アナーキック・エンパシー ということ。2021年07月03日

2021/7/2 アサブロ

 「アナーキック・エンパシー」(Empathy=他者の靴を履くこと=意見の異なる相手を理解する知的能力、To put yourself in someone’s shoes。anarchicは混沌・無秩序・無政府状態。)ということ。


 1~2週間前にT市のスーパーMに行ったとき、店先の移動販売車のフロントガラスに新型コロナワクチンは危険だから受けないようにとの宣伝チラシが貼ってあるのを偶々見つけて以来、そういう人たちのグループがいるのかと驚いていたが、つい最近になって本を出したり全国に講演して回っている医師がいるというのにまた驚いた(「医師が教える新型コロナワクチンの正体 本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン」)。ネットで調べた限り失礼ながら理性的な思考とは思われず酷い内容なので医師の経歴を見たら未だ若い人だった。まるで新興宗教だ。言う方も言う方だが講師に招いてまで聞く方も聞く方であり、こんなことが実際起きているのかとショックを受けた。ワクチン注射を受ける受けないは本人の自由の意志で好きにすればよいが、他人にまで自分の考えを押し付けようとするのは頂けない。
(『医師が教える新型コロナワクチンの正体 本当は怖くない新型コロナウイルスと本当に怖い新型コロナワクチン』 単行本(ソフトカバー) – 2021/6/10 内海聡 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AF%E6%80%96%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%84%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%81%A8%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E6%80%96%E3%81%84%E6%96%B0%E5%9E%8B%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%B3-%E5%86%85%E6%B5%B7%E8%81%A1/dp/4909249389 )。

 かつて、『患者よ、がんと闘うな』近藤誠著など著書多数で、「がん放置療法論」や「がんもどき論」を展開してマスコミの注目を浴びていた人がいた。大部分の医師からは困惑の目で見られていたが一般大衆やマスコミには受けが良く引っ張りだこであった。文化的業績があったとして菊池寛賞まで貰っていた。( 近藤誠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E8%AA%A0 )

 そもそも「がん」と一括りにして話を展開する所に無理があり、そこに様々な考えが入り込むすきがあったのであるが、素人からは分かり易かったのかもしれない。
 がんは臓器によっても違うが同じ臓器のがんでもタイプによって或いは同じタイプでも人によって個々で天と地ほどに違うのが当たり前なのである。たとえば肺癌でも5年経っても殆ど変わらない癌もあれば、3か月前の検診ではなかったのが3か月後には末期(4期)ということもある。まず治らないという癌でも極めて稀に完治してしまう癌もある。例えば肺小細胞癌は極めて進行が速いが一時的には化学療法放射線療法が進行癌でも良く効く癌でもある。30-40年前はそれでも進行癌の3年生存率は治療しても1割も生きられなかった(無治療なら1年生存はゼロ)。それでもその頃完治した例を自分でも経験したことがある。それに自分勝手な理由を添えるかどうかで素人目からは名医と呼ばれるようにもなる。この進行の速い肺小細胞癌でもつい最近の全国癌10年生存率の国立がんセンター発表で1割に達した改善を示していたのを見て感心した。自分でも別のタイプの担癌生体であるがもう6年過ぎていて安定中である。もう5-6年はだいじょうぶではないかと勝手に思っている。
 極めて進行の速い若者の癌がある一方、前立腺癌や乳癌の一部のタイプのように生命予後に影響しないという癌もあるし、高齢者の癌では全く症状がない進行癌で仲良く生体と癌が同居している長寿癌もあるのは有名な話である。( 天寿癌 北川知行 公益財団法人がん研究会がん研究所名誉所長 
https://www.tyojyu.or.jp/net/topics/tokushu/koureisha-gann/gann-tenjugann.html  )。
 なので、がんと言わずにがんもどきと言ってもあながち否定しにくいし、放置しても進行が極めて緩徐であれば放置しても異論は挟みにくい。そしてかつては治療によってかえって寿命を縮めた方も確かにいたと思う。当時は抗がん剤では単剤で15-20%の人に効けば有効な薬剤とされ如何に組み合わせて効果を上げるかに視点を置いていた時代でもあったからである。癌と言えば死と直接思い込んでいた時期もあった。自分が医師1年目の時(50年前)ある中年の進行胃癌の男性が症状が消えたから退院すると駄々をこねていたのをある権威あるDrが見兼ねて君は胃癌なので僕が直してあげるからまだ入院していた方が良いと説得して退院を留まらせたことがあった。しかしその患者は胃癌と告知されてから食事も食べられなくなり1か月も経たないうちにカヘキシーとなり亡くなってしまった。これは強烈な印象として今でも忘れられない。勿論今では告知は当たり前として社会に受け入れられていて自分でも当たり前としているのは言うまでもないが、心の持ちようがここまで影響するのかということは忘れてはならない事であるとも思っている。

 地球上のすべての人々が、一人ひとり皆違う考えと違う世界を持っていると言ったのは哲学者L.ヴィトゲンシュタイン(1889-1951)である。確かにそうだと今そう思っているが客観的に考えて間違った自分の考えを他人に押し付けるというのは酷いではないかとも思う。

