高度先進医療と社会インフラとしての医療の違い ― 2024年12月25日
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高度先進医療と社会インフラとしての医療の違い
新型コロナの惨事の時には早くから医療・介護が社会インフラとして途切れさせてはいけないものとしてその重要性を国が認識主導したのでその点では現場の我々当事者にとっては逃げる気持を払拭し背水の陣の覚悟を敷けたので良かったと思っている。そのうちの医療にはそもそも2種類ある。
一つは選択と集中の企業理念に通じる側面を持つ高度先進医療であり、もう一つは社会インフラとしての医療である。華やかな先端医療に比べて社会インフラの医療は地味である。しかしそれが無くなると社会自体が成り立たなくなるという点で大事な医療でもある。
医師の働き方改革が唱えられてもう10年以上たった(①)が状況は変わらず、今でも下記のようなDrがいるからこそ、社会インフラとしての医療は成り立っている。エールを送り秘かにありがとうと言いたい。
< 地域情報(県別)地域ニュース 【群馬】みどり市唯一の分娩施設、年500件の分娩実施‐星野正道・岩宿クリニック院長に聞く◆Vol.1 周産期医療崩壊の危機に、実家の隣の土地が売りに出て開業決断 2024年12月20日 (金)配信m3.com地域版 https://www.m3.com/news/kisokoza/1247364?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD241222&dcf_doctor=true&mc.l=1090921980 。>
――――――――――――――――――――――――――――――――
(以下は蛇足)
医師の働き方改革の始まりは梅村聡参議院議員が国会で医師も労働基準法を守るべきだと質問し、事もあろうに舛添要一厚労大臣が自分もそう思うと応答したのに始まったと思っている(②③)。たまたま当時それを見ていて “あーあ、とうとうパンドラの箱を開けてしまった” と居合わせた同僚と言ったのを覚えている。何と浅はかな(失礼)と思いながらも、もう後戻りはできないのは確かと複雑な感情に包まれたが現在に至るも未だに改革が成功したとはとても思えない。
企業も官も行政でさえも企業理念の選択と集中に浮かれていた頃でも、哲学者宇沢弘文氏は社会インフラとしての医療の大切さを理解できた数少ない有識者であった(④)。
(資料)
①厚生労働省ホーム > 政策について > 分野別の政策一覧 > 健康・医療 > 医療 > 医師の働き方改革 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/ishi-hatarakikata_34355.html 。
②第171回国会 参議院 厚生労働委員会 第8号 平成21年4月14日(発言No095梅村聡質問、096 舛添要一答弁) https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117114260X00820090414&spkNum=75¤t=5 。
③パンドラの箱を開けるのは今―宿直問題は国民的議論の入口にすぎません!梅村聡(参議院議員)2009/05/11 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/mric/200905/510465.html 。
④日本医師会 日医NEWS 第1012号(平成15年11月5日)オピニオン―各界有識者からの提言―ヒポクラテスの誓いと,社会的共通資本としての医療 宇沢弘文(日本学士院会員,東京大学名誉教授) https://www.med.or.jp/nichinews/n151105i.html 。
(以下追加分、時系列で其の他の関連事象を思いつくまま下記に列記してみた)
・1998年川崎協同病院事件がおきた。(しかし裁判では、本来の筋と混同され、裁判官の理解の限界が見えた事件であった)。
・1999年横浜市大附属病院患者取り違え事件(この頃より医師バッシングが始まった。今では診療援助の表現になったが当時はバイトと表現して厳禁と厳しく扱われ、まず麻酔科医確保が困難になって民間麻酔科医プールを持つ開業医からの派遣に頼る以外方法が無くなった。医師不足は麻酔医不足から始まっていたが、更に悪化し手術料収入が麻酔医手当で消えてしまうという珍現象が出現した時期でもあった。社会の専門医信仰故に手術には麻酔医が必須とされるようになっていた。それ以前は外科医が麻酔の研修もして麻酔医不足は目立たなかったが世情がそれを許さなくなった、専門医信仰の一端である。)。
