名もない村について調べてみた。2015年12月08日

奈良古墳群の位置
奈良村古墳群:   地元では奈良の百塚と言われ、薄根川右岸に形成された緩やかな南面した河岸段丘に造られた古墳群で、522年頃の榛名山二ツ岳伊香保噴火の軽石層(FP層)の上にあり1108年浅間山噴火の軽石B層の下にあるという(FP層の軽石層を掘り下げて築造されたものもある?)。九州では527年筑紫君磐井の乱・関東では534年武蔵国造の乱が勃発して、それに打ち勝って名実ともに大和王権が日本列島を統一して行く頃、538年仏教が公伝して、そして587年丁未の乱で蘇我氏と聖徳太子が物部氏を滅ぼし、聖徳太子が活躍した頃である。一般的には古墳時代後期(6世紀)になると小古墳群が密集する群集墳が出現して来ると言うが、奈良古墳群は古墳時代終末期(7世紀)の特徴を持ち、群馬県山間部の典型的な群集墳で、古墳構築の地域的拡大の時期を端的に示すという。奈良県明日香村の高松塚古墳・キトラ古墳と同時期の古墳である。
大化の改新で646年薄葬令が出て古墳は円墳化・縮小化しながらもしばらく続いていたと言い、703年持統天皇が火葬され火葬習慣が導入されてから古墳文化は消滅したとされる。奈良古墳群も同じ頃8世紀聖武天皇が国分寺を建てた頃まで続いていたという。小規模古墳群にはそぐわない様な馬具が多数出土しており、その後の奈良~平安時代の軍馬の供給源としての長野牧・久屋牧・尾合牧も周辺にあり源義家の東北征伐の通り道であり会津裏街道であったという言い伝えにも一致する。一部から空風輪が出土していて鎌倉時代にも重葬墳として使われていたことも確認されている。 927年延喜式の上野国にある勅旨牧9牧のうちの2牧のオオアイ、クヤは利根郡内にあるとされるがそれとの関係は今なお不明である。
古墳内:昭和30年頃は子供の遊び場でもあったが、地元ではなく他村の中学生が大勢できて掘っていたこともあった。地元では奈良の百塚と言ってこの頃でも60基あったが今は十数基しかない。
奈良古墳出土の馬具ー沼田市史
近隣で軍馬が育成されていたことと一致する。壺鐙は古墳時代末に見られるという。
盗掘にあっていた中でも、このような馬具類の金鍍金の帯金具が見つかっている 13号墳
龍ノ鼻
小字 龍ノ鼻: 北から見るとこの石が竜の尾に見えると言う。その先には屈めて座り込んだ腕と頭があり鼻は石が欠け落ちてしまったという。言われてみればそう見えないこともないか?
尾崎研究室の発掘記録
奈良村古墳群は昭和30年群馬大学の尾崎研究室によって発掘された。地元では発掘物は総て尾崎研究室が持って行ったので地元には残っていないと言われている。わずかに愛好家の七五三木滝之助氏がそれ以前に収集していたものが残っているのみである。当時の発掘物の記録がないので群馬大学に問い合わせたところ現在は分かる人間がいないのでお見せできない、倉庫のどこかにはあるはずだということであった。当時の記録を纏めた書籍をインターネットで手に入れて見るとなんと奈良村古墳群の項目は白紙であった。当時学生で発掘に参加していたという方に聞いた所、担当を決めて論文にすることになっていたが奈良村古墳群の担当が誰であったかは分からないという。上記写真の発掘物は平成11年の沼田市教育委員会による発掘物の一部である。

古墳時代について(3世紀末~7世紀末): 卑弥呼の頃は邪馬台国中心の西日本の政治連合と東日本の政治連合があり、卑弥呼の死後間もなくヤマト王権によって全国的な連合となり(3世紀後半、古墳時代初期)、時を同じにして前方後円墳の築造が始まった。前方後円墳は地域を越えて画一的であるが故にヤマト王権支配との直接な繋がりを示す。箸墓古墳はその初期の頃の築造で、大仙陵古墳は5世紀前半(古墳時代中期)とされる。
5世紀になり馬具が初めて古墳の副葬品に加わるようになり騎馬文化がこの頃もたらされたとされる。
5世紀後半以降になると畿内以外は前方後円墳の規模が全国的に縮小化してくるが、関東は6世紀になると比較的大規模な前方後円墳の築造が再び見られるようになり他地域と比べて特異な地域で特に群馬県にその特異性がみられるという。 (「古墳とヤマト政権」白石太一郎著)
この前方後円墳の築造は6世紀末の飛鳥時代になる(推古朝、聖徳太子時代)と、突然終焉を迎える。その後も円墳や方墳の時代が約100年続き、一部地域では646年薄葬令が出た後も暫く続く。古墳時代は703年持統天皇が火葬され火葬習慣が導入されてから消滅したとされる。 奈良古墳群は7世紀の頃の築造とされ聖徳太子や天智・天武天皇の頃のものである。馬具が多数出土していることから金井東裏遺跡の古代人が榛名山噴火で逃げて移動してきてその一部が住んだのではないかとも推理できる。
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H30.7.24.追加訂正。R2.2.2.追加訂正。R4.12.6.追加。


上野国(上州)利根郡奈良村関連の歴史 (史実と伝説)
―――地域における歴史の谷間、名もない村を視る・その奈良村から見る―――

BC660年  初代天皇の神武天皇即位(伝説―古事記・日本書紀)。
BC500年頃 論語の中の「九夷」とは其の一つが倭を指しているともいい孔子は既に日本の有る事を知っていたという。「子欲居九夷・・・ 」
      この頃に編纂された中国最古の地理書「山海経」に「倭」の文字が初めて現れた。中国神話の記載が中心であり日本列島を指しているかどうかは不明という。明らかに日本を指した倭の最古の記述は前漢書(AD70年頃編纂)である。
BC210年 徐福伝説(史記)。秦始皇帝の命令で不老長寿の薬を求めて東方へ船出し定住して戻らなかったと言い日本にも佐賀金立地区等伝承多数あり。
BC150年頃 100余りの倭人国があり、前漢に朝貢していた(漢書地理志、三国史記)。
BC91年  司馬遷により「史記」が編纂された。
BC57年  新羅(朴氏新羅。朴氏・昔氏・金氏の3氏の新羅王族がいてそのうちの1つ)が前漢から自治権を得て建国(伝説―朝鮮三国史記)。 新羅は秦の亡命者が造った国と言う(後漢書)。
BC50年  新羅の建国の重臣として倭人瓠公(ホゴン、ココウ)の名が現れる(三国史記)。三国史紀によれば、日本は新羅建国の頃より新羅への軍事侵攻を繰り返しており日本が勝利することが多く、領土の一部割譲もあったという。AD414年の広開土王碑(好太王碑)によれば、百残(百済の蔑称?)新羅は高句麗の属民であったが、AD391年には百残新羅を日本が攻め破り臣民にしてしまったとあり、朴氏新羅・昔氏新羅の頃は日本の属国であったという。
BC37年  高句麗が前漢から独立して建国(伝説―三国史記)。ツングース系民族による国家で前漢が満州南東部に置いた高句驪県に由来し夫余国の王族の朱蒙(チュモン)が建国したという。
BC18年  百済建国(伝説―三国史記)。高句麗の始祖朱蒙の子が南進して建国したという。
AD42年  百済から伽耶(金官国等の小国家群からなり倭人文化圏であったという)が独立。
AD57年  倭奴国の大夫が後漢の光武帝から金印「漢委奴國王印」を授けられる(後漢書)。
昔氏新羅が立国(伝説。王の出生地は日本列島兵庫県但馬あたりという)。以後356年金氏新羅立国まで続くが数千人規模の新羅への倭人渡来の記録もあるという(三国史記)。
107年   倭国王「帥升」らが後漢の安帝へ生口160人を献じた(後漢書)。57年の金印「漢委奴國王印」と共にこの時すでに倭国には小国であっても「王」がいたことを示している。BC150年頃よりなお小国分立の時代が続いていた。
173年   倭の女王卑弥呼が新羅に使者を派遣(三国史記)。
180年頃までの70~80年間  倭国の乱あり。その後女王卑弥呼により倭国の乱は治まった。《魏志倭人伝(290年前後に成立)・後漢書(440年前後に成立)・梁書(629年成立)に記載有り》。その後邪馬台国を中心とした小国広域連合体制が確立されていく。
184年   後漢で黄巾の乱発生。後漢も184年黄巾の乱後衰退して魏呉蜀三国時代へ突入する。
208年   赤壁の戦い。蜀の劉備と呉の孫権が同盟して魏の曹操を破った。
220年   後漢が滅亡。後漢の丞相であり魏王である曹操が病死、曹操の傀儡であった後漢の献帝は帝位を禅譲して、曹操の息子の曹丕が魏の皇帝となり後漢は消滅した。同年劉備と対決していた呉の孫権は曹丕に臣従して呉王になった。翌221年劉備は対抗して蜀の皇帝となった。222年には呉の孫権も魏から独立した。劉備は223年没して丞相の諸葛亮に後事を託した。229年呉の孫権は皇帝を称して独自の元号黄龍に改元した。
239年   邪馬台国卑弥呼が魏の民帝に生口10人献じた。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた(魏志倭人伝)。(魏志倭人伝)。(生口とは捕虜奴隷または留学生または特定技能集団とも言われる)
240年   魏の使者が帯方郡から倭国に派遣されて詔書・印綬を倭王に与えた(三国志)。 243年   邪馬台国卑弥呼が魏の少帝へ生口を献じた。
244年   安倉高塚古墳(宝塚市)から三国時代の呉の赤烏7年(244)のものと思われる四神四獣鏡が昭和12年出土した。(呉の孫権は東南アジア諸国からヨーロッパに及ぶ広範囲の朝貢を受けていたといい日本も魏だけでなく呉とも交流があったことを推定させるという)
247年   魏の使者・張政が邪馬台国に派遣された(魏志倭人伝)。(倭人伝に邪馬台国・狗奴国・伊都国の名があり、この頃女王の邪馬台国、男王の狗奴国が対立していた。邪馬台国は玄界灘沿岸諸国の南にあり、狗奴国は邪馬台国の南にあると書かれている。邪馬台国以外も30国余りが魏と交流していた.。白石太一郎は「古墳とヤマト政権」で南を東に置き換えて狗奴国は東海地方ではないかと推定した。そして近畿~玄界灘の西日本の邪馬台国中心の広域連合と関東東海の東日本の狗奴国中心の広域連合が3世紀中葉に合体してより広域の政治連合となり、これがヤマト政権であろうと推定した)。
  ≪即ち紀元前後~3世紀中葉までの倭国は小国分立の時代で邪馬台国もヤマト王権のはじまり小国もその中の一つに過ぎなかったが、3世紀初頭になって卑弥呼が倭国の大乱を収め「邪馬台国を中心とする小国広域連合体制」が敷かれて更に卑弥呼没後も引き続いて3世紀中葉にはヤマト王権による小国家(大小の首長国家)の広域政治連合体制が確立しそれを示す「前方後円墳体制」の時代に突入した。その後更に倭国の大王(天皇)の中央集権体制が確立するには456年眉輪王の変、463年吉備下道臣・上道臣の乱等を収めた第21代雄略天皇、527年筑紫君磐井の乱、534年武蔵国造の乱後の第26代継体天皇を待たねばならない。吉備国が備前・美作・備中・備後に分国されるのは689年飛鳥浄御原令以降であり、それまでは筑紫・出雲・吉備・毛野は畿内ヤマト王権を支える全国での有力地域であった。吉備国でも初期巨大前方後円墳(造山古墳、仁徳陵築造前とされる)を造ったが6世紀半ばからは円墳になり、これは薄葬令が出る前である。上毛野国でも吉備国と同じ頃太田天神山古墳が造営されており上毛野全域の政治連合の盟主であろうとされている。この盟主は畿内の王に服属する地方首長というよりも同盟者とみる方が適切な関係であるという。吉備国でも上毛野国でも5世紀後半には畿内と違って大規模築造とは逆に小規模化に向かい、大規模前方後円墳の築造が絶えるようになるのは広域政治連合体制から大王の中央集権に代わったことと一致する。継体天皇が倭国統一した6世紀半ば以降は畿内以外の地域の前方後円墳は総て小型化して行ったが唯一の例外は関東で、特に上野国は60m以上の大型前方後円墳が6世紀を通じて突出して多く築造継続していた。これはヤマト王権がその経済的軍事的基盤の多くを東国特に関東、中でも上野国に依存していたことを示している。前方後円墳の築造は畿内でも関東でも推古朝で全国的にほぼ同時に停止するが、円墳・方墳はなお続く。。記紀の伝承にヤマト王権と日向が婚姻関係を結んでいたとあるのも、ヤマト王権が東国を優遇していたと考えられることも、各々西日本では北九州勢力、東日本では東海勢力を牽制しながら統一政権の強化バランスを計るためであろうという(白石太一郎氏)。》

248年   邪馬台国台与が魏に生口30人を献じた(魏志倭人伝)。
263年   蜀が魏によって滅亡。
265年   魏が滅亡して、魏の実力者司馬炎により西晋が建国された。中国が再統一されたが西晋は316年滅亡の短命で終った。馬具の鐙のルーツはこの西晋の時代に出現、西洋ではさらに遅れて7世紀の頃と言う。日本では古墳時代末という。馬具が古墳から出土するようになるのは5世紀初頭からという。
266年   邪馬台国台与が西晋に使者を派遣した(晋書)。(以後中国の史書から邪馬台国の名は無くなり421年倭国王名が出るまで155年間倭国の記録も消える。=空白の4世紀と言われる。但し朝鮮半島との交流は極めて多い。) 
276年   新羅に倭人侵入、322年和平成立(新羅本記)。             ---(この頃までが渡来人倭国移住:第1の波)。
280年   呉が西晋により滅亡。広義の三国時代(220~280年)が終わる。
      この時、呉の軍団が逃れて日本にやってきて天孫降臨伝説に結び付ける大胆な説もあるが無理がありそうである(竹田昌暉)。魏志倭人伝に言う如く、倭国は前漢の時代より中国と交流しており、邪馬台国以外にも30の倭国の国々が魏とも交流していたということは、いずれ4世紀前後に日本を統一する大王家(天皇家)の先祖の小国もその一つであったと考える方が妥当である。それらの渡来人が竹内宿禰や葛城氏らの祖で強力な倭国統一の協力者と考えるならば妥当かも知れない。

<前漢(紀元前206年 - 8年、劉邦=高祖、都長安、)~ 後漢(25年 - 220年、劉秀=光武帝、都洛陽、) 前漢+後漢合わせて約420年続いたことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指すのに「漢」が使われるようになった。
【山海経】中国の最古の地理書。徐々に付加執筆されてBC4~3世紀頃成立。秦に統一される前の春秋戦国時代の燕に倭が朝貢していた。
【史記】著者=司馬遷(BC145~BC87年)によりBC90年頃史記完成。
【漢書】著者=班固(32~92年)計100巻からなる前漢の歴史書。その中の『地理誌』にB.C.1世紀ごろの倭国のことが書かれている。この『漢書地理志』に紀元前1世紀頃の倭人は100余りの小国をつくり,一部の国が朝鮮半島の楽浪(らくろう)郡に使いを送っていて、この倭は時々漢の国まであいさつに来る、とある。
【後漢書】著者=范曄(398~445年)後漢の歴史書だが三国志より遅く440年頃完成?范曄は死刑。巻85の東夷列伝に、57年倭の奴国の使者が後漢に赴き、後漢の光武帝から金印を授かった。107年倭国王の帥升等が生口(奴隷/労働者)を160人ほど献上した。 桓帝・霊帝の治世の間(146~189年)、倭国大乱があった。鬼神道に仕える卑弥呼が王となった。
【三国志】著者=陳寿(233~297年)280年頃完成、三国時代(黄巾の乱(184)~西晋統一(220)まで)の記録で魏志・呉志・蜀志で構成。魏志の一部が『魏志倭人伝』と言われる。正しくは『烏丸鮮卑東夷伝倭人条』という。僅か2000字のみから成る。魏志倭人伝に、「争いの絶えなかった倭は、男王に代わって卑弥呼という女王を立て、占いや祈祷を行い、弟を通じてお告げをして政治を安定させている」。239年から卑弥呼がたびたび魏に使いを送り,魏の皇帝から親魏倭王の称号と,銅鏡100枚などを授けられた」とある。> 

3世紀後半 第10代崇神天皇によるヤマト王権の始まり(実在したとされる天皇の初代で未確定、BC1世紀との説もあり)。この頃から前方後円墳の築造始まる(大和を中心として九州、出雲・吉備、関東、朝鮮の伽耶(加羅)など)。
     崇神天皇は皇子の豊城入彦命に東国の治定を命じたが、豊城入彦命は東国には至っておらず孫の彦狭島王が東山道十五国都督に任じられるも赴任途上で死亡、東国に赴いたのはその子御諸別王(ミモロワケオウ、豊城入彦命の3世孫(曾孫))が最初とされ、東国の統治に善政を敷いたという(日本書紀)。豊城入彦命・彦狭島王・御諸別王の墓は上野国にあるとも言うが今なお確定されていない。(群馬県古墳概観昭和11年によれば豊城入彦命の御墓と伝えられる古墳だけで県内に11か所ある。古墳全体では8千を超える県内古墳が記録されている古墳王国ぐんま、である。)
      昭和村森下の久呂保村御門塚は豊城入彦命の墓とも言われていたが片品川の決壊により流失して今はもうない。森下古墳群の鏡石古墳、月夜野町三峰神社裏古墳は榛名山二ツ岳噴火の前のもの(497年より前)という。
3世紀末  日本武尊の東征(110年頃 とも空白の4世紀頃ともいう)、上州武尊山中腹の武尊神社など伝説多数あり、宝川温泉も景行天皇の御代に東征の際に入浴したという―上毛の史跡と伝説。(日本武尊は第12代景行天皇の王子・第13代成務天皇の兄・第14代仲哀天皇の父である)。
316年  西晋が滅亡、256年建国から51年の短命で滅亡した。西晋の司馬睿は建業(南京)を首都に再興したが十六国分裂の戦乱の中で東晋として420年まで続き滅亡した。西晋滅亡以後中国は589年隋が統一するまで十六国・南北朝の戦乱の時代が273年間続く。
321年  第14代仲哀天皇崩御、その皇后の神功皇后摂政となる(日本書紀では201年。これから~269年の69年間(応神天皇即位後も含めて)摂政在位。日本書紀の紀年は未だ確定されておらず干支によるため60又は120年の差違があるという)。
(仲哀天皇は日本武尊の第2皇子と言われ、皇后の神功皇后が新羅を討てとのご神託を受けたのを真に受けず再び逆らう九州討伐に向かい逆に殺されてしまったという。仲哀天皇死後熊襲は自ら服属してきて神功皇后が新羅征伐から戻り応神天皇が生まれたので皇子の応神天皇の父は熊襲との説もある。この頃九州は熊襲国(狗奴国(肥後国)+投馬国(日向国)、筑紫国、豊国などがあった)
325年  神功皇后摂政5年325年(274年又は394年ともいう)新羅との戦で葛城襲津彦は人質等を連れて帰国しヤマトの4つ邑(奈良県葛城に桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ)など「4つ邑」)に住まわせ、その一つが奈良県葛上郡桑原郷(現御所市池之内)である。これらが渡来系(百済人、新羅人、弓月君など漢人)の技術者集団となった。神功皇后摂政49年(369年)新羅征伐(=三韓征伐。この三韓は馬韓・弁韓・辰韓で高句麗を含まない。七国平定と同じ?)(日本書紀)。
     <<5世紀中頃の高崎市長瀞西古墳群には積石塚が8基あり渡来人の墓とされる。また日本書紀の仁徳の条には上毛野君の祖の田道タジが渡海勝利し新羅の四つ邑の民を連れ帰ったとある。大和王権の頃より大和葛城氏の4つ邑と同じような記録がある。上毛野君は天武朝に朝臣の姓カバネを下賜された氏族であるが、同じ頃より大和地域だけでなく東国にも渡来人の集団移入があったことを示している。神功~仁徳期には葛城氏とともに上毛野氏が西と東で活躍していたことになる。711年多胡碑にある多胡郡新設に当たった羊なる人物は渡来系の初代郡司という。武蔵国でも渡来人の716年高麗郡・758年新羅郡が新設されている。続日本紀には766年上野国の新羅人の子午足ら193人に吉井連ムラジ姓カバネを賜るとある。
上野国への渡来人移入は5世紀からと言われてきたが最近発掘された渋川市金井東裏遺跡(497年頃の榛名山二ツ岳渋川噴火FA層に埋まっていた)にて既に馬匹生産と共に渡来人もいたことが確認された。魏志倭人伝によれば馬は3世紀日本にいなかったが4世紀に始まる大陸から日本への馬の移入によって東国でも5世紀には榛名山噴火497年のFA層及び522年のFP軽石層2m下の渋川黒井峰古墳に見るごとく馬匹生産が始まっていた。上野国の渡来人集団は、馬匹生産による軍馬・農業動力・輸送・情報伝達・駅制等の発達、鉄銅などの冶金、農業土木などの治水、須恵器・瓦等古代窯業、紡織業等、の技術的文化的集団としての役目を担い、多胡郡や榛名山麓周辺から次第に北部山間地域まで展開して行ったという。4世紀末~5世紀初頭の急激な騎馬文化の移入は高句麗の南下政策によって百済・伽耶諸国と共に戦うためには騎馬文化を受容せざるを得なかったであろうし古墳の副葬品にも馬具が加わってきた。須恵器もこの頃に生産が始まった。>>
330年  第15代応神天皇即位(日本書紀では270年。390年ともいう。存在確認された天皇の初代、八幡神、神功皇后の子、仁徳天皇の父)によるヤマト王権(≒古墳時代)の成立。葛城氏がヤマト王権で活躍。       弓月君(秦氏の祖とされる)、百済人、新羅人、任那人など応神朝に多くの渡来人が移住した(古事記、日本書紀)。応神天皇14年(343年、日本書紀では283年)に弓月君が来朝し天皇に援軍を求め民と共に日本への帰化を奏上して、紆余曲折を経たが数年後に葛城襲津彦が弓月君の百済の民を引き連れて日本に帰った(計一万人以上ともいう)。
応神天皇16年に漢字が初めて公伝した(百済に亡命していた漢人の王仁が論語10巻と千字文1巻を献上し応神天皇の皇子の師となった)。(日本書紀)。
---(この頃が渡来人倭国移住:第2の波)。
(この頃空白の第4世紀=中国の正史に記録がないことを言う。朝鮮との往来は極めて盛んであった。日本書紀の中のこの4世紀の干支編年の解釈は中国史書と比べて120年ずれているという。120年ずらすと「空白の4世紀」は神功皇后や葛城氏が活躍した頃と重なる。)
346年  新羅征伐(日本書紀。新羅本記では、新羅と倭国が国交断絶、新羅に倭軍侵入するも撤退)。この頃より中国南朝の東晋との交易が記録に表れて『宋書』に倭の五王の記録があり、安東大将軍倭国王の称号を受け、日本列島と朝鮮半島南部の軍事権を与えられた。神功皇后の新羅征伐と一致するかどうかは別としてこの頃に新羅への日本による 軍事侵攻があった事は中国朝鮮の資料からも明らかであるとされる。その後663年の白村江の戦いで敗北して以降、新羅と日本の関係は新新羅・反新羅を繰り返していたが新羅が国家意識を高めて対等の関係を望んだのに対して日本があくまでも従属国扱いにしたことによるという。白村江の戦い後間もなく670年には唐・新羅戦争が勃発して6年後に新羅が勝利し朝鮮半島から唐が撤退し、新羅は朝鮮半島の中南部を統一して国家意識を高めた。
356年  史実上の新羅(金氏新羅)立国。(伝説にて新羅王族の始祖として朴氏・昔氏・金氏の3氏があるとされている。昔氏は倭人である。新羅第17代王の奈勿尼師今が即位、以後金氏新羅が続くが917年高麗に滅ぼされる)。
364年  第2次新羅征伐(日本書紀。新羅本記では新羅に倭兵が侵入402年和平成立)。 367年  百済と新羅が朝貢(日本書紀。百済の近肖古王が使節を倭国に派遣朝貢し百済とヤマト王権の同盟成立、新羅も倭国に朝貢。この時新羅が百済の朝貢物を奪ったために新羅の再征伐を決めた)。
369年  朝鮮七小国(加羅・阿羅・多羅ら七国)を平定(日本書紀。神功皇后49年、249年は120年ずれていて369年と解釈された。三韓征伐)。
372年  百済王から同盟の証として神功皇后へ七支刀が贈られた(日本書紀では神功皇后52年252年。物部氏の祖神を祀る石上神宮に現存する国宝の七支刀は、剣身の60余字の金象嵌の銘文がある。その解釈は確定していないが百済王が倭王に贈ったと書かれている史実であり、紀年が120年ずれているとされる)。
373年  第16代仁徳天皇即位(日本書紀では313年、古事記では394年、崩御427年、在位34年)。仁徳天皇の頃、毛野国が上毛野国・下毛野国に分割され、豊城入彦命の末孫のそれぞれの国造を上毛野君(初代は豊城入彦命5世孫の多奇波世君。但し豊城入彦命の孫の彦狭島王とも其の子御諸別王が初代ともいう)、下毛野君(初代は豊城入彦命6世孫の奈良別王ナラワケオウ)と言うようになった(先代旧事本紀第10巻国造本紀)。この頃から国造制が大和朝廷の地方行政組織となって行く。
389年  神功皇后崩御(日本書紀では269年)。
391年  倭国が朝鮮(高句麗)へ出兵、百済、新羅を臣下とした(好太王碑)。
399年  仁徳天皇崩御(427年ともいう)。 高句麗の圧迫を受けた百済からの要請で倭国出兵して新羅に侵攻(好太王碑)。 
402年  百済の第17代阿シン王が倭国に使者を派遣(好太王碑)。
414年  好太王碑が子の長寿王により高句麗(現吉林省集安市)に建立された。
421年  倭国王「讃」が南朝宋に使節を送った。(266年台与が西晋に使者派遣してからこの年まで155年間は中国の史書に倭国の記録がないという。この頃より倭の五王たちは南宋に朝貢し、朝鮮半島南部での倭国の国際的支配権を479年まで求めていた記録が残っている。)
438年  倭王珍(五王 讃・珍・済・興・武のうちの一人、履中天皇?)が南朝宋より安東将軍倭国王に任じらた(宋書)。(安東将軍とは六国諸軍事の倭国と朝鮮半島の国々の支配を南朝宋の中国が認めたということを意味しているという)。。この時倭王珍は倭人13人にも将軍号の徐正(任命)を求めているが、これらは倭国の有力首長たちであろうという。
451年  倭王済(允恭天皇?)が宋の文帝より六国諸軍事の号を受ける。
456年  眉輪王の変。第20代安康天皇が眉輪王により殺されたため天皇弟で即位前の第21代雄略天皇(倭王武?)が眉輪王や葛城円大臣を殺した。天皇制は第10代崇神天皇の頃より出来ていたとしても、雄略天皇は中国の冊封体制から離脱して、大王と称し海外では高句麗遠征・百済救済・国内では九州から関東に到るまで専制支配を敷き大王中心の「中央集権体制の確立」を造った、即ちヤマト王権の中央集権化を確立した大王(最初の天皇)と言われる。後年に天武天皇の遺志を継いだ持統天皇の時の飛鳥浄御原令に、国号「日本」・「日本天皇」号が初めて法典上に登場し、海外での初出は702年唐の則天武后の時という。
  これ以後葛城氏は衰退し、まもなく大伴金村により葛城真鳥大臣(平群氏)も誅殺されて以後大伴氏が台頭する。そしてやがて継体天皇の頃物部氏へ、更に聖徳太子の頃蘇我氏へ、と有力豪族が入れ替わって行き、大化の改新で蘇我氏も滅び名実ともに天皇中心の権力体制になっていく。
475年  高句麗が百済を攻めて百済王を殺す。
---(この頃が渡来人倭国移住:第3の波)。
478年  倭王武(五王の一人、雄略天皇?)が宋の順帝より六国諸軍事安東大将軍倭王に任じられた(宋書)。
479年  倭王武が斉へ使者を送る。
(5世紀は倭の五王が中国に使節を屡々送り、朝鮮の任那(現在の咸安、伽耶の一小国)にもヤマト王権の出先機関があった(日本書紀)、前方後円墳もあり。しかしその後五王の中国への朝貢は途絶えた)。 (第19代允恭天皇(仁徳天皇第4皇子、倭の五王の一人済?)の時にヤマト王権時代からある姓(カバネ)制を制度化して臣連制を編成し、公/君(きみ),臣(おみ),連(むらじ),直(あたい),首(おびと),史(ふひと),村主(すぐり)を導入した。しかしこの氏姓(ウジカバネ)制度はその後さらに684年天武天皇の時に八色の姓の制度に変わり、奈良時代以降次第に有名無実化して行った。しかし朝臣等一部は明治までなお形骸化して続いたものもある)。
497年頃 榛名山二ツ岳が噴火(榛名山二ツ岳渋川噴火:早川由紀夫ら2015年.)。この時は薄い火山灰層(FA層)数10センチが周辺に積り、さらにその上に火砕流堆積物が谷では5m厚積もった。甲を着た古墳人骨が見つかった渋川市金井東裏遺跡はこのFA層と火砕流、さらにその20-30年後の再噴火の軽石FP層の下に埋まっていた。
      埼玉県稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣に刻まれている「獲加多支鹵大王」は雄略天皇であり、この古墳から出土した須恵器は榛名山二ツ岳渋川噴火FA層に覆われていたという。
507年  大伴金村の要請で第26代継体天皇が即位、その後20年かけて北陸越前から大和に入る。(第25代武烈天皇が後嗣を定めずに崩御したため、越前にいた応神天皇の5世孫の男大迹王を豪族らが協議して天皇に迎えたとされる。)
513年  継体天皇は百済の要望に応えて南朝鮮の任那を百済に割譲し、百済は五経博士を献上した。これにより儒学文化の導入やと蘇我氏や物部氏などの氏族の名付けや帝紀・旧辞等の記録作成がなされたと考えられている。日本の歴史記録の始まりとされる。 <なお漢字は中国大陸では紀元前1000年より既にあるが、表意文字であるが故に読めなくても文字による意思疎通が可能なために広大な中国の統一に役立ち、更にBC221年秦始皇帝が国を統一した時には地域による表記漢字体のバリエーションが大きかった漢字体も統一したと言う>。       任那・加羅の運営は大伴氏が担っていたが、この任那4県の百済への割譲について物部氏が大伴氏の外交政策を糾弾して大伴氏が衰退、以後軍事を司る物部氏が台頭してくる。
522頃  榛名山二ッ岳再び大噴火(榛名山二ツ岳伊香保噴火。(早川由紀夫ら、群馬大学教育学部紀要63:35-39,2015))。、この時は数km先でも厚い軽石層(FP層)が100cm以上も積もって宮城県までその痕跡がある。利根の奈良の百塚の地にも軽石層30cm堆積した。奈良村の奈良古墳群(奈良の百塚)はこの堆積層の上にあるという。因みに甲を着た古墳人骨が発掘された渋川金井東裏遺跡はこの軽石層に埋まっていたという。また日本のポンペイと言われる渋川市黒井峰遺跡もこのFP層150cm厚に埋まっていた。
527年  筑紫君磐井の乱勃発(親新羅派の磐井と親百済・任那派のヤマト王権継体天皇との日本列島統一戦争で、物部氏の貢献でヤマト王権勝利となり日本列島分裂が免れた)。 この後から各地で集団移住政策(畿内から地方、地方から畿内の双方向)が積極的に行われるようになった(日本書紀、続日本紀)
534年  武蔵国造の乱(日本書紀)。ヤマト王権の日本統一過程で西日本での磐井の乱の頃東日本でもヤマト王権に対抗する一大勢力があったが、この頃より東日本もヤマト王権の支配下になって,上毛野君が支配するようになっていく。
537年  (宣化天皇2年)新羅の任那侵攻に対して大伴金村の子の大伴狭手彦を任那に派遣し任那を統治し、百済を救ったという(日本書紀)。大伴氏の出自は任那という(新撰姓氏録)。
538年  仏教公伝。仏教はインドで発生後約500年かけて中国に伝来し約300年で朝鮮半島に伝来、更に100年足らずで日本へ帰化人(渡来人)によって伝来していたとされるが公式の伝来は更に約100年後に百済の聖明王から天皇へ戊午年(538年)に仏典等が献上されたことから公伝というようになった。仏教発祥から日本公伝まで約1000年かかっている。
540年  新羅が任那を併合。
562年  新羅により任那日本府が滅ぼされたとある(日本書紀)。
587年  丁未の乱。蘇我氏対物部氏の戦いで後の聖徳太子は蘇我氏に味方し蘇我氏が勝利した。物部守屋の首を斬ったのは聖徳太子のブレーンの秦河勝であるという。秦河勝ら秦氏は聖徳太子の同志として国造りや飛鳥文化の形成に大いに貢献したとされる。仏教対神道の戦いとも言われる。(この後、明治維新で1868年3月神仏分離令が公布されるまで神道と仏教の融合が進み本地垂迹・反本地垂迹説等細部の相違出没あるものの神仏習合思想が1000年にわたって続き多神教的寛容思想が根付いて行く。そして明治維新でひっくり返って神仏分離令(初期の神仏分離令の意図から外れて社会の過剰反応が起こり廃仏毀釈運動にまで拡がってしまう)で国家神道になり1945年第二次世界大戦終了後のGHQ神道指令及び1947年5月3日の日本国憲法で再度ひっくり返り政教分離体制となった。しかし150年後の現在2018年もなお靖国問題等の明治の名残りを引きずっている。)
592年  飛鳥時代始まる。崇峻天皇5年(592年)に飛鳥に都が置かれ、まもなく蘇我馬子の謀略で天皇暗殺されて翌年推古天皇即位、聖徳太子摂政。
593年  聖徳太子 四天王寺を建立。同地に四箇院(敬田・悲田・施薬・療病)を併設した。後の社会救済事業の原点となる。聖徳太子摂政となる。
600年  第1回遣隋使派遣するも外交儀礼に疎く国書も持たなかったため外交関係を拒否されたという(この派遣は失態のために日本書紀には載っておらず中国の史書にのみあるという)。
601年  聖徳太子 斑鳩宮を造営。百済僧の恵聡、高句麗僧の恵便・慧慈を師と仰いで聖徳太子は自己研鑽を積んでいた。朝鮮半島は互いの抗争の時代で日本への期待は高句麗、百済ともに大きかったという。度重なる新羅の任那侵攻に対して兵を新羅に派遣して任那の救援を命じた。
604年  聖徳太子 十七条憲法制定。律令制の位階制の基になった冠位十二階を制定。
607年  聖徳太子 法隆寺建立。第2回(日本書紀では第1回)遣隋使を派遣した。小野妹子に「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」との国書を持たせた。隋の皇帝煬帝は激怒するも高句麗との抗争もあり国交を結ぶことが出来たが返書は帰国途中に百済に奪われてしまったという。その後も5~6回派遣あり。
610年  日本書紀によればこの年(推古18年)に高句麗の僧の曇徴が来朝して絵具や紙墨を普及させたという。
618年  中国では隋がわずか27年で滅びてこの年に唐が成立。初回の遣唐使は630年犬上御田鍬が派遣された。
620年  日本書紀によれば「国記」「天皇記」がこの年に聖徳太子と蘇我馬子により編纂されたとされこれが日本最古の歴史書とされるが現存しない(古事記日本書紀より古い)。
622年  聖徳太子 没。この後蘇我氏の専横を抑えられなくなり大化の改新に繋がる。

3~8世紀  古墳時代(奈良の百塚と言われる利根郡奈良村の奈良古墳群があり、これは後期6~8世紀(聖徳太子~聖武天皇の頃)のもの。馬具が多く出土して馬匹生産を主な生業としていた村とも考えられている)。
     上野国にはかつては古墳が1万基以上あったとされ周辺国に比し圧倒的に多く東国の古墳文化の中心は上野国であったと言われている。そして出土遺物類も量だけでなく極めて質も高いと評価されるようになってきているという。
奈良古墳群は円墳の群集墳であるが盗掘等保存不良で詳細不明、現在は痕跡を含めると同地東側に17基のみだが昭和30年調査では同地東側に59基あったという。西側一帯は当時から完全な畑になっているがその畑からも耕作中に大きな両刃?の刀剣が出て来たという。更に西側の龍の鼻には大塚という古墳があったとも言われるが未発掘という。西側も含めれば実際に百個以上あったとも思われる。646年大化薄葬令後も8世紀初めまで続いた。645年大化改新後の国郡里制による利根四郷の一つ奈萬之奈郷(男信郷、ナマシナゴウ)に属す。龍ノ鼻には五輪塔の一部も多数出土するがなお未発掘という。東側も西側も五輪塔の一部が見つかり重葬があったとされ、鎌倉以降も定住が続いていることを示している。(池田村史、川田村史、白澤村史、利根村誌、沼田市史、古馬牧村史)
 (利根四郷はヌマタ・ナマシナ・カサシナ・ナグルミ、でナマシナは発知村・奈良村・川場村・白澤村・赤城根村を指す。川場村の生品に名称の名残あり。郡衙は現在の昭和村森下と推定されている。国衙は前橋市。古馬牧村史によればヌマタ:旧古馬牧村+師+後関+政所古墳群、ナマシナ:川場村+旧池田村、カサシナ:旧久呂保村+森下+川額古墳群、ナグルミ:旧桃野村+塚原+上津+月夜野古墳群(延喜式、和名抄、沼田市史、古馬牧村史))。和名抄(938年)ではナマシナ:ホッチ・カワバ・タカヒラ・アカギネとなっている。 江戸中期1766年の名苗顕然記にも沼須村はいにしえの片品なり、とあり、現在の片品とは異なっている。カサシナは利根川に合流する片品川の沼須村を含む両岸周辺という。ナマシナは奈良古墳群を含む奈良村・秋塚村・川場村天神・高平村に及ぶとも言う。ナグルミは利根川の川西、北は越後界、南は岩本までの全体を指したという(北毛乃史跡と伝説)。
<<馬匹生産及び古墳について: 290年頃西晋の陳寿によって書かれた三国志の中の「魏志倭人伝」に依れば倭に牛馬なしとの記載があり、4世紀になって日本に移入されて5世紀には東国でも馬匹生産が始まったとされている――日本のポンペイと言われた渋川市黒井峰遺跡が2mに及ぶFP軽石層の下に見つかり馬匹生産が確認されている。さらに最近2014年その対岸にFA層下に埋まった渋川市金井東裏遺跡が見つかってFA層火砕流に一気に埋まった甲着用人骨等が見つかり、馬蹄跡も見つかった。この甲は5世紀中頃に大陸から伝来したばかりの最新式の武具で当時は貴重なものであり人骨は中央王権と密接な関係にある首長だという。これらに関連して北方山間地の奈良古墳群にも馬匹生産が拡がったものと思われる。
倭王権で3世紀中葉から約400年間続いた前方後円墳築造は大化の薄葬令が出る頃7世紀中葉に突然終焉を迎え、同じ頃東国においても終焉を迎えた(「前方後円墳体制」都出比呂志)。上野国においても前方後円墳は計60基以上見つかっている。地方の前方後円墳は中央の倭王権から派遣された首長の陵墓とされる。地域の首長たちは前方後円墳→円墳→方墳の順で階層序列化されて中央の倭王権と結び付いていたとされ、大首長は小首長を隷属させるというより小首長たちにより共立された代表者として、より広域の連合統制を担ったという。4~5世紀は上野国にて渡来文物が出土始まる頃というが、この頃高句麗・新羅への出兵等半島への軍事作戦上も上毛野氏等の地方首長の軍事協力を倭王権は必要としておりそれに合わせて地方の前方後円墳も巨大化して行き、5世紀後半からは前方後円墳は小型化に向かったという。(7世紀中葉には日本全国で前方後円墳の築造が突然停止されたという見方からは、770年崩御の第48代称徳天皇の御陵とされる前方後円墳「佐紀高塚古墳」はどちらかを再考する必要がある。)
西毛の倉賀野町浅間山古墳172m(4世紀後半,築造時東日本最大)、東毛の大田市天神山古墳210m(5世紀前半,築造時東日本最大,長持形石棺)、西毛の群馬町保渡田古墳群の八幡塚古墳(5世紀後半築造,舟形石棺)(これらはいずれも榛名山噴火FA&FP層の下にある)は、ヤマトの百舌鳥・古市古墳群の仁徳天皇陵840m(5世紀前半築造,長持形石棺)と同じ頃の築造であり中央との情報伝達の遅れなく密接な政治交流があったことが窺われるという(若狭徹2015)。
火山灰「浅間C軽石層」に埋もれた弥生時代の水田跡畑作跡が当時のままの形で発見された高崎市日高遺跡は榛名山の東南麓にあるがその火山灰は浅間山起源である。榛名山二ツ岳からの噴出物は北東に飛来したので山頂から西側へは飛んできていないため榛名山西麓にはその軽石層は分布していないので、榛名山西麓で黒色土の中に軽石層を見たらそれは浅間山起源のものと思って良いという。浅間山も古墳時代前期に噴火して浅間C軽石層を一部で堆積しているが、榛名山の西麓の表面近くにある黒色土の中の軽石層3種類は、いずれも浅間山から飛んできた軽石で、浅間A軽石(1783年)、浅間B軽石(1108年)、浅間C軽石(古墳時代始まり,3世紀末頃)と名付けられている。>>

