何故昭和天皇は軍部の暴走を止められなかったか。 ― 2019年09月18日
大戦前の昭和天皇、「国家主権は天皇にある」かつ「君臨すれども統治せず」の意味と実態について、
大部分の国民が抱いているであろうと思われる「何で天皇は大権があるのに、軍部の独走や戦争を、抑えられなかったのであろう」という素朴な疑問は、ないわけではないと思う。インターネット上でも未だにそれぞれの言い分が錯綜している。それも一理ある、あれも一理ある、と百家鳴騒/百家争鳴である。自分なりに整理してみる必要がありそうなので表記をキーワードにして考えてみた。
「国家主権」という言葉は、法律学上は「天皇主権説」も「天皇機関説」も両方含む用語だという。更に現在の日本の「国民主権」をも含む言葉という。
明治23年11月29日大日本帝国憲法が施行されて以来、第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、第4条の「天皇ハ・・統治権ヲ総攬シ」の解釈には天皇主権説(=天皇主体説)と天皇機関説の2説があり、初め学者による天皇主権説・天皇機関説の両者は拮抗していたが次第に天皇機関説をとる学者が多くなり、大正2(1913)年には両者の論争にけじめがつき法律論上は天皇機関説が勝った。天皇機関説は大日本帝国憲法が出来てから、明治・大正と30年余りに亘って昭和10年まで、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説であるという。昭和天皇は、大正10年からは大正天皇に代わって摂政となって既に代行していた。
天皇主権説は、議会や内閣を超越した絶対統帥権限が天皇にある、という解釈である。一方、天皇機関説(昭和天皇の言う天皇=機関=器官)は、国家という法人に主権があり天皇はその統治機構の一機関(=器官)であるので天皇の統帥権は内閣や議会の輔弼のもとに成り立つ、という憲法の条文に沿った解釈であるという。司法や軍部の統帥権は議会や政府から独立していた天皇大権とされていたが、行政・立法側は輔弼(55条)・協賛(5条64条)の資格をそれぞれ有していたため、国権(国家主権)の運用の実態は天皇機関説に沿って為されていた。
天皇機関説(昭和天皇は人体に例えて天皇器官説でも良いではないかと云った)をとる美濃部達吉は、主権について、統治権が天皇個人に属するとすれば国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとし、国務大臣の輔弼を必要とするという帝国憲法規定にも矛盾が生じ、国務大臣の責任も議会の信任も必要なくなるので帝国憲法規定に矛盾が生じるとした。更に国権の任命権が超越した天皇にあるとすると瑕疵が生じた場合は任命権者である天皇の責任になり、万世一系の絶対君主天皇論が成り立たなくなるという。そのため形式上は元老(明治維新の元老が高齢化した後は内大臣)が推薦責任を負って天皇が認可するという形式をとっていたという。
しかしながら、昭和5年統帥権干犯問題・昭和6年三月事件同十月事件のクーデター未遂・昭和7年の五・一五事件等で力で黙らせる軍部の発言力が強まり政党政治が瓦解してしまった。
昭和9(1934)年には「国体明徴運動」が起こり、憲法学者や昭和天皇が天皇機関説を支持しているにもかかわらず天皇機関説の美濃部達吉は国会等で排撃され始めた。
翌10年には「国体明徴声明」を岡田内閣が軍部の圧力に屈して出してしまい、天皇機関説を異端学説として葬ってしまった。貴族院本会議において軍人議員の菊池武夫(中世の南朝方菊池氏の末裔で、足利尊氏さえも逆賊として糾弾した)により天皇機関説非難の演説が行われ軍部や右翼による機関説と美濃部達吉への排撃が激化した。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行い自己の学説の正当性を説いた。この時の美濃部の理路整然とした演説に議場は満場水をうったような静けさだったという。しかしその著書は発禁処分、美濃部は不敬罪の疑いで検事局の取り調べも受け、同年9月美濃部は貴族院議員を辞職し公職を退いた。
更に翌11年2月21日右翼暴漢により美濃部達吉が襲われて重傷を負い、その審理の過程で警護巡査のピストル弾丸による疑いも出て弾丸線条痕で目先の犯人とは別人のものもあると確認されたが警視庁は協力をせずその真犯人は未だに不明という。更に翌12年には文部省が「国体の本義」を編纂して国体明徴運動に理論的意味付けをしてしまった。
憲法上も軍・政府・議会は同等の権限のもとに独立していたために、軍の発言力が政府・議会を無視して暴走するようになり、あからさまな軍国主義に陥って行った。自分たちの要求が通らないのは天皇を取り巻く君側の奸によるものと若手皇道派が勝手きに決めつけて昭和維新断行を掲げて昭和11年の二・二六事件が暴発した。昭和天皇の意思とは無関係に、また憲法学者の意見も無視して、天皇主権説が前面に出てくる中で、軍予算削減等の国家予算の使い方に不満を持った軍幹部が狭視野の若手将校たちを焚付けていたためであった。
