止むことなく、小田原北條は越後領へ押し寄せ、前橋、平井、箕輪、白井、沼田は越後領なり、景虎と度々打ち出で、また信州へ信玄を打ち出で両度戦い、不意を破る、 然れども年若く成った大将にて、其の上管領印を持ち、京都より義輝の教文を下され、輝虎と号す、北條次男を養子に致し静かなり、然る処輝虎三十九歳にて病死、此の様子をみて信玄の諸士勝頼に所し(?)、直ちに我妻郡残らず攻め取り、横谷、西窪、湯本、鎌原、四人打ち従い、是を案内人にして沼田を打ち取り申すべく、案内いたせと申す、真田弾正忠は手勢を3千引き取り、我妻より中山を通り責め落とす、それより沼田へ急げる、程なく沼田へ押し寄せ、ときの声を上げにけり、思いも寄らぬ事なれば、慌てふためき迷いける、その勢い雲霞のごとくなり、家老面々打ち寄り、兎に角城を明け降参いたすにしくはなしと声をふるえて申しける、之によりて景貞妻をつれ住し城を忍び出で、貝野瀬通りを落ち行きける、家老共真田へ降参仕り城を渡しける、矢沢但馬に騎馬相添い、諸士を籠め置き、城主景貞は出奔す、尋ね出し候わば先地を相違なく下さるべく候と触れける、景貞は妻子を引き連れ、夜に紛れて新田の方へ落ち行く、然る処金子美濃と申すもの悪逆無道のものは尋ね出し、先地に成り申さんと、則ち跡をしたい(?)、景貞に尋ね逢い、真田軍勢皆々引き帰り候、先君御一人は忍びて御帰り成されと申し候、先ず久屋通りそれより町田観音堂へ廻り、是より御しょうぞく御替え仕り、星□論よりお入りなされと申す、是れに御家来皆々打ち寄り、御迎と申し上げる、左様と思し召し、則ち本輪へ廻り門に入らんとする所、同待ち懸りし士共首撃ち落とす、其の首大将へ美濃差し上げる、則ち御ほうび下され、、其の上金子美濃儀は数代の君主を打つ事、大逆無道の悪人なり、之によりて我妻川原の穽(おとしあな?)へ入る、諸人のみせしめたるべし、其の後我と死す、海野能登、矢沢但馬、交代に城代す、 然る処小田原北條、関八州残らず納め、片地沼田を残し置くこと、之によりて軍勢押し寄せ手もなく責め落とす、城代一人たまりかね城を渡しける、其の後猪俣能登守御詮議厳しく、真田防ぐ、北條も末になり、秀吉公に責め落とされ、さてまた猪俣能登守と出奔す、関東権現公御領となる、関ヶ原陣の時の働きに付、真田安房守昌幸へ天正十八年入部、同伊豆守信幸、同元和八年大内記信政、同河内守信吉、同伊賀守信行、同弾正忠信成、六世にて天和二歳酉の十一月領地没収、おしむかな沼田の城主はじめ真田安房守貞方、
(143ページ) 本多中務大輔平八郎忠房の娘、其の上権現公御孫なり、昌幸沼田に暫し居城す、之によりて貞方お願いに付、天守まで立てる者なり、大連院殿鍛冶町正覚寺に御霊供これあり、奥方沼田領分に鎮守、信州の諏訪大明神勧請し、村ごとに立てる、其の上武尊大明神、沼田総鎮守なり、是れまた相立つべしと仰せ付けられ、真田安房守沼田物領の時節に建立致し候なり、天正十八庚寅年なり、真田伊賀守まで六世にて没収す、その濫觴(ランショウ・始まり)を尋ぬるに、伊賀守もと妾腹にて、沼田領内小川五千石にて部屋住の人、成人後なにとぞ信濃守拾万石を心懸け、常に其のこころのみ、然る処に河内守へ信州十万石家督を渡し、沼田三万石は伊賀守へ渡る、心外に請け取り、城主となる、それより松代と観音へ通わず、是より同高に致すべしと領分三万石新撿(検と同じ?)を入れ、十三万三千石に打ち出し、之によりて領分百姓へ過役を申付け、難儀日々に増し、其の上浪人を高知行にて召し抱え、年々として不勝手になる、之によりて江戸両国橋架け替えに付、いず方の地頭成るとも望みの方へ手金として三千両なりとのお触れに付、伊賀守信行、永城代の面々諸役人を召され、近年不勝手に付、我が領分に此の通りの橋木これ有るや、若年之有り候わば三千両受け取り勤め仕りたく、並びに当用にもなり、其の上材木出方は尋ね役百姓に申付け如何候と仰せ出されて、諸役人御尤もに存ぜられ候、御注文御請け書差し上げて、来年八月上旬に両国橋へ着け仕りさすべきと申し上げ候、家老並びに山奉行普請奉行兼帯役なり、連判証文差し出すべく、此の旨下書き下されて、家老之なく、根岸宮内は川田に押し込み置き、仮の城主舎人を家老と判じ(?)、山奉行宮下七太夫、麻田権兵衛右三人右連判証文を差し上げる、即ち三千両の金受け取り、首尾良しと歓びそれより藤原山、発知村、川幡(場)村、佐山村、手分け木材ご注文の通り見立て残らず根伐致し、出し方は領分の百姓役に申付け候処に、未申酉三箇年は大飢饉、百姓夫食(ふじき)之なく、材木の山出し成り申さず、年中懸りても里へも出ず、数年按立てられ候こと、其の上八月中旬の証文暮れになりても城下へも見えず、引き延ばしの返事も申さずの躰、其の上に大将家綱公に度々の乗り打ち立林様の時も之なく、無礼数度に至り、口数箇条御書き申し訳立たず、伊賀守天奏の召しで青縄かけ、宇津之宮(宇都宮か)奥平能大夫殿へ御願い、御家門の面々残らず所々へ御預け、沼田の城の破却の仰せ付け、之によりて御城請け取り、御上使には安藤対馬守、新庄因幡守、その外大勢異議なく渡し、それより天守引き倒し、堀に埋め土居崩し、一城官広原と成る、御代官竹村惣左衛門、熊沢武兵衛、新町士屋敷二軒残し置き陣屋とす、
(144ページ) 然る処に借り置きし橋木材木屋長嶋屋長兵衛へ仰せ付けられ、半年ばかりに江戸へ着す、百姓願いに付、即ち貞享元年より新撿仰せ付けられ、酒井雅樂守様へ仰せ付けられる、五百(万?)三千石余りに相定むものなり、天和元辛酉より元禄壱五壬午まで二十一年御代官所なり、
(この沼田記は続々群書類従第四の中に収録されているもので黒川本を底本としたものであるが、おそらく原文は漢文でそれの写本・印刷を経ていて、文辞拙劣、誤字脱字、誤読、誤植等あるも沼田氏についての唯一の史料ゆえに収録したと言っている。間違いがかなりあると言っても地元の人にとっては参考になる記載も多々ある。)