645年  乙巳の変。蘇我入鹿が殺害されて翌年からの大化の改新に繋がる。
646年  大化の改新。中大兄皇子と中臣鎌足により蘇我氏が滅び、豪族を中心にした政治から天皇を中心にした政治へと移り変った。中臣鎌足は藤原姓を賜る。
(物部氏や蘇我氏と違い、この後は政治の表舞台には出てこないが朝廷と密接に繋がりを保ち続け蘇我氏に代わって朝廷内の実権を握り続けたのは藤原氏であると言われ、朝廷の官職任命へのその影響は明治時代に至るまで1000年にわたってなお続いた。大久保利通が藤原朝臣大久保利通と名乗るなど朝廷が認めた氏姓ウジカバネに無理矢理結びつけることが明治まで続いた)
(中大兄皇子は645年孝徳天皇を即位させて自らは皇太子として実権を握り飛鳥宮から難波宮に遷都、しかしまもなく孝徳天皇654年崩御、次の重祚の斉明天皇も661年崩御するもなお即位せず、称制で中大兄王子は668年まで皇太子のままでいた)
     <公地公民制、律令制、国郡里制、薄葬令、租庸調令等大改革があり、利根郡四郷にも統括する郡衙が現昭和村森下に置かれた。ヤマト王権の国造制は廃止され有名無実化していき国郡(郷)里制になり中央集権政治の体制に変わった(国郡里制は大宝律令701年で制度化され740年には里が廃止されて郷制になるー-参考:郡評論争)。国司はこの頃より任じられたが初期は小宰、大宰ともいい太宰府はその名残という。王土王民の改革理念はこの時にできたとされるが、これらの改革はすぐには進まずその後の近江令や大宝律令に至って徐々に具体化していった。 前支配者の総てが徹底的に破壊消滅させられた易姓革命がその都度起こっていた中国に対して、日本は古代から現在に至るまで王胤の家(皇族)と臣下の家の区別は常に変わることはなく続いて来た。これは世界に類を見ないという。 位階制度と官職制度のもとに臣下の家の中で家格が形成されて行き現在に至るまで、歴史上南北朝時代のように王胤の家の内部対立を利用した争いはあったが、戦争はあくまでも臣下の家の争いであったという>。
<<王土王民思想自体は中国の儒教や律令にもみられ、帝王の一元的・排他的な世界支配を象徴する考え方として説かれたが、日本の王土王民思想とは異なるとされる。ヤマト王権は前方後円墳ができる頃に成立した。初期は各地の有力豪族の連合体の長であり、近畿・北陸・東海・北部九州に広がり古墳の画一性から各首長の広域の政治連合であったとされるが、その後まもなく雄略天皇のときには既に「大王」と称されて、ヤマト王権の君主の号「治天下大王」が成立した。万世一系の王胤の家(天皇家)として受け入れられていたとされる。日本の「王土王民思想」はこの意味で中国にはなく日本独自のものという。また「律令」という言葉は秦時代より見られるが秦~唐~明の時代と共にその意味が異なるので「律令制」という言葉は中国にはないという。日本の律令制は唐の国家体制をモデルにしているが日本独特の律令制で律令格式(律:刑法、令:行政法、格:律令の施行法、式:施行細則)に基づく法治体制である。 この律令制は646年大化の改新以降具現化されていくが、本格的になるのは663年白村江の戦で唐・新羅連合軍に負けて国際的危機を感じてからからという(=律令格式という法体系とその実行組織としての官僚体制を備えた律令国家)。律令制は班田収授法・庚午年籍などによる個別人身支配の人民単位管理の徴税(租庸調)法であったために、人民の逃亡と荘園豪族の受け入れ・偽籍の増加などで公地公民制はやがて徹底されなくなり、三世一身法(723年)や墾田永年私財法(743年)により人民の土地所有が正式に認められて班田収授法は破綻した。律令体制の再編のために927年延喜式を編纂するなどの努力がみられ律令は残るが律令制の実態は崩壊した。そして律令制的な人民支配による租税収取方法に代わって10世紀初頃より、地方政治への大幅な統治委任や土地課税方法へ方針が変わり、「王朝国家体制」という統治体制に代わっていく。貧困層は偽籍・逃亡によって租税負担から逃れ、富豪層は墾田活動を通じて田地を獲得して貧困層を囲い込む。それに伴って国家の租税徴収体制も変わり、現地支配は富豪層に任せて、人別支配から土地課税方式に代わっていく。やがて富豪層の荘園や、国司とその在庁官人などの有力豪族は経済力・政治力・軍事力を蓄えていき武家社会に繋がっていく。>>
648年  大友皇子生まれる。
660年  百済が唐新羅連合軍によって滅亡する。 百済と高句麗が争っているときは遣唐使が新羅を通って唐から帰国する配慮を唐がしたことも有るといい高句麗・百済・新羅との日本の外交バランスは重要だったという。中大兄皇子は653年・654年連続で遣唐使派遣して親唐政策を模索していたが、660年百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされるもなお百済遺民の抗戦を知りその救援依頼に応えて日本に滞在していた百済王子 扶余豊璋を送り返し中大兄王子はその復興運動を援助し征新羅将軍として阿倍比羅夫らを派遣した。これが白村江の戦いに繋がる。
663年  白村江の戦。中大兄皇子は数万以上の兵を派遣し唐新羅連合軍と戦ったが大敗し、百済遺民も一掃された。中大兄王子は亡命を希望する百済貴族等の難民を受け入れた。この時上野国からも上毛野君稚子が将軍として兵2万7千を率いて新羅に出兵し戦功を立てた。以後対馬や北九州太宰府には防人を置くようになった(757年養老律令成立までは防人は東国からのみ徴用されてかつ税の免除も帰国手当もなかったので3年の年季明け後に東国に戻ることもできずに帰国途中で死ぬ者も多くいたという)。また唐新羅侵攻に備えて都を難波から内陸の近江京に遷都を計画した。       百済王子 豊璋王は唐により流刑されたが弟王子 禅広王は日本に亡命してその子孫は天皇より百済王氏の姓を賜り陸奥国の金を発見するなど平安時代中期まで活躍した。
  666年  白村江の戦以後急増した百済からの亡命人を近畿だけでは収容できなくなり百済人2000余人を東国に移動させた。
  667年  近江京遷都。翌668年天智天皇即位して近江令を制定して律令制度の概略を創設、大化の改新時の王土王民の理念が具体化されつつ681年天武天皇の律令制定の詔書により701年大宝律令につながる。行政区画の五畿七道や国郡(鄕)里制の制定もこの頃である。
  668年  新羅の僧道行が三種の神器の一つの草薙剣を盗みて新羅に逃げようとしたが戻ってきたという(草薙剣盗難事件)。
唐・新羅連合軍によって660年の百済に次いで高句麗も668年に滅亡。新羅が朝鮮統一した。高句麗人民は一部北方へ強制移住させられて、一部は日本に逃れてきた。武蔵国高麗郡は高句麗からの移民によって作られた(続日本紀)。
---(この頃が渡来人倭国移住:第4の波)。