こうなると学問上の解釈や説よりも通念上での大衆への浸透の有無の方が大きな力を持ってしまったということになる。
昭和天皇自身は大正天皇の摂政(大正10年11月より摂政)の頃から天皇機関説に賛成であり、「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と言い、「君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ」とも述べていたという。
もともと大日本帝国憲法下では天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていたという。昭和3年の張作霖爆殺事件の処理に関して総理の田中義一を叱責・退陣させて以降はさらにその傾向が強まった。昭和天皇は激怒し田中は落涙して総辞職した。29歳だった昭和天皇は後年の独白録で「若気の至り」と反省し「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」と云った。昭和天皇が政治に介入してしまった具体例である。「元老西園寺公望もこの時には『今後は余計な事は言ってはなりません、それは憲法違反になりますから』と昭和天皇に奏上したのではないか」と半藤一利は推定している。宮中内においても牧野内大臣・鈴木侍従長が会談を持ち政変や天皇と陸軍との関係不和を心配していた。
天皇機関説が当然と受け取っていた昭和天皇は、皇道派の思想に靡いていた秩父宮(皇位継承者第1位であった)の考え方も否定していた。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げた。(Wikipedia)。
大戦末期の昭和19(1944)年、確たる信念を持たず気の弱い近衛文麿が、木戸内大臣を通じて昭和天皇に「戦争指導に行き詰まり経済・社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏したことに対し、天皇は次のように、「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)、と論駁した。
大戦後の昭和26年11月11日に近畿巡幸に向かう特別列車の車内で田島宮内庁長官に昭和天皇は、「私の退位云々の問題ニついてだが」と切り出し、「帝王の位といふものは不自由な犠牲的の地位である/その位を去るのはむしろ個人としてハ難有(ありがた)い事ともいへる 現ニマ元帥が生物学がやりたいのかといつた事もある。/地位ニ止まるのは易きニ就くのではなく難きニ就き 困難ニ直面する意味である」と力説した。これに対して田島長官は「恐れ多くございますが/陛下は法律的ニハ御責任なきも道義的責任がありと思召(おぼしめ)され此責任を御果しになるのに二つあり、一つは位を退かれるといふ消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建の為に困難な道ニ敢て当らうと遊ばす事と存じます そして陛下は只今も色々仰せになりましたやうに困難なる第二の責任をとる事の御気持ちである事を拝しまするし 田島の如きはいろいろ考へまして その方が日本国の為であり結構な結論と存じまする」と述べたと記されている。(田島道治宮内庁長官の昭和天皇「拝謁記」)。
統帥権干犯問題:
大正11(1922)年のワシントン会議、昭和5(1930)年のロンドン会議で、日本、米国、英国などの主要国は、アジア・太平洋の地域秩序を確立するために、中国の主権尊重・門戸開放、海軍力制限等の三つの条約を締結した。ワシントン体制と呼ばれるこの国際協調秩序確立と海軍力制限に大日本帝国海軍軍令部は強く反発した。当時の加藤寛治海軍軍令部長はロンドン条約調印に反対するため、 裁可の直後の4月2日に直接、昭和天皇に抗議して辞表を提出した。しかし昭和天皇は浜口内閣のロンドン条約調印決定を裁可した。濱口雄幸首相は昭和天皇の裁可を得て英断を行ったが同5年11月14日右翼に襲われて重傷を負い翌年死亡した。
統帥権干犯問題の本質は「陸海軍は天皇に直属する」という憲法の規定を盾に軍部が政府を無視して暴走することができたという点にあるという。
元軍神の東郷平八郎元帥も引っ張り出して軍部が反対し昭和天皇伯父の伏見宮博恭王元帥(海軍皇族の代表)も海軍力制限に強く反対したが天皇は裁可した。海軍は条約派と艦隊派に分かれて紛糾していたが、その後に艦隊派の肩を持つ伏見宮は対米英戦を避けようとする条約派の将官をその後徹底的に追放して、米国を仮想敵国とする艦隊派を多く採用した。これが対米開戦に繋がったという。
二・二六事件:
陸軍皇道派が、君側の奸の尊王討奸・昭和維新断行を掲げて、天皇を中心とした軍事政権を樹立しようとした。