現在残されているものは加沢覚書・加沢記・沼田城破却記・沼田実録・沼田記・沼田根元記・沼田古来記・沼田昔物語・等類似の古文書が多数ある。沼田市史の中世資料編の付録の加沢記・沼田根元記の解説によれば、加沢記は天明2(1782)年の利根郡政所村の増田家本「加沢覚書」、天保3(1832)年の同増田家本「加沢記」が内閣文庫にあるが、加沢記の原本の一部「西山家本」も昭和37年に見つかったという。
一方、沼田記ないし沼田根元記は沼田の家々に多数みられる。何れも同じような部分と異なる部分が混在していて、抜書きをしたり写本を繰り返しているうちに異なってきたものではないかという。伝言ゲームが典型とされるが言い伝えているうちに結論が逆になることもあるという自然の流れを理解しこれが古文書に共通した特徴でもあると認識しながらの内容把握が順当なやり方であろう。たとえ異論があっても全く無視しては何も得られず、わずかの部分にも真実への道しるべが残されているかもしれないと考えて資料を探し求めることにもそれなりの価値は十分ある。 沼田根元記ないし沼田記で最も古いものは都丸家本の寛文10(1670)年「沼田根元記」であるという。これは沼田藩城主真田伊賀守信直の全盛時代に刊行された一冊本である。萩原進氏は沼田市史付録の解説文の中で隠棲後の加沢平次左衛門が藩命で編修した正式の史書として書いたものではないか、そして加沢記はその沼田根元記を書くための草稿であったのではないか、と推理している。
以下は、続々群書類従の中の黒川氏所蔵本の「沼田記」である。
前期沼田氏は大友氏説でほぼ確定。後期沼田氏説は3説のうち石田文四郎博士による三浦氏説がほぼ定説になっているようだが確定ではないようだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 続々群書類従 第四
例言
一、本編は、史伝部の第三巻として、余目氏旧記以下二十二種を収む、
一、余目氏旧記は、・・以下略
一、雙林寺伝記は、長尾昌賢影像記、及び上杉伝来記の二種より成る、・・以下略
一、公方両将記は、・・以下略
一、小弓御所様御討死軍物語は、・・以下略
一、平嶋記は、・・以下略
一、多賀谷七代記は、・・以下略
一、世田谷私記は、・・以下略
一、沼田記は、上州沼田の城主平経信、源頼朝に従って戦功を樹てしより以来、経信泰経常泰泰景義景家景の事績、及び景貞に至り、武田勝頼の為に滅されたる顛末を記す、文辞拙劣、誤脱また少なからずと言えども、沼田氏の事績を詳記せる唯一の史料たり、本書は黒川氏所蔵本を以て底本とせり、
一、棚守房顕手記は、・・以下略
一、佐野宗綱記は、・・以下略
一、香宗我部氏記録は、・・以下略
一、菅谷記は、・・以下略
一、箱根山中城責由来は、・・以下略
一、忍城戦記は、・・以下略
一、清正高麗陣覚書は、・・以下略
一、石川忠総家臣大坂陣覚書は、・・以下略
一、大坂陣山口休庵咄は、・・以下略
一、土屋忠兵衛知貞私記は、・・以下略
一、嶋原一揆松倉記は、・・以下略
一、嶋原天草日記は、以下略
一、山田右衛門作物語は、・・以下略
一、休明光記は、・・以下略
一、本編は、文学士堀田璋左右氏主として材料の選択、及び編集の労を執られたり、茲に一言謝意を表す、また史伝部第一例言に、「文学博士萩野由之氏親しく材料選択の労を執られ」たる旨を記載せるも、該編は、印刷に臨み、本会に於いてその材料を増減せるものあるを以て、同氏の為に之を訂正す、
明治四十年六月
続々群書類従第四史伝部
目録・・
以下略して「沼田記」のみ記す。
(130ページ)
沼田記
そもそも沼田のはじめの其の根元は(監?)、赤城山、子持山に相続き、一面には谷川山、武尊山、其の内広々満々たる湖水二千幾歳を知らず、伝わる所人皇四拾代天皇白凰十三年正月、日本大じしん、諸国山崩れ、水湧き出る、人民六畜死する、伊予国温泉埋む、土佐国田地五拾余万頃没、伊豆国に俄かに一つの嶋出づる、上野国北山に湖水湧き出で上野下総押し流し、今ここに監?にアマド切り破り、其の跡自然と掘り流れ行き、下総国流出村と申す処に赤城山大権現御留まり、末世の印なり、其の後人皇四十八代称徳天皇天平神護元年七月、僧勝道初めて下野国荒山大権現開き、日光山是なり、同時赤城山開き、さて又湖水跡何分旧事知られざる広原なり、自然と控えず、民家遠国他国より集まり来たり、隠れ里と名附く、雪霜陰之有り、 然れども次第に縄張り家作り繁昌す、一番に和田の庄、二番に庄田庄、三番に忍田(恩田か)の庄、四番に硯田庄、五番に川田之庄、六番に下沼田之庄、七番に町田之庄、是を七田之庄と名附く、地頭も之無く年々暮らし、仏神を祭る事も知らず、鳥類畜類のごとく、川狩り野狩りを業として蕃(?)然る処に人王六拾代村上天皇天慶の頃、相馬の将門一乱に関わり八州騒動止む事なし、其の頃都より平氏何がし流浪となり庄田之庄へ来たり居住み、所の者帯刀を知らずや恐れ崇敬す、月日を増し主君のごとくかしずき、近郷の者集まり崇敬す事言うことなし、文武両道兼ね備え誠にケイナリける人なり、のちには和田之様と申しける、然る処庄田の一女嫁し、位ぶり類なき一子を出生し、いずれもかつごう仕り、和田四郎と申しける、拾五歳の頃鹿狩り野狩りを業として、七田の庄官となり、其の外近郷の者控え集まり一番に師の住人、二番に石墨の住人、三番に真庭の住人、四番に後閑の住人、五番に滝棚の住人、同根岸の住人、六番に牧の住人、七番に岡の住人、八番に発知の住人、九番に川場の住人、十番に生品の住人、拾壱番に古語父の住人、何れも集まり崇敬す、和田四郎成人し丑田の庄が娘嫁す、繁昌し、庄十壱の番づつの住人駒の立どなし、あるとき和田の庄の申しよう、我が父都より流浪の身なり、不思議に天道に叶いかくのごとく繁昌する事神徳なるべし、鎮守を祭り子孫の氏神とせん、上之山に社を立て、三峰山大明神これ都の神なり、さてまた和田の庄司一子出生歓び際なし、其の名を和田の太郎殿と申しける、成人弥増し右拾壱人の住人かつごう際なく、先例にしたがい、三峰山を祭り、先祖の和田太郎を改め平経家と名乗り、