(第一回の遣唐使派遣は630年に行われ舒明天皇が柵封関係を拒否したために関係がギクシャクし653年から遣唐使派遣が再開されたものの柵封関係のない緊迫状態での派遣であったために659年の第4次派遣の時には唐による百済討伐の情報漏洩を阻止するために唐側によって抑留されてしまい2年後に解放されて帰国した。この間の日本側は百済救援のために唐との対決を決断した(白村江の戦い)。その後も遣使は続いたが唐による倭国討伐の阻止と関係改善が主眼の派遣であったとされる。唐と新羅は柵封関係にあったが、間もなく唐と新羅も関係不穏となり675年には唐3代皇帝高宗の逆鱗に触れ新羅王の官職剥奪問題にまで発展した。しかし唐も朝鮮半島に兵を回す余裕がなくなり678年には新羅討伐を断念した。753年には唐の長安にて第6代皇帝玄宗の前で新羅の使者と遣唐使の大伴古麻呂との間で席次争いが発生したが唐は、新羅が日本の従属国であるとして新羅を下位に置いた。
なお、668年高句麗滅亡後に現地に残った高句麗遺民によって渤海国が成立したが、渤海国とは724年以来日本への朝貢国として平安時代を通じて頻繁に使節の交換をしていた。これは新羅をけん制する意図もあったという。)
近江令成る。天智天皇即位して近江朝廷が成立し、大友皇子に反旗を翻した大海人皇子(天武天皇)の壬申の乱まで続く。 天智天皇は近江朝廷で初めて太政大臣を置き天智天皇の太子大友皇子を据えた。近江での大友皇子の支持勢力が大友姓の始まりとされる。
  670年 唐・新羅戦争が勃発して6年後に新羅が勝利し朝鮮半島から唐が撤退し、新羅は朝鮮半島の中南部を統一して国家意識を高めた。
672年  壬申の乱。この年唐が日本に攻めてきたが国内混乱中につき貢ぎ物を送り戦わずして降伏。大友皇子に大海人皇子が反乱を起こし反乱側勝利、その翌年に天武天皇が王位に就く(671年12月3日天智天皇薨去、672年6月大海人皇子が美濃で挙兵、7月23日大友皇子追い詰められて自殺し大津京滅亡、673年2月大海人皇子即位天武天皇となり飛鳥に遷都)。大伴氏は大海人皇子側について戦う(なお823年淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた)。
  この頃大友氏により三井寺(園城寺)が創建され686年大友氏の氏寺として天武天皇の勅許を得た。後に延暦寺別院となり平安末期鎌倉時代の延暦寺三井寺の山門寺門の確執の一方の当事者となる。
681年  山上碑(上野三碑の一つ)成る(日本最古の石碑、群馬県高崎市山名町、佐野三家(ミヤケ)の子孫の僧がその母のために建立したという。漢文ながら日本語の語順で読めて日本語の流れの解明にも貴重な碑文という。古墳築造のエネルギーが寺建立のエネルギーに変わっていく頃を示すという)。 天武天皇が川島皇子らに日本書紀編纂を勅命。その臣下に上毛野三千の名がある。
  684年  八色姓が制定される。
  686年  天武天皇病没。初めて天皇を称号し始めて日本と称号したともいう(法典上は689年)。また神道を守ると共に仏教を国教化した。
  687年  新羅・高句麗からの移住者100余人を東国へ移動。
  689年  新羅人を東国へ移住。天武天皇・持統天皇は親新羅政策を執り新羅からの帰化人も多くいた。
飛鳥浄御原令が制定された。天武天皇の遺志を継いでこの年、持統天皇の時に飛鳥浄御原令が制定された。この時に国号「日本」、「日本天皇」号が初めてこの法典に正式に記載されたとされる。海外での初出は702年唐の則天武后に遣唐使が国名変更を初めて明言した。
  701年  大宝律令制定。近江令668年および飛鳥浄御原令689年を土台として体系的律令法典全17巻が初めて作成された。行政区画の五畿七道や国郡(鄕)里制が確立されて、律令制の国家体制が整う。740年には里を廃止して国郡郷制となった。前記利根4郷の名称もこの時期のものである。国名も二字表記になった。上野国は13郡(利根・勢多・碓氷・群馬・吾妻・片岡・甘楽・緑野・那波・佐位・新田・山田・邑楽・)で構成された。 <この律令制によって、大化の改新以来の王土王民思想の理念が、名実ともに天皇を中心とした中央集権体制に具現化して行く。具体的施策である公地公民制、一律兵役義務制、一律納税義務制、国郡里制、官僚制等が確立されるが、まもなく743年墾田永年私財法施行により100年足らずで容易に崩れ去っていく>。
  703年  持統天皇が火葬された。これ以降に火葬習慣が導入されて古墳文化も消滅していく。日本で初めての火葬は700年玄奘の弟子の道昭が本人の遺言により行われた(続日本記)。
710年  第43代元明天皇(天智天皇の皇女,持統天皇の妹)が藤原京から平城京に遷都して奈良時代始まる。
  711年  多胡郡が新たに設置され、上野国は13郡から14郡となった。利根郡は4郷、多胡郡は6鄕300戸であった。(通常1鄕は50戸、1戸は5~6家族20~30人で構成されていたという)。 多胡碑(上野三碑の一つ)成る(渡来人のために上野国に多胡郡を新設し羊太夫に支配させたという。藤原鎌足の次男の藤原不比等の時代で不比等は天智天皇の御落胤ともいう。現群馬県高崎市吉井町。書道の手本としても貴重)。
      712年  古事記成る。大化の改新・壬申の乱で天皇家の記録等が消失したために天武天皇の勅命で稗田阿礼の暗誦することを大安万呂が筆録して編纂した。天皇家の正統性を示すためと言われている。日本書紀と同じく元明天皇になって完成して献上された(天明天皇は平城京遷都・風土記編纂詔勅・古事記日本書紀完成等行った)。
713年  風土記編纂が元明天皇(大友皇子の妹)によって詔勅された。
     元明天皇により「好字二字化令」が出された。この後地名の漢字二字化や多くなり過ぎた同じ氏姓に各々住する地名を付けるようになったという。
714年(和銅7年)九州大隅国に桑原郡が置かれた。奈良後期に大隅国国衙を桑原郡(古代、贈於郡から桑原郡 が分立して国衙を置いた、現在の鹿屋市付近。肝属郡桑原郷とは違い、中世以降の桑原郡とも違う。)に置く。(領主は曽君一族の系譜を引くという。この頃から原住民の懐柔のため中央からの移住が各地で積極的に行われていた)(続日本紀)。 上野国守に大宅朝臣大国が任ぜられた。(古馬牧村史)
716年  東国各地から武蔵国に高麗人1799人を移して高麗郡(埼玉県日高市)を設置した。(続日本紀)
719年  上野国守に多治比真人が任じられた。相模国及び下野国の国守を兼務した。(古馬牧村史)
720年  日本書紀成る。663年白村江の敗戦から9年後672年に唐が日本に攻めてきて丁度天智天皇没のために戦わずして降伏し貢ぎ物を送ったことを契機に更にその9年後の681年に天武天皇が命令して、それから39年の歳月を掛けて出来上がった日本最初の史書と言われている。しっかりした歴史を持った正統な国で在ることを示すために遣唐使にも持たせたという。「日本」「天皇」という言葉も初めて使われたという (702年の遣唐使が則天武后に最初に使ったという。752年唐に再入唐して安倍仲麻呂と共に玄宗皇帝に仕えた吉備真備が書いた墓誌に「日本」の文字があるという)。
723年  三世一身法施行、20年後の743年墾田永年私財法施行。長屋王は食糧増産を目的にこの法令を作ったが、これによって公地公民制が崩れていく。この頃上野国の農民が蝦夷地を治めるために陸奥国・出羽国などの東北地方へ移住させられたという。行政区画と同名の道路の東山道は碓氷峠・坂本・野後・群馬・佐位・新田の駅路があったが沼田・川場・片品・尾瀬・會津の会津街道もあった。
  726年  金井沢碑(上野三碑の一つ)成る。(群馬県高崎市山名町、上野国群馬郡の三家氏が仏教に基づく祖先の供養とともに一族の結集繁栄を願って建立したという。「群馬」の文字が現れた最古のもの)。
729年  長屋王の変。藤原不比等の子の光明子の立后に反対していた長屋王が自殺に追い込まれた。藤原四兄弟によると言われており、藤原氏はこの頃より明治に至るまで1200年に亘って皇室との関係を密かに深めていく。これ以降明治に至るまで藤原氏が朝廷を牛耳って行くことになるきっかけである。
735年  国力を強めた新羅から国使が来たが追い返し、翌736年阿倍継麻呂が新羅へ外交使節と行くも礼遇を受けられず無礼であるとして以後新羅からの使いは大宰府に留置かれ入京させなかったという。この頃新羅とは険悪の関係であり渤海国が日本と関係良好であったという。
740年  藤原広嗣の乱。勢力衰退気味の藤原氏の藤原広嗣は太宰府次官に任命されたことを左遷されたと不満をつのらせて反乱を起こしたが鎮圧殺害された。治世に不安を抱いた聖武天皇が国分寺等を建立するきっかけとなった。
741年  国分寺・国分尼寺の創建の詔が第45代聖武天皇により発せられた。(聖武天皇の皇后になった光明子は兄達の藤原四兄弟が次々と亡くなり不安になり天皇に大仏建立等を強く勧めたという)。
上野国分寺は749年完成、金堂と七重塔高さ60メートルという。立派な寺とは反対に民の暮らしはかえって苦しくなっていった。税を払えぬ人々は寺社・貴族の私有人となり放置された田畑は益々荒れ税収も却って減少して悪循環となった。代わって723年三世一身法施行及び20年後の743年墾田永年私財法施行により有力者の荘園が成立していく。有力農民も武装化するものが出て来てこの頃より武士の出現にもつながっていく。 (寺社・貴族への寄進による荘園のほか豪族(地方有力者や武装農民)も独自に開墾地を所有するように成り名田・治田を所有するようになっていき自らの土地を守るために武装し、その武装農民がその後の桓武天皇の健児の制と共に武士が台頭するきっかけとなった。またその後1016年藤原道長が摂政になり国の富が藤原一族に集中していく。)
743年  聖武天皇が墾田永年私財法を出した。これによって藤原氏らの富豪や大寺院などが財力を蓄え天皇の力が衰え律令体制も変質していく。これまで飛鳥~奈良時代の約100年間は天皇の力が名実ともに強く、多くの遷都(允恭朝飛鳥京→645年難波京→655年飛鳥京→667年大津京→673年飛鳥京→683年難波京→694年藤原京→710年平城京→恭仁京→紫香楽→難波→745年平城京)や、多くの寺院建立等が天皇によって成されたが平安京以降は藤原氏や大寺院の荘園化が実権を握ってその役を担い天皇の力は形骸化して行く。(道鏡が太政大臣に就いた時に765年称徳天皇が一時停止をしたが、道鏡が失脚して再び772年許可されたため、荘園化の流れは止まらなかった。)
745年  行基(百済系日本人)が総国分寺の東大寺の大仏建立の勧進に貢献したことにより聖武天皇より大僧正の位を初めて送られた(続日本紀)。大仏造営中の749年81才で入滅、3年後の752年大仏開眼供養には行基が迎え入れたインド僧菩提僊那が導師を勤めた。銅は450トンが使われ、駆り出された延べ人足は当時の人口の半分近くに及んだという(当時人口600万人位)。インドや中国から1000人の僧侶が招かれ、集まった人の数は一万人を越えたという。この大仏建立は傾いていた財政基をガタガタにし、庶民の暮らしにも大打撃与え平城京には浮浪者や貧困農民があふれましたという。当時は水銀を蒸発させて金メッキを定着させる方法のために、多くの人が水銀中毒になって亡くなった人も多かったことが推定されると言い、後に橘奈良麻呂は、クーデターが未然に発覚し取り調べを受けた際には「東大寺の造営で民が苦しんでいる。政治が悪いから正そうとしたのだ」と言ったという。
749年  聖武天皇には後継男子がなく阿倍内親王が史上初の女性皇太子となり即位して第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)となる。史上6人目の女帝で天武天皇系最後の天皇と言う。譲位して7年後に聖武上皇が崩御した時に道祖王を皇太子とする遺詔を残したが藤原仲麻呂の意向が働いて孝謙天皇は大炊王(淳仁天皇・淡路廃帝)に758年譲位してしまった。この淳仁天皇も藤原仲麻呂の乱に加担したとして孝謙上皇により764年廃位され淡路国に流された。
753年  鑑真来日。唐玄宗皇帝の反対等様々な困難を乗り越えて6回目の密航、10年の歳月をかけてやっと来日、この時第10回遣唐使に同道した大伴古麻呂が唐の高僧鑑真来日に大きく貢献した。聖武上皇の庇護のもとに律宗を開き唐招提寺を759年開山し受戒の制度も初めて導入した。大伴古麻呂は757年橘奈良麻呂の変で拷問死した。
     この年、唐の朝賀で遣唐使の大伴古麻呂が新羅の使者と席次を争う事件が起き、唐は日本側の新羅が倭の従属国であるという主張を受け入れ新羅を下位においたという。
(新羅とは不仲になり779年を最後に新羅使の受け入れを中止していた。遣唐使派遣も菅原道真が894年に派遣中止の建議をする56年前の838年が事実上の最後になった。それに比べて、高句麗滅亡後その移民によって成立した渤海国とは727年~919年の間使節を送り合いその滅亡後に成立した東丹国とも平安時代を通じてその後も使節を送り合っていた。日本は渤海を朝貢国として捉えていたが日本に来た渤海使には、特別に毎日鹿二頭を準備したという)。
745年~760年 新羅で飢饉・疫病が発生して社会が疲弊して、新羅から日本へ亡命や帰化人が多数出たという。759年には淳仁天皇が大宰府に勅令を出して帰国を希望する者には食料を与えて帰国を促し、帰国を希望しない新羅人131人は翌年武蔵国に移した。この頃の新羅の国内は混乱期であり、新羅と日本や渤海とは険悪の仲であり、日本と渤海国とは友好関係にあった。
755年~763年唐の安禄山の乱発生。この乱で洛陽が陥落して皇帝玄宗は蜀に一時逃れ楊貴妃は殺された。日本に於いても758年には情報を得て反乱軍の来襲に備えて大宰府の警戒を強化して更には元々不仲の新羅へ侵攻することも計画された。この時朝廷の有力者であった藤原仲麻呂の新羅侵攻案は孝謙上皇に許可されず、まもなく仲麻呂自身が764年自らの乱で斬首されて中止となった。
「日本」という言葉は702年の遣唐使が最初に使った。720年の日本書紀にも「日本」の記録がある。752年に再入唐した吉備真備が中国で書いたという墓誌が最近発見されてその中に「日本国」の文字があり日本人による国外記録の最古という。
 吉備真備は2回遣唐使で唐へ行き735年753年に帰国。右大臣に就任は766年。藤原仲麻呂の乱をしのいで775年に81歳で死去。
日本の令制国(律令国)が33→66に増えたのは此の頃と言われて、その後江戸時代まで殆ど変らない。
757年  橘奈良麻呂の乱。強まる藤原仲麻呂の権勢に不満を持った橘奈良麻呂らが反乱を企てたが未然に発覚して443人が処罰され多くが獄死した。藤原仲麻呂(藤原南家)は政敵を一掃して一瞬の栄華を極めるが7年後には仲麻呂の乱で没落し一族は滅んだ。
764年  藤原仲麻呂の乱。淳仁天皇・仲麻呂側が敗走し仲麻呂は斬首され孝謙上皇・弓削道鏡側が勝利して一時権勢を握り、道鏡は政治を私物化して更に法王位も狙ったが果たせず、寵愛を受けた孝謙上皇(=後の称徳天皇)が770年崩御してから失脚して最後は下野国へ下向させられて没した。
勅旨牧は第42代文武天皇の勅旨に始まるとされるが、これらをきっかけに兵部省管轄の諸国牧等の官牧から独立した天皇直属軍備の必要性が増し厩を管理していた内厩寮管轄の下に天皇直属の勅旨牧(御牧)を置いたという。
勅旨牧のうち上野国9牧は905年の延喜式に記録されているのでこの頃よりあったかもしれない。利根の勅旨牧のオオアイ、クヤは沼田市内尾合、久屋にその名残があるといい拝志牧は昭和村糸井の小高神社の拝志荘に名残があるという。9つのうち3つが利根郡内にあったことになる。同じく利根の長野牧は勅旨牧ではなく諸国牧→その後811年葛原親王の私有牧となった。(延喜式によれば、勅旨牧は信濃16ヶ所・甲斐3ヶ所・上野9ヶ所・武蔵4ヶ所の計4ヶ国に設置され、各国に牧監モクゲンが中央から派遣されていたという。)
770年  第48代称徳天皇崩御。確定はされていないが前方後円墳の「佐紀高塚古墳」が陵墓とされている。一般に前方後円墳は東国においても畿内においても7世紀初頭に突然築造停止になったといわれ、646年薄葬令も出ている。もしそうだとすれば770年築造のこの前方後円墳は極めて特異な築造である。
771年  武蔵国が東山道から東海道に編入された。
780年  京都の清水寺が坂上田村麻呂により建立された。後に征夷大将軍となった坂上田村麻呂が802年に屈した蝦夷の首領のアテルイを連行し勇者として助命嘆願したが聞き入れられず河内国で処刑され、その碑が清水寺境内に今もあるという(阿立流為アテルイとその同胞母礼モレの碑)。
781年  桓武天皇45歳で即位(父の光仁天皇の皇后・皇太子が急逝したために山部王(壬申の乱の山部王とは別人)が皇太子になり更に桓武天皇となった。母は百済系渡来人。70歳で薨去)。
783年頃  万葉集成る(持統天皇の頃より編纂が始まり783年全20巻が大伴家持によって纏められて完成したという)。
784年  3年前に就任した桓武天皇はこの年大伴家持を初代の征夷大将軍に任命(坂上田村麻呂―百済系渡来人氏族―は第3代目。2代は大伴弟麻呂。正確には大伴家持は征東将軍で2代目大伴弟麻呂の時に征夷大将軍と改称した。)して東国平定に心を砕かれて、10年後に平安京に遷都する。北毛利根の地は奥羽攻略上の前線基地であり長野牧等は兵馬調達の戦略上重要な地域であったという。桓武天皇第3皇子の葛原親王が811年長野牧を下賜され838年には上野国太守となる。
787年  官人(国司や王臣)が蝦夷の馬を買い漁ることを禁止する太政官符が出された。796年には官馬が盗み取られた報告が上野国からあり焼印の規格を定める太政官符が出された(類聚三代格)。(当時の馬が貴重な財産であったことを示す)。
792年  桓武天皇が健児(こんでい)の制を発布。これにより一般農民の兵役の義務がなくなり武芸に秀でた者を選抜して軍団を組織し健児には税を免除して軍務に専念できるようにした。これがやがて平安時代後期院政時代の武士につながっていき、有力農民も武士化してくる。
794年  桓武天皇が平安京に遷都。桓武天皇の母は百済人という。(父は和乙継ヤマトノオトツグという百済系渡来人の氏族であり、姓カバネは史フヒト、のちに高野朝臣を賜姓された。2001年12月18日天皇誕生日に平成の今上天皇が桓武天皇を例にとり日本と韓国とのゆかり発言をされている。)
795年  日光山を開いた勝道上人が上野国国分寺の講師となり同寺に滞在したが子持山の麓にも小庵を結び数年滞在していたという(篠尾寺屋敷)。この時に観世音の小像を自ら刻み今でも実相院宝殿に腹子観世音像としてその胎内に保存されているという(北毛乃史跡と伝説)。 797年  続日本紀が成る。勅撰国史(六国史の第二)として第50代桓武天皇の時に全40巻が完成した。(第20巻758年(天平宝字2年)6月の条に同祖の桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史らが桑原直姓を賜う(同族,史=ふひと,直=あたい)、また同条に帰化した近江国の桑原史人勝ら1155人が桑原直姓を賜う、天平神護2年(766年)2月桑原村主岡麻呂ら40人に桑原公(きみ・君)の姓を賜う、等とある。姓(かばね)制下(公キミ・臣オミ・連ムラジ・直アタイ・史フヒト・村主スグリなど)では史=ふひと=文書記録を司る役、という。
  806年  桓武天皇70歳で薨去。前年の徳政論争により平安京の建設と東北征伐を諦めたという。この後朝廷の力が弱まり700年に亘る武士の乱世になって行く。
808年  保高山(武尊山)から武尊明神を沼田郷に移し榛名宮の始となった。
  808年  大同類聚方成る。(漢方医学の流入に対して和法医学の衰退を危惧した桓武天皇の遺命でその逝去数年後に成った日本最古の和方医学書。
811年  第52代嵯峨天皇より葛原親王(第50代桓武天皇の第3皇子、父:桓武天皇、母:多治比真人長野真宗タジヒマヒトナガノマムネ)に上野国利根郡長野牧(旧古馬牧村等、現上牧下牧)を賜う。これによって長野牧は官牧から葛原親王の私牧になった。(日本後紀、沼田町史、古馬牧村史)。この頃上野国内には政府が設置した官牧(勅旨牧=御牧と諸国牧を含む)と私牧がいくつもあったという。勅旨牧は本人が死亡すると政府に回収されたという。
     この年、新羅の賊船の3艘が対馬に上陸、以後しばしば対馬・壱岐・博多方面を襲った(新羅の入寇)。
811年~997年 新羅の入寇(新羅の属、新羅宼) 新羅による海賊行為、流民や帰化人だけでなく新羅王勅命の国家規模の海賊行為もあった。但し朝鮮側の資料には後の記録にも全くそれに触れたものはなく、倭寇などに苦しめられた被害記事のみであるという。これらの新羅宼は918年の高麗国の成立によって日本側の史書にも見えなくなった。
815年  新撰姓氏録成る。(嵯峨天皇の命により編纂された新撰姓氏録に皇別・神別・諸蕃に分けて姓氏が記述され、皇別の桑原氏は多奇波世君を祖とし、諸蕃の桑原氏は万徳使主を祖とするとある。
817年  天台宗開祖の最澄が円仁(慈覚大師、のちの第3代天台座主)ら弟子を引き連れて旅の途中、上野国緑野郡緑野寺(浄法寺ともいう)で講説し9万人の人々が集まったという。その後848年には円仁が迦葉山龍華院弥勒寺を開山。円仁の出自は下野国都賀郡という。
【上野国の緑野寺(みどのじ)は鑑真の弟子の道忠が奈良時代に創建した。平安時代には最澄の東国教化の中心道場として栄えたが戦国時代には衰退した。緑野寺には天台宗の象徴とされる相輪橖(相輪塔)があり最澄が全国6か所に建てたうちの一つである。現在の相輪橖は1672年に再建されたものである。】
818年  赤城南麓大地震発生。 (892年完成の「類従国史」の弘仁9年7月の項に記載有り)。
825年  葛原親王がその子に臣籍降下を上奏して平姓を許される(孫の高望王が889年宇多天皇の勅命で平姓を賜与された)。(平姓を許されてから名乗るまで64年かかっている)
826年  清原夏野(天武天皇曾孫)の上奏により親王任国の制度が制定され、常陸・上総・上野の3国のみ親王任国とされた。従って国守は国介と呼ばれるようになった(現地最高位の国守は常陸介、上総介、上野介と呼び国守は現地には赴かず太守と呼ぶようになった)。
831年  葛原親王が一品親王に叙せられる。
838年  桓武天皇第3皇子の葛原親王が上野太守となる(続日本後紀)。842年には秀良親王に交代し葛原親王は再度常陸国太守に転任(当時は定期的人事交代をしていた)。
840年  日本後記成る。
848年  葛原親王を開基、慈覚大師(円仁)を開山として上野国利根の地に迦葉山龍華院弥勒寺が建立される。開祖は天台宗だったが、其の後戦国時代の住職慈雲が禅問答に負けて1456年天巽禅師により曹洞宗に改宗した(本尊は変えず:本尊は変えずに全国普及に努めたのが曹洞宗の特徴と言う)。その弟子中峰尊(中峰大薩埵)が天狗伝説の原型になったという(師である天巽禅師が亡くなり自分の役目は終わったと峰から天狗のように飛び去ったという)。迦葉山龍華院の本寺の神奈川県南足柄市にある大雄山最乗寺(1394年了庵禅師開山,道了尊はその弟子)の道了尊(道了大薩埵)の天狗伝承と同じという。本来ならば由緒ある迦葉山が本寺であるべきなれど法嗣継承が上手く行かず末寺になり、迦葉山末寺であった清源院(厚木市)、舒林寺(沼田市)、等80ヶ寺余の末寺・孫末寺が離れて行った(永福寺(太田市)は龍華院末寺のまま残った)。(池田村史)
      慈覚大師円仁は第3代天台座主になったが其の弟子たちと第5代天台座主円珍の弟子たちが対立し延暦寺・園城寺の争いが生じ、次第に堕落していき延暦寺は世俗以上の俗にまみれてしまったためにその反省に立って平安末期から鎌倉時代に到り延暦寺に学んだ法然、親鸞、日蓮、栄西、道元などが新仏教宗派を開くようになる。
850年  葛原親王が太宰府帥(長官)となる。(墓所・宅地跡ともに京都にあるという)。
853年  上野国利根の地に発知村が記録に現れる(開村)。(池田村史、沼田町史) 発知の地名は日本武尊が東征の折立寄られて地を開いたとの意で発知と名附けたともいう(上発知町史)。
864年  富士山の貞観大噴火発生。青木ヶ原溶岩はこの時に出来た。
869年  東北地方に貞観地震発生。
880年  在原業平没(桓武天皇の孫、六歌仙の一人、伊勢物語の主人公とも云われる)。
889年  大宅真人(利根氏)が長野牧牧監として長野大神宮を創建。(棟札が古馬牧村下牧に保管されているというーー古馬牧村史)
889年  葛原親王の孫高望王(平高望タカモチ、桓武天皇の曾孫)が初めて平朝臣の姓を賜り、898年常陸上総介(その後上野太守)に任官した。これが平氏の祖となり子孫が発展した。 ☆任官しても任地に赴かないのが普通の中、高望王と下記その子らは任地に赴いて任期終了後も帰らず土着して開拓して財力を蓄えて行き武士団を形成していく(高望王は902年国司で大宰府に赴き911年大宰府で死亡)。 長男国香(常陸国中心、伊勢平氏常陸平氏の祖、平清盛は8代後裔にあたる)、 次男良兼(上総国中心、父高望の任期終了を継ぎ上総介となる)、 三男良将(良持、下総国中心、将門の父、良兼の婿)、 五男良文(武蔵国中心、側室の子、坂東八平氏の祖となる)、以上の通り桓武平氏のうちの高望王流武家平氏は東国で生まれその祖となって以後全国に拡がって行くことになる。相模平氏もその一つである。
  901年  昌泰の変。菅原道真が藤原氏との政争に敗れて九州太宰府へ左遷された。
      この藤原氏の他氏の排斥は承和の変(842年)・応天門の変(866年)・菅原道真の左遷(901年)・安和の変(969年)等と続き、さらに寛和の変(986年)等の身内同士の争いを経て藤原一族内での天皇家の外戚として不動の地位を獲得し「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と歌わしめた藤原道長(966~1028)に続く。
902年  高望王が九州西海道の国守となり太宰府に赴任。(903年菅原道真太宰府で死亡、911年高望王太宰府で死亡)。
905年  上野国に勅旨牧九牧が定まる。(トカリ、アリマシマ、ヌマオ、ハヤシ、クヤ、イチシオ、オオアイ、シオヤマ、ニイヤの9つ。クヤとオオアイは利根郡内という。オオアイは白澤村尾合にその名残ありというー白澤村史、クヤは長野牧とも久屋原とも言われるー古馬牧村史)。長野牧は既に811年葛原親王に下賜されて私牧となっていた。朝廷直営の勅旨牧、律令国管理の諸国牧、私営の牧、があったという。官牧である勅旨牧・諸国牧の牧監(モクゲン)は律令国毎に置かれ、牧毎に牧長が置かれ牧長は地域有力者が任命されていたという。
915年  在地国守の上野介藤原厚載が上野百姓(庶民のこと)の上毛野基宗らに殺されるも朝廷は武力で対処出来なかった(朝廷のコントロールが効かなくなっていた)。
931年  染谷川の戦。東下途中の平将門(高望王の孫)と平良文(高望王の子)が上野国国府付近(群馬町引間)で戦い妙見様の加護で平良文が勝利(妙見信仰の伝承、新編武蔵風土記)という。
935年  承平天慶の乱始まる。
938年  倭名類聚抄が源順により成る。
939年  平将門が常陸国・下野国の国府を落とし更に12月19日には上野国も落として(在地国守の上野介藤原尚範を追放)関東一円を手中に納めて「新皇」を自称し独自政庁を下総国岩井に置き諸国の除目も行った。
940年  平将門の乱終息。 長野牧牧監の利根平八郎が平将門追討軍に利根氏として記録に見える(前太平記、古馬牧村史)。 この乱で利根平八郎と共に平氏の一統、利根に来たりて井土上の荘田城に住し、これが平経家の祖となった(経家は平将門を討った藤原秀郷の後裔とも言われる)、という(荘田城(荘田館)のはじまり)。(江戸時代の前太平記によれば平将門が上野国沼田荘の美女を奪ったという)。
     (『続々群書類従』第四の「沼田記」によれば平将門の頃は既に繁栄していた七田の庄(師・下沼田・恩田・町田・硯田・川田・庄田で沼田荘の始まり、渭田郷に相当)があり、盗賊が跋扈する中でこの天慶の頃に平経家の祖先が井戸上の荘田城に移住してきてこれを尊敬のもと受け入れたとある。のちに子孫の平経家は平清盛から利根郡・勢多郡の荘官に任ぜられた。清盛の父の平忠盛は左右馬寮権頭になっていて全国の諸牧を管掌する立場にあった。桓武平氏は牧を媒介として地方武士の平氏への家人化も起きていたと言われる。)(沼田市史)
第56代清和天皇の子・孫の計16人が臣籍降下して源姓を賜ったが特に第六皇子貞純親王(桃園親王)の子経基が源姓を賜り(第52代嵯峨天皇以来の多数の源姓があったが)清和源氏の祖となり子孫が発展した。
      ☆経基の一子源満仲とその長男頼光(摂津国を本拠)、満仲次男頼親(大和国を本拠)、満仲三男頼信(河内国を本拠、義家は孫、義朝は六代後孫)らの源氏の初期は、平氏が関東を本拠地にしたのとは対照的に、畿内を本拠地に力を蓄えた。その後1028年長元の乱(房総3国での平氏反乱)、1051年~前九年の役(奥州安倍氏討伐)、1083年~後3年の役(奥州清原氏討伐)さらに1156年保元の乱、1160年平治の乱を経て東国にもやっと根をはるようになり、平氏政権打倒の以仁王の令旨をきっかけに1185年源頼朝がやっと政権を取る。東国では河内源氏が席巻してくるがその下地を形造ったのは関東へ土着した平氏であり、東国の武家平氏達はそれを下から支えることになる。逆に源氏に圧された一部平氏が伊勢・京へと戻っていき後に清盛が出る。
947年  北野天満宮創建。903年失意の中で菅原道真が大宰府で亡くなってまもなく道真左遷に加担した者達が次々と死に930年には清涼殿に落雷が直撃して大納言ら6人死亡、醍醐天皇もその3か月後に薨去する等都に異変が続き、道真の崇りだと恐れられてこれから天神信仰が始まったという。御所から見て乾の方角の京都北野の地にはもともと火雷神という地主神が祀られていたが道真の怨霊を鎮めるために創建された北野天満宮が天満大自在天神などと称されたために元々あった天神社が後付で道真の天神信仰に結び付いたという。御所の隣には道真の一族の桑原氏(現中京区桑原町)が住んでいたが何故かそこには雷が落ちなかったという。
<道真は842年承和の変で藤原氏が勢力をのばしてきた頃の845年に生まれ26歳で試験に合格して役人になり27歳小内記,28歳存問渤海客使,30歳従五位下,民部少輔, 33歳で式部少輔,その9か月後には文章博士,と順調に出世,自宅で菅家廊下という私塾も開き多くの弟子も育て20歳年上の在原業平とも交流していた。祖父も父も文章博士であったが文章博士は妬まれ易く父からは注意するように言われていたという。42歳讃岐守として転勤,4年後に京に戻るが讃岐守在任中に阿衡事件で菅原道真の意見書を提出し宇多天皇の信任を得る。47歳蔵人頭,49歳参議,53歳権大納言兼右大将更に1か月後正三位中宮大夫,55歳右大臣兼右大将,56歳1月正2位に叙せらる。同2月突然の大宰権帥として左遷命令、道真の門人達や息子も左遷された。藤原定国・時平ら藤原一族の妬みによる陰謀であったと言われている。903年大宰府にて没。
この頃はまだ役人任命に家格世襲の概念は薄く、実力主義と皇統との姻戚関係の方が強く、家格固定化と世襲化は朝廷社会も武家社会ももっと後世で戦乱の世が落ち着いた江戸時代以降とされる。
菅原道真の出自は出雲の野見宿禰で、第11代垂神天皇の側近でその皇后が亡くなった時に生きた人間を埋める代わりに土器の人形を埋めた方が良いと提案して垂仁天皇が受け入れたのが埴輪の始まりといい(それまでは人身御供・殉死で生き埋めにしていた)、この時に土師連ハジノムラジ姓を賜った。以後土師氏を名乗っていたが781年第50代桓武天皇即位2か月後に時の家長の土師古人が大和国添下郡菅原の地名の菅原氏を賜ったという。桓武天皇の父は百済渡来系氏族,母は土師氏。学者家系の菅原氏・大江氏も共に土師氏がルーツ。道真の母は大伴氏。> 
981年  沼田根元記巻六に拠れば沼田が開発された。
  984年  医心方成る。丹波氏により日本最古の漢方医学書成る。
(808年に成った日本最古の和方医学書の「大同類聚方」と共に日本最古の医学書である。なお、「黄帝内経」は4000年前に既に成っていた中国最古の医学書とも科学書とも哲学書とも言われ、中国医学・総合医学の原点の理論書である。漢方・鍼灸・気功などは総ての中国医学はこれから発展してきた。現代医学の生活習慣病は食生活等の改善が主体であるが、「黄帝内経」は物質の接種排泄の出納バランスだけでなく感情の出納バランスも含めた生活の質全体を問う理論書である。即ち人の感情の摂取・排泄のアンバランスは感情の生活習慣病をも招くという考え方である、という。) 
1000年  この頃「枕草子」成る。第66代一条天皇の定子皇后(1000年死亡)の侍女の清少納言により随筆「枕草子」が成る。この数年後1008年頃に同じ一条天皇の皇后の彰子(史上初の一帝二后)の侍女になった(定子死去して清少納言が宮仕えから退去後に侍女となったので面識なし)紫式部により「源氏物語」が成った。その約200後1212年には鴨長明により随筆「方丈記」が、約300年後1330年頃吉田兼好により随筆「徒然草」が成立した。 1013年  伊勢平氏の祖の平維衡(清盛の曾祖父)が上野介となる。(その後源義家ら河内源氏に圧されて東国から伊勢に下向し白河法王の治政下に更に北面武士に列せられ勢力を付けて5代孫の平清盛が出る。清盛の父の平忠盛(平維衡の孫)は西国の国司を歴任して西国武士との主従関係を築いていたが、院御厨司別当及び左右馬寮権頭を兼務していた時には全国の諸牧を管掌する立場になり、牧を媒介として東国武士の平氏への家人化も起きていたと言われる。上野国利根郡の平経家の祖もその一環と思われる。)
1016年  藤原道長摂政となる。翌年太政大臣となる。
1020年  3月下旬に刀伊入寇。刀伊国(満州女真族)から賊が舟50艘ほどで九州壱岐・対馬・博多・能古島に来襲、壱岐守の藤原理忠や領民350人余りが殺され、1000人余りが捕虜になったが、大宰権帥の藤原隆家や九州豪族らが協力奮戦して神風も吹いて1週間ほどで追い払ったという。無量寿院造営に沸く平安京に居た藤原道長に1か月後の4月17日に報告された。1274年元寇より254年前に既に女真族による海外からの来襲があったことを示している。
1031年  この頃紫式部没(異説多数あり)。
1062年  安倍貞任・藤原経清が源頼義・義家・清原光頼軍に破れ討ち取られ安倍一族滅亡(前九年の役=1051―1062年=奥州12年合戦)、藤原経清の遺児が清原氏に母共々引き取られて清原清衡(後の藤原清衡)となる。藤原経清は錆びた刀で鋸引き斬首されたという。利根郡上発知村の阿部氏は安倍一族の末裔という。(池田村史)
1063年  下牧村玉泉寺の八幡宮を利根太郎宗平が建立。棟札が下牧公民館に保管されているという。利根太郎宗平は奥州征伐等源義家に仕え沼田姓を賜る。師の小字上の原に大友良部助善正が住した大友氏居館址の碑(大友館)があり子孫が後年建てたものといい平経家の祖という(古馬牧村史、このコメマキムラ史に従えば平経家の祖は古墳時代の難波皇子の子大宅真人の末裔の利根氏でもあるということになる)。源義家が奥州征伐凱旋の折に甲冑をその八幡宮に収めたという(北毛乃史跡と伝説)。
1087年  後三年の役(1083―1087年)。清原氏内紛で清原清衡・源義家が勝ち清衡は父の姓藤原清衡を名乗る(清衡の妻子は全員殺された)。源義家は戦功を認められず私戦と非難され、配下への恩賞は私財を放出した。上野国はじめ関東を育んだのはもともと平氏であったが、これがきっかけとなり、後に関東に於ける源氏の名声を高め頼朝の勝利に繋がる。清衡は藤原清衡から三代栄華を極めるが後に源義経の扱いをめぐり四代目泰衡就任直後に1189年奥州藤原氏は滅亡した。上州藤原村はその落人部落と云われている―(北毛乃史跡と伝説の宝川温泉伝説など)。(上州藤原村の落人伝説は3系統あり、平将門が940年猿島で敗死したその残党が藤原郷山口に土着したこと、1062年前九年の役で安倍貞任が敗死して藤原に土着したこと、1189年源義経と共に藤原泰衡も家臣に裏切られて殺害されてその一族が藤原の大芦に土着したことの3つである。安倍一族は今でも湯檜曽や上発知村の阿部氏がその末裔と言う。大芦の藤原氏は全戸中島姓を名乗ったという。『群馬歴史散歩』137号1996年・『池田村史』等。)
1091年  上野国の土井荘が藤原氏の荘園として「後二条師通記」に記される。
  1108年  浅間山の天仁大規模噴火発生、奈良の百塚にも浅間軽石B層の若干の堆積をもたらした。この時上野国一帯が埋まり田畑の再開発で豪族の私有化とその荘園化が一気に促される契機になったという。
(荘園とは貴族・寺院などの有力者・権力者が私有地化した土地。荘園制度とは朝廷がその私有化を既成事実として認めてしまった制度をいう。在地豪族が開発した土地を見かけ上は中央の有力者に寄付をした形にして、荘園化しておいて実質支配は在地豪族が行う形態も出てくる。)
  1137年  安楽寿院が鳥羽離宮東殿の地に鳥羽上皇により造営された。利根荘はこの頃安楽寿院の所領になっていたという。 1142年  安楽寿院領足利庄が成立。足利庄は源義国が安楽寿院に寄進し、家人の藤原姓足利家綱が開発領主として在地の下司となり源義国がその預所職(統括職)となった。その後源義国の次男源義康も父から足利庄を相続して足利義康を名乗りその下司職になっていたという。この時はまだ藤原姓足利氏と源姓足利氏は協調関係にあった。
       (この年、近江三井寺の僧侶達により延暦寺が焼き討ちされた。この前後も993年以降の「延暦寺三井寺(山門寺門)の確執」から相互に殺害や焼き討ちが繰り返された。
延暦寺は平安時代後期には琵琶湖の利権や莫大な寺領荘園を持ち、武装した僧兵を養い強大な権限を持つようになり、仏の教えには関心もなくただ立身出世しか願わない者も出て来て世俗の世界以上に俗にまみれて延暦寺は堕落して行く。白河法皇も「鴨川の水害、双六のサイコロの目、強訴を繰り返す比叡山延暦寺の僧兵の三つが思うとおりにならない」と嘆いたという。そんな中で新興宗教の担い手たち(法然・親鸞・日蓮・栄西・道元ら)は初めあこがれの比叡山に学びやがて失意の中から独自の道を歩んで行く。その後も延暦寺の権勢は戦国時代まで高め維持され織田信長とも対立する。)
1143年  鳥羽上皇が1137年創建した安楽寿院の所領の荘園のなかに利根郡の荘園として土井出笠科庄がその範囲の記録とともに現れ利根郡の東半分を含んでいた(東:根利山、南:昭和村長井坂、北:越後境、西:隅田荘。薄根川流域も含むというので利根川以西が隅田荘か(沼田市史。安楽寿院古文書)。鎌倉以降の地頭は大友氏だが安楽寿院領目録には1306年に地頭から年貢を納めた記録がある。これ以降安楽寿院領ではなくなり、万里小路家領・大友氏所領が混在?1364年大友領になったがその後の1428年建内記にも万里小路家所領争いがある)。       (沼田榛名神社鐘銘1290年では既に「利根庄」が現れて薄根鄕を含み1364年大友氏時所領注進状案では利根庄=土出庄=土井出笠科荘となって広範囲で用いられている)
1150年  源義国は藤原実能と争って家臣が京屋敷を焼き払った等で勅勘を蒙り下野国足利庄に下り謹慎。初期の頃は藤原姓足利氏とは協力しながら領地開発をしていたというが開発が進むに従って競合関係になっていく。
1156年  保元の乱。この時多くの信濃国・武蔵国の武士が源義朝側で参戦したが、秦河勝(更級郡桑原郷)の後裔の秦能俊や村上為国ら信濃の武将200騎が崇徳院側で参戦し敗れて、秦能俊は土佐の長曾我部に隠れたという(桑原村誌 更埴市)。
1157年  新田庄が成立。源義家の孫で源義国の長男の新田義重が空閑地を開発して私領を形成して寄進したことにより、花山院藤原忠雅(平氏方)の任命で在地の下司職になり新田庄が成立した。        源義国の長男新田義重が上野国八幡庄と新田庄を相続し新田氏の祖となり、次男の足利義康が源姓足利氏の祖となる。        上野国の各地の荘園化は1108年の浅間山天仁噴火以後に成立していったという(日本歴史地名大系第10巻1987年)。 (安楽寿院領の土出笠科庄も同様に寄進されていたものと思う)。
1159年  平経家(利根四郎経家、和田四郎経家)、18才の時一族と共に京に上り平治の乱の後に平清盛より上野国の利根および勢多の地の二郡を賜う。(1156年ともいう。この利根・勢多は現利根沼田全域を含む)。(川場村の歴史と文化、古馬牧村史)。沼田根元記巻六に拠れば沼田4代目が上洛して平清盛公より利根勢多両郡を拝領すとある。
(相模国波多野遠義の子の大友経家は上野国沼田氏を継ぎ、経家の弟沼田家通は相模国沼田郷を開発しその子孫が越中沼田氏の祖となったともいう。武蔵国足立郡沼田郷の沼田氏も相模の縁戚という。経家の兄波多野義通は相模国波多野荘を継ぎ、保元・平治の乱では源義朝に味方して戦い、義通の妹は義朝の側室となり源頼朝の異母兄の源朝長を生んだ。「駒澤史学」1975年)。(波多野系図では波多野遠義の子に波多野義通、河村秀高、大友経家、波多野義景、菖蒲実経、沼田家通、河村実親がいる。)
1167年  平清盛が太政大臣となる。
1170年頃  表面上は清盛に従いながら内実では源氏方として伊豆流配中の頼朝に経家は娘(利根局)を1172年側室に差し出し世話をさせる。
1171~4年 奈良村は承安の頃沼田左衛門経家領、とある(群馬県利根郡誌(千秋社1996年)。(立村前から平経家の領地と認知されていたと思われる)。
1172年  平経家が平清盛より相模国足柄上郡大友郷を賜る。平経家は前期沼田氏=大友沼田氏の祖。 頼朝側室の利根局が大友能直を生む。頼朝は中原親能(藤原親能、)に利根局を娶らせて中原親能の子として育てた。 (平経家(利根四郎経家、大友経家、波多野経家、和田太郎経家)の祖は平将門の後裔ともその乱を鎮めた藤原秀郷の後裔とも言われるが、相模国波多野遠義の子で、三浦氏との関係も元々深い。経家の妻は三浦義継の娘である。相模国足柄上郡沼田郷(現南足柄市沼田城山に相模沼田城址がある)にも波多野一族相模沼田氏がある。これは平経家の弟の沼田七郎家通で越中沼田氏の祖という。平経家は上野国大友沼田氏=前期沼田氏の祖とされている。)(沼田町史、白澤村誌、尊卑分脈前田家本、続々群書類従第四、池田村史)
1179年  治承3年の政変。11月平清盛が福原から上洛して後白河法皇を幽閉し、院政を停止。
1180年  2月安徳天皇即位。 4月後白河法皇第3皇子以仁王が平氏追悼の令旨を発し以仁王・源頼政は足利忠綱(藤原秀郷流の藤原性足利氏で源姓足利氏とは別)により早期に鎮圧されて敗死。源氏方についた三井寺、延暦寺は平家方によって焼かれた。
8月以仁王の令旨を受けて源頼朝伊豆国蛭ヶ小島(現伊豆の国市四日町)で挙兵。石橋山の戦いで頼朝が敗れて安房国へ逃れる。 10月源頼朝が鎌倉に入り所願成就を願って相模国桑原郷を鶴岡八幡宮に寄進した。(吾妻鏡)       新田義重は荘園領家の家人として京に居て頼朝討伐の名目で上野国に下ったが鎌倉街道・東山道の要衝地の寺尾城にて兵を集め、初め頼朝を軽視していたが安達盛長の説得で源頼朝に帰属した。       木曾義仲は信濃制圧後に父の縁を頼って上野国多胡庄に来て兵を集めた。この頃新田義重と木曾義仲の関係は同族ながら反目し合っていた。
1183年  足利忠綱は頼朝方の小山朝政軍と戦い敗走、この時父足利俊綱も家臣桐生六郎に殺害されてここに藤原秀郷流の足利氏の嫡流は頼朝によって滅亡した。
1185年  鎌倉幕府成立(征夷大将軍に任ぜられるのは1192年)。1185年4月壇ノ浦の戦で平氏滅亡、沼田太郎実秀も参戦。 7月文治京都地震(方丈記)。 12月後白河法皇より文治の勅許(守護地頭の設置とその任免権)が頼朝に与えられ、大江広元の提案で公領・荘園を問わず全国に守護地頭を置くようになった。これをもって幕府成立と考えられるようになった。 (1180年鎌倉大倉郷に侍所設置、1183年東国支配権の宣旨、1190年公卿に任ぜられ、1192年征夷大将軍に宣下)。 (上野国守護は安達盛長がつき、頼朝没後の1285年の霜月騒動で安達氏滅亡するまで代々将軍の代官として地頭などの上野御家人の管理統制と警察権を行使し、権力基盤を強化していった。1285年安達氏滅亡以降の上野国は北条得宗家の守護国となり北条の権限浸透に伴って在野の武士の反感を買うようになりやがて新田義貞等の挙兵に繋がっていく。)
1186年  大友経家、頼朝より利根の地頭職に任ぜられる。この頃から大友一族が利根沼田全域を支配。利根荘は大友氏領となっている。この頃の利根荘≒沼田荘≒隅田荘で土出笠科荘の西側利根郡を云う。土出笠科荘は安楽寿院領であるが従前より平経家が地頭であった。
1189年  頼朝による奥州出兵により奥州藤原氏滅亡、この時大友能直も従軍している。その落人部落といわれている利根郡藤原村は数年後の頼朝の富士の巻狩の人足帳に既に記録が有る(みなかみ町藤原)。 この時の功により佐原十郎左衛門義連は陸奥国会津を拝領した。その子盛連が三浦半島の地蘆名に因んで蘆名氏を名乗り代々黒川城(会津城)城主として君臨した。
1190年  大友実秀(上野沼田太郎実秀)が頼朝に従って後白河法皇の命で上洛(吾妻鏡北條本)。(吾妻鏡の建久元年11月7日条には上野沼田太郎とある。一方建久3年11月2日条には単なる沼田太郎とありこれは相模沼田太郎ともいう。)
1192年  源頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。
1193年  源頼朝が富士の巻狩を行う。その時の夫人足帳に利根郡29ヶ村から384人との記録あり、隣村岡谷村・発知村・川場村の名はあるが奈良村・秋塚村・横塚村の名はないので未だ分村成立していなかったと思われる。奥州藤原氏の落人部落といわれる藤原村は既にこの時記載有り。
1193年  相模国大友郷に住する大友能直は22才で、頼朝より豊前、豊後の守護職に任ぜられ、かつ鎮西奉行(鎮西守護職)となる。
鎮西奉行はその後元寇以降は鎮西探題との名称で充実されて更に室町時代に入って九州探題と言われるようになったという。鎮西奉行は複数名いたという。
1196年  大友能直九州に下る。豊後の地で神角寺の戦で大神一族を征し家臣団に組み入れた(大友能直は父は源氏、母は平氏、養父中原親能は藤原氏ゆえに大友の三姓と言われる)。この時点で大友氏は九州にあって、豊前・豊後・相模・利根等の多くの地を支配することになり有力豪族になっていった。九州・京都を往き来していたと言う。このために豊後国下向は三代頼泰の頃と主張する学者もいる。能直の頼朝庶子説も否定する学者もいる。大分県史では郷司古庄能成の子としているが『寛政重修諸家譜』は源頼朝落胤説を採用している。大友能直の母が平経家の娘の利根姫であること、及び能直が頼朝の寵愛を受けていたことには異論がないようである。相模国の波多野氏は源氏とも藤原氏とも言われるが経家が平氏を名乗っているのは母方が平氏であったためかもしれない。平将門の縁者が上野国利根の地に流寓してきて以来相模国波多野荘との関係が経家以前からあったと思われる。
1199年  源頼朝落馬して急逝する。   この年鎌倉浪人の石田勘解由ら上野国上州利根郡奈良村に流寓す。この時に奈良村が開村したと伝わる(上野国郡村誌)。奈良古墳群の隣村秋塚村横塚村の由来はワキヅカ、ヨコヅカから来ているという(横塚は愛宕神社の旧名野狐塚ヤコツカが訛ったものともいう)。
1207年   2月親鸞が越後へ流罪。 親鸞は29歳で比叡山を下り法然の弟子になり35歳で越後へ流罪、同時に法然は土佐に流罪。法然・親鸞共に延暦寺や興福寺から専修念仏は規律を乱すものとして朝廷へ処罰を上訴されていたが流罪の直接原因は後鳥羽上皇の不在中に弟子たちがその寵愛する女官たちを念仏会に加えていて後鳥羽上皇の怒りに触れたためといい、4人死罪、8人流罪になった。 親鸞の母は源義家の孫娘とも源頼朝の妹ともいう。親鸞は90才で入滅したが時代を経るに従って誤った教義を広めるものが出てきたために親鸞の4世孫の空如は親鸞の関東時代の高弟で正しい教えを受け継ぐ24人選び二十四輩牒を作成した。その24人が開山した二十四輩寺院が今も43寺院あるという。
  1217年  平家物語成る。       この頃荘園は土出荘・笠科荘・沼田荘・利根荘・藤原荘が出てくる。この頃の利根荘はいにしえのナマシナ郷を中心としてどこまで含むかは不明だが漸次拡大していき、1290年の榛名神社梵鐘銘では利根荘+沼田荘=利根荘を示しており、1364年大友氏時所領注進状では土出・笠科を含む利根荘となっている(川場村の歴史と文化、沼田市史)。
1221年  承久の乱。実朝の死後に倒幕計画が起きたが幕府方北条義時が勝利し後鳥羽上皇隠岐に流配。この時の幕府方に上野沼田氏も参戦している[即ち後期沼田氏=三浦沼田氏の前に前期沼田氏=大友沼田氏が滅亡せずに続いていたことを意味している]。(沼田市史)。 (この乱をきっかけに全国の反幕府側の荘園や領地に幕府側の地頭が派遣されて荘園制度は崩壊していく。)
1222年  川場村谷地に大友館が築かれる(沼田市史、川場村の歴史と文化)。沼田荘の庄田の地にも大友館があったことが知られている。狭義の沼田荘は狭義利根荘の西隣である。
1232年  御成敗式目(貞永式目)成る。頻発する紛争の解決策として必要性を感じた第3代執権北条泰時は日本社会独自の習慣・倫理観・道理に基づいた武家法典を初めて創った。その後追加されて全51ヶ条から成る。(日本で女性の地位が低く見られるようになったのは江戸時代からであり、1563年に日本にきたルイス・フロイスは「日本の女性が男性と対等の権利を持っている」と記録に書いているという。女性の地頭がいた鎌倉時代は男女同権の時代であったと言う。1300年発知二郎妻尼明法(熊谷氏娘)と熊谷彦次郎直光との領地を巡る訴訟の記録も(吾妻鏡、沼田市史)それを示しているようだ。)
1247年  宝治合戦。北条時頼に攻められて三浦氏一族500人以上が集団自決して相模三浦氏滅びるも、泰村の次男三浦景泰(弟家村は木曽へ逃れた)が逃れて利根の荘田城(薄根村井土上)に来る。これが後期沼田氏(三浦沼田氏)初代となる。遡る100年前の大友沼田氏の祖経家の妻が三浦氏娘なので縁戚の地を頼って逃れてきたことになる。(沼田町史。同じ頃九州豊後大野の緒方荘の緒方氏が三浦一族をかくまって上野国沼田に流された等で緒方沼田氏説、および鎌倉権五郎景正の子の山科景泰を祖とする山科沼田氏説もある。) この頃(宝治の頃)より奈良村を沼田氏が世々領すとある(池田村史)。 この頃は利根荘と沼田荘(荘田城中心)は明らかに併存しており1270年頃に分かれたともいう。1290年銘の沼田榛名神社鐘名の「利根荘内臼根郷」によりこのころから沼田荘も含んだ広範囲の利根荘と言っていたと思われる。 同じ頃大友親秀(利根次郎大友親秀、九州大友2代)が近隣の古馬牧村に明徳寺城(天神山城、みなかみ町後閑)を築く(孫の利根次郎頼親か?)。(沼田町史)。 (この時点で現川場村と現月夜野町後関には大友沼田氏が既にいて、現沼田市井戸上には三浦沼田氏が混在することになりこの後三浦沼田氏が優勢になって各村に分家を作って行く。大友親秀の妻は三浦義連=佐原十郎左衛門義連の娘)。
1250年  京都閑院殿(平安京内裏焼失で仮皇居の役割)の造営に沼田太郎跡が関東公事として参加[即ち平経家嫡子沼田太郎実秀の子孫が存続していたということ]。(吾妻鏡、沼田市史)
1271年  後期沼田氏(三浦沼田氏)始まる。宝治合戦で滅亡した三浦一族の泰村の次男景泰が逃れて血縁の地沼田井戸上の荘田館に住したのが始まりという。その後第3代景盛の長男景継が4代目家督を嗣ぎ、次男が下沼田に分家して下沼田次郎景家、三男が発知村を分知されて発知三郎景宗と名乗り発知城を築く。(次男景宗の子が岡谷に分家して岡谷氏を名乗り、発知三郎景宗の子がさらに恩田に分家して恩田氏を名乗り、次男景家は上川田城も築いたともいう。四男平為時が上川田城にいたと言い川田村東光寺に墓あるも年代に矛盾有り――川田村史)。
1274年  文永の役、1281年弘安の役(元寇、蒙古襲来) 大友氏は北條時宗執権の時には大友氏3~5代にわたって九州の地で鎮西奉行として日本防衛総司令官として活躍した。
1281年  弘安の役。(元寇、蒙古来襲)
1285年  霜月騒動で安達氏が執権北条貞時に滅ぼされる。
1300年  発知二郎妻尼明法(熊谷氏娘)と熊谷彦次郎直光との領地を巡る訴訟の記録あり(吾妻鏡)。(沼田市史)
1321年  大覚寺統の後醍醐天皇が即位して院政を廃止し、国家権力の天皇集中の政治形態を目指した。鎌倉幕府は皇室内の二派の対立を両統迭立の調停をしていた(沼田市史)。
1324年  正中の変(第一回倒幕計画)、倒幕失敗。
1330年  高平山雲谷寺創建、のちに1580年真田昌幸により武尊山雲谷寺として再興。新田義宗の墓の五輪塔が現在もある。1552年上杉憲政の一時的御座所にもなった。中世は山伏修業(修験道)の場であったといい、近隣の地名「古語父」は修験の国峰道場がかつてあった所で訛って古語父に変化したという。 1331年  元弘の変(第二回倒幕計画)、倒幕失敗、この時武芸好きで天台座主でもあった後醍醐天皇第2皇子の護良親王も還俗して参戦。笠置城陥落(この時新田義貞と足利尊氏は幕府方)、後醍醐天皇は翌年隠岐へ流配。
1332年  護良親王が吉野で挙兵、楠木正成が大阪千早城での再挙兵。この時の幕府方軍団の中に新田一族・大胡一族らと共に沼田氏、白井氏の名が出てくる。この時新田義貞らは戦いの途中で戦意喪失して仮病を使って帰国(北条専制に対する鎌倉御家人達の不満が元々あった―沼田市史)。 この年に中巌円月禅師が7年の元への留学から帰国し、大友貞宗(大友6代)の保護を受け、7年後1339年に上野国川場村に吉祥寺開山する。この五山文学でも知られる中巌円月禅師は8才より孤児同然で鎌倉寿福寺にて僧童として育ち志を立てて25才で元に留学した。五山文学とは、鎌倉時代から室町末にかけて流行した五山制度下での禅僧達による漢詩文集全体を言う、江戸時代には廃れた。
1333年  建武の中興、鎌倉幕府滅亡。 閏2月後醍醐天皇が隠岐を脱出し、赤松氏・名和氏、九州菊池氏等が反幕府方で蜂起、足利尊氏、新田義貞も前年から反幕府方に付くことになった。建武の中興、翌年建武と改元。 4月足利尊氏も幕府に反旗を翻し六波羅探題を攻め落し5月北条仲時が近江の蓮華寺で家臣432人と共に自刃、同じ頃新田義貞も反幕府で上野国で挙兵して南進しながら軍勢を拡大増強し稲村ケ崎から鎌倉に突入し北条高時と家臣800余人は5月22日東勝寺にて自害し、鎌倉幕府滅亡。 後醍醐天皇の親政はじまる。護良親王が征夷大将軍、足利尊氏が鎮守府将軍に任命されるも両者の折り合いが悪く、間もなく足利尊氏離反して2年半で崩壊。 上野国・越後国・播磨国の国司は新田義貞がなり一族の代官が政務を執った。 大友貞宗が幼少の五男の氏泰12歳に利根庄の他相模国大友郷・三浦長坂郷・美濃国仲村荘・伊勢国塔世御厨・越後国紙屋荘・等家督を譲り以後大友氏は嫡子単独相続制とした。大友貞宗は家督を譲ってから必死の覚悟で鎌倉幕府の鎮西探題を攻めたという。
1334年  護良親王は父後醍醐天皇や足利尊氏と不和のために尊氏追討計画の令旨を新田義貞・楠木正成・赤松則村ら発したが尊氏に事前に察知されて捕らわれた。  新田義貞三男の新田義宗(3歳)が越後国弥彦神社に太刀を奉納する。
1335年  足利尊氏は上野国守護を新田義貞から上杉憲房に任命替えし、越後国守護も兼務させた。翌年子の上杉憲顕は上野国八幡庄を与えられてこの地を拠点とした(東山道と鎌倉街道が交わる要衝の地)。上杉氏の被官の長尾氏は守護代として総社・白井・玉村御厨などを所領として上杉氏による上野支配の重要な担い手になった。
1336年  延元の乱。足利尊氏離反して南北朝時代始まる。 2月尊氏は摂津豊島河原の戦いで義貞軍に敗れ一旦九州に下向し、3月筑前多々良浜の戦いで菊地軍を破り再び東上して6月京都占拠。大友氏泰・貞載兄弟が九州の戦い最中に南朝新田方から北朝足利方に寝返る。この九州にいる間に大友氏泰・氏時ら兄弟は足利尊氏の猶子となったという。 12月建武式目を定めて政権樹立を宣言(足利幕府成立、征夷大将軍任命は1338年)。 同じ年に後醍醐天皇はまだ幼い懐良親王を征西大将軍に任命し、九州に向かわせて伊予国・薩摩国を経て肥後国菊地城に征西府を1348年に開き九州攻略を開始した。 
1338年  閏7月2日新田義貞が越前国藤島にて討ち死、享年38歳(この時三男で継嗣の義宗7歳―「北毛乃史跡と傳説」)。 足利尊氏が征夷大将軍となる。
1339年  川場村谷地に吉祥寺創建(大友氏泰18歳が父貞宗の追善のために建立、氏泰死去して弟氏時が開基ともいう、中巌円月が開山)。この時氏泰の兄即宗和尚が吉祥寺境内の止々庵に来たという(沼田市史)。
     この年、北畠親房により南朝の視点からの「神皇正統記」成る。 1346年  下沼田次郎が井土上に成孝院を創建。
1348年  懐良親王が菊地武光の支援のもと征西府を開く。
1351年  観応の擾乱。足利尊氏・直義兄弟の対立、直義毒殺される(病死ともいう)。(仲の良い兄弟ながら尊氏と弟直義は軍事権と恩賞権を分権していて尊氏執事の高師直と直義が対立して、更に関東管領も上杉憲顕・高師冬の2名置いていたこと・南朝勢力が加わったことで混乱が大きくなった。本人同士の思惑とは別の方向に行ってしまうことは世の常)。       (九州においても南朝方・北朝方・直義方の3勢力の鼎立状態となった。翌年の直義殺害で2勢力となったが1392年明徳の和約成立まで九州の南朝・北朝の対立は続いた。) 関東管領上杉憲顕は直義方に就いたために上野国・越後国の守護職は下野国宇都宮氏に与えられたが抗争が続くため10年後には上杉氏に戻された。 尊氏は沼田荘内のシカマ氏(石墨石住氏?)・ショウダ氏(井戸上沼田氏?沼田氏6分家の一部)の所領を没収し大津の園城寺青竜院(大友皇子の皇子が開基)に寄進した。(沼田市史)(発知氏をはじめ沼田氏一族はすべて新田方とされ両氏が領地没収され没落したとあるが、1405年第8代沼田景朝が小澤城を築いているので、領地没収されていない沼田氏一族も居た。) 沼田氏一族某が足利尊氏から若狭国熊川郷を賜り後に熊川城を築いたという。(熊川城は沼田光兼の時戦国時代1569年に落城。この頃「加沢記」によれば沼田万鬼斎の子上野介(光兼?)が近江国を領有していたとある。光兼の次男沼田祐光は落ちて弘前藩津軽氏に仕え名軍師として活躍したという。戦国時代の細川忠興の母沼田麝香は熊川城主沼田光兼の娘で嫁細川ガラシャ自害の影響を受け1601年洗礼を受けて細川マリアとなった)。
1352年  南朝後村上天皇が征夷大将軍宗良親王を通して新田義貞の遺子らの新田義興(義貞次男)・新田義宗(義貞3男)・脇屋義治(義宗従弟)らに足利氏追討の命を出し挙兵、一時鎌倉占拠するも越後へ敗走。
1354年  勢力を盛り返した九州の南朝方菊地武光に北朝方大友氏泰が敗退して一時南朝方に下る。
1358年  足利尊氏没。
1359年  筑後川の戦いで南朝方菊池武光に北朝方の大友氏時(九州大友第8代)が破れる。
1361年  菊地武光ら南朝方が九州大宰府を制圧して北朝方から奪取した。 九州の大友氏時らに後光厳天皇および将軍足利義詮から南朝方菊地武光らの追討命令が出た(京都は北朝一色であった)。 第2代将軍足利義詮が鎌倉執事上杉憲顕に命じて利根荘を大友氏時に返付せしめた(鎌倉時代に表記されるようになった初期利根荘は池田村・川場村・白沢村等の旧ナマシナ郷のことと思われるがこの南北朝時代の利根荘は沼田荘を含む利根郡ほぼ全体を含むのではないかと沼田市史は指摘している)。      (この頃から利根荘は沼田荘・笠科荘・土井出之荘を含む利根郡全体を指すようになり、九州大友氏の遠隔所領として大友氏の在地代官が沼田荘ではなく川場村を拠点として利根の荘の各郷に代官を置くようになった――沼田市史)。 (但し1416年には沼田氏・発知氏が再び実権を握り逆転?以後江戸時代まで支配関係はめまぐるしく変わる)。
1362年  大友氏泰41歳死亡。1348年弟の氏時が家督を既に継いでいた。1333年大友貞宗から氏泰に継ぐときの継状にすべてを嫡子(長男でなくてもよい)に譲るという嫡子単独相続制が行われるようになっていた。大友氏時豊後の鳥屋城で菊池武光との戦いを最期に戦意喪失して利根に下る。 九州の南朝方勢力は1372年大宰府の征西府陥落によって消滅するまで11年かかった。
1363年  大友氏時が逃れて利根郡川場村に来て谷地の大友館に住す(沼田町史、利根村誌、川場村の歴史と文化)。大友氏時の死亡場所については異説あるが、大友氏時妻大智庵祐宗比丘尼・大友家家老桜井兵部および大友一族が居住していたことは確かである。氏時の子の珠垣媛もいたという(根岸氏家伝の墓石に記されている)。氏時自身は豊後国で既に死去したともいうのでその場合白沢村戦争は縁者の誰かが大将で戦ったと思われる。
  「北毛乃史跡と伝説」には大友氏時夫婦の墓石のある川場村桂昌寺住職高橋宗育宛に「大友氏時の死は豊後の館にあらずして川場谷地の館の方が真に近し」と豊後大友宗家大友義一氏から便りが昭和11年夏にあったとある。現在大分県史では大分の地で没したことになっている。
この時、大隅国桑原郡の大桑城主源定世(多田満仲(源満仲)流の源氏)が大友氏とともに上野国利根郡に来て、川場村門前に土着した(川場村桑原吉右衛門先祖、群馬県議会史別巻、川場村名主館記)。
  川場村湯原の正楽寺住職の宮崎秀雄氏所有の古メモ:落人なりとして7人の氏名の記載あり。大友の落人:今井氏、高山氏、関氏、吉野氏、桑原氏、久保田氏、外山氏(大友氏時は7人の郎党を連れて落ちて来ている)「川場村の歴史と文化」。大友氏時はこの5年後に新田義宗に討たれるまで川場の地で豪奢な生活を送っていたとのこと(沼田町史)。(発知氏は領地没収されて既に没落していた)。この頃大友氏は豊後国守護であるとともに利根庄の地頭でもあったという。       同じ頃隣村奈良村の奈良原遺跡にも豪族館があったことが発掘確認されているが詳細不明で資料もないという(上毛新聞1989年12月27日)。この地は高王山の麓でのちの1581年に沼田平八郎景義の高王山城の戦いの際その東毛の援軍が通った場所である。
1364年  吉祥寺1世住職円月禅師の去った後に大友氏時の招きで2世住職祖能禅師が就任した。祖能禅師は13年後足利義満の招きで鎌倉円覚寺の住職になる。
1367年  足利幕府が今川貞世(了俊)を九州探題に任命して派遣。以後北朝方の勢力が優位を占めるようになるが、完全なる平定は明徳の和約までできず。
1368年  白澤村戦争。前年に第2代将軍義詮・弟の基氏(初代鎌倉公方)が没したため新田義宗・脇屋義治が越後で挙兵上野国に入る。3月に南朝方義宗らにより北朝足利方の大友氏時が川場村で討ち取られる。7月には利根沼田各地で鎌倉足利方と戦い新田義宗も白澤村で討ち死にする、享年37歳(地元民による新田方、足利方の両者多数死亡者を弔う塚跡が残存し、雲谷寺に義宗の墓がある)。(大友氏時の内室と娘珠垣媛は生き残った。珠垣姫は高平村領主根岸登格之輔橘騰雅タカマサの3男に嫁し茂木主馬之助シュメノスケと名を隠し一時流浪しその後貝之瀨村に来て旧姓根岸に戻り帰農したという。根岸虎司氏は大友氏時19世の孫という(糸之瀬村誌、貝之瀨の墓誌、北毛の史跡と伝説、足久屋館址))。
<『川場村の歴史と文化』109頁の大友義一氏の所録には「現今氏能の子孫利根郡貝之瀬に住み姓を根岸と称すと云へり」とあり、大友宗家もこの件は承知していた、氏能は氏時末子。大友氏時本人が川場へ来たかどうかについてはこの中では否定的であり、その奥方心月祐宗比丘尼及び家来衆が川場に来て隠棲し川場で亡くなったのは史実で間違いないという。地元では氏時がゆだん河原で亡くなったともいうが九州の地で亡くなりしかも、合戦で亡くなったのではなく敗戦後5年目に亡くなり豊後府中の乙原の吉祥寺に葬られたのではないかとこの村史はしている(地元郷土史家の岸大洞は川場死亡説を採っているようだ―沼田万華鏡第6号)。
  また、のちの戦国時代に上杉謙信らが越山で利用した三国越えと清水越え等のルートのうち清水越えの拠点の清水城はこの頃築城されたとされる(『清水越の歴史』谷川岳山岳資料館)。1578年8月の清水越・三国越の両方から北条氏輝・氏邦の北条の大軍が越後へ侵入しこの時は上杉景勝方が敗走している。このルートは幻の国道として今も登録されている。> この時、川田村屋形原、利根村及び白澤村(反町城趾あり)は新田方、隣村川場村は足利方で敵同士であった。沼田氏一族は新田義貞方で戦いその後尊氏に領地を没収されて衰退して行った(白旗一揆のグループに入りのちに再起する)ので、この時点は各々の代官が足利方か新田方か不明。利根沼田地方は新田源氏挙兵の重要地点でありかつ狭い地域で敵味方入り乱れていた(沼田市史、沼田町史、白澤村史、薄根村史、川場村の歴史と文化)。川田村屋形原で防戦した新田方大将は屋形原八幡宮に祀られている新田義貞の孫の生形義脇とされている(川田村史)。 脇屋義治は出羽に逃れたとも阿波に逃れたとも言われる。新田義宗の最期についても逃れて出羽国・阿波国・伊予国まで行ったとの伝承もあるが、この点は大友氏時についても言えることで、近しい人物がいたからこそ生まれた伝承と考えて良いであろう。
1392年  明徳の和約により南北朝時代終了。南朝後亀山天皇が吉野より京に帰還して三種の神器を北朝後小松天皇に譲り退位した。 以後も利根沼田地域は内輪もめ、足利、上杉、北条、武田、真田、長尾等入り乱れて秀吉全国統一まで約200年続く戦乱の時代に突入する。
1405年  第7代沼田景光(又は父の6代景久)が小澤城(薄根村町田、四釜川と小澤川に挟まれた舌状台地にある)を築き荘田城より移る。小澤城址に眞田昌幸に謀殺された沼田平八郎を祀った祠と法城院がある。荘田城には家臣の和田氏が入り和田城(和田館)と称す(桃野村誌1910年刊)。(6代景久は次男小川二郎景秋・三男名胡桃三郎景冬・四男川田四郎景信・五男石墨五郎泰久をそれぞれ分家させている。大友氏はこの頃既に嫡子単独相続体制を取っていたことと対照的に相変わらず分割相続をとっていてこれが権限の分散を招き沼田氏が戦国大名に成れなかった要因の一つとも言える。)
1406年  第8代沼田景朝が沼田氏の支城川田城名胡桃城を略奪されたのに腹を立てて群馬郡国分の村上出羽守を討ち国分寺の十一面観音像(快覚作)を戦利品として奪い持ち帰った。現在も三光院(柳町)にある。
1416年  上杉禅秀の乱。関東管領上杉禅秀氏憲と公方持氏が不和となり、この乱で白旗一揆(傭兵軍団)が係わり鎌倉公方足利持氏が勝利、これによって利根荘の地頭職が沼田氏、発知氏に再び任せられた(この頃利根荘は利根沼田地方全域を指すようになっている、奈良村・川場村は発知氏か、狭義沼田荘→沼田氏、狭義利根荘→発知氏?)。この年万里小路家領利根庄が白旗一揆(沼田氏系)に押領されるようになった―白澤村史。この時沼田景繁に乞われて足利持氏方(白旗一揆方)で参戦した藤原村の阿部三太郎秀貞は安倍貞任の子孫という(北毛の史跡と伝説)。発知村の阿部氏も安倍一族の末裔という(池田村史)。利根郡は落人伝承が多く「かくれ里」とも言われる(萩原進編「上州の苗字と家紋上巻」)。『続々群書類従第四』「沼田記」にも沼田について「・・かくれ里と名附く云々」とある。奈良村もかくれ里と言われた。
 上野国から全国に散って行った氏族も多い。東京青山の地名のもとになった青山氏は上野国吾妻郡青山郷(現中之条町)が先祖の地であり、南北朝時代の山名氏の先祖の地は上野国多胡郡山名郷(現高崎市)であり、里見氏の先祖の地は上野国碓氷郡里見郷(現高崎市)であり、九州大友氏の先祖の地は上野国利根郡(現沼田市)である。
  この頃に安楽寿院領から万里小路家に領家が変わったらしいという。新田義貞に味方して没落していた沼田氏・発知氏が勢力を挽回する。
1426年  大友民部長忠沼田探題として下向小澤城に来る、沼田根岸(榛名町)に居を構える、1435年下牧の牧監大宅氏を追放、1449年舒林寺開基、1458年倉内に築城(顕泰の前に初代倉内城が築かれていた)、1469年新田の横瀬国繁が利根へ来襲するも戸鹿野の原で撃破して戸鹿野八幡宮を後に建立(沼田万華鏡昭和58年11月)。
1428年  公家万里小路時房の日記「建内記」に所領利根荘の年貢を地頭が納めず代官那波宗元を送ったが進展しないとの記録あり。1443年には上野国守護上杉憲実(1419年10歳で憲基の後を継いで関東管領になっていた)に訴え出たが解決できなかったという(飛鳥時代は4郷だったがこの頃は40郷あった、しかも1447年には沼田荘(利根川西岸?)・利根荘(男信郷+笠科郷+?)と二つに分割されていたという、そして40郷のうち12郷しか年貢を納めなかった。120貫のうち40貫のみ徴収できたが昭和村森下の百姓に預けておいたという―建内記1443年、この百姓は誰か?、この時の利根荘の地頭は発知氏?、地頭側から見れば10カ年公事免除の権利、万里小路家から見れば年貢の横領になる。(沼田市史、利根村史、池田村史) 公家の荘園の不知行化は戦国時代に向けてさらにひどくなって行く。
1438年  永享の乱。上杉憲実と足利持氏の不和が生じ上杉憲実はやむなく幕府の名で鎌倉公方足利持氏を攻めて翌年2月自殺させて鎌倉府は滅亡。万里小路家の代官那波宗元もこの時殉死した。
1440年  結城合戦。室町幕府の将軍足利義教と鎌倉公方足利持氏は共に独裁的傾向が強くて対立していて憲実が間に立って苦しい立場で対応していたが、やむを得ず将軍の命で憲実が攻めて持氏が自害しその残党がその遺児成氏を立てて6代将軍義教に反乱を起こし、下総結城城落城して室町幕府側が勝利、しかし翌年将軍義教も暗殺された。室町幕府は上杉憲実に関東管領に復帰するように命ずるも頑強に拒否、その後憲実は諸国遍歴の旅に出て1466年長門国で死去。結城合戦の時の分捕頸注文が残っていて戦場の生々しさを今に伝えている。
1454年  享徳の乱(1454~1482年)。京都での応仁の乱に先駆けて関東でも享徳の乱始まる(足利持氏の遺児成氏が鎌倉公方となり関東管領上杉憲忠(憲実の弟)を謀殺、これが始まりで室町幕府も成氏討伐を決めて1455年成氏は古河に移る。そして管領上杉方+京都幕府方+堀越公方方、古河公方方が入り乱れての戦いが始まる。長尾景春が古河公方方へ寝返り五十子の陣が陥落古河公方(足利成氏)方が一時勝利して1478年管領上杉方と古河公方方和議を結ぶも不十分で上杉氏と長尾景春がなお衝突を繰り返し1482年になって将軍義政より成氏に御内書が下されて正式に和睦成立)。これに傭兵軍団(白旗一揆)が加わっていた。
1456年  天巽禅師が迦葉山を天台宗から曹洞宗に改宗して中興開山とした。迦葉山は天台宗修験道から1456年曹洞宗に転宗したが本尊は曹洞宗の釈迦如来ではなく弥勒如来のままとした。曹洞宗寺院は改宗させたときにも旧宗時代の本尊を尊重して守り続けるのが一般的で、曹洞宗が拡大していった一因である。 迦葉山の場合は中興開祖の天巽和尚以後の法脈継嗣が上手く繋がらなかったが、二世に法嗣がなく別系統の派閥がなったためであり、本来天巽派の寺院の派頭寺院になるべき迦葉山の寺格がその地位を損ねていく原因になったという。 迦葉山の天狗伝説が出てくるのは曹洞宗に改宗してからである。1495年年迦葉山龍華院弥勒寺中興開山の天巽禅師87歳で没、弟子の中峰に私は迦葉仏の化身であると告げ昇天してそのあとに天狗面が残っていたという言い伝えがあり迦葉山天狗面の由来となった。天巽禅師が一時住職を務めた大雄山最乗寺も天狗で知られるがその開山僧了庵のひこ弟子が天巽禅師という。(沼田市史)
1458年  長禄2年名胡桃城主三郎景冬の姉如意姫が上洛して右大臣平信宗の養女となり采女として宮中に召されて後花園天皇のご寵愛を受け懐妊するも嫉妬により帰郷し小川城下にて1460年7月若宮明賢親王を設けるも3歳にして薨去せられた。如意姫は一州禅師の得度を得て如意庵を結び1489年3月14日遷化するまで若宮明賢親王の菩提を弔ったという。名胡桃郷にある「殿上」、村主八幡社の西北隅の館を「天住」というその由来という。またのちに上杉謙信の頓死時にその供養塔をときの沼田城代上野中務大輔が建てその如意庵に移し如意寺と改称したと寺録にあるという。(北毛の史跡と伝説)
1466年  1459年より1477年まで続く五十子の戦いの最中に、山内上杉顕定13歳が関東管領職を継ぐ。
1467年  上州利根の玉泉寺開創、沼田長忠が開基、一州和尚開山(曹洞宗)。       沼田長忠(沼田憲義とも言う。第9代景康の頃)が白井城主長尾景信(昌賢)の娘の婿となり沼田探題として沼田の地に来て、玉泉寺と舒林寺を建てた(開基は大友氏時の名前を使っている)。 玉泉寺は上野国白井の雙林寺において高名な一州正伊和尚を沼田長忠が招き1467年開山した。雙林寺には曇英和尚が三世となり入った。一州和尚の後は曇英和尚が玉泉寺二世となった。曇英和尚は沼田景泰(三浦沼田氏初代景泰ではなく9代景泰のこと)の亡兄の33回忌の法要を行ったという(33回忌法要は1480年頃と言う―沼田市史)。その後曇英和尚は荒廃した越前国永平寺に行き更に長尾能景に拝招されて越後国春日山林泉寺(越後長尾氏の菩提寺で後年に上杉謙信が幼少7歳~14歳まで預けられた寺)も開山した。 (「長尾累代記」に「利根郡城主大友末流、沼田刑部大夫憲義、白井景信の婿、同郡玉泉寺開基なり」とあり、曇英和尚の「雙林二世中興開山一州和尚行状記」(1493年記)では「沼田長忠に招かれ一州が玉泉寺開山」とあり、「春日山林泉開山曇英禅師語録」には「沼田景泰が兄の33回忌を行った」とある。これらから沼田氏第9代景康=景泰=長忠=憲義は同一人物と思われる。少なくとも景康と関係深い人物であろう)。沼田長忠は出自不明とされるが、三浦沼田氏の第9代当主であり、大友沼田氏末裔でもあるということであり、戦国時代においてもなお三浦沼田氏は大友末流と考えられておりその関係性は戦国の世に認識されていた。)倉内城主大友刑部大夫長忠は1472年5月4日没とある(北毛の史跡と伝説、桃野村誌1910年刊)。 鎌倉時代初期の道元禅師開祖の曹洞宗が上野国へ伝播したのは1400年以降で1448年白井の雙林寺開山(月江和尚)以後急速に普及し始めた。これは月光和尚の弟子の一州和尚や曇英和尚が「遺書」や「定」という訓戒(訓戒制)を残して法孫が多数の寺院を開山すると共に同じ法脈に属する僧侶たちの団結と相互扶助を厳命していたからと言い、また他宗と違って曹洞宗は師匠と弟子の関係(法嗣関係)が重んじられて弟子子孫の僧が輪番で住職を交代する伝統(輪住制)が生まれたからと言う。従って関八州・東海・北陸の同じ法系に属する曹洞宗寺院は交流・団結により協力・影響し合って寺勢が発展し、戦国以降他宗の寺院を曹洞宗に改宗させつつ全国に拡大して行った。越後国の曹洞宗は上野国より早く伝播していたにも関わらず法系が異なり交流がなかった。曹洞宗へ1456年改宗後の迦葉山弥勒寺(曹洞宗本来の本尊は釈迦如来であるが迦葉山の本尊は弥勒如来のままである)も法系が異なっていて法嗣問題で失敗してその末寺は逆に離れて行った。
同じ禅宗でも臨済宗は1221年には上野国に既に伝播していて長楽寺(尾島町)が創建され1339年には吉祥寺(川場村)が創建されていたが、多彩な法系が並立して五山制度・十方住持制度により一派の僧侶独占が禁止されていて足利幕府の庇護にも関わらず相互の協力関係は逆に弱った。(沼田市史)
(鎌倉時代は多くの新興宗教が出てきたが、造寺造塔が功徳とされた曹洞宗が財力のある戦国の武士らに親しまれたのに対して専修念仏が功徳とされた浄土宗などとは広宣活動に違いがあった。曹洞宗開祖の道元は排他的姿勢を嫌い特定の宗派を呼称することさえ拒否していたが死後の第4祖の頃より曹洞宗を名乗り戦国時代には訓戒制・輪住制で法嗣関係を重んじるようになった。今でも曹洞宗は宗派の違う身内の位牌は喧嘩するからと受け入れない寺がある一方、浄土宗は宗派の違う位牌でも拘りなく受け入れているという。)
応仁の乱(1467~1478年)。関西では同じ頃応仁の乱発生、8代将軍足利義政の継嗣争い等で発生し、室町幕府管領の細川氏と有力守護大名の山名氏が争い、一部の地方を除く全国に拡大した。以後戦国時代で約150年続く。それまでの家格秩序・身分秩序が崩壊。1477年の幕府による「天下静謐」の祝宴で終息したが誰も罪に問われなかった。義政の正室日野富子も権力を保持し続けた。      (以後の形式上の室町幕府100年間は戦国時代と重なる)。 この年連歌師の宗祇は五十子城にいて長尾景春らに「吾妻問答」という連歌論書コピーを送ったという。宗祇は戦乱の最中全国各地を漂泊し1502年5月伊香保の千明仁仙亭にも泊まって9月箱根湯本で没82才。
1469年  上杉顕定が長森原城を築き白井城を憲房に譲り長森原城に別居―石倉村と小川村の境一帯の長森原という―1910年刊桃野村誌。(1961年刊桃野村誌では長森原城が石倉城となっている―別名か要検証(1485年上杉顕定が石倉城を築城とある)。越後にもその経路に長森原戦場跡があるが、この頃は三国街道よりも清水峠越えが主街道だったかもしれない。後年明治7年(1874年)には清水往還が国策で整備されたが間もなく廃れてしまった。)
1472年  大友長忠没(白井雙林寺位牌)。
1476年  公方方(古河公方の成立、古河市)、上杉方(五十子、本庄市)をそれぞれ本拠地として板倉・館林・伊勢崎等で激闘繰り拡げる享徳の乱の最中に上杉方長尾景春が内部謀反で公方方に寝返る。
1477年  長尾景春の内部謀反で五十子(いかっこ、現在の本庄市)は陥落、上杉憲房は白井城に上杉顕定は長森原城に逃れたという。しかしその4ヶ月後には扇谷上杉家臣太田道灌らにより再び五十子は奪回されて、景春ら公方方は敗走。この時越後上杉からの援軍や沼田氏・発知氏の白旗一揆の援軍は大いに貢献して管領山内上杉顕定方で勝利した。またこの時から古河公方・上杉の対立から山内上杉家・扇谷上杉家の対立に戦いが変貌していく。
      南北朝内乱の頃より沼田は上越・會津との結節点となり三国街道・清水峠越往還・会津街道(尾瀬沼,片品,沼田)は重要な役割を果たした。会津街道は源義家が通った道であり三国海道は万葉集にも赤見山を謳った歌がある(名胡桃より中山宿へ超える峠を赤見山(不動峠、牛の糞峠ともいい江戸時代は本街道)といい、中山小学校校庭に歌碑がある)。
1478年  享徳の乱の和睦交渉始まる。1482年上杉方と古河公方方和睦成立。
1483年  都鄙合体(とひがったい)という和議成立して享徳の乱終結。古河公方、堀越公方ともに並立のまま。古河公方の成氏も幕府から赦免された。太田道灌ら扇谷上杉側は不満を呈していた。 このころより山之内上杉氏(関東管領山内顕定が鉢形城に入る―越後上杉方)と扇谷上杉氏(扇谷上杉定正が河越城に入る―古河公方方)の対立が始まり、関東静謐を求める扇谷上杉氏家宰の太田道灌が両上杉氏から恨みを買う。
1486年  天台宗本山派修験の僧侶道興(関白近衛房嗣の三男で聖護院門跡という最高位の地位にあった)は山伏姿で全国地方巡歴したが上野国には8月頃塩沢→三国峠→新治村→高山村中山(なぎなた坂)→群馬町西国分→藤岡を通ったが沼田は通らなかった。各地の修験寺院を宿舎にしてその地の豪族とは関係を持たず修験寺院の組織化が目的だったとされている(この2年後には万里集九が上野国を通り沼田にも一泊している)。 大田道灌(資長)が主君扇谷上杉定正の館で暗殺され、両上杉の対立が表面化する。足利成氏の説得で長尾景春は扇谷上杉氏についた。長享の乱へと発展する。この間扇谷上杉氏の所領の相模国は同じ扇谷側についた北条早雲により浸食されていく。 大田道灌に招待されて江戸城に逗留していた僧であり歌人の万里集九は道灌亡き後2年後の1488年8月江戸城を出て美濃に向かったが途中上野国を通り貴重な記録を残す。関東管領であり上野国守である上杉顕定は家臣の尻高孫次郎を集九につけて10月5日越後国大義寺まで無事送り届けさせた。途中の鉢形→白井を通り9月30日には沼田の鍛屋トイシヤに1泊している(「梅花無尽蔵」)。この宿は1488年当時の小澤城下にあったという。
1487年  長享の乱。(山内上杉氏・扇谷上杉氏との上杉家同士の戦い)、管領山内上杉顕定勝利。
1492年  沼田景秋(沼田城主景久次男景秋、小川氏)によりかつて築城された小川城(月夜野)が改修?された。
小川城は越後国との清水峠越え・三国峠越えの2つのルートの分岐点で戦略上の重要な場所という。小川城は1524年4代景奥で断絶。1531年小川可遊斎(上方牢人赤松捨五郎、実力を認められて影季後家を娶り上杉謙信の裁可で名跡を継いだ)が5代(6代?)として入り武田・越後上杉方として戦い1555年北条氏直に滅ぼされた。また後の1657年就任した第5代真田氏沼田城主真田伊賀守がその前18年間母慶寿院と共にその三の丸陣屋に住んでいた。後に磔刑になる杉木茂左衛門も同時期近隣の住人で幼い伊賀守をよく知っていて城主になってからの悪政は奸臣のためと思っていたという。
(明治22年の町村制施行で古の小川郷の一部(月夜野町・小川村・石倉村)及び古の名胡桃郷(上津村・下津村)が合併して桃野村が出来たが、月夜野町は真田伊賀守信利自身が幼少時住み更に1651年より出戻り姉高貞院も在住のために小川村を伊賀守が上下に分け上を小川村、下を小川新町(翌年更に月夜野町と改む)として繁栄を計ったことに始まる、1670年?。杉木茂左衛門はその地元月夜野町の農民であった。) (第6代沼田城主沼田勘解由左衛門景久は小澤城(荘田城→小澤城→幕岩城→倉内城=沼田城と移城)を惣領第7代景光に、小川城を次男景秋に、名胡桃城を三男景冬に、川田城を四男景信に、石墨館を五男泰久に与え各々分家させたとされる。)
これらは皆利根川西岸と右岸周辺に偏っている。
 連歌師の堯恵が上野国の小川城下を通過する1480年頃の本城沼田城は第9代景泰(沼田長忠ともいう。長尾昌賢の娘婿)が既に城主であったという。
1493年  伊勢宗瑞(北條早雲、後北条初代)が伊豆討ち入り。堀越公方滅亡。
1494年  古河公方足利政氏は上杉顕定と和を結び川越城の扇谷上杉家と対立するようになる。
1495年  北条早雲が大森氏より小田原城奪取。
新田庄にて横瀬成繁(由良成繁)が下剋上。当主岩松尚純は強制的に隠居させられ実権を剥奪されて、尚純は以後文芸の世界に生きて連歌に熱中し、東国武士の連歌におけるマナーの低さを嘆いて「連歌会席式」という作法書を記した。1507年8月には新田庄にて宗祇の弟子の宗長と連歌を催している。宗長はさらに新田庄から草津温泉を目指す途中でも、大胡上総介綱長の館(大胡)や荒蒔和泉入道の館(前橋)で連歌の会を催している。 連歌を書き入れた岩松尚純の自画像が群馬県太田市青蓮寺に今もあるという。
1496年  石山本願寺が浄土真宗の蓮如上人により成る。(後に1580年信長により炎上するがその落とし難い地の利に注目した秀吉が同地に後年大阪城を築く。)
1507年  北条早雲は長尾為景や景春と結んで管領上杉顕定を牽制した。 8月越後守護上杉房能が守護代長尾為景に殺され、越後での下克上が発生。
      同年京都では室町幕府管領細川政元が家臣によって殺害された。
1509年  関東管領上杉顕定が白井城を攻め長尾景春は敗走し管領上杉軍勝利。さらに上杉顕定・憲房ら上杉軍は越後まで出陣して越後支配し、発知氏も上杉方で参戦し戦功を重ねて魚沼の地にも領地を与えられた。しかし顕定の越後支配は越後国人の反発が大きく戦いが繰り返されて上野国(長森原城/石倉城)に退く。
1510年  6月上杉顕定は勢力を盛り返した長尾為景・高梨政盛らに攻められて上野国長森原城近くの戦場原にて討死。戦場原の西端(小川村千丁原)に顕定の供養塚あり、遺骸は岳林寺に葬られたという(桃野村誌1910年刊)。(南魚沼市長森という説もあるが要検証)。
顕定の死により長尾景春が沼田荘に討ち入り新治村相模に陣を張り白井城の奪還を計り、白井城に越後から退いて入っていた顕定の養子憲房は敗退して平井城に移った。沼田、白井は越後長尾為景の勢力下に入った。越後長尾氏は下剋上を成し遂げ江戸まで続く戦国大名にのし上がっていく。       その後の景春は一時白井城に入るが既に当主になっていた嫡男長尾景英と対立して追われて駿河今川氏のもとで亡命生活、72才で死亡、北条早雲は長尾景春を勇士として賞賛したという。関東管領は養子顕実が嗣いだが同じく養子憲房が越後から帰還して養子同士衝突して山内上杉氏も衰退していく。
1519年  第11代沼田泰輝が幕岩城(沼田市柳町)を築き小澤城より移る。泰輝は長尾景春に妹を嫁がせていた。沼田氏は13年後には子の顕泰によってさらに沼田城に移る。 この頃奈良村に桑原万五が住んでおり、龍ノ鼻に万五の屋敷・万五の清水・薬師堂があったという(奈良村名苗顕然記)、それらしき清水は今もある。この薬師堂はその後同村宮久保に移築してあり1766年僧浄蓮がここで焼死したと名苗顕然記にある。この薬師堂はシンキョウ堂ともいうが平等寺僧の信教坊とも関係あるかもしれない。またその南の墓地群の一角に迦葉山の托鉢僧の休憩庵が昭和の時代まであった。
1530年  第12代沼田万鬼斎顕泰が沼田城(倉内城)築城開始、城内外の用水のための白澤用水も工事始まる。2年後には城も用水も一応の完成は見たがさらに充実するには1556年までを要した(沼田記、現在の城堀川,滝坂川)。 その後1649年真田信政の時に更に一部水路変更された。 この頃沼田万鬼斎は利根沼田地方だけでなく吾妻・赤城南面を含む上野国北半分を領有していた(加沢記)。箕輪城主長野業政の娘を側室にしていた。
1531年  山内上杉憲政(憲房の子)関東管領になる。 沼田氏と発知氏の骨肉の争いの記録あるも詳細は不明(沼田市史、池田村史)。 この頃、発知城は廃城となったが、発知氏はその後もなお越後の上杉氏配下で活躍。江戸時代に子孫が戻ってきて帰農している、家紋も左三つ巴から鹿抱角に変えた(池田村史)。 沼田顕泰は四男の朝憲に小川城を与え(利根郡村誌)、小川可遊斎が1532~55までこの城に拠っていたが北条氏直に滅ぼされた。
  1532年  第12代沼田万鬼斎顕泰による沼田城成り、幕岩城から移る。
1537年  甲駿同盟(武田信虎、今川義元)で北条氏と敵対。
1543年  長尾景虎14才で元服(のちの上杉謙信)。
1544年  第一次甲相同盟。武田信玄側近の駒井高白斎と北条氏康家臣伊豆衆桑原盛正が谷村城で会談して甲相同盟を結ぶ。長尾景虎(この年15才で初陣)は相洲北条と甲斐武田の2正面作戦を強いられるようになる(越後の下克上を行った父長尾為景が1536年8月隠居隠居12月死去してからその後継に兄晴景が就いていたが病弱で謀反等が起きても景虎が実質的指揮を執っていた)。 (その後の上野国は1566年の武田・北条・上杉の三つ巴戦乱、1571年の第二次甲相同盟(甲相一和)、等によって更に戦乱渦中に巻き込まれていく。)
1545年  7月第2次河東の乱。今川義元が富士川の東まで進攻して9月には武田・今川連合軍が北条方の長久保城を包囲、関東河越城は今川義元にそそのかされた上杉憲政によって包囲されて北条勢力は東西から挟み撃ちとなった。11月信玄の仲介で北条方が長久保城を手放すことにより今川と停戦協定を結んだ。これにより今川義元は三河進攻へ、北条氏康は北関東進攻の状況が生まれて翌年の河越夜戦の成功にも繋がる。1554年の甲相駿三国同盟にも繋がって行く。 1546年  河越夜戦(北条綱成・北条氏康と上杉憲政・古河公方晴氏との五回目の戦い)。北条綱成が守る河越城を氏康が救援を送り夜戦を仕掛けて1/10の兵力で河越城を守り、上杉憲政は平井城(藤岡市)へ退却・晴氏は古河へ退却、長野業政も箕輪城に退却した。(後北条の関東席巻と山内上杉の没落のきっかけ)。
1547年  志賀城の戦い。上杉憲政は河越夜戦での敗戦にもかかわらず大軍を送り武田信玄に敗退(重臣長野業政の諫言を無視して倉賀野城金井秀景を大将とする西上野衆の大軍を派遣して敗退、雑兵を含めた3000人の晒し首が並べられたという)。  この頃敗戦側は奴隷扱いや人身売買は当たり前で奥方の悲話もあるという、笠原清繁夫人は小山田信有の妾となった。昭和の時代まで嫁入り時懐刀を持参したと言うことが頷ける。武田信玄は長野業政に配下になるよう手紙を出したが業政は拒否した。
1548年  長尾景虎(19才)は兄晴景から家督を継ぎ越後国守護代長尾家の当主となって春日山城に入る。(上杉房能が下剋上で殺されたのちその養子上杉定実が名目上の越後守護になっていたが、2年後定実死去して越後上杉家は断絶。以後長尾家が実質的な国守待遇で将軍義輝も容認していた。) 1549年  三ツ寺尾の戦い。武田方が市河氏・小幡氏の先導で西上野に侵入し上杉方の安中氏・倉賀野金井氏・和田氏が戦うも意見の違いから長野業政は不参戦、長野業政の心は上杉憲政から離れて行った。上野国側の527人の首が討ち取られた。      フランシスコ・ザビエルによりキリスト教伝来。
1551年  3月10日北条氏康家臣の北条綱成・康成父子が神流川を挟んで平井城攻略、北条側勝利するも深追いせず上杉方は平井城に立て籠もる(関東古戦録)。
1552年  2月武蔵国御嶽城が北条氏康の攻撃を受けて落城し数千人の兵が討ち死に、安保氏降伏してから長野業政ら西上州諸将は上杉憲政から離反し(日頃の乱行無道で人心が憲政から離れたという)、この時まで東上州の新田・佐野・桐生・厩橋等も管領上杉方であったがこれ以降は関東八カ国一円が北条の支配下になった。 3月引き続いて氏康は神流川を超えて上野国に初めて侵入した。関東管領上杉憲政(顕定の養子の子)は平井城を棄てて越後の長尾景虎(上杉謙信、上杉憲政の叔父房能を襲撃して越後下克上を行った長尾為景の4男)を頼った。(山内上杉氏は滅亡)。平井城主には氏康叔父の北条幻庵を置いた。
4月上杉謙信(22才)が従五位下弾正少弼に叙任される。(1552年5月24日付けで長尾政景宛てに上杉憲政が清水越直路の整備を命じた手紙が残っている(『清水越の歴史』谷川岳山岳資料館発行2012年)。即ちこの時点で謙信側への関東出陣要請と叙任の連絡が既に憲政から入っていたことになる。長尾政景は上田庄(越後)の坂戸城主で謙信の姉仙洞院の夫である。)
憲政はその6年後1558年になって入越する(1552年1月平井城を棄て1552年7月入越との説もある―沼田市史―が有力ではない、)が、途中沼田にも滞在している。景虎は関東管領上杉の称号を譲ることを前もって知らせを受けていたので御館と号する城を用意して待っていた(梁田中務少輔晴助又は三田五郎左衛門が伝えたという)。
清水越直路の詳しいルートは『清水越の歴史』に詳しい検証が載っている。みなかみ町から越後へのルートは清水越・土樽越・三国越の3つがあり、更に清水越は湯檜曽経由・粟沢経由・藤原経由がある。謙信の場合では初期は清水越としても殆どが三国越だという。1562年謙信は上田庄に三国越を通行停止して清水越の往来を命じた制札を掲げたがその後、武田方が清水越・土樽越で越後に攻め込む姿勢を示したので軍略上閉鎖してしまった。謙信が1578年3月亡くなると同8月には北条氏輝・氏邦の北条方が清水越・三国越の両方から大軍で越後へ侵入し清水城と樺沢城は陥落して坂戸城へ上杉方は退いて籠城した。坂戸城は持ちこたえて冬に向かっての参陣は北条方に不利とのことで樺澤城に兵を残して関東に北条方は引き上げたという。上杉憲政の入越ルートの場合は定かではないが粟沢ルートに、平井城の常光寺住職の秀翁竜樹が1551年に建立した寺屋敷址や寺林砦址が残っている。清水城は南北朝時代に新田氏が築いた。1368年の上州の白沢村戦争は新田義貞3男義宗南朝方と北朝鎌倉足利方の大友氏時方との悲惨な戦争であるが新田義宗らは越後から沼田地域に参戦してきている。
上杉憲政の重臣であった沼田城主沼田万鬼斎顕泰は家督を次男の沼田憲泰に譲った。上杉憲政はその憲泰を頼るも白澤村雲谷寺を御座所にするなど対応が煮え切らず、更に川田村地頭で川田城主山名信濃守義秀方へ身を寄せたが力不足と感じて見切りを付けてその後に越後を目指した(白澤村史・川田村史、等)。1551年10月、藤岡の平井城から常光寺の秀翁龍樹和尚および上杉某法印と逃げ、水上の粟沢の岩窟(憲政岩と言い伝う)に隠れたが和尚は高齢のため清水峠越えはできないと考え、和尚はみなかみに残って建明寺の基を建て、上杉憲政は越後に行ったという、みなかみ町建明寺に上杉憲政の木像の謂れがある。現沼田市屋形原町の屋形原の地名は上杉憲政が一時逗留したことから付けられた。また上杉某法印が建立した西林寺の本尊は上杉憲政の持仏という。(北毛の史跡と伝説)。 加沢記に依れば顕泰の嫡子上野介(沼田光兼?、顕泰の弟ともいう)は将軍義輝の近臣として近江国を領し、次男の沼田憲泰は顕泰の嫡子として平井城にて上杉憲政に出仕していた。後に対立して廃嫡し1558年殺害する。憲泰が北条方についたためという。その後1562年家督は4男の朝憲が嗣いだ。
1553年  8月第一次川中島の戦い(村上義清らの要請で謙信自ら出陣した)。 9月上杉謙信(24才)1回目の上洛(後奈良天皇に拝謁して越後国・信濃国の討伐を賞する綸旨を与えられた。将軍義輝にも拝謁)。この時に石山本願寺、堺商人とも接触し鉄砲確保、交通確保等の実益も計っている。この時高野山にも立ち寄って高層清胤和尚に会って真言宗に入信している。京では将軍義輝・細川氏と三好氏が対立していた。
1554年  北条氏康により古河城が落ち足利晴氏は幽閉され、一時古河城復帰が許されたが1557年再び拘束され最後は栗橋城に幽閉。氏康は嫡男藤氏ではなく自分の甥の次男義氏を古河公方とした。 甲相駿三国同盟成立、武田信玄・北条氏康・今川義元の各娘を1552~1554年に相互に嫡男に嫁した。
1555年  第二次川中島の戦い。朝廷の綸旨も得た謙信は満を持して決戦に臨んだが戦いは200日以上も膠着状態で結局今川義元の調停で和議、疲労困憊で閏10月帰国したら国内は土地争いであった。厭になって翌年の出家騒動に繋がる。
1556年  白沢用水なる(沼田記、着工から25-6年かかった、約12km)。 上杉謙信(27才)は出家を覚悟して高野山を目指したが途中追ってきた家臣(春日山城代で姉の夫である長尾政景)に懇願されて越後に戻る。出家騒動の頃武田信玄に内通した大熊朝秀が謀反を起こし会津蘆名盛氏も呼応して越後に進入するも上野家成らが討伐、国内の土地争いも沈静化したという。
1557年  4月武田信玄が西上州に侵入して武田・上杉の戦い(三日尻の戦い、武田方:市河氏・小幡氏、上杉方:長野氏・倉賀野氏・安中氏・和田氏)、同時に上杉謙信自身は1~8月信濃へ出陣。
8月第3次川中島の戦いで参戦して9月帰国。
      沼田顕泰が川場村天神城築城。既に憲泰に家督を譲っていた顕泰は、妾子平八郎と共に川場天神城に隠居す(この時顕泰68才、平八郎18才。上杉派と北条派に分かれた内紛があったためという。この頃3男赤見網泰は北條方だったが?間もなく上杉方、更に武田の西上野侵攻で1562年3月には武田方となる。)。沼田氏に匿われていた上杉憲政はこの内紛で上杉謙信を頼って越後へ向かったという。
1558年  4月北条氏康傀儡の足利義氏が鎌倉鶴岡八幡宮で公方就任式を行う。 岩櫃城主齋藤憲広が北条氏康に降伏し、厩橋城長野道賢、沼田城沼田憲泰(第13代城主?)も降伏した。 沼田顕泰は憲泰を廃嫡殺害したという(沼田氏内紛とはこのことか?初回お家騒動)。沼田顕泰は退城し越後上杉氏に逃れたともいう。箕輪長野氏、白井長尾氏、足利長尾氏も北条に従属した。
1559年  2月織田信長が上洛して将軍義輝に拝謁。
4月上杉謙信(30才)が5千の兵とともに2回目の上洛、正親町天皇と足利義輝に拝謁。 (正親町天皇からは従四位近衛少将に任ぜられ盃と剣を下賜され、将軍義輝からは北信濃争乱平定の御内書と関東管領の家督相続職務継続など)。
関東管領職を受け入れて将軍足利義輝からの上洛要請があり、義輝に拝謁して関東出陣の認可を得た。将軍義輝と上杉謙信との取り次ぎには大舘春光が大きな役割を果たした。またその時の関白近衛前久とも肝胆相照らす間柄となり、関白近衛前久自らも翌1560年越後へ下向、翌々1561年越山して上野国等へも赴き謙信帰国後も危険を顧みず古河城に一時残って上杉謙信の関東平定を助けた。関白らしからぬ行動家であったという。(br> 8月北条氏康が北条孫次郎康元(北条綱成次男北条氏秀)を沼田城主に配置し沼田康元と名乗る(歴代沼田氏とは違う。沼田康元は赤見山城守(沼田顕泰3男綱泰)に合力への謝状を出していて、この赤見山城守網泰は康元に従い忠節を尽くしていた。即ち沼田城在城していた?)。康元は後の1578年御館の乱では上杉景虎(氏康七男三郎)の応援に氏邦に従って出兵している)。 ――沼田城の第1回北条支配。 10月後北条氏第3代氏康は家督を氏政に譲って隠居。この頃上野国は北条氏がほぼ領国化した。この年は大飢饉であった。
1560年  3月上杉謙信は越中に初めて出陣し富山城を攻め落とした。 5月桶狭間の戦いで信長勝利、今川義元死亡。  8月25日春日城発三国峠経由で(又は清水峠経由?)29日上野入り9月5日沼田着陣で上野国沼田城を落とした。朝廷より出陣の大義名分を得たことにより上杉謙信(31才)本人が初めて出陣して、まず南側の長井坂城に布陣して沼田と北条の連絡を絶ち、沼田康元は逃走、沼田城落城(沼田の初回北条占拠終了)。 ついで9月中、白井城長尾憲景、総社城長尾景総、箕輪城長野業政が相次いで帰属し、厩橋城も落とした。9月28日伊勢崎赤石城の那波宗俊を包囲し、10月太田金山城横瀬成繁も服属させた。沼田城番に河田豊前守長親(18歳)を、厩橋城番に北条丹後守高広(キタジョウ)を配置した。河田長親は1560-62年まで厩橋城にいて沼田城に移り箕輪城落城までいた。1566年越中魚津城城代に転任して代わりに松本景繁・新発田長敦・小中家成らの城番が配置され沼田3人衆としてその後越相同盟を仲介することになる(新潟県史)。新発田右衛門大夫忠敦(加沢記の柴田右衛門尉)は地衆の反発に会い越後に帰国。謙信より小中宛に沼田城は人質を取っているから安心だとの書状有、沼田朝憲のことと思われる(別資料では沼田氏は朝憲が沼田城に復帰したが上杉謙信の麾下に下ったともいう)が沼田在番衆は互いに仲悪く上手く機能しなかった。厩橋城主は長野賢忠で上杉方であったが12月14日暴れ馬騒ぎで謀反と間違われて誤って息子2人が殺害され賢忠も数日後病死して北条高広を置いた(殺されたのは長野道賢の子で長野業政の娘婿の長野彦九郎とその叔父ともいう。関東諸将が謙信から離れる遠因の一つという。これは1563年に発生したともいう)。1560年9月27日三夜沢赤城神社に上杉憲政名で不入権を与え、12月27日には河田豊前守長親・北条丹後守高広連名で赤城神社への乱暴狼藉を禁じた制札が与えられたという。 碓氷秋間城齋藤氏・吾妻岩下城齋藤氏・那波赤石城那波氏も落城し武蔵国羽生城も落し、東毛の一部を除き上野国の大半は上杉謙信の支配になった。沼田城攻めでは箕輪城の長野業政・白井城の長尾憲景・総社城の長尾顕景も上杉方に組して参戦した。  上杉謙信は平子孫三郎・本庄繁長を派遣して平井城を奪還し北条幻庵は武蔵松山城に逃れた。 関白近衛前久が越後上杉謙信のもとへ入越。翌年関東へ越山して関東へ行く。 以後1578年謙信死去まで沼田領は一貫して上杉配下として続く。上杉方沼田城城番は河田長親(1560,63~66年)→河田重親・小中家成・新発田右衛門3人衆(1566~68年)→河田重親・松本景繁・上野家成・本庄秀綱(1569年)→河田重親(1570~78年)という(金沢大学栗原修氏)。(この間沼田氏は城主の名目を保ちつつ上杉謙信の配下に属していた)。
この年川田城主川田四郎光清の娘小柳が生まれる、和歌に堪能で京都御所に召し出され正親町天皇から円珠姫の名を賜ったといい、1582年頃厩橋城主滝川一益に和歌の師匠として招かれたという。上川田城にはこの頃発知圖書が城主でいたという(北毛の史跡と伝説)。(円珠姫伝説は諸説あり、この戦国時代の伝説の他鎌倉時代の伝説もある。江戸中期の辞書「和訓栞」や天明6(1786)年の紀行文「越の下草」では、上野国沼田三郎五郎藤原家政の娘円珠姫がその才故に後伏見院(1298-1301)の御製を賜ったという。)
1561年  1月まで上杉謙信(32才)は厩橋城で越年した。謙信は関東の武将に広く参陣を求め1月~2月頃作成と思われる関東幕注文が小田原城を攻めるために作成された。謙信の呼びかけに多くの関東武士たちが応じて安房・武蔵・上総・常陸等7カ国255名にのぼり上野国だけで129名、うち沼田氏・発知氏ら沼田衆14名のうち10名は沼田氏同族ですべて左三つ巴紋と記載がある。沼田姓は1名のみで顕泰ではなく平八郎ではないかという。
2月には小田原城を取り囲んだ。上杉側は総勢10万に及んだという。しかし参陣諸将の足並みが乱れて落城を待てず、閏3月には都合で鎌倉に向かい、
4月上杉謙信は鶴岡八幡宮で山内上杉家の家督相続と関東管領就任式を行った。この時に忍城主成田長泰は下馬しなかったのを咎められて謙信がその烏帽子を扇で叩き落したため、恥辱を受けたと怒って兵を率いて帰ってしまった。初回のこの越山は謙信にとって大成功にも見えるがこの成田長泰への恥辱と味方厩橋城長野氏誅殺は反面では北関東諸将が謙信のもとを離れる遠因をも作っていたともいう。 5月関白近衛前久も越山して上野国厩橋城に入城。 6月28日春日山城に帰国。その帰国途中で松山城を落して城将上杉憲勝を置き、古河城には古河公方に義氏を廃して足利藤氏を置いた(謙信は公方に近衛前久を置きたかったが異論も出たためと言い一枚岩でないことが同席諸将に知れ渡ったという、謙信は甘んじて受け入れて謙信への参戦をねぎらった)。 8月には近衛前久も古河城に入城し上杉謙信の関東平定を助けた。この時古河城には古河公方足利藤氏・関東管領上杉憲政・関白近衛前久の3者がいて見かけ上関東の首府であったという。 8月川中島第4次戦い。海津城(松代城)はこの前年5月に山本勘助に命じて武田信玄が築城完成していた(後年1622年になり眞田信幸が上田城より松代へ転封、加増されたが信幸は不満が強かったという)。この戦いで山本勘助・武田信繁は戦死。この戦勝について近衛前久は上杉謙信に宛てて、「自身太刀打ちにおよばるる段、比類なき次第、天下の名誉に候」との祝いの書状を10月古河から送った。しかし謙信不在の後には再び北條に寝返るものが出て来て古河も危険になり脱出して、翌1562年2月厩橋→越後→8月京へ戻るまで1年余に亘って近衛前久は古河城に滞在した。 (関白近衛前久について: 三河守への叙任を朝廷に申し出た松平家康は、「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」と一旦断られたが近衛前久に斡旋を頼み、本姓藤原氏の徳川姓と改めて従五位下三河守へやっと叙任された。近衛前久は1587年3月上野国草津へ湯治に下向したこともある。公卿らしからぬ行動力を持ち、地方遍歴が多く文化の地方への伝播に多くの役割を果たしたと云われている。)  11月上杉謙信越山。この時は謙信自身が越山したかどうかは不明、第4次川中島の戦いの最中に次々と北条方に寝返った関東の様を見て2回目の越山となり、北条氏康と武蔵国北部において生野山の戦い、北条軍勝利。退いた上杉軍は寝返った唐沢山城を攻めたがこの時は落せなかった。
12月には(上洛していない)将軍義輝から1字を頂き輝虎と改める。 12月?長野業政病死、3男の長野業盛が箕輪城主を嗣ぐ。、「業政ひとりが上野にいる限り、上野を攻め取ることはできぬ」と嘆いたと言う武田信玄は直ちに攻撃を始めたという。 この年も謙信は厩橋城で越年した(岩槻城主太田資正のもとで正月を迎えたともいう)。
1562年  織田信長と徳川家康が同盟を結ぶ。
2月上杉謙信は館林城主赤井氏を滅ぼし、3月唐沢山城佐野氏を攻め、6月帰国、7月越中国へ出陣、12月には武蔵国松山城が北条・武田連合軍に攻められたため、太田資正からの救援要請のために、 12月3回目の謙信の越山、上野国沼田城に入り沼田城にて越年。救援に向かったものの間に合わず翌2月松山城落城。松山城は取り返せなかったが武蔵国騎西城・下野国祇園城・唐沢山城などは取り戻して関東管領としての威厳を多少取り戻した。この時厩橋城も連合軍により落城したがすぐ取り戻した。謙信が越中出陣中に古河城も北条氏康により攻め取られて足利藤氏は捕えられていた。 
   1563年  (畿内での永禄の変の2年前)。2月救援間に合わず武蔵国松山城落城(武田・北条連合軍が勝利)し、怒った謙信は3月騎西城、4月小田城を攻略。この時敵方の記録甲陽軍鑑には謙信らしからぬ残酷な仕打ちを描いている。謙信は4月に越後に一旦帰った? 9月長野原合戦・岩櫃城合戦で岩櫃城落城武田方勝利、岩櫃城代に海野長門守幸光を置いた。(武田方と上杉方の代理戦争。武田方:鎌原城鎌原幸重(宮内少輔)・眞田幸隆ら信州勢、上杉方:岩櫃城斎藤憲広・羽尾入道・沼田万鬼斎ら沼田衆・白井城長尾憲景・中山城中山景信・越後衆)。海野兄弟・齋藤弥三郎環忠の謀反等で武田方勝利、吾妻の守護は眞田幸隆がなり加勢衆は眞田にお預けとなり本領安堵という(加沢記)。四万川対岸の嵩山城は2年後の落城まで上杉方沼田城・白井城の支援を得て持ちこたえていた。(1563年8月第一次・9月第二次・10月第3次岩櫃城の戦いがあり斎藤憲広らは越後上杉へ落ち延びたが、2年後の1565年に憲広息子の太郎憲宗と城虎丸兄弟が越後の加勢を得て再起し500騎を引き連れて嵩山城に入り真田幸隆らと戦ったが家臣の裏切りにて嵩山城落城し斎藤一族滅亡。)。
この年も謙信は厩橋城で越年(12月に再び越山してきた?)。上杉謙信は特に寵愛した側近の河田長親を沼田城代に据えて上野の重要拠点として以後の上野出陣と帰国は沼田城を経ていた。謙信は1560年~1570年まではほぼ毎年秋に上野に出陣して翌年春に越後に帰国するか越年という行動をとった。この時発知氏は河田長親の配下になっていたという。
1564年  2月下野国唐沢山城攻略10回近くの激戦の末落城、4月謙信帰国。 8月第5次川中島。 10月越山して上野国唐沢山城の佐野氏再攻撃、再び謙信は降伏させた。この時は人質をとり帰国、城番に本庄繁長を置いた。
1565年  3月第一次関宿城合戦にて上杉謙信が氏康を攻める。 5月永禄の変。剣豪将軍と言われた第13代将軍足利義輝が三好三人衆・松永久秀に御所で襲われ敢えて逃げずに討ち死に。 6月武田信玄が西上州の倉賀野城を攻略して落城。       7月足利義輝の弟足利義昭も命を狙われていたが細川藤孝ら将軍義輝の側近に救出され逃亡した(関白近衛家の猶子となり仏門に入っていたが命を狙われていた)。 9月上杉謙信が上野国和田城を攻めるも不成功。和田城・倉賀野城は武田方に落ちた。 武田信玄は吾妻谷からと碓氷谷からの2方面から上野国へ進入していて碓氷谷からの箕輪城攻撃は不成功に終ったが倉賀野城和田城を落し、吾妻谷からは嵩山城が11月真田幸隆により陥落して武田領となり斎藤氏に代わり真田氏が城代となる。これが後の真田氏沼田支配のきっかけとなる。
      11月17日上野吾妻の嵩山城が真田幸隆により落城し、斎藤一族は滅亡した。
1566年  2月足利義昭は還俗。上杉謙信・武田信玄北条氏康に和睦するように求めた。       上杉謙信は西上野での武田方との対戦と同時に北条方の下野・常陸・武蔵・下総国での対戦もしていて、2月上杉謙信は下総国法花寺に関越諸軍の乱暴狼藉を停止する旨の制札を河田豊前守長親・北条丹後守高広・直江大和守景綱の連名で出している。 3月上杉謙信は安房里見氏を救援すべく北条方千葉氏の下総国臼井城を攻めたが敗退した。これをきっかけに武将たちの謙信離れが始まったという。敗退直前に将軍足利義昭から北条と和睦して幕府再興のために上洛するようにとの3月10日附け書状が上杉軍に届けられたことが敗因とも言われる、4月帰国?。 9月足利義昭は越前朝倉義景を頼り一乗谷城下安養寺に移った。上野清延・大館晴忠などのかつての幕府重臣が帰参したが上洛要請をしていた上杉謙信・武田信玄は周辺との対立で叶わなかった。 9月5日東上野の由良国繁が北条氏康と同盟を結んで謙信から離反。 9月29日箕輪城落城。長野業盛の箕輪城が武田信玄により落城、西上野が武田支配となる。真田幸隆・信綱が箕輪城代を務める。この時武田信玄の仕官要請を断った箕輪城側の上泉伊勢守信綱は諸国流浪の旅に出て以後新陰流の祖と言われるようになる。 西上州への武田氏の侵攻に不安を感じた新田金山城主由良氏および厩橋城の北条高広が、北条氏康の誘いに乗り上杉方から北条方へ寝返り、越相同盟に向けて動き出した。 上杉謙信にとっては残念な状況となったが、西上州で箕輪城が武田信玄、東上州で由良氏が北条氏康側となり、上野国による上杉・武田・北条の三つ巴の戦乱はこれにより新たな段階に入った。 謙信が沼田城で越年。(1569年越相同盟成立で厩橋城の北条高広は上杉方に復帰する。この間2年半の沼田城5人衆の番松本景繁・河田重親・小中家成・新発田右衛門大夫・小国刑部少輔は越相同盟折衝の窓口のために両者の間に立って使者の送迎・もてなし・情報合戦等大変だったという。北条方から沼田方が眞田岩櫃城を攻めるよう要請もあったという)。 沼田顕泰が沼田弥七郎朝憲(沼田城主第14代?、13代は憲泰)に家督を譲り再び天神城に移る。
1567年  3月真田幸隆により白井城落城。 真田幸隆が病気のため嫡男信綱に家督を譲り隠居1574年死亡、その信綱も翌1575年長篠の戦で死亡して真田昌幸が家督を継ぐ。       10月武田家で義信事件、武田・北条の不和始まる。 10月上杉謙信越山沼田城に着陣佐野に出陣、11月21日わずか1か月で帰国(謙信の考え方に変化?この頃から甲相同盟の気持ちを持っていたが謙信配下の関東武将たちが反北条であったため1569年まで遅れたという)。
1568年  2月松永久秀らに擁立された足利義栄が第14代将軍に擁立されて、近衛前久が決定して就任。徳川家康は左京大夫に任ぜられた。 4月足利義昭は朝倉氏館で仏門から還俗した。 本庄繁長の乱。越後国では謙信に不満を持った本庄繁長が信玄の調略に乗って4月謀反を起こしたが翌年3月謙信に許されて降伏家臣に復帰、仲介は伊達輝宗・蘆名盛氏が行って講和したという(本庄繁長は当時厩橋城にいて北条氏と対峙していたので謀反の余裕はなかったともいう)。 7月足利義昭は越前朝倉氏を見限り勢いのあった信長を頼り美濃立正寺に明智光秀を介して迎えられ、9月信長らの助けで上洛し天皇より第15代将軍に任命された。近衛前久はまもなく関白を解任された。 上杉謙信はその新将軍足利義昭からも関東管領に任命された。(足利義昭は朝倉氏家臣の明智光秀の仲介で三管領斯波氏の家臣の織田信長の尾張国へ身を寄せたが、9月より織田信長・浅井長政の軍と共に上洛開始して10月将軍宣下とともに同時に従四位下、参議・左近衛権中将にも昇叙・任官された)。 関白近衛前久が永禄の変への関与を疑われて足利義昭により朝廷から追放された(後に復帰)。
   12月薩った峠の戦い。武田信玄は駿河国に進攻、今川氏真・北条氏康連合軍を破る。甲相同盟破棄,越相同盟に向かう。この時佐竹義重は上杉謙信に北条追討の越山を望んだが逆に同盟に向かったために反北条方は以降謙信から離れて武田に組するようになる。
1569年  正月織田信長による殿中御掟9ヶ条が将軍義昭に提出された(まもなく21ヶ条となる)。この頃から幕府再興を目論む義昭と天下布武で自ら天下統一を目指す信長との考え方の違いから関係が冷却化していく。
正月川場合戦(天神城の戦い)。沼田万鬼斎顕泰(第12代沼田城当主)わが子四男弥七郎朝憲(第14代?当主、母箕輪城主長野業政娘、正室前橋城の長野賢忠の娘(この時城主は既に北条高広でかつ1566年上杉から北条へ高広は寝返っていた))を殺す(2回目お家騒動。北条側に着いた次男憲泰もかつて殺害している)。家臣らに反逆されて同族の會津蘆名氏を頼って落ち行くも途中で万鬼斎死亡(会津で客死ともいう)、平八郎會津へ逃亡(弥七郎:北条方、顕泰:上杉方の対立のためとも言われる。その後平八郎は1581年由良氏の援助のもとに再起して沼田を攻めるも騙されて横死。利根郡内各村の人々は敵も味方も相知る同士で血で血を洗う悲惨な戦いをしたという)。この川場合戦の際前橋城からの朝憲側への援兵は川田城近くの屋形原高瀬戸の要害に陣したという(北毛の史跡と伝説)。沼田城番からの依頼により10月上杉謙信が沼田城に入城、年内帰国。城番は河田伯耆守重親・松本石見守景繁・小中大蔵少輔家成の沼田城番3人衆に替わった。(加沢記ではまず柴田右衛門(=新発田右衛門)が3月に城主亡き後の初代城代としている?地元誌の名苗顕然記でも柴田右衛門・河田伯耆守となっているので1569年まで柴田右衛門は沼田に居たと思われる)。 3月武田信玄に対抗するために北条・上杉の越相同盟成立。一時北条方であった北条丹後守高広は6月上杉への帰参を許された(由良氏・厩橋北条氏が仲介、北条氏康は謙信の信州出兵を希望、氏康の子七男北条三郎(氏秀ではない?)を謙信の養子とした)。越相同盟は北条方の足利義氏を古河公方として認めることになり常陸国佐竹氏など関東諸将は謙信に不信感を抱くようになり安房里見氏はあくまでも反北条氏として謙信から離反して武田氏と組むようになる。 閏5月上杉謙信は入洛した足利義昭を祝し織田信長に鷹を贈った。
1570年  上杉謙信越山して4月沼田城にて北条氏康の七男北条三郎に面会し景虎名を与える。
1571年  越相同盟で武田氏の背後を上杉氏が突くことを期待したが謙信は動かず焦りを感じていた北条方は、北条氏康逝去して氏政が越相同盟破棄。12月甲相一和成立して武田と同盟(第二次甲相同盟)。西上州を武田、東上州を北条が支配する相甲の国分け協定成立。この時協定を知らされなかった由良成繁は氏政に苦情を述べている。       武田信玄は岩櫃城、尻高城、中山城を攻め服属させたが信玄が帰国すると上杉方に再び属した。
      比叡山延暦寺が織田信長により焼き討ちされて僧侶や子供数千人が焼き殺された。
1572年  3月武田家臣の真田幸隆により白井城陥落、上杉謙信の沼田城・厩橋城の連携は分断された。 上杉謙信は怒って関東にも出兵し、同時に北陸越中の一向一揆とも対戦する。謙信・信長・家康との間で同盟連携して戦いが進行。 織田信長が「十七条の異見書」を出して将軍足利義昭の悪口を世間に流布した。
1573年  武田信玄逝去(53才)。4月12日武田信玄が西上中に死去。  2月将軍義昭が信長追討の檄文を出したために3月織田信長が出陣し、7月第15代将軍足利義昭を京より追放した(但し天正16年1588年まで義昭が征夷大将軍に名目上在位していて、この年をもって室町幕府滅亡。義昭は退位後も秀吉によって厚遇されたという)。