26日未明の決起直後に決起部隊代表が官邸に行き川島義行陸相が軟弱だと責められて陸相は決起をみとめた。その直後川島陸相は元陸軍大将で参事官の真崎甚三郎と対談し陸軍政権樹立を決めた。決起部隊は政権のトップに真崎を祀り上げる予定だったという。同じ頃、神(天皇34歳)が伏見宮(海軍軍令部総長、海軍軍人皇族の代表)に会っていた。不安を抱く天皇に伏見宮は海軍が決起部隊に加わる心配はないと伝えた。軍隊が秩父宮を代わりに天皇に担ぐという噂が有り、軍部からは大元帥として仕事を天皇はしていないと言われていた。秩父宮は決起部隊の安藤輝三と交流を持ち、天皇の親政の必要性や憲法停止も考えるべきであるとの意見を持っていて昭和天皇と激論したことがあり「秩父宮の考えは断じて不可」と昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に言ったこともあるという。
不安を抱く昭和天皇はこの時に伏見宮から海軍が同調しないことを確認して、更にその海軍陸戦隊の指揮官の人選には部下を十分握り得る指揮官にするようにとも気を使った。陸軍には模様眺めの上層部が沢山いた。海軍が同調しないことを確認した天皇は海軍に大海令を出して鎮圧に踏み出した。海軍は陸軍との市街戦も覚悟していた。海軍の一部には反乱軍に同情的な者もいて、小笠原長生元海軍中将は軍政府樹立に奔走していた。
27日決起部隊から海軍軍令部にもTELがあり、岡田中佐が出向く。岡田は決起の趣旨を否定せず相手の出方を見極めようとしていた。
同日午後9時決起部隊がトップに担ごうとした真崎大将が石原莞爾大佐と会い鎮圧説得に動き出した。真崎・石原は7―9割の確実性で説得は成功すると考えていたというが実際は説得に失敗した。両者の事態の捉え方が甘いという象徴的な事実である。一旦暴走すれば窮地に追い込まれて、窮鼠は却って猫を咬む、を理解していなかった。
28日午前5時天皇の奉勅命令がでた。しかし陸軍小藤大佐は反乱軍に奉勅命令を伝えずあいまいな態度をとり続けた。しかし雰囲気から決起部隊は陸軍上層部が反乱軍と位置付けたことに気付いた。決起部隊は海軍の岡田中佐とも交渉決裂した。同日午後9時決起部隊磯部浅一から陸軍にTELして文部大臣官邸にて近衛師団の山下大尉と会談、天皇の御意志を聞きたいと訪ねてきた。会談は決裂、山下は皇族の邸宅を傷付けないように気を付けろとだけ伝えて別れた。決起部隊は天皇に訴える道筋を次々に失って行き、市民に向けて自分たちは天皇に背いたわけではない、天皇と国民のためにクーデターを起こしたと訴え始めた。決起した青年将校らは、君側の奸を排除すれば天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていた。事件の詳細を知らない国民たちは妥協するなと激励し感謝の言葉を送っていた。
決起部隊が天皇に意志を直接伝えたいと閑院宮陸軍参謀総長宅前で閑院宮を待った。閑院宮(陸軍軍人皇族の代表)を通じて天皇に意志を伝えようとしたが閑院宮に会えなかった。
29日午前2時40分、前夜から噂が飛び交わっていたが、秩父宮(安藤輝三・西田税ら国体原理派から担がれていた。皇位第一継承者。昭和8年明仁親王が生まれて皇位継承者から外れた。)を奉戴して行動するとの具体情報が鎮圧部隊に入った。同早朝から陸軍鎮圧部隊は本格的な鎮圧に動き出した。海軍陸戦隊も攻撃準備を完了していた。同10:05AM頃より決起部隊の一部が降伏し始めた。1:00PM平定した。陸軍上層部は天皇と決起部隊との間で迷走を続けたが、平定後の陸軍は組織の不安は取り除いたと宣言し、事件の責任は決起将校とその思想家にあると断定した。これを契機に政治家も財界人も軍部に本格的に抵抗する気力を失って行った。軍部に軽視されていた天皇は結果的にクーデターを鎮圧したとしてその権威(神格化)を高めていき軍部はその権威を利用していく。
海軍は1週間前より不穏な動きを掴んでいた。昭和11年2月19日に東京憲兵隊長が海軍省次官に首謀者名と被襲撃者の実名を挙げて陸軍皇道派将校らが決起することを報告していた。(全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る - NHKスペシャルなど)
決起将校の一人磯部浅一は処刑前の獄中手記で天皇機関説を悪と断定しており、「陛下の側近は国民を圧する奸漢で一杯でありますゾ」と書き、更に新聞記事で天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と側近に語ったとの新聞記事を読んで激怒し「毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております、天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」と記したという。磯部浅一は1年後に銃殺刑になった時天皇陛下万歳は唱えなかった。また決起将校らは昭和維新の詔勅と真崎への大命降下という計画を立てており、真崎は決起直後に反乱軍が占拠する陸軍大臣官邸に行き更に伏見宮と共に参内して伏見宮が昭和天皇に会ったが昭和維新については相手にされずやむを得ず反乱軍に和する大臣告示を出した。磯部浅一は獄中で、軍法会議での真崎の態度に幻滅し真崎を呼び捨てにして激しく非難した。真崎は226事件では有罪を求刑されたが無罪となりその後も生き、第二次大戦による東京裁判でも責任転嫁と自己弁明に終始して無罪となり昭和31年,79才で死亡。皇道派の首領の荒木貞夫は予備役に退かされ第二次大戦では終身刑になったがその後釈放されて昭和41年,90才で死亡。皇道派が激化するきっかけを作った菊池武夫元陸軍中将は東京裁判でA級戦犯とされたが無罪となり昭和30年,81才で死亡。