(131ページ) 武芸弓馬に強く、諸国六芸の達者召し呼ばれ、さながら一騎をも取り立て、保元平治一乱に平の清盛天下一等権柄を取り、之によって武蔵上野下野の流人我も我もと馳せ集まる由聞き伝う、我も古えは平氏なり、今出でずばいつの世に出づるべしと、経家十八歳、上下人立ちの番に師左京、二番恩田兵部、三番下沼田舎人、四番町田主計、五番硯田平馬、六番川田圖書、七番に庄田丹宇、合わせて弐拾人、上下共出で立ちいさみける、程なく京着す、大将清盛に訴えを申し上げ、清盛武将左様なり、目見え申しける、経家御能上意たり、沼田の始終問辺言上し、之によりて沼田、利根勢多両郡の主たるべし、安堵の御教書を下され、暫し在京致すべしと仰せ付けられ候、其の外武蔵の七党、上野の八党、下野の七騎、在京なり、経家両郡の庄官免許を給わり、其の名を高くあらわし、翌年帰国、両郡の主万歳とうたいける、七田の庄拾壱蕃の住人門前に市を成し、ある時経家我かく官位に登り、能く場所見立て一城を築くべし、如何かあらんと申しける、今の住居の場せまし、之によりて小沢の原は能き所と成り、吉日をえらび、土手を掘り二重に致すべき由、外堀深さ三間、敷高さ九尺、内堀深さ五間、二間半、土手二間、近郷百姓は公屋敷を役(設か、しつらえ)、本丸共に年中に出来致し候に付き、町の屋敷割り和田の庄残らず引き取り、小沢の城と名附く、丑寅の方に当たり、瀧本山小沢寺祈願寺を立て、万歳を謡う、七田の庄十一番の家中立ちならべ、この城一方川有り、本丸の方に致し候を小沢川と名附く、さてまた位勢日々に増し、然る所に小川住人名作の住人、羽場の住人、布施の住人、須川住人、右四人御旗本に願い奉る、其の上東は平沢住人、生井住人、追貝の住人、日に御はたしたに?遊ばされ下されと願い出で、其の外数を知らず馳せ来たり伺公(伺候か)す、 その節古椀着類切れ古物流れ出で候、ご吟味遊ばされ、若し後日如何あらんと申し上げる、之によりて牧の住人、後閑の住人、小川の住人、右三人大勢添え山を別に尋ね見る所に、高山の岩根に稲荷あり、立ち寄り見れば老人男女居る、是は何方よりかかる片地に居る、真すぐに申せ、鎮ずるにおいては今打ち殺すと、てんでに太刀に手をかけひねりけり、老人答えて、我々奥州より迷い候ものなり、奥州乱世に山を超え是まで罷り出でけり、越後の山里へ参り、飯米を支度致し、平日は猪鹿と申すを取り給物に仕り候、貴公様方は何方より御出で成され候、我々は是より十四里程里に出で、この国の大将より位を蒙り参り候、さてまたこの国に御大将御座候わば、憐れ御慈悲に御手下に成され下され候わば有難く存じ奉り候、其の名をなんと申すぞ、恐れながらそれがし阿部の末流宗家と申す者、先祖は一騎前も仕り候、
(132ページ) 倅二人御座候、召し寄せられ御出で下し置かられ候わば有難きと願い出で候、私義は明日は存ぜず、之によって谷深く奥州道遠し、其の故藤原と申し候、然らば大将へ申し上げ候、この地に下し置かられ随分切り開き申すべく候、私一類共越後の山里に長男一人御座候召され下さるべく候、即ち野人ふとく、阿部の力丸と名乗り申し候、この段御大将へ申し上げ、御怡際(?)なし、 然る所へ東入りより申し上げ候は、一番に花咲の住人、腰本、土出、小川、右の村々の住人、其の外大勢にぞ願い出るは、我等住居仕り候山奥も人間ども知らず、悪鬼ども知らず、住居の里へ出候、人を追い払い給わりし物をかすめ取り、民家をなやませ、御退治仰せ付けられ下し置かれ候わば本山に入り手下に罷り成るべく、然らば案内仕るべく候、一番に川場の住人、二番に古証(語か)父の住人、三番に岡の谷の住人、四番に生品の住人、五番に発知の住人、六番に平沢の住人、生井の住人、其の外東山に入る者、土出での住人、小川の住人、腰本、追貝の住人、其の外名ある者ども里々村々より吉日を選び総人数千人の余打ち立て、籠居賊人みな阿部の末流、ある時は湖水勢多郡深し、さてさてたやすく返し成り候、阿部貞任末流ならん、奥州よりまよい出で、この所に住居するなり、折々奥州方会津へ相出で、押し取り切り取りを業として月日を送り、人の妻子を取り、又はこの東山入りて妻子をうばい取り、しゅでんどうじのごとくなり、之によりて大将経家出馬、東西北へ人を廻し、食い責め致すべく候、大手からめ責めけるに、大勢に無勢昼夜限らず責められて、うえに及びし大将を生け取り、経家の前に引き出す、己何者成り、この山に住居して氏家をなやます、阿部の貞任宗任暫くこの所にしのび罷り有り、我は多勢丸と申す者、住家之なくこの所に数年罷り有り、猪鹿と申す飯食い仕る、今之の如くむねんの次第と歯がみをなして申しける、則ち首打ち落としごく門に懸りたりけり、其の外同類打ち殺したり、所々うばい取りたる男女古郷へ帰しける、大将経家帰陣候、大小太刀在々所々御褒美下され候、 一、人王八拾代高倉院御宇に清盛悪逆し、木曽義仲信州より一揆起こし、北国西国納まらず、関東には頼朝公が寄々に廻文す、義経奥州に忍び、穏便ならず、石橋山合戦発り(おこり)、経家熊谷治郎に由身(よしみ)有るゆえ同道し、壱番に馳せ向かう、それより頼朝打ち負け、上総義助同じく心を合わせ打ち勝ちて、頼朝万歳後、経家近習たり、上総之助加勢して関八州人数百二十万騎、それより頼朝義経心を合わせ打ち勝ち、頼朝万歳なり、経家近習たり、沼田の城主永代安堵の御教書を下され、鎌倉に在番す、翌年帰国の暇下され、沼田へ帰城す、経家嫡男三つ峰へ登り、其の名を