上杉謙信の越山について:
・1560年3月初めて越中国出陣富山城増山城を攻め落し、8月初めて越山①して沼田城厩橋城攻め落とし厩橋城で越年。(1560年8月~1561年4月)
<塩沢町誌では初回越山は1522年8月である。1552年5月には上杉憲政から上田之庄坂戸城主の長尾政景に宛てて清水越の直路を整備する命令が届いていた(『清水越の歴史』阿部利夫編「みなかみ町谷川岳山岳資料館」2012年発行)。その1か月前1522年4月には上杉謙信が従五位下弾正少弼に叙任されていた。即ち上杉憲政が入越する前に景虎は関東管領上杉の称号を譲ることを前もって知らせを受けていたので御館と号する城を既に用意して待っていた。その旨は梁田中務少輔晴助又は三田五郎左衛門によって伝えられていた。謙信の越山回数は計15回ということになる。>
・1561年2月古河御所制圧義氏放逐藤氏を入れ3月小田原城攻め、4月鎌倉鶴岡八幡宮で関東管領就任式、帰国途中松山城を落して6月帰国、8月第4次川中島、11月再び越山②厩橋城で越年。(1561年11月~1562年6月)
・1562年2月館林城(赤井氏)落城させ、唐沢山城(佐野氏)を攻めるも落城せず、越中反乱で4月帰国して7月越中国出陣反旗を翻した神保長職を再び降伏させ、12月武蔵国岩槻城大田資正の要請で再び雪中強行して越山③12月16日沼田城到着、同城で越年。(1562年12月~1563年6月)
・1563年2月松山城救援に向かうも武田・北条連合軍により松山城落城、怒った謙信は騎西城・忍城を攻め落し4月下野国唐沢山城(佐野氏)祇園城(小山氏)を攻め更に下総国古河城・結城城を落し厩橋城で越年。(1563年12月~1564年4月)
・1564年1月常陸国小田城を落し2月三度目の寝返りした唐沢山城の佐野昌綱を降伏させ3月越後へ帰国、8月第5次川中島、10月再び越山④北条へ再び寝返った佐野昌綱を攻め落しこの時は人質を取り帰国。(1564年10月~11月?)
・1565年3月越山⑤して下総国関宿城に救援出陣、9月上野国和田城攻め不成功、帰国(1565年3月~9月、⑥11月~1566年4月2回越山)
・1566年2月常陸国小田城攻め落とし3月下総国臼井城攻めるも失敗、4月帰国9月箕輪城落城11月越山⑦大胡に着陣、藤岡・深谷に11月19日唐沢山城入城。(1566年11月~1567年4月、⑧11月~12月2回越山)
・1567年3月再び寝返った唐沢山城佐野昌綱を降伏させ、4月寝返った厩橋城北条高広を降伏させ帰国、10月越山⑨沼田城に着陣佐野に出陣、11月21日わずか1か月で帰国(謙信の考え方に変化?)。   (1568年越山なし)
・1569年3月越相同盟受諾8月越中国松倉城を攻撃途中で帰国越山⑩して10月沼田城入城して氏康の要請で武田軍と上野国で交戦、帰国。(1569年10月)
・1570年越山⑪して4月11日沼田城で北条三郎(氏康七男)と会い同行して帰国4月25日春日山城にて自らの幼名の上杉景虎の名を与えて養子とした。(1570年4月)
・1571年2月富山城松倉城新庄城守山城を落城させ、11月越山⑫して上野国総社城に出陣。(1571年11月~1572年4月)
・1572年1月上野国石倉城攻め落とし北条氏政と第一次利根川の対陣、8月越中国出陣富山城を再び攻め落とし帰国。
・1573年3月再び越中国富山城を攻め落しさらに加賀国朝日山城を制圧、(1573年越山なし)
・1574年2月越山⑬上野国金山城深澤城女淵城等攻略し氏政と第二次利根川の対陣5月帰国、10月越山⑭武蔵国騎西城忍城鉢形城等攻略閏11月古河城攻略帰国。(1574年2月~5月・10月~11月2回、その後1575年~1578年3月死亡まで越山なし)
上杉謙信の関東への越山は計14回繰り返し、関東諸将を越山して攻め落としても越後へ引き上げると北条方へ寝返りまた越山して攻め落とすということを繰り返していた。