大日本帝国憲法下では総理大臣の任命規定がなく権限は弱く、元老が総理大臣を指名して天皇が大命降下で組閣を命ずるという方法を執っていたが元老の高齢化でその数が減り機能しなくなり、天皇が内大臣(内務大臣とは別で飛鳥時代よりある令外官)に諮問し、内大臣が「重臣」(首相経験者など)と協議して候補者を絞りこんで奉答する態勢になって行っていたという。
また二・二六事件の思想犯として西田税と共に民間人の北一輝が銃殺刑に処せられたが、北一輝の思想は当時の天皇制は否定していたが天皇主権論者あるいは国体原理主義者等とは別次元の思想であり、むしろ戦後民主主義に近かったと思われ、大戦後の日本国憲法には北一輝の考え方が反映されているともいう。
「君臨すれども統治せず」:
「国王は君臨すれども統治せず」とは、西欧において1500年代より言われており、国王の監督のもとにある連合共和国家における政治原則を要約した言葉として広く言われてきていたという。
日本においては、明治新政府が近代的な国家体制を模索する中で、大英帝国やドイツ帝国などのヨーロッパの立憲君主制国家をモデルとして目指すようになった。それぞれ「君臨すれども統治せず」の理念を遂行する方法論には違いがあり、一部で言われる「イギリスの政治制度を誤解した」という見方は当らないようである。伊藤博文らはベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。そして憲法の草案過程では明治14年の政変等の生みの苦しみがあり、大日本帝国憲法の明治22年公布してからその施行前の明治23年10月12日には「国会開設の勅諭」を出し政治的休戦と内乱の企ては処罰するとして憲法議論終了の厳しい態度で臨んだという。
当時の有識者たちが日本に合うように導入しようとして、明治14年の政変等を経て、大日本帝国憲法を構築したものと考えられる。
「統治せず」というのは自我としての天皇自らの意見を強要しないということで、天皇としての意見を言わないわけではない。実際折ある毎に言っていたようである。それでも聞かぬふりをして重臣が自我の意見を臣下の総意であるかのように押し通したり、上意下達・下意上達の情報交換の分断をすることの弊害が出るか出ないかの問題のようである。現在に言うホウレンソウ(報告・連絡・相談)という正確な相互の情報伝達は、「これで必要十分」という有り方はないのが、相変わらずの現実である。
昭和天皇は、政治・外交に関して自分の考えを大臣・重臣たちにかなりはっきりと伝えており、大臣・重臣も自分たちの意見を昭和天皇に伝えていて、互いに議論もしていたという。彼らは必ずしも、昭和天皇の意見に賛同したわけではなく、御前会議など正式の会議で決まったことについては、昭和天皇はたとえそれが自分の考えと違っていても、一切反対はしなかったという。「大日本帝国憲法の規定により、正式な会議で決まったことは天皇も守らなければならない」と昭和天皇は、考えていたからだという。ただ、正式に会議で決まる前は自分の意見を述べても構わないとも考えていたという。
このような考え方は昭和天皇だけでなく、明治天皇も同じで、明治天皇は日清戦争に反対だったが、御前会議で決まったらそれを了承していた。しかし、「日清戦争は、朕の戦争ではない」とも言ったという。
会議の席では声の大きい方が勝ってしまいがちというよくある悪弊を避けるべきことが如何に会議出席者にとって必要な義務であるかを示している。
もし、明治天皇や昭和天皇が天皇主権説に同調していたら、今の日本の天皇制もあり得なかったと思われる。目先の正しいか正しくないかの議論よりも、正邪を超えた国造りには、揺るがぬ理念を保つことがいかに重要であるか、を考えさせられる。そして国民の素朴な疑問にも向き合っていないと極端を好む国民からは国が見放されるようだと歴史を調べていて思う。
(9/25追記: 田島道治宮内庁長官の昭和天皇「拝謁記」について:NHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~(総合 2019年8月17日(土) )が新事実と放映した内容は正確に言うと、『昭和天皇と田島道治と吉田茂』人文館2006年加藤恭子著、で既に明らかになっていたことに、より詳細な根拠を与えたに過ぎないものでありNHKが新事実が出たと報道したのは言い過ぎだと原武史は『文芸春秋』10月号2019、で指摘している。)
大部分の国民が抱いているであろうと思われる「何で天皇は大権があるのに、軍部の独走や戦争を、抑えられなかったのであろう」という素朴な疑問は、ないわけではないと思う。インターネット上でも未だにそれぞれの言い分が錯綜している。それも一理ある、あれも一理ある、と百家鳴騒/百家争鳴である。自分なりに整理してみる必要がありそうなので表記をキーワードにして考えてみた。