(133ページ) 沼田左衛門之尉平経信と改める、次は女子うつも利根姫と申す、器量余りにすぐれ、夫婦の御寵愛世に余り、然る処に経家七田の庄十一番の住人を召し寄せ、この所暫く住居するといえども、城内せまし、是より向こう滝棚之原城内広く取り立て申すべきと仰せ付けられ、それより吉日を選び、是の北東西は岩、南一方は原なり、縄張りは外堀内堀本丸三の丸を構え、小川の堀を引き払い、士屋敷、町屋鋪を移し、其の上根岸の滝棚へ民家を引き移し、栄作に出来た、則ち瀧棚幕岩の堀(城か)と名附けるなり、経信へ師兵部の娘嫁す、男子出生、則ち兵部をうぶ親にす、然る処利根姫の美女たる事、頼朝の義は際なく、経家も弥(いよいよ)出当(読み?)なり、程なく利根局懐妊と聞こえける、然る処を政子聞き給いて、下部に申付け、利根を失い、夜に入り参ずべきの段申付け給う、頼朝聞きつけ然る者其のままには叶うまじとて、代官らへ下され、その夜にこしに乗せ、西国方へ遣わすとかや、其のみぎり哀気の藤九郎ありまた懐略(妊か)と成る、政子承り失い申すべき段、美女たる事、頼朝之を召し寄せ、則ち丹後の局と申す、御寵愛際なく、また懐略政子承り失い申すべきの段、下部に申付け、あやうき所に、本多何家へ頼朝仰せ付けられ、こしに乗せ、其の夜大坂さして急ぎける、住吉辺にぞ行き暮れて、庵室有り、立ち寄り見れば、庵主右行の者伴い女子を連れ、一夜は安い事、ただただ一夜頼むと、本多則ち丹後の局御入り、急にいたわり、夜半時分出産のきざし有り、窂坊(産屋?)本田立ちさわぎ、近所氏家を尋ね、老女をたのみ取り上げて、玉のようなる男子なり、かたわらなる信家を頼み、月日を送り、この若君成人には成らず、随分と大切にいたわり、年月を経て、既に拾壱歳の頃、頼朝公大仏供養に上京のみぎり、本田丹後の局を打ち連れ、御若君諸ともに御先にたたずみたり、御先払いの武士何者成りとあやしみける、本田罷り出で、我々御訴訟申し上げたき事御座候、この段申し上げ、頼朝公御目通りへ召し出され御免し(お許しるし)有り、御こしより飛び出し給う、さてさて本田が忠節、丹後の局がふし物(寝具?)具えず、則ち秩父の重忠へ仰せ付けられて、旅宿を改め大勢の人々終計なり、それより其の名を改め鳴津之三郎と申す、大隅、薩摩両国を下さるとかや、さてまた経家倅左衛門殿、頼朝下向の後、鎌倉へ召し寄られて、経家老衰たるに依りて、沼田其の方より今安部(堵?)為すべし、経信有難きし合せに存じ奉り候と沼田へ帰国す、沼田勢多利根両郡の由来書付出し申すべきの段、重忠を以て仰せ付けられ恐れながら帰城す、家中の面々途中まで罷り出で恐悦申し上げる、経家老病養生叶わず死去、経信はじめ家中闇夜のごとくなり、古城を名付け法城院殿心岸主田大居士と号す、元亀三庚午六月十五日なり、
(134ページ) そもそも沼田利根郡と申す事、其の水上は奥州金花山、その先はあや切り湖水干形なり、たえず流れ出る、金花山裏通りにて金水たえず、およそ沼田より三拾里程奥にぞ金水流るるなり、利金水の文字返して利根利金相生の義を取るなり、さてまた勢多郡と申す事、沼田より二十五里程奥に湖水あり、大湖水多勢丸住居の場ゆえ、おぜの沼と申すなり、この流れは勢多郡俗に多勢の沼と申すなり、 一、人王四拾五代聖武天皇の御宇、行基大師吉備大臣入唐帰朝のみぎり、日本三拾三カ国を六十六か国に改め、後に諸国順見す、然る所奥州小田郡より黄金出る、初めて献上する、之によりて金水ゆえ利根川と申す事なり、沼田左衛門平経信は父におくれ案じる事、家老家の子を召し寄せ、我考える所、此の城大鋪(おおやしき)居所にあらず、是より下瀧、棚倉懸け(崖?)と申す所、如何に候や、壱番に師兵部、忍(恩)田舎人、庄田隼人、硯田左京、平沢豊前、仰せ御尤もに存じ候、御忌服明け候わば、仰せつけられ然るべしと御請け申す、材木は川田より出すべく、月日を送り、経信忌服済み、それより吉日を改め、本丸三の丸両輪構え屋敷町割り普請年中に出来候、移徒祝義(儀か)にて、家中万歳して楽謡けり、然る所鎌倉より申し来たり、実朝公天下の譲を請い、頼家不行跡たるに依り、鎌倉に馳せ登り、継目申し上げ、御礼相済み、御教書を頂戴す、帰国して家中の面々途中まで御迎え万歳謡いけり、其の上川田の住人平井右近の一女嫁す、則ち城に入り済み、蓬莱を荘(かざ)り婚儀整いける、然る処拾月より大雪降り、東西南北の往来留まり、およそ雪一丈余り之有る故、死するもの多し、経信米石を出し、民を救る(救う?)、則ち経信一女、次は男子なり、成人の後女子は下沼田の庄婚儀下され、次男今年十五歳、父に勝ちて武道を能くし、則ち三峰山に登り、氏神を拝し泰経と名乗る、家禄を継ぎ家老家の子一等に恐悦申し上げ、然る処鎌倉より飛脚到来し、実朝公逝去、之によりてお世継ぎ御座なく、執権陸奥守平の義時、政子と談じ、京都関白道家公四男頼経と号し、天下は政子の簾中が政を取り、之によりて泰経は鎌倉へ馳せ登り、継目御祝儀申し上げ、御教書を給わり帰国を之れ願う、其の上北上野、沼田、片地取り山賊強盗さかんにして鎮め難し、之によりて早々御暇願い上げ出立有るべく候の段、仰せつけられ帰国す、家老総家中途中まで罷り出で帰城す、千秋の謡い相済み有る時泰経の申し様、我両郡の境を知らず、誰か参り候は相究むべく候や、忍田舎人、師兵部、和田の庄司、平井右近、右四人は境目遊ぶべしと仰せ付けられて先ず一番沼田の船渡しをを境とす、それより戸鹿野船渡しを越えあやど坂峠境を立て、それより空沢を通り、それより不動峠境を立て、ここに名棚誂(名胡桃か)の住人鈴木内匠と申す一騎当千の者罷り出で、
(135ページ 御先祖御先仕り、人数合わせてそれより須川大度峠(大道峠か)と申す所へ出垣立て、それより布施猿ヶ原(猿ヶ京)と申す所へ出で、長井三国峠へ懸り、社人罷り出で申し様、伝え承わり候、古え行泰大師御通りの節、飯場御見立て、則ち三社権現の印を立つ、是れ三国の境なりと仰せられて、其の後の往来の者難所を安ん事参り、銭を掛け置きたまりて神社と成す、 上野国赤城山 信濃国諏訪 是れ則ち三国三社権現なり 越後国弥万孫 此の所を境と遊び下向し、猿ヶ京へ帰す、それより湯河原と申す処へ案内す、峠を越え湯河原より谷川、此の所より越後を通り之有ると聞く、成る程歩行道御座候、越後何と申す処へ出る、山里と申す所へ出で候、それより段下り、米石洞と申す所へも出で候と申し上げる、此の高山越後まで上州境と定め、不尽山と申す、また奥に藤原と申す所有り、奥州まで谷ふじゆへ、不尽原と申す、是より奥州何ほど有りと申す、大方十里余も参道なし、大木の下また十里も之有り、奥州金山の裏へ出で、それより御通り成さるべく候、我々此の谷は仰せ付けられ候ても、鬼神にても及び申さず候、然らば末々遊ぶべしと、それより湯原へ帰り、川を越え、牧村へ出で、是より佐山村へ越し、案内罷り出で、大沼村を越えてご案内、左の高山は何と申す、是は天ふだん雪降り申し候、それより発知村へ出で候、此の所に木村宇母と申す者永く御座候ご案内、さてまたこの向山は何と申す、この山は弘法大師が諸国廻りの時、此の所へ御出で、大唐の五大山僊(せん?)