1574年  3月織田信長(41才)が上杉謙信(45才)に狩野永徳筆の「洛中洛外図屏風」を贈る。 4月北条氏政と上杉謙信の第二次利根川の対陣。5月謙信は越後へ帰国。北条高広は厩橋城を嫡男北条景広に譲り自身は大胡城に移る。 9月黒川谷合戦。この時沼田衆300余人討ち取られた。謙信は反撃して桐生仁田山城を攻め落し籠城していた男女を一人残らずなで斬りにしたという。
1573年~1574年  謙信越中を支配した後に上野に出陣し、翌年にかけて北条氏政側についた新田金山城の由良氏を討つべく渡良瀬渓谷の黒川谷合戦等あり。
1575年  5月長篠の戦い。上京を目指した武田勝頼が織田信長に負ける。以後武田勝頼は東上野に矛先を転じた。 11月信長は従三位権大納言兼・右近衛大将に叙せられる。豊臣秀吉は筑前守に任ぜられる(従五位下叙任は1584年)。       近衛前久が信長の奏上で帰洛を許され、9月信長の要請で九州に下向して織田と島津・大友・相良・伊東らとの和議を図った。
1576年  安土城の築城始まる。1579年完成。1582年本能寺の変後に焼失。足利義昭は信長から逃れるように毛利氏を頼って紀伊由良から備後鞆の浦に移り鞆幕府を構えてそこから盛んに反信長の御教書を出していた。
1577年  織田信長にそそのかされて本庄繁長が伊達輝宗とともに上杉謙信に反旗、攻められて謙信に降伏、「またお前か」と言われるも許されて家臣に復帰。
1578年  3月上杉謙信逝去(49才)。上杉謙信は織田信長との同盟を破棄して、能登七尾城、加賀手取川の戦いで織田軍を破り越中と能登を平定してから帰国、つづいて関東平定に向けて出陣を決めた直後に脳出血で逝去した。この時には前年からの関東諸将からの救援要請および将軍義昭や毛利輝元からの上洛催促の密書が届いていたという。 謙信は後の信長や豊臣秀吉と違い、国人衆連合の盟主という地位から脱することが出来ず、かつ謀反人の北条高広や佐野昌綱や本庄繁長など反乱を繰り返す家臣を許してしまうという点で権力集約に限界があったとされる。(北条高広は1554年武田信玄へ寝返り翌年謙信に戻る、1566年北条氏康に寝返り1569年謙信に戻る、1578年御館の乱で景勝に逆らい北条氏政家臣、本家の越後国北条城は上杉景勝方に攻め落され当主で子の北条景広は討死。その後武田勝頼の仲介で景勝に戻る、1582年滝川一益家臣、本能寺の変で北条氏直家臣、と次々と主家を変えて生き残った)。   謙信逝去直後からの御館の乱で沼田城・厩橋城は上杉景虎(北条三郎)側についた(武田氏・北条氏はこの時点ではまだ同盟関係にあった)。 6月景勝側からの要請で武田勝頼と越甲同盟成立、領土分割協定を結び東上野も含む上野国を武田領とした同盟を景勝は結んだ。沼田城も攻略により武田に与える旨の約束をしている。北条氏政は弟北条氏邦を送りその弟上杉景虎を支援するために越後に向けて出兵するも途中の沼田で景虎自害を知る。沼田城・厩橋城は上杉景虎方であった。 
1579年  3月上杉景虎(北条三郎)は戦いに敗れて自害して上杉景勝側勝利。 鉢形城主北条氏邦らが沼田城を攻めて北条氏政により7月17日沼田城無血開城。          (沼田の第2回北条氏支配)。 上杉氏から沼田城を預かっていた沼田城番衆は一枚岩では無く、河田重親、厩橋城の北条高広は景虎側で上杉景勝から転じて北条氏家臣になったが沼田城番上野家成は北条に逆らい沼田城に籠城したが7月17日破れて越後上杉へ戻った。まもなく河田伯耆守重親は不動山城(赤城村)に移り猪俣邦憲・用土新左衛門尉重連(まもなく弟の用土信吉=藤田能登守信吉に代わる)・金子美濃守泰清が沼田城代となる。越甲同盟で武田氏の東上野進出も始まっており北条も沼田領の上杉勢力を完全掌握できず氏邦は逆に敗退する。河田重親のその後は不詳であるが江戸時代の旗本につながって生き残っているという。 上杉景虎没命により既に越相同盟は破棄されており、北条氏は既に東上野進出していた。 7月武田勝頼の妹菊姫が上杉景勝に輿入れした。 8月厩橋城主北条高広が武田勝頼に属す。 9月北条氏政は甲相同盟も破棄されて武田勝頼とも戦闘を始めた。 11月真田方の利根川右岸小川城・名胡桃城を北条方沼田城の藤田、猪俣らが5千余騎で攻めたが雪で落とせず。
1580年   1月真田昌幸は初めて利根川左岸に渡り明徳寺城を攻め落した。昌幸はこの時根岸村薄根(現沼田市榛名町)にある榛名神社の1290年鋳造の梵鐘を持ち帰り信州真田村の白山神社に寄進したという。 2月眞田昌幸は猿ヶ京城を攻め落した。 3月北条氏邦は藤田信吉に3千の兵で小川城を攻めさせ小川可遊斎は2百余人で防ぎきったが、沼田城に引き返した藤田信吉らが再度大挙して攻撃するとの報を聞いた小川可遊斎は5月中旬北国に逃れた。 5月真田昌幸により沼田城包囲、用土信吉(藤田信吉。兄の用土重連は実はこの時義兄弟でもある主君北条氏邦に謀殺されていて弟の用土信吉が北条の沼田城城代となっていた。藤田能登守信吉は武田勝頼から賜った名という)が降伏して沼田城が5月18日無血開城し幸隆弟の矢沢頼綱が城代になる。この時海野能登守輝幸も沼田在城衆の一人となる。 吾妻岩櫃城・名胡桃城・小川城・猿ヶ京城・川田城が陥落、利根川を超えて明徳寺城・沼田城も陥落、昌幸は岩櫃城、沼田城および支城、白井城を統括する役目を担った。川田城では75人が晒し首になったという(川田城は川田氏が滅亡したが山名信濃守を城主として昌幸が置き、後に真田家臣の禰津助右衛門→小林文右衛門が城代として住し真田改易後には加沢記の著者加沢平左衛門がその一角で余生を送って墓もある)。 北条方であった城代藤田能登守信吉・金子美濃守は寝返り降伏、猪俣邦憲は鉢形城に退いた。この時眞田昌幸は降伏して配下になった金子美濃守には中之条横尾八幡城を与え、沼田城代藤田能登守信吉には生品・白澤村・奈良村・秋塚・発知村等を恩賞として与えた(沼田市史、白澤村史)。信吉まもなく沼須城主に移る。(藤田能登守信吉は北条氏邦の義弟だがその後、北条→武田→織田→上杉→北条→上杉→徳川と主を替えて生き残り大阪夏の陣にも徳川方で従軍したが信濃で死去)。沼田城の第2回北条支配は 1年足らずで終わった。       近衛前久が織田信長と石山本願寺顕如との調停に入り、石山本願寺が開城して顕如は去った。信長は10年近く攻め落とせなかった事を達成したことを高く評価して「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」約束をしたという。
1581年(天正9年)2月 真田昌幸が沼田城を降伏させてさらに前橋城攻撃中に万鬼斎遺児の沼田平八郎景義(側室金子美濃守娘の子)再起して沼田城に帰還するべくその南の安岨城に太田・新田・勢多方面の援軍3000人と共に詰め滝棚の原で戦い勝利するもその後3月15日沼田城代の金子らに騙されて城内にて殺される(沼田氏滅亡)。この時に沼田平八郎景義はまず3月4日杤久保安岨の要害に本陣を置き次に3月11日滝棚の原にて戦い城方が城中に引き上げたのをみて発知氏支城の高王山城に奈良原を通って陣取り沼田城に対峙していた。金子美濃守らに城を明け渡すと騙されて城内に家来20人ばかりで導かれてそこでだまし討ちに会った。この時和田主水や発知景朝も沼田平八郎景義に味方してその一族の多くがこの時戦死したという。多那の桑原與惣左衛門(歌人桑原清就の祖)もこの時南越生合戦で平八郎景義の客将として戦った(加沢記、北毛の史跡と伝説)。       6月沼田城の城番に西条治部少輔を置き、昌幸の指図に従うよう武田勝頼が命じている(前城代の藤田信吉はこの時なお在城していた)。 11月には吾妻の鎌原氏や金子美濃守の讒言に騙された昌幸により攻められて岩櫃城・沼田城の海野兄弟が自決した(岩櫃城:兄幸光75歳、沼田城:弟輝幸72歳)。
  1582年  1月戸鹿野の夜討ち。効を立てて沼田へ戻りたいという白井城百人衆を騙して戸鹿野へ夜討ちをかけさせその殆どが討ち取られてしまったが金子美濃守と真田昌幸の策略という(北毛の史跡と伝説、白井も沼田も昌幸の管轄と思われるが単なる内紛か)。 3月11日天目山の戦いで武田勝頼が織田軍に追い詰められて自害し、主不在の旧武田領の争奪戦始まる。 4月3日甲斐国恵林寺の快川紹喜和尚は、逃げ込んだ反織田信長の六角次郎ら多くの反織田派を匿って引き渡しを拒否したために150人余りの僧らを嫡男織田信忠により焼き殺された。この時快川和尚は「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と言ったという。この時信長は甲斐国台ヶ原にて富士を見ていたという。この時近衛前久も信長に従って甲府まで同行した。武田氏菩提寺恵林寺の快川和尚は信玄の葬儀も行い明智光秀の同族であり本能寺の変の遠因の一つともいう。 信長は上野国にも織田信房らの軍を派遣して、甲斐・信濃・上野の3国ともに織田信長の支配下に入った。この流れを見て眞田昌幸も信長に帰属し黒葦毛の馬を送り臣下の例を取った。信長は喜び令状を送ったという。滝川一益を関東管領に信長は任命して上野国の城主は殆ど滝川に帰属し眞田昌幸も帰属して岩櫃城、沼田城、小県・佐久を一益に明け渡した。信長は昌幸を一益の与力とした。滝川一益は厩橋城入城、沼田城には甥の滝川義太夫が城代として入城(人質として真田信繁も入る)。昌幸は信長死後6月上杉に従属、7月北条に従属、10月家康に従属するも同月の北条・徳川和睦により再び離反して上杉に帰属した。 5月15日徳川家康と穴山梅雪斎は、安土城で明智光秀の接待受け、その後奈良・堺を見物する。 6月以降天正壬午の乱、6月2日本能寺の変で織田信長(49才)が横死。なお在城していた沼田城の元城主藤田信吉は義太夫に返却を迫ったが昌幸に返すのが筋と言ってそれを拒んだ。 6月19日北条氏直の大軍と滝川一益との神流川合戦で北条氏勝利して沼田城から滝川義太夫ら信濃に敗走。この神流川合戦後に藤田信吉は越後の上杉景勝方へ敗走した。 6月21日真田昌幸は滝川氏退去後には叔父矢沢頼綱、嫡子信幸を送り込んで沼田城を奪回。この頃から真田昌幸は利根・吾妻・佐久・小県の4郡を確保して戦国大名化して自立するようになった。(それまでは沼田支配の軍事権はあったが所領の配分や安堵権は武田氏が握っていた)。 厩橋城には北条高広が再び入城した。 真田昌幸は織田支配下から6月24日上杉に臣従、7月9日には北条氏直の支配下になった。沼田領内は北条配下の赤井氏がいて真田氏が1本化出来ず7月沼田氏一族の恩田氏に発知所領を与えている。さらに真田氏は9月25日には北条から寝返り徳川家康配下になった。 10月徳川家康と北条氏政(家督は1580年に氏直が既に継いでいたがなお実権を握っていた)との織田信長旧領の再配分同盟成る。関東の北条支配は手柄次第となり北条氏邦指揮のもとに北条の沼田攻めが活発になる。 真田昌幸と北条氏政は上野国長井坂城・津久田城・森下城・阿曾城や信濃の禰津城などで戦っている。長井坂城を北条氏邦が5000の兵で真田昌幸より攻め取り地衆の須田加賀守を置き更に阿曾城を落しを猪俣能登守邦憲を置き沼田城を攻めるも落ちず矢沢頼綱は善く守った。 翌1583年2月徳川・真田の仲介役の依田信蕃が戦死して真田は上杉方へ寝返り徳川と敵対する。 近衛前久は本能寺の変に手を貸したのではないかと秀吉らに一時疑われたため徳川家康を頼って一時浜松に下向した。 武田勝頼・織田信長の死後は徳川・北条・真田・上杉が絡み合って混戦になって行く。 北条の沼田城攻めは10数回に及び、沼田城周辺だけでなく周辺村々が悉く北条兵に荒らされ放題で財宝略奪・男女を問わず切り捨てられ酷い状況だったとの記録有り。 
1582年の信長死後~1598年秀吉没まで太閤検地あり。この時1段を360歩から300歩として新たに畝を設け、生産性を勘案して上・中・下・下々田の4等級に分けた。
1583年  1月上田丸子城合戦で北条に勝ち、真田昌幸が平城上田城を築城開始する。 万鬼斎も1532年築城の沼田城を再築城開始。 秀吉は信長により焼却された石山本願寺跡に大阪城築城開始。大阪城は1615年大阪夏の陣で落城後1620年再築城、1665年落雷で天守焼失。以後1931年の天守閣復興まで天守なし。
1584年  小牧・長久手の合戦で豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が対立し、家康は北条との融和策から沼田領を北条に渡すように真田昌幸に命じたが昌幸は拒否して家康と決裂、翌年の上田合戦に繋がる。
1585年  5月伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)。 6月四国を統一して秀吉に逆らっていた土佐の長曾我部元親を毛利輝元らに四国攻めを秀吉が命じ、8月降伏した。 7月関白相論の混乱に乗じて秀吉が関白となる(菊亭晴季の助言で名目上折り合いの悪かった近衛前久の猶子となる)。翌1586年9月豊臣姓を正親町天皇より賜りさらに12月太政大臣となる。 7月家康と決裂した真田昌幸は上杉景勝の支配下に入った。       7月11日関白の座を巡って二条昭実と近衛信基の争いをきっかけに秀吉自身が近衛前久の猶子となり一時的と称して秀吉関白に就任、なし崩し的にその後も継続。       10月秀吉は九州惣無事令を発し西国出兵の大義名分を与え、1587年の関東奥羽惣無事令と合わせて天下統一のきっかけとなり1590年の小田原征伐の大義名分となった。       8月神川合戦(第一次上田合戦)で真田昌幸と徳川家康の大軍が戦って真田勝利して戦国大名真田氏の名が広まる。後に家康が小松姫を信之に嫁がせて懐柔策をとるきっかけになった。同じ頃北条氏直も沼田城を攻めるが城代矢沢頼綱(昌幸の叔父)が撃退に成功している。秀吉の仲介で家康の上田城攻撃は断念されて真田氏は秀吉に従属するようになる。北条氏直は森下城を攻め落し沼田城に向かい越国境まで追い落とし沼田庄を残らず討ち散らすのは明らかである、と言って出撃したが矢沢頼綱及び上杉景勝の援軍で攻め落とせなかった。1586年5月にも大軍で攻めたが真田方が守り抜いた。 9月29日北条氏照が2万の軍勢で子持峠を越えて川田城を包囲し、山名信濃守の子主水が戦死して信濃守は隠居した。山名の子深津泉らが遺体を担いで高徳院に葬ったという。信濃守隠居後は禰津助右衛門が川田城に入る。(北毛の史跡と伝説) 11月人取り橋の戦い。佐竹・蘆名連合軍と伊達軍の戦い、連合軍が4倍以上の圧倒的兵力差で伊達軍の敗戦であったが佐竹家の内紛で伊達軍壊滅状態の中で佐竹軍撤退。
  1586年  1月徳川家康と豊臣秀吉の和議成立、朝日姫が家康に嫁ぐ。真田昌幸は徳川配下の豊臣大名という立場になった。 7月二本松城無血開城。政宗は城主に家臣の伊達成実を置いた。二本松城を足がかりに政宗の蘆名攻めは加速する。
1587年  12月秀吉は関東奥羽両国惣無事令を出し、関東の領土紛争は沼田領を除いて無くなった。 関東では沼田領を巡る真田、北条の争いは収まらず、1571年相越同盟破棄以来~1589年までの間は北条の沼田侵入は複数回に及び北条方が沼田城下を攻撃し、しかも周辺の村々を含めて酷く北条の兵に荒らされ、財宝奪取、男女の区別無く切り捨てられたという。 奥州でも伊達、蘆名の対立が続き、後継者が夭逝して後継者争いが伊達派・佐竹派の間で起こった黒川城主蘆名氏は佐竹義重次男の義広12歳を養子に迎えて蘆名義広(後に盛重と改名)を後継とした。 この年3月近衛前久は草津温泉に湯治に来ている。
1588年  郡山合戦。佐竹・蘆名連合軍と米沢城主伊達政宗の合戦、引き分け。 第15代将軍足利義昭は1573年信長に追放されたが念願の上洛復帰は1587年で形式上の退位は1588年秀吉に忠誠を誓っての辞任となり室町幕府終了、権限が全く与えられなかったが退位後も秀吉から1万石を与えられて最期まで貴人として遇された。この意味では戦国時代は室町時代の後半部にほぼ重なる。
この年豊臣秀吉による刀狩り。これによってそれまで流動性があった武士と農民の区別が固定される兵農分離政策や職業世襲制が具体化して行く。
1589年(天正17年)6月摺上原の戦い、蘆名氏敗走。出羽米沢の伊達政宗による會津黒川城攻めで、蘆名氏滅亡。黒川城主蘆名義広は生家で兄の佐竹義宣を頼って常陸国に落ち延びた。勝利した米沢城の伊達正宗は以後蘆名家の本拠の黒川城(會津若松城)を本拠とする。 蘆名義広(翌年盛重と改名)の庶子蘆名又十郎盛近は常陸国田島村に逃れ潜伏し政宗に害されるという従臣の勧めで佐部盛近と改名(遠祖の佐原義連・外祖父服部寛清の一字ずつを採ったという、その後末孫が江戸期末に更に左部と改姓した)。 7月秀吉裁定で沼田城は真田方から北条方へ引き渡し。真田・北條の対立で秀吉裁定により沼田城を含む利根川東岸部を北条領、名胡桃城を含む西岸側を真田領とした。このため真田昌幸は東部一帯の家臣の領地を信州伊那郡箕輪を替え地として家臣に与えた。真田領1/3、北条領2/3であったが両者とも不満ながらも秀吉に従い沼田城は真田から北条に引き渡された。沼田城には北条方猪俣邦憲、名胡桃城には真田方鈴木主水重則が入った。                          (沼田の第3回北条氏支配)
その土地から離れられない農民達の動きを示す資料はみつからない。 沼田城代には北条氏邦家臣の猪俣邦憲がなった。 11月猪俣は続いて真田方の名胡桃城城代鈴木主水重則を偽手紙で誘き出し不在中に城を奪い取った。鈴木主水はそれを羞じて正覚寺に於いて立腹した(立腹:立ちながらの切腹)。上洛中の眞田昌幸は使者からそのことを聞き秀吉に訴え出たが、北条氏直は知らぬ事と弁明し通して猪俣邦憲も氏政・氏直に責められることはなかった。 12月秀吉は関東奥羽惣無事令への違反としてこれが直接原因となって小田原城攻撃命令を出した。 秀吉の小田原攻めでは沼田城・厩橋城・和田城・倉賀野城・箕輪城・松井田城・金山城・館林城・白井城など上野国国衆は北条氏邦らの北条方の管轄であった。
北条氏の利根沼田地方への侵攻:
     ・1558年岩櫃城を攻め落し続いて沼田城を攻略、
・1559年8月北条孫次郎氏秀を置き沼田康元を名乗らせる。 (北条氏の第一回沼田城支配)。
     ・1560年8月上杉謙信と戦い沼田城から沼田康元逃走。
     ・1578年謙信死後の御館の乱で氏邦軍北上、途中沼田で上杉景虎の死を知る。
・1579年7月北条氏邦により沼田城無血開城、御館の乱で上杉沼田城番衆は一枚岩でなく混乱。北条方城番衆に猪俣邦憲らを置いた。  (北条氏の第二回沼田城支配)。
     ・1580年5月真田方が攻め込み北条方沼田城代藤田信吉が寝返り真田昌幸に降伏、城代を昌幸叔父矢沢頼綱に替えた。
・1581年2月北条方の援助で沼田平八郎が沼田へ進入するも騙されて殺害される。
     ・1582年4月織田信長により沼田城は滝川一益支配となり6月本能寺の変後に真田昌幸が奪還。10月北条氏邦軍が5千余騎で長井坂城・森下城・阿曾城等を攻める。
     ・1583年 ?
     ・1584年9月北条氏直が沼田城を攻めるも落せず。
     ・1585年9月北条氏照が子持峠を越えて川田城を攻めるも落ちなかったが山名主水戦死して父の山名信濃守が隠居したため禰津助右衛門が城に入る。
     ・1586年5月北条氏直が沼田城を攻めるも落ちず。
     ・1587年 ?
     ・1588年 ?
     ・1589年7月秀吉裁定で沼田城は泣く泣く北条に引き渡し名胡桃城は死守したが11月北条方沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を騙し取った。これが小田原攻めに繋がる。            (北条氏の第三回沼田城支配)。
1590年(天正18年) 3月眞田昌幸は秀吉の小田原城攻めに参加のために上田城を出発。眞田昌幸は上杉景勝・前田利家らと北国軍として碓氷峠から上野国に入り松井田城・箕輪城・厩橋城等次々と降伏させて、5月には武蔵国の鉢形城を攻撃して北条氏邦降伏、続いて八王子城北条氏照降伏、7月北条氏直降伏。 北条方の沼田城城代猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を占領したことをきっかけに秀吉は小田原城を攻め、3ヶ月で無血開城、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放。早雲以来の後北条氏は滅亡した。 7月に宇都宮城で戦後措置の宇都宮仕置を行う。この時伊達正宗は小田原攻めへの遅参・惣無事令違反の蘆名攻めを理由に會津郡等没収減封されて米沢城へ、會津は蒲生氏郷に与えられ蘆名義広(盛重)に返却されなかった。 その為寄る辺を失った蘆名又十郎盛近(佐部盛近)は上野国沼田佐山に移り住んだという。父蘆名義広は常陸国江戸崎領4万8千石を与えられ名を義広から盛重に改名。盛重兄の佐竹義宜は水戸領49万石を与えられた。しかしその後1602年関ヶ原不参加を咎められて佐竹義宜は秋田へ移封、蘆名盛重も家臣となって秋田に移った。翌年蘆名盛重(更に義勝と改名)は秋田角館を分領したが数代続いて断絶したという。一方上野国へ移り住んだ佐部又十郎盛近の末葉はその後江戸期末に左部と更に改姓し今もある。(加藤定彦、沼田市史等)
眞田昌幸はこの宇都宮仕置きにて、沼田・上田・小県を安堵され、沼田領(吾妻・利根)全体は子の信之に委ねた。引き続き行われた奥州仕置き(伊達政宗→米沢城に戻る、黒川城→蒲生氏郷、浅野長政→鳥谷ヶ崎城、等)にて秀吉の天下統一が完了した。 1590年(天正18年) 再び沼田城が真田方のものになる。昌幸は自分は上田にいて25才の信幸(信之、伊豆守)を沼田城主とした。真田信幸が沼田領の最初の検地行う。 奈良村に奈良村中興の名主として桑原杢右衛門および石田茂左衛門との記録がみえる(奈良村名苗顕然記)。 1590年徳川家康が関東に入国。秀吉は関東一円をほぼすべて徳川家康に与え、真田昌幸には信濃上田2郡、上野国利根・吾妻2郡を与えた。しかし他藩の主従関係と違い真田は家康の被官という立場だった。 1590年8月25日付けの沼田の「下河田之郷検地帳」が残されている(戦国期の検地方式?)。
名苗顕然記1766年に拠れば戦国末の時点で奈良村には石田姓は石田勘解由晴栄系(1199年鎌倉から)1家系のみ、左部姓は佐部孫右衛門系(黒川城→常陸国→上佐山→奈良)1家系のみ(江戸時代末に左部と改姓)、桑原姓は杢右衛門系(1500年頃から)・左近大夫系(戦国末から?)・平左衛門系(越後国より戦国末から)系の3家系が既にある。一方隣村川場村には桑原姓は吉右衛門系(大隅国より1363年から)・多那からの桑原氏系(菅原姓,戦国末から)系の2家系があるが石田姓・佐部姓はない。
1591年  伊達政宗は米沢城から岩出山城へ移封、米沢城主は蒲生鄕安がなった。 1591年(天正19年) 真田信幸の招きで平等寺が越後塩沢より来る(真田信幸の室の乳母の父が慶長15年(1610年)沼田城下巽の原中に1寺を開基し2年後に塩沢より第14世宗圓来り平等寺となったともいう――利根郡誌)。
1593年  真田信繁が従五位下左衛門佐、真田信之が従五位下伊豆守に叙任される。
1596年  太閤検地(真田信幸により沼田領検地)。利根郡一円95ヶ村計1万8千石+勢多7ヶ村700石+吾妻73ヶ村1万2千石、都合3万石。
1597年  真田信之により沼田城を改築して、1606年には5五層の天守閣に築城なる。       川場用水も着工、第2代信吉に至るまで続く。
1598年  1月秀吉裁定で伊達政宗から取り上げていた會津120万石は上杉景勝が得て米沢城主は直江兼続がなった。4月越後春日山城は上杉氏の後に堀秀治が入ったがその堀氏が徳川に対する上杉の叛意ありと訴えたことがきっかけで上杉に疑念が生じ上杉討伐の底流を作ったという。蒲生氏は宇都宮に減移封となった。 同8月豊臣秀吉没。
1581年~1681年 沼田藩の真田氏支配(1589年秀吉裁定結果の一時的北条支配を除く)。
1600年  會津征伐および関ヶ原合戦。上杉景勝の家康に対する軍備増強を疑われる中、3月には直江兼続から家康に内通していると疑われた藤田信吉が上杉景勝から離反して家族皆殺しになったが信吉本人は徳川秀忠を頼って逃れ上杉氏軍備増強の讒言をした(伏線に敵対勢力の山形城主最上義光、春日山城主堀秀治らによる讒言がある)。5月家康に届いた直江状をきっかけに徳川家康が上杉景勝討伐に6月徳川軍出発。真田も出陣したその途中、石田三成の急使に接し、真田親子・兄弟の下野国佐野の犬伏宿の別れが7月21日にあり、昌幸・幸村と信之はここで袂を分けた。昌幸・信繁が上田への帰途沼田城に立ち寄り城外に閉め出されるも留守を預かる小松姫との城外の正覚寺での面会逸話あり。同年9月5日第二次上田合戦、9月15日関ヶ原合戦わずか6時間で決着した。
1600年~1616年 上田城及び沼田城が家康より真田信幸に与えられ両城主時代。
1601年 8月上杉景勝が家康により會津黒川城から出羽米沢30万石へ移封減封される。 この頃?蘆名氏末裔の佐部孫右衛門が上佐山村より奈良村に来る。
1602年  常陸の佐竹義宣が秋田領へ減封になり弟の蘆名義広も蘆名義勝と改名して同行し秋田領角館の領主になった。
      この年本願寺が顕如の三男准如の西本願寺と長男教如の東本願寺に分裂独立する。(本願寺は第8世蓮如以来第11世顕如まで大教団に発展してきて一本化してきて1532年には大坂石山の大坂御坊石山本願寺が本山となり大名並みの財力も蓄えて来て織田信長とも対峙していたが近衛前久の斡旋等で和解し織田信長没後は秀吉の斡旋で石山には大阪城が築城されて本願寺は貝塚→天満→京都と移転を重ね財力も削がれていった。その過程で穏健派の第11代顕如や3男准如たちと急進派の教如たちの亀裂が大きくなり、1592年顕如没さらに1598年秀吉没により家康から寺領の寄進を受けた長男教如は独立して、准如の西本願寺に対して教如の東本願寺となった。
   1603年  徳川家康が藤原姓から再び本姓源氏に変更して征夷大将軍に任命されたがこの時にも近衛前久の斡旋があった。
1607年  眞田信之が五層の天守を築く。
1611年  真田昌幸が和歌山九度山にて蟄居中病死、65才。
1612年  江戸幕府キリシタン禁止令。近衛前久薨去77才。
1615年  大阪夏の陣で真田信繁が5月8日戦死、49才。 7月元和偃武を宣言、元号を元和と改めて関東の享徳の乱・関西の応仁の乱以来の約160年間の戦乱が終了、幕府が天下平定の完成を宣言した。
1616年  真田信吉が第2代沼田城主。信之は領民に惜しまれながら上田に移る。小松姫も共に上田に去った。
1618年  キリシタン東庵が川場村に住む(九州大友氏の館が川場にあるのを念頭に置いていたという。生方たつゑ著「奥利根のかくれキリシタン」)。1620年フェルナンデス神父沼田にてキリスト教布教(九州大友氏は1587年秀吉のバテレン追放令で既に表向き棄教していた)。
1616年~1634年 第2代真田信吉城主時代(幼名蔵人、河内守信吉)。参勤交代で江戸出府中に天然痘で1634年11月28日40才で逝去。 
1620年  小松姫が江戸より帰国途中、鴻巣で客死。沼田正覚寺に宝筺印塔と御霊屋がある。鴻巣と上田にも分骨。
1622年  真田信之が上田から松代に移封、加増されて10万石となるも信之不満ありて植木を悉く松代へ引き抜いて持って行ったという。信之は沼田・上田・松代いずれにおいても善政を施したという。(信之は小松姫の没後、更に国替えになり寂しさから以前より親しかった才女の誉れ名高い小野お通に松代にくるよう手紙を出したが、「姥捨ての山にはいらじ名を聞きて車を返す人もこそあれ」と返歌で断られたという。お通の娘小野図子(お円)は真田信政の長男真田勘解由信就(信景?)を生んだ。子孫の真田勘解由家に記録が残っているという。)
1622年  元和の大殉教。キリスト教徒55人が長崎で処刑(火刑25名斬首30名)。火刑を見ていた画家が描いた油絵がローマに送られて今でもジェズ教会に保存されている。フェルナンデス神父もこれを記録してなお日本各地に神出鬼没して知右衛門と称して身を隠しキリスト教布教を続けたが山口周防にて捕縛長崎に送られ逆さずり刑で1633年殉教。この後キリスト教徒迫害は更に凄惨になっていった。1639年には宗門改め役が置かれた。
1623年  白井藩廃止となり白井城破却。慶長7年(1602年)~元和2年(1616年)まで井伊直政の次男の井伊直孝が白井藩の城主であったが、彦根藩主となり出世して移動。その後藩主が変わりその後継者不足で白井藩は廃止して旗本領となった。井伊直孝は大阪冬の陣では真田信繁の挑発に乗り真田丸の戦いで大被害を被ったが家康の覚えめでたく、夏の陣では雪辱を果たし、以後江戸幕府の宿老として秀忠・家光の2代に亘り将軍の後見役で活躍した。朝鮮通信使の応接や日光東照宮参詣の将軍名代を務め、以降日光東照宮参詣の名代は先例となり彦根藩井伊家の固有の御用となった。中国の明が清に滅ぼされたときには明の鄭芝龍と子の鄭成功から出兵要請が幕府にあり家光も乗り気であったが井伊直孝が秀吉の朝鮮出兵を例に挙げて押し留めた。家光は世が平和になり大量の浪人が溢れているのでそれに役割を与える目的で出兵をしようとした。家康の時代からオランダ人等の依頼で武士が東南アジア方面に海外への傭兵として派遣され活躍していた。
1628年  川場用水がつくられる。 奈良村の石田勘解由晴栄が没。
1634年  信吉の指示で城鐘が鋳造される。沼田城破却の時に堀に埋められることを悲しんだ平等寺住職覚遵が請い受けて同寺に下げ渡された。その後太平洋戦争の供出の対象にもなったが二度の危機を免れて現存している。
1635年~1638年 第3代真田熊之助城主(信政後見)、7才夭逝。
1637年  島原の乱。鎖国令。
1639年  信政(43才)が第4代沼田城主となる7月入城。(若いときはプレイボーイで素行不良であったが藩主になってからは土木事業等努力したというが労役過重で領民からは不満がでたといい、効果が出る前に1657年松代に移った)。信政派信利派に別れて策動がある中73才の信之が松代から沼田に乗り込み鶴の一声で決めた。その際信利5歳と母お通(依田氏、小野お通ではない)には5千石の化粧料(奈良村等?)を与えて小川古城を改築して住まわせた。
1639年~1656年 真田内記信政第4代沼田藩主(内記、大内記)。沼田城下の区画整理・4か村堰(1653年4月完成?で、通称伊賀堀とも言う?)などの土木事業を行う。月夜野町もこの時に新たに出来た。(1639年信利5才が移り住んだ小川城跡の新居がある下小川村に後関村・真庭村・政所村を合わせて信利のために信之の意向を入れて作ったという)。 この頃「筑地の内の・・某・・伊豆守様の御目掛けに成る。此腹に信州の右衛門様ご誕生。・・・」と名苗顕然記にある(幸道の父は信政・母は高橋氏ゆえ、幸道の間違いでは無く信之の子道鏡(1642年12月生まれ)と思われる)。
1643年  寛永の検地。第4代沼田藩主の真田信政が沼田領を検地し、4万2千石。
1645年  真田信政の3男信武14歳と次男信守17歳の異母兄弟のいさかい発生して弟を殺害して兄も自害、守役たちも切腹した(成孝院境内に供養塔あり)。
1653年  下総国佐倉の木内惣五郎が上野寛永寺に参拝の途中の第4代将軍家綱に駕籠直訴、夫婦磔刑、子供4人死罪。
1656年  5月信之が幕府に隠居を願い出る。信利(幼名は喜内・兵吉、1647年14才で元服伊賀守信澄、沼田城主となり信利(信俊ともいう)、1673年9月延宝と改元に合わせて信直、と改名した。信吉側室依田氏娘お通の子)が沼田藩主となる。 (磔茂左衛門―後閑祐次著)。 10月30日信之隠居、信政が松代藩主となり、多くの沼田家臣団が松代に移る。(隠居が許可されて川中島柴村の新居に移ったのは翌1657年7月であり、信政が沼田から松代に移ったのは同年8月という。(沼田市史))
1656年10月30日信之隠居のために信政が3万石沼田藩主から10万石松代藩第2代藩主になり沼田家臣団の多数が松代に移る。この時沼田藩はまだ松代藩の分地であった。
1656~1680年真田伊賀守信利が第5代城主。1662年~1680年同城主の悪政。
1657年  1月18日江戸にて明暦の大火。 7月真田信政が松代城主として入城。真田信之が川中島柴に隠居、剃髪して一当斎と号し、川中島殿という。しかし松代城主信政はわずか在城7ヶ月で翌1568年2月5日に逝去。そのわずか8か月後10月17日信之も死去(埴科郡柴村の隠居所にて)。 この頃奈良村で今村助兵衛と石田茂左衛門・桑原杢右衛門との間で公事あり眞田信之の仲裁による裁断があった。
1658年  2月5日信政死去で幸道派・信利派の家督騒動が幕府を巻き込んで表面化したため、まだ存命(92才)の信之の裁定で信政の子2才の信房(のちに幸道、右衛門佐幸道と改名、信政側室高橋氏娘の子)を第3代松代藩主とした。信利が起こした家督騒動は信之の迅速な行動で予定通り幕府裁定にて決定。かつ沼田藩はそれまでの真田藩分地から独立立藩となった(信之の迅速な対応が無かったら真田氏は滅亡していたとも言われる。相続争いに破れた信利は松代を見返してやろうとの心が芽生えて無理が始まる)。 10月真田信之93才で大往生(川中島柴に隠居してわずか2年、信政逝去して8ヶ月)。後継争いに敗れた伊賀守信利は松代藩10万石に対抗して沼田藩3万石を増やそうと信利の無理が始まる。父信吉が1627年行った検地では沼田領3万石(利根郡1.8万石+吾妻郡1.1万石+勢多郡7百石)、叔父信政が1643年行った検地では4万2千石であったが、信利が1662年春~1年半で行った検地では14万石、改易後の見直しで1684年~2年半かけて行った貞享検地では6万石であった。
1660年  藩財政が厳しい中信之の遺金八万両返還申し入れを担当させられた城代家老の根津宮内が失敗を責められて失脚(その後も尾を引き1664年幕府評定所が公事に訴えるとは不届きなりと沼田藩が裁定された)。 もともと沼田藩は信州勢と元北条麾下の沼田勢が拮抗していたが信政が松代へ引き連れて行ってしまったためそのバランスが崩れ、主人に諌言する信之以来の主人思いの重臣を遠ざけて次々に失脚追放・知行召し上げを行い、甘言する家臣を取り立てた信利が自らの身を滅ぼすことになって行く。 (後関祐次著:磔茂左衛門)
1661年  奈良村の石田勘解由長男外記・四男源右衛門、桒原左近大夫長男内蔵助共に同年没。 この年吾妻郡伊勢町の名主青柳源右衛門の倅六郎兵衛が伊賀守に重大な献策をしたという(当領の田畑反歩なく永銭にて石高を記す儀無明に御座候、田畑反別に改め、分米を以て石高記し度く願い奉る)。新たに検地をして永銭で納めていた年貢を米で納めるようにしたいと言う意味で、伊賀守は喜んでこの増税策を採用したという。この後各地で貫文制から急速に石高制に変わっていく。
この頃村の灌漑用水である岡谷用水(中発知字反りより)と奈良用水(発知新田字御五位淵より)が発知川から堰上げて出来たという(真田伊賀守の用水堰)。
1662年  寛文の拡大検地。第5代藩主真田伊賀守信利が沼田領内検地開始、1663年終了、14万4千石。(眞田領:利根郡95ヶ村・吾妻郡79ヶ村・勢多郡7ヶ村計181ヶ村、この段階で既に3万石から16万石になったとも13万石余りとも資料によって異なる。吾妻郡73ヶ村ともいう。) 寛文―延宝年間(1661~1681年)には上野国内の各領の総検地はほぼ完了し貫文制から石高制検地に変わり幕藩体制の基礎が確立していたという。 この頃上野国の総石高51.5万石、郡数14,村数1133村、利根郡は95ヶ村であった。江戸期全期を通じて新田開発による石高増加率は全国平均1.6倍とされる中、上野国の増加率は1.2倍と極めて低かったがこれは主に畑作地開発が主であり耕地の7割が畑であったためという。沼田眞田領はこれらに比べても苛酷過ぎる増加であった。なぜ過酷であったかについて昭和39年月夜野第一中学校の生徒が「石畑の研究」の自由研究を行い全日本学生科学賞という最高総理大臣賞を獲得したという。また家老鎌原縫は自分の所領の検地に反対したため役人は竿入れしないで石高を推定で増石したという。
1663年  5月23日 幕府は武家諸法度を補訂して殉死を禁じた。さらに1668年8月5日幕府は諸大名に殉死禁止を厳命した。
1669年  高貞院(真田信吉次女、伊賀守姉、国女→高貞院→長姫)が京都千種三位へ長姫と改名して輿入れ。(のちに祖父信之の大鋒寺に因み京都妙心寺に大法院を建立して改易後の伊賀守4男辰之助を引き取り京極大納言に縁付け、自身は念仏三昧の静かな余生を送ったという。1702年没、法名天祥院。)(既に祖父信之の許可を得て信利は母慶寿院(依田氏娘)と住む小川古城館のある下小川村を1653年に分村して整備し月夜野新町を開いたが、1656年沼田藩主となった伊賀守は出戻りの姉の高貞院のためにこの地域をさらに整備した。1659~1669年の11年間更に京に嫁するまで居住していた高貞院は地元では政治にも介入していて有名であったという。後閑祐次著『磔茂左衛門』に詳しい記載がある。)
1670年  この年に「沼田根元記」が藩命/幕命で作成されたが、のちの「加沢記」(1681年真田改易後)の著者の加沢平次左衛門によるという(萩原進氏)。
1672年  信利が更に追加検地の新田検地行う。
1674年  和算の大家の関孝和が「発微算法」を発表。
1676年  道鏡慧端禅師(正受老人、1642生~1721年没,80歳、白隠禅師の師)飯山に隠棲する。 1677年  検地を伊賀守に薦めて出世した息子六郎兵衛への地元の風当たりが強く、吾妻伊勢町名主青柳源左衛門と中之条名主狩野新左衛門は地元百姓から租税軽減の訴願をするよう強請されて断れず沼田町の重役に哀訴したところ百姓の手先になるとは何事だと立腹されて、百日の入牢と家財を没収競売に付されて中山村後藤伊兵衛が50両で買い受け同額で本人たちに売り渡したという。本人たちは伊勢町青柳加左衛門、中之条劔持太左衛門と改名して再起したという。伊賀守が大阪城加番で不在の時というので家臣の横暴もあったという事を表している。吾妻郡には残酷物語を現す水牢が多くあったという。あらゆるものに税金がかけられて家の窓にも窓役という税金が掛けられたために窓を無くして穴倉のような住居もあったといい滞納すれば水牢が待っていたという。(後関祐次著:磔茂左衛門)
1680年  5月家綱死去して館林城主綱吉が第5代将軍となる。同年大老酒井雅楽守忠清(信利の遠戚)を解任。綱吉は在任中大名を三十余家・旗本を百余家を改易・取り潰ししたという。就任早々租税の苛酷を戒めたり諸国の代官を集めて民政の訓示をしたという。後に度が過ぎて犬将軍といわれるようになる。
1681年  1月真庭政所村の松井市兵衛が出府して幕府目付櫻井庄之助に単独で越訴、しかし思いは届かず沼田藩に引き渡されて投獄の後に12月真庭政所村の利根河原にて斬首刑、同家の位牌に「松井市兵衛伊賀守様ニ付けヲハル」と記されているという(斬首の日時は真田改易が決まってからか?)。 市兵衛は茂左衛門と密かに連絡を取り合っていたが情報漏洩を恐れて単独で行ったという(真庭村に市兵衛地蔵尊が祀られている)。 時を同じくした1月付けの訴状が信利が幼少時育った小川館のあった下小川村の杉木茂左衛門によって沼田領177ヶ村の農民を代表して第5代将軍綱吉に輪王寺の文箱を使って直訴された(失敗した市兵衛越訴の数か月後でこちらは成功した)。 11月眞田伊賀守改易。11月23日幕府の裁断が下り城地召し上げ等の処罰が決まって真田氏改易・沼田真田氏滅亡。安藤対馬守他幕府側総勢6500人が沼田領内に入り沼田城内で12月19日引き渡しが行われた。
1682年  正月早々から沼田城の取り壊しが始まり3日から13日までの10日間で総て破却1月29日には終了し全員が引き上げていった。鉄砲・建具等の持ち去れる物は持ち去り、こまごまとした具足や陣笠は皆お堀に埋めた。埋めようとされた城鐘は平等寺の懇願により現在まで残されている。        領地召し上げの報を聞いた直後の沼田城下は百鬼夜行の状況で不安におののく侍達が町にあふれて生きた心地がしなかったというが、幕府側も間髪を入れず城破却を済ませその処理は速く治安維持も決定直後の1681年12月19日には竹村・熊沢両代官が沼田に着任していてその任に当たっていたという。(後関祐次著:磔茂左衛門)。家臣1261人が生活の場を失ったという(沼田市史)。 沼田藩は幕府直轄領となり代官支配始まる。竹村嘉躬・熊沢良泰により沼田領統治はじまる。両代官は隠密を出して民情査察を細やかに行い1681年の凶作で飢え・餓死等困窮している百姓に対しても年貢軽減や雑税廃止、当座の手当、再検地を講じていたがそれでも叶い難くて「茂左衛門を犬死にさせるな」を合い言葉に代官に1683年再検地願いが出されたという。 茂左衛門は一時下総国高岡山真城院の計らいでその檀徒鵜沢利右衛門の屋敷に身を寄せていたが沼田領内に再検地運動が立ち上がったことを聞き月夜野に帰った所を隠密の手に捕縛されたという。捕縛された杉木茂左衛門は1682年11月5日月夜野竹之下河原で磔刑、妻子も打首。上野輪王寺の口添えで幕府から赦免状が出て早馬が出たが1里手前の井戸上村にて刑が執行されてその早馬の服部某?は責任を感じその場で割腹したという(状橋地蔵尊がその御堂ともいうが定かではない)。 杉木茂左衛門は伊賀守信利が5才~23才まで過ごした小川城跡新居に近い月夜野の農民でありあどけない兵吉様と呼ばれた幼少時を良く知っており取り巻き家臣が奸臣であるための悪政であると考えていたというがその甘さは覚端法印の指導で変わっていったという。信利本人もわがままに育ち輪王寺の息のかかった三光院の高海や大宝院の覚端も酷く迫害されていたという。 沼田藩真田伊賀守の悪政は既に江戸にも知られており、上野輪王寺及び上野寛永寺との関係深い須川村大宝院の昌月覚端法印が相談に乗り知恵を授けて訴状も書きその手段に二段作戦をとったと言われている。その覚端訪印は市兵衛と茂左衛門に知恵を授けた罪で城内での取り調べを受けて帰山を許されたが、帰途の半ばで家臣によって恩田の道端の利根川原で生きながら石小詰の極刑で真田改易前に惨殺されたという。茂左衛門の墓碑は所有跡地を買受けた川端家の墓地の中に戒名も年号も無い石塔を建てて弔われているという。大宝院塚も近くに今もある
1683年  貞享3年沼田領の村々が幕府に再検地を願い出る。複数の代表が別々に江戸まで出掛けた大規模な訴願行動であったという。
1684年  貞享のお助け検地。6万5千石。幕府が酒井忠挙(前橋藩主)に真田領の総検地を命じる。3月家老高須隼人を総奉行として前橋藩の総勢248人でかつ老中大久保以下6人の署名付きで事前に検地項目の公布・検地役人の心得を指示・事前に領民の協力を求める、という準備周到のもとに4月から測量開始された。1組4人宛て20組に分かれて配属され、更に組下に竿取り4人宛てつけた。東入り追貝村から始まり吾妻に移り最期に森下村にて全領の勘定を1686年9月5日終了。翌1687年8月各村々に下付された。足かけ4年の大事業でこの貞享検地は「お助け縄」と領民からは救世主のように感謝されたという。正確さと技術の高さで地域の文化財として大事に秘蔵されているという。また領民が高須隼人を生神様として祠ったと言われるが物は見つかっていない(後関祐次:磔茂左衛門)。       それまでの利根郡95村は分村もあり117村となった。
1687年  生類憐れみの令。
1690年  ドイツ人医師ケンペルがオランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在、元禄5(1692)年離日するまで将軍綱吉にも謁見し多くの資料を集め、その資料や遺稿「今日の日本」を基に後年イギリス人医師スローンが1727年に「日本誌」をロンドンで出版した。これはフランス語・ドイツ語・オランダ語等にも翻訳されて、当時の有識者のゲーテやカント・ヴォルテールら更に140年後に来日するシーボルトにも大きな影響を与えた。日本には聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その貴重な数々の資料は今でも存在しているという。
約80年後に長崎の蘭学者で通訳の志筑忠雄は1801年オランダ語版「日本誌」の一部を邦訳して「鎖国論」を書き鎖国という言葉を初めて使った。ニュートン物理学を日本に初めて紹介して引力・遠心力・求心力・重力・加速等の訳語を生み出したのも志筑忠雄である。
1703年  旗本本多正永が下総舟戸藩から沼田藩に移封。沼田城再興される。
上野国はじめ各地に領地を持つ大阪城番兼務の内藤正友氏が武蔵国赤沼藩から信州岩村田藩へ去り、1月11日幕府若年寄本多正永が沼田領を拝領し沼田城主を兼務して幕命で沼田城を再建した。5月再築工事開始し1707年12月一応の完成をした。この時沼田藩の本多氏所領は5万石のうち3万石余りであった。本多氏になってから年貢・夫役は大幅に増加し直訴事件等の訴願行動が計画されたが沼田藩の探索行動に阻まれ農民は力で押さえ込まれ、従わざるを得なかったという。1722年村々の代表が幕府へ直訴を企てるも失敗した。大半が沼田藩領であったが一部幕府領、旗本領になった村が混在した。沼田藩の参勤交代路は沼田街道(沼田,長井坂城,米野,前橋)と大間々街道(沼田,根利,大間々)であった。
1707年  宝永地震の49日後の12月16日に富士山の宝永大噴火が発生。その後は噴気・鳴動はあったが噴火は現在までの所起きていない。
1709年  4月14日月夜野町の馬市で山屋事件発生。越後国山屋村の馬喰商人十右衛門が越後国湯沢村の馬喰大勢と大喧嘩し乱闘の末に3人を斬り殺し自身は町裏の大石の上で割腹したという。(かつて伊賀守が出戻り姉高貞院のために新巻村から月夜野町に市を強引に移し小川館の城下町として発展を図り暴君と呼ばれるきっかけに成った月夜野町の六斎市での出来事であった。)
1711年  本多正武が第2代沼田藩主となる。
1721年  本多正矩が第3代沼田藩主となる。
1730年  本多正矩が駿河の田中城に移封。再び沼田藩代官時代。黒田氏が拝領するまでは前橋藩主酒井氏と村松藩主堀氏が沼田城番を交代で務めたがその間の本多氏旧領沼田領は幕府代官の後藤庄左衛門が支配した。この時本多氏時代の年貢をその前の額まで下げるよう減額願いが出された。吾妻郡下7ヶ村は沼田城付き領から外して欲しいとの願いがだされた。
1732年  5月黒田直邦が常陸下館藩から沼田藩城主になる。年貢改善策が検討されたが効果は出ず、藩側も木材を財源確保に当てる等行い領内の木材が約10年の黒田氏時代にほぼ伐り尽くされてしまったという。
1735年  黒田大和守直純が第2代沼田藩主となる。
1742年  7月28日黒田氏第2代直純は下総国久留里城の再築と転封を命ぜられて移封。同日沼田城主に老中の土岐丹後守頼稔ヨリトシ(初代沼田藩主、幼名兵部)が封ぜられる。(この時五十嵐権左衛門忠俶(26歳)を忍び御用として派遣して8月1日江戸出発したが「寛保の大洪水」で沼田へ行くことが出来ず12日江戸に戻ったという報告書が残っている。城替えの時は家臣が事前にこのように探索したという)。幕府の上使の立ち会いの基に黒田家家老から土岐家家老に諸事引き継ぎ10月21日沼田城を受け取った。以後明治の版籍奉還、第12代城主土岐頼知ヨリオキまで土岐時代(土岐領・幕府領・旗本領が混在)が続く。沼田城主に先立つ1730年大阪城代に任命された土岐頼稔は美作国53カ村1万4千石の飛地を加増されていた。土岐頼稔は槍術の達人で祖父土岐頼行が沢庵禅師から槍術奥義を伝授されたものを引き継いでいたという。1744年9月頼稔死去行年50歳。
1744年  頼稔の長男土岐儀八郎が第2代沼田藩主土岐伊予守頼煕ヨリオキとなる。
1746年  2代目五十嵐権左衛門忠俶30歳は台風被害で作州の領民困窮の急使を受けた沼田藩によって急遽9月作州代官に任命され11月26日作州に到着した。年貢減免・年賦金500両等の救済策を取纏めて1747年12月病のため大阪土岐屋敷に移り更に江戸在勤の後1751年沼田へ戻った。この間藩主に20回以上も褒美を頂戴しているという。美作国飛地には恩を感じた領民により五十嵐神社が建てられている
1749年  沼田俳壇の初江ら12名が蕉風の松露庵派の鳥酔編「己巳歳旦」に入集した(乙人が鍬入れをしたというが乙人はまだ生まれていない、祖父左部善兵衛清近の頃か。乙人は奈良村石田甚蔵静有事左部勝右衛門の三男要之助で上久屋村松永権右衛門へ養子松永武左衛門となる。初江は2代目五十嵐権左衛門忠俶の俳号でのちに切腹、病没ともいう。
(久屋村の由来となった久屋氏は絶えたとされるが奈良村名苗顕然記によれば奈良村に住んでいた時期があった。真田改易の頃の石田三之助屋敷はかつて久屋左京之亮屋敷だったとの記録がある。)
1755年  頼稔の五男土岐頼母が第3代沼田藩主土岐美濃守定経となる。
1756年  12月2日五十嵐権左衛門忠淑が切腹、享年40歳、美作国(作州)飛地に割賦で貸出した藩金500両の償還が上手く行かず沼田中町の林数右衛門屋敷にて切腹したという。急死する直前に安田勘十郎14歳を養子を迎入れ3代目権左衛門恭周を後継とした。沼田市平等寺に墓石と説明看板がある。「沼田領代官覚え書」。 (当時の年貢の平均は五公五民であったが、沼田藩領の利根および飛地の群馬郡の年貢は3割5分という低年貢であったのに比し作州の飛地の年貢は5割6分と高くしかも屡凶作に見舞われて全納しても年貢不足の惨状になっていたために既に代官2人(1742年10月宇野弥兵衛・1751年8月小坂与左衛門)が自決しているという)。五十嵐権左衛門忠淑の墓が今でも平等寺にある。作州飛地には五十嵐神社があるという。
1766年  石田要右衛門(後に見取り騒動で永牢)らが奈良村名苗顕然記を撰する。
1767年  4月3代目五十嵐権左衛門恭周,25歳,俳号書郊,が作州代官を仰附けられ5月作州に着任、1年間務める。 5月(明和4年) 奈良村桑原源兵衛家が下の屋敷より現在地居平に移転。
1770年  蕉風俳人の初江亡き後に沼田俳壇を率いた春路(小林要人)が「俳諧はるの遊び」を編著。
1776年  アメリカ合衆国が独立。
1779年  沼田領の増税計画が立てられた。(大坂城代は10万石相当の家格とのことで譜代の土岐氏の沼田領台所事情はくるしかったというが、1781年閏5月に大阪城代に任命されて8月に大阪に赴任するまでは1764年3月以来寺社奉行で江戸詰でしかも大阪城代役料1万石加増されているので増税計画の理由にはならない。1779年12月江戸に行った五十嵐権左衛門恭周は見取場改役等仰せつけられていてしかも翌正月には紋付上下を拝領していたというので増税計画に積極的に係っていたと言える)。 10月俳諧の松露庵派の烏明が江戸より下り沼田城下に逗留、如舟/其雲(左部亀十郎/才十郎)と交わる(松露庵派と白雄坊派の対立あり)。
1780年  増税計画の元に町田村等の土岐領の検地は順調に行われたという。
1781年  天明元年見取り騒動。2年前より始まっていた沼田領の増税計画で奈良村はこの年見取り改めとなった。 4月14日惣奉行五十嵐権左衛門恭周(俳号書郊、五十嵐権左衛門忠俶養子,安田杢兵衛次男勘十郎)らから桑原伊兵衛・左部善兵衛宛てに「麻上下着用の上朝五ッ時に役所まで出頭せよ」との差紙が届く。(俳友善兵衛廻兌事如舟と書郊は増税策を巡っては対峙する立場にあった)。 5月土岐美濃守定経が大坂城代となる(土岐氏3回目の大阪城城代に任命された)。 8月頃群馬郡等西上州にて打ち毀し騒ぎあり、幕府が警備兵を派遣した。 8月大坂城にて土岐定経死亡55歳。8月定経次男の千之助が第4代沼田藩主土岐伊予守頼寛ヨリヒロに就任するも3ヶ月で死亡(没年19歳)、 11月三男の正吉が第5代沼田藩主土岐美濃守定吉になる(4年後20歳で没)。 12月沼田藩第3代藩主土岐定経の時に見取り騒動発生、家老が大阪に向けて出発。翌正月大阪城着。