「国家主権」という言葉は、法律学上は「天皇主権説」も「天皇機関説」も両方含む用語だという。更に現在の日本の「国民主権」をも含む言葉という。
明治23年11月29日大日本帝国憲法が施行されて以来、第1条の「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と、第4条の「天皇ハ・・統治権ヲ総攬シ」の解釈には天皇主権説(=天皇主体説)と天皇機関説の2説があり、初め学者による天皇主権説・天皇機関説の両者は拮抗していたが次第に天皇機関説をとる学者が多くなり、大正2(1913)年には両者の論争にけじめがつき法律論上は天皇機関説が勝った。天皇機関説は大日本帝国憲法が出来てから、明治・大正と30年余りに亘って昭和10年まで、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説であるという。昭和天皇は、大正10年からは大正天皇に代わって摂政となって既に代行していた。
天皇主権説は、議会や内閣を超越した絶対統帥権限が天皇にある、という解釈である。一方、天皇機関説(昭和天皇の言う天皇=機関=器官)は、国家という法人に主権があり天皇はその統治機構の一機関(=器官)であるので天皇の統帥権は内閣や議会の輔弼のもとに成り立つ、という憲法の条文に沿った解釈であるという。司法や軍部の統帥権は議会や政府から独立していた天皇大権とされていたが、行政・立法側は輔弼(55条)・協賛(5条64条)の資格をそれぞれ有していたため、国権(国家主権)の運用の実態は天皇機関説に沿って為されていた。
天皇機関説(昭和天皇は人体に例えて天皇器官説でも良いではないかと云った)をとる美濃部達吉は、主権について、統治権が天皇個人に属するとすれば国税は天皇個人の収入ということになり、条約は国際的なものではなく天皇の個人的契約になるはずだとし、国務大臣の輔弼を必要とするという帝国憲法規定にも矛盾が生じ、国務大臣の責任も議会の信任も必要なくなるので帝国憲法規定に矛盾が生じるとした。更に国権の任命権が超越した天皇にあるとすると瑕疵が生じた場合は任命権者である天皇の責任になり、万世一系の絶対君主天皇論が成り立たなくなるという。そのため形式上は元老(明治維新の元老が高齢化した後は内大臣)が推薦責任を負って天皇が認可するという形式をとっていたという。
しかしながら、昭和5年統帥権干犯問題・昭和6年三月事件同十月事件のクーデター未遂・昭和7年の五・一五事件等で力で黙らせる軍部の発言力が強まり政党政治が瓦解してしまった。
昭和9(1934)年には「国体明徴運動」が起こり、憲法学者や昭和天皇が天皇機関説を支持しているにもかかわらず天皇機関説の美濃部達吉は国会等で排撃され始めた。
翌10年には「国体明徴声明」を岡田内閣が軍部の圧力に屈して出してしまい、天皇機関説を異端学説として葬ってしまった。貴族院本会議において軍人議員の菊池武夫(中世の南朝方菊池氏の末裔で、足利尊氏さえも逆賊として糾弾した)により天皇機関説非難の演説が行われ軍部や右翼による機関説と美濃部達吉への排撃が激化した。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行い自己の学説の正当性を説いた。この時の美濃部の理路整然とした演説に議場は満場水をうったような静けさだったという。しかしその著書は発禁処分、美濃部は不敬罪の疑いで検事局の取り調べも受け、同年9月美濃部は貴族院議員を辞職し公職を退いた。
更に翌11年2月21日右翼暴漢により美濃部達吉が襲われて重傷を負い、その審理の過程で警護巡査のピストル弾丸による疑いも出て弾丸線条痕で目先の犯人とは別人のものもあると確認されたが警視庁は協力をせずその真犯人は未だに不明という。更に翌12年には文部省が「国体の本義」を編纂して国体明徴運動に理論的意味付けをしてしまった。
憲法上も軍・政府・議会は同等の権限のもとに独立していたために、軍の発言力が政府・議会を無視して暴走するようになり、あからさまな軍国主義に陥って行った。自分たちの要求が通らないのは天皇を取り巻く君側の奸によるものと若手皇道派が勝手きに決めつけて昭和維新断行を掲げて昭和11年の二・二六事件が暴発した。昭和天皇の意思とは無関係に、また憲法学者の意見も無視して、天皇主権説が前面に出てくる中で、軍予算削減等の国家予算の使い方に不満を持った軍幹部が狭視野の若手将校たちを焚付けていたためであった。
こうなると学問上の解釈や説よりも通念上での大衆への浸透の有無の方が大きな力を持ってしまったということになる。
昭和天皇自身は大正天皇の摂政(大正10年11月より摂政)の頃から天皇機関説に賛成であり、「国家を人体に例え、天皇は脳髄であり、機関という代わりに器官という文字を用いれば少しも差し支えないではないか」と言い、「君主主權説は、自分からいへば寧ろそれよりも國家主權の方がよいと思ふが、一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠なのでないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一體何人日本にをるか。ああいふ學者を葬ることは頗る惜しいもんだ」とも述べていたという。