・1999年東京都立広尾病院事件(最高裁が、医師法第21条の検案を「死体の外表を検査すること」との限定解釈を出した。以後これが法律上の異状死体の医師届出義務の定義となったが、実際の自治体の指導では毎年更新している厚労省死亡診断書記入マニュアルに基づき病死自然死以外はすべて外因死として警察への届出は今尚変わらず、現在でも相変わらず義務付けている。要するにH27年の医療事故報告制度施行後も肝心の問題は何も解決していないのである)。
・2002年~、ナンバー講座制から臓器別講座制へ(一人の患者が臓器別診療科に受診して回る専門医信仰の始まりで複合疾患が当たり前の患者にとっては個人医療費も倍増しても不満は出ていないしむしろ複数科受診を希望さえしている。内科も内科と言う科は無くなったと一部で揶揄されるようになった。2018年新専門医制度で正式に総合診療科が基本領域として設置されたが2024年の現在もそれは未だに定着していない。抑々病気を見て病人を見ないとの悪弊はそれ以前より既に医療界では戒められていたが公認されてしまうようになった)。
・2003年横浜市堀病院事件(警察の横暴と医師側からの反発が起きて、大きな社会問題になったが警察の捜査課長も厚労省看護課長も看護協会もルール通りと嘯き木で鼻を括る応答をしたのみであり、その後通知で条件付き許可は出たが既に遅しで以後お産難民が各地で発生するようになった)。
・2004年福島県立大野病院事件。(社会的医療と純粋医学的医療の判断は分ける必要があると自覚の有無に係りなく医師が実感するようになる頃でもあった。その医師の無罪判決が出たのは4年後であった。亡くなった妊婦に対して良かれと思って書いた県による公費出費理由が警察介入逮捕のきっかけになったと記憶している。)
・2004年~この頃より企業理念の「選択と集中」が国の政策にも取り入れられてきた。これは企業にこそ必要な理念と思われたが、何故か官と行政が社会インフラの医療システムにまで取り入れるようになって医療界も大きな流れに飲み込まれていった。例えば行政と大学が産科医や小児科医を僻地から引き剥がし中央に集めたこともあった。当然周辺小病院には医師がいなくなる。医師を初め医療資源が限られる中で医師余り・看護師余りの共通概念が逆回転し始めて不足に転じた頃でもあり、引き続く2006年の7:1導入は一気に看護師不足に拍車をかけた。それまでの医師抑制策が増加策に逆転したのも2008年だった。
・2006年 射水市民病院事件。(この事件以後、救急蘇生の現場が変わった。個人的には一時的にでも人工呼吸器を取り付けるべきではないかと思われる症例でさえ一旦装着すれば外せなくなるとして救急現場等で躊躇するようになったのである)
・2006年『医療崩壊: 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』小松秀樹著が発刊された。(これがベストセラーとなる。世の中には優秀な人がいるものだと上手い表現に感心する中で、でも話せば分かるはずと自分は苦闘している中でこんなことでは医療が成り立たないと本省の訟務専門官にも聞きに言ったが全く得るものが無かった頃である)
・2006年の診療報酬改定で7対1看護体制が導入された。(当時の本省の看護課長自身があまりにも大きい影響にたじろいだが、厚労省から取り消されることなく条件を厳しくしながら今もなお存続している(国は一旦決めると戻せないという無謬主義の典型例であった)。当時東大病院が全国看護学校行脚をして一気に300人看護師採用したのはあまりにも有名である。当然ながら地方の病院の看護師余りはその年に一気に著明不足に逆転した。診療報酬上の7:1看護の発想の原点を遡ると『にわか役人奮闘記』を書き看護師余りの将来予測を先取りした久常節子元本省看護課長だった。)
・2006年8月奈良県大淀病院事件(32才妊婦たらい回し事件、脳出血で死亡。)
・2007年8月同じく奈良県たらい回し事件(今度は38才妊婦で救急車からの救急要請16回の末に死産、奈良県立医大病院は空きベッドがあったのに断ったとマスコミによる医療バッシングが行われ、その過程で全国の産科救急の過酷な実態が明らかになった。この年には11月にも札幌未熟児たらい回し事件が報道された。
しかしこの頃より逆にたらい回しが当たり前になり社会も専門医がいないのだからと容認に逆転してきた頃でもある。たらい回しこそ避けるべきであるとのそれまでの医師(医療界)の常識が、世間の専門医信仰と相まって覆されるようになったのである。萎縮医療・小間切れ医療を患者側も医療側も容認するようになった頃でもある。以来今に至るまで救急たらい回しがあっても世間もマスコミも専門医がいないので当たり前と受け入れている珍現象の不思議が続いている。)