【五十嵐権左衛門について(『沼田領代官覚え書』岸大洞著等より)  ・初代五十嵐権左衛門忠成(弥助):2代の父、土岐氏が上ノ山城主の時に家臣となった。   ・2代五十嵐権左衛門忠俶(十九郎):土岐頼稔が寛保2(1742)年7月に沼田藩主に発令されるや沼田領内の動静の密偵を仰せ付けられて江戸から沼田へ向かうも大洪水で果たせず江戸へ引き返した。延享3(1746)年10月作州風水被害で領民困窮の急使が沼田に来て現地調査役に権左衛門忠俶が命じられ同年11月に作州に到着した。「作州困窮報告と領民救済要請書」を翌年早々に沼田藩役所へ提出した。沼田藩では500両を領民に貸付けたが返済が上手くいかず、10年後の宝暦6(1756)年未償還分と年貢の減免と血書で願い出て切腹したという、40歳没(場所は宿舎にしていた沼田中町の町人屋敷という)。切腹に当たり息を引き取る間際に安田杢兵衛次男の勘十郎を養子に迎えて3代目を継嗣させた。権左衛門忠俶は俳号を持ち初江と言った。  ・3代五十嵐権左衛門恭周(十九郎):明和4(1767)年5月から1年間作州の代官を務めて沼田へ戻り、その後見取高入れの総奉行を務めた(見取り騒動の時)。文化12(1815)年73歳没。俳号は書郊という。  ・4代五十嵐権左衛門忠宜(重九郎、隼太):代官になったことはない。 ※熊本城を築城した加藤清正の子の忠広が改易となりその子(加藤清正の孫)加藤正良とその母が、沼田城主の真田信吉にお預けとなってその21年後の承応3(1654)年に自刃したが、その自刃場所は不明で、権左衛門忠俶の自刃の場所と混同した意見があるという。】