もともと大日本帝国憲法下では天皇は輔弼する国務大臣の副署なくして国策を決定できない仕組みになっており、昭和天皇も幼少時から「君臨すれども統治せず」の君主像を叩き込まれていたという。昭和3年の張作霖爆殺事件の処理に関して総理の田中義一を叱責・退陣させて以降はさらにその傾向が強まった。昭和天皇は激怒し田中は落涙して総辞職した。29歳だった昭和天皇は後年の独白録で「若気の至り」と反省し「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」と云った。昭和天皇が政治に介入してしまった具体例である。「元老西園寺公望もこの時には『今後は余計な事は言ってはなりません、それは憲法違反になりますから』と昭和天皇に奏上したのではないか」と半藤一利は推定している。宮中内においても牧野内大臣・鈴木侍従長が会談を持ち政変や天皇と陸軍との関係不和を心配していた。
天皇機関説が当然と受け取っていた昭和天皇は、皇道派の思想に靡いていた秩父宮(皇位継承者第1位であった)の考え方も否定していた。二・二六事件は首相不在、侍従長不在、内大臣不在の中で起こったもので、天皇自らが善後策を講じなければならない初めての事例となった。戦後に昭和天皇は自らの治世を振り返り、立憲主義の枠組みを超えて行動せざるを得なかった例外として、この二・二六事件と終戦時の御前会議の二つを挙げた。(Wikipedia)。
大戦末期の昭和19(1944)年、確たる信念を持たず気の弱い近衛文麿が、木戸内大臣を通じて昭和天皇に「戦争指導に行き詰まり経済・社会の赤化に向う東條とその側近に代えて、予備役の皇道派将官を起用すべき」と奏したことに対し、天皇は次のように、「第一、真崎は参謀次長の際、国内改革案のごときものを得意になりて示す。そのなかに国家社会主義ならざるべからずという字句がありて、訂正を求めたることあり。また彼の教育総監時代の方針により養成せられし者が、今日の共産主義的という中堅将校なり。第二、柳川は二・二六直前まで第1師団長たりしも、幕下将校の蠢動を遂に抑うこと能わざりき。ただ彼は良き参謀あれば仕事を為すを得べきも、力量は方面軍司令官迄の人物にあらざるか。第三、小畑は陸軍大学校長の折、満井佐吉をつかむことを得ず。作戦家として見るべきもの有るも、軍司令官程度の人物ならん。以上これらの点につき、近衛は研究しありや否や」(木戸幸一日記)、と論駁した。
大戦後の昭和26年11月11日に近畿巡幸に向かう特別列車の車内で田島宮内庁長官に昭和天皇は、「私の退位云々の問題ニついてだが」と切り出し、「帝王の位といふものは不自由な犠牲的の地位である/その位を去るのはむしろ個人としてハ難有(ありがた)い事ともいへる 現ニマ元帥が生物学がやりたいのかといつた事もある。/地位ニ止まるのは易きニ就くのではなく難きニ就き 困難ニ直面する意味である」と力説した。これに対して田島長官は「恐れ多くございますが/陛下は法律的ニハ御責任なきも道義的責任がありと思召(おぼしめ)され此責任を御果しになるのに二つあり、一つは位を退かれるといふ消極的のやり方であり、今一つは進んで日本再建の為に困難な道ニ敢て当らうと遊ばす事と存じます そして陛下は只今も色々仰せになりましたやうに困難なる第二の責任をとる事の御気持ちである事を拝しまするし 田島の如きはいろいろ考へまして その方が日本国の為であり結構な結論と存じまする」と述べたと記されている。(田島道治宮内庁長官の昭和天皇「拝謁記」)。
統帥権干犯問題:
大正11(1922)年のワシントン会議、昭和5(1930)年のロンドン会議で、日本、米国、英国などの主要国は、アジア・太平洋の地域秩序を確立するために、中国の主権尊重・門戸開放、海軍力制限等の三つの条約を締結した。ワシントン体制と呼ばれるこの国際協調秩序確立と海軍力制限に大日本帝国海軍軍令部は強く反発した。当時の加藤寛治海軍軍令部長はロンドン条約調印に反対するため、 裁可の直後の4月2日に直接、昭和天皇に抗議して辞表を提出した。しかし昭和天皇は浜口内閣のロンドン条約調印決定を裁可した。濱口雄幸首相は昭和天皇の裁可を得て英断を行ったが同5年11月14日右翼に襲われて重傷を負い翌年死亡した。
統帥権干犯問題の本質は「陸海軍は天皇に直属する」という憲法の規定を盾に軍部が政府を無視して暴走することができたという点にあるという。
元軍神の東郷平八郎元帥も引っ張り出して軍部が反対し昭和天皇伯父の伏見宮博恭王元帥(海軍皇族の代表)も海軍力制限に強く反対したが天皇は裁可した。海軍は条約派と艦隊派に分かれて紛糾していたが、その後に艦隊派の肩を持つ伏見宮は対米英戦を避けようとする条約派の将官をその後徹底的に追放して、米国を仮想敵国とする艦隊派を多く採用した。これが対米開戦に繋がったという。