、大瀧蔵山と仰せられて一宇有るべしと仰せられ、之による所は麓に一宇建立仕り候、其の後は庵主も御座なく候、金山の水流なり、此の山所のもの申すには、発知山と申す、それより川場へご案内仕るべく候、川場より案内とうげへ出られ、このところにゆしま庄司御先を仕り、一宿遊ばされ、是より古証文むらやまのふもとをとおり、ひらさわと申すところへ出で、ここに平沢豊前と申す者お迎えに出で、生井村、棚村のもの共御迎えに罷り出で、是より東谷入りへ参るべく仰せ付けられ、此の奥山難所にぞ人馬立ち兼ね候由申し上げ、是より会津通り東入りへ廻文を遣わし御迎罷り出で、追欠村(追貝村)金子の住人、小河(小川)平沢の住人、土出で村星野住人、腰本村田村住人、右の者ども御先払い、戸倉と申す処へ付き、里々村々谷々の者集まり、是より会津まで何ほど有るぞ、如何様八里計り御座候と申し上げる、馬足立ち申さず、則ち戸倉、土出で、小河へ仰せ付けられ一宿遊ばされ、此の山奥は何と申す所ぞと御尋ね、去るいにしえ阿部の多勢丸と申す盗賊この里をなやまししを、御先祖ご退治下され、
(136ページ) 今は安穏に御座候、其の先は何共知り申さず、奥州にほど近く御座候利根川の本なり、金山の裏へこの多勢丸の湖は皆勢多郡会津の境を究む、それより御帰り沼田へ右の趣段々に言上す、泰経、師左京娘婚礼、城入り相済み、家中恐悦申し上げる、万歳を謡う、泰経申す様、領分の道橋随分能く、民の困窮之なき様致すべし、薄根川橋三か所懸け片品川地領入合い、沼須舟渡し、利根川、戸鹿野村ふな渡し、後閑村舟渡し然るべし、出水等之れ有らば、日本一の要害名城なり、経泰男子出生歓びなり、然る処に鎌倉より廻文来たり、今度頼経公逝去、頼嗣公へ、御世を譲り申し候、早速馳せ登り、執権武蔵守時氏御目見え相済み、鎌倉上番仕るべく候と仰せ付けられ、沼田阿部(安堵)のお願い書き下され、翌年御暇下され、お城より家中の面々途中まで御迎え出で、万歳を謡いけり、泰経男子成人し、今年七歳、三峰山へ登り、御供師左京、忍田舎人、根岸兵部、右三人登り、山神を拝し、其の名を改め、沼田勘左衛門平の安泰と号し下向す、文武両道達者にて、家中諸士敬いける、月日重なり、次第に父に勝り、国も治まる御勢いなり、然る処に鎌倉より廻文来たり、この度頼嗣ご逝去、お世継ぎ之なく、後嵯峨院第一皇子宗尊親王鎌倉へ下り、天下の将軍と成る、泰平の由申し来たり、之によりて早速馳せ走り、執権相模守平時頼御目見え仕り、鎌倉在番たり、鎌倉の親王五代にはじまり、時頼におとない(訪い)民懐かしき、六拾余州無事、翌年泰経沼田へ帰国仰せ付けられ帰城す、家中面々途中まで御迎え城に入る、恐悦申し上げる、然る処泰経病気重なり、安泰を取り立て候様に申し則ち逝去、人々かなしみ限りなし、月日積もり安泰父の跡を継ぎ、繁昌の其の上に鎌倉へ登り、継ぎ目申し上げ、安堵の御教書を下され御帰国、治むる事第一なりと仰せ付けられ帰国、家中面々御迎え万歳謡いける、皆々武芸第一に致せと仰せ付けられ、弓馬懸り行き、稽古専らなり、猪鹿狩りなぐさみたるべし、天下大平と申すは此の節なり、安泰今に御寵愛なく、町小沢主計娘嫁入りす、何れも宜しく申し上げ、婚儀済む、然る処沼田町大小頼りの状上り、御城水不足に付き、町々難儀に仕り候、何卒上水御奉行仰せ付けられ下され候わば、行徳無水も参ずべき処、水引き落としに付、行き届き申さず候の段申し上げ、之によりて塩野井平右衛門に上水の役仰せ付けられ滞りなく参ずべく候、足軽三人平井隼人急ぎ申し上げ、上水境中山の賊人出馬し合わせて二百人ばかり押し込み、在家に押し取り仕り、何とも難儀仕り候、御人数御借り下さるべく申し上げ、早速遣わすべしと根岸大膳平井隼人両人手下三百人指し遣わし、則ち峠にて弓引きかけ、鏑をならし、打ち掛け打ち掛け、坂の麓へ追い落とし、石を飛ばせ、いきもつがせづ追い敗(やぶり)しける、跡をも見ずして逃げにけり、
(137ページ) 暫し飯屋を拵えて十日ばかり見合わせけり、其の後は音もなし、何れ帰りけり、安泰に此の如く申し上げる、境を押し込むところ、早速打ち払いし事勢力優れたりとて、御ほうび下され候、去るほどに安泰一子男子が出生し、お喜び際なし、然る処文永十一年鎌倉より宗尊親王御遠行に付き、早速鎌倉に馳せ登り、則ち惟康親王御代の執権相模守時宗へ御目見え仕り、之によりて沼田の事お尋ねの上申し上げるべく、鎌倉に在勤仰せ付けられて、安堵の御教書を下されて、翌三月帰国のお暇を下される、お城御安泰、嫡子成人して今年七歳、三峰山へ登り、お供は師左京、庄田左門、忍田舎人、家臣は氏神を並び拝し、沼田上野之助、平之常泰と号し、則ち下向し、父お喜びかぎりなし、然る所に須川の住人須川兵庫が注進し、上の山大道峠の城下に我妻郡の賊人が日々に峠に追入り(押し入り?)、此方の民家をかすめ、里へ出でて狼藉仕り候、御加勢下さるべしと申し候、則ち三百人を遣わされ、手勢とも人数五百人夜を日についで急ぎける、此の方麓に小屋を懸けて弓鑓棒さまざまの道具をかまえ出向き責め戦い賊人は責め立てられ、或は疵を請け或は生け捕り終に縛す、跡方□なく追いちらし、又は参ずべき之の峠にをり火を焼き、凡そ十五日程詰め居たり、沼田へ帰り、右の段いちいち申し上げ候えば、御目見え仰せ付けられ、此の度の出勢去儀何れも休足のお暇下され候、さてまた常泰成人遊ばされて、勇力当年十五歳の春の頃、領地の山々猪狩り致すべきなり、雪澤山に有時の節なり、家中諸士に仰せ付けられて、三峰山は鎮守のやまなり、その外の山々狩り致すべしと、仰せ付けられ候、発知へ川端山勢子の人数を出し、勢子大将は発知たるべし、日々に狩りをこのみける、然る処安泰老病を引き請け、養生叶わず逝去す、成孝院殿春王道英大居士、成孝院開禅なり、家老家中寄り、常泰をいさめける、父の養生叶わず天命の究る所なり、則ち山陵に納め仰せらるるとなり、常泰月日おくり忌服過ぎ、家中大小の士、古軍の事申し渡し、領内の民の歩行なし、清道但しく鎌倉より廻文来たり、其の書に曰く、惟康親王御遠行、お世継ぎ之無し、深草之院第二の皇子久明親王お世継ぎ給い、執権は相模守貞時なり、常泰早速鎌倉に馳せ登り、貞時にお目見え仕り、常泰申し上げるは拙方代々の先祖が相談納り候所に、近年賊人徒が原境の領内をおびやかし、御地のものかすめ取り、雪国にて雪霜の間、四箇月程に限り難儀仕り候の段申し上げる、尤に思し召されて、則ちお暇下されて下向す、家中の面々大小途中までお迎えに罷り出で拝祝す、城に入り万歳を謡いける、常泰忍田舎人娘婚儀調い、城に入りお悦び限りなし、年来ほど有りて懐胎身彌大切に、臨月を待つ所、若君御平産、お歓び際なし、然る処追欠(追貝か)の金子市蔵と申すもの