1782年  4月大阪から許可を得て戻った家老月岡修理勝澄により各村々の名主に検地中止が知らされて見取り騒動収まる。 5月より見取り騒動の関係者一斉検挙はじまる。 この年民右衛門から要右衛門に奈良村名主交代するも2人共入牢のため5月より石田勝右衛門に更に交代した。奈良村石田要右衛門・石田民右衛門・立岩村小林佐七は首謀者として永牢となった。 8月土岐美濃守定経死去行年55歳、病死とされるが自殺との風評もあった。11月第4代沼田城主伊予守頼寛在位1か月で死去行年19歳。第5代美濃守定吉も在位4年で1786年死去行年20歳。第6代老之助定富在位3年9か月で1790年死去行年17歳。 (地獄にも勝る拷問を受けていた永牢の3人は城主の重なる不幸によって衰弱極まる中で拷問が中止されやがて3年後の天明5年1785年秋痩せ衰えた民右衛門がまず出牢、翌1786年6月骨と皮ばかりの要右衛門と佐七が出牢、牢内で死なれるのを嫌ったという。同年1786年8月7日要右衛門死亡(44歳没)、1816年民右衛門死亡(71歳没、どういう訳か現在墓石見つからず)、毒殺されたとも言う。)。 この騒動は53カ村全村参加では無く戸鹿野村・沼田榛名村・川場天神組・沼須村・高平村・後閑村・硯田村は参加せず褒美金を貰ったという。沼田藩は増税に失敗して家中倹約に向かう。
1783年  7月8日午前十時頃浅間山の天明大噴火、浅間軽石A層の堆積をもたらした。1108年浅間噴火の軽石B層との間680年間に堆積した地層を確認できるという。この時土石流で鎌原村が全滅。鬼押し出し溶岩もこの時出来た。同じ年先んじてその4ヶ月前には東北地方の岩木山も噴火しており翌年の寒冷凶作による天明の大飢饉に拍車を掛けたという。鎌原村は全村火砕流埋没して田畑も96%が埋没した。溶岩泥流は前橋から玉村下之宮までに及んだという。1787年からの天明の打ちこわし・御所千度参り・寛政の改革に繋がる。
(天明2(1782)~8(1788)年の「天明の大飢饉」が発生、この混乱の中から仁政を行わない幕政への天罰論ではその権限の正当性が説明できないとして、幕府は天皇の高い権威を利用する必要に迫られて大政委任論が出てくる。やがて幕末の大政奉還の伏線になっていく。禁中並公家諸法度で政治介入を封印されていた朝廷もその権威だけでなく権力も持つ方向に向いていく。)
1786年  土岐老之助(定経五男、三之助)が第6代沼田藩主土岐定富サダトミとなる、4年後17歳で死亡。
1790年  土岐英之助(土岐定経七男)が第7代沼田城主土岐山城守頼布ヨリノブ(のちに美濃守)となる。39歳で家督を頼潤に譲った後も63歳まで生きた。
1798年  奈良村左部善兵衛寛信俳号三岳生まれる(1798~1881)。三岳は娘蘇和を伴って江戸の俳壇に遊び父子共に文名があったと言われ東京高輪泉岳寺に蘇和の句碑(楓樹の碑)がある。 1800年  書郊(五十嵐権左衛門恭周、忠俶養子)が俳諧集の「松桂集」編著を刊行(下井土桂林堂梓)。五十嵐権左衛門恭周は1815年73歳で没。
1805年  関八州廻り創設。浅間山の天明大噴火(1783年)や天明の大飢饉等で貧民層や無宿人・浮浪人が多く出現して貧富の差が激増し領主支配を脅かす不穏勢力となったために、関東取り締まり出役(関八洲廻り)が創設されて(但し水戸藩領は除く)、御領・私領の区別なく廻村し取締まるようになった。更に1827年にはその効果をあげるために数十の村を束ねる小組合村が設置されそれらを数十束ねた大組合組(寄場組合=親村組合と言った)と呼ばれる御改革組合が関八州に出来「御取締筋御改革」という45か条のお触れも出された。利根沼田だけで6つの大組合組(寄場組合)が出来た(沼田市史通史編2近世323頁)。
1813年  阿部正倫次男兵部が賴布の養子となり第8代沼田藩主土岐山城守頼潤ヨリミツとなる。
1816年  8月14日塩原太助74歳で没。木炭の粉に海藻を混ぜ固めた炭団(タドン)を発明し大成功する。富豪になってからも謙虚な気持ちを忘れず清貧な生活を送り、私財を投じて道路改修や治水事業などを行い、湯島無縁坂には悪路を改修した敷石が昭和の時代まで残っていたという(北毛の史跡と伝説)。生家はみなかみ町で今もあり近くに塩原太助記念館がある。落語家初代三遊亭圓朝が明治11年(1878年)に創作した落語・人情噺で、実在の塩原太助をモデルにした立身出世物語で落語や歌舞伎の演目『塩原多助一代記』で有名になり明治42年(1909年)には角田喗次郎(石田喗次郎)が小説にしている。明治天皇の前でも口演されたという。
閏8月大型台風に関東地方が襲われる。奈良村も潰家あり、一分金を御上が下さったと言う。
1818年  間引きによる人口制限に天明大飢饉が加わり農村は荒廃の極みに達して、土岐頼潤が間引き防止の教戒書を発出して小児養育制度整備した。
1819年  土岐氏が村々に郷倉の設置を指示。
1822年  伊香保神社掲額事件(北辰一刀流千葉周作門下と真庭念流第17世樋口定輝門下の門人同士の一触即発の騒動で数百人が伊香保温泉旅館に分宿した)で騒動を代官の伊香保筆頭大屋小暮武太夫(現ホテル木暮)が必死の仲介により未然に防いだ。
1826年  信濃飯田藩からの養子堀幸吉が第9代沼田藩主土岐山城守頼功ヨリカツになる。1833~1839年(天保4~10年)天保の大飢饉の時の藩主。
1828年  9月西日本を大型台風(文政の台風、シーボルト台風)が襲う。平安時代989年永祚の風、1281年弘安の役の「神風」台風、1856年関東地方を襲った安政の台風とならぶ大型台風だった。
1830年  薗原騒動勃発。 同8月平等寺惠順上京して継目致す。
1831年  百姓町人の院号居士号は停止、石塔も以後4尺以内とするようご公儀より触れ有り(徳川禁令考によると文化3年1806年となっているが石田家家史の日誌に拠れば1831年となっている。情報の伝達遅延なのか1831年が正しいのかは要検討)。(以後墓石は簡略縮小化したが一部はその後も宝筺型がなお作られているので徹底しているわけでは無い)。 3月星野房吉園原騒動。法神流の星野房吉が一眞流の中澤伊之吉一派に騙し討ちにされた。江戸町奉行に出訴されて房吉方勝訴。俳人の松永乙人が「文政水滸伝」や「鎌倉紅梅接木英」に著ないし脚色したという(北毛の史跡と伝説、乙人は1784年生れ・1853年没行年70才)。 5月9日 石田平左衛門家焼失。
1833~9年  天保の大飢饉。派手贅沢好みで絶倫将軍家斉(40人の側室に55人の子供がいた)が1841年69歳で亡くなり次代第12代将軍家慶の了解を得た老中水野忠邦は享保・寛政の改革と変わらない農本思想の理念のもとに天保の改革(1841-43年)を断行する。
1838年  奈良村下組にて、はやり病で人多く死す。
1840年  土岐頼潤五男の英之助が沼田第10代藩主土岐伊豫守頼寧ヨリヤスと称す。
1842年  アヘン戦争後の南京条約(不平等条約)締結によりイギリスへ清国の香港島割譲が成立した(その後1997年中国に返還されるまでイギリス支配が続いた)。
イギリスへの香港割譲という結果に驚いた徳川幕府の水野忠邦は軍制改革の必要性を悟り、農本思想による倹約令などの天保の改革(1841-43年)の中で高島秋帆らの西洋流砲術など近代軍備も整えようとした。しかし水野忠邦の幕政改革意欲は空回りして社会の混乱は却ってひどくなり水野忠邦は失脚、幕府の権威が失墜する一方、長州・薩摩などの藩政改革は狭い範囲での改革のために複雑さがなく成功して雄藩にのし上がっていく。失脚後の水野忠邦父子は自領の浜松藩領民にも毛嫌いされて末路は悲惨だったという。
1846年  桑原伊兵衛家焼失。
1847年  松平徳之助が頼寧の養嗣子になり沼田藩第11代藩主土岐頼之ヨリユキとなる(美濃守→山城守→和泉守と改名)。
1849年  12月30日 昼八ツ時原町平等寺焼ける(石田侃家文書)。
1853年  ペリー浦賀に来航。
1854年  黒船来航の翌年奈良村石田伝九郎らは御用で帯刀の上江戸へ出府、給金も出たという。
1856年  高崎藩医高島昌軒死す(刑死解剖を行って解剖図を残す)。
1861年  和宮下向にて坂本宿助鄕1500人集められる。
1864年  4月7日夜沼田町大火、200戸以上焼失。 11月16日下仁田戦争。水戸藩の天狗党925名が上野国を通過し幕命で高崎藩兵が西上州下仁田で戦うも高崎藩が敗退。 天狗党は尊皇攘夷運動の中で横浜港閉鎖を要求して筑波山で挙兵し中山道を通って西上して越前国で投降するが、その過程で軍資金に困り6月5日栃木宿では軍資金を出さない町に対して恫喝と手当たり次第の町民惨殺と放火略奪殺戮を行い明らかな暴徒集団と認識されるようになったという。栃木宿では軍資金3万両を要求したが5千両しか出せないことに逆上して宿場に放火し消火に集まった町民を手当たり次第に惨殺し237戸が焼失したという。各地で報復と私刑が繰り返されたがこれらは幕府の決められない政治と朝廷の甚だ相応しからぬお言葉とに起因しているともいう。明治の無血革命でも煮え切らない支配層の対応が表に出にくい悲惨な状況を作り出す実態を示している。
1866年  大飢饉となり、利根郡を含む各地で打ち毀し騒動が起こる(2月吉井町・渋川石原村・白井町、3月下仁田、6月武州名栗村等各地で頻発したが官軍に服従した各藩兵によって鎮圧された)。6月上野国・武蔵国北部の旧幕府領・旗本領が岩鼻県となった。
1867年  4月16日頼功三男の土岐英之助が第12代沼田藩主土岐隼人正頼知ヨリオキとなる。頼知は即日朝廷に対して恭順の意を表して上京した。沼田藩は新政府軍の配下となった。 10月14日大政奉還、これにより幕府消滅して幕臣は幕府の大義名分を失い統率不能となった。11月新田郡の新田満次郎(岩松俊純)、大舘謙三郎らが新田勤王軍として倒幕を試みるも失敗。12月9日王政復古宣言。 10月24日左部彦次郎生まれる(東京風間佐兵衛事左部左弥太次男、伯父で左弥太弟の2代目左部宇作の養子となる、1代目の長男左弥太は1860年19才で村を出奔欠落弟が家督継ぐ。彦次郎は早稲田在学中より田中正造と交流し後に足尾鉱毒闘争に深く関わる。祖母おとさへの手紙が残っている)。
1868年  1月3日(新暦1月27日)鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争始まる(1869年5月の箱館戦争で終わる)。翌4日錦籏を掲げたことで新政府軍が官軍となった(偽造とも言われるが朝廷は追認している)。6日大阪城に居た慶喜は密かに脱出して船で江戸に向かった。
2月徳川慶喜は勝海舟に事態収拾を一任して自らは上野の寛永寺へ謹慎4月11日江戸城明け渡し無血開城、徳川慶喜は水戸へ発ち謹慎、7月にはさらに駿府へ移った。
3月11日江戸城無血開城。
3月明治天皇の五箇条のご誓文公布。3月神仏分離令公布、これが廃仏毀釈運動のきっかけを作った(社会は小さな振り子のつもりが思惑が重なり予想外に振れ過ぎてしまう典型例である)。
5月戸倉戦争。8月三国戦争、この時幕臣羽倉鋼三郎・元前橋藩士屋代由平・日光山の僧櫻正坊隆邦3人は7日間のさらし首の後に埋葬されたという。
9月8日明治と改元の詔書出る(1月1日に遡って明治となる)。
9月22日会津若松城開城。
10月13日明治天皇が東幸して江戸城に入り東京城と改称(東京城はその後翌1869年皇城、1888年宮城、1948年より皇居と名称が変遷)する。
1869年  1月薩長土肥藩が王土王民思想の大義名分のもとに版籍奉還を上表してから他藩も追随して5月にかけて全国殆どの藩が版籍奉還し、6月17日には勅許された。旧藩主は知藩事に任命されたが、将軍の代わりに朝廷になっただけで一旦奉還しても再交付してくれるのではないかとの甘い見通しの誤解もあり、のちの廃藩置県で追い打ちされるまでは大きな問題にはならなかった。この時に藩主だけでなく俸禄を失うことになる家臣の不満をなだめ逸らすために戊辰戦争の論功行賞の賞典禄や華族・士族・卒族・平民の身分制度等の新設もなされた。
華族に対しては俸禄や賞典禄の秩禄特権が残った一方で、士族に対しては一部を除きそれらの特権は1876年の「廃刀令」と「秩禄処分」で制度上の既得権益収奪は完成して士族は帰農帰商をうながされるのみで秩禄も名誉も許されなくなり不平士族による1877年の西南戦争に繋がる。しかし華族・士族・平民の族称は1947年日本国憲法と民法改正によって廃止されるまで戸籍等一部で使われ、特に俸禄も無くなり困窮を極めた士族にとっては自尊心の拠り所だったという。(西南戦争という痛みはあったがかつての支配層の士族の殆どがほぼ無抵抗のまま既得権益を数年の間に段階的に失って行ったのは世界史的にも稀という)。
1870年  1月28日 桑原源兵衛家全焼、以南の家々9軒ほどすべて焼失。過去帳も含めて総て消失したと近所の古老はいう。
沼田藩主土岐頼知(ヨリオキ)朝廷に勤王の誓約書を提出。
1871年  廃藩置県。
1873年  旧暦明治5年12月2日の翌日から明治6年1月1日となり、旧暦(太陰太陽暦)から新暦(太陽暦)が導入された(旧暦明治5年12月2日までで翌日から新暦明治6年1月1日となったので12月3日から12月30日(旧暦は30日まで)は存在しない)。
1874年  清水往還、清水越新道完成。1885年能久親王ご臨席のもとに馬車で通行して開通式を行った。現在でも帳簿上は国道291号となっている。
1875年 2月13日、明治政府が平民苗字必称義務令という太政官布告をだす。 以後すべての国民に苗字(姓)を名乗ることを義務付けた。苗字の制度は平民苗字許容令(1870年)・壬申戸籍編纂(1872年)に続きこれによりよって大きく変わった(「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」と一元化し、旧来の氏ウジ・姓カバネを公称することを廃止)。これまでは氏(ウヂ)、姓(カバネ)と苗字(名字)は別々のものであったが、上記の3つの法令により「氏(ウジ)=姓(カバネ)=苗字=名字」が一元化され、全国民が新しい氏姓制度に統一され、諱と通称を併称することも公式に廃止され総ての国民は戸籍に「苗字=氏」及び「本名=名」を登録することとなった。
(それまでは氏・姓・苗字・字・諱が状況により組み合わされて名乗られた。 徳川家康は正式には源朝臣徳川次郎三郎家康 など。特に官職制度に影響のあった氏ウジは明治初めまで朝廷に登録のないものは相手にされず無視されたために、朝廷に認めて貰う為に無理やり「源」や「藤原」に先祖を結びつけたという。江戸時代も主従関係を結ぶときは氏を含む出自を届出ることが通例であったので武士は強引に結びつける系図を作って持っていたが殆ど源姓か藤原姓であったという。そしてその氏姓制の「藤原」「源」や「朝臣」は明治になっても残り、位階制度も栄典制度の一つとして平成の世の現在もある。大久保利通は藤原朝臣大久保利通、山形有朋は源朝臣有朋であり、初代首相の伊藤博文は明治3年の職員録に従五位守兼民部少輔越智宿禰博文とあり「越智」「宿祢」であった。)
(氏ウジ:朝廷から賜った源氏・平・藤原・菅原・橘などの血縁集団、姓カバネ:朝廷から賜った官職地位を示す称号、苗字:自称する家族集団、字アザナ:通称、諱イミナ:本名、)。ウジカバネの後に諱を言うときは「の」を入れる習慣があるが苗字の後には「の」を入れないという。源家康ミナモトノイエヤス/徳川家康トクガワイエヤス等。)
(戦国時代の氏ウジ姓カバネは朝廷から下賜されて名乗ったものもあるが、主君が勝手に家臣に与えたり、勝手に自称したりすることも混在しているという。)
1879年  1月31日高橋おでん市ヶ谷処刑場にて斬首刑。(この事件は新聞各紙が取り上げて、仮名垣魯文が「高橋於伝夜叉譚」で虚実織り交ぜて毒婦に仕立て上げたことから有名になったが、本人を知る地元下牧村の人の話では実際は内山仙之助(吉蔵)によって殺された夫高橋波之助の敵討ちをしたもので、教養もあり美人で闊達な人だったという。自分の体を張って1名殺人を犯したが執行猶予とも言える犯罪で有るにもかかわらず、犯罪の奇異性からおでんの供述は一切取り上げられず、今で言う冤罪の原点の様なものである。死体は解剖に付され肉体の一部が保存されている。辞世の句は「なき夫のために待ちえし時なれば手向けに咲きし花とこそ知れ」という。聞外妙伝大姉という戒名の墓は下牧にある。異説あるもこれが地元の見方である―小野勝著「沼田意外史」)。とすれば、理不尽な社会を甘んじて受け入れて自分を全うした諦観の境地と思う。女性版の侍のようである。
1889年  2月11日に大日本帝国憲法公布。信教の自由が保障されたが国家神道の概念は残った。(明治新政府の王政復古・祭政一致の理念は、1868年2月~10月の太政官布告等で神仏分離・祭政一致を目指し、1870年2月詔大教宣布で神道国教化したが多くの混乱が生じて1875年信教の自由を認め1877年教部省廃止で神道国教化を放棄するも、1882年内務省通達で神道は宗教ではないと神社非宗教論を唱え、神道を宗教の上位概念と捉えて国家統治の基本としその範囲での信教の自由を明記した明治憲法であった。国家神道思想は1945年GHQの神道指令による廃止まで続いた。明治政府は神仏分離だけで破壊は意図しなかったが現実には廃仏毀釋まで大きく振れてしまった。1870年9月には修験禁令で修験道信仰も破壊され、多くの修験者が強制的に還俗させられた。)


☆上州利根郡奈良村について:
楫取素彦県令の指示により編纂された上野国郡村誌(明治10年編、昭和60年復刻版利根郡(1))の奈良村沿革に「正治元年(1199年)鎌倉浪人石田勘解由ナル者本村ニ流寓ス、石田ノ子孫五郎兵衛代々ノ過去帳を有ス、コレヲ開村ノ祖ト言伝フ」とある。また「沼田記撮抄ニ、源義家奥州征伐ノ時岡谷村ヨリ生科村(川場村生品)へ云々、野道(飛火坂)を越スニ鹿トモ四方ヘ駆け出ケレバ、奈良ニヒトシト仰ケレバ奈良ト名付云々」、と奈良村の由来が記されている。前者は石田氏家史の記述を基にしたものと思われる。 別の古老によればお林が春日山に似ていたからとも周囲が三輪山に似ていたからとも言い伝う。突飛坂から見るとおはやし等が3つの山に見えるという。 また、崇神天皇王子の豊城入彦命の6世孫の奈良別王(ナラワケオウ)は下野国造であったが帰途奈良村古墳群の地にも立ち寄って名の由来もこれから来ているのではないかという推測もある。 岡谷村→突飛坂→奈良村宮久保薬師堂→秋塚村→川場村→片品村の経路は昔は會津裏街道とも呼ばれていた。平安時代末期の奥州征伐で八幡太郎義家らがここを通過して行ったと考えてもおかしくはない。 一方、その後平経家(大友経家)が1159年平清盛より上野国の利根・勢多を賜って、さらに1172年相模国大友郷を賜り、相模国に転居してより大友姓を名乗っている。そして源頼朝より1186年に改めて自らの所領の利根の地頭に任ぜられ、更に1193年孫の大友能直が頼朝より九州の豊前・豊後を賜りかつ鎮西将軍に任ぜられるに及んで大友氏は日本各地に領土を有する有力豪族になっていく。1222年の川場村の大友館やまもなく築かれた古馬牧村の明徳寺城も大友氏の命により築かれていたことは、利根の地にも管理する代官を置いていたことを示している。その後も1274年の元寇など大友氏は九州の地で蒙古来襲に対峙していて1193年鎮西将軍任ぜられた以降は利根の地を考える余裕はなかったであろうが、代官等が居たはずであり相模国大友郷と利根の地はこの頃から浅からぬ縁で既に結ばれていたと考えて良い。 従って頼朝急死により1199年に相模国(鎌倉)から、頼朝と関係する人々(多分集団で)が奈良村に来村して土着して以降、相模国出身という共有意識のもとにまとまっていたとしても不思議はない。 また、群馬県立文書館の石田家文書の家史に「宇田源氏ノ近江源氏、近江国石田村住人石田判官為久ハ佐々木一統也、粟津ヶ原ニ而朝日将軍義仲ヲ射落、其子孫越後国上杉家、長尾家之籏下ニ而石田丹波守、石田備中守、石田采女正也、其子主計佐上州沼田奈良村江来住ス」とある。これらは戦国時代末期に先祖の地に再び戻ってきた事を示している。 大友姓の由来が672年壬申の乱の近江朝大友皇子の近習衆にあることから近江国及び相模国のそれぞれの大友郷・石田郷・桑原郷もそれぞれ共通の祖先の移住者で造られたものであろう。大友郷と桑原郷はヤマト王権の頃の渡来系氏族の移住によって造られた地に由来する。石田郷は別記の通りである。 江戸時代1766年に石田要右衛門によって書かれた奈良村名苗顕然記と合わせると、1199年源頼朝急死の年に奈良村に来寓した祖先の地に、その後各地に散っていった其の末孫が戦国時代に再び先祖の地奈良村に戻ってきたとも言える。佐原氏→蘆名氏の末孫の左部氏の江戸初期流寓も相模国の縁故の関係であったと思われる。 上州奈良村の奈良古墳群(奈良の百塚)には古墳時代以降途切れること無く住民が居たことが重葬等でも明らかである。その既土着住民と平将門の乱以降土着してきた平経家先祖移住民との関係は想像しうる古記録はないが、移住民が支配権を拡げていったのは間違いない。平安時代中期に既に繁栄していたとされる七田の庄への移住で、当時山賊・強盗が跋扈する中での平経家祖先の移入は尊敬の念で受け入れられたものと考えられる(沼田市史)。奈良時代の人口は上野国利根郡全体で現在の20分の1(5千人位)位しかいなかったという。 鎌倉時代初期には発知村や藤原村が既にあるのに比し奈良村は頼朝の富士裾野巻狩夫人足帳には載っていない。分村前で発知村の一部かそれまでのナマシナ郷の一部のままであったと思われる。 源頼朝の1193年の富士巻狩夫人足帳に利根郡29ヶ村384人と載っており、それに隣村岡谷村・発知村・川場村の名はあるが奈良村・秋塚村・横塚村の名はない。源頼朝没年の1199年奈良村開村という記録と一致する。  発知村は800年代よりあり奥州藤原の落人部落と言われる藤原村も頼朝の時代にはすでにある。奈良村の名は頼朝没後に出て来て、横塚村・秋塚村の名もその後で主古墳群奈良の百塚の横塚・脇塚から来ているという言い伝えにも合致する(横塚は愛宕神社の旧名野狐塚ヤコツカが訛ったものともいう)。
奈良古墳群については、沼田市史(平成12年刊)によれば、昭和10年古墳調査で上毛古墳綜覧に36基が登載され昭和30年尾崎研究室の調査で59基が確認されており、平成5・6年調査で16基を確認している、とある。奈良古墳群のある小字は八幡平・大平・竜ノ鼻と細かく分かれているがそれらは薄根川右岸の河岸段丘一帯に小さく纏って一体とした位置にある。池田村史(昭和39年刊)によれば、60基を確認して昭和30年群大尾崎先生の発掘調査後に土地改良事業で取り壊したとある。昔から奈良の百塚と言われるようにそれを上回る群集古墳が存在したことは確かと言う。
  奈良古墳群のうち、昭和30年調査の60基は総て同地域の東側に偏在している(沼田市史)。当時既に完全な畑になっていた西側の畑からも長い両刃の刀剣が出土したと言われており、西側の龍ノ鼻には大塚という大きめの古墳があったとの記録もあることから(日本歴史地名体系第10巻上野国、池田村史)全体に分布していてかつては百基以上実際に有ったと思われる。西側の龍ノ鼻西端はそれ自体が古墳ではないかとも言われている。文書記録はないが、奈良古墳群の調査を1955年群馬大学が行い一部の古墳からは五輪塔の空風輪がみつかり重葬にも使われていたという。奈良古墳群西の龍ノ鼻の堂面には多数の五輪塔が見つかると池田村史(1964年)にある。古老に拠れば龍ノ鼻の西端の小山は全体が古墳ではないかとのことで昭和30年頃その持ち主が龍の頭に相当する大岩を石屋に頼んで割ったが期待した石窟等の穴が出てこなかったがその南数メートルの所には畳二畳ほどの平石が当時在ったとのことである。未だ正式な発掘はなされず将来の研究に待ちたいとその村誌にある。当時沼田市の教育委員会に古墳群の保存を願い出たが叶わず古墳群は土地整備で殆ど潰されて田畑になった。開村の時期の問題はともかく、これらは古墳時代より鎌倉期以降も奈良村には住民が絶えることなく居住していたことを示している。
 飛鳥奈良時代の北毛4郷の一つナマシナ郷の一角に奈良百塚はあり、文書記録はないが奈良百塚の古墳時代からナマシナ郷、そして其の西端の字龍ノ鼻の空風輪等の鎌倉時代以降の墓石の出土は、古代から途切れること無く無名の人々が連綿と生き続けてきている事を示している。歴史記録はヤマト王権継体天皇の時代に百済から五経博士が来てから可能になったと言われているが、後年の記録も無いと言うことは無名の人々であるという証でもあろう。この下奈良だけで無く上奈良にも字奈良原に南北朝時代の豪族館跡が発掘されている(上毛新聞1989年12月27日)。これは奈良村にも支配者が居たことを示しているが古文書記録はなく不詳という。奈良村が一村落共同体として機能していて族長もいたと思われる。現代とは違って盗賊が跋扈する中での自衛手段は村民の同族意識等に支えられる互助以外には自衛方法はなかったため当然であろう。
 奈良古墳群からも馬具の出土があり古墳時代からここにも乗馬文化があった。大陸から日本への馬の移入は4世紀とされるが672年壬申の乱の時には既に騎馬部隊による軍事行動が出て来ていたという。軍馬の供給源となる馬の育成は重要視されていて奈良時代の文武天皇の勅旨で勅旨牧(御牧)開発が始まり、764年藤原仲麻呂の乱をきっかけに天皇直属の勅旨牧として兵部省から独立したという。延喜式には信濃・甲斐・上野・武蔵の4ヵ国にあり、上野国にある勅旨牧9牧のうちの2牧は利根地域にある。オオアイ、クヤは利根郡内尾合、久屋にその名残がある。上野国にはその他諸国牧の長野牧があり、上牧・下牧にその名残があるという。811年には桓武天皇第3皇子の葛原親王に下賜され長野牧は私牧となった。桓武天皇は就任3年後の784年には大伴家持を初代征夷大将軍に任命(坂上田村麻呂は第3代目)して東国平定に心を砕かれており、北毛利根の地は奥羽攻略上の前線基地であり長野牧等は兵馬調達の戦略上重要な地域であったという。兵馬の供給では大きな役割を果たしていたはずの利根の地の関連の記録は少ないが、後年源義家が奈良の地を通って奥羽攻略に赴いたというのも自然の流れとも思われる。
 中世においては、近隣の村々には沼田氏分家(発知村:発知氏、岡谷村:岡谷氏、小川村:小川氏(後閑氏)、名胡桃村:名胡桃氏、石墨村:石墨氏、川田村:川田氏)、や大友氏家臣(川場村:九州大友氏家臣団)がいたが、奈良村はなぜか沼田氏・大友氏が分家等を置かなかった村の一つである。
戦国時代は強いことのみが優先され逆らう者はねじ伏せられたり抹殺されたり徹底していた中で奈良村のようにじっと生き延びられたのは見方を変えるとそのような沼田氏の(力を分散する)不徹底さが沼田氏が大名になれずに没落していった所以とも思われる。石田勘解由も沼田勘解由も第3者からみれば身分は同じレベルであったと思われる。1362年大友氏は嫡子単独相続制を執り氏時に相続させて権限の分散を防ぎ、眞田昌幸は1584年国衆仲間の室賀正武を抹殺して権限の集約を計ったが、沼田氏にはそのような策略は見られない。  大友氏が鎮西奉行として九州に赴いている時の1222年に川場村谷地に既に大友館が築かれ、大友親秀(利根次郎大友親秀、九州大友2代、その城代?)により近隣の古馬牧村(みなかみ町後関)に明徳寺城が築かれ、1247年には薄根村井土上の荘田城に宝治合戦で滅びた生き残り三浦沼田氏が入り、1271年には北側の隣村発知村に分家してきて発知氏となった。そして奈良村は三浦沼田氏が利根の地に来て以来沼田氏の支配下に入っていたという(池田村史)。足利尊氏に敗れて沼田氏とともに発知氏も領地没収されて没落したのが1351年。大友氏とその家臣団が大隅国桑原郡等の九州から東側の隣村川場村に来たのが1363年なのでその時には奈良村は領主不在で川場村大友氏が支配していたと言うことになる。奈良村にも豪族館があったが50年後1416年の発知氏再興するまでは川場村大友氏ないしその代官が支配していたと思われる。
 なお『沼田町史』によれば、荘田城(薄根村井土上)に宝治合戦の生き残りの三浦沼田氏が密かに落ちてきて以降三浦沼田氏(後期沼田氏)が利根沼田に根付いて行ったが荘田城に逃れられて来られたのは源頼朝が義経討伐の命を発した地頭職を利根沼田の地には置かなかったためであろうとしている。その理由は大友能直の頃から利根沼田の地は大友沼田氏(大友沼田氏=前期沼田氏)の荘園で既に荘官を置いて管理していたために大友氏に遠慮して置かなかったのであろうとしている。
九州2代大友親秀が古馬牧村後閑に明徳寺城を築いたことでも後期沼田氏になっても川場村に大友館があったことでも、大友沼田氏の勢力がなお併存していたことを示している。荘田城は平経家の頃からの城であり明徳寺城はその次に古い城である。明徳寺城はその後戦国時代になり真田氏と後北条氏が争奪を繰り返したが秀吉に後北条が滅ぼされて以後廃城となった。
新田義貞3男義宗南朝方と北朝鎌倉足利方(大友氏時と言われるが少なくとも其の奥方と家老等家臣団がいたのは確かという)との1368年の白沢村戦争は、新田義貞方と足利尊氏側の大友氏時方との間の戦争であるが利根沼田の大部分が沼田氏を含めて新田方であったという、奈良村は沼田氏側と川場足利側の境界に在るが関係記録は見つからずどちらに組したかは判らない。 1531年の沼田氏・発知氏との内輪もめ、1558~,1569~年の沼田万鬼斎息子殺しでの内輪もめ、その都度のそれぞれの因縁で住民同士や肉親が敵味方に分かれて戦わざるを得なかった事情が窺われる。各村の地衆もその都度敵味方入り乱れて戦わざるを得なかったと思われるが痕跡はない。新田義宗の1368年白澤村戦争、1569年沼田万鬼斎の川場村天神城の戦い、1581年沼田平八郎景義の阿曾城の戦い・高王山城の戦い、戦国時代の後北条、上杉、真田、入り乱れての戦い、など、蹂躙されながらよく現在まで生き延びて来られたと思う。 「戦国時代は最も暗黒な世の中、弱肉強食、下克上、親も子も敵も味方も無視され、勝つ、強いことが優先した時代、勝った人の行跡のみをことさら正当化することのないよう期待したい」と利根村誌はしている。特に戦国時代は親子・兄弟関係なく殺し合い、しかも軍律厳しい上杉謙信の時に比べて、北条氏が利根沼田地域に数回に及び侵入して来たときは盗賊以上に酷く物は盗られ男女のみさかい無く斬り殺されたので住民はその都度山の中に逃げ込んで震えていたという記録も地誌に有る。
江戸時代になってからも1682年杉木茂左衛門直訴による磔刑、赦免が出たがその早馬が間に合わずその使者服部某も途中で切腹、江戸中期1782年の見取り騒動の石田民右衛門・要右衛門・小林佐七3名永牢、拷問の末に数年後赦免はされたが毒殺されたともいう。理不尽な時代を乗り越えての現在がある。  奈良村名称の由来は前記の如くなれども、古墳時代以来鎌倉時代以降も途切れることなく営々と無名の人々が暮らしてきた土地であり特に戦国時代の見境無く殺し合う時代を生き抜いて今があるその子孫達の住む地である。中世沼田氏が各村に置いた分家を何故か置かなかった村の一つでもある。
 生き抜いて行くために互助の自衛手段しかなかった時代を生き抜くには、一族意識等の同族意識のもとにまとまっていく以外に安心を得る方法が無かったであろうことから、1363年以来の大友家臣団の川場村に対して、奈良村は相模国あるいは三浦一族等の同族意識の基に形成されてきた村であろうと思われる。そして鎌倉時代以来既に帰農していたと思われるが村住民を守るためには沼田氏を国衆とすれば地衆に相当する役割でその都度戦わざるを得なかったであろうことも充分推定される。南北朝の白澤村戦争や戦国時代の沼田氏内紛・上杉北条武田三つ巴乱戦にどちらに組したかは不明であるが一族住民を守るために、終始目立たないようにとじっと耐えて密かに生きてきた村のような印象がある。

☆大伴姓(古代)と大友姓(古代)の関係について:
 a 古代大伴氏は、ヤマト王権の時代の神功皇后~応神天皇~仁徳天皇にわたって天皇を凌ぐ活躍をしていた葛城氏が456年眉輪王の変で衰退して行き取って代わった古代の有力豪族であり任那統治を担っていた。渡来系氏族とも言われる。しかし513年任那4県の百済への割譲問題でやがて大伴氏も衰退していく。その後は物部氏が勢力を握ったがそれもやがて聖徳太子の頃その次の蘇我氏に代わった。そして大化の改新でその蘇我氏も衰退して以後名実ともに天皇中心の国家形成が確立された。なお、823年淳和天皇(大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた。新撰姓氏録(815年成立)には、任那に出自を持つ10氏が記載されているが大伴氏の出自は任那国主龍主王孫佐利王也とある。大友皇子が24才で自害した壬申の乱では大伴氏は敵方に付いている。
   b 古代大友氏は、近江国滋賀郡大友郷を本拠にしてその周辺に住んだ渡来系の氏族が大友氏の由来という。応神朝時代(日本書紀では応神20年)に渡来した阿知使主(阿知王)とその1党、七姓漢人とその1党など多くの漢人・百済人等の渡来系氏族が朝鮮半島から日本に帰化したという。応神朝期に近江国大友郷に移住してきて大友氏を称した氏族は後漢の霊帝を始祖とする者、阿知王と共に渡来した漢人の後裔とする者がいるという。新撰姓氏録に拠れば大友氏始祖の一つは百済国人白猪奈世之後也とある。古代大友郷が近江京遷都した天智天皇の皇子大友皇子名の由来と思われ、在地の大友氏が養育役だったという。
 c 相模国大友郷は古代近江国大友郷から各地に移住した古代大友氏に由来するものであり、大友経家(平経家)およびその孫の大友能直の大友姓は後年1172年相模国大友郷を賜ってその地名を称した氏族なので、古代大友郷の氏族とは無関係であり、大伴氏・大友氏ともに渡来系という共通点を除けば無関係である。但し、平安時代の六歌仙のひとり大友黒主は大伴列(おそう)の子であるが、大友氏の養子になったという。そして後年、実姓の大伴氏を用いたというのでこの点では関係有る(近江国滋賀郡史)。またその地域に住むと言うことはその在地DNAも少しは入るということでありその意味でもわずかは関係有るということになる。