二・二六事件:
陸軍皇道派が、君側の奸の尊王討奸・昭和維新断行を掲げて、天皇を中心とした軍事政権を樹立しようとした。
26日未明の決起直後に決起部隊代表が官邸に行き川島義行陸相が軟弱だと責められて陸相は決起をみとめた。その直後川島陸相は元陸軍大将で参事官の真崎甚三郎と対談し陸軍政権樹立を決めた。決起部隊は政権のトップに真崎を祀り上げる予定だったという。同じ頃、神(天皇34歳)が伏見宮(海軍軍令部総長、海軍軍人皇族の代表)に会っていた。不安を抱く天皇に伏見宮は海軍が決起部隊に加わる心配はないと伝えた。軍隊が秩父宮を代わりに天皇に担ぐという噂が有り、軍部からは大元帥として仕事を天皇はしていないと言われていた。秩父宮は決起部隊の安藤輝三と交流を持ち、天皇の親政の必要性や憲法停止も考えるべきであるとの意見を持っていて昭和天皇と激論したことがあり「秩父宮の考えは断じて不可」と昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に言ったこともあるという。
不安を抱く昭和天皇はこの時に伏見宮から海軍が同調しないことを確認して、更にその海軍陸戦隊の指揮官の人選には部下を十分握り得る指揮官にするようにとも気を使った。陸軍には模様眺めの上層部が沢山いた。海軍が同調しないことを確認した天皇は海軍に大海令を出して鎮圧に踏み出した。海軍は陸軍との市街戦も覚悟していた。海軍の一部には反乱軍に同情的な者もいて、小笠原長生元海軍中将は軍政府樹立に奔走していた。
27日決起部隊から海軍軍令部にもTELがあり、岡田中佐が出向く。岡田は決起の趣旨を否定せず相手の出方を見極めようとしていた。
同日午後9時決起部隊がトップに担ごうとした真崎大将が石原莞爾大佐と会い鎮圧説得に動き出した。真崎・石原は7―9割の確実性で説得は成功すると考えていたというが実際は説得に失敗した。両者の事態の捉え方が甘いという象徴的な事実である。一旦暴走すれば窮地に追い込まれて、窮鼠は却って猫を咬む、を理解していなかった。
28日午前5時天皇の奉勅命令がでた。しかし陸軍小藤大佐は反乱軍に奉勅命令を伝えずあいまいな態度をとり続けた。しかし雰囲気から決起部隊は陸軍上層部が反乱軍と位置付けたことに気付いた。決起部隊は海軍の岡田中佐とも交渉決裂した。同日午後9時決起部隊磯部浅一から陸軍にTELして文部大臣官邸にて近衛師団の山下大尉と会談、天皇の御意志を聞きたいと訪ねてきた。会談は決裂、山下は皇族の邸宅を傷付けないように気を付けろとだけ伝えて別れた。決起部隊は天皇に訴える道筋を次々に失って行き、市民に向けて自分たちは天皇に背いたわけではない、天皇と国民のためにクーデターを起こしたと訴え始めた。決起した青年将校らは、君側の奸を排除すれば天皇が正しい政治をして民衆を救ってくださると信じていた。事件の詳細を知らない国民たちは妥協するなと激励し感謝の言葉を送っていた。
決起部隊が天皇に意志を直接伝えたいと閑院宮陸軍参謀総長宅前で閑院宮を待った。閑院宮(陸軍軍人皇族の代表)を通じて天皇に意志を伝えようとしたが閑院宮に会えなかった。
29日午前2時40分、前夜から噂が飛び交わっていたが、秩父宮(安藤輝三・西田税ら国体原理派から担がれていた。皇位第一継承者。昭和8年明仁親王が生まれて皇位継承者から外れた。)を奉戴して行動するとの具体情報が鎮圧部隊に入った。同早朝から陸軍鎮圧部隊は本格的な鎮圧に動き出した。海軍陸戦隊も攻撃準備を完了していた。同10:05AM頃より決起部隊の一部が降伏し始めた。1:00PM平定した。陸軍上層部は天皇と決起部隊との間で迷走を続けたが、平定後の陸軍は組織の不安は取り除いたと宣言し、事件の責任は決起将校とその思想家にあると断定した。これを契機に政治家も財界人も軍部に本格的に抵抗する気力を失って行った。軍部に軽視されていた天皇は結果的にクーデターを鎮圧したとしてその権威(神格化)を高めていき軍部はその権威を利用していく。
海軍は1週間前より不穏な動きを掴んでいた。昭和11年2月19日に東京憲兵隊長が海軍省次官に首謀者名と被襲撃者の実名を挙げて陸軍皇道派将校らが決起することを報告していた。(全貌 二・二六事件~最高機密文書で迫る - NHKスペシャルなど)
決起将校の一人磯部浅一は処刑前の獄中手記で天皇機関説を悪と断定しており、「陛下の側近は国民を圧する奸漢で一杯でありますゾ」と書き、更に新聞記事で天皇が「日本もロシアの様になりましたね」と側近に語ったとの新聞記事を読んで激怒し「毎日朝から晩迄、陛下をお叱り申しております、天皇陛下、何と云ふ御失政でありますか、何と云ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」と記したという。磯部浅一は1年後に銃殺刑になった時天皇陛下万歳は唱えなかった。また決起将校らは昭和維新の詔勅と真崎への大命降下という計画を立てており、真崎は決起直後に反乱軍が占拠する陸軍大臣官邸に行き更に伏見宮と共に参内して伏見宮が昭和天皇に会ったが昭和維新については相手にされずやむを得ず反乱軍に和する大臣告示を出した。磯部浅一は獄中で、軍法会議での真崎の態度に幻滅し真崎を呼び捨てにして激しく非難した。真崎は226事件では有罪を求刑されたが無罪となりその後も生き、第二次大戦による東京裁判でも責任転嫁と自己弁明に終始して無罪となり昭和31年,79才で死亡。皇道派の首領の荒木貞夫は予備役に退かされ第二次大戦では終身刑になったがその後釈放されて昭和41年,90才で死亡。皇道派が激化するきっかけを作った菊池武夫元陸軍中将は東京裁判でA級戦犯とされたが無罪となり昭和30年,81才で死亡。