 政治の世界では米中が険悪な状況になっており世界第2位の経済力をつけた中国も習近平総書記がきのう7月1日の党創設100年祝賀式典で中台統一を宣言して強気をあからさまにして来た。1989年東西冷戦が終わって世界が平和になるどころか一歩間違えれば新たな戦争が起きかねない状況になってしまった。小さなことでは学校のいじめが無くならず、大きなことでは宗教対立やイデオロギー対立が相変わらず無くならない。
 何でこうなってしまうのだろうか。イデオロギーや宗教は善悪を超えた前提となるものなので、互いに許容し合わない限り排他的になり戦争になるのは誰でも分かっているし、この点では世界は歴史に学んできていると思う。
 しかし今回の新型コロナワクチンも反対派が徒党を組んで相手に影響を及ぼうとするのを見ると、人は、あらゆるものを互いに許容し合わない限りは、どこまでいっても対立は解消しないように思える。LGBTQ+もそうだ。行政さえもあちらを立てればこちらが立たず、ということばかりなので必ずしも正義が常に行われているわけではない。日常職場においても常に意見の食い違いはあるので、かつて現役の頃7-3ルールと称して自己主張は3割通れば十分と思っていただきたいと部下の職員に言っていたことがあった。
 最近の新型コロナ感染症の都道府県ごとの対応を見ていても、結論を先延ばしする知事もいれば先手先手で攻める知事もいる。そして結果においてはどちらが良いかの比較善悪の判断は難しい。どちらの判断にしてもそれなりの結果が出て、その後は新たなステージで再出発するということになるので善悪を言っていても始まらない。「歴史にもしは無い」というのは正にその通りである。
 トップの決断はその集団のその先の行く末を決めるので確かに大事な場面はある。周り中が反対していても逆の決断が必要なことも確かにある。二者択一であればふつうは民主主義であれば51%の意見が選択されて49%の意見は切り捨てられてそれを互いに受け入れている。また受け入れなければ民主主義社会が成り立たない。今回のオリンピック開催か中止かの判断も善悪を超えた決断と言って良いのかもしれない。かつての第二次世界大戦も直接のきっかけは東條首相の一つの決断でそうなった。自分で調べた限りでは言い換えれば東条英機が決断できなかった故であった。(『NHK BSプレミアム 昭和の選択「太平洋戦争 東条英機 開戦への煩悶」』からは東條首相が決断出来ずに先送りしたことが即ち開戦に必然的に繋がったと言える。https://ku-wab.asablo.jp/blog/2020/12/15/9327246 )。
 自分でもかつて、小さな小さな病院の院長をさせてもらったが、決断しなければ何もできないという経験をした。ある時、病院敷地内全面禁煙を幹部会議で提案したが総反対、出来ない理由を数えきれないほど並べられた。でも世の中はその方向で動いていると確信していたので、1年後の4月1日にそうすることを宣言した。ついては各自その方向での計画を進めるように伝えた。期限の1―2か月前になりそろそろ期限が見えてきたけれど進捗状況はどうかと幹部会議で話を出したところ誰も全く手を付けていない上に、もし火事等事故が起きたらどうするのかなどネガティブな意見百出であった。責任は誰が持つのかとまで言い出されたので、責任は院長である私が持つのは当然であるにしても、但し皆さん幹部には責任がないと思っていたら大間違い、私が、皆さんはこの一年何をしてきたのだ、として逆に訴えることを忘れないようにと釘を刺した。その後も多少の波乱はあったが皆しぶしぶ同意した。そもそも2―3年毎に心ある職員は転勤していくし、期待を持った新入職員は新人研修と称してマインドコントロールされてしまい1年も経つとダメになってしまう。しっかりしているのは引き抜かれて去って行ってしまう。初めは2割が味方ならどうにかなると4-4-2の法則などと自称していたがやがて7-2-1の法則になってしまった(1=協力者、2=足を引っ張る人、7=状況次第でどちらにも転ぶ人)。でもその1割に涙が出るほど助けられ嬉しかったこともあったのを覚えている。


 そんなことに悶々としている時に数日前知ったのがこの「アナーキックエンパシー」という言葉である。イギリスでは中学生のシチズンシップ教育プログラムの中でアナーキックエンパシーについて教えるという。Empathy=他者の靴を履くこと=意見の異なる相手を理解する知的能力を意味し、anarchicは混沌・無秩序・無政府状態の意で、このEmpathyは共感する能力の意を含むという。努力しなければ得られない能力との意味のようだ。Sympathyは内から湧き出る自然の感情feelingであり、同じ共感と訳されるがEmpathyは身に着けるべき能力abilityを示すという違いがあるという。
 正確にはまだその意図はよく分からないが、この世において意見が違っていても、嫌いな人とでも、嫌悪感を抱くことなく互いに生きられる術を意味している、のではないかという第一印象を与えてくれる期待を抱かせる言葉である。
 呉越同舟でも互いに軋轢を起こさないで生きていける方法は、今のそしてこれからの世の中のすべての人が身に着けるべき相互に生き抜くための基本能力・基本姿勢ではないかと思う。早速書店でこの本を買ってきた。まだ読んでいないが、そんな期待を抱かせる本なので、これからちょびちょびと少しずつ読んでみようと思う。
「アナーキック・エンパシーのすすめ ー 他者の靴を履く」
https://xtrend.nikkei.com/atcl/contents/18/00432/00008/ 。


「ヴィトゲンシュタインの見た世界」
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