(138ページ) 注進す、近郷東上州新田の方、井山家のものども根利家の棟峠と申す所、其より在々所々かすめ取り、男子をかどわかしける、難儀仕り候御加勢下され追い払い、あんのんに仕りたき義願いあげ、御老人数三百人差し越し、何れも長柄の鎌鑓弓矢長刀やうい(用意?)日についで案内させ、右の峠近くに飯屋立ち待ち居たり、あんのごとく百人計り有れども知らぬ峠へ上りける所を、すはやと追い懸けられ、思いも寄らぬ責め道具で打たず打たれず大勢に無勢、叶わず賊共命をおしみ逃げる所を、追い打ちに弓矢を以て討ち懸け打ちちらし、暫し見合いたりけり、番所と所の者を差し置き、皆沼田へ帰り逐一に右の段言上仕り、遠方へ別して大義至極と御褒美下され、何れも在所に帰り、休足(休息か)仕るべきと仰せ出された、さてまた常泰の一子成人し、当年七歳、吉日を改め、三峰山へ登り、氏神を拝し、お供は師兵部、和田の庄司、庄田右衛門、右三人登山致し、並びに拝し仕り、沼田右近大夫平泰景と改め、和田大膳と申す者は根元縁と伝わるなり、和田常泰の申しよう、鎌倉において祈願菩提寺申す事有り、此の城下に両寺建立すべし、則ち新田大光院僧と申す趣呼び寄せて、正覚寺と号す、新田、瀬良田、長楽寺の僧を呼び寄せて、三光院と号す、各々一宇建立す、然る処に町田主計が申し上げ候、此の頃上之原に夜夜光り物出でて、往来成り難し、何卒御吟味なし下され候わば、有難く存じ候、小沢大膳同道にて参り候処、見る所に二つの塚有り、堀りくずし見れば、黄金の観音一体光りをはなって出る、是は所の守護なり、大切に致し、其の所に一宇を立て、堂を立て、則ち別当は堀口民部に仰せ付けられける、其の頃鎌倉執権より廻し文参り候、久明親王御遠行に付き、守邦親王へ御世を譲り、早々罷り登り申すべく、之によりて其の時鎌倉の執権相模守高時へ継ぎ目のお目見え仕り、則ち鎌倉在番仕るべき段仰せ付けられ、翌年春帰国の暇下されて、沼田へ帰りける、城に入り恐悦申し上げる、然る処嫡子右近の大夫は当年拾七才、何れ成るとも妻を見立て申すべき段仰せ付けられ候、家中面々忍田舎人に申し上げる、平沢息女然るべき由、則ち平沢へ仰せ付けられ候、有難くお請け申し、吉日を選び婚儀済む、其の頃新田足利両家より内通折々なり、鎌倉高時の悪行日々に重なり、時節見合わせ一騎おこし申すべき段一身連判の廻文来たり、いよいよ相違これなき趣申し候、月日を送り軍を張り高時さらにそのいろ見ず、然れども毎年鎌倉出仕はやめざりけり、右近の大夫に男子出生、父歓びかぎりなく家中いよいよ恐悦す、然る処常泰病気に付き養生叶わず死去、家中大小闇夜の燈消えたる如く、弓馬の家に生まれし城主国主は、只誠をもって民をなで、士卒を扶持する事第一の之を名君とすべきなり、月日を送り家老役人召されて、郡中へ触れをなし、
(139ページ) ほどこし宝をくばりけり、新田の内通もだしがたし、家中の若士武芸を磨くべし、弓馬別して(特別に)磨くべし、強くありけん、然る処右近の尉、父の継目申し上げるべく鎌倉へ参上す、高時にお目見え仕り、安堵の御教書を下され、しばし在番致すべしと仰せ付けられて、翌年沼田へ帰国す、家中の面々三日三夜万歳謡いける、 正慶二、鎌倉にて守邦親王薨(みまかる)、御年三拾三、同年新田左中将源義貞が高時を亡ぼす、北条九代百五拾年にて亡、是より一乱起き日本国中刃をけずり止む事なし、高氏打ち負けて西国へ落ちける、義貞利軍?加勢を才束(催促?)、之によりて新田よりなお才束す、義貞勝ちほこり、こうとうの内侍を下されける、高氏西国より押し来たり、義貞打ち負け高氏天下をにぎる、然れども国の庄官国主駈動(騒動か)止む事なし、然る処右近尉嫡子当年十一歳、三峰山へ登り氏神を拝す、お供師民部、和田庄司、庄田右衛門、社人和田大膳、則ち神前に並び拝し、沼田左衛門尉平義景と名乗る、則ち御下向す、さてまた鎌倉にては後醍醐之天皇第二の皇子大塔の宮尊雲二品親王は治世三歳、直義がために薨、同第三の王成良親王治世三年薨、是より鎌倉親王五代にして滅す、尊氏天下一等、六拾四州掌に入るといえども、三代義満にいたり天下納まる、天下泰平と成る、同十二年の内なり、去るほどに右近の尉泰貞、直義の使いにて鎌倉に相談在番す、鎌倉において病死の段、飛脚到来し、左衛門の尉義景早速馳せ登り、父の遺蹟継目し、鎌倉在番を仰せ付けられて相詰める、沼田は家老共計り相守る、然る処新田義貞の余類越前越後より三国を通り、沼田へ流浪し、ここかしこの民家をさわがし、其の上新田館辺より沼田へ押し寄せ、若し別心あらば一戦に於いて及ぶべきの段之を申し越し、之によりて左衛門の尉鎌倉に在番す、この段早々に申し渡し、指図次第早速帰国致し、一戦に及び候わば、加勢付けべき段仰せ付けられる、頓而(やがて)沼田より急ぎ城意する、沼田にても今や今やと待ち駒引き立てける、其の上越後通りの勢、新田よりの勢前後より責め懸る、左衛門の尉の申しよう、とかく申し訳なく、家中の士誰一人先に応じて一身仕るべき旨申し、其の上ともかくも時これしきに致すべし、之によりて新田の陣屋に使いを立て、一身仕るべく、庄田成馬に申しつけ、沼須川向いの陣屋へ罷り渡り、大将脇屋義治へ申し上げ、向後は鎌倉を打ち捨て、御身方仕るべく申し上げる、其の義神妙なり、則ち返礼差出し申すべき段、大森の後何寺、細須田豊前等を引かれ、新田の一族に軍用催促所々に触れける、左衛門の尉は沼田の城に誓居す、然る処家老の面々打ち寄り、君には御寵愛も之なく、幸い岡谷兵部が娘美女に御座候召し寄せられ然るべしと申し上げる、