大日本帝国憲法下では総理大臣の任命規定がなく権限は弱く、元老が総理大臣を指名して天皇が大命降下で組閣を命ずるという方法を執っていたが元老の高齢化でその数が減り機能しなくなり、天皇が内大臣(内務大臣とは別で飛鳥時代よりある令外官)に諮問し、内大臣が「重臣」(首相経験者など)と協議して候補者を絞りこんで奉答する態勢になって行っていたという。
また二・二六事件の思想犯として西田税と共に民間人の北一輝が銃殺刑に処せられたが、北一輝の思想は当時の天皇制は否定していたが天皇主権論者あるいは国体原理主義者等とは別次元の思想であり、むしろ戦後民主主義に近かったと思われ、大戦後の日本国憲法には北一輝の考え方が反映されているともいう。
「君臨すれども統治せず」:
「国王は君臨すれども統治せず」とは、西欧において1500年代より言われており、国王の監督のもとにある連合共和国家における政治原則を要約した言葉として広く言われてきていたという。
日本においては、明治新政府が近代的な国家体制を模索する中で、大英帝国やドイツ帝国などのヨーロッパの立憲君主制国家をモデルとして目指すようになった。それぞれ「君臨すれども統治せず」の理念を遂行する方法論には違いがあり、一部で言われる「イギリスの政治制度を誤解した」という見方は当らないようである。伊藤博文らはベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」という助言をうけた。そして憲法の草案過程では明治14年の政変等の生みの苦しみがあり、大日本帝国憲法の明治22年公布してからその施行前の明治23年10月12日には「国会開設の勅諭」を出し政治的休戦と内乱の企ては処罰するとして憲法議論終了の厳しい態度で臨んだという。
当時の有識者たちが日本に合うように導入しようとして、明治14年の政変等を経て、大日本帝国憲法を構築したものと考えられる。
「統治せず」というのは自我としての天皇自らの意見を強要しないということで、天皇としての意見を言わないわけではない。実際折ある毎に言っていたようである。それでも聞かぬふりをして重臣が自我の意見を臣下の総意であるかのように押し通したり、上意下達・下意上達の情報交換の分断をすることの弊害が出るか出ないかの問題のようである。現在に言うホウレンソウ(報告・連絡・相談)という正確な相互の情報伝達は、「これで必要十分」という有り方はないのが、相変わらずの現実である。
昭和天皇は、政治・外交に関して自分の考えを大臣・重臣たちにかなりはっきりと伝えており、大臣・重臣も自分たちの意見を昭和天皇に伝えていて、互いに議論もしていたという。彼らは必ずしも、昭和天皇の意見に賛同したわけではなく、御前会議など正式の会議で決まったことについては、昭和天皇はたとえそれが自分の考えと違っていても、一切反対はしなかったという。「大日本帝国憲法の規定により、正式な会議で決まったことは天皇も守らなければならない」と昭和天皇は、考えていたからだという。ただ、正式に会議で決まる前は自分の意見を述べても構わないとも考えていたという。
このような考え方は昭和天皇だけでなく、明治天皇も同じで、明治天皇は日清戦争に反対だったが、御前会議で決まったらそれを了承していた。しかし、「日清戦争は、朕の戦争ではない」とも言ったという。
会議の席では声の大きい方が勝ってしまいがちというよくある悪弊を避けるべきことが如何に会議出席者にとって必要な義務であるかを示している。
もし、明治天皇や昭和天皇が天皇主権説に同調していたら、今の日本の天皇制もあり得なかったと思われる。目先の正しいか正しくないかの議論よりも、正邪を超えた国造りには、揺るがぬ理念を保つことがいかに重要であるか、を考えさせられる。そして国民の素朴な疑問にも向き合っていないと極端を好む国民からは国が見放されるようだと歴史を調べていて思う。
(9/25追記: 田島道治宮内庁長官の昭和天皇「拝謁記」について:NHKスペシャル「昭和天皇は何を語ったのか ~初公開・秘録「拝謁記」~(総合 2019年8月17日(土) )が新事実と放映した内容は正確に言うと、『昭和天皇と田島道治と吉田茂』人文館2006年加藤恭子著、で既に明らかになっていたことに、より詳細な根拠を与えたに過ぎないものでありNHKが新事実が出たと報道したのは言い過ぎだと原武史は『文芸春秋』10月号2019、で指摘している。)
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