・2007年日本学術会議が「公開シンポジウム「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」」を開催。(既に医療崩壊は生じていたのであるが、日本の有識者は何を考えているのかと思いつめ清水の舞台から飛び降りる位の覚悟で六本木に行ったが有識者のレベルはこんな程度のものだったのかとがっかりして帰った。以来日本学術会議には不信を持っている。)
・2007年12月28日厚労省通知が出る<医師及び医療関係職と事務職員等との間等での役割分担の推進について(通知)医政発第1228001号平成19年12月28日>。(よし、これで明日からは世の中が良い方に変わると希望を抱いた通知であったが、変わる兆しはその後も全く見えなかった。世の動きとはこういうものなのかとがっかりした出来事だった)。
・2008年 それまで医療費亡国論から始まり引き続く小泉内閣等の医師数抑制策が一転、舛添厚労大臣主導で医師増加策に逆転した。
・2008年専門医信仰の始まり(日本専門医制評価・認定機構が出来る)。(臓器別講座制が導入される以前より医師の役割は専門馬鹿になってはいけないと自浄作用が働いていたが、臓器別講座制が始まり社会的にも専門医信仰が助長されるようになり、縦割り専門医の弊害も既に指摘されているにも係らず現実は逆行しており、その後2018年に正式に総合診療科も創設されたが6年経っても旧態依然のままで細切れ医療が当たり前の世情になり現在に至っている)
・2008年都立墨東病院事件。(36才妊婦が脳出血で死亡、赤ちゃん無事、たらい回しの末に死亡したとマスコミによる病院バッシングがあったが気丈にも夫は「病院にはお世話になった、誰も責めるつもりはない、担当医は辞めないでいて欲しい」といったという。現場医療者にはせめてもの慰めにはなったと思われる。)
・2009年3月東京の恩賜財団愛育病院が労基署の指導を受け、それでは病院運営が遂行できないとして総合周産期母子医療センターの認定を返上した。
・2009年4月14日、国会質問に対して舛添厚労大臣が医師働き方改革の必要性に同意して労働基準法を守るべきと答弁して自らパンドラの箱を開けた。前年の2008年に舛添大臣によって医師増員に急転するまでは長らく医師余り看護師余りが疑うことなく予測されていて医学部定員制限や看護学校統廃合が実際行われていたのである。このパンドラの箱が開けられてからは更に医師不足・看護師不足の世相は専門医信仰と相まって坂道を転げ落ちるように一変して行った。今もなお混沌の状況から抜け出せてはいない。
高度先進医療と社会インフラとしての医療の違い
新型コロナの惨事の時には早くから医療・介護が社会インフラとして途切れさせてはいけないものとしてその重要性を国が認識主導したのでその点では現場の我々当事者にとっては逃げる気持を払拭し背水の陣の覚悟を敷けたので良かったと思っている。そのうちの医療にはそもそも2種類ある。
一つは選択と集中の企業理念に通じる側面を持つ高度先進医療であり、もう一つは社会インフラとしての医療である。華やかな先端医療に比べて社会インフラの医療は地味である。しかしそれが無くなると社会自体が成り立たなくなるという点で大事な医療でもある。
医師の働き方改革が唱えられてもう10年以上たった(①)が状況は変わらず、今でも下記のようなDrがいるからこそ、社会インフラとしての医療は成り立っている。エールを送り秘かにありがとうと言いたい。
< 地域情報(県別)地域ニュース 【群馬】みどり市唯一の分娩施設、年500件の分娩実施‐星野正道・岩宿クリニック院長に聞く◆Vol.1 周産期医療崩壊の危機に、実家の隣の土地が売りに出て開業決断 2024年12月20日 (金)配信m3.com地域版 https://www.m3.com/news/kisokoza/1247364?dcf_doctor=true&portalId=mailmag&mmp=MD241222&dcf_doctor=true&mc.l=1090921980 。>
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(以下は蛇足)
医師の働き方改革の始まりは梅村聡参議院議員が国会で医師も労働基準法を守るべきだと質問し、事もあろうに舛添要一厚労大臣が自分もそう思うと応答したのに始まったと思っている(②③)。たまたま当時それを見ていて “あーあ、とうとうパンドラの箱を開けてしまった” と居合わせた同僚と言ったのを覚えている。何と浅はかな(失礼)と思いながらも、もう後戻りはできないのは確かと複雑な感情に包まれたが現在に至るも未だに改革が成功したとはとても思えない。
企業も官も行政でさえも企業理念の選択と集中に浮かれていた頃でも、哲学者宇沢弘文氏は社会インフラとしての医療の大切さを理解できた数少ない有識者であった(④)。
(資料)