☆上野国(上州ともいう)沼田氏について:平安時代平清盛の頃(1170年頃)の大友氏祖大友経家からの前期沼田氏と鎌倉時代中期1247年宝治合戦の生き残り三浦氏祖初代沼田景泰からの後期沼田氏と分けるのが定説化している(石田文四郎博士説―薄根村誌)。一方、戦国期1500年頃仏教曹洞宗を広めようとした僧侶等(玉泉寺や永平寺で活躍した曹洞宗曇英和尚、「雙林二世中興開山一州和尚行状記」1493年記、「春日山林泉開山曇英禅師語録」、「長尾累代記」、)の記録等でも当時の三浦沼田氏君主第9代景康は大友氏が祖であると言っていることから敢えて分ける必要はないようにも思える。もともと大友氏祖の大友経家の妻は三浦一族であることからも然りである(但し父系も母系も可とした場合である)。

☆歴史の流れ:
今でこそ日本は政教分離の法治国家を国是としているがこれはほんの最近のことで、第二次大戦以前の両者は分離されていなかった。特に明治時代は政府の神仏分離令から廃仏毀釈に社会が過剰反応して結果的に神道のみが持ち込まれて、逆に政教混淆が政治的に確立されてしまった時代だった。それが大戦まで続いた。それまでは江戸時代でさえも寺社が優遇されていたとはいえ、政教混淆が政治理念に取り入れられることはなかったし、分離か混淆かへの拘りもなかった。 法治国家という国家運営理念は聖徳太子の17条憲法に見られるように古代より受け入れられている。唐の律令制を参考にして日本式に導入して発展してきた。宗教も神仏混淆(神仏習合)に見るごとく江戸時代までは自然神を中心とした多神教的観念で仏教や儒教概念をも取り込んだ多重宗教になった。新たなものも受け入れる寛容性を自然に持ち合わせていたし排他性もなかった。迫害は政治的統治に害が有るかないかのみによった。本来宗教は排他的で科学的に反証できないものなので、その点からは日本の宗教は節操がないように見える。一神教の西洋人が考える宗教からは理解不能の日本人の宗教観を西洋人にも理解可能のように説明したのが新渡戸稲造の武士道であった。ある人が言った、キリスト教は神→人間→自然であるが 日本は神=自然=生命=人間が宗教観であると。(独断と偏見です)

古代ヤマト王権の葛城氏130年間→ 古代中央集権体制初期頃からの大伴氏70年間→ 百済へ任那割譲頃からの物部氏70年間→ 聖徳太子の頃からの蘇我氏70年間→ 大化改新以降江戸幕末までの藤原氏の1200年間→ 明治維新から現代までの長州勢、と日本の支配中枢に居て栄枯盛衰を繰り返してきた日本の統治体制、ミクロの目とマクロの目では見えるものが違うということが判る。
神功皇后から応神天皇の頃の空白の4世紀と言われる頃に活躍した葛城氏時代(130年間)は、456年眉輪王の変をきっかけに没落し替わって初めて大王(天皇)を名乗りヤマト王権の中央集権化を成し遂げた21代雄略天皇とともに大伴氏が台頭してきた大伴氏時代(70年間)、26代継体天皇の時513年任那を百済に割譲した頃から大伴氏が没落して代わりに物部氏が台頭してきた物部氏時代(70年間)、587年丁未の乱で聖徳太子とともに蘇我氏が台頭してきた蘇我氏時代(60年間)、その蘇我氏も645年乙巳の変で天智天皇とともに藤原鎌足に滅ぼされ、以後藤原氏はひそかに天皇家との縁戚を結びつつ1000年以上に亘って天皇の権威の背後で利用し生き延びてきた藤原氏時代(1200年間)。江戸幕末以降は何と孝明天皇の勅命で亡ぼされそうになった長州が西郷隆盛の采配で逆転して生き延び「勝てば官軍負ければ賊軍」の見本のような明治時代を作り、これはなお現在にまで続いている。
古代から変わらないのは天皇家(大王家)の権威を名目として戴き国をまとめてきたという歴史である。驚くべきことに藤原氏は1200年も続く恐るべき戦略を結果として構築した。1700年間に亘り易姓革命が起きたことがなく、王胤の家は臣下の家が冒すべからざるものという観念が変わらなかった唯一の国という見方はうなずけるものがある。「戦国時代は最も暗黒な世の中、弱肉強食、下克上、親も子も敵も味方も無視され、勝つ、強いことが優先した時代、勝った人の行跡のみをことさら正当化することのないよう期待したい」とした利根村誌の言葉は刮目に値する。

◎ 中世(鎌倉~戦国)~近世(江戸時代)の武士・百姓(農民+町人)のイメージの変遷、「王胤の家と臣下の家思想」社会と「易姓革命思想」社会、について、
最近の歴史の教科書からは身分制度を表す士農工商という言葉が実在しなかった制度とのことで消えたというが(学説が否定された?)奈良村の古文書等から受ける印象も単純な支配階級と被支配階級という身分制度ではなかったような気がする。(但し長野県史によれば1636年6月4日佐久郡竹田村が幕府代官への年貢納め規定の請書のなかに「士農工商」の語が見られるという)。互いにやむを得ない制度として容認していたのではないかとも思う(士農工商と言う言葉自体は古代中国からあり本来は官吏・農民・職人・商人など総ての民といういう意味で四民とも言われ、士の意味が武士の意に変わったのは江戸時代初期の頃と言う。職分ないし人民全体を意味する士農工商が身分制度を表す言葉に変更解釈されたのは明治以降のことといい平成の世の現代の歴史解釈は士農工商の代わりに武士百姓町人と言う様になったという。明治の教育者沢柳政太郎によれば江戸時代前期の貝原益軒が「士農工商の四民共に幼より教育を受くべし」と主張したことは一大見識であると評価したが沢柳自身は身分制度を表す言葉と受け取っているようである。「士は兎に角、農工商は学問を要せないものと一般に解せられたる時にあって一大見識である」と評価したという(沢柳政太郎全集第8巻)。
江戸時代以前について制度としての身分制度があったと言うかどうかは別として支配層と被支配層が古来よりあったのは間違いない。時代の流れに伴って下剋上など主客逆転しながらも存在し江戸時代に入って身分(職分)が固定化された。そして明治時代に入って皇族・華族・士族・平民等の身分制度に明文化して支配層の不満をなだめながら相反するような四民平等思想を組み込んでいった。
黒船来航の翌年1854年に奈良村石田伝九郎は帯刀の上江戸へ出府せよとの御用の命を受け給金も出たという。彼は村の有力者ではあるが農民であり武士ではない。江戸時代には苗字帯刀は一般農民には許されてはいなかったというが1766年奈良村名苗顕然記によれば奈良村の村民は殆ど総て苗字を持っていた。
(但し宗門人別帳には姓はない。利根の地は古来「かくれ里」として落人伝承が多く、古くは奥州安倍一族の残党と言う阿部氏など数多くあり、また苗字も奈良村のみならず各村々も公文書は名のみだが江戸時代でも姓は伝えていたという。文政の頃の「利根郡村々姓氏一覧」では全員苗字付名が記されていて天正時代の近村の川田村検地帳でも多くは有姓であり地侍としての誇りを有していたという。江戸時代公文書のみが姓の有無を区別していた。そして苗字も家紋も変わるのでこれから家系をたどるのは困難であると「上州の苗字と家紋上巻」萩原進編にある。)
また奈良村名苗顕然記によれば、遺恨ありて誰々を討ち取り何々家断絶、とか、争いの仲裁に真田信之が入って解決したが恨みが残り手形を残したとか、誰々は主家にてお手打ちにされた等の記録があり生死さえも日常茶飯事であった。  江戸以前より名主選びは選挙で行われていたが、選ばれても嫌がって就任を拒否しているため代官に説得を依頼している文書もあった(池田村史)。
(足尾鉱毒事件で有名な田中正造は自叙伝で、自身の小中村は「古来の自治村」であり「名主は村内百姓の公選に依りて挙げられこれに村内の一切の公務を委ね、且つ非常の権力を授けて村費臨時費の徴収及び支払等悉くその意に一任し以てこれが決算報告をなさしむるにすぎず。然れども一方において総代組頭等は年暮れの決算報告会にはその出納を検査監督して一点の私局を挟ましめざるの制である」、と述べ、既に行われていたこれを自治的好慣例とした。それに対して藩閥政治を持ち込んだ明治政府は藩レベルの権力支配構造を国レベルに押し上げただけであり、村の自治的慣行を無視するならば藩の権力に逆らったように、明治政府にも徹底して逆らう、という権力の前に泣き寝入りはしないという意志を持っていたという(「田中正造の生涯」林竹二著)。藩レベルの権力構造で成り立つ政治と人民の政治は異なり、士族的民権運動は藩閥的政治観から脱却できなかった故の不幸が明治の民権運動が進まなかった理由であるとしている。渡辺崋山は当時の良識家と言えるが賞賛する酒井村村長の彦八が「収斂を行う殿様は取り替えたらこそよかるべし」と言い放つのを聞き驚愕して狗にも劣ると非難した。武士階級のヒユーマニスト崋山もこの種の士道への囚われから抜けられなかったとも述べている。人民という被支配層の考え方と士族と言う既得中間支配層の考え方は異なっていた。田中正造のように自己生存のための既得権も平気で捨てられる者は滅多にいない。江戸時代に於いては奈良村を含めて自治政治を既に行っていたのが普通で、権力乱用の悪徳名主の村は少なかったのではないかと思う。田中正造の自伝「田中正造昔話」にも「江戸時代に於ては全国亦如斯なりしならん」と述べている。被支配階級の人民は啓蒙して導いてやらねばならぬ者、支配階級は人民を導いてやらねばならぬ者というステレオタイプの発想は後世の歴史家が作り上げたイメージである。あるいは支配階級のうちの下層の者達が江戸時代に於いても勝手に思い込んでいたものであろう。支配階級の上層の者即ち名君は身分に係らず能力のあるものを探しているからである。もちろん例外はある。そして現実の身分差別を受け入れたうえでの、正道とは何か、という正造の生き方は昔話中の『六角家払奸始末(2)によく表れている。)
江戸時代は公には武器禁止であったとしても半ば公然と所持していたようだ。ましてや戦国時代には自分の村を守るためには必要があれば戦い近隣の戦闘に協力し普段は農業等生業にも勤しんでいたと思われる。江戸中期に佐賀藩士山本常朝が1716年頃口述した「葉隠」の武士道、1860年?の山岡鉄舟の「武士道」(安部正人編『武士道』1902年)、1900年新渡戸稲造の「武士道」等から好ましい「武士」の現代のイメージは確立されてきたが、歴史上の武士や侍の成り立ちは意外にも現在なお諸説あって統一されていないという。
743年聖武天皇が墾田永年私財法を発布して土地私有を認めたことから有力豪族や有力農民も土地私有し更に貴族に寄進して荘園の荘官となることにより国司の徴税圧力を削ぎ周囲との摩擦から自衛するために武装もするようになり武士出現の素地となった。 そして平安京遷都直前の792年に桓武天皇が発布した健児(こんでい)の制がプロの武人の出現のきっかけになり、平安京遷都初期796年に桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じたが、この坂上田村麻呂は武官であったが武士ではないという。 平安中期の藤原秀郷・平高望・源経基は第一世代の武士の祖とも言い、白河法皇が初めて任じた源氏平氏を初めとした1100年頃からの北面武士が武士の始まりになったともいうがそれだけでもないという。平安時代に発生したこの狭義の武士層が時代と共に拡がり更に在地豪族・在地土豪・地侍が加わり広義の武士層が形成されて盛衰を繰り返して戦国末期で確定し江戸時代に入って兵農分離の身分制度によって世代を超えて固定化・世襲化して行った。またその長い過程の中で、武士の生き方としての自律規範が醸成されて具現化した武士道は、江戸期に入って昇華したものになった。今でいうプロフェッショナル・オートノミーである。武士・侍・百姓などの言葉の意味は時代と共に変わっていくが江戸初期にイエズス会が作成したポルトガル語辞書には武士は軍人、侍は貴人ないし尊い人と訳されていたという。また百姓ははじめ農民町民を含んでいたという。 これらの身分制度は明治になって皇族・華族・士族・平民等と名称を変えて続き、第二次大戦後実質的に消滅するまで続いた。 「王胤の家」は別として、「臣下の家」の中での身分制度を、歴史の流れの中で考えると、戦国期までは半分実力世界であって養子縁組等でいわゆる貴族・武士・百姓間相互の移動は可能であったようであるが、なし崩し的に確立した270年続いた江戸時代で身分がほぼ固定して、そして名実ともに新たに創り出して明文化した明治時代はその身分制度は戸籍等で記録化されたが故に世代を超えてよりはっきり固定したごとくになった。「藩レベルの政治」が「国レベルの政治」に拡がり田中正造の言う江戸末期の「自治的好慣例の人民政治」が吹っ飛んでしまった。その明治時代もほんの一時のことのように思えるが、武士道との概念が確立すると並行して出現してきた自由主義思想と貧富の格差出現の中で「武士の誇り」という心の拠り所も普遍化した。貴族・武士層の不満を抑えるために明文化した華族・士族の身分は第二次大戦後でも心の拠り所として今でも残っている。戦後の岸信介総理は生家の佐藤家について「佐藤家の家運が傾き貧乏になった時も『ウチは県令と士族の家柄ですからね!』と頑として挫けず対外的な意地を張り通した」という(岸信介傳)。 この村も先祖達の多くの苦難の上に古墳時代の足跡以来、江戸時代には既に帰農しているが何らかの誇りをもって存続してきたようだ。かくれ里とも言われる由縁かもしれない。
 
世界においては前支配者の遺産を徹底的に破壊する易姓革命が当たり前の世にあって、日本は古来より「王胤の家」は別格であり527年磐井の乱を継体天皇が鎮圧して日本列島統一国家が出来て以降、王胤の家と臣下の家との区分が終始一貫してあり、これは現代に到るまで変わらないという(「三浦一族の中世」高橋秀樹著)。臣下の家の家格は古代より縁戚関係・氏姓制・位階制・財力・武力等で現在に至るまで変幻自在で変わる(易姓革命は血族の断絶と捉えられるが原義は前支配者の失われた徳が新たな徳を備えた新王朝に易わるという徳の断絶という意味での儒教の理論だという)。
大和王権から飛鳥・奈良時代までは葛城氏・大伴氏・物部氏・蘇我氏・藤原氏等有力豪族が栄枯盛衰を繰り返しながら入れ替わってきたが、桓武天皇の没後平安中期頃から鎌倉時代にかけて朝廷を取り巻く環境では家格が形成されかつ世襲固定されるようになる。以後は武力支配構造から離れて表舞台には出てこないものの藤原氏が皇族との縁戚関係を結びながら深く皇統・官職制度に関与してきて、江戸時代の朝廷においては上位公卿17家系(摂家、清華家、大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏であり、皇統と藤原氏の二つだけの血流が朝廷の支配階級をほぼ独占するという世界でも稀な状態になっていたという。明治以降もその感覚は一部に残り第二次大戦後には華族制度も含めて制度的には全く無くなったが任意の堂上会という集まりは今でもあるという。
王胤の家に密着して朝廷社会を影から支え支配階級を独占してきた藤原氏は大化の改新以来1350年間にわたって今も残っていることになる。
朝廷を巡る権力闘争は、842年「承和の変」で大伴氏・橘氏が排斥され、866年「応天門の変」で大伴氏が没落、901年菅原道真が左遷され、969年「安和の変」で源高明が左遷、と藤原氏による「他氏排斥」が成功するなど、外戚の地位の確保+他氏排斥の二点の戦略によってが藤原氏が勝ち、さらに藤原氏の内部抗争で朝廷内は北家を中心とした藤原氏の時代が明治まで続くことになる。
何をやっても批判や反発は周りから出るものであるが美智子さまや雅子さまがストレスにさらされていることと関わりあるような気がする。
そもそも古代社会より現代に到るまで人が持っている自己保身・身内保身の本能は身分制度からやがて世襲制度に繋がりやすい性格を本来含んでいる。そのために聖徳太子が世襲を排するために造った冠位十二階も意に反して世襲制度に逆用されてしまった。そしてその後に出てくる身分制度も元来は実力主義を意図したものと思われるが世襲化に利用されてきて、臣下の家の中であからさまに華族士族平民等の身分世襲制度としての明文化は明治維新であった(もちろん不文律としての身分世襲制度は古代よりあった)。そしてその時代に正面から異を唱えたのが福沢諭吉であり渋沢栄一であるようだ。「天は人の上に人を創らず人の下に人を創らず」や「私利を追わず公益を図る」はまさにその時代においては革命的な思想の実践者であった。西国立志編で「天は自ら助くるものを助く」を西洋から導入した幕末の儒者中村正直とともに現代思想の原点であったと思う。そしてたとえ身分制度が固定化していた時代においても、真に世の中の上に立つ者は身分を超えて優秀な者を採用する度量を持っていたことは、盲目の学者塙保己一を見れば明らかである。 氏姓制度は、朝廷に登録のないものは相手にされず無視されたために、朝廷に認めて貰う為に無理やり「源」や「藤原」に先祖を結びつけたという。江戸時代も主従関係を結ぶときは氏を含む出自を届出ることが通例であったので武士は強引に結びつける系図を作って持っていたが殆ど源姓か藤原姓であったという。氏ウジは大久保利通が藤原朝臣大久保利通と名乗るなど明治初めまで官職制度に影響があった。氏姓(ウジカバネ、朝臣等のカバネは古来からの日本独自のもので爵位制の1種である)・位階・官職・爵位(古代カバネ制は爵位制の一種であるが明治の華族令による爵位は公侯伯子男)の制度のうち爵位の制度は大戦後廃止された。  
◎ 明治7年生れ政治記者の前田蓮山著「自由民権時代」1961年に拠れば、「コッケイ千万にも朝廷の臣僚たる者は古制に従い源平藤橘の氏姓が正しくなければならぬと言うので官員に系図書を提出させた。下級藩士・・・連中は系図書など持ち合わせている者はなかったので俄かに系図製造屋に頼んで偽系図を作るという騒ぎだった」と記している。容易に想像できることは、古代より戦国時代まではいわゆる由緒正しき皇族家系もある一方、その過去は山賊・海賊・農民・穢多・非人等であっても実力次第で伸し上がってきた来た人々も後付の系図を作り混在できていた「半分実力世界」の世の中が、明治になって皇族華族取扱規則・爵位制度制定など新たな身分制度が作られ、更に壬申戸籍に記録される等で自由民権の身分制度撤廃思想とは逆の「組織的な身分制度」を明治の世になって確立したと言える。明治4年に「賎民解放令」にも拘らず一部で余分な事も記録されていたため問題は尾を曳き、昭和43年以降は閲覧禁止になって現在閲覧できるのは明治19年改正戸籍以降という。「地租改正の影響で文明開花の明治時代に逆に階層分化の階級制を生み出す奇現象を呈した・・」あるいは「明治新政府の性格の中に復古神道的な理念が抱懐され公式文書に伊藤博文ではなく忌部宿祢博文と名乗った・・」ともある―萩原進著群馬県史明治時代第1分冊p49-。  

◎ 身分制度と戸籍制度について: 身分制度は古代律令制下でも良民・賤民(奴隷)の区別があった。賤民は奴隷制で売買の対象であったという。 明治5(1872)年壬申戸籍によれば全人口3300万人のうち平民93.5%、士族3.9%、僧0.7%、華族0.008%、である。この3.9%の士族の一部および士族から漏れた平民等が1876年の「廃刀令」と「秩禄処分」で制度上の既得権益をすべて収奪されて無禄となり不平士族として反乱を起こすが大部分は江戸時代に醸成された武士道の美徳を自尊心の拠り所として清貧を受容した。見方を変えると、明治の世では華族は徴兵検査で不合格にするという不文律があり、士族はそれ自体が心の拠り所となり、平民は新平民を蔑視し解放令反対一揆さえ起き、新貴族新士族は身分制度撤廃へ消極姿勢となり、明治政府は租税徴収と欧米の身分制度開放圧力とのために身分解放令を出したものの、意識の上での身分制度は続き、実質的身分制度撤廃は大戦後の日本国憲法以降になった。
◎  戸籍について:個人単位ではなく、家族単位・夫婦単位での人民登録により国民を把握する方法。天皇と皇族は今でも戸籍も住民票も参政権もなく、戸籍に代わる皇統譜に記載される。 江戸時代や明治時代の家制度(明治31年民法に規定あり)とも異なり、血縁・婚姻単位の国民登録制度(昭和22年に戸籍法が改正されたが、昭和32年法務省令第27号の改正原戸籍までは親・兄弟・子の3代記載、昭和32年以降は2代記載になった。それまでは家制度の記載方式であった?)である。記載方式・内容共に時代と共に変遷しているが、現在でも戸籍制度を運用しているのは中国・台湾・日本くらいという。 戸籍法の改正で効力を失った改製原戸籍は、本人が知らないうちに役所で勝手に作成されている場合があるため、今でも注意が必要だという。 戸籍制度の原型は、古代国家のヤマト王権の欽明朝の頃から既にあり、540年には秦人・漢人・諸蕃等の渡来系の人々を戸籍によって支配していたと日本書紀にある。戸籍制度は飛鳥時代の大化の改新により日本で初めての戸籍「庚午年籍」が670年にできた。 平安時代後期になると律令制の後退と有力貴族による荘園制の成立によって、全国単位での戸籍自体の作成が行われなくなった。中世の鎌倉・室町・戦国期には統一的なものはなかった。徳川時代に入って幕府や寺社の作成した人別帳や宗門改帳や過去帳が戸籍に代わる人民の登録簿となった。 明治時代に入り、「戸籍法」明治4年4月4日大政官布告第170号が出来て初めて本格的な国の戸籍制度が成立・開始した。これを「壬申戸籍」という。これには同和関係・病歴・犯罪歴も記録されたことから問題となり、壬申戸籍は一切閲覧不可として封印された(完全な封印は昭43年の民甲777号民事局長通達による壬申戸籍の閲覧禁止の強化と回収・保管の措置)という。現在は明治19年式戸籍以降のみ閲覧可能である。皇族・華族・士族・平民・等は明治になって公的に新設かつ文書化された身分制度である。これによってそれまで養子・猶子方式で曖昧さを包含していた身分制度は公文書化して固定した。この族籍も戸籍に記載されていたが昭和22年の新戸籍法で族籍は消滅した。皇統譜のみ継続しているのは易姓革命が行われていない根拠の一つと思われる。戸籍法は明治初期は非公開であったがプライバシー保護の概念がなかったために法的には原則公開・必要により非公開であったといい、そのため必要があれば他人も勝手に入手できた。平成15年個人情報保護法が成立公布され、平成20年に戸籍法が改正されて公開原則は維持したまま条件を本人確認等極めて厳しくしたために悪用はされ難くなった。 
 
◎ 上野国を含む東国はもともとは平安時代より平氏が国司として自ら赴き、高望王の子の、長男国香(常陸国)、次男良兼(上総国中心)、三男良将(下総国中心)、五男良文(武蔵国中心)、らが東国に土着して隆盛のもとを造ってきた地域である。源氏のふるさととして北毛にも源姓を名乗る家が多いのは源義家への恩義の影響に加えて江戸時代の身分制度の固定化や系図屋が栄えた明治時代まで引きずってきたその意識の影響が大きいのではないかとも思う。
位階制度は、603年推古天皇と聖徳太子による冠位十二階に始まり718年養老律令により位階制度として整備された。その定めた初期の目的は官職の世襲を防ぎ能力に見合った官職につけるようにすることであったというが、蔭位制を含むなどちょっとした条件設定のずれで逆に世襲を許してしまい平安時代初期には人材登用制度としての位階制度は形骸化してしまったという(法律がちょっとした「てにをは」や一文字の添削により目的が歪曲されて悪用されてしまうという現在にも通じる法律の本質は変わっていない。本来の目的からブレないという運用こそが大事と言うことである)。
その臣下の家同士での様々な争いの中で歴史が刻まれて来ている。日本にも様々な村があったと思うが田中正造がいう「古来の自治村」とも言えるような奈良村のごとき村の方が多かったのではないかと思う。
自己と身内の防衛のためには血縁・地縁しか頼る方法がなく時にはそれさえも犠牲にしなければ自己と身内を護れなかった時代に、臣下の家同士の争いを避けるには武力を背景にした家柄・家格等の差別化をして必要とあらば有無を言わせず従わせる上下関係による支配構造を作ることでしか、血で血を洗う戦いを避ける手段がなかったようだ。江戸時代は平和な時代であったと言えるが家格の固定化と世襲化という副作用の上に成り立ちそれは朝廷社会も武家社会も農民社会も同じだったと言える。現代では法治社会を秩序の基盤に置いているが背景には武力の影が今でもなお常に付きまとっていて、見方を換えれば民主主義という数の暴力に依存していると言える。そしてそれに伴う副作用も無数にある。その副作用を出来る限り少なくするには民主主義と言う理念の王道を見失わない「運用」こそが大事である。法に違反していないから何でもしてよい等はもっての外である。共産主義・社会主義も同じである。理想社会と現実社会の乖離がここにある。


注:「史実」というものは、自分の視点のみで書かれていることが多く、他者の視点では恐らく違った見方をするであろうことにも気付く。しかし偏った古文書でも無視すれば暗中明を求めることができず、あくまでも道しるべで在ることを前提として採り上げることが賢い選択であることを実感する。従って筋の通らない記録は別の視点の記録も探す事が肝要である。 この村には古文書が全くないようだと思っていたが、予想外にあったことに驚いた。特に祖父の代から集めていた資料を1766年にまとめたという石田要右衛門が書いた奈良村名苗顕然記は、見取り騒動で入牢する16年前に書いたという、村特有の貴重な文書であった。
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<メモ1>
 ☆上野国利根郡の出自の大友氏について:大友能直(1172~1223)は1192年源頼朝によって豊前豊後の守護及び鎮西奉行に任ぜられて相模国から九州に赴いてその礎を築き、以来九州大友氏の祖となった。そして元寇では第3代大友頼泰が執権北条時宗の命で時の鎮西奉行の少弐資能と共に異国警固番役として元の襲来時に筑前・肥前・博多津等の防衛の総指揮に当たった。鎌倉期以降大友氏は全国に多くの所領を有し大大名になって行ったが朝鮮出兵をきっかけに秀吉により除封されて大友氏は没落した。利根の地にも沼田荘庄田(師)の大友館や利根荘川場村の大友館(1222年)および大友親秀の命で築かれた古馬牧村の明徳寺城(1247年)など大友氏の足跡が残っている。これらは大友能直の祖父の平(大友)経家にまつわる足跡である。東国は源義家以来源氏の恩顧に報いて源氏が席巻してしまったが東国発展の素地を創ったのは、その前の東国地域の開発による底力を蓄えてきた平氏に依る処が大きい。上野国利根の地も新田義貞を代表とした源氏一辺倒になったがその地域の底力を蓄えてきたのはやはり平氏であった。しかも白沢村戦争(1368年)は大友氏時側(足利尊氏側)・新田義宗側という源氏同士の戦いであったが、この戦争にもなぜか地元では口をつぐんでしまっているような感があるのは身内同士の戦い故なのだろうか。
大友氏発展の祖となった大友能直の母が平経家(大友経家)の娘の利根姫であることに異論がないが、能直の実父については資料によって異なる。大分県史では郷司古庄能成の子としているが『寛政重修諸家譜』は源頼朝落胤説を採用している。どちらにしても能直が頼朝の格別の寵愛を受けていたことには異論がない。上野国沼田氏について、沼田市史・川場村誌・池田村史等上野国利根の市町村誌は慎重に断定を避けながら、緒方氏説・山科説・大友説の3説のうち、石田文四郎氏の前記大友沼田氏・後期三浦沼田氏説をとっている。この前後期説の両者は大友経家の妻が三浦義継の娘なので相模国の大友氏・沼田氏・三浦氏と上野国沼田氏は同族と言ってよい。利根の地は大友経家の代から既に平清盛によって安堵されているので、以来大友氏時(?~1368年)までは利根の地の一部は大友領であった。第16代大友政親(1444~1496年)の代で相模国大友郷は鶴岡八幡宮領になっているので本貫地としての相模国大友郷はこの頃解消されたという。利根の地もこの頃解消されたかもしれない。利根の地でも白沢村戦争以降大友氏は表舞台から消えてしまっている。大友館も珠垣媛も無視されているがごとくである。
   ☆相模国石田氏:相模国大住郡石田郷(神奈川県伊勢原市)の桓武平氏三浦氏流の石田氏で、三浦義継の孫の蘆名為清の子が石田郷に住み石田為綱と名乗り祖となったという。為清の孫石田次郎為久は木曾義仲を討ち取り頼朝より近江国石田郷を賜り移住したという。古くは皇別に石田姓あり、垂仁天皇の皇子五十日足彦命の子孫が山城国久世郡石田に住み、石田君を称したのが石田郷・石田氏の始まりとされる。
☆相模国/伊豆国桑原氏:平安末期・鎌倉初期の相模国近隣の桑原郷は二つあり。その一つ、1180年の相模国桑原郷(小田原市桑原)は、建長元年(1249年)の関東御教書にある鶴岡八幡宮領相模国西桑原郷に相当する。応永7年(1434年)の鶴岡事書日記によれば東側の東桑原郷が鎌倉公方足利満兼により鶴岡八幡宮にさらに追加して寄進された、とある。即ち鎌倉期には西桑原郷と東桑原郷は別であった。桑原氏は鎌倉平氏三浦党の武士団として製鉄技術で力をつけて居たという。もう一つ、伊豆国桑原郷(静岡県函南町桑原)については詳細不詳だが、鎌倉期北条時政の弟盛家が移住して桑原姓を名乗り、現存する伊豆国桑原郷の阿弥陀三尊像は北条時政が戦死した息子の供養のために作らせたという。その子孫が戦国末に吾妻に土着したという(原町誌)。
☆相模国三浦一族:相模国三浦郡から安房国に至る地域を支配していたが1247年宝治合戦で三浦一族滅亡、その時三浦泰村の次男景泰が落ち延びて上野沼田氏を称したという。奈良村と関係する佐原、蘆名、石田氏も三浦一族であり、桑原氏も鎌倉平氏の三浦党に属するために奈良村においては同族としてまとまったのであろう。川場村桑原氏は大友氏時家臣団七氏の内の一氏で1363年九州大隅国からきた氏族であることが判っている。
☆桑原姓については下記abcdの通り4世紀のヤマト王権の古代より記録がある。
 a 「桑原」の語源は2説あるという。奈良期以前の古代から既にあり、クハはク(潰)・ハ(端),またはキハ(涯)の転で「崖地」を示す地形地名とする説(古代地名語源辞典)と、奈良葛上郡桑原郷に居住した桑原氏が渡来系であることから桑の栽培,養蚕技術に関係した地名とする説である。いずれにしても古代ヤマトの桑原郷に由来して、奈良期以前の古代394年には既にあったという。
b 日本書紀(720年成る):神功皇后5年3月7日条(394年)、新羅王の使者に騙された葛城襲津彦は怒り、使者を焼き殺したうえ、蹈鞴津(タタラツ、慶尚南道釜山の南)に陣を敷いて草羅城(クサワラノサシ、慶尚南道の梁山)を陥落し、捕虜を連れ帰った。これが大和葛城の桑原・佐糜(サビ)・高宮・忍海(オシヌミ)の4つ邑の漢人(アヤヒト)らの始祖である。(渡来系の技術者集団となって優遇されたという)――葛上郡桑原郷(現奈良県御所市池之内)。
 c 続日本紀(797年成る)によれば、天平宝字2年(758年)6月の条に同祖の桑原史・大友桑原史・大友史・大友部史らが桑原直姓を賜う(同族,史=ふひと,直=あたい)、また同条に帰化した近江国の桑原史人勝ら1155人が桑原直姓を賜う。天平神護2年(766年)2月桑原村主岡麻呂ら40人に,桑原公の姓を賜うとある。渡来系の桑原氏は村主→史・連→直・公と姓(カバネ)を改め各地に広がった大族という。
 d 平安初期の弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の命により編纂された「新撰姓氏録」によれば、古くは皇別及び諸蕃に桑原姓あり、桑原氏は皇別、神別、諸蕃、の3つの出自のうち皇別と諸蕃に記載が有る。皇別の桑原氏は公姓(君・大臣)で豊城入彦命(第10代崇神天皇皇子)の後裔で多奇波世君を祖とし、上毛野君も同祖という(桓武天皇の母が百済人であるように、皇別桑原氏も渡来系の血を引いているという説もある)。 諸蕃の桑原氏は前漢高祖劉邦の後裔で高句麗の万徳使主を祖とするという。桑原姓はヤマト王権の葛城襲津彦が引き連れてきた渡来人を大和葛城の桑原郷に住まわせたのが始まりとされ、古代近江朝廷の大友皇子の頃よりいる大友氏の同族であるという。近江国および其の周辺の氏族で大友皇子の支持勢力近習衆であり、758年に桑原直姓を賜与された近江国の帰化人の桑原史人勝ら(続日本紀797年)など、大友氏や複姓の大友部氏、西大友氏、大友桑原氏、大友丹波氏等がありそれらは同族であるという。漢民族・朝鮮等の渡来系の後裔と称していたという。姓(かばね)制下では連・直・史・村主などであり史(ふひと,文書記録を司る役割という)が多かったという。菅原道真(845~903年)一族の土地である御所に隣接した土地(現京都市桑原町)には雷が落ちなかったことからくわばらくわばらと言われるようになったともいう。
 e 桑原姓の由来は古代渡来系氏族から来ているが、各地の桑原氏は渡来系桑原氏とそれと無関係の桑原郷という地名由来の桑原氏が混在している。川場村桑原氏は大隅国桑原郡の地名由来、奈良村桑原氏(旧字体桒原)は相模国/伊豆国桑原郷の地名由来かもしれないがそれ以前の渡来系桑原氏との関係は不明である。両者は戦国以前のどこかで繋がっている可能性はある。戦国末時点では奈良村川場村だけでも5家系あり、其の後江戸時代等に子孫が苗字を変えている3例も奈良村で見られる。もともとは極めてありふれた姓であったと思われる。公開されている資料「群馬県姓氏家系辞典」等に依れば、吾妻町田中の桑原氏は伊豆国桑原郷に住んだ北条時政の弟盛家が桑原姓を名乗りその子孫が戦国末に吾妻に土着(現存する伊豆国桑原郷の阿弥陀三尊像は北条時政が戦死した息子の供養のために作らせたという)。真田氏家臣の富沢豊前守の子大蔵が天正年間養子に行って桑原大蔵を名乗った。中之条町の桑原氏は天正年間に先祖桑原源右衛門が箕輪から移住して後真田の家臣になった。川場村門前の桑原氏は建武年間に大隅国大桑城城主で大友氏時家臣団の一人として川場に土着した。川場村生品の桑原氏は多那村から桑原勘右衛門が移住してその祖となった。多那村の桑原與惣左衛門は菅原氏の末裔と言い(平姓鎌倉三浦党の末流ともいう)、神官桑原清就(与平治)は明治中期の歌人でその子孫。利根村老神の桑原氏は天文4年没の桑原七郎兵衛入道正監が祖。片品村御座入の桑原氏は天正年間に桑原采女。片品村幡谷には江戸末期に桑原吉右衛門がいて浄教学舎を開いて子弟教育を行った。桐生市川内町の桑原家の先祖は信州諏訪の桑原城城主桑原信濃守道成(天文21年没)、武田信玄に追われて多野郡の同族桑原道業を頼りその後桐生に土着した。桐生市新町の桑原氏は川場村出身。藪塚本町大原の桑原氏は寛文年間に越後国六日町より移住。等々とある。桑原左近については、調べた限り上野国内には他にいない。信濃国には北信桑原村の南北朝時代に、南信諏訪郡の戦国時代にその名がある。
これらの記録は戦国末では上野国内の他地域にも様々な桑原氏が既にいたことを示している。

(これは歴史の大きな流れを掴むための、記録の抜書きであり、各個々事蹟は別視点の検証をしていないものが多々ある)。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

☆ 道鏡慧端について:(1642年-1721年)信之77歳の時の子.、母李雪尼(1611-1707)、位牌裏面「開山老人母真田伊豆守(信之)之侍妾」
真田信之(1566-1658、93歳没)
真田幸道(1657-1727)、母松寿院(高橋氏)
  小松姫(1573-1620)、
  ・昭和49年に飯山の歴史家阿部芳春さんが著した「正受庵」
  ・正受老人 「一日暮らし」
・土屋文明が、飯山正受庵に参詣されたのは昭和2年、土屋文明37才の時です。
  ・飯山市に正受庵という禅寺があります正受庵には正受老人(道鏡恵端禅師)という高僧が住していました白隠禅師が悟りをひらかれた場所として、わたしたち臨済宗にとってとても大切なお寺正受庵での泊まりがけの坐禅会を企画しております。
  ・産声は飯山城内であげたといいます。
  ・信之が満76歳のときに側女との間に「間違って」生れてきた子供だということで、ゆえに真田家の家系図には載せられていないし、母李雪の素性もはっきりしないとうことらしい。
  ・寺院の代わりに水石と七株の栂(一位の木)を拝領した。正受庵第一の宝物である。
  ・道鏡慧端(正受老人)は寛永19年(1642)の生まれだ。藤村の「破戒」の主人公が飯山小学校の先生だったこと、島崎藤村は飯山を小京都と言いここらあたりのことを部落差別が激しいところとして描いている。
  ・山岡鉄舟が明治天皇が長野に来た時に随行していて正受庵が廃寺になったことを知り彼は兄の泥舟と一緒に長野県や国に復興を働きかけた。
  ・信之には、李雪という側室が存在したという伝承もあります。 李雪は身分が低かったため、当時大名だった真田氏の記録には載っていないのだそうです。
・李雪は当時70才代だった信之との間に子供をもうけましたが、真田氏では身分の違いや家督争いの火種になることを警戒して、認知しませんでした。 この子供が後に、高僧である道鏡恵端禅師(どうきょうえたんぜんじ、通称:正受老人(しょうじゅろうじん))になったのだそうです。
  ・李雪母子は松代には住めなかったため、飯山で暮らしたそうです
・道鏡恵端禅師は至道無難禅師の弟子で、1642(寛永19)年生まれです。
・長野県飯山市にある「正受庵」は、道鏡恵端禅師(正受老人)が過ごした臨済宗の古刹です。 日本三庵の一つに数えられています。
・松代藩主初代の信之の側室の子供であった。そのために飯山藩主佐久間勝次室であった姉の援助を受けたものと思われる。寛永19年(1642年9月飯山城中で生まれる。幼名は不明。
・19才で無難禅師のもとで出家し、20才で印可を受け道鏡恵端とする。35才で至道無難禅師が寂すと、再度帰飯し正受庵に住して母を招き出家させる。
・67才の4月に白隠禅師が正受庵に来る(白隠24才)。80才にして正受老人入滅。
・臨済宗の禅僧には道鏡慧端(1642~1721年)の他に、白隠禅師(1686~1769)、仙厓和尚(1750~1837年)がいる。仙厓和尚は「気に入らぬ風もあろうに柳かな」との名言がある。

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