高崎市の綿貫観音山古墳について2020年08月12日

綿貫観音山古墳
                                 R2.8.11.
綿貫観音山古墳について

 R2.8.10.に群馬県立歴史博物館の企画展「綿貫観音山古墳のすべて」に行ってきた。1500年前の凄いものを観たという一語に尽きる。
特に「金銅鈴付大帯」は全国に3例しかなく鈴付きのものはこの1例のみという。その他の国宝級の発掘物がゴロゴロ出土している。
 この綿貫観音山古墳は97mで中規模の前方後円墳である。石室は榛名山噴火の角閃石安山岩を使っているという。即ち榛名山噴火(497年渋川噴火、522年伊香保噴火)の後の築造である。6世紀後半の築造であることに矛盾しない。

 昭和43年に明治大学考古学大塚教室の協力により発掘調査が行われたというが、実に50年後の今やっと脚光を浴びてきたというのも驚きである。一般的にはもっと大きな古墳群に今まで目が行っていてこの綿貫観音山古墳は決して有名ではなかったようだ。また幸い盗掘を免れていたというのも奇跡的である。
 一方昭和43年金メッキの馬具が発掘されたと上毛新聞に載ったとの記事があるが、その古墳の約100年後築造の奈良古墳群も昭和30年に発掘調査されていて、金メッキの馬具も出土していたはずであるが60年以上経た現在もなおその発掘物は未整理で詳細不明である。

 大山古墳等の超大型の大王墓は別格として、前方後円墳のうち60m以上のものは群馬県には計97基あり(うち100m以上16基)、畿内には河内・大和を合わせても60m以上の前方後円墳は計32基しかない(うち100m以上は16基のみ。和泉・摂津・山城には60m以上でも計7基のみ)。このように前方後円墳は関東の中でも上野国に突出して多いという事実がある。
 この綿貫観音山古墳は6世紀後半に築造された。この少し前6世紀前半は、6世紀初頭(507年)に第26代継体天皇が即位し、512年には朝鮮半島の伽耶国の一部を百済に割譲し代わりに五経博士が献上されて日本の歴史記録が始まった頃であり、伽耶国を支配していた大伴氏が没落して物部氏に勢力交代した頃であり、九州では527年磐井の乱が関東では534年武蔵国造の乱が勃発した頃でもある。
 この頃以降は畿内では古墳が縮小化に向かい畿内以外でも100m以上の造営は見られなくなったが関東地方のみ例外であるという(白石太一郎氏)。
 これは、ヤマト王権が経済的にも軍事的にも東国特に関東地方に依存していて、ヤマト王権から権限も委譲されていたことの反映であることを物語っているという。
 古墳時代後期の同じ6世紀後半に築造されたものに、総社二子山古墳・天川二子山古墳・山王二子山古墳・二ツ山2号古墳・割地山古墳、などがある。