この社会の人間は性善説より性悪説の方が適切なのだろうか?2021年09月30日

この社会の人間は性善説より性悪説の方が適切なのだろうか?


 皆若い頃は誰でも、人の性善説を疑わなかったり、正義は最後には勝つ、などと信じ切っているのではないだろうか。
 退職して心の余裕が出来てきて、周りの路傍の雑草の素晴らしさに気付き、初めて身の回りの歴史に興味を持つようになり調べ始めて、過去の出来事も知るようになってきた今、世の中はそんなに甘いものではなく、正義も元からあるのではなく努力して造られるものだと気付く。見る人によって正義も不正義になり、善も悪になったりする。自分も若い頃は’あなたは性善説を取る方だから’と言われて自分でもそれで良いと思い疑うことさえしなかった。そして最近、平家物語の諸行無常、或いは夏目漱石の則天去私、の意味も漸く少しわかったような気になってきた。
 そんな折、下記のニュースを読んだ。
〇「(世界発2021)カナダ、先住民学校の闇に衝撃 学校跡地に子ども200人の遺体」朝日新聞、2021年9月29日 https://www.asahi.com/articles/DA3S15059137.html 。

 歴史的には西洋も東洋もあらゆる地球上の人間たちが互いに殺し合い、残虐に攻撃し合ってきた悲惨な歴史がある。判っているつもりではあるが、この様なニュースを読むと、やはりそうかと、暗然たる気持ちになる。第二次世界大戦のドイツのヒットラーによるユダヤ人ジェノサイドばかりが酷い訳ではない。日本でも、日本の戦国時代は何千人と言う敵の首を城に晒したり、明治維新前後は刀が汚れるとの言い分で尻から竹やりを貫通させて殺したとか、大小はあれど同じようなことをやった歴史は何処の国でも探せば出てくる。西洋では人間の生皮で椅子を作ったとかの記録もある。キリスト教の同化政策だけでなく日本も周辺国に同化政策を押し付けた歴史がある。今でも自分たちの正義は相手にとっても正義であるとついつい相手に押し付けてしまう風潮は消えない。一生懸命になればなる程近視眼的になり感情に支配されてしまうのはそもそも人間の性である。そして今でも自分たちのことは棚に上げて謝れば謝るほどさらに土足で踏み込み過去のことを何時までも持ち出す国もある。
 心からの和解など本当にあり得るのだろうかとも思うが、少なくとも呉越同舟でも喧嘩をしないで、相互生存の道を探さなければ互いに破滅することになるのは確かである。
 日本も神道は大古よりあったとしても、国家神道は明治維新によって作られたものである。長い歴史から見れば、ほんの一瞬の出来事である。しかしその一瞬にすべてをかけた人々もいることも確かである。勝てば官軍負ければ賊軍と言われるが、明治維新が正しかったわけではなく、明治維新を正しい方向に導いた人たちが正しかったのである。

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