(140ページ) 尤もに思し召し、兵部へこの段申し聞かせける、有難くお請け申し、則ち吉日を改めて婚儀済む、さてまた都には建武二年より応永元年まで四拾年の間、京都吉野の年号は両朝二つ立ち、吉野皇居も五十二年にて滅す、一天帝王と極みける、然る処にて沼田左衛門尉出世せんとすれば、新田より押し寄せ、また新田へ組みせんとすれば鎌倉も心もとなく、如何せんと家中一等評議す、先暫(まずしばらく)見合わせて世の中を御讒勘(ざんかん?)遊ばすべき段一統に申し上げ、尤もに思召すなり、月日重なり左衛門の尉男子を設け御歓び際なし、然る処に鎌倉より廻し文、両上杉管領相極み、和田の余類悉く討ち果たし、天下一等納まり、早々に馳せ登り、異議之無き旨申し上げ、則ち鎌倉在番致すべき段両上杉より仰せ付けられ、浦々島々まで足利殿一類遺恨を懐く者なし、義景も鎌倉に相詰めて、沼田は家老が取り計らい、然る処景義の男子当年十五歳、父は鎌倉に御座候らえども、家老打ち寄り、御父は当主たり共、御名を改め則ち三峰山へ登り然るべし、御供は師左京、真庭大学、後閑舎人、右三人登山せり、社人和田大膳は祓幣(はらいぬさ)を取り並び拝し、沼田民部大夫平の家景と名乗る、則ち下向の威勢ゆゆしける、さてまた鎌倉には両管領位をあらそい、意恨(遺恨?)山のごとく、表はむつまじく候らえども、数年御迎拝烈(?)、嫡子成人してご覧じ、お悦びは際なし、家老の面々国の□法お聞き遊ばされて、少しも違乱之なき段吉慶たり、然る処に大胡豊前、楢村、細村、南雲村を掠押し取り、それより長井川□村森下まで押領(横領?)せんとす、之によりて大森の後何寺より飛脚来たり、右の段加勢下さるべきと急に乞い候、則ち物頭一組、大小の士総人数三百人直ちに早馬を飛ばせける、大森も大勢一手に成りて相待ちける、豊前も是にたまりかね、永井坂へ引きにけり、暫し窺がいける、坂下へ押し詰め、山手にかかり、遠見を置き、豊前も今はせんなしとて引きにけり、自分も暫し日を重ねて大森へ引き取り、沼田勢も直ちに帰りける、大森方真下の一族に返礼に出陣の面々へ礼物持参せり、さてまた家景当年十八歳、御妻女なく、之によりて西山兵庫の娘然るべし申し上げ、尤もと思召されて、右の段兵庫へ仰せ付けられて、有難くお請け申し、吉日を選びて婚儀済む、さてまた大森一等平日に片品河通り境論日々に止むことなく、此方よりも手痛く攻め防ぎ、重ねて手を入れず、さてまた義景老病にて医薬叶わず逝死す、長男家景に遺譲す、正覚寺山後に納葬し慎み成りて月日を送り忌明き、家中の面々継目の御祝儀申し上げて、今度鎌倉へ出立の御供立て仰せ付けられて、吉日を改め出仕あり、急ぎ鎌倉へ参り着す、両管領へお目見え済ませ則ち父の遺譲相違なく安堵の御教書を下さり、在番仰せ付けられ翌年帰国お暇で、沼田へ帰る、家中の面々御祝の義申し上げ、此の節京都にては高氏、
(141ページ) 西国にては毛利弘元、赤松一等、駿河義元、尾張、小田原北條、甲斐信玄、越後の景虎、在国出立なし、之によりて両上杉は領関八州を責めるべく思し召しの出立なり、其の味方数を知らず、 さてまた家景男子出生しお歓び際なし、成人を待ちにけり、鎌倉では両上杉の相論互いに止む事なし、其の上小田原北條に打ち破られ、関東の数年の戦い、管領長尾景虎一人にて意を振り、其の上一類共の在所は越後が日々に横領す、箕輪の城主長尾信濃、白井の城主長尾上野之助、平井の城主長尾武蔵守、然るに長尾信濃守沼田へ入魂これあり互いにむつまじく、則ち沼田、景虎の旗下となりけり、沼田家景嫡子当年十五歳、氏神三峰山へ登り家名を改め、御供師左京、忍田舎人、和田庄司、右三人社人和田大膳神前を拝し、沼田上野之助平景貞と名乗り下向す、家中一統に恐悦す、然る処に箕輪の城主長尾信濃守より飛脚来る、其の文に曰く、我等今貴殿と入魂の上は、長く御身を結び申すべく候、之の治女を貴殿の娘に遣わすべし如何と申し越し候、家景歓びけり、急ぎ家老一人遣わすべし、則ち忍田舎人に申付け、早速罷り越し大喜びと申し、然らば婚礼は当十一月差し越し申すべしと相究め、舎人お暇乞い罷り帰る、家景へ右の段申し上げ、お歓び際なし、普請を申付け、お望みの通り程なく出来せり、十一月初旬に至り日限究めこし、迎えに大勢指越し、箕輪より沼田まで櫛のはを引き沼田に着き城内へ入りにけり、家中の面々上下お歓び申し上げる、景貞ご夫婦むつまじく、父母の御怡(およろこび)浅からず聞こえける、程過(まもなく?)上野之助景貞、箕輪の城に着す、信濃守出向き御礼済み一間にしょうじ(招じ?)景貞の立ち回りをみてお歓び浅からず、貞方へもけんざん、日本一の士と申しける、貞方の申しよう、当所鎮守は榛名大権現御座を立ち勧請?致す旨申し候、景貞尤もに思し召し、別当に申付け、沼田へ移す、当所八幡は関東初の八幡、是も勧請申すべしと、板鼻の八幡是なり、戸鹿野村に建立、榛名権現は根岸村に建立、是より御領内の総鎮守なりとて、人々敬い参詣す、其の後根岸村を榛名村と申し伝えるなり、右両社は城主より御建立なり、然る処に鎌倉管領小田原北條の威勢強く鎌倉を押し破り、管領憲政を押し払い、北條の天下の如くなり、之によりて憲政は武蔵平井へ欠け落ち、ここに暫し住居す、然る処甲斐信玄に責められここにも叶わず、越後へ逃げ廻る、景虎をたのみ、管領職を譲り隠居す、之によりて景虎威勢強く、其の頃白井長尾意元入道色々知謀を通し、入道の申す事も用いずしてついに平井落城する、憲政ここかしこにて打たれ、或は三国通りもあり、或は沼田通りもあり、沼田の内下沼田と申す所に百人ばかり待ち休みにて打たれ、湯原通り上牧小松と申す所にても打たれ、