①厚生労働省ホーム > 政策について > 分野別の政策一覧 > 健康・医療 > 医療 > 医師の働き方改革 https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/ishi-hatarakikata_34355.html 。
②第171回国会 参議院 厚生労働委員会 第8号 平成21年4月14日(発言No095梅村聡質問、096 舛添要一答弁) https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=117114260X00820090414&spkNum=75¤t=5 。
③パンドラの箱を開けるのは今―宿直問題は国民的議論の入口にすぎません!梅村聡(参議院議員)2009/05/11 https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/opinion/mric/200905/510465.html 。
④日本医師会 日医NEWS 第1012号(平成15年11月5日)オピニオン―各界有識者からの提言―ヒポクラテスの誓いと,社会的共通資本としての医療 宇沢弘文(日本学士院会員,東京大学名誉教授) https://www.med.or.jp/nichinews/n151105i.html 。
(以下追加分、時系列で其の他の関連事象を思いつくまま下記に列記してみた)
・1998年川崎協同病院事件がおきた。(しかし裁判では、本来の筋と混同され、裁判官の理解の限界が見えた事件であった)。
・1999年横浜市大附属病院患者取り違え事件(この頃より医師バッシングが始まった。今では診療援助の表現になったが当時はバイトと表現して厳禁と厳しく扱われ、まず麻酔科医確保が困難になって民間麻酔科医プールを持つ開業医からの派遣に頼る以外方法が無くなった。医師不足は麻酔医不足から始まっていたが、更に悪化し手術料収入が麻酔医手当で消えてしまうという珍現象が出現した時期でもあった。社会の専門医信仰故に手術には麻酔医が必須とされるようになっていた。それ以前は外科医が麻酔の研修もして麻酔医不足は目立たなかったが世情がそれを許さなくなった、専門医信仰の一端である。)。
・1999年東京都立広尾病院事件(最高裁が、医師法第21条の検案を「死体の外表を検査すること」との限定解釈を出した。以後これが法律上の異状死体の医師届出義務の定義となったが、実際の自治体の指導では毎年更新している厚労省死亡診断書記入マニュアルに基づき病死自然死以外はすべて外因死として警察への届出は今尚変わらず、現在でも相変わらず義務付けている。要するにH27年の医療事故報告制度施行後も肝心の問題は何も解決していないのである)。
・2002年~、ナンバー講座制から臓器別講座制へ(一人の患者が臓器別診療科に受診して回る専門医信仰の始まりで複合疾患が当たり前の患者にとっては個人医療費も倍増しても不満は出ていないしむしろ複数科受診を希望さえしている。内科も内科と言う科は無くなったと一部で揶揄されるようになった。2018年新専門医制度で正式に総合診療科が基本領域として設置されたが2024年の現在もそれは未だに定着していない。抑々病気を見て病人を見ないとの悪弊はそれ以前より既に医療界では戒められていたが公認されてしまうようになった)。
・2003年横浜市堀病院事件(警察の横暴と医師側からの反発が起きて、大きな社会問題になったが警察の捜査課長も厚労省看護課長も看護協会もルール通りと嘯き木で鼻を括る応答をしたのみであり、その後通知で条件付き許可は出たが既に遅しで以後お産難民が各地で発生するようになった)。
・2004年福島県立大野病院事件。(社会的医療と純粋医学的医療の判断は分ける必要があると自覚の有無に係りなく医師が実感するようになる頃でもあった。その医師の無罪判決が出たのは4年後であった。亡くなった妊婦に対して良かれと思って書いた県による公費出費理由が警察介入逮捕のきっかけになったと記憶している。)
・2004年~この頃より企業理念の「選択と集中」が国の政策にも取り入れられてきた。これは企業にこそ必要な理念と思われたが、何故か官と行政が社会インフラの医療システムにまで取り入れるようになって医療界も大きな流れに飲み込まれていった。例えば行政と大学が産科医や小児科医を僻地から引き剥がし中央に集めたこともあった。当然周辺小病院には医師がいなくなる。医師を初め医療資源が限られる中で医師余り・看護師余りの共通概念が逆回転し始めて不足に転じた頃でもあり、引き続く2006年の7:1導入は一気に看護師不足に拍車をかけた。それまでの医師抑制策が増加策に逆転したのも2008年だった。
・2006年 射水市民病院事件。(この事件以後、救急蘇生の現場が変わった。個人的には一時的にでも人工呼吸器を取り付けるべきではないかと思われる症例でさえ一旦装着すれば外せなくなるとして救急現場等で躊躇するようになったのである)
・2006年『医療崩壊: 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』小松秀樹著が発刊された。(これがベストセラーとなる。世の中には優秀な人がいるものだと上手い表現に感心する中で、でも話せば分かるはずと自分は苦闘している中でこんなことでは医療が成り立たないと本省の訟務専門官にも聞きに言ったが全く得るものが無かった頃である)
・2006年の診療報酬改定で7対1看護体制が導入された。(当時の本省の看護課長自身があまりにも大きい影響にたじろいだが、厚労省から取り消されることなく条件を厳しくしながら今もなお存続している(国は一旦決めると戻せないという無謬主義の典型例であった)。当時東大病院が全国看護学校行脚をして一気に300人看護師採用したのはあまりにも有名である。当然ながら地方の病院の看護師余りはその年に一気に著明不足に逆転した。診療報酬上の7:1看護の発想の原点を遡ると『にわか役人奮闘記』を書き看護師余りの将来予測を先取りした久常節子元本省看護課長だった。)
・2006年8月奈良県大淀病院事件(32才妊婦たらい回し事件、脳出血で死亡。)
・2007年8月同じく奈良県たらい回し事件(今度は38才妊婦で救急車からの救急要請16回の末に死産、奈良県立医大病院は空きベッドがあったのに断ったとマスコミによる医療バッシングが行われ、その過程で全国の産科救急の過酷な実態が明らかになった。この年には11月にも札幌未熟児たらい回し事件が報道された。
しかしこの頃より逆にたらい回しが当たり前になり社会も専門医がいないのだからと容認に逆転してきた頃でもある。たらい回しこそ避けるべきであるとのそれまでの医師(医療界)の常識が、世間の専門医信仰と相まって覆されるようになったのである。萎縮医療・小間切れ医療を患者側も医療側も容認するようになった頃でもある。以来今に至るまで救急たらい回しがあっても世間もマスコミも専門医がいないので当たり前と受け入れている珍現象の不思議が続いている。)
・2007年日本学術会議が「公開シンポジウム「医療を崩壊させないために:医療システムのゆくえ」」を開催。(既に医療崩壊は生じていたのであるが、日本の有識者は何を考えているのかと思いつめ清水の舞台から飛び降りる位の覚悟で六本木に行ったが有識者のレベルはこんな程度のものだったのかとがっかりして帰った。以来日本学術会議には不信を持っている。)
・2007年12月28日厚労省通知が出る<医師及び医療関係職と事務職員等との間等での役割分担の推進について(通知)医政発第1228001号平成19年12月28日>。(よし、これで明日からは世の中が良い方に変わると希望を抱いた通知であったが、変わる兆しはその後も全く見えなかった。世の動きとはこういうものなのかとがっかりした出来事だった)。
・2008年 それまで医療費亡国論から始まり引き続く小泉内閣等の医師数抑制策が一転、舛添厚労大臣主導で医師増加策に逆転した。
・2008年専門医信仰の始まり(日本専門医制評価・認定機構が出来る)。(臓器別講座制が導入される以前より医師の役割は専門馬鹿になってはいけないと自浄作用が働いていたが、臓器別講座制が始まり社会的にも専門医信仰が助長されるようになり、縦割り専門医の弊害も既に指摘されているにも係らず現実は逆行しており、その後2018年に正式に総合診療科も創設されたが6年経っても旧態依然のままで細切れ医療が当たり前の世情になり現在に至っている)
・2008年都立墨東病院事件。(36才妊婦が脳出血で死亡、赤ちゃん無事、たらい回しの末に死亡したとマスコミによる病院バッシングがあったが気丈にも夫は「病院にはお世話になった、誰も責めるつもりはない、担当医は辞めないでいて欲しい」といったという。現場医療者にはせめてもの慰めにはなったと思われる。)
・2009年3月東京の恩賜財団愛育病院が労基署の指導を受け、それでは病院運営が遂行できないとして総合周産期母子医療センターの認定を返上した。
・2009年4月14日、国会質問に対して舛添厚労大臣が医師働き方改革の必要性に同意して労働基準法を守るべきと答弁して自らパンドラの箱を開けた。前年の2008年に舛添大臣によって医師増員に急転するまでは長らく医師余り看護師余りが疑うことなく予測されていて医学部定員制限や看護学校統廃合が実際行われていたのである。このパンドラの箱が開けられてからは更に医師不足・看護師不足の世相は専門医信仰と相まって坂道を転げ落ちるように一変して行った。今もなお混沌の状況から抜け出せてはいない。
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