(142ページ) 或は出水に流れ、残りは越後へ行くとて道にて打たれける、長尾信濃守、信玄に多度責められ意玄入道も打たれ、関東おおかた北條になりけり、沼田は景虎の加勢にぞ、信州川中島年々数度の戦い止むことなく、小田原北條は越後領へ押し寄せ、前橋、平井、箕輪、白井、沼田は越後領なり、景虎と度々打ち出で、また信州へ信玄を打ち出で両度戦い、不意を破る、 然れども年若く成った大将にて、其の上管領印を持ち、京都より義輝の教文を下され、輝虎と号す、北條次男を養子に致し静かなり、然る処輝虎三十九歳にて病死、此の様子をみて信玄の諸士勝頼に所し(?)、直ちに我妻郡残らず攻め取り、横谷、西窪、湯本、鎌原、四人打ち従い、是を案内人にして沼田を打ち取り申すべく、案内いたせと申す、真田弾正忠は手勢を3千引き取り、我妻より中山を通り責め落とす、それより沼田へ急げる、程なく沼田へ押し寄せ、ときの声を上げにけり、思いも寄らぬ事なれば、慌てふためき迷いける、その勢い雲霞のごとくなり、家老面々打ち寄り、兎に角城を明け降参いたすにしくはなしと声をふるえて申しける、之によりて景貞妻をつれ住し城を忍び出で、貝野瀬通りを落ち行きける、家老共真田へ降参仕り城を渡しける、矢沢但馬に騎馬相添い、諸士を籠め置き、城主景貞は出奔す、尋ね出し候わば先地を相違なく下さるべく候と触れける、景貞は妻子を引き連れ、夜に紛れて新田の方へ落ち行く、然る処金子美濃と申すもの悪逆無道のものは尋ね出し、先地に成り申さんと、則ち跡をしたい(?)、景貞に尋ね逢い、真田軍勢皆々引き帰り候、先君御一人は忍びて御帰り成されと申し候、先ず久屋通りそれより町田観音堂へ廻り、是より御しょうぞく御替え仕り、星□論よりお入りなされと申す、是れに御家来皆々打ち寄り、御迎と申し上げる、左様と思し召し、則ち本輪へ廻り門に入らんとする所、同待ち懸りし士共首撃ち落とす、其の首大将へ美濃差し上げる、則ち御ほうび下され、、其の上金子美濃儀は数代の君主を打つ事、大逆無道の悪人なり、之によりて我妻川原の穽(おとしあな?)へ入る、諸人のみせしめたるべし、其の後我と死す、海野能登、矢沢但馬、交代に城代す、 然る処小田原北條、関八州残らず納め、片地沼田を残し置くこと、之によりて軍勢押し寄せ手もなく責め落とす、城代一人たまりかね城を渡しける、其の後猪俣能登守御詮議厳しく、真田防ぐ、北條も末になり、秀吉公に責め落とされ、さてまた猪俣能登守と出奔す、関東権現公御領となる、関ヶ原陣の時の働きに付、真田安房守昌幸へ天正十八年入部、同伊豆守信幸、同元和八年大内記信政、同河内守信吉、同伊賀守信行、同弾正忠信成、六世にて天和二歳酉の十一月領地没収、おしむかな沼田の城主はじめ真田安房守貞方、
(143ページ) 本多中務大輔平八郎忠房の娘、其の上権現公御孫なり、昌幸沼田に暫し居城す、之によりて貞方お願いに付、天守まで立てる者なり、大連院殿鍛冶町正覚寺に御霊供これあり、奥方沼田領分に鎮守、信州の諏訪大明神勧請し、村ごとに立てる、其の上武尊大明神、沼田総鎮守なり、是れまた相立つべしと仰せ付けられ、真田安房守沼田物領の時節に建立致し候なり、天正十八庚寅年なり、真田伊賀守まで六世にて没収す、その濫觴(ランショウ・始まり)を尋ぬるに、伊賀守もと妾腹にて、沼田領内小川五千石にて部屋住の人、成人後なにとぞ信濃守拾万石を心懸け、常に其のこころのみ、然る処に河内守へ信州十万石家督を渡し、沼田三万石は伊賀守へ渡る、心外に請け取り、城主となる、それより松代と観音へ通わず、是より同高に致すべしと領分三万石新撿(検と同じ?)を入れ、十三万三千石に打ち出し、之によりて領分百姓へ過役を申付け、難儀日々に増し、其の上浪人を高知行にて召し抱え、年々として不勝手になる、之によりて江戸両国橋架け替えに付、いず方の地頭成るとも望みの方へ手金として三千両なりとのお触れに付、伊賀守信行、永城代の面々諸役人を召され、近年不勝手に付、我が領分に此の通りの橋木これ有るや、若年之有り候わば三千両受け取り勤め仕りたく、並びに当用にもなり、其の上材木出方は尋ね役百姓に申付け如何候と仰せ出されて、諸役人御尤もに存ぜられ候、御注文御請け書差し上げて、来年八月上旬に両国橋へ着け仕りさすべきと申し上げ候、家老並びに山奉行普請奉行兼帯役なり、連判証文差し出すべく、此の旨下書き下されて、家老之なく、根岸宮内は川田に押し込み置き、仮の城主舎人を家老と判じ(?)、山奉行宮下七太夫、麻田権兵衛右三人右連判証文を差し上げる、即ち三千両の金受け取り、首尾良しと歓びそれより藤原山、発知村、川幡(場)村、佐山村、手分け木材ご注文の通り見立て残らず根伐致し、出し方は領分の百姓役に申付け候処に、未申酉三箇年は大飢饉、百姓夫食(ふじき)之なく、材木の山出し成り申さず、年中懸りても里へも出ず、数年按立てられ候こと、其の上八月中旬の証文暮れになりても城下へも見えず、引き延ばしの返事も申さずの躰、其の上に大将家綱公に度々の乗り打ち立林様の時も之なく、無礼数度に至り、口数箇条御書き申し訳立たず、伊賀守天奏の召しで青縄かけ、宇津之宮(宇都宮か)奥平能大夫殿へ御願い、御家門の面々残らず所々へ御預け、沼田の城の破却の仰せ付け、之によりて御城請け取り、御上使には安藤対馬守、新庄因幡守、その外大勢異議なく渡し、それより天守引き倒し、堀に埋め土居崩し、一城官広原と成る、御代官竹村惣左衛門、熊沢武兵衛、新町士屋敷二軒残し置き陣屋とす、
(144ページ) 然る処に借り置きし橋木材木屋長嶋屋長兵衛へ仰せ付けられ、半年ばかりに江戸へ着す、百姓願いに付、即ち貞享元年より新撿仰せ付けられ、酒井雅樂守様へ仰せ付けられる、五百(万?)三千石余りに相定むものなり、天和元辛酉より元禄壱五壬午まで二十一年御代官所なり、
(この沼田記は続々群書類従第四の中に収録されているもので黒川本を底本としたものであるが、おそらく原文は漢文でそれの写本・印刷を経ていて、文辞拙劣、誤字脱字、誤読、誤植等あるも沼田氏についての唯一の史料ゆえに収録したと言っている。間違いがかなりあると言っても地元の人にとっては参考になる記載も多々ある。)
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